《戦火のかなた/Paisà》英題は “Paisan” を観た。ロベルト・ロッセリーニ監督の 1946 年の作品で、前年の《無防備都市》に続く戦争三部作の二作品目となる。120 分の上映時間は 6 つの小話に 20 分ほどずつ区切られており、それぞれが独立している。

小話は、連合軍の US 小隊がシシリアの海辺の村に上陸する話から始まり、舞台は徐々に半島を北へ移していく。これはドイツ軍の撤退方向と一致すると思われるが、どうなんだろうね。

というわけで、スコセッシおすすめ外国映画マラソンの 9 作品目です。

ep.1 シシリア

シシリアに到着した US の部隊が当地の女性を案内人にして古い砦へ向かう。女性と見張りを残して探索隊が出る。束の間の交流が非常に微笑ましいが、ちょっとした気の緩みから見張りはドイツ兵の凶弾に倒れる。

戻った部隊は女性を疑うが、女性は倒れた見張りの銃を手にして、ドイツ兵に反撃を試みていたのであった。最後は両軍とも砦を去るようだが、その結末は暗い。

暗闇でのシーンが多いのでフィルムの状態も相まってか、見張りと女性の交流シーンなどは特に鮮明でなく、結末もどう解釈していいのかわかりづらい。いずれにせよ、戦場で垣間見えた日常が一瞬で塵となり、それに巻き込まれた人間のあっけない運命が心に残る。

ep.2 ナポリ

孤児たちが酔っぱらった黒人兵を囲んで身包みを剥ごうとしている。その少年達の 1 人と黒人兵のやり取りはしばらく続く。2 人の追いかけっこは、さまざまなカットが入り乱れて続くが、よく撮られている。

少年にアメリカの都会の物語を聞かせるシーンは本編のダイジェストだろう。2 人とも、とても楽しそうだ。前編の見張りは自宅に帰りたいと繰り返していたが、本編の黒人兵は家はボロボロだから別に帰りたくないらしい。さまざまだ。

後日、素面の黒人兵と少年は再会するが、兵士は途中まで少年と気づかない。ある理由があって、彼らは少年の住処に向かう。戦火に破壊された少年ら現地民の状況をあらためて目のあたりにした黒人兵は黙ってそのまま去る。

最後のシーンが好きだ。手塚治虫が使いそうなカットである。

ep.3 ローマ

ローマが解放され、街へ入ってくる連合軍の部隊をローマ市民が大盛り上がりで歓迎する。入り乱れたカットで演出される、その盛り上がりの躍動感がすごい。

一転して半年後、解放当時の盛り上がりは何処へと兵士もホステス達も嘆くキャバレーのような店内に、治安部隊のガサ入れがある。娼婦のひとりが逃げ去る。

娼婦は逃げる途上で酔った兵士を掴まえる。実はこの 2 人は既知の間柄であったが、お互いは気づいていない-という点では前編と似たことが起こる。女は途中で彼に気がつき、なんとか別日に再開しようと試みるが、それは失敗に終わる。

これがよく分からない。男は女に気がついていたのかそうでないのか、明らかではない。私は初見では気がついたうえでそれを無視したのかと思ったが、そうとも言い切れないようだ。誰が悪いわけでもない、戦争が悪い。誰が悪い。

ep.4 フィレンツェ

アクション作品として楽しんだ。ドイツ軍から解放されたエリアから、まだ銃撃戦が続いているエリアへ赴く男女がいる。それぞれに事情は異なる。市民のゲリラ兵とドイツ軍がドンパチやっているなかをソロリソロリと移動していく。

区画から区画へ、閉ざされたエリアへ逃げ込んだり、屋根伝いに走り回ったりと移動していく 2 人を横から眺めるようなカメラワークがおもしろい。完全に遮断された箇所を横断するために、閉鎖された美術館を利用する方法も面白い。この美術館も実物らしいし、この方法自体も現実にあったのだろう。

身内の安全を求めて戦闘区域の中心部へと進んでいった 2 人の残した結果は、これはこれで残酷極まりない。

ep.5 トスカーナ

市民からも篤い信仰を集めているらしいカトリック修道院がある。そこそこ階級の高そうな US の兵士 3 名が寝所を求めて来訪した。修道院側もこれを受け入れた。食料の交換などが描かれて微笑ましい。

暗雲が立ち込めるのは 3 名のうち 2 名がプロテスタント、ユダヤ教徒であることが判明してからだ。かなり教義に厳格であるらしいこの修道院の僧侶たちは、異教徒をもてなしたことに恐慌状態に陥る。

傍からみたら笑っちゃうかもしれないけれど、当人たちにとっては重大事だ。結局、修道僧らはある方法をとって、彼らを受け入れることとしたが、それに対して自身もカトリック神父である兵士が礼を述べる。

神に赦しを求める修道僧を、リーダー格の僧侶が宥めるシーンがなんともよく出来ている。前のエピソードでもそうだが、ロッセリーニ監督も階段を使ったシーンの使い方が巧みに思えるがどうだろう。

ep.6 ポー川

ポー川のデルタ地帯といっていいらしいが、イタリア北部を流れるポー側の東側の河口付近、ヴェネチアのほぼ南に位置する。葦が茂る河口付近で市民のゲリラ部隊と応援の US 兵達がドイツ軍に囲まれつつも何とか生き延びようとしている。

が、絶体絶命らしい。

エリア内にある小さな村もやられてしまった。本作でもっとも残酷なシーンも割とあっさりと流されてくる。無常だ。

まともな戦闘シーンが登場する。ほとんど絶望的な対決は、絶望に終わって、その後の結末も絶望でしかない。あまりにもあっさりとしている。淡々と処理しなければやっていけないのは戦場の常なのだろう。最後にポー川の水面が静かに映されて “FINE” となるが、 やはり、あまりにもあっさりとしている。

千年王国を築くというドイツ兵の文句は《無防備都市》でも登場したが、このくらいの現場感のある兵の台詞の方が、その誇大妄想さが極まってみえた。

葦のなかを小舟がゆくシーンがいくつも登場するけれど、これも巧い。撮影側も同じような、今にも沈みそうな小舟から撮っているワケでもないだろうけど、そこまで設備が整っているとも思えないので、やっぱり似たような不安定な小舟にカメラを載せてるのかね。撮影現場の記録とか、ないのかな。

戦闘とは無関係に、葦の草っぱらがむやみにキレイだ。

その他のことなど

一応、エピソード 1、4、6 は戦闘領域でのお話、エピソード 2、3、5 は戦闘領域外でのお話という構成と見てよさそうだ。これを対比したとき、言うまでもないが前者では戦場における悲劇が描かれる。後者では、戦場からふと離れた日常における人間の矮小さ、あるいはその中での救いのようなものが描かれる。それはそれで戦争とは地続きではあるけれど。

だからどうという話ではないが、そもそもなぜ本作は連作形式となったのだろうか? 脚本も、ロッセリーニ監督を加えて 6 人参加しているということは各エピソードごとに脚本が入っているということに違いなさそうだ。

