《ナポレオン/ Napoléon》 を観た。こちらは元々は 1927 年、フランスはアベル・ガンス監督の作品だ。このマラソン企画の範囲でいえば《メトロポリス》(1927)と同時期の作品ということになる。前回の《ドクトル・マブゼ》(1922)も見やすい状態だったことを振り返ると、ちゃんとしたディスクなら《メトロポリス》もかなり綺麗な状態で鑑賞できるのかしら。余談です。

というわけで、スコセッシおすすめ外国映画マラソンの 4 作目です。

Wikipedia の説明によると監督は、第一次大戦中からはプロパガンダ映画の製作に携わったらしい。本作もナポレオンを軸にした国威掲揚作品とはいえそうだけれど、プロパガンダ映画とは言えるのだろうか。どうなんだろう。

今回は、膨大な原作フィルム(散逸した状態からかき集められた)をフランシス・コッポラが再編集して 1982 年に公開した版(240 分)を DVD で鑑賞した。公開当時は日本にも特別上映が来たらしく、その際は生演奏で劇版がついたとのことだ。

前置きが長くなった。話としては、ナポレオンの少年期くらいの雪合戦のエピソード、1792 年頃に実家のあるコルシカ島からの脱出と翌年におけるトゥーロン攻囲戦-ここまでが第一部、第二部は彼の恋愛模様と 1976 年頃のイタリア遠征が物語の軸といえる。ちょいちょい当時のフランス史が分からんと少しばかり付いていきづらい気はするが、致命的ではなかった。というわけで、大筋についてはこれくらいだ。

フィルムの色味で攻めていけ

映写時のライトなのかフィルムそのものの色味なのかよく分からないが、いわゆるモノクロ(白黒)の画面はほとんどなくて、青みがかっていたり、赤だったり、ピンクだったりする。緑はあったかな。つまり、そうすることで場面に違いを生み出している。言われてみればな手法ではある。

たとえば室内でのシーンはほとんど暖色の橙の映り方になる。議会などの激情的なシーンだと、ここに赤みが増す。パーティーなどの色気のあるシーンでは、ピンクになっていた。一方の屋外は、青色系が多い。これは時間帯であったり、海に対応していることが多いようだ。早朝だったら空気は青っぽいし、そもそも海は青い。ついでに、寒いシーンも青っぽい。

上記以外は、いわゆるモノクロなシーンとなる。白昼とかが多いのかな。

三台のカメラ、映写機を酷使する

第二部:物語の終盤に駆使される超絶撮影テクニックがあった。あんまり説明するのも野暮なので簡潔にしたいが、つまり疑似的にパノラマを作り出す。ものすごい根性で、監督の映像へのこだわりが身に染みる。イタリアに進軍する軍隊と指揮するナポレオンを描くが、遠景で部隊全軍の動きと岩山、その先にある肥沃な大地を見せたいわけだ。これは初見ではあっけにとられる。

つまり 3 台のカメラを使うのだが、そのうち中央だけをナポレオンのクローズアップにするということもやってのける。私個人の体験としては、小休憩を挟みつつではあるが 3 時間以上も画面を眺めてきた最後にこの映像を見せられると、疲れのなか生じる達成感が半端ではなかった。

なお、ここでもフィルムの色味を使ったトリックも登場する。伊達ではない。

ところで、このシーンの遠景の撮り方なんかは私が言うまでもないのだけれど、さまざまな撮影者に影響を与えているのではないかな。パノラマへの挑戦が先に見えてしまうので見落としそうになったけど、遠景の映し方がとてもきれい。

コルシカ島から脱出せよ

本作でもっとも楽しかったエピソードとして触れたい。実家のあるコルシカ島が、フランスその他のどの国家に属すべきかで騒動になったらしい。そいで、ナポレオンは目の上のたんこぶっぽい存在だので消されそうになり、這々の体で島から離脱する。

離脱の最中、市場のようなエリアで「オラが郷はスペインだ、やれイタリアだ、イギリスだ」と皆が思い思いに騒ぐなかで隠密行動中だったはずのナポレオンは「フランスやがっ!」と叫んで姿を顕すと、みんながびっくり仰天する。ところが直後に彼は場を支配してしまうのであった。

その場にいた民衆のうち、特に女性たちはおそらく出自別に衣装やら化粧やらが区別されているのだが、どの女性たちもそれは美してくて、笑ってしまう。いや、美しいからいいのだけれど。まぁ、おもしろい。

次の段となるイギリス方の偉い人たちから馬で逃げる逃走と追跡の劇は、これもまた遠景は見事だし、騎馬の撮影も半端ないですね。ヒッチコックの《マーニー》や黒澤明の《七人の侍》の類いよりもよっぽどエキサイティングにすら思えるシーンも少なくない。後半も似たようなシーンがあったが、これはすごい。

最終的には、ある浜から小舟に乗り換えてフランス本土を目指すナポレオンだが、この航海もやたらとすごい。こんなん 1920 年代に作れるのかぁ。最後のほうで漂流っぽくなるシーンがあるのだが、波高い海を漂う小舟を、こんなんどれだけ狙って撮れるのかという見事なカットで、とにかく海が美しい。必見とすらいいたい。

享楽的なピンクのシーンがある

ロベスピエールを代表とした極端な恐怖政治が終わり、ナポレオンが政府に見出されたあたりで、粛清の犠牲者たちの近縁者が集うパーティーが描かれる。

ナポレオンは、このパーティーの乱痴気騒ぎをを堕落と断じてキレる。彼の性格を描写する狙いというか、笑いどころでもあるのだが、このパーティーのその享楽的な空気の演出ががすごい。

先ほど述べたが、このシーンはフィルムがピンク様になる。踊り子たちの衣装もかなり際どい。なんならクルクルと踊り回るシーンではバストが転げている。フランス映画っぽいなというのは、そうなのだけれども、この如何にもなシーンも必見だ。はっちゃけている。もうね、何でも映したるでという監督の情熱が画面越しに伝わってくる。

しかしそれに比べて、ナポレオン自身が恋しているシーンは、子供たちと遊びに興じている箇所を除いては、ほとんど面白味を感じなかったのも興味深い。なんだか申し訳ないけれど。

