《ドクトル・マブゼ/Dr Mabuse: Gambler》を観た。1922 年の作品だ。フリッツ・ラングの作品鑑賞としては《メトロポリス》に続いて 2 作目だが、こちらの方が 5 年以上も古い作品らしい。というか1922年というとほぼ100年前の映画じゃないか。大丈夫かと不安になる。何がだ?
というわけで、スコセッシおすすめ外国映画マラソン 3 作目となる。
犯罪映画だ。ピカレクスロマンとも言っていいのかな? ちょっと趣が違うか? 表向きは精神分析家あるいは精神科医のような確立した身分を持つ主人公:マブゼ博士が実はさまざまな犯罪に手を染めている。大悪党なのか小悪党なのかは判断しづらい。といったところで、ドタバタして最後には小さな綻びから破滅する。
本作は2部構成となっており、第一部は「ギャンブラー」(150 分程度)、第二部は「インフェルノ」(120 分程度)と副題つきで構成されている。また、各部で6幕ほどか話はほぼ連続して展開するが、明確な区切りが設けられている。
日本国内でも時折ミニシアターで上映があるようだが、ディスクは 2008 年の紀伊国屋書店による「フリッツ・ラング コレクション/クリティカル・エディション ドクトル・マブゼ」が最新の状態のようだ(本記事執筆現在)。ただし、この盤はすでに廃盤で中古価格が高騰している。
私は今回、どうやって観ようか困って TSUTAYA も真剣に検討したが、どうせ無声映画だし、それくらいの英語字幕ならなんとかなるだろうと判断した。US 版の Blu-ray が Amazon Japan でも転がっていたので、こちらを購入した。どうしても日本語字幕で見たい場合を除いては、この方法をオススメしたい。購入した版には、特典映像として劇伴、原作、マブゼの元イメージについての解説がついている。いいね。
以下、感想となる。
ギャンブル、人間の運命を賭ける
作中で 2 度ほどかな。マブゼ博士が台詞にするが、彼は賭け事が好きだという。それはお金もそうだが、「人間の運命を賭ける」ことに強調していた。ほぼ第一次世界大戦直後の時代背景とはいえ、まともに生活していれば安定した生活を過ごせるだろうマブゼ博士が、なぜわざわざ犯罪に走るのか。しかも、義賊というわけでもないただの悪人だ。あるいは戦時中に彼の価値観を揺るがす事件があったのか。
とにかく博士は狂っている。でも、画面中では悪役なりにカッコいいんよね。それが犯罪映画のキモといえばそうだろうが、とにかくキレがいい。葛藤も何もない。とにかく悪い。善性のカケラもない。純粋悪だ。純粋悪とは!?
第一部:ギャンブラー
国家間の秘密書類を抜いてトレード額を操作し、株でボロ儲けするシーンが Act.1 であった。ユニークだなと見ていたのは株式市場の時計で、大きな 24 時間時計が中央の間に据えられていた-通常の 6 の位置に 13 が配置される。また、他シーンのホテルのフロントに掛けられた時計は、12 時間時計ではあったが、13~24時までも文字盤に刻印されていた。ドイツらしいと言っていいのかな。あまりみないデザインだ。
Act.2 からは一貫して富豪:ハルをカモにするマブゼ一味、並行して悪のギャンブラーを追跡する当局:ヴェンクとの対決が描かれる。精神分析家らしいマブゼ博士は催眠術のようなトリックも駆使して相手を操る。
Act.4 の裏賭場で対峙したヴェンクを陥れるシーンは作中でも屈指のひとつだろう。ワイワイガヤガヤとひとがひしめく中で、朦朧とした意識の中、変装したマブゼ博士を凝視するヴェンクの意識は遠のいていく。
すると、マブゼ博士の周囲は黒くなっていく。カメラが絞られる「アイリスアウト」という技法の延長なのかな-アイリスアウト自体は頻繁に使われている。ブラックアウトしていく画面は、マブゼ博士の輪郭を上手に包む。どうってことない演出のようにも思えるが、主演の存在感の強さもあいまって強烈なシーンだ。ただただ不気味なマブゼ博士の顔が怖い。
Act 5 で登場する裏賭場の仕組みもおもしろい。円形のテーブル中央に鎮座したディーラーは、円の縁に座ったプレイヤーとやりとりする。カメラはディーラーを回りながら映す。この賭場のキモは緊急時には上から踊り子の舞台セットが降りてきて場を隠蔽できる仕組みということで、その大掛かりさがいいね!
