ヒッチコックマラソンです。『知りすぎていた男』《The Man Who Knew Too Much》を観た。のっけから海外、しかも合衆国でも欧州じゃないので少しびっくりしたが、カサブランカを経由してマラケシュへ観光に来ている家族という設定か。

夫は医者で、妻は世界を巡った元歌手のスターだったらしい。なんやかんやあって夫婦と息子が事件に巻きこまれ、息子が誘拐されて、2人はロンドンまで追いかけていくが…。

ひさびさに感じる規模感と妙な間延び感があるなと思ったが、これはイギリス時代の作品『暗殺者の家』のセルフ・リメイクでもあるらしい。なるほど、その辺の影響もあるのだろうか。今回の私の走っているヒッチコックマラソンでは、『暗殺者の家』は鑑賞できていないので、その辺の都合はわからない。

自分が感じた間延び感だが、主人公らが息子の救出を急いでいる割にはややマイペースだったり、ロンドンの警察がかなり間抜けに見えたのが該当する。これはおそらく原作の脚本から動かしがたいところだったのではないかな。

さて、まずは、マラケシュでの異文化感がよかった。これはさすがに現地のロケだよね? チキンを食べるシーンが出てくるのだが、『泥棒成金』と異なり、これはちゃんと食べていたような。左手を使ってはいけないというルールに翻弄される主人公はちょっと面白いね。

マラケシュの月夜を映したカットが本作では 1 番好きかもしれない。

ところで本作の冒頭は、ホールで演奏される楽団のシンバルが鳴らされるシーンから始まり、「この音を耳にしてしまった家族を襲う危機が…」みたいなメッセージがなされる。この仕掛けがうまく機能していたのかは微妙かもしらん。

ロンドンでは現地を訪れていた他国の大統領が、コンサートホールで暗殺されんとしていた。本作のクライマックスは前後があり、その前半がここのシーンだ。大きなホールにめちゃくちゃ大人数の観客、オーケストラ、合唱が入っており、圧巻の人数だ。

加えて、舞台設定とか狙撃のシーンなんかは、いくつもマネされていそう。ベタだけど最近の映画としては『テネット』の冒頭シーンなんかが連想されましたね。

音楽がめちゃくちゃ重要な要素なんだよね

まずは、このコンサートホールで演奏されていた曲目についてだが、インターネットのありがたいことに、詳しく説明してくれている個人サイトがあった。原曲はオーストラリア出身の作曲家、アーサー・ベンジャミンの《cantata the storm clouds》という曲らしい。

もうひとつの重要な音楽が《ケ・セラ・セラ》で、この作品のために制作され、歌われていたことも知らなかったが、なるほどなぁ。ミュージカル映画の系譜はあまり分からないのだが、こういった要素の取り入れなのかね。ドリス・デイの歌いっぷりがまさしく歌姫のそれで、美しい。

この曲が、クライマックスの 2 つ目の山場で活躍するわけだ。

子供がまともに登場する

『ハリーの災難』でも登場する子供にそこそこの役割が与えられていたが、ヒッチコックのサスペンス作品に子供がまともに登場して扱われるのは初めてなんじゃないだろうか。見落としがあるかな? これも時代の流れなのか?

不幸中の幸いというか、誘拐された子供はそれなりに丁重に扱われるのだが、誘拐犯側の女性諜報員も少年に同情してしまって、逃がそうとするんだよね。そこで母と子の暗号として《ケ・セラ・セラ》が機能するのなんて、上手いね。大使館の夜会で歌うには場違いな曲だったのに、結局は皆が聞き入ってっているのもオツだった。

タイトルの「知りすぎていた男」というのは、主人公のベンのことなのか、殺されたルイ・ベルナールなのか、よく分からんよな。ベルナールは最初、暗殺チームをベンではないかと疑ったということだが、さすがに子連れで偵察になんて訪れないよな(笑。 こういうところもちょっと旧作っぽさがあるような気がする。

以下が音楽まわりの情報で参考になったページだ。

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ヒッチコックマラソンです。『ハリーの災難』《The Trouble with Harry》を観た。

あらすじを確認することを避けて鑑賞したが、のっけから異常な展開で笑ってしまった。映像としては冒頭のシーンがもっとも美しく感じらるといっても過言ではないのではないか。

観賞後に情報を拾い読みしたけど、一般的にはブラック・コメディとして分類される作品らしい。後半には、やや集中力が失速していって、全体としてはそこそこという印象に落ち着いたが、要所の描写などを思い返してみると、考えさせられる点がいくつかあり、それなりに興味深いなと思ったので、それらについて書いておく。

ブラック・コメディにしても登場人物の考え方や感性がややおかしい。異常といってもいいような気配すらする。ということで登場人物別にメモする。

ジェニファー

最初の夫が死んで、その兄である男-タイトルとなっているハリーだが-、と結婚し、それも死んだ。最初の夫の死因は明かされないが、次の夫の死因は心臓発作だ。最初の夫の死から、次の夫との結婚と死、作中でのサムからの求婚の受け入れと、怒涛の勢いだが、これってヒデェよな。ブラック・コメディだから許される設定じゃないよね、これは半分褒めてるけど。なので本作一、狂気を孕んでいるのは彼女だ。

死体に遭遇してしまった息子への態度も妙だし、なんなら同じ行為を 2 度もさせようなんていうのは完全に正気の沙汰ではない。黒すぎる。

アーニー

息子のアーニーも肝が据わっている。いや、やっぱり変なんだよな。一昔前の田舎だったら当たり前だったのかしらないけど、船長(アルバート)の狩ったウサギの両耳を担いではしゃいでいる画がもうキツい。サムの持ち込んだカエルと交換してもらうシーンもそれなりに怖いのだが、譲渡したはずのウサギをすぐに借りて(強奪だよ)、そのままマフィン 2 つと交換しにいく。自由奔放が過ぎる。

終盤で、バスタブに裸体で横たわっているハリーを確実に目撃しているはずだが、これもアーニーは軽くスルーする。気味が悪すぎる。

1950 年代のホラー映画のランキングなどをパッと眺めた限りなのだが、この時期はまだ子供が恐怖をもたらすタイプのホラー映画はあまりなさそうなんだけど、この映画のアーニーのようなイメージが、子供が恐怖の源泉となるホラーを生み出すきっかけになったのではないか、などと妄想してしまった。

ついでにメモしておくと、おそらく私が見てきたヒッチコック作品で子供がここまでちゃんと登場するのは初で、加えて次作の『知りすぎていた男』では、まるで真逆のように、まっとうな母親と子供が登場する。

サム

画家だ。まともな人間なのかちょっとネジが外れているのか分からないところがあるが、基本的には善人なようだ。上述のように、割と簡単にジェニーに惚れこんで、一晩でプロポーズまで済ませる。テンポが良すぎる。

この男がジェニーに何故惚れたのか。ジェニーのどこに魅力があったのか。ジェニーは彼女にまとわりつく男たちを次々と殺していくのではないかという恐怖がどうしても湧いてしまうね。ファム・ファタールだ。

私はこの男にも幸福は訪れそうにないように思える。コメディとは言うけど、なんというか全体的に不穏なんだよな-人が死んでいるのでそれはそうなのだけれども。

その他の登場人物

船長とアイビーはまだまともかな。船長に続いて、アイビーが登場した時点の彼女の態度で、話の半分くらいは予想できるんだよね。話がある程度まで進んだ時点で、埋めた死体を掘り返すというアイビーの意見は真っ当と言えばまっとうなのだが、別の視点が加わったら埋め戻すことにも簡単に同意するし、軸がねぇなぁ。このあたりはまぁ、コメディとして面白い。

グリーンボー医師も狂ってるけど、まぁ彼はいいや。読んでる本の内容などにはおそらく意味づけがなされているのだろうけれども。深入りしてはいけない。

ウィッグス親子は、この土地では最古の住人のように思えるが、なんとなく悲しい役どころなんだよね。カルヴィンのことを思うと、ツラくなる。このね、田舎なりの人間関係の粗密感というか、やりきれなさが潜んでいるのがね、そういう空恐ろしさが背後にあるんだよね。

『羅生門』っぽさないですか

インターネットでググる限りだと、ほとんど該当する指摘はなくて、「連想させられる」と書かれた記事は検索上位には何件かはあったが、これは私の勝手な思い込みなのか、どうなのか。

そもそも「ハリーの災難」の原作を知らないので、本作がどれくらい原作をトレースした結果なのかも不明だが、ややコメディ調に殺人の真相探しが進むのは、黒澤明の『羅生門』を完全に意識しているように感じた。

下記の参照した記事には、「この映画の宣伝のために、わざわざヒッチコックは来日した。」ともあったが、どれくらい確かな情報なのかは定かではない。

のちのち得られた事実があれば、追記しておきたい。

というわけで-も何もないんだけど、なんというか私は本作はブラック・コメディというよりは、ホラー映画に繋がるような不条理さを重点的に読み取ってしまったのであった。

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『ルーブル美術館の夜 ― ダ・ヴィンチ没後500年展』を鑑賞してきた。上映中の映画を漁ってたらたまたま眼に入って、一応、レオナルド・ダ・ヴィンチのファンではあるのだが、なんとなく見てきた。面白かったには面白かったが、映画としてみたときの全体のパフォーマンスとしてはどうかなぁ、と偉そうなことを文句をたれつつ、前半の終わりから中盤はウトウトと寝落ちしたので、中途半端な体験および感想となる。