その他

土砂降りのなかで展開されるトゥーロン攻囲戦の描写の周辺には特に《七人の侍》が目指した表現があった気がする。敵味方の乱れた戦場、泥臭い格闘、 積み上がる亡骸たち、第一部の後半を占めるこの戦闘-悪く言えば何が起きているのかほぼ不明なのだが、見応えがありすぎる。

ところで、あまり調べられていないが、黒澤明がアベル・ガンスを敬愛していたという話はチラリと目にしたのだが、特に本作は 1920 年代当時、ごくごく小さい範囲でしか日本では鑑賞できなかったらしいし、その後はほとんど鑑賞できなかったようだ。黒澤明がいつ鑑賞できたのか、何か資料はあるのだろうか。まぁいいや。

本記事では、以下の記事などが参考になった。

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滅多に購入しない CD を自宅の PC で再生しようという段になって、スピーカーを用意しようかなと気が向いた。いままでは、ディスプレイ内蔵のスピーカーを使っていて不満はなかったが、気持ちの問題である。

予算は 5,000 円前後くらいを狙っていた。調べると色々と出てくるが、予定の価格帯の商品は案外少ないようだ。サンワやエレコム、ロジクール系の安価な商品であれば 2,000 円以内になってくる-ロジクールは狙い目の価格帯もあればハイエンドなタイプも用意しているようだが、どうにもしっくりこなかった。何かと縁のないメーカーである。

JBL の JBL Pebbles という製品が高評価で、本製品がすんなり手に入るなら、深入りせずにこちらしていたかもしれない。だが、製品サイトに行くと販売中のように見えるが、量販店だと Amazon ですら取り寄せになっている。いかんせん 2013 年の製品でやや古い。もともとは現在のネットショップの価格帯よりも半値くらいだったような情報も目に入ってくるので、遠のく。

で、最安の価格帯でもいいかなとなっていたときに Creative の Pebble の情報が目に留まった。おそらく 2 代目のレビューを目にした段階では、悪くはないけどどうだろうな? と引き気味だったのだが、おそらく 3 代目にあたる Creative Pebble V3 はピンときた。よさそうだ。

使ってみた。給電は Type-A または C の USB 接続(Type-Aへの変換コネクタが付属)で、音も USB を経由して通じる。USB の給電能力によって 8W ほどの出力をカバーするらしい。

私はコネクタで Type-A を給電元としているが、3.0 対応の端子なのでそこそこの馬力は出ているのかな。よく分からないが、音が小さいということはなくて、十分なボリュームになっている。

音質についてどうこう言う能力はないが、少なくとも低価格帯とは比べられないクオリティは当然のことながら保たれている。

また、本製品の魅力のひとつとしては、スイッチングこそ必要だが、Bluetooth接続も用意されており、すぐに切り替えできる。ただの電源に接続した場合は勝手に切り替わるので気軽だ。

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《ドクトル・マブゼ/Dr Mabuse: Gambler》を観た。1922 年の作品だ。フリッツ・ラングの作品鑑賞としては《メトロポリス》に続いて 2 作目だが、こちらの方が 5 年以上も古い作品らしい。というか1922年というとほぼ100年前の映画じゃないか。大丈夫かと不安になる。何がだ?

というわけで、スコセッシおすすめ外国映画マラソン 3 作目となる。

犯罪映画だ。ピカレクスロマンとも言っていいのかな? ちょっと趣が違うか? 表向きは精神分析家あるいは精神科医のような確立した身分を持つ主人公:マブゼ博士が実はさまざまな犯罪に手を染めている。大悪党なのか小悪党なのかは判断しづらい。といったところで、ドタバタして最後には小さな綻びから破滅する。

本作は2部構成となっており、第一部は「ギャンブラー」(150 分程度)、第二部は「インフェルノ」(120 分程度)と副題つきで構成されている。また、各部で6幕ほどか話はほぼ連続して展開するが、明確な区切りが設けられている。

日本国内でも時折ミニシアターで上映があるようだが、ディスクは 2008 年の紀伊国屋書店による「フリッツ・ラング コレクション/クリティカル・エディション ドクトル・マブゼ」が最新の状態のようだ(本記事執筆現在)。ただし、この盤はすでに廃盤で中古価格が高騰している。

私は今回、どうやって観ようか困って TSUTAYA も真剣に検討したが、どうせ無声映画だし、それくらいの英語字幕ならなんとかなるだろうと判断した。US 版の Blu-ray が Amazon Japan でも転がっていたので、こちらを購入した。どうしても日本語字幕で見たい場合を除いては、この方法をオススメしたい。購入した版には、特典映像として劇伴、原作、マブゼの元イメージについての解説がついている。いいね。

以下、感想となる。

ギャンブル、人間の運命を賭ける

作中で 2 度ほどかな。マブゼ博士が台詞にするが、彼は賭け事が好きだという。それはお金もそうだが、「人間の運命を賭ける」ことに強調していた。ほぼ第一次世界大戦直後の時代背景とはいえ、まともに生活していれば安定した生活を過ごせるだろうマブゼ博士が、なぜわざわざ犯罪に走るのか。しかも、義賊というわけでもないただの悪人だ。あるいは戦時中に彼の価値観を揺るがす事件があったのか。

とにかく博士は狂っている。でも、画面中では悪役なりにカッコいいんよね。それが犯罪映画のキモといえばそうだろうが、とにかくキレがいい。葛藤も何もない。とにかく悪い。善性のカケラもない。純粋悪だ。純粋悪とは!?