それぞれ異なる視点から、イタリア各地における戦場での、さまざまなテーマによるドラマが、本作のように見事に織りなされる-そこに異論はあるだろうけど-というのは本当に凄い。この一言に尽きる。

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いくつかの部門に分けて、鑑賞してきたヒッチコック作品のオススメ順に取り上げる。部門別、オススメ順としたのは軸が多いほうが記事にしやすかったという以上の理由はない。好みの問題だ。また、言うまでもなく恣意的なカテゴリーかつランキングで、ほかにも方法はたくさんあるだろうけれど、これが私のヒッチコック星だ。

なお、ランキングのリンク先は私の感想記事になるので注意されたし。

【巻き込まれ男女の珍道中】部門

ヒッチコック作品の典型にして、初期時からほぼ完成形と思われる「男と女」が何かしらの事件に巻き込まれて、そこから困難を経て事件を解決に導いていく、パターンの作品となる。以下の 3 作をピックアップした。

なんだかんだで、最初期の作品《三十九夜》を 1位 としたい。完成している。そしてオチが好き。《白い恐怖》は「信用できない男」部門でもよかったが、この部門のノミネートが少ないのでこちらに置いた。《逃走迷路》は、西海岸から東海岸へ縦断ツアーするのが好きです-そのものの描写があるわけではないけれど。

  1. 《三十九夜 The 39 Steps》(1935)
  2. 《白い恐怖 Spellbound》(1945)
  3. 《逃走迷路 Saboteur》(1942)

【予測不可能なサスペンス】部門

サスペンス作品のうち、あえて展開が読みづらい作品として部門を設けた。要点としては犯人がよくわからん類のストーリーとしている。《救命艇》を 3 位としたけれど、あの重苦しい空気はキライじゃない。が、やっぱり 1位 は大掛かりなセットが見ものの《裏窓》かな。《バルカン超特急》も好きだけれど、ここでの他 2 作と比べると、個人的にはそこまでプライオリティがない。

  1. 《裏窓 Rear Window》(1954)
  2. 《バルカン超特急 The Lady Vanishes》(1938)
  3. 《救命艇 Lifeboat》(1943)

【薄氷を踏むような展開】部門

同じサスペンスでも、こちらは鑑賞者にも全体の状況が分かっている作品として部門とした。圧倒的に《私は告白する》を推したい。扱っているテーマ、舞台設定、カメラワークなどなどいずれをとっても面白い。次点以下の《ロープ》《ダイヤルMを廻せ!》も完全におもしろい。《見知らぬ乗客》は比べると、やや見劣りするか。

  1. 《私は告白する I Confess》(1953)
  2. 《ロープ Rope》(1948)
  3. 《ダイヤルMを廻せ! Dial M for Murder》(1954)
  4. 《見知らぬ乗客 Strangers on a Train》(1951)

【キング オブ 頭おかしい】部門

途中で全体像がおよそ掴めるタイプの作品でもあるが、基本的には犯人がヤベェ作品とした。どちらも歴代としてみると最後のほうの作品なので、時代性なんかもあるんだろうか。どちらも好きだけど、あえてのモノクロ、クライマックスの一瞬の狂気ということで《サイコ》を推したい。《フレンジー》のじゃがいも遊びも好きだけどね。

ていうかこの 2 作品で 12 年もギャップがあるのか。

  1. 《サイコ Psycho》(1960)
  2. 《フレンジー Frenzy》(1972)

【信用できない男】部門

巻き込まれパターンのうち、男がどうにも信用できないパターンの作品を取り上げる。《汚名》と《引き裂かれたカーテン》は別部門でもよさそうだが、ここに配置した。そのうえで比べてみると、鑑賞時はそこまで好きとも思わなかったが、《汚名》は好いとあらためて実感した。

《レベッカ》《断崖》は、ジリジリとした展開が馴染めばおもしろいが、これら以下の作品もなんとなく展開がじれったい気がする。あまり得意ではない作品が比較的多いなという自覚を得られた。

  1. 《汚名 Notorious》(1946)
  2. 《レベッカ Rebecca》(1940)
  3. 《断崖 Suspicion》(1941)
  4. 《舞台恐怖症 Stage Fright》(1950)
  5. 《引き裂かれたカーテン Torn Curtain》(1966)

【信用できない女】部門

上の部門とは反対に、男は女に尽くそうとするが、その女は信用に値するのか? というパターンを取り上げる。この視点で捉えられる作品も案外少なくないので驚いた。

世評はあまり高くないらしいが歴史物、ユニークさという点でもって《山羊座のもとに》を推したい。珍しく人間ドラマが中心といってもいいのではないかな。エンディングのカラッとした感じも好きだ。

《マーニー》《めまい》も大好きだよ。《北北西に進路を取れ》は、個人的にはこの部門なのだよね。本作において世間的に評価されている要素って、《三十九夜》と《泥棒成金》のほうが面白いぞ、というのが持論です。

  1. 《山羊座のもとに Under Capricorn》(1949)
  2. 《マーニー Marnie》(1964)
  3. 《めまい Vertigo》(1958)
  4. 《北北西に進路を取れ North by Northwest》(1959)
  5. 《パラダイン夫人の恋 The Paradine Case》(1947)

【頭からっぽで楽しもう】部門

もっとも重複を許す部門だ。逆に、それだけ総合的に評価しやすいということだ。他部門含めても屈指で熱中できた《泥棒成金》をトップとしたい。いや、おもしろいよ。主役のダンディさ、身体性、ユーモア、ほろ苦さ、ロマンス、ほぼ全部入りです。

社会情勢を扱ったサスペンスも多いが、そのなかでは《トパーズ》が 1番 かな。これも最後のほうの作品である要因が大きいのか、いい意味で、割と脚本がちゃんとしていて気持ちがいい。他がちゃんとしていないという意味ではなく、なんとなく整合性の部分の詰めが見えるというくらいのニュアンスだ。

上記以降の作品もどれも無難に面白い。

  1. 《泥棒成金 To Catch a Thief》(1955)
  2. 《トパーズ Topaz》(1969)
  3. 《ファミリー・プロット Family Plot》(1976)
  4. 《海外特派員 Foreign Correspondent》(1940)
  5. 《知りすぎていた男 The Man Who Knew Too Much》(1956)

【オリジナリティにしびれろ】部門

ここまでの部門のどこにも入れがたい作品を扱う。《鳥》なんていうのは典型で、諸要素には他作品でも用いられているモチーフが少なくはないが、全体としては鳥じゃん。ていうか、鳥じゃん。最後のほうとかよくわからんし。

1位 としては《ハリーの災難》を挙げたい。シュールなコメディとして大変面白いし、なにより画面がずっとキレイなのが好い。ちょっとホラー味があるのも好きだ。

《間違えられた男》はヒッチコックに限らず映画全体からみれば特に珍しいテーマとも思えないが-どうだろうか。他部門でもよかったが「実話をもとにしたフィクション」と監督が冒頭で解説する特徴もあって、あえてここに配置した。こちらも好きな作品だが、まぁここに。

