来年の完結編に向けて劇場で特別公開されている『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』を観た。2012 年の初見の時は、過去のエヴァに立ち返ろうとしているのかと不安と期待のような感情がないまぜになった記憶があるが、今回はそのイメージが更新された。ていうか、2012 年以来ちゃんと鑑賞したのは初めてである気がする。

ミサトとシンジの信頼と実績の果ては

この前に『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』も劇場で観てきた。そちらの個別の記事は用意するほどでもないなという気分だが、此方をあらためて視聴した印象は、碇シンジと葛城ミサトの絆、連携性の強さだ。それ自体がわかりやすく描写されるシーンは多くはないが、居住空間の維持や管理、食生活のなどをシンジが担っていたことは端々で表されている(これは原作でもそうだろうけど)。

それを伴った結果とでもいうか、なにより作戦時の 2 人の連携が小気味よい。

第 8 使徒の対処でも、第 10 使徒の対処でも、シンジのアクションにミサトが即座に呼応して事態を切り開いている。本作に限らず、司令官と操縦士の連携がここまでスムーズになって事態に対処しきる作品(後者の対使徒戦はし切れたと言えるかは謎)って実は割と少ないのでは? などとも思うくらいで、パッとは類例が浮かび上がらず、ちょっと感心したくらいだ。

翻って「Q」では、ミサトさんはシンジに突き放すような態度こそ取っているが、要所要所でシンジのことを強く意識していることは描かれており、叩かれやすく、かつネタにされやすい部分ではあるのだが、この態度は彼女の反省した結果であるように思われた。これがどう収束するのかもやはり気になる。

成長しないシンジをあらためて肯定したい

シンジについて、相変わらず巻き込まれ型のウジウジ野郎、何もできないワンコ君に過ぎないのは確かだが、そもそもエヴァシリーズでは、このシリーズのファンは、彼があまりに過酷な境遇に置かれてきたことを嘆いてきたのだ。新劇場版の完結(?)が近づいた時点で、今さら能動的になれと言われても、シンジだって困る。

私はむしろ今回、あそこまで頑なさにダメさを開陳し続けるシンジに希望を見い出したくらいだ。そしてこれは-具体的に別の作品の話を持ち出すのも良い手段ではないのだが-、たとえば今年に鑑賞した『ドラえもん のび太の新恐竜』で感じた違和感、奇妙な印象と好対照をなした。

鑑賞したときにこのブログにも記事にしたが、あの映画でのび太は、物語の構成の都合として「逆上がりができるようになる」という成長を課せられている。それと同時に育てている恐竜にも「飛べるようになる」という成長を課しており、恐竜に対しても自分に対しても出たとこ勝負な指導を施し、無茶な努力を強制していた。

登場人物の成長というのは、いわゆるよい脚本の典型だが、いかんせん主人公の成長にも、その周囲の人間たちが織りなす環境にも説得力が小さい。主人公が成長する必要は本当にあるのか?

このTVシリーズやいわゆる旧劇場版で描かれたように、シンジが成長した、何かを成せたとは言えない、もしくは判断しづらい状況が「Q」の時点で繰り返しになっている点は踏まえておかなければならないポイントではある。

だがやはり「序」「破」を経て、あらためてシンジに課せられた本シリーズの主人公の像が照らす世界というのは、成長の速さがたとえカタツムリのように微々たる速度でも、判断を他人任せにした結果として本人がどうしようもなくいじけることになっても、そこそこに彼とその周辺の世界は崩れていかないし、そのことと同時に、彼のナイーブさに対する世界の強固さ、意地悪く言えば頑迷さを示してはいないか。

ミサトとアスカは成長した、レイはどうする

ミサトもアスカも強い。強いかどうかはしらんけど、確固たる決意とそれを実行する判断力をもっているように見える。これも TV シリーズよりも強固になった。対して綾波レイだが、このシリーズではあらためて傀儡というか人形というか、役割的にはシンジの合わせ鏡という側面が強くなった。

TV シリーズではアスカも、居なくなった親への依存意識などの文脈でシンジと呼応していたが、新劇場版ではこのあたりは整理された結果かオミットされている。一方で、自分で自力でなにをしたらいいのか分からない人間像としてのシンジ、レイという 2 人の状況も整理されて、こちらも更に分かりやすくなったのだなと実感する。

レイの場合は、ウンチャラインパクトやアダムスの器だとかで、設定上はそもそも人間寄りではなく、結末もどうなるのかしらんけど-旧劇場版でもそのままどっか行っちゃったし、本シリーズの完結ではぜひ人間らしく姿を保ったまま最後には何らかの方法でポカポカしてほしい。

本作の背景的なテーマと渚カヲルの気持ち悪さ

もともと思わせぶりなセリフが多く、なんだかよく分からないままヒロイン:シンジの心を奪い去って逝った渚カヲルだが、こちらもやはり「Q」でその設定が強く反映されているように思う。

ざっくり言うと、生物の進化とか情報がなんちゃらとかいったいわゆるハード SF ばった設定回りの説明をカヲルがポエミーな解説担当として役割を果たしている。これには違和感ばかりが大きくなるってものだ。

「古い世代の生物が淘汰なり、適応を強いられるなりするのは仕方がない」のような台詞だとか、あるいは新劇場版になって強まったと言われる「機械とかメカニックさの描写への拘わり」みたいな部分は、実は TV 版から通底していたり、それを飛び越えていこうとする部分ではないか。

どうしても図式は単純化されるが、神だとか神の化身だとかに近づこうという題目を唱えながら展開されるのは、出まかせ技術に接続されるとはいえ、機械的な、技術的な努力の結晶であることが強調されているというか。

そんななかで「神殺し」といわれると、どうしてもエボシ様しか浮かばんので、どうしてもそっちへ考えが傾いていくのだった。

という感じで右往左往する思考だが、来年の完結編(?)を楽しみにしたい。

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