ヒッチコック『山羊座のもとに』《Under Capricorn》を観た。いつものように Wikipedia の情報に頼るが、原案となる戯曲、その小説化、第一脚本などを経て最終的な脚本に至ったらしい。

19世紀のオーストラリアが舞台という意外さというか、これは小説での設定なのだろうなと思うが、ヒッチコックの経歴に従って鑑賞しているとややビックリする。当時は本国のイギリスで犯罪者となった者たちの流刑地として、ひいては新しい大陸の開拓者として人々が送り込まれていた。

主人公は総督の甥であるチャールズ、ヒロインは主人公の姉の友人であったヘンリエッタ、その夫のフラスキー、夫婦の邸を管理する女中頭ミリーなどが主な登場人物となる。

オーストラリア到着直後、当地の有力者であるフラスキーと知り合ったチャールズは誘われた晩餐でヘンリエッタに再会する。が、彼女のメンタルはヘランコリーしていた。その理由とは…。

オチをばっさりと述べてしまうと、彼女を狂わせていった原因のひとつは女中頭ミリーの存在であり、もうひとつは夫フラスキーへの罪悪感であった。

三角関係と評するには、どちらかというとミリーを含めたフラスキー家の状況で、チャールズは英国紳士然とヘンリエッタを快復させようとしていたに過ぎないように見えた。最後まで見れば言うまでもないのだが、チャールズはちょっとしたマレビトなのだな、となる。

サスペンス味としては、ミリーのフラスキーへの愛の描写が異常であれば見どころもありそうなんだけど、ヘンリエッタを徐々に狂わせようとしている以外は(内容としては十分に異常なんだけれど)、演出はそんなにスリリングでもないんだよな。ラストはちょっと魅せたけど。

つまり、あまり見どころがない。逆に、ところどころコメディっぽくて、邸の汚い女中たち(なんとなくディズニー作品を思い出してしまった)の作った食べられる代物ではないハムエッグのシーン、ヘンリエッタの美貌に総督がすっかり変節してしまうシーンなどは笑えて、よかった。

ヒロインを演じたバーグマンは本作においては、あまり良くなかったと評されているらしいが、過去にフラスキーを犯罪者としてしまった事件の真相を独白するシーンは流石の迫力があってよかったな。

あとヒッチコックに限った話じゃないのだろうけど、螺旋階段が好きよね。撮って画になりやすいんだろうな。よく使われているので、やや食傷気味だよ。

後はアレだ、チャールズが乗馬が下手くそだったと回想されていた設定が、ちゃんと回収されているあたりは、一見すると平板な作品ではあるが、整っているところは整然としているねと勉強にはなった。

Read More →

ヒッチコック作品初のカラー作品、『ロープ』《Rope》を観た。ショッキングなオープニングから始まる本作は、サスペンスらしさ満載でワクワクさせられるスタートだ。物語はアパートの一室で完結するし、結末の見せ方も舞台っぽいなと思ったらやはり舞台作品の翻案らしい(Wikipedia情報)。

また、舞台、本作の基には実在の「レオポルドとローブ事件」があり、どのような事件かといえば、超人思想にかぶれた若者 2 人のバカげた虚栄心で殺人事件を起こす。

情報によれば「ニーチェの超人思想がうんぬん」となっていたが、ニーチェの超人思想というか、その曲解だろう。実在の事件を起こした若者らはユダヤ系だったというのは、文字通り、皮肉な点で、元の事件は 1920 年ということだが、戦争も一段落してこういう題材が映画で取り上げられる余裕も出たみたいな向きもあるのかな?

さて作品の内容に触れる。

舞台設定が少しばかり想像に委ねられている個所がある。犯人らと被害者はハイスクールかカレッジの同窓生のようだが、被害者は理不尽な恨みを 2 人から買っていたようで、それが犯行に繋がった。理不尽な恨みを正当化するための超人思想ではあるようだが、まぁ甘っちょろくて子供っぽい。

犯人の 1 人、ブラントンはややもすれば高慢な人間で、犯行直後に同室で開催したパーティーで場を支配し切ろうとする。この強がりが破綻気味なのは傍から見ていれば、つまり観客側からは明らかなのだが、それはつまり演技のさじ加減が上手いのだと思う。彼の演技は好きだね。ちょっとブラット・ピットの雰囲気が被った。