  1. 《ハリーの災難 The Trouble with Harry》(1955)
  2. 《鳥 The Birds》(1963)
  3. 《間違えられた男 The Wrong Man》(1956)

というわけで、以上となる。この記事によって、とりえあずではあるが、ようやくヒッチコックマラソンの自分なりの振り返りができた。ほなまた。

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《無防備都市/Roma città aperta》を観た。1945 年、ロベルト・ロッセリーニ監督による作品だ。

スコセッシおすすめ外国映画マラソンの 8 作品目となるが、ドイツ編、フランス編ときてイタリア編となった。

第二次世界大戦で連合側に降伏したイタリアは、降伏直後にドイツに占領された。本作はドイツ占領下のローマ市民とレジスタンスたちの苦難を描いている、という説明していいだろうか。1945 年というと日本はまだ降伏前だが、イタリアはすでにドイツの占領からは解放された後らしい。そのような状況で製作されたこととなる。

本作はあくまでフィクションではあるが、ほんのひと時前までに現実に目前にあった、体験された過酷な状況を、それほどの歳月を経ずに映像化していることになる。それぞれの主要な登場人物と、纏わるエピソードは実在の人物に基づいて構築されているらしい。

このような作品に対して、どう反応すればいいのか難しさがある。半世紀以上前の作品だからと割り切れるものでもない。最近の映画で言えば《ムンバイ》を観たときの感触に近い。もっと一般化すれば、ドキュメンタリーに近いフィクションとの接し方という問題意識になるか。

皮肉なことだが、このような作品を単体で見たとき、面白さも小さければ、それなりの評価で済むんだろう。けれども本作、とても面白いので、どうやって消化していいのか悩む。

ジョルジオ、神父、ピナのそれぞれが迎える結末は、いずれもツラい。でも、それぞれの生きざまが反映されていて、カッコいい。彼らの情熱を否定する材料はほとんどない。受けとめ方はいろいろとあっていいはずだが、作品内での意味付けとしては止めの神父の台詞に集約されるだろう。

悪役、というかドイツ軍側のベルクマンとイングリッドも、よくよくこんな役をこなしているものだ。彼らの世界はほとんど閉じており、鑑賞者からみれば穴だらけなのだけれど、彼らは彼らの信念を生きている。

ベルクマンの執務室、入って右側が拷問部屋、左側が将校クラスのレストルームのような構造になっており、左右の対比があまりにも明確だ。実際の施設が本当にこんな構造だったとは思えないが、ギャップの演出にはもってこいだ。

判断力を鈍らされたマリーナがあまりにも哀れで、どうしようもない。

中盤とクライマックスの描写に明らかと思うが、子供たちの在りようについての気の配り方が絶妙だ。「大人たちが抵抗に敗れても、子供たちが引き継いでいく表れ」のようなコメントも見たが、そういうことなのかね。

イタリア映画だからだろうと雑な括りは許されないだろうけれど、家族関係についての視点が強い。加えて神父は、さまざまな子たちの面倒を見ていたようだので、そういう意味では家族を超えた絆のような面もあるだろう。

同じ視点上だろうか、マルチェロがピナのスカーフをフランチェスコの手渡して別れるシーンが強く印象に残っている。

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《天井桟敷の人々/Les enfants du Paradis》を観た。1945 年のフランス映画で、監督はマルセル・カルネという方らしい。タイトルを辛うじて耳にしたことがあるくらいで、監督名やその他の詳細はまったく知らなかった。

というわけで、スコセッシおすすめ外国映画マラソンの 7 作目かな。Amazon Prime で上下に分けられて配信されているバージョンで鑑賞した。二部映画で 190 分だ。

舞台の年代を同定できなかったのだが、Wikipedia に拠ると 1820 代ということらしい。舞台はパリだ。フレデリックという若手俳優志望が劇団に入ろうとするところから始まる。女たらしだが、演劇に対する情熱は本物で、実力も相応にあるようだ。幼少時は孤児院で育ったことも中盤で示唆される。

彼の入団した劇団にはバチストという青年がおり、バチストの家族はこの劇団のメンバーとして生計を立てている。バチストには無声演劇(作中ではパントマイムという)の才能が有り、それを次第に開花させていく。

彼は前編の或るシーンで「天井桟敷の人々」を笑わせる劇を目指していると告白する。この台詞は正しくタイトルを指すが、それが生きているかは、どうなんだろう。

ところで、ガランスという美女が登場する。彼女を巡ってフレデリックとバチスト、さらには無法者のラスネール、伯爵のモントレーがぐちゃぐちゃとなって物語を推進していく。大局的に見ると、バチストとガランスのラブロマンスのようだが、どうもそういう楽しみ方はできなかった。

舞台、無声、あるいは映画とは

本作にはメタ映画、あるいはメタ舞台的な企てがあるんだろうと思うが、そのほどはどうか。バチストが演じる作中劇《古着屋》は、まぁ作中で見るだけでも面白い。一方、フレデリックが売れっ子になってから上演中に勝手に脚本をいじって演じる作品も、ハチャメチャではあるが観客ウケするのはわかる。

バチストの劇はカメラ自体もほぼ正面からの定点撮りなのだが、一方のフレデリックの劇は、メタ演劇みたいな要素があるのでカメラも視点を変えざるを得ない。それぞれの面白味があることがわかる。

バチストの表現力がスゴイのは画面越しでも伝わってくるし-無声劇であることをどう受け止めても、それこそがバチストの才能なのだが、映画の映像を見ている身としてはフレデリックの劇の方が面白味は伝わりやすい。作中では 2 人は相互に敬意を示しているが、フレデリックとしては演技の方向性こそ違えど、バチストの才能に嫉妬すらしている。何とも言えない皮肉がある。

しかしながら、なにより本作の映画としての醍醐味部分は、バチストが劇を捨てるある瞬間にある気配だ。あそこだけは本作全体においても珍しくカメラがよく動いたと記憶している。酷い雑に言えば、この舞台という要素の重みが本作を名作たらしめているし-まぁそりゃぁね、一方で掴みづらくもしているのではないか、偉そうだけれどもそう感じた。

なんだか妙に台詞がキマっている

これは何なんだろう。この映画、淡々と会話が繰り広げられて、そこに映画特有の跳躍やキレもないのでそういう意味では退屈になりがちではあるのだが、台詞そのものは妙にカッコいい。小説ばりといってよさそうなくらいに。

それでまぁ、脚本のジャック・プレヴェールを引けばわかるのだが-鑑賞後に確認しました-、彼は文学者であり、詩人であり、という人物なのだ。言うまでもなく、台詞回しが評価されているらしい。私は自分の鑑賞眼をそれなりに褒めたい。

しかし、逆に言うと台詞が決まりすぎているように思う。映像があんまり面白くないんだよね-だけどこれはもちろん上述のように舞台を扱っている点にも由来すると思う。群衆のシーンなどは流石と思うのだが、ピンとくるシーンが少ない。

