HA-FX100T を購入するまでの経緯を記した日記のような内容なので、性能の詳細や見やすい比較などはないけど、自分で比較した機種と経緯については述べてるので、その辺は参考になるかもしれない。

以前、このブログでも記事にしたが、完全ワイヤレスイヤホン(TWS)の Nuarl の「NT01AX」を購入して使っていた。だが、手元の Android 端末とたまに相性が悪く、稀に接続がうまくいかないことがあった。一方で、同じく手元の iPad との相性はそこそこよく、こうなると専ら iPad で使う機会が増えてしまったのであった。

結果として外出先などのスキマ時間で音を聴く機会を失っていった。一方で、ここ最近は再び、スキマ時間を音を聞くことに使いたい、カバーしたいという欲求が高まっていた。こうして、最新の TWS 事情を少しずつ調査していくことになった。

メーカーには特にこだわりはなく、ただし Nuarl を繰り返すつもりはなく、予算が許せば Sennheiserの MOMENTUM シリーズでも試したかったが、まず高価だし、こちらは初の製品の評判があまりよくなかったので、選択肢からは遠のいた。ひとつの目安としては、15,000 円前後の製品を探した。

ag TWS04K

有名なイヤフォンメーカー Final 傘下の TWS ブランドらしい。知らなかった。いろいろと情報を漁っているときによさげなブログで紹介されていたので興味を持った。「よさげさ」が割とポイントが高いが、実際に使っても悪くなさそうなイメージは未だに持っている。

もちろん音はいいのだろうが、最大の強みはバッテリーにもなる大容量のケースか。ケース込みで 180 時間という継戦能力はヤバい。防水性は IPX 4 相当で充分だし、ノイズキャンセリング(NC)も別にいらない。

ところが、よくよく調べると、ほぼ同価格でダブルダイナミックドライバ搭載のシリーズがあるらしく、eイヤホンの店頭限定商品購入らしい。下位機種の TWS03R などは店頭でも目にするが、そもそも最初の目的の TWS04K も店頭では販売していない。まぁ別にいいのだが。

ここらへんで自分の中の軸がぶれたというか、本製品を購入する気で数日を過ごしていたのだが、音優先かバッテリー優先かどちらを取ればいいのか分からなくなり、気持ちが小さくなっていったのだった。

JBL LIVE FREE NC+ TWS

同時期に、GIZMODO が強くプッシュした以下の記事を読んだ。同時に 2 機種が発売されており、普段使いが目的なら「LIVE FREE NC+ TWS」、ちょっとばかりちゃんと使いたいなら「CLUB PRO+ TWS」を選ぼうという主旨らしい。

前者が 15,000 円、後者が 20,000 円ほどで、防水性は IPX7相当、IPX4相当。NC は両方に搭載だが機能性に差がある、などなどとなっている。普通に考えれば前者を買えばよいが、より良い音だというなら「なんなら後者を使いたいじゃん」となって、これも結局は自分の中で軸が定まらない。まぁ、後者は予算オーバーだけども。そういった理由でモヤモヤしていた。

もうひとつ悩みがある。或る方も同じ趣旨のツイートをしていたが、調べていた時点で LIVE FREE NC+ TWS の情報が公式とメディア以外にほとんど情報がない。レビューらしきコンテンツが、普通のツイートですら調べた時点でほぼなかった。自分で考えて、試して満足できそうなら買えばいいのだが、やはり二の足を踏む。なお、CLUB PRO+ TWS についてはツイートをみたが、あまりポジティブな内容ではなかった。ここでは触れない。

JVC のあれこれ

先の或る方のツイートで登場していたのが「JVC HA-A50T-B」で、 10,000 円ほどのデバイスだが、NC 込みで使いやすそう。この製品によって JBL の LIVE FREE NC+ TWS が日陰者になったのではないかという指摘だ。JVC は、皮肉なことに今回購入したデバイス Victor の会社だ。普段はなぜか手が伸びない。なぜだろうか。というわけで、ここでは、名前だけあげたが、特に触れることもない。

Victor HA-FX100T

あーだこーだと色々と理由をつけては、悩んでいたなかで彗星のように、このデバイスが目に入った。なんでだっけ? 価格コムを見てたんだっけかな。詳しくないが Victor が単独ではなくなり、Victor 名義では一般向けの商品、デバイスはほぼなくなったことは知っていたので、なんじゃこれ? とはなった。

少し調べると評判もよく、なにより余計な選択肢が少ない。予算内で最低限の機能が揃っている。音の特長はクセがなくてクリア、音に広がりがあり、きれいに響く。

年末によい買い物ができました、とさ。

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スウェーデンの映画『ホモ・サピエンスの涙』を観た。行ける範囲の上映作品をザッピングしていたら、即座にシャガールだと判ぜられたポスターに魅せられて、即座に予約した。内容も何も、まったく確認していない段階だ。年内で国内での上映はほぼ終了で、ギリギリ滑り込みできたのも幸運だった。

原題は《Om det oändliga》、英題は《About Endlessness》となっており、素直だ。たしかに、流石にこれは原題をそのままに『永遠性について』としては客も入らなかろう。監督のロイ・アンダーソン自身も半ば冗談めいて「私、トマトのほうがいい」のほうが客ウケがよかったろうとインタビューで語っている。

全 32 のシーンがワンカット、固定されたアングル内での小さな情景が映される。すべてのシーンに関連性があるわけでもなく-関連するシーンもある、時代なども一致しないようだ。これだけ読むと割と退屈な体験になりそうだが、想像力を刺激するには十分すぎるほどまで細部まで巧妙に作り込まれた画面に惹き込まれて止まない。あっという間の 76 分間だった。

時間を割ると、1 シーンは平均して 2 分強ほど充てられている計算になる。2 分間ほど、画面に向かって立つ男のモノローグだったり、心がポカポカするちょっとした情景だったり、シュールなコントのようなやり取り、悲劇的な状況などが目に入ってくる。それを味わう。

女性のナレーションが端的に説明を付す場合がほとんどだが、そうでないシーンもなくはなかったかな。それにも意味はあるだろうけれども。そういったことを解釈するのも楽しい。

鑑賞中にそれぞれのシーンを回想しつつ、進むにしたがって次第に順序や内容を頭の中では整理しきれなくなり、忘れたり、あいまいになったり、混ざり合あったり、それらが本作全体の体験となる。鑑賞の翌日にひとつひとつのシーンを記憶から引っ張り出したら、なんとかすべて思い出せたようで、思わず購入したパンフレットと答え合わせを楽しんだ。各シーンの感想は後述した。

なお、全 32 シーンと書いたが、日本語の公式ページなどには「33」となっている。だが、自分の記憶と照らし合わせながらパンフレットの記述(明確ではない)を確認すると 32 で、海外のメディアの記事にも「32」となっている。数え方のズレが発生してなければ、こっちが正しそうなのだが、どうか。

アート映画をどう楽しめというのか

高尚そうな映画の雑多な総称を「アート系」というかと理解していたが、ひとつの形式としての「アート映画」は定義があるらしい。本作も厳密にいえば「アート映画」なのかな。

本作の個別の楽しみ方としては、やはり入念に作り込まれた画面、小話をどれだけ楽しく眺めるかに掛かっている。もちろん無心で楽しめるなら越したことはないが、私はたとえば、 2 つ目のシーンでの仕掛けに気がついてから俄然、楽しくなってきた。以下のような感じだ。

画面に向かってつまらんモノローグを吐く男がいる。BGM には女性のコーラスが流れてくる。はじめは劇伴として楽曲が挿し込まれていると思っていた。ところがこれは、あくまで画面内の音だった。立つ男の右側にみえるビルで合唱の練習をしていると思しき女性たちの奏でる歌声なのだった。非常に小さくしか見えないが、確かにいる! 歌ってるっぽい! BGM ではなくて描写された画面内で流れる自然な音として表現されているというわけで、まぁ手の込んでいることだなぁ(笑。