もう 1 人の犯人フィリップは対照的に、犯行を後悔し、怯え切っている。これは作劇の妙だが、ブラントンの方は動機が透けて見える気がするのに、フィリップはよく分からんのだ。だが、犯行時にロープを力強く引いていたのはフィリップなんだ。結論は示されないが、想像力がかき立てられる。うまい。

被害者の人間性も、パーティー参加者の証言でしかわからないので、彼は本当はちょっとくらいでもイヤ味のある人間だったのか分からんし、彼は本当に実に好青年で、犯人らの勝手な嫉妬が本当に勝手に燃え上がっただけなのかも分からん。

ちょっと、ヒッチコックの監督作品の一般論みたいな話を挟む。

ここまで観てきた作品の多くにおいて、犯行がばれずに犯人側が万歳! とはならないのが前提で、かつ犯行なり物語の真実が本当に露見するのは本当にクライマックスであることも定番であった。

事件の発生とクライマックスを繋ぐ、そのあいだの劇、物語、会話について、事件を直接解決するための描写はどちらかといえば最小限だ。ではいったい、どうやって 1 時間以上の作品を娯楽として埋めているのか、成立させているのか。

元に戻るが、あらためて考えるとロープの場合、上述のような仄めかされる人間関係を推察するのが、本編を眺めているときの大きな楽しさなのかな。犯人 2 人を除いたパーティー参加者のユニークさは、探偵役であるルパート以外はあんまりなかったかな。家政婦? の方はちょっとおもしろかったか。

撮影方法としては疑似ワンカットというやつで、カメラがブラントンの後姿のジャケットにズームしていって暗転し、のような箇所がいくつかあり、前後はそのまま続いているように演出している。そして、作中では上映時間の 80 分がそのまま過ぎていく。

舞台を翻案した作品であることを意識付けたかったか、あるいは脚本をヘンに映画向けに操作する必要も感じず、このような手法を取ったのか、といったところだろうが、ワンカット風をワンカット風として価値づける理由ってなんなんだろうな。それは 1 本の作品の長さや、フィルムというツールの都合もありそうだけれど…。

ワンカットであることとは関係はないが、居間からエントランスを通って逆側のダイニングへとカメラが移動し、ブラントンがキッチンの扉を開く。キッチンの扉はいわゆるスイングドアで、勢いよく開いたものだから、ユラユラと揺れる。

揺れるドアの向こうでブラントンが犯行に使ったロープを引き出しに隠すが、すぐ隣のダイニングには家政婦がいる。ブラントンがスリルを楽しむようにしているが、これはフィリップに見せているわけではないので、見るとしたら当然私たちだ。

ロープを隠す作業をするお道化たブラントンが見え隠れするのは、犯行が露見するのか隠し通せるのかを暗示しているわけだが(もちろん露見する!)、それを揺れるドアでの見え隠れで表現するなんて、いかにもオシャレなカットだ。今作で 1 番好きなシーンだね。

居間の背景もすばらしかったと言及しておく。背後の壁はほぼガラス張りで、向こうの遠景には摩天楼が広がっており、 冒頭からラストまでの 80 分間で青空の昼間、オレンジの夕刻の差しかかり、紺色の混じる夜の差しかかりと色合いが変わっていく。なんとも美しくて、ついつい役者たちを忘れて背景を眺めてしまうくらいだった。

Read More →

ヒッチコックの『汚名』《Notorious》の感想となる。元ナチスのスパイであった父、その娘であったアリシアは FBI に協力するために南米はブラジルに移動して、現地の元ナチス達と交流し、あまつさえターゲットの妻となるに至った。

本当は彼女は、FBI のエージェントと恋をしている、というのがロマンス部分のミソで、サスペンス要素は彼女のスパイ活動にある。ヒッチコック流のマクガフィンということで言えば、秘密を握るは謎のワインボトル、そこに仕込まれていたウラン鉱石、その出所は何処か、というのがポイントか。

だが個人的には本作は、ロマンス要素のほうが大きい。2 人の恋はどう見ても明らかだが、ターゲットを騙すという職務上の目的のうえでエージェントの男は本心を明かさない。そのうえでアリシアは彼のために、あるいはアメリカ国民の義務として、スパイ活動に従事する。自分の気持ちも都度、彼に伝えているが男は応えない。そんな男に惚れる必要ある?