バチストとガランスの鏡に向かっているシーンの対比などはさすがに記憶に残った。あとは、フレデリックの決闘に向かうシーン、無法者のラスネールの最後の覚悟なんかはよかったね。

なんの映画なんだろうか

最初に書いたように、バチストとガランスのラブロマンスに思えない。かといって群像劇という風でもない。このへんが特にこの時期のフランス映画っぽいのかなと思うが-数本見た程度で判断できることではなかろう-、登場人物の係る係争のすべてがすれ違っていく事象自体が描かれてるというか。

バチストの人間性が特に後半はまったくよくわからない。逆に考えれば、ガランスの心理のような面こそが捉えやすいのではないか。ガランスは男を翻弄しているようでいて、よくよく考えると彼らに頼るしかないうえで、それぞれに翻弄されていった結果が彼女の運命のように思える。

クライマックスにおける彼女のとった行動は、彼女を取り巻く愚かな男たちからの決別なんじゃないの、とかね。

文句のような感想になってしまったが、本作を映画館のスクリーンで観て、そこから現実に帰ってきたときは、疑問や納得できない面は抱えつつも、それなりに気持ちのいい体験になっていそうなんだよね。そういう魅力の作品だ。

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《ゲームの規則/LA REGLE DU JEU》を観た。ジャン・ルノワールの作品としては、前回の《大いなる幻影》に続いて 2 作目の鑑賞となる。1939 年の作品だが、完全版となったのは 1959 年らしい-下記のリンク先記事に基づく。

スコセッシおすすめ外国映画マラソンの 6 作目となる。本作については、Wikipedia に単独記事が存在せず、人名などは以下の allcinema というサイトの概要を参考にして書かせてもらった。

不倫を扱った作品で発表当時は不評に終わったという前評判を確認して臨んだが、結果としては今回のマラソンでは現時点で、もっとものめり込んだ作品となった。全体的に、特に後半の展開は狂気とユーモアに溢れており、画面にくぎ付けだった。

どうやって感想として切り出そうかな。あらすじから述べる。

ロベールという伯爵がいる。彼には愛人がいるのだが、彼の妻のクリスチーヌにも愛人:英雄パイロットのアンドレがいる。ちなみに、アンドレを紹介したのは彼女の旧来の友人であるオクターヴだ。オクターヴだけちょいと年齢が離れているようだ。

ロベールは彼自身およびクリスチーヌの浮ついた状況を清算する目的も兼ねて、彼の別荘にそれぞれの愛人を含め、貴族クラスの人らを集める。狩りを楽しんだり、仮装劇を楽しんだりして、終いには乱痴気騒ぎへ発展する。

物語全体の後半にて、仮装劇から騒動に移行していくが、直接の発端は別荘の狩猟区域の番人:シュマシエルとその妻:リゼット、元密猟者:マルソーの 3 人が引き起こした痴話喧嘩となっている。広い屋敷内で繰り広げられるかくれんぼと鬼ごっこ、決闘騒ぎ、垂れもせずにうまく撮られている。バカバカしいけど、面白い。

狩りのシーンにどんな重みがあるのかしら

別荘到着の翌日は日中に狩りに出る。この狩りの描写がやたらと丁寧だ。兎は地に転げるし、鳥は墜ちる。割と延々と続く。どんどんと倒れるし、どんどんと落ちる。痛々しさがある。私の少ない映画鑑賞歴から思い出される他の映画の印象的な狩猟のシーンのいずれと比べても、どれよりも強く厳しい。

なんだろう、これを上手く消化できない。まぁ残酷だというのがひとつ。そして、これが貴族たちの遊戯に過ぎないというのがひとつ。そして、後半の騒動への導線であるわけだが、どういう作用があるのか。全体像の享楽性を強調しているのでは、と思えば納得できなくもないが、そうなのかな?

非日常的な状況へ引きずり込むという意図はあるだろうか。うーん。

クリスチーヌの本心はどこにある

仮装劇が終わりに差し掛かったところで、クリスチーヌは上記で紹介した以外の男と乳繰り合うべくかしらぬが、こっそりと裏方へ流れていくのだが、この辺からしてもう異常な光景が連続する。

まず、主要登場人物たちの演技後、髑髏様の衣装を身に纏ったメンバーによる劇が始まる。薄暗くなった会場で、明滅するスポットライトが、並んで鑑賞する主要登場人物たちを照らす。カメラも左から右へ追随する。

この瞬間を縫って、夫でも渦中の愛人でもなく別の男と遊びにいくのかクリスチーヌよ。という想定外の事態と並行し、上述のシュマシエルとリゼット、マルソーの追いかけっこも本格化する。状況を転換させてクライマックスへ雪崩れ込む直前の、このシーンが 1 番好きだね。

ところで、狩猟の終了直前にクリスチーヌは、夫:ロベールと愛人の別れの挨拶を望遠レンズ越しに目撃してしまっている。これは遠目には別れに見えないので、彼女は勘違いを起こしているわけだが、この作品ではこの勘違いが重要な要素とされているようには見えなかった。女の奇妙な連帯のような描写はあったが、これもなんか有耶無耶と泡となっていくし。

何が言いたいかとしては、クリスチーヌの心理が難しくて、そもそもロベールとクリスチーヌの本望が明確でない。ロベールは結婚生活を諦めかけている描写があるもののやり直しもまんざらではなさそう。

だが、クリスチーヌ自身はそもそも問題の深刻さを、さほど表わさない。彼女のそもそもの浮気相手として仕立て上げられたアンドレにしてもほぼ一人相撲だ。階級の問題もあるんだろうけれど、この辺は文脈を読めていないのかな、とも感じた。

礼節あるいは男の友情とは

ロベールは気まぐれに密猟者マルソーを、半ば彼を哀れに思いつつもか靴磨き担当として別荘に雇い入れる。マルソーは身分違いのご主人に対してかなりフランクな態度で接して、ロベールもそれを許す。この関係がおもしろい。

言ってみれば《大いなる幻影》でも階級-身分の差を持ち出しつつも、その融和のような状況を描いてみせていた。監督のテーマなのか、得意とするとところなのか。

アンドレとロベールのクリスチーヌを巡った諍いも、落ち着いてみれば相互を尊重して認め合うような展開になっている。これも笑いどころで、泥酔した女性のケアなどを率先して協力しているあたりがユニークだ。なんというかね、ホモソーシャル的とでも言っていいのかね。

そんななかでシュマシエルだけは哀れなんだよな。これは狩猟というモチーフと結びついている部分があるのか、結婚のあり方についての示唆なんだろうか、彼自身に自業自得的な面があるとはいえ、かなり可哀相ではある。

こんな喜劇はあんまり見たことない

本作について、いくつかの目にした説明や感想で「悲喜劇」というキーワードがあったが、私は本作は完全に喜劇だと思う。もちろん喜劇というのは根底に悲劇があるわけだが、それでも本作における悲劇は完全に道具以下の機能しか果たしておらず、言うなれば不条理ベースのコメディと捉えたほうが見やすい気がする。