という感じで、それぞれのシーンを楽しんだ。ほかにも楽しみ方はあるはずで、アハ体験や騙し絵、間違い探しのような感覚で目を凝らしてもよいだろうし、別々のシーンになにかしら関連性がないか探してもいいと思うし、わずかに語られる画面と台詞で勝手に前後の物語を想像してもいい。それこそすべてを諦めて、ボーっと眺めるのも楽しかろう。そのまま寝てもよさそう。

ところで、ふと目にしたある感想で「美術館に展示されていればいい」とも言われていたが、私はこれは否定したい。個人的な芸術家の映像美術が展覧会に出展されることも、展示作品が数時間もの尺があることも珍しくないが、10 分や 15 分ならまだしも、ちゃんとしたスクリーンと座席、鑑賞環境が用意されているならまだしも-それを映画館と呼ぶが、そもそも美術館だってウィンドウショッピングじゃない、あなたがちゃんと最初から最後までそれを鑑賞するならまだしも-、いずれにしてもこれは劇場で公開されてしかるべき体制で制作されているのだから。

それぞれのシーンをこう楽しんだ

みっともない種明かしみたいになるが、自分はこう楽しんだというメモを付しておく。シーンの名前は私が勝手に与えた。順番はパンフレットに従っているので多分、間違ってはいない。上で書いたように抜け漏れがある可能性が否定できないのだが、それだったったら残念だね。

1.小高いベンチから街を眺める夫婦

スウェーデンの街並みなのかな。平和だ。これから何かが始まりそうな予感がする。女が渡り鳥を指して言う。このセリフはチェーホフの『ワーニャ伯父さん』からの引用らしい。

2.歩道の階段の登り切った場所でのツマらん文句

どこかの歩道、階段を登りきったところで画面に向かって独白する男。つまらない過去を振り返って文句を言っている。音楽は美しい。男は何も美しくない。

3.別のことを考えてワインを溢れさすソムリエ

ワインに興味を示さず新聞を読む客。応対するソムリエ。テイスティングまではなんとか進む。注ぐ。溢れる。ギャグのような最後で一瞬の反逆だ。

4.高層ビルからガラス向こうの風景を覗く広告ウーマン

彼女は恥じらいを知らないらしい。全面ガラスの窓からビジネス街を見下ろす。そういうわかりやすい話なのか? でも、悲しげだ。

5.ベッドの下にへそくりを隠す男

部分的には《ファンゴッホの寝室》っぽいが、どうか。寝心地は悪そう。マットをいじる動作もそうだが、ベッドライトもやたらと明るい。

6.十字架を引きずった神父

いきなり象徴的な画面だ。坂道の途中のカフェが映る。坂下から騒がしい声。十字架を背負った男。殴る、鞭を振るう老若男女。2 回、女が男を蹴った。

7.夢から覚めた神父

十字架を背負った男は神父で、アレは悪夢だった。妻がサイドテーブルからコップに入った水を渡す。さっき蹴っていた女性じゃないの? はじめの目を覚ますまでの数瞬、夢の中の喧騒は画面内で再現されていたので、これは外の音で、同時刻の別のシーンかと思った-いや、その通りなのだが。

心配して支えてくれるパートナーが傍で眠っているんだから、お前は十分幸せじゃんと思わなくはないが、神父としてはダメらしい。贅沢な男だ。

8.愛をこれから知る少年

美容室だろうか、店頭に置かれた鉢入りのやや枯れた樹に水をやる女性。通り過ぎようとする少年は、ふと振り返って書店の前で直立する。樹はやや枯れている。

本記事の最後に参照しているWebページでこのシーンのメイキングシーンが見れるが、必見だよ。この画面、こんなことになってて作られてるのかとなる。スゴイ。

樹はやや枯れている。

9.精神科医に通う神父

信仰を失ったらしい神父が精神科医にかかっている。苦しんでいる。ちょっとまともな病院にみえない。町の診療所だろうか。棚もテーブルも椅子も、なんとなく雑だ。どうにも、ひときわ現実感がない。

診療にはお金がかかると医者がそっと添えて警告する。神父もそうだろうと言う。なんなんだこれは。1 週間後にまた会おうと言う。窓の外は白々しい明るさがあった。

10.両足を地雷で失ったマンドリン弾き

地下の公道だろうか。床に座布団を引いた男が弦楽器を弾いている。膝から下はなく、傍らには車椅子があり、やや肥えた 50 代か 60 代そこらの白い男が佇んで見守っている。誰もほとんど彼らを気にしたい。雑に設置されたエレベーターが気になる。

奥側の角から出てきた男 2 人連れがマンドリン弾きの用意したチップ入れの靴を、靴だったな、確か、たしかに靴か…、靴を蹴りそうになる。足元注意。

11.赤ちゃんを撮影する祖母らしい女性

夫婦と思しき男女と赤子。それをカメラで撮影している祖母らしい女性がいる。やたらと写す。おそらく夫婦は飽きている。場所は学校なのか、奥側に居た女の子 2 人がチャイムとともに消えていくのがなんか面白かったなぁ。階段のところで撮影しているものだから、祖母さんの挙動がちょっとこわい。同前、足元注意。

12.飲酒しながら聖餐を授ける神父

ドアの向こうに見える祭壇に礼拝者が跪いて待っている。神父はキリストの血を器に注ぎ、ボトルでそれをラッパ飲み。フラフラと祭壇に出向いていって、聖餐を授ける。足取りはおぼつかない。あまりにも哀れ。あまりにも不条理だ。

13.息子を戦争で失った老夫婦の墓参り

墓場。そこそこ古びた墓前の花を夫が捨て水で掃除し、妻が持っていた新しい花を添える。どこも似た様な風習だな。右奥の青い車は、この夫婦が乗ってきたのだろう。「私たちがちゃんと見舞ってるぞ」と父は告げる。「安心してくれ」みたいなことを言った気がする。誰が安心できようか。後の文脈からしてこの息子というのは第 2 次世界大戦でなくなったのか。

14.荒れ果てた街を見下ろす愛する2人

本作のポスターにも採用されているシーンだ。シャガールの《街の上で》などがモチーフだろう。人間が飛ぶというのはよくわからん。2018 年に観た《ジュピターズ・ムーン》も思い出された。幻想的でいいのだが、眼下の街は果て無く荒廃している。

この街は、第二次世界大戦で破壊されたケルンの街を表現しているらしい。

この 2 人は無垢さを象徴しているという。ごくパーソナルで自然な人間的感情と、それとはまるで正反対の人間の起こした惨状の対比。で、それをキレイな映像として楽しむのは私。

15.列車から降りるも誰も待ってない女

プラットホームに濃紺の車両が停まった。女と女の子が男を待っていた。仲睦まじく挨拶を交わして家族はホームを去っていく。いい光景だ。

次に女性が下りて彼らを眺めるとナレーションが入り、女性を待つ人はいないことに彼女自身が気づいたことが告げられる。女性が側のベンチに座ると列車は発進し、映し出される背景には灰色の空が広がっている。美しい。ちょっと、このシーンの色彩もゴッホっぽいんだ。

この画面をずっと眺めてたいなと思ったら、奥のホームの奥の奥でせわしく走る男と息遣いが映って消えた。「思わせぶりなことをするなよ」と思ったら、地下の通路を通ってか男が到着する。待ち人、来たるだ。なんだ迎えいるじゃん。ナレーションに騙された。翻訳の問題かな? でも、幸せなら OK です。

16.シャンパンが好きな女

ちょっとしたキャバレーっぽい店内。男が女にシャンパンを勧める。ナレーションは女がシャンパン好きだと説明するが、私には女がそれを楽しんで飲んでいるようには見えなかった。これは 2 人の関係性を表しているのか。

17.道を間違えた男

半地下の食堂っぽいエリアに座る女。前のシーンから引き続き同じ BGM が流れているので連続性はあるのか? 同じ店内なのか? 同じ音楽がラジオか何かで流れていて、同時間の別の場所なのかもしれない。

花束を持って来店した男は女に声をかけるが、どうやら人違いだ。字にして説明しても何も面白くないんだけど、このシーンめっちゃ面白いんすよ。マジで。16 と 17 でなにかしらの対比があるのかもしれない。