第二部:インフェルノ
まずは、前編でヒルとは別にマブセの悪意の標的となったトルド伯爵について触れたい。普段はやらないギャンブルをなぜかプレイしてしまい、しかもそこでインチキが露見してしまう。パーティーの客は退散してしまうし、その隙にパートナーはマブセ博士に誘拐されるし、散々だ。
そのうえ、マブセ博士にカウンセリングを装った罠にはめられて破滅していく。神経が摩耗した彼の描写、演技が美しくて好きだね。後編は彼が 1 番よかった。広い邸宅で発狂して暴れまわるシーンとかいいぞ。
Act.5 くらいのマブゼ博士が扮した奇術師のステージも見ものだった。先住民族と思しき集団がステージの奥から次へ次へと舞台、観客席へと移動していく。終いにはパッと消える。パッと消えるほうは映画のテクニックとしては分かりやすいのだが、画面の奥から登場する仕掛けは謎で、これはステージもといスタジオが実際に奥まで作られていたのかな。
パッと消えるほうのマジックも現実的には不可能に思われるので、これはもはやマブゼ博士の幻想、もとい幻覚の世界とも考えうるのかね。
マブセ博士の手下たち
6 人くらい居るのかな。しょっぱなから登場するのが、虚弱で頼りなさげな執事風の男、次に登場するのは運転手または強行部隊として働く豪傑、さらにはデブで巨漢な歯抜けの男、紅一点のカーラ、ヴェンクの事務室を破壊工作した男もメンバーだったかな。
個性が強くて彼らを見ているだけでも飽きない気がする。キャラクターの造形としてはマブセ博士に負けていない。これが見事だね。でも、マブゼ博士の何に魅力を感じて従っていたのだろうか。大恩があったりしたのかな?
マブセ博士の最後
本拠地から地下水道を這って逃げるシーンだけで、その転落の様がおもしろいが、別の隠れ家に到達したときの顛末も面白い。まず、現場で雇っている盲目のひとたちに恐れられる。彼らは直接マブゼ博士のことを把握していないのだろう。恐れ切っている。てんで役に立たない。
ついで、本作中で彼が手を下した犠牲者たちとの関係が、あらためて炙り出される。ベタだけど、このへんの描写も最高だね。詳しく書きたいけど、野暮になりかねないから止めることにする。いい映画だった。
4 月初頭、機会があったので『伝説巨人イデオン』の「接触編」および「発動編」を観た。もともと伝説的な作品だと承知していたが、鑑賞する機会と熱意に恵まれず、今日まで未鑑賞のままだった。
「発動編」入りのハイライト直前までは TV シリーズのまとめ版ということで、体験としては可能であれば TV シリーズを見て、それから「発動編」を堪能するといいとのことだが、今回は劇場版 2 作品を通しで見るに留めた。
もちろん、端折られた部分について未鑑賞となるのは心残りがあるが、総監督の富野由悠季の作品はある程度は知っているので、おこがましいけれども、そこそこの補完はできたつもりだ。なお、現時点では Amazon Prime でレンタルされているようなので、気が向いたら楽しめる。
まぁ、なので、これから書く感想はあくまで劇場版の範疇になる。
敵が味方になる展開が熱いじゃない
前置きを無視して、劇場版ではほとんど活躍できなかったギジェの話をする-やっぱり省略されたストーリーが熱いじゃない。本作、すべての事件の原因はカララにあるみたいな言われ方をしているようだが-もちろん否定はできない、初見の感想としては先見隊長ギジェ以下の統率の無さが悲惨極まるなと。つまり、ギジェの第一印象は最悪であった。
その後、バック・フランの軍に戻ったギジェは月面に滞在中のソロシップへの攻撃部隊に加わり、混乱のさなかで地球人のシェリルを救いつつ、ソロシップに乗り込む。TV シリーズではソロシップクルーとの葛藤やシェリルとの情愛などが丹念に描かれるのだろうけど、ここは「発動編」ではダイジェストで済まされた。
さらにその後、植物が鬱蒼と繁る惑星に追い込まれた戦闘で、ギジェはイデオンパイロットとしてで偉大な貢献をして息絶える、みたいなことと思うが、いやぁー、彼の活躍をちゃんと観たかったですね。やっぱり TV シリーズを見るしかないか。このときのイデオンのぶっ壊れ性能がまたユニークなんだわ。
一瞬の風のように去っていったヒロインがいた
前置きを無視して、劇場版ではほぼハイライトでしか登場しなかったキッチン話をする。ソロシップは補給を兼ねて地球系の植民星に降り立ち、そこの住民に助力を求めるものの、彼らからはにべもなく断られる。なんならバック・フランの追跡と攻撃によってこの植民星もヤベェ、そこからは破滅へ一直線、ということだと思う。バック・フランは好戦的が過ぎる。
この植民星でコスモと懇意になったのがキッチ・キッチンで、お互いにそこそこ惹かれ合う感じになっていくようだが、上述の通りに、ドバァーンッ!! うわぁーん! となって、コスモがブチ切れる!! キッチンの最期は TV シリーズよりもハイライトによる描写のほうが過酷になっているようだ。世知辛い。
コスモはロマンス要素ないよなぁ、などと「接触編」を見ながら思っていたし、キッチンの人物像もまた絶妙で散っていくには如何にも惜しい人物なので何とも衝撃的なのである。
と、こんな感じで主にギジェとキッチンにまつわる顛末が「発動編」冒頭のハイライトが流れる。なんのこっちゃかはほとんど分からないままだが、怒り猛るイデオンおよびコスモの姿に思わず感動せざるを得ない。
イデオンパイロットたちのさまざま
劇場版で省略された結果か判断しづらいが、3 機あるイデオンマシンのパイロットの「パイロットとしての立場や苦悩」のような視点はあまりなかったと感じる。Aメカのコスモとデク、Cメカのカーシャ以外は乗組員の交代も多いようで、先の例だとギジェが挙げられるが、Bメカのパイロットはなにかと不憫だ。