第一部:ギャンブラー

国家間の秘密書類を抜いてトレード額を操作し、株でボロ儲けするシーンが Act.1 であった。ユニークだなと見ていたのは株式市場の時計で、大きな 24 時間時計が中央の間に据えられていた-通常の 6 の位置に 13 が配置される。また、他シーンのホテルのフロントに掛けられた時計は、12 時間時計ではあったが、13~24時までも文字盤に刻印されていた。ドイツらしいと言っていいのかな。あまりみないデザインだ。

Act.2 からは一貫して富豪:ハルをカモにするマブゼ一味、並行して悪のギャンブラーを追跡する当局:ヴェンクとの対決が描かれる。精神分析家らしいマブゼ博士は催眠術のようなトリックも駆使して相手を操る。

Act.4 の裏賭場で対峙したヴェンクを陥れるシーンは作中でも屈指のひとつだろう。ワイワイガヤガヤとひとがひしめく中で、朦朧とした意識の中、変装したマブゼ博士を凝視するヴェンクの意識は遠のいていく。

すると、マブゼ博士の周囲は黒くなっていく。カメラが絞られる「アイリスアウト」という技法の延長なのかな-アイリスアウト自体は頻繁に使われている。ブラックアウトしていく画面は、マブゼ博士の輪郭を上手に包む。どうってことない演出のようにも思えるが、主演の存在感の強さもあいまって強烈なシーンだ。ただただ不気味なマブゼ博士の顔が怖い。

Act 5 で登場する裏賭場の仕組みもおもしろい。円形のテーブル中央に鎮座したディーラーは、円の縁に座ったプレイヤーとやりとりする。カメラはディーラーを回りながら映す。この賭場のキモは緊急時には上から踊り子の舞台セットが降りてきて場を隠蔽できる仕組みということで、その大掛かりさがいいね!

第二部:インフェルノ

まずは、前編でヒルとは別にマブセの悪意の標的となったトルド伯爵について触れたい。普段はやらないギャンブルをなぜかプレイしてしまい、しかもそこでインチキが露見してしまう。パーティーの客は退散してしまうし、その隙にパートナーはマブセ博士に誘拐されるし、散々だ。

そのうえ、マブセ博士にカウンセリングを装った罠にはめられて破滅していく。神経が摩耗した彼の描写、演技が美しくて好きだね。後編は彼が 1 番よかった。広い邸宅で発狂して暴れまわるシーンとかいいぞ。

Act.5 くらいのマブゼ博士が扮した奇術師のステージも見ものだった。先住民族と思しき集団がステージの奥から次へ次へと舞台、観客席へと移動していく。終いにはパッと消える。パッと消えるほうは映画のテクニックとしては分かりやすいのだが、画面の奥から登場する仕掛けは謎で、これはステージもといスタジオが実際に奥まで作られていたのかな。

パッと消えるほうのマジックも現実的には不可能に思われるので、これはもはやマブゼ博士の幻想、もとい幻覚の世界とも考えうるのかね。

マブセ博士の手下たち

6 人くらい居るのかな。しょっぱなから登場するのが、虚弱で頼りなさげな執事風の男、次に登場するのは運転手または強行部隊として働く豪傑、さらにはデブで巨漢な歯抜けの男、紅一点のカーラ、ヴェンクの事務室を破壊工作した男もメンバーだったかな。

個性が強くて彼らを見ているだけでも飽きない気がする。キャラクターの造形としてはマブセ博士に負けていない。これが見事だね。でも、マブゼ博士の何に魅力を感じて従っていたのだろうか。大恩があったりしたのかな?

マブセ博士の最後

本拠地から地下水道を這って逃げるシーンだけで、その転落の様がおもしろいが、別の隠れ家に到達したときの顛末も面白い。まず、現場で雇っている盲目のひとたちに恐れられる。彼らは直接マブゼ博士のことを把握していないのだろう。恐れ切っている。てんで役に立たない。

ついで、本作中で彼が手を下した犠牲者たちとの関係が、あらためて炙り出される。ベタだけど、このへんの描写も最高だね。詳しく書きたいけど、野暮になりかねないから止めることにする。いい映画だった。

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4 月初頭、機会があったので『伝説巨人イデオン』の「接触編」および「発動編」を観た。もともと伝説的な作品だと承知していたが、鑑賞する機会と熱意に恵まれず、今日まで未鑑賞のままだった。

「発動編」入りのハイライト直前までは TV シリーズのまとめ版ということで、体験としては可能であれば TV シリーズを見て、それから「発動編」を堪能するといいとのことだが、今回は劇場版 2 作品を通しで見るに留めた。

もちろん、端折られた部分について未鑑賞となるのは心残りがあるが、総監督の富野由悠季の作品はある程度は知っているので、おこがましいけれども、そこそこの補完はできたつもりだ。なお、現時点では Amazon Prime でレンタルされているようなので、気が向いたら楽しめる。

まぁ、なので、これから書く感想はあくまで劇場版の範疇になる。

敵が味方になる展開が熱いじゃない

前置きを無視して、劇場版ではほとんど活躍できなかったギジェの話をする-やっぱり省略されたストーリーが熱いじゃない。本作、すべての事件の原因はカララにあるみたいな言われ方をしているようだが-もちろん否定はできない、初見の感想としては先見隊長ギジェ以下の統率の無さが悲惨極まるなと。つまり、ギジェの第一印象は最悪であった。

その後、バック・フランの軍に戻ったギジェは月面に滞在中のソロシップへの攻撃部隊に加わり、混乱のさなかで地球人のシェリルを救いつつ、ソロシップに乗り込む。TV シリーズではソロシップクルーとの葛藤やシェリルとの情愛などが丹念に描かれるのだろうけど、ここは「発動編」ではダイジェストで済まされた。

さらにその後、植物が鬱蒼と繁る惑星に追い込まれた戦闘で、ギジェはイデオンパイロットとしてで偉大な貢献をして息絶える、みたいなことと思うが、いやぁー、彼の活躍をちゃんと観たかったですね。やっぱり TV シリーズを見るしかないか。このときのイデオンのぶっ壊れ性能がまたユニークなんだわ。

一瞬の風のように去っていったヒロインがいた

前置きを無視して、劇場版ではほぼハイライトでしか登場しなかったキッチン話をする。ソロシップは補給を兼ねて地球系の植民星に降り立ち、そこの住民に助力を求めるものの、彼らからはにべもなく断られる。なんならバック・フランの追跡と攻撃によってこの植民星もヤベェ、そこからは破滅へ一直線、ということだと思う。バック・フランは好戦的が過ぎる。

この植民星でコスモと懇意になったのがキッチ・キッチンで、お互いにそこそこ惹かれ合う感じになっていくようだが、上述の通りに、ドバァーンッ!! うわぁーん! となって、コスモがブチ切れる!! キッチンの最期は TV シリーズよりもハイライトによる描写のほうが過酷になっているようだ。世知辛い。

コスモはロマンス要素ないよなぁ、などと「接触編」を見ながら思っていたし、キッチンの人物像もまた絶妙で散っていくには如何にも惜しい人物なので何とも衝撃的なのである。