18.磔にされる男

もうね、宗教とか信仰とか関係ないんすよ。何かしらの罪を犯したと断ぜられた男が、雑に柱に磔られるっぽい。でも、前のシーンがおもしろすぎて、考えごとしてたら注視できない間に終わっちゃった。

19.道中で踊り出す女の子たち

これはみんな好きになるシーンだね。

ちょっと海辺っぽい立地なのかな。テラス席付き小さなお店があり軽快な BGM が流れている。左手前の小道の奥からやってくる大学生くらいの女の子たち 3 人。店を横切るのか、入店するのかと伺っていたら、店の前でそのまま楽しそうに踊り出す。ほんまに楽しそうなんだよね。

テラスに居た男子 3 人の目もくぎ付けだし、他の客も楽しそうに見ている。なんなら店の奥からも人たちが覗いている。よくできたジオラマっぽさをこのシーンにもっとも強く感じた。

さて、パンフレットによれば、女の子たちが踊る曲は《Tre Trallande Jäntor》という 19 世紀のスウェーデンの詩人の一編を楽曲化したものらしい。原題の意味は「挑発する3人の少女」とのことらしく、まさしくシーンの状況となっているわけだが、とりわけ面白いのがこの歌を歌っているのが、The Delta Rhythm Boys という US のボーカルグループらしい。当時は、スウェーデンに彼らのようなボーカルグループが来訪して活躍することも珍しくなかったとか(パンフレットの解説に拠る)。ググると、日本にも来ていることがわかる。

彼らのグループ名が、この歌とうまく対のようになっているのがおもしろい。《GULDKORN》というアルバムに収録されているようだが、配信などはなさそうだが、YouTubeにはあった

20.乳母車を引くハイヒールが欠けた女

大きなターミナルだ。どこなのだろう。乳母車を引く女の片方のヒールが欠けた。目の前のベンチの老紳士は気がつくが、どうしようもない。ひとつ奥の男性も気づいたようだ。女性はベンチでハイヒールを脱ぎ、歩いて消えていく。続、足元注意だ。

本作、乳母車は 11 に続き 2 回目の登場です。

21.家族の名誉を守ろうとした男

娘か妻か、腹から血を流した女を後ろから抱いて床に倒れている男。左側のドア前には親類と思しきか? 男女と男の 3 人か? が痛ましげに事態を傍観している。そして男は嘆き続ける。家にとって不名誉となる振る舞いを、死んだ女がとったということか。外の天気はいい。青く晴れている。

パンフレットを読むと、このシーンの出展が記されていた。イリヤ・レーピンによる《1581年11月16日のイワン雷帝とその息子イワン》とのことだ。なるほど、言われてみればこの作品がネタになっていることがわかる。

22.魚市場での私情の縺れ

魚市場。魚を切る職人が主役かと思ったらいきなり痴話げんか。男が一方的に女性にビンタする。「俺の思いの深さをお前は知っているのか」との旨。周囲の男たちが止めに掛かる。職人も止めに入るが「魚を切っていたその手、お前それ洗ってないやろ!」と笑ってしまった。そういうことじゃないよなぁ?

23.熱力学第三法則を語る少年

アパートの一室。髪を梳く少女の前で小難しそうな古本を読む少年。熱力学が、宇宙が、エネルギーがと少女を口説くが、その返答は「トマトがいい」である。どういうことか。ここでは説明しません。

この画面も美術が最小限で、天体望遠鏡がそれとなく置かれているのが、逆に空々しい。でも、若者ってそれくらいでよさそう。映画.comに掲載されてるインタビューではこのシーンがお気に入りと述べていた。

24.世界征服の失敗を自覚した男

いきなり史実の描写が登場したので気が動転した。地下シェルターだろうか。ナチスの将校らしき男らが 3 人とも憔悴しきっていると、奥の入口からヒトラーらしき男が入ってくる。息も絶え絶えの面子が、弱々しくも挨拶を交える。

これは、記事を読んだらモチーフがハッキリとあった。ソ連時代の藝術グループ:ククルイニクスイの《The End of Hitler》が元ネタだ。画面中の登場人物らにとっては悲劇的な終末だが、現実に照らせば、戦争の被害者らにとっては悪夢の終わりのような状況でもある。乾いた笑いを誘う彼らの最期のシチュエーションは、ただただ風刺なのだ。

25.バスの中で泣き出す男

これ、神父シリーズかと思ったがどうなんだろう。確認でき次第、修正するが神父ではないのかな。停車中の満員のバスに乗ってから泣き出す。「自分の望みがわからん」みたいなことを言う。隣席の若い女性に問いかける。女性、困る。

反対側の男が「みっともない」と叫ぶと、後ろの女性が「泣いてもいいだろ」と泣く男を擁護する。叫んだ男は「家でやれ」と返す。いいよなぁ。もう、いいよなぁ。

男の隣の若い女性以外、割とシニアが多いのだが、みんな顔色が悪いんだよね。これはかなり分かりやすいような気はするんだけど、この解釈でいいのかも不安だ。

26.雨天の誕生会に向かう親子

広大なグラウンド。背後にマンションかコンドミニアムか公営団地かしらんけど、大きなビルが 2 棟。大雨。父は娘の靴紐を直している。地に置いた傘が風に流される。自身の身体とプレゼントを濡らしながらも父はなんとか終える。

グラウンドを突っ切って奥の建物に向かっていく 2 人。まともな道はどこにある。これはなんだろう。荒々しくも幸福なシーンに見えた。

なお、別のインタビューでは、監督はこのシーンが好きだと言っていた。監督の公式ページかなにかにメイキングの画像があったが、これも衝撃的だ。

27.精神科医から追い出される神父

アパートの一室(診療所)で残務処理をする秘書は、鳴ったドアベルに対処した。そしたら診療時間外にもかかわらず狂った神父が闖入してきた。「どうしたらいい」と嘆く彼を精神科医と秘書はバスに間に合わなくなると追い返す。これが愛だ。

「来週、相談しましょう」と秘書が言った。ということは、もしかしたらシーン 9 から時間が経ってもいないのに、神父は再訪したとも考えらえる。どういうことか。

神父シリーズはここで終わりっぽい。結局、誰も彼を救わない。これが日常か。

28.機嫌の悪い歯医者

歯科衛生士? が「すみません」とよく謝る。よくわからん。雪景色がきれい。これも美術の仕立てを敢えて雑にしてるのだろうが、歯医者がそんな軽いキャスター付きの椅子に座って施術するのか? って笑える。やりとりも雑の極みで笑える。いったい何を見せられているのか。

歯医者はもともと不機嫌なようだが、患者の要望も意味が分からない。なんなら、この作品でもっとも不条理なシーンかもしれない。

29.そのままダイナーで飲酒する歯医者

珍しく連続したシーン。アルコールをストレートで立ち飲みする歯医者。歯医者を除いた他の客らは、どうもみんな、何かを待っているようだ。クリスマスだろうか。なんか SF っぽさもあるんだよな。全人類がなにかを待ってる。

別のヘンな客が「いいと思います!」「なにもかも素晴らしいと思います!」みたいなことを言って歯医者やジェントルマンに絡んでる。ようわからん。ようわからんから、いい。

30.捕虜収容所に向かう兵士たち

これなんか著名なタイトルの構図そのままっぽいのだが、思い浮かばないし、検索にも簡単には引っかからない。各シーンとの関連でいえば、ロシアで囚われたドイツ兵捕虜がシベリアの収容所に移動している図のように思える。

列の先頭がどこまで伸びているのか、CG 処理によって同じ俳優が繰り返して流れて行ってないか? などと見てしまった。

これだけはロケをしたらしいという感想を見た。が、ソースは不明なので、あくまでも「らしい」どまりだけど。なんかわかったら書く。

31.見下した相手が博士になって嘆く男

2 つ目のシーンに登場した男の愚痴、ふたたび。いらんいらん。ネチネチと文句を言ってる。なんだろうな、このシーンの意図は。でもね、男は奥さんに美味しい料理を提供することはできたっぽいので、そういう不幸中の幸いみたいな描写なのかな。だが依然としてこの男を憎らしいと思う気持ちは私の中にある。