ついては、イデオンとおよびイデのエネルギーは自己防衛本能の強いより若い命、なんなら幼児や胎児レベルに反応するという点がこの機体、さらには作品全体の根本的な思想ともなるのだが、Bメカのパイロットは、悉くこの思想から相対的には 1 番遠い立場にあった。そういう意味付けもあるのだろうか。
逆に、若いからこそか、デクはクライマックス付近ではイデオンのレーダーなどの機能をそこそこ十分に使いこなしたようで、パイロットとしての成長はもちろんだが、適性の強さ、新しい時代へのエネルギーを感じさせる。
最期まで居たベスにせよ、途中で散っていったギジェにせよ、あるいはその他の Bメカのパイロットにせよ、 30 代目前くらいの年齢と思われ、充分若いようだが、そんな彼らにしてもイデオンとしては古い世代として扱うようなのがツラい。
この観点でバック・フラン側を見ると、主な登場人物でもっとも若いのがカララで、他の登場人物は彼女よりも年上だろう。そりゃリーダーが爺たちの集団に未来なんて切り開けるわけがない、となるのであった。
この旧世代を中心にしか回ることのない敵役の人間関係の描写は、オーソドックスなようでいて、なかなか珍しいというか、実はあんまりない徹底のしかたなのではと少し思う。実際に調べるとどうだろうか。
コスモとカーシャがみせた未来像は
なんだかんだでラストシーンがよい。実写で波打つ海を映したシーンが長尺で続くのも好きだよ。
メシアに導かれる人類たちは、それはそれでいい。スターチャイルドだか上位存在だかになるんだろう。インターネットに転がっている情報を読む限りでは、ラストシーンに登場するキャラクターたちはかろうじて現世での記憶を残しているだけで、存在が昇華されていく過程で人格や記憶をすっかりアレしていくらしい。違和感はない。
逆に、視聴者に彼らの意思や考えが分かるのもここまでなので、ここで何を感じたかで彼らとの接点は切れる。ラストシーンの最後に起こることはごくシンプルで、逃走と闘争に疲れたコスモが眠ったまま起きず、佇むカーシャにキッチンが合流し、2 人で彼で起こす。
キッチンが先に行っちゃったので、最後はカーシャと手を取り合って行くってだけなんだけど、なんなのさこれ。やっぱり TV シリーズをみないとアカンと思うのだが、カーシャという人間が本作で果たしてきた役割の大きさというのが実感させられる。
別にそれは、コスモが表で活躍して、カーシャが陰で支えるみたいな旧態依然というかベタな関係を想起させるものではなくて、もっとなんかすごくいい関係だったり、あるいはチカラの象徴のような気がする。
『吸血鬼ノスフェラトゥ』《Nosferatu – Eine Symphonie des Grauens》を観た。1922 年の作品なので、前回鑑賞の『メトロポリス』よりも 4 年前の作品ということになる。ムルナウ監督という名前くらいは知っていたが、ちゃんと見るのは初めてだ。
この時期のドイツ映画について個人的なメモだが、雑駁には 1920 年代くらいのドイツ映画、もとい絵画や建築など幅広い藝術分野での活動、そこに見受けられる形式を「ドイツ表現主義」と呼ぶ。先日の『メトロポリス』も本潮流の作品とされる。
2 作しか観ていない身で言うのもなんだが、暗くてファンタジックな物語、それが現実への風刺としても機能しつつ、といったところが映画におけるこのムーブメントの特徴なのかな。以下のページの説明が何となく理解の助けになった。
というわけで、作品の感想を残しておきたい。今回もニコニコ動画にアップロードされていた版を鑑賞した。
原作はブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』であり、本作は契約を経ずに翻案する形で映画化したらしい。細部の設定はやや異なるようだ。人物名もドイツ名に変更されたとあるが、鑑賞した版に出てきた英語文章および日本語字幕では原作の人物名で表記されていたような気がする。面倒なので、以降の文章の人物名などは Wikipedia の記載に従う。
ついては、まずは自分なりにあらすじをまとめる。
青年トーマスは不動産屋のノックに指示されて契約のために、ルーマニアはトランシルヴァニアにあるオルロックの居城へ向かう。もうすでにノックの状態が何かおかしい。それでも陽気なトーマスは、愛妻エレンを友人宅に預けて出張に赴く。旅先、目的地を前にした宿で「吸血鬼の書」だかを目にしたトーマスは、これを一笑に付してオルロックの下へ向かった。直後、悲劇に見舞われてドラキュラを信じる。
トーマスの持つ妻エレンの写真で彼女に魅せられた吸血鬼オルロックは、海路で彼らの住居であるドイツのヴィスボルグに向かう。遅れてトーマスも陸路で追いかける。オルロックが海路を選んだ理由が不明瞭だが、船倉ならずっと真っ暗だからとかなのかな-単純に原作に寄せただけだろうか。しかし、遅れたトーマスは陸路でスピードを稼げた分だけ、2 人はほぼ同時にヴィスボルグに到着する。
不動産屋のノックはオルロックの来訪に歓喜してとうとう本性を露わにして、街を恐怖に陥れる。それと並行してか、謎の疫病が街に広がり、外出禁止令のようなものが箝口される。なんともタイムリーなトピックである。
オルロックはトーマス夫婦邸の向かいにあるボロイ家で暮らし始め、エレンを襲撃する機会を謀っている。そもそもエレンは超常的にオルロックの存在と危険性を感知していたが、トーマスの持ち帰った「吸血鬼の書」を読んでヒントを得、オルロック退治を決意する。