一方で、ターゲットはアリシアに惚れ込んでいて、出会って 5 秒(誇張表現です)で結婚を申し込む。アリシアはスパイの任務として、それを受け入れるのである。そんなヒロイン居る!? 居るよなぁ。まぁ、本場のスパイ活動でもこれくらいのことはするんだろうけど、なかなかダイナミックな展開だ。

ついては、これも個人的な見解ではあるが、ヒロインに惚れ込んだターゲットが不憫でならず、展開を見守るのが心苦しかった。ではあるが、彼女がスパイであることが露見すると、ママに頼って方針転換するあたりはサッパリしすぎていて、笑っちゃうくらいだけどね。愛する女のために何をどうするってことは、自分たちの立場を守る以上には、この男にはない。

映像的には、最後にエージェントの男が彼女を救出するシーンがよく出来ているというくらいだろうか。ターゲットの男の情けなさとエージェントの男の最後に見せた誠実さが対比され、階段を下りてくる彼らを階下の広間で怪しく見守る元ナチスの悪党たちの立ち振る舞いが、いかにも恐ろしげであった。この作品はこのシーンのためにあるといてもいいくらいでは。

南米にナチスの残党が、という話は知っていたが、戦後直後からこういう題材になるのだなというのが 1 点と、アメリカ合衆国、あるいは欧州人にとって南米って、良くも悪くもこういう避難地であることが、この時代から変わらないのだなというのが 1 点、それぞれ勉強になった。

まぁしかし、日本からも 19 世紀から 20 世紀にかけてブラジルに移民が少なからず渡ってもいるし、文字通りの新天地でもあったわけだ。モノクロなので感得しづらいが、屋外の南米の陽気な様子、室内の陰気な様子みたいな対比もあったのかな、などとも思われた。

あとは、ヒロインの人間像に酒浸りという属性が付与されており、これも気になる。次々回の監督作である『山羊座のもとに』のヒロインもそういった設定があった(細部は異なるが)ので、これも何かしら時世に合わせたところがあるのだろうか。

Read More →

ヒッチコックマラソンです。『白い恐怖』《Spellbound》の感想となる。

『断崖』の感想でも述べたが、ヒロインは学識のある女性で、ロマンスとは無縁の人生を過ごしてきました、というような設定で、ひとつの典型かな。また、近視であるようで資料を読むたびに眼鏡を探して掛ける動作が印象深い。

退屈な作品かなと思ったら、ググッと引き込まれる。新任の医院長として赴任してきた男は、記憶喪失の別人だった。果たして真相は…。リアリティとしてはムチャクチャなのだが、とっても気になる流石の演出術。だが、精神分析というテーマが現代的にはちょっとばかり白々しい。作中でも精神分析を腐す人物やシーンはあり、当時でも半信半疑だったのかねぇ。扱いがよくわからないが、まぁいい。

男女の逃避行という観点としては『三十九夜』を連想させられた。共通点としては、巻き込まれ型の事件であること、主人公とヒロインが各地を転々と移動することなどが挙げられる。パートナーを連れまわす立場が男女で逆転している点は、本作の面白いところではあった。頼りにならない男というのは、『断崖』と同じか。

本作を観ていて、キスシーンやロマンス色が過去作よりもたっぷりだなとあらためて感じたが、『断崖』や『救命艇』などでも似たような印象はあったので、徐々にそういった描写を増やしたかった、それが叶うようになってきた時代ということなのだろうな。続く監督作の『汚名』では、キスシーンをごまかして長くしたということなので、よくやったもんだ。

劇伴がとてもいいように思うのだが、どうだろうか。クレジットされているのはミクロス・ロージャという人物で、私はいままで知らなかったが、ハンガリー作家の音楽家ということで映画音楽、芸術音楽でも実績を残している人物であった。そうだろう、この作品は劇伴がとてもいい。

記憶喪失の男の記憶を辿る夢の世界の描写がおもしろい。まるっきりダリの世界だなと思ったが、そのまんまで、実際にダリが協力しているらしい。このような舞台美術は、あまり詳しくないが、ホドロフスキーを連想させられた(影響があるとすれば当然のこと順は逆だが)。

結末、サスペンスとしては結末を決定づける証拠があいまいなのだが、本作はそんなことどうでもいいくらい素晴らしいラストであった。確信はあるが決定性に欠ける状況のまま、ヒロインが真犯人に詰め寄る。「おいおい、他の助けも呼ばずに乗り込んでいって大丈夫か?」と誰しも思うと考えるが、ヒロインは、圧倒的にクールに真犯人を論破するんですね。かっこいい。真犯人の浅はかで矮小な心理を彼女は決定的に叩き潰す。いや、すばらしかった。