32.車の故障で困っている男

大きな平原が広がっている。地平線が美しい。故障して止まっている車から男が出てきてボンネットを開ける。それで解決するならいいが、まぁ、しない。

空を雁かしらぬが、渡り鳥っぽい鳥が飛んでいく。車は直りそうにない。ちょっと今までにないくらいカメラが人物と遠く、男の表情などは読み取りづらいのだが、男は確かにカメラに視線を送っている。困っていることをアピールしているようだ。どうせよと。

ところで、この鳥は鶴であるらしい。また、これは最初のシーンの鳥たちと同じように飛んでいる。永遠性だ。

この作品の扱う永遠性ってなんじゃろな

日本語の公式ページにも触れられている『千夜一夜物語』だが、命を賭したシェヘラザードの終わりのみえない語り、というスタイルが本作にインスピレーションを与えたらしい。女性によるナレーションの導入も「シェヘラザードの語り」を意識しているとのことで、途切れることなく、できればいつまでも続くことを乞われる物語が意識されている。

また、監督は自身のページの解説で「豊穣の角」にも言及していた。これは、さまざまに豊かな食物や素材などが、羊の角からいくらでも生み出されるというギリシア神話で語られたアイテムだが、このアイテムの無限性を意識しているらしい。

同時に、監督の作品が極めて絵画的であることについても、本人から補足されていた。ちゃんと引用してみる。

I feel that art, art history plays the role of a horn of plenty, encompassing within it the entire scope of what it means to be human. I must confess that I have often felt a certain envy for this richness of the fine arts. Of course there are films that are almost on a par with the great masterpieces of fine arts, but they are few in my opinion.

https://www.royandersson.com/eng/endlessness/

ざっくりと訳すと以下のような感じだろうか。

私には藝術、そして藝術の歴史そのものが人類、人間全体にとっての「豊穣の角」であると感じています。率直に言って、私は “fine arts” の豊かさに羨望があります。もちろん ”fine arts” の傑作にほぼ匹敵する “fimls” もありますが、個人的な意見としてはそれはごく僅かです。

このような根本的な意識が、監督独特の制作スタイルを生んでいるのか。

なお、その他のインタビューでは ボブ・ディラン の “A Hard Rain’s a-Gonna Fall” からも影響を受けていると答えていた。歌詞を読んでみると、なるほどと思う。ここではこれ以上は深入りしないが、最後に参照した記事へのリンクは残しておいた。

監督:ロイ・アンダーソンと Studio 24の制作スタイル

ざっくり、画面を如何にコントロールするか、が争点だろうか。まぁ視覚芸術の根本問題だけど、そのこだわり様やスタイルの話だね。

アンダーソン監督の志向は映画における「ハイパーリアリズム」と呼んでいいみたいだ。絵画だったら写真などをベースに創作するタイプのやつだよね。彫刻にもあるらしいけど、私はこちらはあまり目にしたことがない。

本作の場合、参照した記事内の動画で解説されているのでぜひ確認してほしいが、ほとんどすべてのシーンがスタジオ内(Studio 24)のセットで撮影されている。遠景の景色は、それこそ描かれているか、ミニチュアで処理されている。劇中に登場する小さなアイテムも模造品であったりする。えっ、あれがダミーだったの? となるので面白い。

つまりこの手法によって最適なアングル、奥行、色彩など、劇中での役者の演技以外はほとんどすべてコントロールできるようだ。逆に、役者の演技はコントロールしたくないみたいなことも言っている。

まぁね、絵画と映画というのは別物なので直接対決させても意味はないだろうけど、たとえば絵画というのはその可能な表現の範囲で、特定の画材と描画手法などを使って、静止した、ひとつの画面の中に、制作者の意図を反映し、それを発揮していると言える、とする。

それって映画には原理的にはできないし、そう考えればその端的さという意味では絵画のほうがスゴイ藝術なのでは? っぽくない? みたいな考え方もできる。この辺が監督の切り込み方なんじゃないかな。ようわからんけど。

その他のことなど

読んだ記事やまとまらなかった箇所の引用などを以下に載せる。

以下、日本語の媒体のまともな記事はこれくらいだろうか。もうひとつ読んだけど、そちらはあまりリンクしてもしょうがなかったので、こちらのみ。

以下は、監督の公式ページなのかな。監督自身によるメッセージが割とちゃんと書いてあるので、おもしろい。メイキングシーンもあるので必見かな。よいです。

以下は、ネットに転がってていいのかな、ファイル名などからして劇場資料用のPDFのようだが、つまりそのままパンフレットとしても参照できそう。問題があると判明した場合はリンクは削除する。

  • https://claudiatomassini.com/fileadmin/user_upload/fieles_from_old_website/filmstills/Endlessness/AND019_Pressbook_Digital.pdf

以下は、本国でも公開前に執筆された記事のようだ。記事内では、ゴッホの《La Guinguette》に影響されたシーンもあると監督が言っているようだが、そのままそれと判ぜられるシーンはなかった。シーン 17、19 が近いかな。

以下のインタビューも示唆が多く、ボブ・ディランが参照されていることに触れているのは、見た範囲ではこの記事だけだった。シーン 26 が好きと監督が言っているのもこの記事だ。

以下の記事は、各シーンの解釈については 1 番参考になるかな。ちゃんとした批評サイトの内容って感じだ(テキトー。

また何か読んだり、気づいたら追記したいがとりあえずはここまで。

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来年の完結編に向けて劇場で特別公開されている『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』を観た。2012 年の初見の時は、過去のエヴァに立ち返ろうとしているのかと不安と期待のような感情がないまぜになった記憶があるが、今回はそのイメージが更新された。ていうか、2012 年以来ちゃんと鑑賞したのは初めてである気がする。

ミサトとシンジの信頼と実績の果ては

この前に『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』も劇場で観てきた。そちらの個別の記事は用意するほどでもないなという気分だが、此方をあらためて視聴した印象は、碇シンジと葛城ミサトの絆、連携性の強さだ。それ自体がわかりやすく描写されるシーンは多くはないが、居住空間の維持や管理、食生活のなどをシンジが担っていたことは端々で表されている(これは原作でもそうだろうけど)。

それを伴った結果とでもいうか、なにより作戦時の 2 人の連携が小気味よい。

第 8 使徒の対処でも、第 10 使徒の対処でも、シンジのアクションにミサトが即座に呼応して事態を切り開いている。本作に限らず、司令官と操縦士の連携がここまでスムーズになって事態に対処しきる作品(後者の対使徒戦はし切れたと言えるかは謎)って実は割と少ないのでは? などとも思うくらいで、パッとは類例が浮かび上がらず、ちょっと感心したくらいだ。

翻って「Q」では、ミサトさんはシンジに突き放すような態度こそ取っているが、要所要所でシンジのことを強く意識していることは描かれており、叩かれやすく、かつネタにされやすい部分ではあるのだが、この態度は彼女の反省した結果であるように思われた。これがどう収束するのかもやはり気になる。

成長しないシンジをあらためて肯定したい

シンジについて、相変わらず巻き込まれ型のウジウジ野郎、何もできないワンコ君に過ぎないのは確かだが、そもそもエヴァシリーズでは、このシリーズのファンは、彼があまりに過酷な境遇に置かれてきたことを嘆いてきたのだ。新劇場版の完結(?)が近づいた時点で、今さら能動的になれと言われても、シンジだって困る。

私はむしろ今回、あそこまで頑なさにダメさを開陳し続けるシンジに希望を見い出したくらいだ。そしてこれは-具体的に別の作品の話を持ち出すのも良い手段ではないのだが-、たとえば今年に鑑賞した『ドラえもん のび太の新恐竜』で感じた違和感、奇妙な印象と好対照をなした。

鑑賞したときにこのブログにも記事にしたが、あの映画でのび太は、物語の構成の都合として「逆上がりができるようになる」という成長を課せられている。それと同時に育てている恐竜にも「飛べるようになる」という成長を課しており、恐竜に対しても自分に対しても出たとこ勝負な指導を施し、無茶な努力を強制していた。

登場人物の成長というのは、いわゆるよい脚本の典型だが、いかんせん主人公の成長にも、その周囲の人間たちが織りなす環境にも説得力が小さい。主人公が成長する必要は本当にあるのか?