そして、オルロックを見事に誘い出し、決着としてはオルロックは日の出の朝日を浴び、消滅する。ところで、解説を読むとエレンはオルロックと結果として相打ちとなったらしく、クライマックスでは亡くなったようだ。これは、わからなかった。以上があらすじとなる。
話として印象的なことなど
エレンが自分を無垢だと自覚してオルロックをやっつけようとなるのが興味深かった。本作における無垢の定義とはなんなのか。どうして彼女は自分を犠牲にできたのか。並行してというか、トーマスが完全に道化なのも気になる。何の役に立っていないばかりか、不幸と不吉のフラグを立てつづける行動しかさせてもらえない。
映像的として印象的なシーンなど
特殊撮影といってよさそうなシーンがいくつかあったのかなぁ。オルロックのひとつひとつの挙動だとか、ラスト付近でスーッと透明に消えていく箇所とクライマックスの消滅のしかたはたしかに特殊な撮影技術だろうかね。
なんとかいう教授が「吸血鬼」を解説するシーンで、ハエを捕まえる食虫植物、エサを摂取する細胞生物、巣で捕えた獲物を処理する蜘蛛などのアップが映されるシーンがある。ここらへんはたまたま保存状態がよかったのか、映像もそこそこ美しくて印象深い。
その前段階のトーマスがオルロック邸に向かう途中、放牧された馬を狙う狼のカットもあった。いずれもこれらは吸血鬼、つまり捕食者と狙われるエサという関係を重ねるイメージであることには疑いようはなかろう。こういうイメージの使い方は現代でも多いだろうし、そういう意味では逆に新鮮だった。
話中では暗い時間であるはずだが、撮影技術かフィルムや機材の限界か、そうは撮影できていないシーンが多い。これは特に初期のモノクロ映画ではよくあることのはずで、それらのシーンは明るい。だが、ひとつだけだろうか、暗闇の中で灯りをともして明るくなるシーンがあった。これは印象的だった。
今回は以下のブログの記事が目に留まった。たしかに怪奇作品ではあるものの、裏テーマとしては疾病の恐怖、見えない恐怖への市民の恐慌状態のような視点が、見た目よりも大きいように考えられる。
あと劇版がよかった。現代音楽風の音の使い方だけれど、恐怖を煽るような演出がしっかりなされている。
『メトロポリス』《Metropolis》(1926)を観た。ヒッチコックマラソンの次には、スコセッシがフィルムメーカーを目指す若者に勧めたという映画 39 本を走ることとした。以下のブログで紹介されている。その 1 作目が本作だ。
視聴したメディアだが、ニコニコ動画に分割で投稿されているバージョンを観た。パブリックドメイン化されている作品とはいえアウト寄りのグレーゾーンな気はするが、 1972 年に US でリバイバル上映された版の DVD 化されたパッケージがベースらしい。比較的画質がよいという情報を目にしたので、こちらを選んだ。
鑑賞した作品は 100 分程度だが、バリエーションがさまざまあるらしく Wikipedia に記載のドイツでのプレミア公開時のバージョンは 210 分となっている。現行で入手しやすいのは 2010 年だかに発見されたフィルムがベースになった 150 分版らしい。
背景に資本主義 VS 共産主義 という構図を取っているらしい本作は、労働者の思想的支柱:マリアを廻った思惑を軸にして物語が進む。マリアに感化された若者フレーダーは、労働者たち、および支配者階級とそのボスである父:フリーダーセンとの橋渡しになろうと奮闘する。その他、ロボットを開発する発明家トロワングが登場する。
大量のエキストラを動員した労働者たちのシーンもすごいが、地下世界や洪水のシーンなどなどを含めて、どういう規模のスタジオ? ロケーションや美術装置で撮影しているのか、ちょっと分からない。すごい手が込んでいる。お金も相当に費やされたらしい。
ロボットが偽のマリアとして覚醒するシーンは、やたらと技術が盛り込まれており、半端ない。この撮影の裏話みたいなのは記録は残っているのだろうか。
マリア、彼女に扮したロボット役を務めたブリギッテ・ヘルムの演技が白眉で、労働者の支えとしての女性像と、トロワングの指示によって労働者を扇動する魔女としての女性像、両極端のキャラクターを担った演技には惹きつけられる。
また、世界観を映し出す未来都市の遠景画面にはミニチュアによるジオラマが採用されていると思われるが、これも下手な安っぽさを感じさせられず、この時代からすでに、特に映像的な SF のイメージについても、かなり完成していた-現代がそんなに差を生み出せていない-ことがわかる。
フレーダーの父、支配者の頂点に立つフリーダーセンの「ひとはなぜ地下に魅惑されるのだ」(意訳)のような台詞が最も印象的だった。なんとなく考えるには、空に魅せられてもしかし、人間は地下を生み出さざるを得ない構造のものに社会を作っているのではないか。上手いことを言ったつもりだ。
2018 年かな「書き手と編み手のAdvent Calendar」という企画を知って、それはつまり、編集に携わるひとたちのアドベントカレンダーだったが、ちゃんと読んだことはなかった。こういう企画の記事を読むのにもそれなりに気力が必要であって、ブックマークしたまましばらく放置していた。
あらためて確認すると、2017 年から 2019 年まで催されたようだが、2020 年は開催されていないのかな。よくわからないが、2019 年のカレンダーに登録された記事をようやく読んだので、面白かった記事のメモを残す。
以下が記事についてのメモだ。
企画者の方の記事だ。ま、やっぱりこういう企画をされる方なので-詳細なプロフィールまでは追っていないけれど、IT ジャンルが近い。もともと、昨今のアドベントカレンダーブームもそういうところなんでしょ?
