濱口竜介監督の商業2作目長編だ。《ドライブ・マイ・カー》を観た。個人的には《寝ても覚めても》ほどの衝撃はなかったかな。

岡田将生は『リーガルハイ』(シーズン2)でくらいしかまともに見たことがない気がするけれど、こういう役がハマる。美味しいなぁ。西島秀俊もよかったが、どういうわけか、彼の鼻の高さが 1 番気になってしまった。カッコいいな。

監督はロードムービーというか高速道路が好きなのかなと、もちろん普通の道路での走行も含むが、今回も広島のハイウェイはもちろん、日本海東北道だろうか、その他にも首都高など、さまざまな道路が出てくる。

作品で演じられる舞台『ワーニャ叔父さん』の台詞読みと、作中での話の展開が重なり合って意味を齎すのは、これは本当に見事としかいいようがない。何がどうなって作用しているかは、ぶっちゃけ、よくわからんくらいだった。それほどの綿密さを感じた。

ただまぁ、悲劇を共有し、奇妙な関係を維持していた妻を失った家福の、自身で自覚していなかった重荷、そして同時にドライバーの渡利の抱えていた後悔のような念、これらが 2 人のよくわからん感情の交感を経て、なんやかんやと昇華されていくという話自体は、個人的にはピンと来なかった、というほどでもないが、まぁそうだね、くらいの展開ではあった。

これはいいなと思ったシーンなど

ごみ処理施設で廃棄物をクレーンが巻き上げる。渡利が「まるで雪のようだ」と言う。彼女は北海道出身らしいが、この発言はとっても詩的だなと思った。舞い散るゴミってのはそりゃ汚い。その汚さを地元の苦い記憶に重ねているのか、それともそこに何らかの美しさを見ているのか。どっちもと言えばそうなんだろうけど。

この施設はロケーションを広島にする決定打になったそうだ(Wikipedia拠)。私も機会があれば行きたいと思っているところなので、いいですね。

家福が滞在先となる部屋に訪れて、海に面した窓を開ける。そこに手前の小道に、同行した韓国人の助手さんの車を回してきた渡利が現れて、運転に満足したかと問う。のような展開になって、そこで渡利は喫煙をはじめて事態は収束してく雰囲気になるが、そこ窓の目の前に車を回す必要まったくないよね、細かな間取りは分からないけどさ。てか通行の邪魔だし。

自分はこのシーンに「こういった画にしたい」という力強さをもっとも感じた。

北海道への愛の逃避行。これもよかった。道中の看板に「新潟」などが目に入ったと記憶しているので、日本海側から日本海東北自動車道を経由したようだ。コメリに寄っちゃったりするのも、小ワザながら味がある。寝落ちしてしまう家福というのは、本作中では彼にとって、もっとも安心できる幸福な時間だったろう。

舞台稽古を公園で行うシーンがある。耳の聞こえない韓国人イ・ユナと台湾人のジャニス・チャンが劇のあるシーンを演じる。公園の樹木をうまく使ったりして、2 人の演技は本番さながらの雰囲気を醸す。なんか、この映画を見てよかったと思えるシーンだった。本作の本題とどれだけ親和してるかは、よくわかってないけど。

音が残した謎っぽいナニカ

これら問い自体が意味を持つともあまり思わないが、一定の謎として残っていることは事実なので、適当に書いておきたい。私がパッと思いついたのは以下など。

  • 音は家福に何を伝えようとしたか
  • 大槻は物語の展開を音に伝えていたか

上から触れる。抽象的にいえば、現状になにかしら変化を求める一手を放つつもりだったという点については異論あるまい。それが「離婚」のひと言で片付けやすい内容とは思いたくないが、では何なのかというと言葉にもしづらい。

彼女はイタコ的に物語を紡いでいたわけだが、それ自体が苦しみになっていたとも思える。彼女は物語を語ることを止めようとしていたのではないだろうか。それはあらためて、家福と向き合うことであるだろうし、悲しみの共有のやり直しだったのではないか。

下に触れる。これ、音は家福以外からも自分の物語の展開を確認できる機会を設けていたということに他ならないが、誰もがそうしていたとは限らないし、音がそれをどれくらい目的としていたかも定かではないけれど。

で、件の大槻も音と物語のやりとりをしていたことは家福に自白したが、それを音との関係においてどう処理していたかは明言していない。翻って、本編で家福が音に情報をはぐらかした瞬間、時系列も定かではないが、もしかしたら音のほうは、家福が隠した彼女の物語の顛末をすでに知っていた可能性すら考えられる。

家福のはぐらかしが、音の決断の最後のひと押しになったとみても不自然ではないだろう。結論の出ない謎が残るのは楽しいですね。

交わるシーンとか、喫煙シーンとか、出し惜しみがないのもよかったですね。

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