2019 – 2020 年にフランスはルーブル美術館で開催された「レオナルド・ダ・ヴィンチ」展について、この展覧会のキュレーターであった 2 氏の解説付きで展示物を読み解いていくという内容だ。本展、準備段階から実施に至るまで 10 年以上の歳月を費やしたそうだ。大変なことだ。

美術館の閉館後、誰もいないフロアを贅沢に使って、専門家のやり取りを拝聴できるというところがウリなのだろうけれども、それが夜である必要がイマイチわからなかった。別にそこに期待しているわけでもないので、いいっちゃいいのだが。

冒頭とエンディングで、おそらくドローンによる美術館全体の空撮が、エントランスのガラスのピラミッドを中心として、「四分の三正面」を彷彿とさせる角度から写されていた。おそらく冒頭が閉館直後をイメージしており、エンディングはこれからまた開館する直前みたいなニュアンスなのかな。

作品を解説するにあたっては特別なカメラワークなどはほぼ取りようがないが、題材に入るときには、ぐるりと付近の壁面からなめるように回転させて作品を中央に収めていったり、といった工夫には気がついた。寝落ちせずに済んだ箇所についてのみだけれど…。

本劇中で扱われている作品は、上にリンクを張った公式ページに記載されているが、以下となる。

  • 《聖トマスの懐疑》(彫像、ヴェロッキオ)
  • 《受胎告知》
  • 《聖母と果物鉢》
  • 《猫のいる聖母子の素描》
  • 《ブノワの聖母》
  • 《荒野の聖ヒエロニムス》
  • 《岩窟の聖母(パリ版)》
  • 《音楽家の肖像》
  • 《ミラノの貴婦人の肖像》
  • 《最後の晩餐》
  • 《ほつれ髪の女》
  • 《洗礼者ヨハネ》
  • 《聖母子と聖アンナ》
  • 《モナ・リザ》

なお、展覧会には《モナ・リザ》そのものは収録されなかったらしい。というのも、企画展のフロアのキャパシティは 1 日で 2 万人程度を想定していたらしいが、ルーブル美術館の《モナ・リザ》を見にくる人たちは 日に 3 万人だとのことだった。なるほどねぇ。

解説の合い間にはところどころで館内の映像も映されるが、これといって面白いことはなかったかな。良くも悪くも普通だ。

一番不満だったのは音楽で、パッと耳にしてどの曲だと同定できるほどではないが、バロック音楽-おそらくバッハだったりが、割と多かった印象がある。これがよく分からない。同時代の画家を扱っているのであれば分かるのだが、ぜんぜん時代が全然違うよね。それであっていれば不満もないわけだが、合わせるための工夫があるのかないのか。

雰囲気で音を入れたというほどバカな話もないだろうけど、よく分からない。単純に、作品にあっているとは感じられなかったのが残念だった。エンドロールではスタンダードジャズみたいな音楽が流れていたけど、突然のジャズに困惑した。なんだか、これらの印象ばかりが残るなぁ。

ちなみに、後ほど他の方の感想を目にしたら、エンドロールで流れていたのはやはりバッハのパッサカリアのジャズ演奏だったらしい。なんならこういう演奏で全体をまとめてくれたほうがよっぽどマシだよ。

下書きから完成まで、新たな技法をどう生かすのか

1 番まともに鑑賞できたのは最後のほうの《聖母子と聖アンナ》だったのだが、これはデッサンや肖像画などと異なり、宗教画のカテゴリーに入るので、制作される対象は完全に画家のイマジネーション頼りになるわけだ。下書きと実際の作品の構図に異なりがあるのは、特にこの画家の場合は珍しくもないことだと思うが、つまるところ完成図が常に画家の脳内にしかない。

私には、なんなら下書きのほうがよい絵に見える。「下書き段階の方がよかった」なんてことはこの画家に限らず、絵描き一般によくあることだと思うが、それだけ初期段階の完成イメージのままに作品を作り上げることの難しさを物語っているのだろう。そのうえ、レオナルド・ダ・ヴィンチの場合は、新しい技法や画材などへの興味関心が尽きず、なかなか制作は進まないのであった。

というような話も過去に何度か見てきたが、今回あらためて腹落ちした。

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Twitter での評判から『AWAKE』を観てきた。いわゆる正月最後の休みの日の、最初の回であったので、2021 年の映画初めと言っていいのかな。いい映画だったが、その良さをどう自分の中で消化したらしたらいいのか、咀嚼の仕方に悩んでいる。

本作、2015 年にドワンゴの主催で行われた将棋のイベント「電脳戦」にて実際に行われた 阿久津主税八段×将棋AI「AWAKE」の試合の顛末や、開発者の方の背景をベースに制作された作品だ。監督の山田篤宏は、ニューヨーク大学で映画を学んだらしく、直近では乃木坂のプロモーション映画の制作などを務めたらしい。商業映画デビュー作とのこと。

作中では、同じ世代としてプロ棋士を目指した主人公の清田(吉沢亮)と浅川(若葉達也)、そしてその後、プロ棋士になれなかった清田とプロ棋士になって大活躍する浅川を対比しつつ、彼らを通して、将棋AI × プロ棋士 というテーマをぶつけてくる。

ついては 将棋AI のクセがひとつのカギとなっていて、2015 年当時、いわゆる「ハメ手」が決まれば将棋AI の対戦相手は、ほぼ勝ちを確定できる。そこで本作では、プロ棋士がハメ手を使うのか? いわば姑息な手段に出てまで勝利をもぎ取りにくるのか? あるいは、将棋AI はそこまでプロ棋士を追い詰めたのか? というところが醍醐味になってくる。

それぞれの主要人物たちの情熱がうまく表現されつつ、全体としては-テーマが将棋なのでこのように扱われて然るべしというニュアンスも兼ねて-、落ち着いた雰囲気を貫いていた点が好印象だった。

それぞれの登場人物の好きなシーン

なんというか、主要キャラクターたちの好きだったシーンを挙げておきたい。

清田

すばらしかった。吉沢亮、名前は知っていたけどあんまり演技はみたことなくて、今回初めてちゃんとみたんだけど、上手いっすね。私が本作で 1 番好きだったのは、警察署から引き取られて父親の運転する車の後部座席で横になったときの演技で、カメラとの距離も絶妙ながら、ちゃんと父親に謝って感謝して、薄っすら伸びた髭と疲れがうまく滲んでいた。

浅川

登場シーン自体はそこまで多くもないのかな。AWAKE との対局が決まってからの苦悩がメインディッシュな感じがしますが、棋神戦で優勢をひっくり返されて負けたあとに盤の前でひとり反省会しているシーンが良かったですね。あれは何というか、トップで活躍してる彼も余裕綽々ではなくて、結局のところ負けたくないという強い勝負心を維持しているからこそあの席に座っていられるというニュアンスと、来る対 AI 戦においてもその戦意に変わりはないということの布石でもあった。

若葉達也、『愛がなんだ』でヘタレ写真家の役をやっていて初めて見たんだが(この作品でもちょい役だったけど光ってたな)、今回はちょっと優等生役ということで、やっぱりよかった。2021 年の 4 月頃には初主演の『街の上で』が上映されるらしいので、ちょっと楽しみだ。

磯野

清田の大学の先輩で人工知能研究会の仲間だね。いいキャラでバランスが取れている。変態キャラだと思いきや(実際にはそうなのだけれども)、清田の変態性、もとい情熱におされてしっかりしたサポーターになってしまっているあたりが実にいい男だ。

彼がもっとも輝いたなと私が感じたシーンは、欠点の判明した AWAKE の改修を猛烈に訴える清田を抑え込むシーンだね。あそこはよかった。

社交性がない清田が、磯野と祝杯をあげにいったり、「お前、女の子に興味なかっただろ」みたいなやり取りを交わしたり、そういうシーンがいちいち心に染みる。磯野君は本作の潤滑油なんだよなぁ。

その他のことなど

現実の出来事をうまくいい話に落とし込んだ脚本になっているという点は、ある意味では拒否感を抱く人も少なくないのかなという感想はもった。実際のところ、2015 年の電脳戦の子の様子は、さまざまな意見が飛び交ったようだし、映画みたいに一見して清らかな終わり方ではない。まぁ、フィクションなんて喜劇も悲劇もそんなもんなんだけどさ。この辺の距離感って、難しいよね。いくつか関連するページを読んだけど、キリがないのでここには載せない。

ロケ地。関東近郊が多かったようだ。棋神戦の舞台となった古いお屋敷が気になったのだが、どうやら群馬県は前橋市の「臨江閣」というお屋敷らしい。重要文化財だが、明治期に群馬県の迎賓館として建造された近代和建築ということらしい。室内が部分的に映されただけだったが、きれいだったね。