やっぱりね、哀れなシュマシエルが何処をとっても狂言回し、かつ道化でしかないのがポイントではないか。そして、そのせいか、たしかにクライマックスに悲劇はあるんだけれど、これも悲劇というよりはギャグの範疇に感じられた。

あるべき終着点が見づらいせいでもある。誰が悪いともいわないが-だからこそ悲劇たる面はあるのだが、いかんせんクリスチーヌがどうしたいのか、ある程度予想された展開ではあったが、最後のそれですら半信半疑にならざるを得ない。実際、起きる事件はそれゆえの結末でもある-直接的にはクリスチーヌのせいではないにせよ。

本作は、どこまでも俗な内容なのだけれど、笑わいどころの魅せ方はなんとなく上品さを装っているというか、そういう面が強い-もともとそのような戯曲が元ネタらしいけれど。

しかし、監督がオクターヴを演じているとは恐れ入った。そりゃないよ笑。

上述したように狩りの情景や仮装劇でのライトとカメラの動き、屋敷の騒動のシーンやクライマックスのカメラワークは特別感というほどは感じなかったけど、決まっていて好かった。植物園を覗きに行くシュマシエルとマルソーのカットも好きだね。

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ごめんなさい、記事のタイトルは本当にテキトーです。三体Ⅲ『死神永生』を読んだ。過去の 2 作の感想は以下の記事に述べている。第 1 作目の三体Ⅰ『三体』を読むには発売後からしばらく時間を置いたのだが、三体Ⅱと本作については、ほぼ発売直後に読んでいる。まぁ、それだけ三体のことが好きだよ。

といっても、原作は三体Ⅰの初出が 2008 年で、英語版の翻訳が 2015 年らしいので、もちろん日本語で読めるのは嬉しいが、作者がこのシリーズを世に送り出してからは、かなりの時期を経ているとみても間違いとは言えないだろうな。

他の読者のコメントにもあったが、私は絶妙な設定が施された SF としては三体Ⅱとそこに登場する「暗黒森林理論」に魅せられており、これを大変によかった。 三体Ⅲ『死神永生』は宇宙 SF として暗黒森林理論に基づいた顛末の先まで楽しませてくれる。が、べたに言うと、センス・オブ・ワンダーのような驚きは個人的にはそこそこかな。もちろん、スリリングな読書体験には変わりなく、最後まで楽しめた。

なにより好かったのは、三体Ⅱの主人公であった羅輯がそこそこに重要なキャラクターとして存在感を保ったまま、彼自身の行く末をみせてくれたことかな。こういうのは、シリーズ物の醍醐味といえる。積極的に粗探しをしたいわけではなくて、むしろ楽しんだからこそ気になった点を数点だけあげておく。

中性化する人間たちをどう描く

コールドスリープを経て未来に生きる西暦時代の男性が、当世の人間たちには粗野に見える、というような描写が登場する。当世の男性たちは見た目も中性的になり云々という設定である。まぁよくある。

また、西暦人なりの価値観の象徴であり、属性を備えた人物として、また地球人類のある種の希望の一種として登場するウェイドは、西暦人が作品世界に残した特徴を「野生」と表現していた。

女性については特に描写はなかったが、これも中性的になっていると考えるが自然だろう。何が言いたいかというと、それにしては作中においては、男女の役割だとか、その関係性について未来観のある展望は、要所では少なかった。

特にクライマックスでも、この設定が反映されるはずの重要なモーメントがあって、逆に考えれば、既存と思われる価値観こそが不変だと著者は主張するのか、そうでないとするか? は掘り下げる価値のあるトピックではあろう。

主役の程心は何を判断したのか

彼女の判断はことごとく波乱を呼ぶ。これも超長期でみたときには幸いとなるか災いとなるかは判断しづらい。これは SF の醍醐味として楽しんでいいと思う。実際、私自身はまごつきながらも、手のひら返しがあるかないかを楽しんだ。

一方、それにしても程心は、決断は迫られるけれど、それ自体が彼女の意志による行動として発揮されることはあまりない。これは、上記と似たようなことでいて、決定的に別の話であって、彼女の行動のほとんどは流されて辿り着いた結果のうえで展開するしかない。これにはかなりストレスで、なかなかツラかった。

特に、三体Ⅰ『三体』の葉文潔の抱かざるを得なかった苛烈さと比べると、程心の性質は 360 度ほど異なるのではないか。

だが、いずれにしても前述のウェイドのいう野生が、程心の象徴する人間性を否応なく後押しする結果となりつつも、それでも代表者たる彼女の基本的な理念は、「野生」を退けて「人間性」を選び取ったという、まぎれもない事実が残る。即座に結果が伴うことはなくても、その信念が最終的な目的への到達を導くというスタイルは嫌いではない。

限界状態の共同体はどこへ進むのか

三体Ⅰ『三体』のときにもちらりと書いたが、劉慈欣が自国やその制度に対してどのようなスタンスを取っているのかは気になるところであった。付しておくが、これは本作自体のおもしろさとは、ほとんど関係ないとは思う。

本作では、三体人および三体世界はほとんど登場せず、結局のところ彼らと実際に遭遇したと思われるのも地球人類のうちでたったひとりだ。まぁいい。とはいえ、やはり第一作目からの設定を引き継いだうえで、以下のような描写がある。

乱紀という困難に立ち向かうために必要だった全体主義は、科学の発展を阻むものだと判明し、かわって思想の自由が奨励され、個人の価値が尊重された。これらの変化は、遠く離れた三体世界でも、地球のルネサンスに似たイデオロギー変革運動のひきがねを引き、それが科学技術の飛躍的な発展につながったのかもしれない。これはまさに三体文明史における黄金時代だが、

ここでは全体主義をネガティブに書いている。一方で、地球人類が窮地に立たされた段になった箇所では以下のような描写もある。

人口密度の高いこの餓えた大陸において、民主主義は独裁制よりも凶悪であることが判明し、だれもが社会の秩序と強力な政府を切望し、

つまるところ、どちらを良しともせずにいるのではないか。状況によって社会は、それこそ生き残りをかけてそのシステムを求める。それが自然な流れなのか、あるいはどこまでかは誰かの恣意的な判断の下なのか、それは知らない。

雑に言えば、劉慈欣は現在の中国を後者のような状況と捉えているのかもしれない。あるいは中長期的にはグローバルな社会は局所的にせよ大局的にせよ、このような状況に陥りかねないとみているのかもしれない。つらい。

この作品は何を託すのか

古いタイプの SF が好きなので、と言っていいのか分からないけれど、どうしても作者の主張のようなメッセージのようなモノを読み取りたくなる。「死神永生」というタイトルから読み取れるかと考えても、あまりうまくいかなそうだ。