編集というスキルも技術者に近いところがあるのでは、という主張あるいは論点があり、それはおおよそ正しいと思う。Web (大雑把が過ぎる)でも書籍でも雑誌でも新聞でもいいけれど、ブログもなんだかよくわからん時代になった。編集はどこへいく。人間はどこへいく。
技術マンガを描くにあたっての情報がまとめられている。コミックで技術なりを解説する方法は「マンガでわかる」シリーズなどからメジャーになったのかな。しかし、基本は子供向けとはいえ、小学館の学習まんがシリーズの例を考えると、別に新しいことはなくて、歴史のあるフォーマットではあるんだろう。
DTP、コマ割り、情報量、作業分担などのトピックが扱われている。どちらのこともわからない書き手同士での製作は難しかろうという指摘がおもしろくて、まったくその通りだと思うが、たとえば学習まんがシリーズだと学者先生が監修として入っていることが多い。つまるところ、出版社なり編集者なりが間に立つとすれば、そこをマネジメントするのが彼らの仕事だ。
こうなるというまでもなく、どちらもできる-あるいは当てのある編集者が強いということになる。
辞書編集者の方の記事ですね。辞書の編集はね、マジで大変なんだと思う。タイトルとは裏腹に、やはり最後はアナログな仕事が目立つな、みたいに〆られているが、まぁ殊に辞書についてはそうなるよね、と。
辞書っていうのは機械的と思いがちだけれど、大枠と細部にはかなり著者や編集者の方針や人間味がハッキリ出るコンテンツだ。だが膨大な情報量が前提になるので、そういったことは背景になりがちだ。
本格的な辞書の索引の制作方法についての話を聞いてみたいな。これこそ最後はかなりアナログな作業になると踏んでいるのだけれど。
マンガや雑誌、書籍の編集者からゲーム制作者になった方の記事かな。いわゆる編集スキルが書籍以外に経験として生かされているという例として見ていけばいいのかなと思うが、おもしろい。ゲーム制作はチューニングを、校正を永遠にやっている感覚が近いという旨を書かれている。おもしろい。逆にひとつ前の記事を引くなら、辞書の編集に近いんじゃないかな。
書くことのスキルについて「短期記憶」と「長期記憶」を織り交ぜることについての言及もなかなか興味深かった。たしかに、文章を書くにあたっての快楽ってそういうところにある気がする。
Zoom を利用した取材の方法についてのメモなのだが、2019 年末の記事なので、ちょうどコロナ騒動を目前にして Zoom が広く知れ渡る直前くらいにあたると思われ、面白いなと思った。未来予知的な話にもなっている。
インプットが多すぎて処理しきれないというのは、確かに難しい。
15 年ほど編集業を出版社で勤めて独立された方なのかな。タイトル通りの記事なのだが、これはなかなか難しい。世のすべての編集者が InDesign を使えないということはないとは思うのだが、本当は編集者が InDesign を使える必要なんてない。
それはデザイン、プロフェッショナリズム、分業制などなどの理由から大雑把に言ってのことだが、もちろん使えることで、完成形への見通しが強くなることも確かだ。
というか、同人で書籍を作っているひとは自分で InDesign を扱うことは珍しくないだろう。そういう意味ではどちらが書籍制作のプロなのだか、もはや分からない。そういう境界線に立つことにした方の記事だ。
偉そうなことを滔々と述べたけれど、InDesign の学習サイトを紹介してくれているのが何気に素晴らしいですね。他の Adobe ソフトに比べてもそうだが、なかなかこういった情報自体が共有されていないように思う。という視点に立てば、本企画の趣旨にもっとも適合した記事だな。
Wantedly のインハウスエディターの方だそうです。ガチ目の論考だ。
大雑把な理解としては、印刷技術、文字の出力技術の発達によって、その末端の作業、ここでは主にタイプライティングが主に女性労働者の役割となったとき、その職業に対する偏見、あるいは情報を紡ぐ主体としての立場がどのように変化してきたかということを論じる。
イントロダクションでは著者とゴーストライター(ブックライター)の関係に言及していたので、最後にはその辺に戻るのかなと思っていたが、そうでもなかった。
本ブログの最近の話題でかこつけていえば、タイプライターが女性の仕事だという観点の歴史は長そうで、ヒッチコックの『マーニー』のヒロインも職場ではタイプライティング作業をさせられていた。また、『ファミリー・プロット』では論考で言及されていた霊媒師も登場する。
というか、ライティングというか文字メディアにかかわらず、巫女という存在を思い起こせば、女性がなにかしらの媒体になって真実を伝えるというフォーマットはライティングの歴史以前、もっと人間の根本的なところにあるのではないか、と釣られて考えてしまった。ここまで。
校閲を仕事にされている方の記事だ。本記事ではあえて校正で統一されている。まぁなんというか、編集なりの校正、校閲なりに関わる人間というのはなんだかんだで文字が好きなんだなという感想だ。