というわけで、本作は割と好きです。原題の “Spellbound” は「魔法で縛られた」というニュアンスだが、「魅了された」という意味も含むようだ。男の記憶喪失を指しているのか、ロマンス成分の意味合いも含むのか、どうだろう。しかし、この作品の男の記憶喪失にも戦争体験が絡んでいる。他の作品でもそうだが、戦争の傷というのが現前とある(あった)ことがよく分かるね。

なお、設定的には背後に追いやられているが、記憶喪失の男のもともとの先生というのが学会界隈で嫌われていたというか、少し風変わりな人間として扱われていたというような設定が潜んでいるようで、このあたりの匙加減の巧さというか、奥行きも気になったね。

Read More →

ヒッチコックを見るシリーズです。今回は『救命艇』《Lifeboat》を観た。戦中の作品ということでプロパガンダ映画、ということでいいのだと思うが、定義がよくわからないので、なんとも言えない。

脚本の原作としてスタインベックの作品があるらしいのだが、軽くググった程度では作品名が出てこない。なので、どれくらいベースになっていると言えるのかもわからない。

物語としては、アメリカ合衆国とイギリスを行き来する民間船が、Uボートに沈められた。沈まずにすんだ救命ボートには、身分や立場も様々な人間達と、Uボートの乗組員であるドイツ人が乗り込んだ。彼は個人として信用に足る人物なのか、というような疑念がストーリーの半分くらいを駆動させている。もう半分は、漂流そのもののスリリングさだろうか。

ボート上では無情にも落命する人が出たり、小さなロマンスが生まれたり、疑念と焦燥が相互に諍いを起こしたりと、内容は盛り沢山なのだが、いかんせん、漂流している船上での話なので景色が代り映えしない。嵐の描写などはおもしろくはあるのだが、本作の飽きポイントはここが大きいかな。

オチもそこまで面白みもないように思うが、一旦でもドイツ人を信じしまった時点で、ボートは支配されていたという状況は、穿って言えば、状況が許してしまえば割と簡単にいわば民主的、いわば多数決的な決定能力を人々は失って、独裁あるいはそこから始まる非支配的な心理状況、思考能力の低下に陥るのではないかという示唆ではあったか。

だが逆に、1 人のケガ人をあえて死に追いやったことは弁護しづらいものの、冷酷とはいえドイツ人の判断が、同乗した乗員を救おうとしていた点に嘘はないかもしれない、という考え方もできる。実際にドイツ側の補給艦を目指したほうが生存確率が上がるというのであればなおさらだ。

そしてその判断をできるものが他に誰 1 人としていないという状況だったのだから…。こうなると、ドイツ人を追い落とした集団の狂気とも解釈できなくはない気もする。この考え方に気がつくと、なんだか本作は不気味に感じた。

Read More →

久々にヒッチコックを鑑賞した。今回、鑑賞したのは『断崖』《Suspicion》(1941)である。3 連休にまとめて数本見たので、しばらくヒッチコックの感想マラソンが続く。

思い切りよく結婚した相手が、無一文のお調子者であった。資金繰りに困ったうえに怪しい動きを取る夫への疑惑は深まる一方で、結末はどうなる? という話だ。原題は “Suspicion” ということで「疑い」などの類だが、これは「断崖」として割と面白い邦題ではないかな。

夫への疑惑はどのように解決されるのかという点のみが焦点だが、なんというかオチはごくパーソナルというか夫婦愛だぞ! みたいな着地点だったので、この尺が必要だったのかしらとなった。

面白くなかったわけではない。夫が自分を殺そうとしているのではないかと疑わしいシーンにおける夫の挙動の怪しさ、その撮り方はやはり魅力的ではあった。しかし、それくらいかな。

そもそも夫は、本当にクズ男で、これはそれだけ愛情の深さを逆説的に表現していると受け取る以外は難しいが、それくらいダメ男なので、当時の人たちに共感されたかも訝しい。しかし、映画で描かれるダメ男というのはひとつのモデルなのだものな。

クズ男を演じるのはケーリー・グラントで、本作以後にもヒッチコック作品では『汚名』『泥棒成金』『北北西に進路を取れ』でも主演なのかな。最後の鬼気迫るシーンでの表情はとっても良かったな。