クライマックスで迎える程心の臨む状況も、決して暗くはないのだが、そこまで明かるようにも見えない。これは本当に見事で、未知の未来でしかない。

となると、というか、本作の視座というのは、繰り返しになるが「暗黒森林理論」のようなシビアさに立脚しているように思われる。現実主義的な中国のひとが描く作品という見方もできるのではないかな。そう考えると、重くのしかかるものがある。そんなような気がした。

でも考えてみれば、これこそ三体人は明言しなかった、あるいは気がつかなかったのかもしれないけれど、暗黒森林を生き抜く方法は、作中で明確に示唆された以外にもあったのではないか。

つまり、最終的には程心は地球人類の代表として生き延びている。また同時に、その他の宇宙文明人たちも最終的には「暗黒森林理論」の及ばない状況での対話を求めたとも読み得るのではないか。希望を見出すとしたら、このへんなのだろうか。

なお、以下のブログの記事は参考になった。

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《大いなる幻影/La Grande Illusion》を観た。1937 年の作品だ。

というわけで、スコセッシおすすめ外国映画マラソン 5 作目となる。監督は、ジャン・ルノワールで、ここからは 1930 年代のフランス映画となる。

導入はあっさりしていて、展開にしても起伏が掴みづらいので丁寧に楽しまないと味わいを損ねかねない作品ではないか。なお、自分が丁寧に楽しめたとは思わない。

第 1 次大戦中のドイツ領域内での捕虜を扱っている。

冒頭、フランス軍の大尉ポワルデュが気になる地点があるので戦闘機を飛ばせと指示する。「手配します」と空軍兵士が返答したのち、画面は切り替わる。ドイツ軍の前線基地で、フランス軍の偵察機を撃墜したと騒いでいる。この時点で、ポワルデュと空軍の中尉マレシャルは捕虜となっていた。

三幕構成といっていいのかな。最初の捕虜収容所での脱走計画を中心にしたやり取り、次の収容所でマレシャルと同じく中尉のユダヤ人:ローゼンタールが脱走を実行するまで、最後にマレシャルとローゼンタールがスイス国境で戦争未亡人に救われた顛末まで、となる。

階級かあるいは連帯か

ふたつ目の幕の収容所の所長であるラウフェンシュタイン大尉はポワルデュ大尉に好意的、というか同族意識を持っている。彼らは元来が貴族階級で、戦前から間接的には縁がある。ラウフェンシュタイン大尉は、時代の移り変わりとともに無くなっていく貴族階級への郷愁をポワルデュと共有したい。

一方、マレシャル中尉は捕虜期間中をポワルデュとずっと共に過ごしてきた。別の捕虜仲間に愚痴をこぼすには、ポワルデュはそもそも身分が違う。どこかで壁がある。いい人間だとは思うが、疲れてしまうときがある。というような旨を述べる。

ポワルデュが軸になっている。

マレシャルもポワルデュも脱走する気は満々なのだが、どういう次第か、ついにポワルデュは自分が囮になることを決意する。「私は逃げない」とは伝えるが、そのことはマレシャルには伝えない。

マレシャルは「なんであんたはいつも一定の壁を作るんだ」とポワルデュに食って掛かるが、彼は「これが私だ。母に対しても妻に対してもこうだ」のように返答する。

私は本作のハイライトはここだと思うんだよね。屈折的には収容所所長がポワルデュに仲間意識を抱いており、そこに注目しやすい。しかし、当たり前のことだが、身分や階位の差こそあれど、ポワルデュはマレシャルやローゼンタールの同胞なのだ。さらに所属こそ違えど、ポワルデュのほうが階位が高く、少なくともそこに、ポワルデュは何らかの責任感を抱えているのでは。

ポワルデュ本人の描写だが、登場当初こそいけ好かない人物かと思わせておいて、他の階級の兵士たちとも差しさわりのない範囲でフランクに接するし、めちゃくちゃ情と責任感に厚い人間だったのだ。ポワルデュは彼を気にかける所長からの友情、脱走して故郷に帰りたい気持ち、マレシャルたちとの連帯のなかで彼なりに悩みぬいて出した答えがアレだったんだよ…。ポワルデュ最高!

実際、ポワルデュが笛でおどけながら収容所内を逃走して時間稼ぎするシーンは見ごたえがある。

大いなる幻影とはいったい

Wikiepdia の記載をみると、本作のタイトルはかなり難産の末に苦し紛れに決定したらしい。「幻影」のニュアンスについては、クライマックス直前でマルシャンとローゼンタールの会話で少しばかり明かされる。とはいえ、分かりやすいものではない。

幻影が何を指すのかは分かりづらいが、少なくとも本作で扱われているのは、戦争を背景にして交じり合う身分や階級、国境や人種、戦士と市民、男と女…。言おうと思えばなんでも言えるのでは? とも思うが、実際にそういう作品なのだから仕方がない。

個別の人間の関係のなかにこそ、人間の普遍性やその美しさ、矜持を見出せる。

ところで最初の幕で、骨折して自分の世話もままならないマレシャルの足を拭いてくれる仲間がいたのだが、その仲間の男はもともと測量士として働いていたらしい。それに対するマレシャルの返答もなかなかおもしろくて-演出の意図は掴みかねているのだが、だけどやっぱり本作に通底する部分だと思うんだよな。

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《ナポレオン/ Napoléon》 を観た。こちらは元々は 1927 年、フランスはアベル・ガンス監督の作品だ。このマラソン企画の範囲でいえば《メトロポリス》(1927)と同時期の作品ということになる。前回の《ドクトル・マブゼ》(1922)も見やすい状態だったことを振り返ると、ちゃんとしたディスクなら《メトロポリス》もかなり綺麗な状態で鑑賞できるのかしら。余談です。

というわけで、スコセッシおすすめ外国映画マラソンの 4 作目です。

Wikipedia の説明によると監督は、第一次大戦中からはプロパガンダ映画の製作に携わったらしい。本作もナポレオンを軸にした国威掲揚作品とはいえそうだけれど、プロパガンダ映画とは言えるのだろうか。どうなんだろう。

今回は、膨大な原作フィルム(散逸した状態からかき集められた)をフランシス・コッポラが再編集して 1982 年に公開した版(240 分)を DVD で鑑賞した。公開当時は日本にも特別上映が来たらしく、その際は生演奏で劇版がついたとのことだ。

前置きが長くなった。話としては、ナポレオンの少年期くらいの雪合戦のエピソード、1792 年頃に実家のあるコルシカ島からの脱出と翌年におけるトゥーロン攻囲戦-ここまでが第一部、第二部は彼の恋愛模様と 1976 年頃のイタリア遠征が物語の軸といえる。ちょいちょい当時のフランス史が分からんと少しばかり付いていきづらい気はするが、致命的ではなかった。というわけで、大筋についてはこれくらいだ。

フィルムの色味で攻めていけ

映写時のライトなのかフィルムそのものの色味なのかよく分からないが、いわゆるモノクロ(白黒)の画面はほとんどなくて、青みがかっていたり、赤だったり、ピンクだったりする。緑はあったかな。つまり、そうすることで場面に違いを生み出している。言われてみればな手法ではある。