音楽。前半の清田と浅川の奨励会時代はほとんど BGM らしい音楽は流れないのだけれど、後半のいわば本題に入ってからはちょっとずつ音楽の効果が強くなっていった感じがした。こだわりを感じたね。

いろいろと感じるところもないではないが、前向きな清田の姿勢というのは、好きだった対象と正面切って向き合うことを諦めざるを得なくても、そこに関わっていくにはいくつもの道があるということを示してくれたというのはあったかもしらん。

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ヒッチコックマラソンです。『泥棒成金』《To Catch a Thief》を観た。感情に任せて言えば、現時点で『三十九夜』を超えるマイ・ベストかもしれない。某 SNS であまり評価が良くなかったのでちょっとビビっているのだが、このおもしろさに悦びを隠せない。

どのシーンも面白くて見入り、ドキドキしたり、ケタケタ笑ったりした。あらすじを書き並べる感想は書かないようにしてるが、この作品については、そのように書く。

冒頭、気色悪い顔色をした女性の絶叫で、まずビビる。なんだこれ、とても恐ろしいものを見せられたな、となる。直後、鈍く緑に光る屋根瓦を黒猫が行き来し、物語が提示される。残念ながらあらすじを読んでいるので、この黒猫が「キャット」なる宝石泥棒を意味することは事前にわかっているが、それでも-だからこそか-面白い。

本編、まず登場するは、優雅でのんびりとした斜面で畑をいじる男は元キャットである。そこに早速お巡りさんが来る。男、屋根へ逃げる。屋根に上る必要あった? 画がキマってる。カッコいい。そしたらすぐさまカーチェースが始まって、ヘリコプターによる空撮が披露される。のどかで風光明媚なフランスの田舎道を駆ける2台の車が映える。本気だなぁ、いいなぁと思った矢先、おい、なんだなんだ、逃げたのは囮じゃん。ウケる。

男は裏側でバスに乗車し、レストランへ、そこからベニスへ逃げる。ベニスに向かう船上で、かつての仲間の組織の娘とのやりとりまでを通して、主人公の背景の事情が色々と察せられる仕組みになっているが、クライマックスまで見てから振り返ると、この辺の人間関係やその顛末がほろ苦いね…。

花市場での密会、追跡、乱闘までの流れもサンペンスっぽさもほどほどに、オチとしては婆さんの強さには敵わずに-もちろん男は手加減している-、素直にお縄にかかるというコメディのような退場劇で笑わせてくれる。この辺で、本作の風合いが馴染んでくる仕組みなのかなぁ。

密会相手だった保険屋も最後までよく付き合った、乗り切ったなという感じだが、花市場の次のシーンでの会食もやたらと面白い。強いメイドの美味しい料理、僕も食べたいです。ところで、んー? 最後までみて湧いた疑問だが、保険屋のひとは真犯人のことはわかってたのか? そんなことはないか? んまぁ、いいや。

さて男、ターゲットのアメリカ人親子に近づこうというのだが、このとき、ジョーは親子のお母さんからの評価を、上げて落として上げる。このジェットコースター加減も、その見せ方も面白い。このお母さん本人に対するの評価-作中での魅力も-転結があるんだよねぇ、本当にいいです。本作ではこのお母さんが最高に好き。面白すぎる。

仲良くなる前に去り際に娘からのキス。んー、なんじゃこれは!? おぅ、海水浴に行くことになったんすか。ここで娘の美しさがエグいっていう描写が入るんだけどもこれも過剰なくらいで、完全にギャグなんだよね、ジョーは引いちゃってる。ジョーは終始ひけちゃってるんですよね。ここもポイントだよね。

直後の海水浴のシーンも大好きなんだけど、伝令役として組織の娘が来る。ちょい沖にある浮き場でちょっとした諍い。参戦する娘、痴話喧嘩が始まる。「なんてステキな太陽だ」と空を仰ぐジョーが面白すぎる。パンツ掴まれるし、大爆笑するしかない。

一転、緊迫したカーチェースである。『断崖』を彷彿とさせられたが、撮影のテクニックも伴った緊迫感も全然レベルアップしており、同じ監督の作品を続けて見てきた甲斐というものを感じざるを得ない。ここ、監督の作品という意味では本当に面白くて、女性の方が肝が据わってるみたいな見方もできる。ところで、ギャグはやはり大切で、刑事さんたちも事故ったものの無事でよかった。やっぱり笑える。

ピクニックのシーンは久々にシリアス味が帰ってきたが、謎のロマンス成分も加味されて、なんともいえない絶妙な雰囲気だ。一方で私は、彼らがチキンを齧ってるふりをして全然食べてないことの方が気になった。これはそういう演技なのか、それとも本当に食べなくてもいいやという謂わば雑な演技なのか、どっちなんだい? どっちもなのかな、こういうメタ部分でも笑える。

夜の花火のシーンもいいよねぇ、普通に良い。室内に射し込む光の加減がよい。美しいなぁ、楽しいなぁ。私は娘がソファーに腰掛けるまで、彼女の首元にある宝石に気がつかなかったし、実はそれは偽物らしいという展開に「くそーっ」ってなった。この一連のシーンは終わり方も綺麗なんだよなぁ。

一転、事件です。また人間関係が捩れる。お母さんが最高で、ここでジョーも簡単に素性を明かすのが面白いんだよね。お互いに人間としての度量をちゃんと測り切って、ジョーが腹を見せるには最低限度の信頼関係が築かれているんだよね。もう、お母さんの株はここからエンディングまでストップ高ですよ。マジで面白いから、マジで。

娘、娘の疑いは晴れやまず。一方の娘は葬式でキレ散らかすのだが、それをジョーはビンタするんだ。ふむふむ、これもクライマックスまで見た後だと、ニュアンスがハッキリする。「俺が面倒を見る」と明言するくらいには彼女のことを想っていて、愛していたんだよなぁ。悲しいなぁ。この時点で手を引けとも言っているニュアンスもあるのかな。

仮装舞踏会もなぁ、参加者たちはお洒落な恰好しているのに、みんな葉巻やパイプをスパスパやってて笑えるし、お母さんはやっぱり最高だし、宴会の終盤はもう乱痴気パーティーの後始末かみたいな画面が映される。つくづくギャグです。なんだけど、次のカットでは優雅な音楽に合わせて姫と黒マスクの男がしっとりと踊ってるんすよ。なんで従者と踊るんだよ、でもきれいなシーンなんだよね。落差で笑うわ。

すると、ここでね、突然音楽が止まって演奏者たちが退場し、カップルも退場する。最後には庭にいた刑事らが集合して、彼らも居館に戻っていくのだが、ここのシーンは手前の柱 3 本が 2 対 1 くらいの間隔で配置され、画面に間が置かれている。これがとっても舞台っぽいんだが、幕が変わって最終幕になることを意味付けているんだろうな。そういう画面作りだ。面白いんだよ。勘弁してくれよ。このシーンが 1 番好きかもしれない。

お母さんは深酒の結果なのか、衣装もそのままに寝こけている。やっぱり最高だ。

冒頭と同じ緑に光る屋根。いいぞ、いいぞ。真犯人とジョーの追いかけっこ、それを照らすマヌケな刑事たち、見守る娘と保険屋、一堂に会している。娘が愛していたのは、父だった。それ以外は要らなかった。いや、ジョーのことは愛していたのだ。だからこそ、彼らの結末はこのような苦いことになったのだ。

でも大丈夫。この作品はお母さんがちゃんと面白く終わりにしてくれた。

まじめな感想としては、以下の記事などが参考になりました。

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年末、なにかと絶賛されている『燃ゆる女の肖像』を観てきた。なんならこの作品が 2020 年の劇場での映画納めだった。フランス映画かな。原題は《Portrait de la jeune fille en feu》、英題は《Portrait of a Lady on Fire》だ。

あまりによくできた映画だ。言及したいポイントも尽きないが、私としては、エロイーズの表情の変化が本作の全体を支えていたなぁ、としみじみ思う。というわけで、キャストに興味が湧き、 Wikipedia などを読んだ。以下の部分は、ほぼそのまとめなので、特別な内容はない。

監督のセリーヌ・シアマは 1978 年生まれのイタリア系フランス人だそうだ。過去の作品は未見だが、エロイーズ役のアデル・エネルは監督の第 1 作『水の中のつぼみ』に出演しており、この作品でフランス国内の有望若手女優賞を受賞した経緯がある。これが 2007 年だ。

ついては本作では、アデル・エネルの配役が最初に決定したらしいので、少なくともキャストについては彼女の存在、演技が作品のイメージを決めることが想定されていたのだろう。

で、そんなことを思いながらここまで書いて、幾つかの記事を読んだら、セリーヌ・シアマとアデル・エネルは私生活でもパートナーだったらしい。おぅ、それはそれは、決定的に重要なファクターじゃないですか。監督へのインタビューでは以下のような発言も目にした。

アデルが私の「ミューズ」であるという概念に終止符を打ち、互いの創造性によって作り上げる作業が、映画作りの核にあったと思います。私たちはお互いに刺激を与える協力者という関係です。

https://www.elle.com/jp/culture/movie-tv/a34855511/cfea-cinema-active-celine-sciamma-20-1204/