ヒロインの設定のハイミス(今日では死語、あるいは使ってはいけない類の言葉)は、なんだか逆に目新しいなとも思ったが、ヒッチコック作品としては割と典型的なヒロイン像でもあるなと思い返した。

Read More →

『ザ・ハント』《The Hunt》を観た。確認すると本作は 90 分程度ということで短めな作品だ。そう言われればそうだね、短かった。とはいえ、ボリュームがないわけではなくて、満足感でお腹いっぱいだよ。R15+指定ということで、残虐な表現を含んだ作品です。

本作の制作背景などはまったく知らないが、いわゆる「人間狩り」ゲームで物語は進行する。ありがちやな、という第一印象は、序盤のグロテスクでスプラッターな描写によって吹き飛ばされる…、ってことはなくて単純に目の毒であるだけなのだが、ただのスプラッター映画ではなさそうな本作の正体は、しばらく分からない…。

ハンター側の老夫婦が待ち構えるスタンド脇の雑貨店の様子、狩られる側との攻防、老夫婦のやりとり、オチの描写まででようやく前提がわかる。狩られる側は、主にネットでフェイクニュースを生産、拡散、盲信してしまうような人びとのステロタイプたちで、一方の狩る側は、そのフェイクニュース(とも言い切れない)の被害者側たちなのだ。

本作の制作側などからの発信、あるいは批評筋の説明がどうなっているかは不明だが、これを具体的な政治的なカテゴリーにあてはめるのは最終的には悪手だとは思う。とはいえ、大雑把にはハンター側は、リベラル主義者のような思想を武装しており、富裕者たちだ。

対して狩られる側は、一括りにはできないが、上述のようなタイプの人たちだ。彼らをどのように括るべきかは難しい。現実的な意味でもそうだと私は考えるし、作品中でもそのように描かれる。つまり、狩られる側のバックグラウンドはほぼ語られていないし、そもそも一定しない(ステロタイプとは言っているが)。

重ねて言うが、狩られる側は上述のステロタイプのようには設定されており、もちろんそういう人物たちの問題、そういう人物たちが問題であるようにも提示されているが、それはあくまでハンター側の立場からの描写においてのみだ。

最終的に、本作の物語の起点かつオチは、ここに集約されているのだが「被害者ぶって、そこから生じた敵意を周囲にまき散らしたら事故るぞ」という教訓譚じみた話になっている。

残虐なカットがウリの作品でもあるので、このシーンがよかったみたいなのはあまり(言いたくも)ないのだが、最後の、悪く言うと間延びしたような印象も否めないインファイトも好きだし、淡々と処理されていく人間たちの描写は割り切りがあってよいね。

ポスターに鎮座してモチーフとなっている豚ちゃんは、設定上はハンター側のペットのようだが、なんで放し飼いにしているのか皆目不明という代物ではあったが、雑にか丁寧にか『動物農場』を絡めた風刺にはなっている模様で、そのアイコンなのかなぁ。

『動物農場』を持ち出すということは、愚直に受け取れば、本作は根底的には全体主義批判も合意している…のかもしらんが、構図は全体主義を志向する輩が登場するわけでもないから単なる小道具のひとつでしかないような気もする。

ついては、彼女が彼女をスノーボールと名づけたというメタファーもよくわからないが、彼女は自身をナポレオンと自負していたのか? とも思えない。いや、一方の彼女とやらが自称していたという「全体の正義」(正確な字幕は忘れた)というネーミングを逆手にとったのがスノーボールという渾名なのかな。

タイトルについても少し気になる。あまりにも捻りがない。この言葉をそのまま「狩り」と受け取ってしまうのは、本作の主張を真に受ければ、あまりにも単純に過ぎないか。どうだろう。

最後にひとつだけ言うとすれば、敵か味方かも判別することすらできずに散っていった彼こそが象徴的だったのかもしれない。社会に余裕があれば、コウモリを見逃す余裕も、あるいはコウモリの意見を聴取する余裕もあるかもしれないが、極限の状況ではそもそも彼がコウモリであるのか否かを判断する猶予すら与えられない。

時制的にもプロット的にも、その描写にも、総合的に見て好意的に受け入れづらい作品とは思うが、こういうエッジがきいている作品は好きだな。

Read More →

2019 年のアニメ『ケムリクサ』を暇つぶしがてらに視聴しはじめたら、一晩で最後まで観てしまった。2012 年頃に制作された同人作品のほうは皆目知らなかったが、それがリメイク、拡張されたのが本作と言っていいのかな。