たとえば室内でのシーンはほとんど暖色の橙の映り方になる。議会などの激情的なシーンだと、ここに赤みが増す。パーティーなどの色気のあるシーンでは、ピンクになっていた。一方の屋外は、青色系が多い。これは時間帯であったり、海に対応していることが多いようだ。早朝だったら空気は青っぽいし、そもそも海は青い。ついでに、寒いシーンも青っぽい。

上記以外は、いわゆるモノクロなシーンとなる。白昼とかが多いのかな。

三台のカメラ、映写機を酷使する

第二部:物語の終盤に駆使される超絶撮影テクニックがあった。あんまり説明するのも野暮なので簡潔にしたいが、つまり疑似的にパノラマを作り出す。ものすごい根性で、監督の映像へのこだわりが身に染みる。イタリアに進軍する軍隊と指揮するナポレオンを描くが、遠景で部隊全軍の動きと岩山、その先にある肥沃な大地を見せたいわけだ。これは初見ではあっけにとられる。

つまり 3 台のカメラを使うのだが、そのうち中央だけをナポレオンのクローズアップにするということもやってのける。私個人の体験としては、小休憩を挟みつつではあるが 3 時間以上も画面を眺めてきた最後にこの映像を見せられると、疲れのなか生じる達成感が半端ではなかった。

なお、ここでもフィルムの色味を使ったトリックも登場する。伊達ではない。

ところで、このシーンの遠景の撮り方なんかは私が言うまでもないのだけれど、さまざまな撮影者に影響を与えているのではないかな。パノラマへの挑戦が先に見えてしまうので見落としそうになったけど、遠景の映し方がとてもきれい。

コルシカ島から脱出せよ

本作でもっとも楽しかったエピソードとして触れたい。実家のあるコルシカ島が、フランスその他のどの国家に属すべきかで騒動になったらしい。そいで、ナポレオンは目の上のたんこぶっぽい存在だので消されそうになり、這々の体で島から離脱する。

離脱の最中、市場のようなエリアで「オラが郷はスペインだ、やれイタリアだ、イギリスだ」と皆が思い思いに騒ぐなかで隠密行動中だったはずのナポレオンは「フランスやがっ!」と叫んで姿を顕すと、みんながびっくり仰天する。ところが直後に彼は場を支配してしまうのであった。

その場にいた民衆のうち、特に女性たちはおそらく出自別に衣装やら化粧やらが区別されているのだが、どの女性たちもそれは美してくて、笑ってしまう。いや、美しいからいいのだけれど。まぁ、おもしろい。

次の段となるイギリス方の偉い人たちから馬で逃げる逃走と追跡の劇は、これもまた遠景は見事だし、騎馬の撮影も半端ないですね。ヒッチコックの《マーニー》や黒澤明の《七人の侍》の類いよりもよっぽどエキサイティングにすら思えるシーンも少なくない。後半も似たようなシーンがあったが、これはすごい。

最終的には、ある浜から小舟に乗り換えてフランス本土を目指すナポレオンだが、この航海もやたらとすごい。こんなん 1920 年代に作れるのかぁ。最後のほうで漂流っぽくなるシーンがあるのだが、波高い海を漂う小舟を、こんなんどれだけ狙って撮れるのかという見事なカットで、とにかく海が美しい。必見とすらいいたい。

享楽的なピンクのシーンがある

ロベスピエールを代表とした極端な恐怖政治が終わり、ナポレオンが政府に見出されたあたりで、粛清の犠牲者たちの近縁者が集うパーティーが描かれる。

ナポレオンは、このパーティーの乱痴気騒ぎをを堕落と断じてキレる。彼の性格を描写する狙いというか、笑いどころでもあるのだが、このパーティーのその享楽的な空気の演出ががすごい。

先ほど述べたが、このシーンはフィルムがピンク様になる。踊り子たちの衣装もかなり際どい。なんならクルクルと踊り回るシーンではバストが転げている。フランス映画っぽいなというのは、そうなのだけれども、この如何にもなシーンも必見だ。はっちゃけている。もうね、何でも映したるでという監督の情熱が画面越しに伝わってくる。

しかしそれに比べて、ナポレオン自身が恋しているシーンは、子供たちと遊びに興じている箇所を除いては、ほとんど面白味を感じなかったのも興味深い。なんだか申し訳ないけれど。

その他

土砂降りのなかで展開されるトゥーロン攻囲戦の描写の周辺には特に《七人の侍》が目指した表現があった気がする。敵味方の乱れた戦場、泥臭い格闘、 積み上がる亡骸たち、第一部の後半を占めるこの戦闘-悪く言えば何が起きているのかほぼ不明なのだが、見応えがありすぎる。

ところで、あまり調べられていないが、黒澤明がアベル・ガンスを敬愛していたという話はチラリと目にしたのだが、特に本作は 1920 年代当時、ごくごく小さい範囲でしか日本では鑑賞できなかったらしいし、その後はほとんど鑑賞できなかったようだ。黒澤明がいつ鑑賞できたのか、何か資料はあるのだろうか。まぁいいや。

本記事では、以下の記事などが参考になった。

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滅多に購入しない CD を自宅の PC で再生しようという段になって、スピーカーを用意しようかなと気が向いた。いままでは、ディスプレイ内蔵のスピーカーを使っていて不満はなかったが、気持ちの問題である。

予算は 5,000 円前後くらいを狙っていた。調べると色々と出てくるが、予定の価格帯の商品は案外少ないようだ。サンワやエレコム、ロジクール系の安価な商品であれば 2,000 円以内になってくる-ロジクールは狙い目の価格帯もあればハイエンドなタイプも用意しているようだが、どうにもしっくりこなかった。何かと縁のないメーカーである。

JBL の JBL Pebbles という製品が高評価で、本製品がすんなり手に入るなら、深入りせずにこちらしていたかもしれない。だが、製品サイトに行くと販売中のように見えるが、量販店だと Amazon ですら取り寄せになっている。いかんせん 2013 年の製品でやや古い。もともとは現在のネットショップの価格帯よりも半値くらいだったような情報も目に入ってくるので、遠のく。

で、最安の価格帯でもいいかなとなっていたときに Creative の Pebble の情報が目に留まった。おそらく 2 代目のレビューを目にした段階では、悪くはないけどどうだろうな? と引き気味だったのだが、おそらく 3 代目にあたる Creative Pebble V3 はピンときた。よさそうだ。

使ってみた。給電は Type-A または C の USB 接続(Type-Aへの変換コネクタが付属)で、音も USB を経由して通じる。USB の給電能力によって 8W ほどの出力をカバーするらしい。

私はコネクタで Type-A を給電元としているが、3.0 対応の端子なのでそこそこの馬力は出ているのかな。よく分からないが、音が小さいということはなくて、十分なボリュームになっている。

音質についてどうこう言う能力はないが、少なくとも低価格帯とは比べられないクオリティは当然のことながら保たれている。

また、本製品の魅力のひとつとしては、スイッチングこそ必要だが、Bluetooth接続も用意されており、すぐに切り替えできる。ただの電源に接続した場合は勝手に切り替わるので気軽だ。

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《ドクトル・マブゼ/Dr Mabuse: Gambler》を観た。1922 年の作品だ。フリッツ・ラングの作品鑑賞としては《メトロポリス》に続いて 2 作目だが、こちらの方が 5 年以上も古い作品らしい。というか1922年というとほぼ100年前の映画じゃないか。大丈夫かと不安になる。何がだ?