そのアデル・エネルは 1989 年生まれの 31 歳であるのに対し、もう片方の主役となるマリアンヌ役のノエミ・メルランは 1988 年生まれの 32 歳だ。設定上、18世紀のフランス貴族で嫁入り前の娘の役をするには実年齢が大きくかけ離れているように思えるが、別にこれは珍しくもないことだろうな。ただ一応、マリアンヌのほうが実年齢が上でよかったなと個人的には…。

作品の外側の問題と作品そのもの、作品内でのアレやコレを一緒くたにしてはいけないけれど、これは流石に見落とせないポイントであるなぁ、しかし。安易に捉えてはいけないけれど、構図としてはマリアンヌがエロイーズに焦がれた状況は、セリーヌ監督にとってのアデルの存在を重ねることができてしまう。

状況を支配したのは誰か

まず、この点が気になった。エロイーズは生活の定まった修道院生活から解放され、逆に母親から幽閉されることとなり、知らずのうちに婚姻用の画題にされている。一見すると、というか冷静に考えても、彼女は可哀想な立ち位置にいる。

それは事実として、だが、よくよく展開を追うと、どうみても画家のマリアンヌよりもエロイーズのほうが賢く、口が立ち、彼らを取り巻く世界を現実的かつ忠実に捉えていて、物語の主導権を握っていることが分かる。

逆に、これは或る意味であるべき展開なり結果なりであって、つまり芸術家が対象に魅了されてこそ作品の制作は、その完成度を押し上げる。結果として、マリアンヌはエロイーズを描くことに成功した。という構図になっている。

マリアンヌは何に魅了されたか

中盤くらいまでエロイーズはほとんど不機嫌なんだよね。笑顔を見せない。だから、マリアンヌも彼女を描けない。仕事の目的を達成するためには彼女の笑顔を引き出す必要があったが、それってエロイーズを理解することに他ならないし、じゃぁエロイーズを理解するってどういうこと? となる。

「キスしたくなったのはどのタイミングだったか」という問いが交換されていて非常にエロチックだったが、回答された「そのタイミング」は割と曖昧だったと思う。

先程のエロイーズの強さは、メイドのソフィーの顛末でのあのタイミングで頂点に達してたと画面を眺めていた視聴者としては私は実感した。だので、私は「あのタイミング」こそがエロイーズがマリアンヌを落とした瞬間だったと感じる。イヤだねぇ、そんなことどうでもいいよね。

エロイーズの容貌と瞳は

作品全体で平均するとマリアンヌの瞳が一番美しく映っていた。だが、あるシーンではたしかにエロイーズの瞳が爆発的に美しかった。普段は、やや青みがかかった小さめの瞳に見えるのだが、あのシーンだけは彼女の瞳は大きく漆黒の美しさがあった。どうやって撮ってるのかなぁ。

あとこれは、もちろんアデル・エネルの演技力の賜物なのだろうが、化粧もうまく意図されてコントロールされているのだなと感じる。エロイーズは、ときとして少女のようだが、ときとして疲れ果てた-それこそ俳優の実年齢なりの-女性の素顔にも見えたのだ。

これも調子に乗って勇んで言えば、本作中でエロイーズは永遠をそこに秘めているワケで、つまりマリアンヌにとってエロイーズは庇護の対象でもあるが、同時にエロイーズこそが彼女の救いにもなっていった。作中でさまざまな表情で魅せる彼女に、マリアンヌは捕らわれている。

詩人は永遠を脱せたのか

オルフェ神話を扱ったシーンとその扱いも絶妙だったね。彼女は「オルフェは詩人でいたかったから振り返った」という。もう一方の彼女は「妻が振り向いてと言ったのではないか」という。そもそもの視点が違うのだ。

結末でマリアンヌが発見したエロイーズは、子供を産み、それなりに老けこんでいた。だがそれでもマリアンヌは彼女を愛している。少なくとも彼女の愛は、エロイーズを作品にしたことで、それを永遠性のなかに閉じ込めた。

一方のエロイーズは絵画のなかでこそマリアンヌへの愛を確かに示すが、現実はそうはいかない。決して彼女を振り返らず、ただ思い出に浸って、思い出の藝術を鑑賞し、そのなかで喜怒哀楽を消費し、思いを昇華させていただけだった。

疑問はひとつあって、オープニングで登場したマリアンヌの作品、これは島での体験を統合して描いた作品だと思うが、タイトルでもある。この作品は、おそらくマリアンヌがエロイーズを思い出に昇華しようとして描かれた。だから女は燃えている。

その他のことなど

まず、作中の基本設定として、これも個人的な見解だが、エロイーズは作中の世界観では一般的にいって美しくないタイプの容貌なのだろう。母親もそう思っていない。母親とマリアンヌが昼の居間で、なにやら語らうシーンがあったが、それがこのことを暗示しているようにしか思えない。

それでも、エロイーズは美しい。そういう瞬間を愛する人は求めている。エロイーズがマリアンヌに最初に笑顔を見せるのが寝ているときというのもよかった。そしてそれが、実は半ば覚醒してたっぽいのも彼女らしい憎たらしさがあった。

次に、最初の画家についてだが、少なくとも画家としての技量はマリアンヌよりもあったのではないか。未完成の作品に彼女が火をかけたのには、その辺の理由がある気がする。皮肉にもというか、ここにもタイトルが掛かってしまっている。が、これは意図しているわけではない、のかな。

最後に、海と色遣いについて。マリアンヌは赤い衣装をまとっている。エロイーズは濃い青、または絵になるときは緑のドレスになる。ソフィーはだいたい白い。まぁだいたい想像しやすいイメージにあった配色なんだけど、これがキレイな海とよく調和していた。むしろ、海の美しさが際立っていた。

また、最近読んだ本によると、中世以降においては緑の服は「恋煩い」、青の服は「貞節」を意味していたらしいので、その辺は忠実に充てられているのだろう(追記:2021-01-12)

決意したソフィーを砂浜で走らせているとき、あの構図が怖かったよね。あのときはマリアンヌもエロイーズも黒っぽくなっていて、ちょっとビックリしたんだよな。18 世紀後半のフランスで、ヴィヴァルディを聴いて泣くエンディングがエモ過ぎて泣く。

自分なりに咀嚼するのに参考になったのは以下のサイトなど。

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ヒッチコックマラソンです。『裏窓』《Rear Window》を観た。

まず、よくわからないのがタイトルで、単純に「裏窓」とはおそらく住居、建築物の正面に位置しない窓を指すのだろう。今作、舞台となっているのはおそらく大通りに面していない、謂わば中庭のようなエリアに面した部屋たちが舞台で、そこに覗く窓たちが主役と言ってもいい。これらを指して裏窓としてよさそうだが、人々の生活を覗く主人公自身であるジェフリーズを、あるいはそこで垣間見える悲喜劇を指しているとも言えそう。

次にだが、どうもサスペンスというよりは男女のサガというか、そういった構図を映し出していることが気になってしまった。『ダイヤルMを廻せ』でもそうだったので個人的には視点を変えてみたいけれども、やはりこの辺は完全にテーマのなのかなぁ。となると、サスペンスはサブテーマのようにすら思えてしまう。

つまるところ、窓から覗けるほとんどすべての人間関係は男女関係に収斂している。

1 組ずつ挙げていくと、まずは左隣の窓のパートナー。序盤はとても幸せそうで新婚ほやほやだ。彼らの様子の描写は 1 番少ないし、本筋の展開とも最も関係しない。この 2 人の関係は途中から少しずつ雲行きが怪しくなってくるのがユニークで、最後は「こんなことなら結婚しなかった」と女性の罵りすら聞こえてくる。なんなら主人公のカップルの未来像としては 1 番近くもある。悩ましい。

2 組目、右手上階のピアニストと正面 1 階のミス・ロンリー、この 2 人がくっつくとは私は予想できなかったし、なんだか夢のようだが、出会いというのは夢なんだよな、これでいいんだよな、ロマンチックだ…。ミス・ロンリーは失意の人で、これはパートナー探しに恵まれていない結果が続いていることを示しているが、一方のピアニストの彼は何なんだろうね。パーティーとか友だちとかは多いようだが、彼にも 1 度も明確なパートナーは描かれなかった。繰り返しになるが、出会いっていうものを表しているのかな。

3 組目、正面左のアパートの踊り子は独り身のようで、仕事仲間や付き合いがあるのだろうか、幾人かの男を部屋に招いたりはしていたが、エンディングでは兵役帰りの彼氏が帰ってきたようだ。短いシーンだが、踊り子の方が彼に溺愛しているようには見えた。幼馴染だろうか、彼の方が年下のような描写もあったが判別できなかった。たしかに、こういうカップルもカップル像としては典型だろう。踊り子としての出世と彼氏との幸せを天秤にかける日が来るのか、来ないのか。

4 組目、正面 3 階の夫婦はベランダで寝起きしている奇矯な夫婦だ。それでも理由があって、なぜなら本作、めちゃくちゃ暑いのだ。他人の生活を覗き放題という無茶な舞台設定も、この設定を担保にしている。この強引さは嫌いじゃない。話を戻すが、この夫婦の振る舞いなどは、完全に戯画的というか、コメディ部分なんですよね。とはいえ、悲喜劇のある部分を一手に引き受けている貴重な存在でもある。