このTVシリーズやいわゆる旧劇場版で描かれたように、シンジが成長した、何かを成せたとは言えない、もしくは判断しづらい状況が「Q」の時点で繰り返しになっている点は踏まえておかなければならないポイントではある。

だがやはり「序」「破」を経て、あらためてシンジに課せられた本シリーズの主人公の像が照らす世界というのは、成長の速さがたとえカタツムリのように微々たる速度でも、判断を他人任せにした結果として本人がどうしようもなくいじけることになっても、そこそこに彼とその周辺の世界は崩れていかないし、そのことと同時に、彼のナイーブさに対する世界の強固さ、意地悪く言えば頑迷さを示してはいないか。

ミサトとアスカは成長した、レイはどうする

ミサトもアスカも強い。強いかどうかはしらんけど、確固たる決意とそれを実行する判断力をもっているように見える。これも TV シリーズよりも強固になった。対して綾波レイだが、このシリーズではあらためて傀儡というか人形というか、役割的にはシンジの合わせ鏡という側面が強くなった。

TV シリーズではアスカも、居なくなった親への依存意識などの文脈でシンジと呼応していたが、新劇場版ではこのあたりは整理された結果かオミットされている。一方で、自分で自力でなにをしたらいいのか分からない人間像としてのシンジ、レイという 2 人の状況も整理されて、こちらも更に分かりやすくなったのだなと実感する。

レイの場合は、ウンチャラインパクトやアダムスの器だとかで、設定上はそもそも人間寄りではなく、結末もどうなるのかしらんけど-旧劇場版でもそのままどっか行っちゃったし、本シリーズの完結ではぜひ人間らしく姿を保ったまま最後には何らかの方法でポカポカしてほしい。

本作の背景的なテーマと渚カヲルの気持ち悪さ

もともと思わせぶりなセリフが多く、なんだかよく分からないままヒロイン:シンジの心を奪い去って逝った渚カヲルだが、こちらもやはり「Q」でその設定が強く反映されているように思う。

ざっくり言うと、生物の進化とか情報がなんちゃらとかいったいわゆるハード SF ばった設定回りの説明をカヲルがポエミーな解説担当として役割を果たしている。これには違和感ばかりが大きくなるってものだ。

「古い世代の生物が淘汰なり、適応を強いられるなりするのは仕方がない」のような台詞だとか、あるいは新劇場版になって強まったと言われる「機械とかメカニックさの描写への拘わり」みたいな部分は、実は TV 版から通底していたり、それを飛び越えていこうとする部分ではないか。

どうしても図式は単純化されるが、神だとか神の化身だとかに近づこうという題目を唱えながら展開されるのは、出まかせ技術に接続されるとはいえ、機械的な、技術的な努力の結晶であることが強調されているというか。

そんななかで「神殺し」といわれると、どうしてもエボシ様しか浮かばんので、どうしてもそっちへ考えが傾いていくのだった。

という感じで右往左往する思考だが、来年の完結編(?)を楽しみにしたい。

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Roam Research という Web サービスがあるが、使っていない。このサービスには Scrapbox と似たようなイメージを持っている。存在に気がついた時期には登録待ち状態になっており、いまは普通に登録待ちなしで使えるかもしれないが、起動に 3 分ほどかかるという情報をみたので、そもそも選択肢に入らない。

関連してつい先日、 Obsidian を知った。今年の 6 月頃にロンチされたのかな。インストール型のスタンドアロンアプリということで、基本的な仕組みは Markdown 形式で記述されたテキストファイル(.md)を統合的に管理する。この点が興味深くて、それぞれのノートは設定された適当なディレクトリに当然ある。古いようで新しい、新しいようで古い? どっちだろう。

インストール型の Markdown 形式を扱ったメモアプリといえば最近では Inkdrop が有名だが、こちらは原則的にデータ自体はサービス側で管理されるはずだし、有料サービスでもあり、そもそもエンジニア向けとされている。Obsidian は現状ではバージョンが 0.9x となっており、また個人使用である限りにおいては無償となっているようだ。特にエンジニア特化されているわけでもない。

Obsidian は Scrapbox や Roam Research と同型の機能を有しており、ざっくり言えば、ノート同士を半ば自動的にリンクさせる能力が高い。これだけのことかと落胆するか、これが欲しいんだと歓喜に打ち震えるか。どっちだろう。

そうなると、個人的には同型のツールとしては Obsidian と Scrapbox で比較したくなる。いくつか既存ユーザーの意見を眺めた結果、ざっくりした印象論だが、以下のような落としどころかなとなった。

  • Obsidian は日記やまとめなどの記録、ログに向いていそう
  • アイデアのメモと蓄積、連携なら Scrapbox の方がよさそう

「どっちも記録も同じプラットフォームで扱ったらええやん、思わぬ情報の連鎖を期待してるなら尚更」と思わなくもないが、経験として、良くも悪くも冗長な内容が混在しがちな日記のような情報は Scrapbox には合わない。また、なんというか時系列に沿った記録の積み重ねにもフィットしない。

一方で、Obsidian は-視点は変わるが、そもそもディレクトリによるファイルの管理を前提している。また、デイリーノートやカレンダープラグインといった基本機能は、日付刻みの情報の管理を指向している。普通の手帳とか ToDo 管理、バレットジャーナル的な発想だろう。これは Scrapbox ほどダイナミックではない、と言ってもいいのかもしれないし、やはり基本的な方針の違いが浮かび上がる。

アイデアやメモが発展して分量を持ったなら Obsidian でいいと思うが、ほんのひとつの文章、単語のアイデアを手前のストレージに各ファイルとして作成するのは何か違う気がする。もちろん、そこから血肉を与えてまとまった情報になっていくのだが、その作業は基本的には Scrapbox に任せたほうがすんなりする。Web ベースでタイトルと内容を気軽に放り込める UI であることも Scrapbox に軍配が上がるかな。

まぁいずれにせよ、この道具だけで行くぜっていうことはなくて-Evernoteの反省を忘れてはならない-、使い分けだと思うので、とりあえず私は日記の類とこのブログのネタの下書きと完成稿などを溜めるところから始めてみる。

Obsidian の利用についてだが、初期設定やらは比較的簡単だが、少しばかり情報と試行錯誤は必要で、Google 検索の上位に出てくる記事たちも悪くはないものの、とりあえず現時点で私が 1 番おすすめしやすいのは以下のページかな。

2021-12-03 追記

  • https://publish.obsidian.md/yebi/

上記ページはいつの間にやら非公開になっていた。公式のドキュメントが日本語化されたので、そちらでもいいのだが初期設定のちょっとわかりづらいところは公式ドキュメントにも掲載されてないのよね。ということで、初期設定が気になる場合は、以下の記事の第 3 章 3.1 がよいかなと。

追記ここまで。

繰り返しになるが、個別のファイルと管理ディレクトリが非常に簡単で済むという点の魅力が割と大きくて、アプリ本体を脇においておき、クラウドに配置したファイルを別デバイスで編集するなんてことがメチャクチャ簡単なのも面白い。

あと、こちらも全然知らなかったが、Apple 系だと NotePlan というアプリが設計思想に近いところがあり、併用できるんではないかという話もみた。

とりあえずはこんなところかな。

1年間利用したので、なんか続編を書いたよ。

2年目を超えたので、最近便利だなーと思ったアタリマエのプラグインの話を書いたよ。

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余談だが、当時のはてなダイアリーのリンク機能が先進的だったなという思い出話も見かけた。それは私も同意するところが大きい。note の躍進(留保付き)の話題でも、はてなを惜しむ声が大きいが、こちらも似たようなところだ。