と、こんな感じで主にギジェとキッチンにまつわる顛末が「発動編」冒頭のハイライトが流れる。なんのこっちゃかはほとんど分からないままだが、怒り猛るイデオンおよびコスモの姿に思わず感動せざるを得ない。

イデオンパイロットたちのさまざま

劇場版で省略された結果か判断しづらいが、3 機あるイデオンマシンのパイロットの「パイロットとしての立場や苦悩」のような視点はあまりなかったと感じる。Aメカのコスモとデク、Cメカのカーシャ以外は乗組員の交代も多いようで、先の例だとギジェが挙げられるが、Bメカのパイロットはなにかと不憫だ。

ついては、イデオンとおよびイデのエネルギーは自己防衛本能の強いより若い命、なんなら幼児や胎児レベルに反応するという点がこの機体、さらには作品全体の根本的な思想ともなるのだが、Bメカのパイロットは、悉くこの思想から相対的には 1 番遠い立場にあった。そういう意味付けもあるのだろうか。

逆に、若いからこそか、デクはクライマックス付近ではイデオンのレーダーなどの機能をそこそこ十分に使いこなしたようで、パイロットとしての成長はもちろんだが、適性の強さ、新しい時代へのエネルギーを感じさせる。

最期まで居たベスにせよ、途中で散っていったギジェにせよ、あるいはその他の Bメカのパイロットにせよ、 30 代目前くらいの年齢と思われ、充分若いようだが、そんな彼らにしてもイデオンとしては古い世代として扱うようなのがツラい。

この観点でバック・フラン側を見ると、主な登場人物でもっとも若いのがカララで、他の登場人物は彼女よりも年上だろう。そりゃリーダーが爺たちの集団に未来なんて切り開けるわけがない、となるのであった。

この旧世代を中心にしか回ることのない敵役の人間関係の描写は、オーソドックスなようでいて、なかなか珍しいというか、実はあんまりない徹底のしかたなのではと少し思う。実際に調べるとどうだろうか。

コスモとカーシャがみせた未来像は

なんだかんだでラストシーンがよい。実写で波打つ海を映したシーンが長尺で続くのも好きだよ。

メシアに導かれる人類たちは、それはそれでいい。スターチャイルドだか上位存在だかになるんだろう。インターネットに転がっている情報を読む限りでは、ラストシーンに登場するキャラクターたちはかろうじて現世での記憶を残しているだけで、存在が昇華されていく過程で人格や記憶をすっかりアレしていくらしい。違和感はない。

逆に、視聴者に彼らの意思や考えが分かるのもここまでなので、ここで何を感じたかで彼らとの接点は切れる。ラストシーンの最後に起こることはごくシンプルで、逃走と闘争に疲れたコスモが眠ったまま起きず、佇むカーシャにキッチンが合流し、2 人で彼で起こす。

キッチンが先に行っちゃったので、最後はカーシャと手を取り合って行くってだけなんだけど、なんなのさこれ。やっぱり TV シリーズをみないとアカンと思うのだが、カーシャという人間が本作で果たしてきた役割の大きさというのが実感させられる。

別にそれは、コスモが表で活躍して、カーシャが陰で支えるみたいな旧態依然というかベタな関係を想起させるものではなくて、もっとなんかすごくいい関係だったり、あるいはチカラの象徴のような気がする。

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『吸血鬼ノスフェラトゥ』《Nosferatu – Eine Symphonie des Grauens》を観た。1922 年の作品なので、前回鑑賞の『メトロポリス』よりも 4 年前の作品ということになる。ムルナウ監督という名前くらいは知っていたが、ちゃんと見るのは初めてだ。

この時期のドイツ映画について個人的なメモだが、雑駁には 1920 年代くらいのドイツ映画、もとい絵画や建築など幅広い藝術分野での活動、そこに見受けられる形式を「ドイツ表現主義」と呼ぶ。先日の『メトロポリス』も本潮流の作品とされる。

2 作しか観ていない身で言うのもなんだが、暗くてファンタジックな物語、それが現実への風刺としても機能しつつ、といったところが映画におけるこのムーブメントの特徴なのかな。以下のページの説明が何となく理解の助けになった。

というわけで、作品の感想を残しておきたい。今回もニコニコ動画にアップロードされていた版を鑑賞した。

原作はブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』であり、本作は契約を経ずに翻案する形で映画化したらしい。細部の設定はやや異なるようだ。人物名もドイツ名に変更されたとあるが、鑑賞した版に出てきた英語文章および日本語字幕では原作の人物名で表記されていたような気がする。面倒なので、以降の文章の人物名などは Wikipedia の記載に従う。

ついては、まずは自分なりにあらすじをまとめる。

青年トーマスは不動産屋のノックに指示されて契約のために、ルーマニアはトランシルヴァニアにあるオルロックの居城へ向かう。もうすでにノックの状態が何かおかしい。それでも陽気なトーマスは、愛妻エレンを友人宅に預けて出張に赴く。旅先、目的地を前にした宿で「吸血鬼の書」だかを目にしたトーマスは、これを一笑に付してオルロックの下へ向かった。直後、悲劇に見舞われてドラキュラを信じる。

トーマスの持つ妻エレンの写真で彼女に魅せられた吸血鬼オルロックは、海路で彼らの住居であるドイツのヴィスボルグに向かう。遅れてトーマスも陸路で追いかける。オルロックが海路を選んだ理由が不明瞭だが、船倉ならずっと真っ暗だからとかなのかな-単純に原作に寄せただけだろうか。しかし、遅れたトーマスは陸路でスピードを稼げた分だけ、2 人はほぼ同時にヴィスボルグに到着する。

不動産屋のノックはオルロックの来訪に歓喜してとうとう本性を露わにして、街を恐怖に陥れる。それと並行してか、謎の疫病が街に広がり、外出禁止令のようなものが箝口される。なんともタイムリーなトピックである。

オルロックはトーマス夫婦邸の向かいにあるボロイ家で暮らし始め、エレンを襲撃する機会を謀っている。そもそもエレンは超常的にオルロックの存在と危険性を感知していたが、トーマスの持ち帰った「吸血鬼の書」を読んでヒントを得、オルロック退治を決意する。

