起きていることは描けないのか|《眠り展:アートと生きること ゴヤ、ルーベンスから塩田千春まで》

疫病の影響で春夏の季節が息をする間もなく過ぎた 2020 年はあまり博物館、美術館にも行かなかったな。というところで、東京国立近代美術館で開催中の《眠り展:アートと生きること ゴヤ、ルーベンスから塩田千春まで》を見てきた。この時勢と雨天だったので人は少ないかと思ったが、割と人はいたね。よいですね。

序章から終章までの 7 章構成でそれぞれにテーマが掲げられていた。各章でいいなと思った作品の感想などをあげておく。

序章:目を閉じて

オーソドックスに眠っているひとを対象とした作品が並ぶ。ルーベンスの《眠る二人の子供》などは誰でも一目はどこかで見たことがあろう作品だろうか。

まぁなんというか、藤田嗣治の《横たわる裸婦(夢)》がよかったね。見たことあったかな。国立国際美術館(大阪府)には行ったことないので、見たことなさそうだな? 奥の白の空間(壁かしらんけど)と周囲の黒系と赤系の 2 つの幕のそれぞれのバランスが視線をうまく操ってるよな。

眠っている子供が左下の寝台の下に小さく蹲ってるのはよく分からんな。どういう解釈ができるのこれ。

第1章:夢かうつつか

瑛九の《「眠りの理由」より (5) 》も好きだったが、楢橋朝子の《「half awake and half asleep in the water」シリーズより Shikaribetsuko, 2004》がよかった。これは水面か水中で写真を撮影するというシリーズの作品ということで、この独特な作法によって写されるイメージによって眠りと覚醒のあいだの状態だのを喚起させる、らしい。

水面は海だったり、湖だったり、水面の先には建造物だったり、船だったり、一緒に浮いてる人だったり、いろいろと写り込んでいるが、「Shikaribetsuko」は薄い靄に包まれた湖の水面と小高い山々が広がっている。

この状態の湖って怖いんだわ。海ってのは、凪の状態でもそれなりに水の動き、循環を感じさせられるが、静かな状態の湖面はすべてを吸い込みそうな勢いがある。

で、そのほかの要素としても人間がかかわっているらしい生命観や生活感を感じさせるオブジェクトがまるでない。分かりやすすぎるようだが、このシリーズの狙いが感じ取りやすかった。そんな気がした。

第2章:生のかなしみ

小林孝亘の《Pillows》の説明には、眠りのテーマにおいて本来描かれるべき眠っている主体、描写の対象が不在であることが死を暗示している、という旨のことが書いてあったが、どうか。このタイプの枕、ちょっといいホテルなどにいくと目にするが、寝心地がよさそうだが悪いような気もするという印象があり、だがそれでもやはり睡眠は素晴らしいものだと暗示しているような気もする。

安らかな死はおそらく枕の上で迎えられる。逆に、心地のよさそうな眠りを誘うこの枕は、人食い宝箱のように次のターゲットを待ち構えているようにも見え、それなりの不気味さも醸している。

不勉強ながら荒川修作をまったく知らなかった。《抗生物質と子音にはさまれたアインシュタイン》はインパクトが強烈で、正視が躊躇われる。タイトルがなぁ。塩田千春《落ちる砂》は目当てで来てる方が多いのかね、人がよく集まっていていて落ち着いて見れなかった。堂本右美《Kanashi-11》は、この美術館の収蔵品だので、おそらく目にしたことがあるんだけど、いいよね。さっぱり分からんけど、いいよね。

第3章:私はただ眠っているわけではない

森村泰昌を除いて、戦前戦中の日本の作家が多かった。南欧かラテンっぽいテーマや色遣いが多いのは何やっけな。北脇昇の《美わしき繭》が好きだね。シュールレアリスムの作品ということでよいと思うが、想像力がいろいろと働かせられる構成になっている。繭から覗ける南洋風の女性と花、水面もよいが、脇にそびえる武骨な岩山、あるいは塔のようなそれが暗示的だね。

石井茂雄の作品も見たことがある気がしたが、作家の詳細を知らなかった。オノ・ヨーコの親類にして夭逝の作家なのだな。エネルギーを持て余していたんだろうかなぁ。好きだけど、この作品もジッと眺めると逆に力を持っていかれそうな底力がある。

第4章:目覚めを待つ

ダヤニータ・シンの《ファイル・ルーム》がよかった。この展覧会で出会えてよかった。これは最高だ。

本章で主に扱われるのは記録であって人間ではない。そして本作で扱われている、撮影の対象となっている大量の資料は果たして目覚めることはあるのか。おそらく大方は目覚めないだろう。なんなら記録の目覚めというのは、人間への介在であろうし、記録自体の再生だ。それは生かされるべくして保存、眠った状態にさせられるわけだが、さらにその記録としてのこの写真は、いかにも寓話的で楽しい。

雑然とあるいは整然と堆く積まれた紙の山、情報と呼べるかも分からないそれらが圧倒する景色はいったい何なのか。そこにポツポツと写る人間たちの諦めのような表情や姿もあまりに美しくて何度となく眺めても飽きなかった。

第5章:河原温 存在の証しとしての眠り

章題に個人名が付されているし、実は本展のメイン展示なのではないかと思うが、よくわからない。日付のみ描かれたシリーズはいつかのどこかの展覧会で見たことがありますね。

《I Got Up (1968–1979) 》シリーズがおもしろかったが、なんとなく筒井康隆の『虚構船団』を連想させられた。手紙を受け取っていた奈良原一高とはどういう関係だったのだろうかね。奈良原氏が 2020 年の 1 月に亡くなられたということのようだが、この展示にはそういった縁もあるのかな。

なんなら奈良原一高も知らなかったが、彼の写真に少し興味が湧いた。ちょうど六本木のギャラリーで作品が展示されているらしい。

終章:もう一度、目を閉じて

《貧しき農夫》(国立西洋美術館)と《ミョボン》の 2 点が展示されていた。終章のコンセプトがよく分からないのだが、まぁ起きたら寝る、寝たら起きるということで、最後に寝る話をする、のかな。

金明淑《ミョボン》は、当館の収蔵品ということだが、見たことあったかな。これをちょっと調べると、ジャンルとしては素描扱いなんだそうな。これっていわゆる自画像の類なんだろうかね。よく分からんが、だとすれば展示の〆としては自らの眠りに立ち返れという意味付けにもなろうか。

その他

常設をパラパラと散歩して、収蔵品による男性彫刻像の小展を眺めて、帰った。後者については、何かしらメモを残すかもしれない。