本職の校正者が自分の同人の校正をやるのって大変だなと思うが、別に自分の原稿じゃなければそこまででもないのかな。その辺の感覚の話を聞いてみたい。
同人書籍の制作記録ですが、かなりちゃんとまとまっているので、これだけでかなりの価値のある記事だよね。
特にどうということはない記事だと思うのだが、やはり IT エンジニアの方はアウトラインを作ってまとめるのが上手いんだよね。これはひとつ上のカイ士伝さんの記事もそうだけど。
これも自分が言うまでもないのだけれど、そもそもインターネット文化とは、IT エンジニアの方に支えられる部分が構造的に決まっているので、そういったところから新しくなり続けるはず、という視点は欠かせないんだよね。これも記事とは直接関係のないことだけれど。
面白い。Web における文章の出力媒体とそのメソッドの変遷についての小論考だ。その目的も兼ねて、この記事は敢えて medium で書かれたらしい。ところで、このアドベントカレンダーはやはりと言っていいのか note で書かれた記事が多かった。
個人的には WordPress の記事執筆機能の UI を割と大胆に変革し続けているのが気になっており-その更新の内容自体は平凡だとしても、面白いなと思って見守っている。もとい利用している。
なにか大きな波がまたあるのだろうかね。
気になるのは、medium にせよ note にせよ吐き出される URL が汚いのだよね。特に medium はおそらくタイトルをそのまま出力するから日本語のタイトルの場合はとにかく長い。技術系の編集者やライターでもその辺は割り切っているのかな? といつも疑問に思うのであった。
といった感じで、メモを終える。
iPad アプリ Cardflow+ についてのメモを残す。いきなりだが、私としてはアイデアのまとめ方としては原理的には梅棹忠夫の情報カードや川喜多二郎の KJ 法のような類の方法がなんだかんだで有効だと信じている。
既存のデータや文献を扱った型に沿った研究、あるいは何らかのフレームワークを利用するのであれば、また別だが、自分なりにプリミティブでもいいから、なるべくゼロから思考を作って進めてまとめていくには、これらの手段がやはり強い。
たとえば『エンジニアの知的生産術』もやはり上記の方法におおよそ近い方法を採用して説明していたと記憶している。本書で紹介している手段としては、やや小さめのポストイットを使用し、アイデアのユニットを書き出したら A4 用紙に付してまとめる。クリアファイルかなにかに収納すれば持ち運びも便利でどこでも思考を進められる、いうようなことだったっけ。
以降、著者の西尾さんの Twitter なりでの状況報告ツイートでは、上記の方法を自分なりにアプリケーションに落とし込んだという経緯を辿っていた気がするが、今回話題にする iPad の「Cardflow+」は似たような操作ができるということだ。最近になってようやく発見した。
日本語化されていない点を無視しても、日本人で利用しているユーザーはあまりいないようで、ブログで紹介している記事も以下の 3 点ほどしか見つからなかった。ただまぁ、ここまでの説明と以下のブログなどで紹介されている以上のことも特にないので、具体的な使い方の話には踏み込まない。ややクセはあるが、それほど使いづらいアプリではない。
- 頭の中を整理するのに最適なiPadアプリ、Cardflow|坂田裕輔の公式サイト
- カードを使って自由自在にアイデア発想できる神アプリ発見!『Cardflow+』なんとApplePencil対応です!|いざ!創らん。
- Cardflow+なかなかよいです|kb84tkhrのブログ
使い始めてあらためて思ったことだが、こういう思考方法は習慣化していないとアイデアの書き出しに苦労するね…。
つまり、アイデア出しそのものを習慣化していないと人間は発想ということ自体の方法を忘れていく。いや、当たり前っちゃそうなんだけど、その自覚の機会さえ簡単に失われていく。習慣化されない諸々の行為一般に当て嵌まることだろうだろうけれどもさ。
考えることについてのみいえば、オリジナルの思考を進めるということは、それだけ難しい。
『ファミリー・プロット』《Family Plot》を観た。1976 年の作品だ。ヒッチコック最後の作品ともなっている。いくつかのレビューで目にしたことだが、たしかに話のスケールが小さくまとまっている。テレビの特別番組枠と言われても納得してしまうかもしれない。こういうストーリーにしたのはどういう戦略だったのだろうか。
ヒントと言うか、前作の『フレンジー』でも感じたことだが、サスペンス要素が身近な関係に落ち着いている。そして主人公たちも悪役も、小市民(小市民とは)だ。多くの鑑賞者にとって感情移入しやすい、とは言わないまでも、自分や知り合いの立場に近かったり、そうでなくても隣近所の人間に似たような境遇の人間がいるかもしれない。