そして、オルロックを見事に誘い出し、決着としてはオルロックは日の出の朝日を浴び、消滅する。ところで、解説を読むとエレンはオルロックと結果として相打ちとなったらしく、クライマックスでは亡くなったようだ。これは、わからなかった。以上があらすじとなる。

話として印象的なことなど

エレンが自分を無垢だと自覚してオルロックをやっつけようとなるのが興味深かった。本作における無垢の定義とはなんなのか。どうして彼女は自分を犠牲にできたのか。並行してというか、トーマスが完全に道化なのも気になる。何の役に立っていないばかりか、不幸と不吉のフラグを立てつづける行動しかさせてもらえない。

映像的として印象的なシーンなど

特殊撮影といってよさそうなシーンがいくつかあったのかなぁ。オルロックのひとつひとつの挙動だとか、ラスト付近でスーッと透明に消えていく箇所とクライマックスの消滅のしかたはたしかに特殊な撮影技術だろうかね。

なんとかいう教授が「吸血鬼」を解説するシーンで、ハエを捕まえる食虫植物、エサを摂取する細胞生物、巣で捕えた獲物を処理する蜘蛛などのアップが映されるシーンがある。ここらへんはたまたま保存状態がよかったのか、映像もそこそこ美しくて印象深い。

その前段階のトーマスがオルロック邸に向かう途中、放牧された馬を狙う狼のカットもあった。いずれもこれらは吸血鬼、つまり捕食者と狙われるエサという関係を重ねるイメージであることには疑いようはなかろう。こういうイメージの使い方は現代でも多いだろうし、そういう意味では逆に新鮮だった。

話中では暗い時間であるはずだが、撮影技術かフィルムや機材の限界か、そうは撮影できていないシーンが多い。これは特に初期のモノクロ映画ではよくあることのはずで、それらのシーンは明るい。だが、ひとつだけだろうか、暗闇の中で灯りをともして明るくなるシーンがあった。これは印象的だった。

今回は以下のブログの記事が目に留まった。たしかに怪奇作品ではあるものの、裏テーマとしては疾病の恐怖、見えない恐怖への市民の恐慌状態のような視点が、見た目よりも大きいように考えられる。

あと劇版がよかった。現代音楽風の音の使い方だけれど、恐怖を煽るような演出がしっかりなされている。

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『メトロポリス』《Metropolis》(1926)を観た。ヒッチコックマラソンの次には、スコセッシがフィルムメーカーを目指す若者に勧めたという映画 39 本を走ることとした。以下のブログで紹介されている。その 1 作目が本作だ。

視聴したメディアだが、ニコニコ動画に分割で投稿されているバージョンを観た。パブリックドメイン化されている作品とはいえアウト寄りのグレーゾーンな気はするが、 1972 年に US でリバイバル上映された版の DVD 化されたパッケージがベースらしい。比較的画質がよいという情報を目にしたので、こちらを選んだ。

鑑賞した作品は 100 分程度だが、バリエーションがさまざまあるらしく Wikipedia に記載のドイツでのプレミア公開時のバージョンは 210 分となっている。現行で入手しやすいのは 2010 年だかに発見されたフィルムがベースになった 150 分版らしい。

背景に資本主義 VS 共産主義 という構図を取っているらしい本作は、労働者の思想的支柱:マリアを廻った思惑を軸にして物語が進む。マリアに感化された若者フレーダーは、労働者たち、および支配者階級とそのボスである父:フリーダーセンとの橋渡しになろうと奮闘する。その他、ロボットを開発する発明家トロワングが登場する。

大量のエキストラを動員した労働者たちのシーンもすごいが、地下世界や洪水のシーンなどなどを含めて、どういう規模のスタジオ? ロケーションや美術装置で撮影しているのか、ちょっと分からない。すごい手が込んでいる。お金も相当に費やされたらしい。

ロボットが偽のマリアとして覚醒するシーンは、やたらと技術が盛り込まれており、半端ない。この撮影の裏話みたいなのは記録は残っているのだろうか。

マリア、彼女に扮したロボット役を務めたブリギッテ・ヘルムの演技が白眉で、労働者の支えとしての女性像と、トロワングの指示によって労働者を扇動する魔女としての女性像、両極端のキャラクターを担った演技には惹きつけられる。

また、世界観を映し出す未来都市の遠景画面にはミニチュアによるジオラマが採用されていると思われるが、これも下手な安っぽさを感じさせられず、この時代からすでに、特に映像的な SF のイメージについても、かなり完成していた-現代がそんなに差を生み出せていない-ことがわかる。

フレーダーの父、支配者の頂点に立つフリーダーセンの「ひとはなぜ地下に魅惑されるのだ」(意訳)のような台詞が最も印象的だった。なんとなく考えるには、空に魅せられてもしかし、人間は地下を生み出さざるを得ない構造のものに社会を作っているのではないか。上手いことを言ったつもりだ。

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2018 年かな「書き手と編み手のAdvent Calendar」という企画を知って、それはつまり、編集に携わるひとたちのアドベントカレンダーだったが、ちゃんと読んだことはなかった。こういう企画の記事を読むのにもそれなりに気力が必要であって、ブックマークしたまましばらく放置していた。

あらためて確認すると、2017 年から 2019 年まで催されたようだが、2020 年は開催されていないのかな。よくわからないが、2019 年のカレンダーに登録された記事をようやく読んだので、面白かった記事のメモを残す。

以下が記事についてのメモだ。

企画者の方の記事だ。ま、やっぱりこういう企画をされる方なので-詳細なプロフィールまでは追っていないけれど、IT ジャンルが近い。もともと、昨今のアドベントカレンダーブームもそういうところなんでしょ?