さて、問題の正面は 2 階の部屋。夫:ソーワルドは営業寄りのビジネスパーソンであるらしい。一方の妻は病気がちらしい。 2 人の仲がそこまでよくないことは、序盤から暗示されていた。そこである晩、女の悲鳴が響く。翌朝から病気の妻の姿が見えない。さてどうなる? ここでは、本筋については触れない。

結局、事件の深夜に夫と外に出て行った女性は誰だったのか。それは明かされないし、本筋としてはどうでもいいのだろうが、描かれていない背景を想像する余地でもある。結論としては、おそらく犯人の男、ソーワルドには愛人がいたのだ。そう理解するのがおそらくもっともシンプルではないか。

と、ここまで書いてちょっと調べたら、序盤あたりでソーワルドが電話していた相手は愛人だったという話を目にした。確かめないけれど、そうであれば尚更、邪魔になった妻を処分してしまって、生活をやり直そうとしたソーワルドという構図が成り立ちやすいのかな。なお、以下の掲示板への投稿にあった。

さて、さまざまなパートナー関係が描かれるが、主人公のジェフリーズと彼女リザの関係はどうなったのか。リザがただのお嬢様じゃないことは終盤の描写で強調され、最後のシーンではむしろ彼女の方が主役だったのではくらいの表現を感じた。

過去作にも女性の方が活躍するパターンは多かったが、この作品のリザは、危険な仕事に従事する男のパートナーになるという意思、その前提が明確なのでその分だけ新鮮だ。また、前作の『ダイヤルMを廻せ』と比べておくと、今作は世界中を駆け回る男に付いていくことを躊躇わない女という意味で、パートナー像が真逆になっている。

美術とか衣装まわりに言及しておく。クライマックスの大捕り物でリザの纏っていたワンピースがきれいだった。てか、衣装に関してはそれだけ。画面を構成するジェフリーズの部屋、そこから臨める景色はすべてがスタジオセットである。まぁ、こんな都合のいい環境が見つかるはずもないし、不自然なので流石に気がつく。

とはいえ、正面のビルは 4 階以上もありそうだ。ちょっとセットの大きさが想像しづらい。インターネットは便利なのでさまざまな情報を提供してくれる。以下のページなんかを見ると、全容がなんとなく窺える。直接見学してみたかったものだ。

あとまぁ、なんか珍しく学術系の論考が引っかかったので、読んでみるかな。成城大学の映画学の先生、木村建哉「古典的ハリウッド映画における不自然な「自然さ」:ヒッチコック『裏窓』(1954年)の冒頭場面を例として」の論考が PDF で転がっていた。冒頭をざっと眺めたけど、内容はおもしろそうだ。

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年を越して継続中のヒッチコックマラソン、全作品を見る意図はないものの、視聴ハードルが低い作品は見たい、という基準でやってきたがようやくゴールが見えてきた気がする。というわけで『ダイヤルMを廻せ』《Dial M for Murder》を見た。

はっきり言って主人公、言うなれば『汚名』と同じように悪役側に、多少なりとも同情しがちになってしまうストーリーだった。それは勿論、そういう計算のもとに作られているのだろう。本作はサスペンスだし、それはそれとして面白いのだが、犯人の夫と被害者の妻の愛憎の関係にどうしても気が向いてしまう。

資産家であるマーゴは、元花形テニスプレイヤーで世界中を駆け回っていたトニーに対し、寂しさからだっけか引退を頼み、実現した。引退後のトニーは、スポーツ用品の商いをしているという。それでも徐々に 2 人はすれ違いが大きくなっていったらしく、ある日トニーは、新しいパートナー候補であるマークと、マーゴが幸せそうにスパゲティを作っている、つまり彼女の浮気現場を目撃してしまったらしい。

こんな悲劇ありますか? この時点で、殺人よりもよっぽどの悲劇だよ。そりゃ仕事を変えたらトニーだって変わらざるを得ないさ。自分からそれを望んでおいて「彼は変わってしまった」と繰り返すマーゴのどこに同情の余地がある? そう思いませんか? とまぁ、こういう構造になっている。

そもそも間男であるマーク:推理小説家も一応は重要な役割を果たすが、なんというかパッとしない。これも冒頭では彼が活躍するんだろうなと思わせておくための伏線なんだろうか。だが、マークはどちらかというと滑稽なんだよな。

一方、ヒッチコックの作品にしては刑事が珍しく優秀だ。役者のジョン・ウィリアムズは、本作の他、『パラダイン夫人の恋』『泥棒成金』に登場している。名脇役といってはそれまでだが、最後のワンピースを埋めてくれる俳優っていう感じがする。

展開はいつも通りと言ってはなんだが、ギリギリまでトニーがやり過ごせるかにかかっており、まぁ失敗するのだが、やっぱりというか上手いよね。最後に刑事が窓からトニーの行方を観察するシーンがあるのだが、そのトニーの最後の逡巡がいい。

ここ、ほぼ窓越しにトニーを眺める構図なのでほぼ無音となっており、トニーの動きにすべてが掛かっている。うまいんだよなぁ、なぜドアが開かないのか、カギが違っているのではないか、頭を巡らせ気がつき、迷い、それでも再度確認に戻る。このシーンが 1 番心に残っている。

次いで言えば、本作は舞台っぽいのかな。作中で登場するシーンはほとんどがトニー&マーゴ宅なのだよね。カメラの向きも入口のドアを正面から映した方向が大半を占めるかな。ドアとカギが作品の問題点、ヒッチコック流に言えばマクガフィンなのかな、これ。だから、ドアが主役なもんで、とにかくここを中心に映すのだろうね。

また、私は酒と酒瓶の扱いが気になった。序盤にマーゴとマークが室内でいちゃついているシーンがあるのだが、あるカットで並んだ酒瓶が画面下に入っている。最初はこれは、入り口のドア脇にあるトニーがよく利用している酒瓶たちと同じだと思ったが、別のものだ。入口ドアの奥にある。最初のシーン遺構はほとんど映らない。 2 人はこの棚から選んで酒を飲んでいたようだ。

クライマックスの最後で、観念したトニーはドア脇にある棚から 2 人に酒を勧めて、2 人もなんとなくそれを受け取っちゃうんだよね。なんかもうこれは、ある意味でトニーの勝利なんじゃないでしょうかとすら思っちゃうよね。彼の掌の上で 2 人は十分に踊り切ったという。というわけでちょっとトニーを応援したくなるというほろ苦いサスペンスだった。

ところで、花形テニスプレイヤーと資産家の娘が結婚する、というベースの設定は『見知らぬ乗客』とも微妙に重なるところがある。この 2 作品に限らず、なんというか別の作品のある要素を取り入れているケースが多いように思うが、これは省力化のためなのか、単純にそういうクセがあるのか。ヒッチコック廻りの知見として、定まった見解はあるのかね。

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HA-FX100T を購入するまでの経緯を記した日記のような内容なので、性能の詳細や見やすい比較などはないけど、自分で比較した機種と経緯については述べてるので、その辺は参考になるかもしれない。

以前、このブログでも記事にしたが、完全ワイヤレスイヤホン(TWS)の Nuarl の「NT01AX」を購入して使っていた。だが、手元の Android 端末とたまに相性が悪く、稀に接続がうまくいかないことがあった。一方で、同じく手元の iPad との相性はそこそこよく、こうなると専ら iPad で使う機会が増えてしまったのであった。

結果として外出先などのスキマ時間で音を聴く機会を失っていった。一方で、ここ最近は再び、スキマ時間を音を聞くことに使いたい、カバーしたいという欲求が高まっていた。こうして、最新の TWS 事情を少しずつ調査していくことになった。

メーカーには特にこだわりはなく、ただし Nuarl を繰り返すつもりはなく、予算が許せば Sennheiserの MOMENTUM シリーズでも試したかったが、まず高価だし、こちらは初の製品の評判があまりよくなかったので、選択肢からは遠のいた。ひとつの目安としては、15,000 円前後の製品を探した。

ag TWS04K

有名なイヤフォンメーカー Final 傘下の TWS ブランドらしい。知らなかった。いろいろと情報を漁っているときによさげなブログで紹介されていたので興味を持った。「よさげさ」が割とポイントが高いが、実際に使っても悪くなさそうなイメージは未だに持っている。

もちろん音はいいのだろうが、最大の強みはバッテリーにもなる大容量のケースか。ケース込みで 180 時間という継戦能力はヤバい。防水性は IPX 4 相当で充分だし、ノイズキャンセリング(NC)も別にいらない。

ところが、よくよく調べると、ほぼ同価格でダブルダイナミックドライバ搭載のシリーズがあるらしく、eイヤホンの店頭限定商品購入らしい。下位機種の TWS03R などは店頭でも目にするが、そもそも最初の目的の TWS04K も店頭では販売していない。まぁ別にいいのだが。

ここらへんで自分の中の軸がぶれたというか、本製品を購入する気で数日を過ごしていたのだが、音優先かバッテリー優先かどちらを取ればいいのか分からなくなり、気持ちが小さくなっていったのだった。