というわけで、スコセッシおすすめ外国映画マラソン 3 作目となる。

犯罪映画だ。ピカレクスロマンとも言っていいのかな? ちょっと趣が違うか? 表向きは精神分析家あるいは精神科医のような確立した身分を持つ主人公:マブゼ博士が実はさまざまな犯罪に手を染めている。大悪党なのか小悪党なのかは判断しづらい。といったところで、ドタバタして最後には小さな綻びから破滅する。

本作は2部構成となっており、第一部は「ギャンブラー」(150 分程度)、第二部は「インフェルノ」(120 分程度)と副題つきで構成されている。また、各部で6幕ほどか話はほぼ連続して展開するが、明確な区切りが設けられている。

日本国内でも時折ミニシアターで上映があるようだが、ディスクは 2008 年の紀伊国屋書店による「フリッツ・ラング コレクション/クリティカル・エディション ドクトル・マブゼ」が最新の状態のようだ(本記事執筆現在)。ただし、この盤はすでに廃盤で中古価格が高騰している。

私は今回、どうやって観ようか困って TSUTAYA も真剣に検討したが、どうせ無声映画だし、それくらいの英語字幕ならなんとかなるだろうと判断した。US 版の Blu-ray が Amazon Japan でも転がっていたので、こちらを購入した。どうしても日本語字幕で見たい場合を除いては、この方法をオススメしたい。購入した版には、特典映像として劇伴、原作、マブゼの元イメージについての解説がついている。いいね。

以下、感想となる。

ギャンブル、人間の運命を賭ける

作中で 2 度ほどかな。マブゼ博士が台詞にするが、彼は賭け事が好きだという。それはお金もそうだが、「人間の運命を賭ける」ことに強調していた。ほぼ第一次世界大戦直後の時代背景とはいえ、まともに生活していれば安定した生活を過ごせるだろうマブゼ博士が、なぜわざわざ犯罪に走るのか。しかも、義賊というわけでもないただの悪人だ。あるいは戦時中に彼の価値観を揺るがす事件があったのか。

とにかく博士は狂っている。でも、画面中では悪役なりにカッコいいんよね。それが犯罪映画のキモといえばそうだろうが、とにかくキレがいい。葛藤も何もない。とにかく悪い。善性のカケラもない。純粋悪だ。純粋悪とは!?

第一部:ギャンブラー

国家間の秘密書類を抜いてトレード額を操作し、株でボロ儲けするシーンが Act.1 であった。ユニークだなと見ていたのは株式市場の時計で、大きな 24 時間時計が中央の間に据えられていた-通常の 6 の位置に 13 が配置される。また、他シーンのホテルのフロントに掛けられた時計は、12 時間時計ではあったが、13~24時までも文字盤に刻印されていた。ドイツらしいと言っていいのかな。あまりみないデザインだ。

Act.2 からは一貫して富豪:ハルをカモにするマブゼ一味、並行して悪のギャンブラーを追跡する当局:ヴェンクとの対決が描かれる。精神分析家らしいマブゼ博士は催眠術のようなトリックも駆使して相手を操る。

Act.4 の裏賭場で対峙したヴェンクを陥れるシーンは作中でも屈指のひとつだろう。ワイワイガヤガヤとひとがひしめく中で、朦朧とした意識の中、変装したマブゼ博士を凝視するヴェンクの意識は遠のいていく。

すると、マブゼ博士の周囲は黒くなっていく。カメラが絞られる「アイリスアウト」という技法の延長なのかな-アイリスアウト自体は頻繁に使われている。ブラックアウトしていく画面は、マブゼ博士の輪郭を上手に包む。どうってことない演出のようにも思えるが、主演の存在感の強さもあいまって強烈なシーンだ。ただただ不気味なマブゼ博士の顔が怖い。

Act 5 で登場する裏賭場の仕組みもおもしろい。円形のテーブル中央に鎮座したディーラーは、円の縁に座ったプレイヤーとやりとりする。カメラはディーラーを回りながら映す。この賭場のキモは緊急時には上から踊り子の舞台セットが降りてきて場を隠蔽できる仕組みということで、その大掛かりさがいいね!

第二部:インフェルノ

まずは、前編でヒルとは別にマブセの悪意の標的となったトルド伯爵について触れたい。普段はやらないギャンブルをなぜかプレイしてしまい、しかもそこでインチキが露見してしまう。パーティーの客は退散してしまうし、その隙にパートナーはマブセ博士に誘拐されるし、散々だ。

そのうえ、マブセ博士にカウンセリングを装った罠にはめられて破滅していく。神経が摩耗した彼の描写、演技が美しくて好きだね。後編は彼が 1 番よかった。広い邸宅で発狂して暴れまわるシーンとかいいぞ。

Act.5 くらいのマブゼ博士が扮した奇術師のステージも見ものだった。先住民族と思しき集団がステージの奥から次へ次へと舞台、観客席へと移動していく。終いにはパッと消える。パッと消えるほうは映画のテクニックとしては分かりやすいのだが、画面の奥から登場する仕掛けは謎で、これはステージもといスタジオが実際に奥まで作られていたのかな。

パッと消えるほうのマジックも現実的には不可能に思われるので、これはもはやマブゼ博士の幻想、もとい幻覚の世界とも考えうるのかね。

マブセ博士の手下たち

6 人くらい居るのかな。しょっぱなから登場するのが、虚弱で頼りなさげな執事風の男、次に登場するのは運転手または強行部隊として働く豪傑、さらにはデブで巨漢な歯抜けの男、紅一点のカーラ、ヴェンクの事務室を破壊工作した男もメンバーだったかな。

個性が強くて彼らを見ているだけでも飽きない気がする。キャラクターの造形としてはマブセ博士に負けていない。これが見事だね。でも、マブゼ博士の何に魅力を感じて従っていたのだろうか。大恩があったりしたのかな?

マブセ博士の最後

本拠地から地下水道を這って逃げるシーンだけで、その転落の様がおもしろいが、別の隠れ家に到達したときの顛末も面白い。まず、現場で雇っている盲目のひとたちに恐れられる。彼らは直接マブゼ博士のことを把握していないのだろう。恐れ切っている。てんで役に立たない。

ついで、本作中で彼が手を下した犠牲者たちとの関係が、あらためて炙り出される。ベタだけど、このへんの描写も最高だね。詳しく書きたいけど、野暮になりかねないから止めることにする。いい映画だった。

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