一方、Twitter のおかげかはてなブックマークにヘイトが渦巻くことも以前よりは減ったように思うが、はてブの肥溜めのような時期を覚えていると、はてなで何かをする気にはならないんだよな。

cakes や note で炎上が起きてもサービスを使い続ける人は多いが、当時から現在までのはてなにも似たような空気は感じており、住めば都とはよく言ったものだが、その辺の書き手たちの心情や身の上もまた時代とともに流れていくんだなと。なんだこの〆は。

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ヒッチコックマラソンです。『見知らぬ乗客』《Strangers on a Train》を観た。原作がある作品だが脚本にはレイモンド・チャンドラーなんかが参加してるのね。原作者も有名なパトリシア・ハイスミスだ。

サスペンスというよりは、ある異常者を描写した作品という印象が強い。世評はよいみたいだが、どこに面白みを見出したらいいのか、やや困った。『舞台恐怖症』ほどではなかったが、話の焦点がよくわからない。

ミステリーのテーマとしての「交換殺人」はわかるが、本作のように一方的な態度表明そのもので成立するのか甚だ疑問で、そもそも本作ではまったく成立していないので、ここに作品の主軸はないようにも感じられる。

繰り返すが、異常者ブルーノに翻弄される主人公ガイのテンヤワンヤ(というほどでもない気もするが)の物語といった印象だけが残る。「なんでこんなことをしなければならないのか」という理不尽さは巻き込まれ型の物語の典型だが、その理不尽さがブルーノの異常性とうまく相乗してるとも思えず、心地よさが少ない。

そもそも殺されたミリアムとバーバラが似たような瓶底眼鏡をしていた時点でイヤな予感がしたのだが、使われ方も雑というか、バーバラを凝視した直後にパニックで倒れるブルーノとか、どうなのさ。『白い恐怖』などで演出された記憶喪失に伴う精神的負担などがあれば説得力もあろうが、そもそも謎の行動力をもったブルーノが、バーバラの眼鏡に動転する意味が特にない。異常者にしては頼りない。

ガイのアリバイになりそうだった大学教授も、証言しなかったことに理由があるのかと思ったら伏線というワケでもなく、何も回収されない。脚本がぐちゃぐちゃになってるのじゃないかとすら思ってしまう。

また、ブルーノの殺意の対象だった彼の父親は、母親に比してまともな人間のようだったが、彼も出番少なく、なぜブルーノが異常に毛嫌いするのか-これは想像力を働かせることはできるが-、よくわからないままに終わった。

ライターを落として拾うまでのシーンも緊迫感というか、ブルーノのちょっとしたドジっ子感のインパクトの方が強くて不思議だ。これも時制にどれだけ計算がなされてたのかも不明だが、ガイが遊園地でブルーノに追いつけたのも割と疑問だし、何かと心残りが多い。

過去作においては無視できたプロットの粗さが、世界観の築き方が理由だろうか、どうしても無視できないことがここ数作品にはあるような気がする。

とはいえ、最後のメリーゴーランドが暴走してダウンするまでのシーンと、ガイとブルーノの格闘シーンは、なんというか大したことはないのだが、微妙にドキドキとさせられたのは流石というか。

ブルーノがガイに愛の告白のようなことを放ったのは一体何だったのか。それがどのようなタイプの愛だったのかは不明だが、やるせないね。いくつかの情報を見てみたら、ここらの時期の作品にはそういった描写が割と多かったらしく、『ロープ』のブラントンとフィリップもカットされた部分では、そういった関係だったことが示されていたらしい。

以下のブログなどの感想が参考になった。

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ヒッチコックマラソンです。『舞台恐怖症』《Stage Fright》を観た。原作には小説があるらしいが、どれくらい原作の内容に忠実なのかは不明だ。

原題の “Stage Fright” という単語自体には「舞台負け、気おくれ、アガリ症」などの日本語訳があてられることが常のようだが、「舞台恐怖症」はその点、この単語だけで本作のことだと分かりやすくていいね。カッコよくはないし、内容に忠実でもないけど。

序盤の演出で面白いなと思ったのは、ジョナサンがシャーロット邸に侵入するシーンでエントランスの扉を閉じる動作と閉じた扉の音が入る一方で、カメラはそのまま追従した箇所だ。ジョナサンの挙動はフェイク、扉の音も別に入れているというトリックだろうけど、面白い。

ヒロインは刑事のスミスと段々と恋に落ちていくロマンスということだけど、車中でのラブロマンスから一転して緊張の連続するクライマックスまで伸びていくのは見事だよな。ヒロインの父親の立ち回りとその俳優の演技もよい。俳優はアラステア・シムという方のようだが、味があるね。

ヒロインのイヴと悪ヒロインのシャーロットは、どちらもそこそこよかったが、シャーロットのメイドのネイリーのインパクトが割と強くて、こちらの印象もそこそこ強い。この次の作品『見知らぬ乗客』でもそうだが、この 2 作ではメガの女性に割とネガティブな印象が割り振られている点も興味深いかな。

クライマックスのジョナサンの見せる表情も良いものだったが、作品全体としてはヒッチコックマラソンで見てきた作品でもっともチグハグな印象を受けた。ヒロインのイヴの行動の原動力となったジョナサンに対する真心めいた心情のバックボーンが不明なので、結局はイヴの空回りに過ぎなかったというイメージが強い。

クライマックスで煙草をふかしたシャーロットの表情が執拗な雰囲気でクローズ・アップで演出されたのと、ジョナサンの最期を飾るにふさわしい慌ただしいカメラワークは面白かったかな。しかし、サスペンスとしてこのネタは、叙述トリックで騙されたミステリーみたいな白々しさも否定しづらいが、盲点を突かれた感も否めないので、なんともはや。ジョナサンはよくやったよ。

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『アンタッチャブル』《The Untouchables》を観た。ショーン・コネリーが亡くなったということで本作が少し話題になっていた。その流れで観た。

ショーン・コネリーといえば 007 シリーズだが、断片的に見た記憶しかない。『薔薇の名前』も部分的にしか見たことがない。『ザ・ロック』は TV で見たことがある。あとは『レッド・オクトーバーを追え!』あたりだろうか。こちらも未見である。

本作の上映年は 1987 年ということで、33 年ほど前の作品だ。舞台は禁酒法時代のシカゴということなので、1930 年前後を描写しているはずだが、撮影された景色がどれだけ当時を再現しているのかは皆目不明だ。

特に、結末部分とエンディングで活用される摩天楼はまさしくシカゴという雰囲気だが、これは 1930 年代にはあったのか? どうなんだろう? と思ってたら高層ビル群の建築ラッシュも同時代に被っているらしい。ということは、当該年あたりに建造されたビルなどをちゃんと選定してロケーションしているのだろうか。

なお、登場人物などの背景設定は実話に基づいているが、具体的な話の進行はほとんどフィクションのようである。

カナダ国境での逮捕劇や主だった仕立てが西部劇っぽい。銃撃戦での乳母車が階段を下りていくシーンは『戦艦ポチョムキン』か。ジム(ショーン・コネリー)が自宅で襲われるシーンやラストのネス(ケビン・コスナー)とニッティの屋上での追走劇などは部分的にはあきらかにヒッチコック調だ。という感じで、オマージュというか引用というか、名作にインスパイアされたと思しきシーンがたくさんある。

敵であるアル・カポネ役ことロバート・デ・ニーロにせよ名俳優がたくさんいるわけだが、ストーン役に抜擢されたという駆け出し時代のアンディ・ガルシアがいい。イタリア系の若手警官という立ち位置のようだが、まぁピッタリだ。上述の乳母車でのアクションシーンが最大の見せ場であるが、総体的にかっこいい。

なにより、ジムとの絆がさり気なく描かれているのが好い。

当初は手垢で汚れていない新米警官を探しにきたジムにケンカをけしかけられ、隠し持っていた私物の銃を即座に構えて応戦の姿勢をみせるところは最高で、イタリア出身ということでの喧嘩っ早さ、マフィアの本場であろう凄みを見せる。

チームとソリが合わない問題児になる展開か? と思えばそんなことはなく、ストーンはストーンとチームの一員となり、他の 3 人のメンバーと打ち解けている。立場をわきまえる自制心と知性がある。