JBL LIVE FREE NC+ TWS

同時期に、GIZMODO が強くプッシュした以下の記事を読んだ。同時に 2 機種が発売されており、普段使いが目的なら「LIVE FREE NC+ TWS」、ちょっとばかりちゃんと使いたいなら「CLUB PRO+ TWS」を選ぼうという主旨らしい。

前者が 15,000 円、後者が 20,000 円ほどで、防水性は IPX7相当、IPX4相当。NC は両方に搭載だが機能性に差がある、などなどとなっている。普通に考えれば前者を買えばよいが、より良い音だというなら「なんなら後者を使いたいじゃん」となって、これも結局は自分の中で軸が定まらない。まぁ、後者は予算オーバーだけども。そういった理由でモヤモヤしていた。

もうひとつ悩みがある。或る方も同じ趣旨のツイートをしていたが、調べていた時点で LIVE FREE NC+ TWS の情報が公式とメディア以外にほとんど情報がない。レビューらしきコンテンツが、普通のツイートですら調べた時点でほぼなかった。自分で考えて、試して満足できそうなら買えばいいのだが、やはり二の足を踏む。なお、CLUB PRO+ TWS についてはツイートをみたが、あまりポジティブな内容ではなかった。ここでは触れない。

JVC のあれこれ

先の或る方のツイートで登場していたのが「JVC HA-A50T-B」で、 10,000 円ほどのデバイスだが、NC 込みで使いやすそう。この製品によって JBL の LIVE FREE NC+ TWS が日陰者になったのではないかという指摘だ。JVC は、皮肉なことに今回購入したデバイス Victor の会社だ。普段はなぜか手が伸びない。なぜだろうか。というわけで、ここでは、名前だけあげたが、特に触れることもない。

Victor HA-FX100T

あーだこーだと色々と理由をつけては、悩んでいたなかで彗星のように、このデバイスが目に入った。なんでだっけ? 価格コムを見てたんだっけかな。詳しくないが Victor が単独ではなくなり、Victor 名義では一般向けの商品、デバイスはほぼなくなったことは知っていたので、なんじゃこれ? とはなった。

少し調べると評判もよく、なにより余計な選択肢が少ない。予算内で最低限の機能が揃っている。音の特長はクセがなくてクリア、音に広がりがあり、きれいに響く。

年末によい買い物ができました、とさ。

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スウェーデンの映画『ホモ・サピエンスの涙』を観た。行ける範囲の上映作品をザッピングしていたら、即座にシャガールだと判ぜられたポスターに魅せられて、即座に予約した。内容も何も、まったく確認していない段階だ。年内で国内での上映はほぼ終了で、ギリギリ滑り込みできたのも幸運だった。

原題は《Om det oändliga》、英題は《About Endlessness》となっており、素直だ。たしかに、流石にこれは原題をそのままに『永遠性について』としては客も入らなかろう。監督のロイ・アンダーソン自身も半ば冗談めいて「私、トマトのほうがいい」のほうが客ウケがよかったろうとインタビューで語っている。

全 32 のシーンがワンカット、固定されたアングル内での小さな情景が映される。すべてのシーンに関連性があるわけでもなく-関連するシーンもある、時代なども一致しないようだ。これだけ読むと割と退屈な体験になりそうだが、想像力を刺激するには十分すぎるほどまで細部まで巧妙に作り込まれた画面に惹き込まれて止まない。あっという間の 76 分間だった。

時間を割ると、1 シーンは平均して 2 分強ほど充てられている計算になる。2 分間ほど、画面に向かって立つ男のモノローグだったり、心がポカポカするちょっとした情景だったり、シュールなコントのようなやり取り、悲劇的な状況などが目に入ってくる。それを味わう。

女性のナレーションが端的に説明を付す場合がほとんどだが、そうでないシーンもなくはなかったかな。それにも意味はあるだろうけれども。そういったことを解釈するのも楽しい。

鑑賞中にそれぞれのシーンを回想しつつ、進むにしたがって次第に順序や内容を頭の中では整理しきれなくなり、忘れたり、あいまいになったり、混ざり合あったり、それらが本作全体の体験となる。鑑賞の翌日にひとつひとつのシーンを記憶から引っ張り出したら、なんとかすべて思い出せたようで、思わず購入したパンフレットと答え合わせを楽しんだ。各シーンの感想は後述した。

なお、全 32 シーンと書いたが、日本語の公式ページなどには「33」となっている。だが、自分の記憶と照らし合わせながらパンフレットの記述(明確ではない)を確認すると 32 で、海外のメディアの記事にも「32」となっている。数え方のズレが発生してなければ、こっちが正しそうなのだが、どうか。

アート映画をどう楽しめというのか

高尚そうな映画の雑多な総称を「アート系」というかと理解していたが、ひとつの形式としての「アート映画」は定義があるらしい。本作も厳密にいえば「アート映画」なのかな。

本作の個別の楽しみ方としては、やはり入念に作り込まれた画面、小話をどれだけ楽しく眺めるかに掛かっている。もちろん無心で楽しめるなら越したことはないが、私はたとえば、 2 つ目のシーンでの仕掛けに気がついてから俄然、楽しくなってきた。以下のような感じだ。

画面に向かってつまらんモノローグを吐く男がいる。BGM には女性のコーラスが流れてくる。はじめは劇伴として楽曲が挿し込まれていると思っていた。ところがこれは、あくまで画面内の音だった。立つ男の右側にみえるビルで合唱の練習をしていると思しき女性たちの奏でる歌声なのだった。非常に小さくしか見えないが、確かにいる! 歌ってるっぽい! BGM ではなくて描写された画面内で流れる自然な音として表現されているというわけで、まぁ手の込んでいることだなぁ(笑。

という感じで、それぞれのシーンを楽しんだ。ほかにも楽しみ方はあるはずで、アハ体験や騙し絵、間違い探しのような感覚で目を凝らしてもよいだろうし、別々のシーンになにかしら関連性がないか探してもいいと思うし、わずかに語られる画面と台詞で勝手に前後の物語を想像してもいい。それこそすべてを諦めて、ボーっと眺めるのも楽しかろう。そのまま寝てもよさそう。

ところで、ふと目にしたある感想で「美術館に展示されていればいい」とも言われていたが、私はこれは否定したい。個人的な芸術家の映像美術が展覧会に出展されることも、展示作品が数時間もの尺があることも珍しくないが、10 分や 15 分ならまだしも、ちゃんとしたスクリーンと座席、鑑賞環境が用意されているならまだしも-それを映画館と呼ぶが、そもそも美術館だってウィンドウショッピングじゃない、あなたがちゃんと最初から最後までそれを鑑賞するならまだしも-、いずれにしてもこれは劇場で公開されてしかるべき体制で制作されているのだから。

それぞれのシーンをこう楽しんだ

みっともない種明かしみたいになるが、自分はこう楽しんだというメモを付しておく。シーンの名前は私が勝手に与えた。順番はパンフレットに従っているので多分、間違ってはいない。上で書いたように抜け漏れがある可能性が否定できないのだが、それだったったら残念だね。

1.小高いベンチから街を眺める夫婦

スウェーデンの街並みなのかな。平和だ。これから何かが始まりそうな予感がする。女が渡り鳥を指して言う。このセリフはチェーホフの『ワーニャ伯父さん』からの引用らしい。

2.歩道の階段の登り切った場所でのツマらん文句

どこかの歩道、階段を登りきったところで画面に向かって独白する男。つまらない過去を振り返って文句を言っている。音楽は美しい。男は何も美しくない。

3.別のことを考えてワインを溢れさすソムリエ

ワインに興味を示さず新聞を読む客。応対するソムリエ。テイスティングまではなんとか進む。注ぐ。溢れる。ギャグのような最後で一瞬の反逆だ。

4.高層ビルからガラス向こうの風景を覗く広告ウーマン

彼女は恥じらいを知らないらしい。全面ガラスの窓からビジネス街を見下ろす。そういうわかりやすい話なのか? でも、悲しげだ。

5.ベッドの下にへそくりを隠す男

部分的には《ファンゴッホの寝室》っぽいが、どうか。寝心地は悪そう。マットをいじる動作もそうだが、ベッドライトもやたらと明るい。

6.十字架を引きずった神父

いきなり象徴的な画面だ。坂道の途中のカフェが映る。坂下から騒がしい声。十字架を背負った男。殴る、鞭を振るう老若男女。2 回、女が男を蹴った。

7.夢から覚めた神父

十字架を背負った男は神父で、アレは悪夢だった。妻がサイドテーブルからコップに入った水を渡す。さっき蹴っていた女性じゃないの? はじめの目を覚ますまでの数瞬、夢の中の喧騒は画面内で再現されていたので、これは外の音で、同時刻の別のシーンかと思った-いや、その通りなのだが。