あらすじだが、あかぎり(赤霧)というモヤに包まれた大小の島々が幾つかの壁に隔てられている。主人公である「りん」の姉妹は、闖入者にしてもう 1 人の主人公である「わかば」とともに、水源を求めて危険な島へと移動することを決意する。

さて、監督の前回監督作品も似たような設定でポストアポカリプス様の世界だったが、いわゆるまともな人間は存在しない。「ケムリクサ」という能力をまとった草のようなアイテムと、それを行使できる姉妹がいる。そこに わかば という人物が合流した、という具合だ。

ここまで書いて思ったが、この作品を魅力的にしているバランスってすごい繊細なのかな。まぁ、世に出される作品というのは、ヒットするにせよ否にせよ、そういうものか…。これがおもしろいんですって言いづらいけど、ついつい先が気になってしまう。そういう作品ではある。

本作についていえば、「世界の謎と物語の結末が気になる」といえばそうなのだけれど、ではそれを魅力的にしている材料はなんだ? ケムリクサの存在や設定の見せ方の巧妙さか? 姉妹の可愛さや格好よさが魅力か?

とは言ってもやっぱり「砂漠でオアシスを探す」というのが大きな魅力だな。類作としては『BLAME!』などが思い当たるが、命かながらに旅を続け何と出会うのか、目的の成果が見つかるのか、途中で断念するのか、不幸にて断絶するのか、別の結果に至るのか、などなどである。

オチについてだが、彼らが現実から別の層にあるメタ(あるいはデータ的な)存在であり、そこでの消滅が更なるデータの海への一体化なのだと解釈すれば、ネタを明かされたうえでひっくり返してみれば、時間はとてもかかるが事実上はずっとコンテニューできるゲームのようにも見えた。

これをどう捉えるのかは、なかなか難しいような…。

とりあえず置いておく。

ところで本作、閉じた世界観と植物というモチーフがそこそこの抽象度で設定されているので、話を拡げるには割とフックが少ない。が、個人的には「ケムリクサ」というネーミングがよく分からず、気になっている。漢字にすれば「煙草」なんだろうけど、これではタバコになっちゃう。意図はあるのか?

こじつけるなら-と言うほどのつもりもないが、姉妹が求める生存条件としての水を元として「あかぎり」は水から生成されて、「ケムリクサ」は水をエネルギーとして機能している。

つまり“霧”と“煙”はさまざまな意味で相反しているわけだが、一般に“霧”や“煙”は視界を遮るように、空気中を漂って拡がる存在である点については同様だ。

これらの醸すイメージというのは、一般に幻想性とかだと思うのだが、まぁつまりそういう所与があって「ケムリクサ」という名前になったのかな、とか。結論めいたものはないけれど…。

アニメーション自体には特に述べたいこともないが、姉妹のキャラクターの個性の出し方、伴って ED のビジュアルがカッコよかった。さて、ざっと見る限りでは、タツキ監督(尾本達紀)は 2020 年は発表された作品には名前を出していないようだけど、次は何をしてくれるんだろうか。楽しみが尽きない。

Read More →

『羅小黒戦記』(ロシャオヘイ戦記)を観た。ミニシアター系で昨年だかに国内でも上映されていた中国スタジオ産のアニメーション作品だが、上映当初から高評価であった。この度に日本語訳となってシネコンでも上映される次第となったようだ。

これは都合がよいというわけで劇場に向かった。

小さな黒猫(型の森の妖精)である小黒が、故郷の森を失い、彷徨い、仲間に出会い、敵に出会い、師匠に出会い、という感じでサラッと冒険活劇して、ちょっと成長する濃厚な物語だ。泣ける。

テーマとしては、似たような作品、あるいは社会背景などから話を拡げると、あまりこの方法は上手ではないが-『もののけ姫』や『ドラえもん のび太と雲の王国』などが個人的にはすぐに思い浮かぶ。

つまり日本のアニメで 20 年以上前に試みられたテーマが採用されている。現在の中国には勢いがあるが、伴う犠牲や反省のような風潮もあるのだろう、としてよさそう、だが、これも一旦置いておく。