編集というスキルも技術者に近いところがあるのでは、という主張あるいは論点があり、それはおおよそ正しいと思う。Web (大雑把が過ぎる)でも書籍でも雑誌でも新聞でもいいけれど、ブログもなんだかよくわからん時代になった。編集はどこへいく。人間はどこへいく。

技術マンガを描くにあたっての情報がまとめられている。コミックで技術なりを解説する方法は「マンガでわかる」シリーズなどからメジャーになったのかな。しかし、基本は子供向けとはいえ、小学館の学習まんがシリーズの例を考えると、別に新しいことはなくて、歴史のあるフォーマットではあるんだろう。

DTP、コマ割り、情報量、作業分担などのトピックが扱われている。どちらのこともわからない書き手同士での製作は難しかろうという指摘がおもしろくて、まったくその通りだと思うが、たとえば学習まんがシリーズだと学者先生が監修として入っていることが多い。つまるところ、出版社なり編集者なりが間に立つとすれば、そこをマネジメントするのが彼らの仕事だ。

こうなるというまでもなく、どちらもできる-あるいは当てのある編集者が強いということになる。

辞書編集者の方の記事ですね。辞書の編集はね、マジで大変なんだと思う。タイトルとは裏腹に、やはり最後はアナログな仕事が目立つな、みたいに〆られているが、まぁ殊に辞書についてはそうなるよね、と。

辞書っていうのは機械的と思いがちだけれど、大枠と細部にはかなり著者や編集者の方針や人間味がハッキリ出るコンテンツだ。だが膨大な情報量が前提になるので、そういったことは背景になりがちだ。

本格的な辞書の索引の制作方法についての話を聞いてみたいな。これこそ最後はかなりアナログな作業になると踏んでいるのだけれど。

マンガや雑誌、書籍の編集者からゲーム制作者になった方の記事かな。いわゆる編集スキルが書籍以外に経験として生かされているという例として見ていけばいいのかなと思うが、おもしろい。ゲーム制作はチューニングを、校正を永遠にやっている感覚が近いという旨を書かれている。おもしろい。逆にひとつ前の記事を引くなら、辞書の編集に近いんじゃないかな。

書くことのスキルについて「短期記憶」と「長期記憶」を織り交ぜることについての言及もなかなか興味深かった。たしかに、文章を書くにあたっての快楽ってそういうところにある気がする。

Zoom を利用した取材の方法についてのメモなのだが、2019 年末の記事なので、ちょうどコロナ騒動を目前にして Zoom が広く知れ渡る直前くらいにあたると思われ、面白いなと思った。未来予知的な話にもなっている。

インプットが多すぎて処理しきれないというのは、確かに難しい。

15 年ほど編集業を出版社で勤めて独立された方なのかな。タイトル通りの記事なのだが、これはなかなか難しい。世のすべての編集者が InDesign を使えないということはないとは思うのだが、本当は編集者が InDesign を使える必要なんてない。

それはデザイン、プロフェッショナリズム、分業制などなどの理由から大雑把に言ってのことだが、もちろん使えることで、完成形への見通しが強くなることも確かだ。

というか、同人で書籍を作っているひとは自分で InDesign を扱うことは珍しくないだろう。そういう意味ではどちらが書籍制作のプロなのだか、もはや分からない。そういう境界線に立つことにした方の記事だ。

偉そうなことを滔々と述べたけれど、InDesign の学習サイトを紹介してくれているのが何気に素晴らしいですね。他の Adobe ソフトに比べてもそうだが、なかなかこういった情報自体が共有されていないように思う。という視点に立てば、本企画の趣旨にもっとも適合した記事だな。

Wantedly のインハウスエディターの方だそうです。ガチ目の論考だ。

大雑把な理解としては、印刷技術、文字の出力技術の発達によって、その末端の作業、ここでは主にタイプライティングが主に女性労働者の役割となったとき、その職業に対する偏見、あるいは情報を紡ぐ主体としての立場がどのように変化してきたかということを論じる。

イントロダクションでは著者とゴーストライター(ブックライター)の関係に言及していたので、最後にはその辺に戻るのかなと思っていたが、そうでもなかった。

本ブログの最近の話題でかこつけていえば、タイプライターが女性の仕事だという観点の歴史は長そうで、ヒッチコックの『マーニー』のヒロインも職場ではタイプライティング作業をさせられていた。また、『ファミリー・プロット』では論考で言及されていた霊媒師も登場する。

というか、ライティングというか文字メディアにかかわらず、巫女という存在を思い起こせば、女性がなにかしらの媒体になって真実を伝えるというフォーマットはライティングの歴史以前、もっと人間の根本的なところにあるのではないか、と釣られて考えてしまった。ここまで。

校閲を仕事にされている方の記事だ。本記事ではあえて校正で統一されている。まぁなんというか、編集なりの校正、校閲なりに関わる人間というのはなんだかんだで文字が好きなんだなという感想だ。

本職の校正者が自分の同人の校正をやるのって大変だなと思うが、別に自分の原稿じゃなければそこまででもないのかな。その辺の感覚の話を聞いてみたい。

同人書籍の制作記録ですが、かなりちゃんとまとまっているので、これだけでかなりの価値のある記事だよね。

特にどうということはない記事だと思うのだが、やはり IT エンジニアの方はアウトラインを作ってまとめるのが上手いんだよね。これはひとつ上のカイ士伝さんの記事もそうだけど。

これも自分が言うまでもないのだけれど、そもそもインターネット文化とは、IT エンジニアの方に支えられる部分が構造的に決まっているので、そういったところから新しくなり続けるはず、という視点は欠かせないんだよね。これも記事とは直接関係のないことだけれど。

面白い。Web における文章の出力媒体とそのメソッドの変遷についての小論考だ。その目的も兼ねて、この記事は敢えて medium で書かれたらしい。ところで、このアドベントカレンダーはやはりと言っていいのか note で書かれた記事が多かった。

個人的には WordPress の記事執筆機能の UI を割と大胆に変革し続けているのが気になっており-その更新の内容自体は平凡だとしても、面白いなと思って見守っている。もとい利用している。

なにか大きな波がまたあるのだろうかね。

気になるのは、medium にせよ note にせよ吐き出される URL が汚いのだよね。特に medium はおそらくタイトルをそのまま出力するから日本語のタイトルの場合はとにかく長い。技術系の編集者やライターでもその辺は割り切っているのかな? といつも疑問に思うのであった。

といった感じで、メモを終える。

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iPad アプリ Cardflow+ についてのメモを残す。いきなりだが、私としてはアイデアのまとめ方としては原理的には梅棹忠夫の情報カードや川喜多二郎の KJ 法のような類の方法がなんだかんだで有効だと信じている。