心配して支えてくれるパートナーが傍で眠っているんだから、お前は十分幸せじゃんと思わなくはないが、神父としてはダメらしい。贅沢な男だ。

8.愛をこれから知る少年

美容室だろうか、店頭に置かれた鉢入りのやや枯れた樹に水をやる女性。通り過ぎようとする少年は、ふと振り返って書店の前で直立する。樹はやや枯れている。

本記事の最後に参照しているWebページでこのシーンのメイキングシーンが見れるが、必見だよ。この画面、こんなことになってて作られてるのかとなる。スゴイ。

樹はやや枯れている。

9.精神科医に通う神父

信仰を失ったらしい神父が精神科医にかかっている。苦しんでいる。ちょっとまともな病院にみえない。町の診療所だろうか。棚もテーブルも椅子も、なんとなく雑だ。どうにも、ひときわ現実感がない。

診療にはお金がかかると医者がそっと添えて警告する。神父もそうだろうと言う。なんなんだこれは。1 週間後にまた会おうと言う。窓の外は白々しい明るさがあった。

10.両足を地雷で失ったマンドリン弾き

地下の公道だろうか。床に座布団を引いた男が弦楽器を弾いている。膝から下はなく、傍らには車椅子があり、やや肥えた 50 代か 60 代そこらの白い男が佇んで見守っている。誰もほとんど彼らを気にしたい。雑に設置されたエレベーターが気になる。

奥側の角から出てきた男 2 人連れがマンドリン弾きの用意したチップ入れの靴を、靴だったな、確か、たしかに靴か…、靴を蹴りそうになる。足元注意。

11.赤ちゃんを撮影する祖母らしい女性

夫婦と思しき男女と赤子。それをカメラで撮影している祖母らしい女性がいる。やたらと写す。おそらく夫婦は飽きている。場所は学校なのか、奥側に居た女の子 2 人がチャイムとともに消えていくのがなんか面白かったなぁ。階段のところで撮影しているものだから、祖母さんの挙動がちょっとこわい。同前、足元注意。

12.飲酒しながら聖餐を授ける神父

ドアの向こうに見える祭壇に礼拝者が跪いて待っている。神父はキリストの血を器に注ぎ、ボトルでそれをラッパ飲み。フラフラと祭壇に出向いていって、聖餐を授ける。足取りはおぼつかない。あまりにも哀れ。あまりにも不条理だ。

13.息子を戦争で失った老夫婦の墓参り

墓場。そこそこ古びた墓前の花を夫が捨て水で掃除し、妻が持っていた新しい花を添える。どこも似た様な風習だな。右奥の青い車は、この夫婦が乗ってきたのだろう。「私たちがちゃんと見舞ってるぞ」と父は告げる。「安心してくれ」みたいなことを言った気がする。誰が安心できようか。後の文脈からしてこの息子というのは第 2 次世界大戦でなくなったのか。

14.荒れ果てた街を見下ろす愛する2人

本作のポスターにも採用されているシーンだ。シャガールの《街の上で》などがモチーフだろう。人間が飛ぶというのはよくわからん。2018 年に観た《ジュピターズ・ムーン》も思い出された。幻想的でいいのだが、眼下の街は果て無く荒廃している。

この街は、第二次世界大戦で破壊されたケルンの街を表現しているらしい。

この 2 人は無垢さを象徴しているという。ごくパーソナルで自然な人間的感情と、それとはまるで正反対の人間の起こした惨状の対比。で、それをキレイな映像として楽しむのは私。

15.列車から降りるも誰も待ってない女

プラットホームに濃紺の車両が停まった。女と女の子が男を待っていた。仲睦まじく挨拶を交わして家族はホームを去っていく。いい光景だ。

次に女性が下りて彼らを眺めるとナレーションが入り、女性を待つ人はいないことに彼女自身が気づいたことが告げられる。女性が側のベンチに座ると列車は発進し、映し出される背景には灰色の空が広がっている。美しい。ちょっと、このシーンの色彩もゴッホっぽいんだ。

この画面をずっと眺めてたいなと思ったら、奥のホームの奥の奥でせわしく走る男と息遣いが映って消えた。「思わせぶりなことをするなよ」と思ったら、地下の通路を通ってか男が到着する。待ち人、来たるだ。なんだ迎えいるじゃん。ナレーションに騙された。翻訳の問題かな? でも、幸せなら OK です。

16.シャンパンが好きな女

ちょっとしたキャバレーっぽい店内。男が女にシャンパンを勧める。ナレーションは女がシャンパン好きだと説明するが、私には女がそれを楽しんで飲んでいるようには見えなかった。これは 2 人の関係性を表しているのか。

17.道を間違えた男

半地下の食堂っぽいエリアに座る女。前のシーンから引き続き同じ BGM が流れているので連続性はあるのか? 同じ店内なのか? 同じ音楽がラジオか何かで流れていて、同時間の別の場所なのかもしれない。

花束を持って来店した男は女に声をかけるが、どうやら人違いだ。字にして説明しても何も面白くないんだけど、このシーンめっちゃ面白いんすよ。マジで。16 と 17 でなにかしらの対比があるのかもしれない。

18.磔にされる男

もうね、宗教とか信仰とか関係ないんすよ。何かしらの罪を犯したと断ぜられた男が、雑に柱に磔られるっぽい。でも、前のシーンがおもしろすぎて、考えごとしてたら注視できない間に終わっちゃった。

19.道中で踊り出す女の子たち

これはみんな好きになるシーンだね。

ちょっと海辺っぽい立地なのかな。テラス席付き小さなお店があり軽快な BGM が流れている。左手前の小道の奥からやってくる大学生くらいの女の子たち 3 人。店を横切るのか、入店するのかと伺っていたら、店の前でそのまま楽しそうに踊り出す。ほんまに楽しそうなんだよね。

テラスに居た男子 3 人の目もくぎ付けだし、他の客も楽しそうに見ている。なんなら店の奥からも人たちが覗いている。よくできたジオラマっぽさをこのシーンにもっとも強く感じた。

さて、パンフレットによれば、女の子たちが踊る曲は《Tre Trallande Jäntor》という 19 世紀のスウェーデンの詩人の一編を楽曲化したものらしい。原題の意味は「挑発する3人の少女」とのことらしく、まさしくシーンの状況となっているわけだが、とりわけ面白いのがこの歌を歌っているのが、The Delta Rhythm Boys という US のボーカルグループらしい。当時は、スウェーデンに彼らのようなボーカルグループが来訪して活躍することも珍しくなかったとか(パンフレットの解説に拠る)。ググると、日本にも来ていることがわかる。

彼らのグループ名が、この歌とうまく対のようになっているのがおもしろい。《GULDKORN》というアルバムに収録されているようだが、配信などはなさそうだが、YouTubeにはあった

20.乳母車を引くハイヒールが欠けた女

大きなターミナルだ。どこなのだろう。乳母車を引く女の片方のヒールが欠けた。目の前のベンチの老紳士は気がつくが、どうしようもない。ひとつ奥の男性も気づいたようだ。女性はベンチでハイヒールを脱ぎ、歩いて消えていく。続、足元注意だ。

本作、乳母車は 11 に続き 2 回目の登場です。

21.家族の名誉を守ろうとした男

娘か妻か、腹から血を流した女を後ろから抱いて床に倒れている男。左側のドア前には親類と思しきか? 男女と男の 3 人か? が痛ましげに事態を傍観している。そして男は嘆き続ける。家にとって不名誉となる振る舞いを、死んだ女がとったということか。外の天気はいい。青く晴れている。

パンフレットを読むと、このシーンの出展が記されていた。イリヤ・レーピンによる《1581年11月16日のイワン雷帝とその息子イワン》とのことだ。なるほど、言われてみればこの作品がネタになっていることがわかる。

22.魚市場での私情の縺れ

魚市場。魚を切る職人が主役かと思ったらいきなり痴話げんか。男が一方的に女性にビンタする。「俺の思いの深さをお前は知っているのか」との旨。周囲の男たちが止めに掛かる。職人も止めに入るが「魚を切っていたその手、お前それ洗ってないやろ!」と笑ってしまった。そういうことじゃないよなぁ?