そうした前提のなかで物語は、扱いの軽重にかかわらずに重苦しくてダルくなりかねないテーマとは裏腹に、コミカルで笑えて、戦闘シーンを含んだアクションは多彩にして繊細、そして雄弁で、極上のエンターテインメントになっている。ビビる。

妖精の属性や能力といった諸設定は SF やファンタジーというよりはむしろ(それらは大前提として)、昨今の日本のコミックで主流となっている能力バトルの系譜に乗っているというのも間違いなさそう。なんなんだ、これは…。

小黒の成長についても、最近の日本の作品でみられるほどの押しつけがましさはなく、少しばかりの唐突さは感じたが、なだらかで心地よい描写に留まっていて非常に好印象だった。せめて灰色を経てほしかったが。

付け加えるならば、小黒を取り囲む大人たちの-対立しながらであっても-彼の幼い心に寄り添う気持ちには、それぞれの理があった、はずだ。

ところで、このテーマは善悪というよりも、抗いようのない流れに如何に身を任せるか、が焦点となりやすいが、本作の提示するとりあえずの結論はなかなかドライである。アジア人らしい現実主義っぽさも滲ませている。だが、現状の世界を鑑みてもそういうものなのだろうな、とも言える。私も大人になってしまった。

中国のアニメーション作品がこの素晴らしさをもって発信されてくるというのは、上から目線で評価したいわけではないが、まずもって感動だ。凄すぎる。そのようななか、『三体』についての感想でも書いたが、歯痒い部分もある。

本作の世界観は、おそらくはそこまでは現行の中国の国家体制とコンフリクトしない。言うまでもなく、それが端的に悪いわけではないし、原則的には作品と切り分けて考えるべきであるわけだが、逆に本作をなんらかの免罪符として解釈してはいけないことも心に留めておきたい。

Read More →

『鬼滅の刃』の人気が限界を突破している。限界を突破ってなんじゃい。別に私が何を言っても二番煎じにしかならないと思うが、なんとなく感想を残しておきたい。作者の吾峠呼世晴だが、情報として正式に公開されているわけではないが、女性の作家であるらしい。少年マンガにおいて女性の作家が活躍することも珍しくないが、これだけ突出した例となるのは、あまりないのではないか。

ところで、ちょうど同じ時期に板垣巴留が『BEASTARS』を完結させた。『鬼滅の刃』が全 23 巻、『BEASTARS』が全 22 巻ということらしい。どちらの作品も発表(雑誌掲載)期間が 2016 年から 2020 年となっている。また、いずれの作家も雑誌連載の初作品である。ちなみに、板垣巴留のほうが 4 歳ほど若いようではある。とはいえ、なんともよい比較対象のように思える。対談してくれないかな。

ちょっと話が逸れた。

私は本作が世代を渡って支持されている理由に、キャラクターの等身が割と影響しているのではないかという持論を持っている。等身の正確な捉え方にはあまり自信はないのだが、炭治郎をはじめとした主人公組は、割と小さい。なんなら柱と呼ばれるメンツも小さい。実に子供っぽいデザインであると言えないか? そうでもないか?

アクション、バトルを中心とした展開で、キャラクターのデザインをこのようにしている作品って、最近の少年ジャンプだとあまり思いつかないが(そもそもあまり熱心な読者ではないのだが)、少年マガジンだと真島ヒロなどが思いあたる。同雑誌では『七つの大罪』の主人公のデザインも、かなり子供らしさを意識しているように思えるが、これは『ドラゴンボール』へのオマージュが強いのかなとも。

『鬼滅の刃』とキャラクターの話に戻すと、同じように「ピッコロ大魔王編」まででキッチリ完結させたドラゴンボールであるようにも捉えられるのではないか。あるいは『ダイの大冒険』なども遠くはない気がするが、周囲のキャラクターを合わせていくと、やはり全体的には等身が大きいほうに寄っていくのではないかな。

細かい定義は置いておくとして、少年マンガの主人公が少年であるまま継続し、終わる作品というのは実はかなり希少なのではないかという気がしてくる。もちろん成長することは必要であるし、当然なのだが、それは年を経ることによる身体的な成長を伴っていることが多い。まぁこれに関しては、そうともいえない作品もかなりあるだろうので、あくまでキャラクターのデザインとの両輪で見ていきたいという話なのだが…。

ということを主に書き残したかった、等身については、調べてみれば似たような話は転がっていた。最初に違和感を感じたらしいのが、外国の視聴者らしい? のはちょっと面白い。

Read More →

Close Search Window