《シチリアーノ 裏切りの美学》(以後「シチリアーノ」)を観た。イタリア映画である。原題および英題は “Il traditore”、”The Traitor” となっているので端的に「裏切り」でよいようだが、邦題に付された「美学」はどうか。とある SNS で的確でないとツッコんでいる人がいたが、この場合は「貫き通した信念」くらいのニュアンスで「美学」としているのだろうから、許容の範囲ではないか。どうでもいいけど。

同じく SNS でよく見かけたコメントより、背景知識の欠如が鑑賞の足を引っ張ることになることが確かめられたので、主役となった人物 トンマーゾ・ブシェッタ の Wikipedia の記事を事前に読んでおいた。これは完全に正解で、起こる出来事はだいたい把握でき、話が見えずに集中できないという事態は免れた。なんとなく絶妙におもしろくて、珍しくも鑑賞後にパンフレットを買うてしまった。

イタリアにとってのマフィアとは

さっそくだが、本作の話題からすこし逸れる。

《シシリアン・ゴースト・ストーリー》(2018)という映画があり、これは劇場で知識なしで観たら困ってしまった作品であった。この作品は、シチリアで起きた誘拐事件(ジュゼッペ事件)がベースになっており、言うまでもなくシチリアのマフィアの存在が根底にある。

この誘拐事件は 1993年に起きたとのことで、今回の「シチリアーノ」で描かれた時代と部分的に重なる。重要な登場人物、というか当時に権力を利かせていた大ボスである サルヴァトーレ・リイナ が同じ背景におり、改悛しようとした構成員を脅すための誘拐だったらしい。

この作品の監督は「事件から20年以上が経って、シチリアでもこの事件のことを知らない人がいたりして、この事件のことを忘れて欲しくないという思いで撮った」らしく、なるほどそういう意義も大きいのかと、あらためて学んだ次第だ。

「シチリアーノ」にも同じ面はあるはずで、現存のイタリアやシチリアにおけるマフィアの支配はおそらく弱まりつつあるのだろうけれども、とはいえこの半世紀以内に起きた出来事のインパクトはあまりにも強烈で凶悪であり、一方で、マフィアが必要悪として受け入れられていた状況もあるだろうわけで、このような作品たちがイタリア国内でどのように消化されていくかは単純に興味深い。

「シチリアーノ」の感想として、マフィア映画としては微妙のような意見もいくつか目にしたのだが、そもそも実話ベースの社会派作品という本作の側面を見落としているのではないか。

奇妙な倫理観、あるいは残虐性

ブシェッタも所属したコーサ・ノストラ、彼らの約束する「血の掟」とは、まずは組織の秘密を必ず守ることにある。そもそも組織の存在とその構成員であることを彼らは公的には否定する。その掟のもと、ブシェッタの主張としては、もし構成員が組織から排除されるにしても、それは彼らの関係性の内、最小限の人間関係の中で処理されるべきものであった。

こういった条件の下、彼らは家族となる。任侠の世界では義兄弟になるし、マフィアも似たようなものらしい。ところがブシェッタの裏切りと、本作で最大の黒幕として描かれる-実際にそうなのだが-サルヴァトーレ・リイナとの確執の大元には、まず 2 人の家族観の相違があったようだ。本作でもその点が大きな要素として描かれる。

が、言っては何だが、だからなんなのだという話にも見える。

リイナの指示の下(とされる)に繰り広げられた虐殺ともいえるコーサ・ノストラの大凶行は-リイナの極端なまでの猜疑心の強さにも起因するらしいが-、とにかく見境がないようで。劇中で、まるでゲームでもあるかのように演出された状況は、悪く言って爽快ですらあった。

そんなリイナは、端的に言っていわゆるサイコパスなんじゃないのかとも思うが、そうしてしまうとマフィアのほとんどが該当しそうになる。家族は大事であると口を酸っぱく言う彼らだが、どんな家族だよ、それ、という。また、結局のところブシェッタも、度を過ぎた大量殺人には異を唱えたものの、外道には変わりない。

