喪失に向き合わないでどうする|《林檎とポラロイド》

《林檎とポラロイド》を観た。ヨルゴス・ランティモスと同じギリシア人監督で、彼の撮影の助手のようなこともしていたらしいクリストス・ニクという新しい方だとかで、興味を持ったワケだが、好みの作品ではあったが、小品というか突き詰めるとなんともいえない味わいだ。

ネタバレを忌避するタイプのひとにはあわない作品とその感想なので、以下の文章は注意です。

英題は “APPLES” で原題の通りだが、ギリシア文字では “ΜΗΛΟ” と書く。ざっくり「ミロ」と読む。イータの大文字の形状がアルファベットの “H” と相似だからビビりますね。ちなみに、キリル文字の “И” はイータを元としているらしいけれど、キリル文字にはこれとは別に “Н” という字がある。もうメチャクチャですね。

さて、突然にひとびとが記憶喪失に陥る社会で、ある男も記憶喪失になったようだ。これらのひとらは病院に送られ、保護されて診断を受け、親族なり友人なりが引き取りにくれば、それに応じる形になるらしい。

で、親族らが見つからないなどの場合は再生プログラム送りになる。

男の本当にやりたかったことは

鑑賞者には中盤のさりげないシーンで種明かしされるが、男:アリスは記憶喪失を装っていただけだ。で、その理由だが、パートナーが亡くなったことに起因している、と思われる。

と、オチだけ書くとなんということはなくて、本作はいったいなんだったのかという気分になる。

再生プログラムの目的は

そもそも、記憶喪失者の発見時に身分証の不携帯が問題になっているようだし、この世界にはスマートフォンなどの機器もないようなので、ていねいに無視されているが、設定にはかなりファンタジーがある。

というワケで自ずと、本作からは寓話的なメッセージ性を読み取りたくもなってしまうというものだ。

記憶喪失者にはアパートの一室と生活資金があてがわれ、謎のプログラムをこなすように指示されるが、およそ生産的な行動ではない。どちらかというと破滅的な行動の指示が多くなっていくようだ。

特に最後の指示は、途中で切断されたものの、不穏な内容であった。

そのひとつ前の指示が、アリスが直面していた事態、あらためて向き合わさせられた事態であり、それがある意味で、ひとを自暴自棄にさせるような状況だとすれば、社会の足かせとなる記憶喪失者たちは、何に使われるのか。

逆説的に、アリスは記憶を取り戻すことを選ぶ。

うーん、でどういうことなのか

「林檎は記憶を維持するために役立つ」というメッセージ、記録を残すために利用されるポラロイド写真。少なくとも本作の舞台設定では、情報を残すための装置は脳とポラロイド写真しかない。

人間の記憶もポラロイド写真も淡い。次第に、あるいは不意に、ときにはあっという間に大切な情報さえ失う。

通信手段のない世界、記憶喪失という現象あるいはその装い、記憶喪失的な、かつ身寄りもロクに見つからなかった人間たちへの扱い、といったあたりを掘り下げると、本作には人情噺というよりは仄暗さがあるように感じるが、ここまでとする。