既存のデータや文献を扱った型に沿った研究、あるいは何らかのフレームワークを利用するのであれば、また別だが、自分なりにプリミティブでもいいから、なるべくゼロから思考を作って進めてまとめていくには、これらの手段がやはり強い。

たとえば『エンジニアの知的生産術』もやはり上記の方法におおよそ近い方法を採用して説明していたと記憶している。本書で紹介している手段としては、やや小さめのポストイットを使用し、アイデアのユニットを書き出したら A4 用紙に付してまとめる。クリアファイルかなにかに収納すれば持ち運びも便利でどこでも思考を進められる、いうようなことだったっけ。

以降、著者の西尾さんの Twitter なりでの状況報告ツイートでは、上記の方法を自分なりにアプリケーションに落とし込んだという経緯を辿っていた気がするが、今回話題にする iPad の「Cardflow+」は似たような操作ができるということだ。最近になってようやく発見した。

日本語化されていない点を無視しても、日本人で利用しているユーザーはあまりいないようで、ブログで紹介している記事も以下の 3 点ほどしか見つからなかった。ただまぁ、ここまでの説明と以下のブログなどで紹介されている以上のことも特にないので、具体的な使い方の話には踏み込まない。ややクセはあるが、それほど使いづらいアプリではない。

使い始めてあらためて思ったことだが、こういう思考方法は習慣化していないとアイデアの書き出しに苦労するね…。

つまり、アイデア出しそのものを習慣化していないと人間は発想ということ自体の方法を忘れていく。いや、当たり前っちゃそうなんだけど、その自覚の機会さえ簡単に失われていく。習慣化されない諸々の行為一般に当て嵌まることだろうだろうけれどもさ。

考えることについてのみいえば、オリジナルの思考を進めるということは、それだけ難しい。

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『ファミリー・プロット』《Family Plot》を観た。1976 年の作品だ。ヒッチコック最後の作品ともなっている。いくつかのレビューで目にしたことだが、たしかに話のスケールが小さくまとまっている。テレビの特別番組枠と言われても納得してしまうかもしれない。こういうストーリーにしたのはどういう戦略だったのだろうか。

ヒントと言うか、前作の『フレンジー』でも感じたことだが、サスペンス要素が身近な関係に落ち着いている。そして主人公たちも悪役も、小市民(小市民とは)だ。多くの鑑賞者にとって感情移入しやすい、とは言わないまでも、自分や知り合いの立場に近かったり、そうでなくても隣近所の人間に似たような境遇の人間がいるかもしれない。

時代背景やら同時代の映画作品、あるいは他メディアのエンターテインメントとの関連比較やら、深入りしていくとおもしろそうだけれど、一旦区切る。

物語は、冴えないカップル 2 組の思惑が交差する。交わるようでなかなか交わらない関係がおもしろい。本作では、男女間の性的な関係が直接的にビジュアルで表現されることはほぼないが、会話劇もとい台詞回しでは過去にないくらい存分に主張されており、これも目立つ点かな。とにかくヒロイン:ブランチは本能が強くてヤバい。

インチキ霊媒師という設定、あるいはクライマックスのアレにどういう比喩が籠められているのか、現時点ではよく分からん。ただのオチではないとは思うのだが。

悪人側の主人公:アダムソンとその相棒:マロニーの 2 人の悪人面もよくできている。雑に言ってキャストがいい。ブランチのパートナーであり、一応の主人公:ジョージも一見して軽薄な男だけど、実はそこそこ頭がよくて思慮もあるという塩梅が絶妙でよい。嫌いになれない。

無視できないキャラクターで今回、私がもっとも好いな、カッコいいなと思ったのは、アダムソンのパートナー:フランだ。冒頭のインパクトの強さ、誘拐強盗とそこから先の犯罪との絶妙かつ奇妙な線引きなど、なんとなく共感しやすいかったね。

というか、鑑賞後にわかることだけれど、フランは現行のパッケージのビジュアルに大きく使われているんだよね。やっぱり、カッコいいよ。

気になったシーンなど

今作もなんだかんだと印象深いシーンやらカットやらが多かった。ひとつずつあげていく。

よそ見運転からフランに切り替わる

冒頭、ブランチが富豪老婆を相手にした仕事帰り、彼女の儲け話に耳を傾けるジョージは運転を疎かにして事故を起こしかける。その相手が道路を横断していたフランだ。

このタイミングでカメラは警備員のいる詰め所に向かうフランを追い始める。いや、まったく意味不明ですが、目はくぎ付けにならざるを得ない。突然、強盗劇が開始されて私用の小型ヘリコプターを駆った人質交換までが済み、誘拐強盗が完成する。

スムーズすぎる。話の展開としては半々くらいは読めるようになっているが、手際が良すぎてもう面白い。

聖堂の階段、最後の階段

ヒッチコックの階段が好きだ。今作では主に 2 箇所のシーンで階段がうまく使われていたなと。ひとつは、司教に会見を臨むジョージが聖堂の大階段を駆け登る俯瞰のシーンだ。なんとなく気味がいい。

もうひとつは、クライマックスのアダムソン邸でのいくつかの階段だが、やっぱり上手いんだよな。ヒッチコックの最後の作品となった本作のエンディングが階段で締めくくられるのとか完璧としか言いようがない。

ファミリー・プロット

悪人マロニーの葬儀で、避けるマロニー夫人と追うジョージを俯瞰で映すシーンもよい。これはタイトルに象徴されるロケーションなのだよな。葬儀あるいは墓地でひとが動くシーンというのは、なんらかの不思議な気分を醸すね。

ヒッチコック作品でいえば『泥棒成金』も印象的だったが、自分の小さな映画履歴でいえば『芳華‐Youth‐』のラスト付近の墓場のシーンも好きだね。日本の映画だと何かあるかな。パッとは思いつかないな。

ジョージのハンバーガー

ブランチ宅での朝の作戦会議中、ジョージがハンバーグを焼いてバンズに置く。テーブルには野菜とピクルスが盛られた皿があり、ケチャップも目に入る。2 人はテキトーに野菜をのせて、ケチャップをぶっかけて手製のハンバーガーを頬張る。ずるい。

なんかねー、いいんですよ、このさりげないシーンが本当にいい。この作品で 1 番好きだ。美味しそうなのがまず第一に好い。調理担当をジョージが請け負っているのも好いし、時間もないのにおかわりを要求するブランチもよい。本当に欲望に忠実だな、君は。