結論というほどのことでもないが、社会的に、人の命が軽くなるという状況において、どのような諸条件がそれを引き起こすのかしら。それは麻薬なのか、戦争なのか、金なのか。

えらい法廷があったもんだ

話が拡散してしまいがちだ。ブシェッタの告発により、幾人ものボス級の構成員が捕まる。そんで、彼らの罪を裁こうという段になる。

1984年に執り行われたらしい所謂「マフィア大裁判」だが、逮捕された大量の構成員が、大法廷に用意された左右の檻に収監され、やいのやいの騒いでいる。各人の弁護人と担当などが中央の座席に扇状に並んでおり、後方の 2 階部分には親族やマスコミが立ち並ぶ。パンフレットによると、この大法廷はこの裁判を目的として建造されたらしい。

同パンフレットには、この法廷劇を迫力があるというように述べていたが、どうか。一方で、SNS ではシラケたというような意見もあった。私の意見はどちらでもないが「ところがどっこい、これは現実」をほぼ忠実に再現した作品なので、「迫力」をそのまま解釈すれば、これは私は真実味ということになると思う。

檻のなかのマフィアは一部の人物を除いてはかなり滑稽に描かれている。ここには社会派映画としての側面、監督としての矜持があったのではないかな。マフィアは恐れられることは十分に認めるが、滑稽にされることについては許さない、とのことで、これはなかなかマフィアに対しては攻撃的な描写に見える。牢の中でお道化ている彼らは正直、ダサい。

裁判としてまともに機能していない法廷劇は、感触としてはたしかに「シラケている」のだが、なので、だからこそ面白い。

「対決」という謎のシステム(イタリアの裁判システム)によって、ブシェッタとの旧知の友にしてコーサ・ノストラの要人でもある ジュゼッペ・カロ、彼とブシェッタとの口論も描かれるのだが、カロの主張があまりにも弱く、なんでこんな茶番染みていて子供っぽい言い争いになるのかさっぱりわからん。しかし、これも実際にこういうやりとりがなされたんだろう。

そう考えると単純にウケるし、こういうトンチンカンな主張を公的に開陳するやつ等が何人もの人たちの命を軽々と奪ってきたのだという奇妙な現実感も引き起こす。

結局のところ、この大裁判によって、カロは終身刑で投獄され、まだ獄中にいる。また、大裁判より 8年後の 1993年にはリイナが逮捕されており、こちらは 2017年に亡くなったらしい。ブシェッタはそれより早く、2000年にアメリカ合衆国で亡くなっている。

この記事を書くにあたって軽くググってたら、以下のブログよりリイナの訃報のネットニュースのリンクがあった。当時の報道や獄中のリイナの様子などが動画で確認できるが、なるほど作中では要所が的確に再現されていたのだなと確認できて、よい。

その他のことなど

なんか音楽がよかったらしい。鑑賞中、今回はあまり気づけなかったのだが、パンフレットに記載された最後の記事によると、かなり手が込んでいたようだ。担当のニコラ・ピオヴァーニは、いくつかの有名な作品でも仕事をしている。もう一度鑑賞したいというモチベーションは今のところないが、確認はしたいなぁ。

Netflix にブシェッタのドキュメンタリー作品『裏切りのゴッドファーザー』があるらしい。これは見てみたいな。

似たような状況というか、命の軽さという面で、現在のメキシコは当時のイタリアに近いのではないか。あるいはそれ以上の異常事態なのだろうか。メキシコにおける命の軽さはその死生観にも関連があるのではという話もあったが、そうではないのかもしれない。あるいは、イタリアとメキシコの死生観、命の軽さって似てるんじゃないのか、とも考えられるが、どうなんだろう。日本人にも割と近いところがあるようにも感じる。

監督マルコ・ヴェロッキオの他の作品は見たことがなかったが、何か機会を作って鑑賞したい。

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