時代背景やら同時代の映画作品、あるいは他メディアのエンターテインメントとの関連比較やら、深入りしていくとおもしろそうだけれど、一旦区切る。
物語は、冴えないカップル 2 組の思惑が交差する。交わるようでなかなか交わらない関係がおもしろい。本作では、男女間の性的な関係が直接的にビジュアルで表現されることはほぼないが、会話劇もとい台詞回しでは過去にないくらい存分に主張されており、これも目立つ点かな。とにかくヒロイン:ブランチは本能が強くてヤバい。
インチキ霊媒師という設定、あるいはクライマックスのアレにどういう比喩が籠められているのか、現時点ではよく分からん。ただのオチではないとは思うのだが。
悪人側の主人公:アダムソンとその相棒:マロニーの 2 人の悪人面もよくできている。雑に言ってキャストがいい。ブランチのパートナーであり、一応の主人公:ジョージも一見して軽薄な男だけど、実はそこそこ頭がよくて思慮もあるという塩梅が絶妙でよい。嫌いになれない。
無視できないキャラクターで今回、私がもっとも好いな、カッコいいなと思ったのは、アダムソンのパートナー:フランだ。冒頭のインパクトの強さ、誘拐強盗とそこから先の犯罪との絶妙かつ奇妙な線引きなど、なんとなく共感しやすいかったね。
というか、鑑賞後にわかることだけれど、フランは現行のパッケージのビジュアルに大きく使われているんだよね。やっぱり、カッコいいよ。
気になったシーンなど
今作もなんだかんだと印象深いシーンやらカットやらが多かった。ひとつずつあげていく。
よそ見運転からフランに切り替わる
冒頭、ブランチが富豪老婆を相手にした仕事帰り、彼女の儲け話に耳を傾けるジョージは運転を疎かにして事故を起こしかける。その相手が道路を横断していたフランだ。
このタイミングでカメラは警備員のいる詰め所に向かうフランを追い始める。いや、まったく意味不明ですが、目はくぎ付けにならざるを得ない。突然、強盗劇が開始されて私用の小型ヘリコプターを駆った人質交換までが済み、誘拐強盗が完成する。
スムーズすぎる。話の展開としては半々くらいは読めるようになっているが、手際が良すぎてもう面白い。
聖堂の階段、最後の階段
ヒッチコックの階段が好きだ。今作では主に 2 箇所のシーンで階段がうまく使われていたなと。ひとつは、司教に会見を臨むジョージが聖堂の大階段を駆け登る俯瞰のシーンだ。なんとなく気味がいい。
もうひとつは、クライマックスのアダムソン邸でのいくつかの階段だが、やっぱり上手いんだよな。ヒッチコックの最後の作品となった本作のエンディングが階段で締めくくられるのとか完璧としか言いようがない。
ファミリー・プロット
悪人マロニーの葬儀で、避けるマロニー夫人と追うジョージを俯瞰で映すシーンもよい。これはタイトルに象徴されるロケーションなのだよな。葬儀あるいは墓地でひとが動くシーンというのは、なんらかの不思議な気分を醸すね。
ヒッチコック作品でいえば『泥棒成金』も印象的だったが、自分の小さな映画履歴でいえば『芳華‐Youth‐』のラスト付近の墓場のシーンも好きだね。日本の映画だと何かあるかな。パッとは思いつかないな。
ジョージのハンバーガー
ブランチ宅での朝の作戦会議中、ジョージがハンバーグを焼いてバンズに置く。テーブルには野菜とピクルスが盛られた皿があり、ケチャップも目に入る。2 人はテキトーに野菜をのせて、ケチャップをぶっかけて手製のハンバーガーを頬張る。ずるい。
なんかねー、いいんですよ、このさりげないシーンが本当にいい。この作品で 1 番好きだ。美味しそうなのがまず第一に好い。調理担当をジョージが請け負っているのも好いし、時間もないのにおかわりを要求するブランチもよい。本当に欲望に忠実だな、君は。
お手製のハンバーガー、作りたくなるっしょ、これ。そういえば、誘拐された被害者に提供されたフランによる食事も美味しそうなんだよね。そのへんの感覚も、ここ数作品で得られたことなのでちょっと気になる。
というわけで、先日もちょろっと書いたが、もともと射程に入っていなかった初期作品、ついで、いくつかの取りこぼしを残した状態だが、今作の視聴をもって一旦はヒッチコックマラソンを完走とする。ありがとうございました。
『フレンジー』《Frenzy》を観た。1972 年の作品だ。イギリスとアメリカの合作ということで、ヒッチコックがひさびさに故郷で撮影した作品となる。アメリカの広々としたロケーションに比べ、ロンドンのせせこましい街並みが安心感を生む。というと失礼なようだが、なんというかである。街のせせこましさと同じようにして、物語も非常に小さい人間関係のなかで進展する。
本作もいつもながら巻き込まれ型の主人公:ブレイニーが四苦八苦する展開だが、いつもと違うのは彼がまったくと言っていいほど活躍しない点だ。こういう意味では《間違えられた男》を連想させられる。加えて、真犯人とその犯行シーンをのっけから明かす展開も珍しいのではないか。前例はなにかあったかな。
真犯人:ラスクがどうしようもない犯罪者であることは確かとして、ブレイニーもうだつの上がらない人間だし、もうひとりの主要登場人物であるオックスフォード刑事も冴えない。この作品に登場する男どもは、どいつもこいつもダメなのが印象深い。