23.熱力学第三法則を語る少年

アパートの一室。髪を梳く少女の前で小難しそうな古本を読む少年。熱力学が、宇宙が、エネルギーがと少女を口説くが、その返答は「トマトがいい」である。どういうことか。ここでは説明しません。

この画面も美術が最小限で、天体望遠鏡がそれとなく置かれているのが、逆に空々しい。でも、若者ってそれくらいでよさそう。映画.comに掲載されてるインタビューではこのシーンがお気に入りと述べていた。

24.世界征服の失敗を自覚した男

いきなり史実の描写が登場したので気が動転した。地下シェルターだろうか。ナチスの将校らしき男らが 3 人とも憔悴しきっていると、奥の入口からヒトラーらしき男が入ってくる。息も絶え絶えの面子が、弱々しくも挨拶を交える。

これは、記事を読んだらモチーフがハッキリとあった。ソ連時代の藝術グループ:ククルイニクスイの《The End of Hitler》が元ネタだ。画面中の登場人物らにとっては悲劇的な終末だが、現実に照らせば、戦争の被害者らにとっては悪夢の終わりのような状況でもある。乾いた笑いを誘う彼らの最期のシチュエーションは、ただただ風刺なのだ。

25.バスの中で泣き出す男

これ、神父シリーズかと思ったがどうなんだろう。確認でき次第、修正するが神父ではないのかな。停車中の満員のバスに乗ってから泣き出す。「自分の望みがわからん」みたいなことを言う。隣席の若い女性に問いかける。女性、困る。

反対側の男が「みっともない」と叫ぶと、後ろの女性が「泣いてもいいだろ」と泣く男を擁護する。叫んだ男は「家でやれ」と返す。いいよなぁ。もう、いいよなぁ。

男の隣の若い女性以外、割とシニアが多いのだが、みんな顔色が悪いんだよね。これはかなり分かりやすいような気はするんだけど、この解釈でいいのかも不安だ。

26.雨天の誕生会に向かう親子

広大なグラウンド。背後にマンションかコンドミニアムか公営団地かしらんけど、大きなビルが 2 棟。大雨。父は娘の靴紐を直している。地に置いた傘が風に流される。自身の身体とプレゼントを濡らしながらも父はなんとか終える。

グラウンドを突っ切って奥の建物に向かっていく 2 人。まともな道はどこにある。これはなんだろう。荒々しくも幸福なシーンに見えた。

なお、別のインタビューでは、監督はこのシーンが好きだと言っていた。監督の公式ページかなにかにメイキングの画像があったが、これも衝撃的だ。

27.精神科医から追い出される神父

アパートの一室(診療所)で残務処理をする秘書は、鳴ったドアベルに対処した。そしたら診療時間外にもかかわらず狂った神父が闖入してきた。「どうしたらいい」と嘆く彼を精神科医と秘書はバスに間に合わなくなると追い返す。これが愛だ。

「来週、相談しましょう」と秘書が言った。ということは、もしかしたらシーン 9 から時間が経ってもいないのに、神父は再訪したとも考えらえる。どういうことか。

神父シリーズはここで終わりっぽい。結局、誰も彼を救わない。これが日常か。

28.機嫌の悪い歯医者

歯科衛生士? が「すみません」とよく謝る。よくわからん。雪景色がきれい。これも美術の仕立てを敢えて雑にしてるのだろうが、歯医者がそんな軽いキャスター付きの椅子に座って施術するのか? って笑える。やりとりも雑の極みで笑える。いったい何を見せられているのか。

歯医者はもともと不機嫌なようだが、患者の要望も意味が分からない。なんなら、この作品でもっとも不条理なシーンかもしれない。

29.そのままダイナーで飲酒する歯医者

珍しく連続したシーン。アルコールをストレートで立ち飲みする歯医者。歯医者を除いた他の客らは、どうもみんな、何かを待っているようだ。クリスマスだろうか。なんか SF っぽさもあるんだよな。全人類がなにかを待ってる。

別のヘンな客が「いいと思います!」「なにもかも素晴らしいと思います!」みたいなことを言って歯医者やジェントルマンに絡んでる。ようわからん。ようわからんから、いい。

30.捕虜収容所に向かう兵士たち

これなんか著名なタイトルの構図そのままっぽいのだが、思い浮かばないし、検索にも簡単には引っかからない。各シーンとの関連でいえば、ロシアで囚われたドイツ兵捕虜がシベリアの収容所に移動している図のように思える。

列の先頭がどこまで伸びているのか、CG 処理によって同じ俳優が繰り返して流れて行ってないか? などと見てしまった。

これだけはロケをしたらしいという感想を見た。が、ソースは不明なので、あくまでも「らしい」どまりだけど。なんかわかったら書く。

31.見下した相手が博士になって嘆く男

2 つ目のシーンに登場した男の愚痴、ふたたび。いらんいらん。ネチネチと文句を言ってる。なんだろうな、このシーンの意図は。でもね、男は奥さんに美味しい料理を提供することはできたっぽいので、そういう不幸中の幸いみたいな描写なのかな。だが依然としてこの男を憎らしいと思う気持ちは私の中にある。

32.車の故障で困っている男

大きな平原が広がっている。地平線が美しい。故障して止まっている車から男が出てきてボンネットを開ける。それで解決するならいいが、まぁ、しない。

空を雁かしらぬが、渡り鳥っぽい鳥が飛んでいく。車は直りそうにない。ちょっと今までにないくらいカメラが人物と遠く、男の表情などは読み取りづらいのだが、男は確かにカメラに視線を送っている。困っていることをアピールしているようだ。どうせよと。

ところで、この鳥は鶴であるらしい。また、これは最初のシーンの鳥たちと同じように飛んでいる。永遠性だ。

この作品の扱う永遠性ってなんじゃろな

日本語の公式ページにも触れられている『千夜一夜物語』だが、命を賭したシェヘラザードの終わりのみえない語り、というスタイルが本作にインスピレーションを与えたらしい。女性によるナレーションの導入も「シェヘラザードの語り」を意識しているとのことで、途切れることなく、できればいつまでも続くことを乞われる物語が意識されている。

また、監督は自身のページの解説で「豊穣の角」にも言及していた。これは、さまざまに豊かな食物や素材などが、羊の角からいくらでも生み出されるというギリシア神話で語られたアイテムだが、このアイテムの無限性を意識しているらしい。

同時に、監督の作品が極めて絵画的であることについても、本人から補足されていた。ちゃんと引用してみる。

I feel that art, art history plays the role of a horn of plenty, encompassing within it the entire scope of what it means to be human. I must confess that I have often felt a certain envy for this richness of the fine arts. Of course there are films that are almost on a par with the great masterpieces of fine arts, but they are few in my opinion.

https://www.royandersson.com/eng/endlessness/

ざっくりと訳すと以下のような感じだろうか。

私には藝術、そして藝術の歴史そのものが人類、人間全体にとっての「豊穣の角」であると感じています。率直に言って、私は “fine arts” の豊かさに羨望があります。もちろん ”fine arts” の傑作にほぼ匹敵する “fimls” もありますが、個人的な意見としてはそれはごく僅かです。

このような根本的な意識が、監督独特の制作スタイルを生んでいるのか。

なお、その他のインタビューでは ボブ・ディラン の “A Hard Rain’s a-Gonna Fall” からも影響を受けていると答えていた。歌詞を読んでみると、なるほどと思う。ここではこれ以上は深入りしないが、最後に参照した記事へのリンクは残しておいた。

監督:ロイ・アンダーソンと Studio 24の制作スタイル

ざっくり、画面を如何にコントロールするか、が争点だろうか。まぁ視覚芸術の根本問題だけど、そのこだわり様やスタイルの話だね。

アンダーソン監督の志向は映画における「ハイパーリアリズム」と呼んでいいみたいだ。絵画だったら写真などをベースに創作するタイプのやつだよね。彫刻にもあるらしいけど、私はこちらはあまり目にしたことがない。

本作の場合、参照した記事内の動画で解説されているのでぜひ確認してほしいが、ほとんどすべてのシーンがスタジオ内(Studio 24)のセットで撮影されている。遠景の景色は、それこそ描かれているか、ミニチュアで処理されている。劇中に登場する小さなアイテムも模造品であったりする。えっ、あれがダミーだったの? となるので面白い。

つまりこの手法によって最適なアングル、奥行、色彩など、劇中での役者の演技以外はほとんどすべてコントロールできるようだ。逆に、役者の演技はコントロールしたくないみたいなことも言っている。

まぁね、絵画と映画というのは別物なので直接対決させても意味はないだろうけど、たとえば絵画というのはその可能な表現の範囲で、特定の画材と描画手法などを使って、静止した、ひとつの画面の中に、制作者の意図を反映し、それを発揮していると言える、とする。

それって映画には原理的にはできないし、そう考えればその端的さという意味では絵画のほうがスゴイ藝術なのでは? っぽくない? みたいな考え方もできる。この辺が監督の切り込み方なんじゃないかな。ようわからんけど。

その他のことなど

読んだ記事やまとまらなかった箇所の引用などを以下に載せる。

以下、日本語の媒体のまともな記事はこれくらいだろうか。もうひとつ読んだけど、そちらはあまりリンクしてもしょうがなかったので、こちらのみ。

以下は、監督の公式ページなのかな。監督自身によるメッセージが割とちゃんと書いてあるので、おもしろい。メイキングシーンもあるので必見かな。よいです。

以下は、ネットに転がってていいのかな、ファイル名などからして劇場資料用のPDFのようだが、つまりそのままパンフレットとしても参照できそう。問題があると判明した場合はリンクは削除する。

  • https://claudiatomassini.com/fileadmin/user_upload/fieles_from_old_website/filmstills/Endlessness/AND019_Pressbook_Digital.pdf

以下は、本国でも公開前に執筆された記事のようだ。記事内では、ゴッホの《La Guinguette》に影響されたシーンもあると監督が言っているようだが、そのままそれと判ぜられるシーンはなかった。シーン 17、19 が近いかな。

以下のインタビューも示唆が多く、ボブ・ディランが参照されていることに触れているのは、見た範囲ではこの記事だけだった。シーン 26 が好きと監督が言っているのもこの記事だ。

以下の記事は、各シーンの解釈については 1 番参考になるかな。ちゃんとした批評サイトの内容って感じだ(テキトー。

また何か読んだり、気づいたら追記したいがとりあえずはここまで。

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