お手製のハンバーガー、作りたくなるっしょ、これ。そういえば、誘拐された被害者に提供されたフランによる食事も美味しそうなんだよね。そのへんの感覚も、ここ数作品で得られたことなのでちょっと気になる。

というわけで、先日もちょろっと書いたが、もともと射程に入っていなかった初期作品、ついで、いくつかの取りこぼしを残した状態だが、今作の視聴をもって一旦はヒッチコックマラソンを完走とする。ありがとうございました。

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『フレンジー』《Frenzy》を観た。1972 年の作品だ。イギリスとアメリカの合作ということで、ヒッチコックがひさびさに故郷で撮影した作品となる。アメリカの広々としたロケーションに比べ、ロンドンのせせこましい街並みが安心感を生む。というと失礼なようだが、なんというかである。街のせせこましさと同じようにして、物語も非常に小さい人間関係のなかで進展する。

本作もいつもながら巻き込まれ型の主人公:ブレイニーが四苦八苦する展開だが、いつもと違うのは彼がまったくと言っていいほど活躍しない点だ。こういう意味では《間違えられた男》を連想させられる。加えて、真犯人とその犯行シーンをのっけから明かす展開も珍しいのではないか。前例はなにかあったかな。

真犯人:ラスクがどうしようもない犯罪者であることは確かとして、ブレイニーもうだつの上がらない人間だし、もうひとりの主要登場人物であるオックスフォード刑事も冴えない。この作品に登場する男どもは、どいつもこいつもダメなのが印象深い。

対して、女性たちは強い。ブレイニーの元パートナーだったブレンダは事業をそこそこ成功させているようだし、いまの彼女のバーバラもパキッとした意思をもって事件に立ち向かっていた。ちょっと登場した空軍時代の仲間であったジョニーのパートナー:ヘッティのキャラクターも強烈で、ブレイニーが無罪だったとしても一切関わりたくないという態度が一貫していて美学があったね。

極めつけはオックスフォード夫人で、探偵役の家族が直感で真相を言い当ててしまうお約束の展開も面白いが、おいしくもない料理を量産し続ける彼女の根気がすごい。最後にお客の残したマルガリータをマズそうに飲んでいたのも笑えた。

狂気と笑い

ラスクの凶行シーンは過去にないくらい強烈な描写が許されている。女性のバストも何度となく登場するためか、R18 指定すらされている本作だが、最初のラスクの凶行シーン、表情のドアップが印象的だし、事の済んだあとの被害者の表情がどれも強烈に凝っていて、決して見ていたいものではないものの、素晴らしかったね。

2 度目の凶行は直接描写されなかったものの、トラックの荷台で繰り広げられる独り相撲は異常さのなかに笑いを誘われる。芋の山のなかから被害者の脚が伸びてきて、ラスクの顔を蹴とばしたような状態になったり、トラックの動きの反動で顔を突っ込んでしまったり、いい意味でバカバカしい。偏執的な異常者のこだわり症に目を見張らざるを得ない。

過去作との比較でいえば、今作でも一瞬だがラスクの母親が登場する。どうにも母親との関係は良好らしいことが示唆されるが、過去のヒッチコック作品を見てきた限りにおいては、結果的にはメタ的に逆張りとして機能したとも考えられる。

印象的なカットなど

今作はこれはおもしろいなという画面が多かった。

オープニングクレジット

タイトルを含むオープニングクレジット、『北北西に進路をとれ』までは試行錯誤が常に面白く、それ以降はピンとこなかった。今作もそれほどではなかったが、テムズ川を空撮してタワー・ブリッジに接近していく画面はさすがに面白くはあった。カットは変わるがやはり空撮にて、川沿いの路上で環境問題を訴える演説家と聴衆を映す。気合の入りようが伺える。

さらばバーバラ

バーバラがラスクに匿ってもらう展開になる。ラスク宅の扉が閉まると、カメラは 2 人が昇ってきた階段をそのままソロリソロリと降っていく。向きは変えずにバックしていく。ホラー映画などではたまによく見る映し方のような気がするが、ねっとりと遠ざかっていき、ラスクの部屋の窓が映るほどにまで遠ざかっていくシーンは、いいね。上手いんだよな。

オックスフォード夫妻の食卓

夫人が謎の魚煮込みスープを出す。刑事は夫人の目を盗んでスープを鍋に戻す。この攻防は、キッチンを中央奥の入り口向こうにして、手前のテーブル右に刑事を配置して映し出される。さらにテーブルには燭台に火が灯っており、2 本の蝋燭が左右に揺らめいている。

夫人の移動とともにやや右寄りだったカメラが正対するように中央に移動すると、キッチンへの入り口と燭台、蝋燭が見事に並んで重なり、また左右に座ったオックスフォード夫妻がシンメトリー様になる。小津安二郎ばりのこだわりの画面か。これは何だろうね。話中ではアンバランスのように演出されているが、実際にはこの家庭はバランスが取れているとでも言いたいのか。謎である(笑)。

遠見のヘッティ

ジョニーと再会するシーンで、ジョニー宅を示唆させながらヘッティが彼らをベランダ? バルコニーから睨みつけているシーンがあるが、なんなら私は本作でこのカットがもっとも印象に残ったかもしれない。

先ほども書いたが、この作品では女性の方が本質的には強いように描かれているように思う。同時代の作品に同じような傾向がどれくらいあったのかも分からないし、今日となってはそういった前提が描かれた作品など珍しくもないが、ヒッチコック作品という枠についていえば、珍しいように思う。『三十九夜』や『逃走迷路』あたりのヒロインは主人公よりも知的な感じがあった気がしなくもないが、ここまで完璧なこだわり様はなかったのではないか。

物語の背後のこととしては、そこらの配慮が気になった。

ちなみに、恥ずかしながらタイトルの英単語 “frenzy” の意味を知らなかったのだが「逆上」だとか「狂乱」だとかが、本作に相応しいのかな。前者であればブレイニーに該当するだろうし、後者であればラスクに該当しそうだ。その辺がネイティブでもダブルミーニングになりうるのかは分からないが、どうだろうか、端的ながら味のあるタイトルな気がする。

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