映画:《地獄の黙示録 ファイナルカット》

IMAX レーザーGTテクノロジー仕様で《地獄の黙示録 ファイナルカット》を鑑賞した。フランシス・コッポラ、作風や周辺の話題が尽きない監督だが、大体が「わからない」と言われている印象がある。いくつか機会を見逃していたが、今回、はじめて味わった。超サイコーじゃないか。賛否両論がある作品のようだが、本作が纏った徹底した矛盾が、独特の魅力を生み出している。

一箇所だけ、キルゴア大佐のけしかける爆撃攻撃シーンでうつらうつらとしてしまった。このシーン、割と人気のようなのだが、状況の読み取りのしづらさに加え、爆音がヘビーすぎて脳の処理が追いつかなかった。ついでにマスクをしながらの鑑賞だったため十分な酸素が回りづらく、ついつい寝落ちた。

クルー

カーツ大佐の居城へ向かうウィラード一行の遡行の旅は、ベトナム戦争のバカバカしさを同行の兵士たちを通して表現する。チーフ、シェフ、ランス、クリーンの 4 名だ。

艇長であるチーフは 1 番まともなキャラクターだが、作戦の目的を知らない彼は、責任感もつきまとい、目的地に近づくほどに頑なになっていく。あげくは現地民の投擲した槍に命を奪われるが、その間際にウィラードを道連れにしようとする。任務の遂行がどうでもよくなっている。死に際で仕方ないとはいえ、狂気に落ちた。直後、他のクルーには作戦を明かされることとなる皮肉もツライ。ついでに言っておくと、ランスに水葬されるチーフのシーン、本作で 1 番好みで、水面の光もよいし、艇にあがるランスの表情もよい。

薬におぼれた機関士、シェフは活躍もほぼなく、一見するとギャグ要員のようだが、ベトナム語とフランス語を喋れるトリリンガルとして非常に優秀だ。ニックネームの通り、もともと料理家を目指していたようで、語学に堪能なのもその流れがあるようだが、こいつがいなかったら話が詰んでる点がユニークだ。チーフの死後、短い間だがまともなキャラクターの地位を引き継ぎ任務をほぼ完遂させたのち、圧巻の最期を迎えるのもよい。ほぼウザいだけだったが、終盤は憎めない。

プロサーファーらしいランスは、まだ少年らしさを残している。補給基地で仕入れたと思しき水上スキーで勝手に遊び出す。フェイスペイントに興じる。自分宛ての郵便に対して「ディズニーランドよりもこっちのほうがよっぽど楽しい」と叫ぶ。ベトナム人の舟から奪った犬を飼いはじめる。カーツの王国には馴染んでしまう。以上のような描写により、ベトナムに、カーツに、順応してしまうタイプの人間として描かれる。これはクリーンとの対比でもある。こんな彼は生き残るのだから世話がない。

最年少の兵士クリーンは、完全に少年だ。彼は本国から離れられない心理を表しており、ラジオから流れてくる「サティスファクション」に合わせて踊ったり、両親からのテープに郷愁を抱いたりとする。すべての人物に関連するテーマだが、クリーンの帰るべき場所は明確で、しかも、割と裕福な家庭の子息であるようだ。そんな彼が脆くも最初に脱落してしまうのは非常に忍びないし、無常であり矛盾でもある-言うまでもない。

作戦の目的

カンボジアへ向かう船中でウィラードはカーツの資料を読み込んでいく。カーツの経歴や実績は見事なもので、軍紀に違反した作戦も、それ単体で評価すれば成果も上がっており、否定しづらいもののようだ。補給所の乱痴気騒ぎや弛んだ同乗のクルーたちを横目にしながら、ウィラードは彼へのシンパシーを深めていく。この同情は作戦の成功には邪魔だろう。ウィラードもカーツの一派に取り込まれる可能性を示され、私はやや動揺したが、果たして結末は。