こんな調子で見せ場が割とあるんだが、ジムが絶命してしまうシーンでの描写もなかなか良い。ネスとジムの友情は割と明らかにされていたのだが、息も絶え絶えのジムの側に、ストーンもすり寄っていって篤く手を握る。ちゃんとジムとストーンとの間にも絆が芽生えていたことが分かる。

深夜の駅でアル・カポネの有罪の決め手となる帳簿係を捕まえに行くとき、ネスとストーンの間で交わされるやり取りが最も好みで、本心では仲間を 2 人も殺されてしまった怒りで復讐したいくらいなのだが、どちらも任務のための姿勢を崩さない。やっぱりここでもストーンがいい味を出しているんだ。

ラストの法廷劇からさらにアクションに繋がったのはちょっと意表を突かれた。私刑ではない(としたい)が、仲間を殺してきた暗殺者にそれなりにバッドな最期を与えられたのも映画としては満足度が高いかな。

エンディングではジムの遺品がネスからストーンへの引き継がれるが、このシーンも上がりますね。というわけで、個人的にはストーンの印象が濃い作品であった。

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疫病の影響で春夏の季節が息をする間もなく過ぎた 2020 年はあまり博物館、美術館にも行かなかったな。というところで、東京国立近代美術館で開催中の《眠り展:アートと生きること ゴヤ、ルーベンスから塩田千春まで》を見てきた。この時勢と雨天だったので人は少ないかと思ったが、割と人はいたね。よいですね。

序章から終章までの 7 章構成でそれぞれにテーマが掲げられていた。各章でいいなと思った作品の感想などをあげておく。

序章:目を閉じて

オーソドックスに眠っているひとを対象とした作品が並ぶ。ルーベンスの《眠る二人の子供》などは誰でも一目はどこかで見たことがあろう作品だろうか。

まぁなんというか、藤田嗣治の《横たわる裸婦(夢)》がよかったね。見たことあったかな。国立国際美術館(大阪府)には行ったことないので、見たことなさそうだな? 奥の白の空間(壁かしらんけど)と周囲の黒系と赤系の 2 つの幕のそれぞれのバランスが視線をうまく操ってるよな。

眠っている子供が左下の寝台の下に小さく蹲ってるのはよく分からんな。どういう解釈ができるのこれ。

第1章:夢かうつつか

瑛九の《「眠りの理由」より (5) 》も好きだったが、楢橋朝子の《「half awake and half asleep in the water」シリーズより Shikaribetsuko, 2004》がよかった。これは水面か水中で写真を撮影するというシリーズの作品ということで、この独特な作法によって写されるイメージによって眠りと覚醒のあいだの状態だのを喚起させる、らしい。

水面は海だったり、湖だったり、水面の先には建造物だったり、船だったり、一緒に浮いてる人だったり、いろいろと写り込んでいるが、「Shikaribetsuko」は薄い靄に包まれた湖の水面と小高い山々が広がっている。

この状態の湖って怖いんだわ。海ってのは、凪の状態でもそれなりに水の動き、循環を感じさせられるが、静かな状態の湖面はすべてを吸い込みそうな勢いがある。

で、そのほかの要素としても人間がかかわっているらしい生命観や生活感を感じさせるオブジェクトがまるでない。分かりやすすぎるようだが、このシリーズの狙いが感じ取りやすかった。そんな気がした。

第2章:生のかなしみ

小林孝亘の《Pillows》の説明には、眠りのテーマにおいて本来描かれるべき眠っている主体、描写の対象が不在であることが死を暗示している、という旨のことが書いてあったが、どうか。このタイプの枕、ちょっといいホテルなどにいくと目にするが、寝心地がよさそうだが悪いような気もするという印象があり、だがそれでもやはり睡眠は素晴らしいものだと暗示しているような気もする。

安らかな死はおそらく枕の上で迎えられる。逆に、心地のよさそうな眠りを誘うこの枕は、人食い宝箱のように次のターゲットを待ち構えているようにも見え、それなりの不気味さも醸している。

不勉強ながら荒川修作をまったく知らなかった。《抗生物質と子音にはさまれたアインシュタイン》はインパクトが強烈で、正視が躊躇われる。タイトルがなぁ。塩田千春《落ちる砂》は目当てで来てる方が多いのかね、人がよく集まっていていて落ち着いて見れなかった。堂本右美《Kanashi-11》は、この美術館の収蔵品だので、おそらく目にしたことがあるんだけど、いいよね。さっぱり分からんけど、いいよね。

第3章:私はただ眠っているわけではない

森村泰昌を除いて、戦前戦中の日本の作家が多かった。南欧かラテンっぽいテーマや色遣いが多いのは何やっけな。北脇昇の《美わしき繭》が好きだね。シュールレアリスムの作品ということでよいと思うが、想像力がいろいろと働かせられる構成になっている。繭から覗ける南洋風の女性と花、水面もよいが、脇にそびえる武骨な岩山、あるいは塔のようなそれが暗示的だね。

石井茂雄の作品も見たことがある気がしたが、作家の詳細を知らなかった。オノ・ヨーコの親類にして夭逝の作家なのだな。エネルギーを持て余していたんだろうかなぁ。好きだけど、この作品もジッと眺めると逆に力を持っていかれそうな底力がある。

第4章:目覚めを待つ

ダヤニータ・シンの《ファイル・ルーム》がよかった。この展覧会で出会えてよかった。これは最高だ。

本章で主に扱われるのは記録であって人間ではない。そして本作で扱われている、撮影の対象となっている大量の資料は果たして目覚めることはあるのか。おそらく大方は目覚めないだろう。なんなら記録の目覚めというのは、人間への介在であろうし、記録自体の再生だ。それは生かされるべくして保存、眠った状態にさせられるわけだが、さらにその記録としてのこの写真は、いかにも寓話的で楽しい。

雑然とあるいは整然と堆く積まれた紙の山、情報と呼べるかも分からないそれらが圧倒する景色はいったい何なのか。そこにポツポツと写る人間たちの諦めのような表情や姿もあまりに美しくて何度となく眺めても飽きなかった。

第5章:河原温 存在の証しとしての眠り

章題に個人名が付されているし、実は本展のメイン展示なのではないかと思うが、よくわからない。日付のみ描かれたシリーズはいつかのどこかの展覧会で見たことがありますね。

《I Got Up (1968–1979) 》シリーズがおもしろかったが、なんとなく筒井康隆の『虚構船団』を連想させられた。手紙を受け取っていた奈良原一高とはどういう関係だったのだろうかね。奈良原氏が 2020 年の 1 月に亡くなられたということのようだが、この展示にはそういった縁もあるのかな。

なんなら奈良原一高も知らなかったが、彼の写真に少し興味が湧いた。ちょうど六本木のギャラリーで作品が展示されているらしい。

終章:もう一度、目を閉じて

《貧しき農夫》(国立西洋美術館)と《ミョボン》の 2 点が展示されていた。終章のコンセプトがよく分からないのだが、まぁ起きたら寝る、寝たら起きるということで、最後に寝る話をする、のかな。

金明淑《ミョボン》は、当館の収蔵品ということだが、見たことあったかな。これをちょっと調べると、ジャンルとしては素描扱いなんだそうな。これっていわゆる自画像の類なんだろうかね。よく分からんが、だとすれば展示の〆としては自らの眠りに立ち返れという意味付けにもなろうか。

その他

常設をパラパラと散歩して、収蔵品による男性彫刻像の小展を眺めて、帰った。後者については、何かしらメモを残すかもしれない。

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『夜明け告げるルーのうた』(2017)の感想だ。3 年以上も前の映画で当時劇場で鑑賞した。監督の湯浅政明は最近、忙しそうだ。話題になったアニメ『映像研には手を出すな!』でも力を奮っていたし、昨年も監督作の『君と波に乗れたら』(2019)が劇場で公開されていた。で、先日は『日本沈没2020』をやっていた。

本作『夜明け告げるルーのうた』も、2020年の年始に NHK で放送されたというではないか。これは映像研に関連して確保された枠だったのかな。

『夜明け告げるルーのうた』だが、現実の社会や環境、他のアニメ作品との関連に先に触れておくと、『崖の上のポニョ』(2008)は意識せざるを得ず、また巨大な水流が町を襲うという設定やシーンからは災害を喚起する問題、そのテーマ性も思い浮かぶ。