フランス人との会食

クリーンを失った直後のこと。フランス人の運営するプランテーションに立ち寄り、彼らの歓迎を受ける。一転して日常のような環境に入るが、逆に言えば、ここからが本当の地獄(Apocalypse)の入口になっているわけだ。戦場の真隣にこのような場所があることの不思議でもある。なんとなく《風立ちぬ》の軽井沢での休暇旅行のシーンを思い出してしまった。

会食中のフランス人らは一家であり、男女 6 名ほどいた。彼らは国から見放されかねない状況でもあるが、国を愛しつつ、一方で、この土地にも情があり、家族間の政治的スタンスにもやや隔たりがある。議論がヒートアップするたびに、ひとり、またひとりと席を立っていく。

ロクサーヌとの夜

もうめちゃくちゃ幻想的で、私は嫌いになれない。このシーンは何だろう。ウィラードが自らの心を開いて完全に無防備にされている作中で唯一のシーンでもある。豪奢なあしらいの部屋は、のちに登場するカーツの居城とのうまい対比にもなっているし、カーツの居城で限界状態に晒されて心が無になった彼の状態とも対比できる。

作戦の完了

ウィラードがカーツ暗殺を成功させられたのは何故だろうか。同じ任務を背負ったコルビー大尉はなぜカーツへ恭順してしまったのか。ウィラードとカーツ、またはコルビーとを分けたのは、端的にいえば本国に待ち人がいるか否かであり、カーツは息子が、コルビーには妻が居た。ウィラードはどうか。

ウィラードについては、オープニングで示された通り、とっくに妻から離婚を言い渡されて受理している。本国に帰るべき理由があるひとたちは戦地に留まり、狂気に身を委ねる一方で、ウィラードのような頼りを失った人間が彼らを粛正する。やはりここでも、同乗したクルーと同様に、本人が自覚して本来求めていたはずの立場や居るべき場所が、現実では逆転している。その原因は正常や狂気、あるいは軍務への忠実や誠意、恭順などと白黒つけられるものではないのだろう。

なお、この感想では触れまいと思ったが、この作品は撮影に難航したという事実があるようで、その最大の問題のひとつがカーツ役の俳優のマーロン・ブランドの肥満にあったという。本作、ラスボスのカーツは、ほぼ陰にいて登場から最期まで全身がほぼ映らない。ここでも苦し紛れの光と影が絶妙なな仕事をして美しく、結果的にその不気味さを強調している。想定外への対処が、魅力を増強させているという皮肉も認めざるを得ないのではないか。

バージョンの違いと受容

本作、いくつかのバージョンがある。私の分かった範囲だと初回公開の時点で限定の 70mm 版と通常公開の 35mm 版があり、この 2 つの大きな違いはエンディングのカーツ居城爆撃シーンの有無だそう。35mm のほうに爆撃シーンがある。また、クレジットも 35mm にしかない。

次いで、2001 年に公開された『特別完全版』は、50 分ほどのシーンが追加されているらしく、序盤の最後に登場したプレイメイト達との再会シーン、およびフランス人のプランテーションのシーンが主とのことだ。

最後の今回の『地獄の黙示録 ファイナル・カット』だが、これは『特別完全版』からプレイメイト達との再会を削いでいる点が大きいようだ。なお、後者 2 つのバージョンには、最後の爆撃シーンはない、ようだ。

いくつかの人の感想や批評に目を通したが、最初に 70mm 版を観た人はこれを最高としていることが多いようだ。特別完全版は冗長に過ぎるようだが、プレイメイト達との再会シーンがなくなったファイナル・カット版は収まりがよいとは思わないかしら。

上述したように、母国に家族を残したカーツ、家族を失っているウィラードという対比に加え、戦争のむなしさ、それをある種克服したカーツの居城を繋ぐフランス人のプランテーションという場違いな日常。それを締めくくったロクサーヌとの夜というのは、異様に美しい。

帰るべき場所があるカーツ、それを失ったウィラード、ロクサーヌがいる。一方、戦争の地でウィラードを魅了するカーツ、あるいはロクサーヌがいる。本作はこの 3 人の構造で私は楽しみたい。ファイナル・カットを観られてよかった。奇妙な作品であることには変わりないが、明確に魅力がある作品であった。