案外というか本人のインタビューや記述などは確かめていないが、湯浅監督としてはこの辺に非常にこだわりがあるのかもしれない。『日本沈没2020』で監督を務めたことも然り、『君と波に乗れたら』も海、水との関わり合いがテーマの背後にあることに変わりはない。自分の書いた感想を読み返してみたら、以前にアップした記事でも言及していた。

水を直方体に切りだす

水の流れを観察、探求し、それを描写しようとする人類の歴史は長い。日本だったら葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」が完成するまでの経緯は最近でも頻繁に話題になる。レオナルド・ダ・ヴィンチの水流の素描などもよく引き合いに出される。

アニメーションでもゲームでも水面や水中の描写をいかに美しくするか、クリエイターたちは苦労し、わたしたちはそれを楽しみ、あるいは感嘆する、ということでいいだろうか。個人的には、ここ数年で鑑賞した作品だと、吉田博の渓流の版画(1928など?)が良き作品だったなぁ、と思い浮かぶ。

というような、水の美しさ、リアリティをどのように描写するかという苦心の歴史を無視するように、『夜明け告げるルーのうた』では水を直方体に切り出す。本作で強烈に印象に残っているのは「直方体に切り出される海水」だ。

設定上は、人魚の子であるルーが海を切り取る能力を持っている。あまりに乱暴で突飛な表現だ! と思わないでもない。どのようにしてこの発想に至ったのか。なぜ人魚は海を直方体に切り取るのか。疑問が尽きない。特に理屈はないのかもしれない。

だが、超常的または超自然的な力-普段は見せない自然の力、あるいはそれを覆そうとする人間の力まで含めて-をアニメーションで半ば抽象的そして具体的に示すには、これが最適解だったのかもしれない。

少なくともルーは、カイに恋心を抱いており、ルーはカイのために水を操る力を使っている。それは『崖の上のポニョ』が起こしたと思われる強い波のような、あるいはそれだけの力ではなくて、水を、もっと自在に操る能力だ。恋の力だ。

ところで、個人的に参照できたこのような水のアイデアとしては、実はドラえもんに「空間切り取りバサミ」という道具があり、似たようなことをしていたりはする。この道具が登場したドラえもんの話では、このハサミで、空間を部分的に切り取ることで、それを好きなところに持ち運べる(他の道具との組み合わせ在りきだが)。作中では主に海岸や沖の部分を切り取っていた。

その他にも藤子・Fには割と水柱をそれとして空間にポンと置くようなイメージが多い気がする。とまで、書いてから集めておいたインタビューを読み漁っていたら、ちゃんと言及されていたね。監督は、TVアニメ『キテレツ大百科』の「ひんやりヒエヒエ水ねんど」(1988)の原画が楽しくて記憶に残っていたらしい笑。

やっぱり表現というのは地続きなんだな。

その他

ねむようこがキャラクターデザイン

普段はあまり気にすることがないのだが、キャラクターのデザインは見たことある絵柄だなと思ったらねむようこ氏であった。彼女は『午前3時の無法地帯』が Kindle で配信されたころに読むようになって、以降の単行本も割と読んでいるのだが、キャラクターの絵がいいよね。好きです。

ルーの父親の動きの不気味さ

いろいろと不穏なシーンが見え隠れする本作だが、鑑賞中にいちばん心臓に悪かったのはルーの父親が地上にやって来たシーンだね。まずもって不気味で、目的も分からない。陽にあたらないように行動していることは分かるが、恐い。サイズ感も一定せず、どういう存在なのか最後まで不明だ。

音楽

監督の他の作品でもていねいに扱われている要素として音楽があるが、本作では割と主役だ。カイが秘密裏に活動していた打ち込み系のサウンドもそうだが、バンドでの活動も物語を進める原動力のひとつになっている。

いろいろな音楽が流れるが、個人的には再序盤が一番印象に残っている。

参照

先日の「日本沈没2020」の感想に続けて、書き留めたままだった内容を勢いで出したので、近いうちに鑑賞しなおそうかなという気分である。

追記(20220307)

ぴあのインタビューの連載で湯浅政明が取り上げられており、作品別に触れられていた。読んでみると「ポニョ」のことはすっかりイメージにはなかったらしい。へぇ。子供向けを意識した作品ということらしかったが、そのへんが狙い通りいったのかは知りたかったね。

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ヒッチコックマラソン『パラダイン夫人の恋』を観た。原題は《The Paradine Case》ということで、こちらを参照したい。と言うのも、ちゃんと鑑賞していれば大筋は明らかではあるが、そもそもの邦題がかなりネタバレ気味で「なんだかなぁ」という理由からだ。

原題で表現されているが、扱われるのはパラダイン夫人が係る事件簿である。彼女は、盲目の夫を殺害した罪に問われる。彼女の弁護士が主役として物語は進行するが、被告である夫人はファム・ファタールのような人物で、弁護士は彼女に熱を入れてしまう、というのが表立ったところの展開ではある。

弁護士の男は新進気鋭で将来を嘱望されており、かつまた新婚で彼の仕事に理解のある妻がいる。ではあるのだが、上述したように弁護士の仕事への、夫人への執心によって、夫婦仲にも次第にズレが生じはじめて…、こちらの関係はどうなるのか。

ビジネス相手、しかも殺人事件の容疑者に惚れるってどういうことやねんというツッコミが入らないではない。これは別に本作固有の演出というよりは、古典的な劇作や文藝の枠組みにも則るセッティングだろう。パッと思いつかないが、日本の古典にもあるんじゃないのかね。

この作品の難しさは、パラダイン夫人は本当に夫を殺しており、その原因には別の男性との恋があった、という事実がかなりあからさまで、となると事件の争点などははじめから無かったようなものなので、弁護士の恋も仕事も無残で無意味であったという印象が残りがちな点にあるかな。緊張感がない。

チグハグ感が否めない。何を見せられているんだ私は、というね。

それとは別に結末において、弁護士の夫婦の行き違いは、妻の献身的な愛、彼女は夫に再び弁護士として再起し、正義のために仕事に邁進してほしいと訴え、それによって男も立ち直りの兆しを見せ、一件落着する。これはこれで面白味に欠けるというか、見どころという感じもしなかった。やはり、何を見せられているんだ私は…、となる。

あえて本作にもう少し深く立ち入ろうとすると、この弁護士夫婦と対峙する判事とその妻である老夫婦のやり取りを絡めることはできそう。老判事の妻は、殺人の案件を夫が取り扱うことをツライという。しかし、夫はこの職務を全うする必要があることを熱を持って語る。これは上述の夫婦の復活前、結末付近に差し込まれたカットだ。

つまるところ、判事と弁護士の立場は異なれども同じく法に則った社会的な正義を問う仕事をしている。それに対して、老若で妻のスタンスと視線にかなり相違があることが描かれていることは明らかで、このへんの対比が魅せどころのひとつだったのかなぁ。そうなると序盤のあのシーンにも勘繰りたくなるが…。

ちなみに、男勝りの-という表現は現代的には妥当ではないが-知的な女性像としては、弁護士仲間の娘にその役割が割り振られている。彼女は、弁護士の妻とも仲が良い。なんならこの女性像を妻役にした方が、展開にメリハリがでたのではないかとも思わなくもない。

映像的には法廷で、正面に映るパラダイン夫人を中心にして、証人の男が施設をぐるっと回って法廷に入退場するシーンが印象的ではあった。あとは弁護士の男が訪問する、パラダイン別邸の雰囲気の不気味さ、天井の高さなんかは画面的に面白かった。

もうちょっとしっくりくる解釈はないかなと思ってググって、上位に出てきたこの記事の説明はなるほど分かりやすかったな。制作の背景事情まで含めてみると別の視点も出てくるものだね、当然だけれども。

どうでもいいが、この記事は 11 月 29 日にあげるつもりだったが、下書きのままで忘れていたのであった。

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