対して、女性たちは強い。ブレイニーの元パートナーだったブレンダは事業をそこそこ成功させているようだし、いまの彼女のバーバラもパキッとした意思をもって事件に立ち向かっていた。ちょっと登場した空軍時代の仲間であったジョニーのパートナー:ヘッティのキャラクターも強烈で、ブレイニーが無罪だったとしても一切関わりたくないという態度が一貫していて美学があったね。
極めつけはオックスフォード夫人で、探偵役の家族が直感で真相を言い当ててしまうお約束の展開も面白いが、おいしくもない料理を量産し続ける彼女の根気がすごい。最後にお客の残したマルガリータをマズそうに飲んでいたのも笑えた。
狂気と笑い
ラスクの凶行シーンは過去にないくらい強烈な描写が許されている。女性のバストも何度となく登場するためか、R18 指定すらされている本作だが、最初のラスクの凶行シーン、表情のドアップが印象的だし、事の済んだあとの被害者の表情がどれも強烈に凝っていて、決して見ていたいものではないものの、素晴らしかったね。
2 度目の凶行は直接描写されなかったものの、トラックの荷台で繰り広げられる独り相撲は異常さのなかに笑いを誘われる。芋の山のなかから被害者の脚が伸びてきて、ラスクの顔を蹴とばしたような状態になったり、トラックの動きの反動で顔を突っ込んでしまったり、いい意味でバカバカしい。偏執的な異常者のこだわり症に目を見張らざるを得ない。
過去作との比較でいえば、今作でも一瞬だがラスクの母親が登場する。どうにも母親との関係は良好らしいことが示唆されるが、過去のヒッチコック作品を見てきた限りにおいては、結果的にはメタ的に逆張りとして機能したとも考えられる。
印象的なカットなど
今作はこれはおもしろいなという画面が多かった。
オープニングクレジット
タイトルを含むオープニングクレジット、『北北西に進路をとれ』までは試行錯誤が常に面白く、それ以降はピンとこなかった。今作もそれほどではなかったが、テムズ川を空撮してタワー・ブリッジに接近していく画面はさすがに面白くはあった。カットは変わるがやはり空撮にて、川沿いの路上で環境問題を訴える演説家と聴衆を映す。気合の入りようが伺える。
さらばバーバラ
バーバラがラスクに匿ってもらう展開になる。ラスク宅の扉が閉まると、カメラは 2 人が昇ってきた階段をそのままソロリソロリと降っていく。向きは変えずにバックしていく。ホラー映画などではたまによく見る映し方のような気がするが、ねっとりと遠ざかっていき、ラスクの部屋の窓が映るほどにまで遠ざかっていくシーンは、いいね。上手いんだよな。
オックスフォード夫妻の食卓
夫人が謎の魚煮込みスープを出す。刑事は夫人の目を盗んでスープを鍋に戻す。この攻防は、キッチンを中央奥の入り口向こうにして、手前のテーブル右に刑事を配置して映し出される。さらにテーブルには燭台に火が灯っており、2 本の蝋燭が左右に揺らめいている。
夫人の移動とともにやや右寄りだったカメラが正対するように中央に移動すると、キッチンへの入り口と燭台、蝋燭が見事に並んで重なり、また左右に座ったオックスフォード夫妻がシンメトリー様になる。小津安二郎ばりのこだわりの画面か。これは何だろうね。話中ではアンバランスのように演出されているが、実際にはこの家庭はバランスが取れているとでも言いたいのか。謎である(笑)。
遠見のヘッティ
ジョニーと再会するシーンで、ジョニー宅を示唆させながらヘッティが彼らをベランダ? バルコニーから睨みつけているシーンがあるが、なんなら私は本作でこのカットがもっとも印象に残ったかもしれない。
先ほども書いたが、この作品では女性の方が本質的には強いように描かれているように思う。同時代の作品に同じような傾向がどれくらいあったのかも分からないし、今日となってはそういった前提が描かれた作品など珍しくもないが、ヒッチコック作品という枠についていえば、珍しいように思う。『三十九夜』や『逃走迷路』あたりのヒロインは主人公よりも知的な感じがあった気がしなくもないが、ここまで完璧なこだわり様はなかったのではないか。
物語の背後のこととしては、そこらの配慮が気になった。
ちなみに、恥ずかしながらタイトルの英単語 “frenzy” の意味を知らなかったのだが「逆上」だとか「狂乱」だとかが、本作に相応しいのかな。前者であればブレイニーに該当するだろうし、後者であればラスクに該当しそうだ。その辺がネイティブでもダブルミーニングになりうるのかは分からないが、どうだろうか、端的ながら味のあるタイトルな気がする。
『トパーズ』《Topaz》を観た。1969 年の作品だ。前作は東ドイツだったが、本作は対ソ連ということで、共産主義の本丸を相手どった冷戦ネタの作品だ。珍しくというか、群像劇と言うほどではないものの、主人公一辺倒の構成ではなく、ハッキリと幕が分かれていることを意識させられる。ここでは大雑把に以下の 5 幕として感想を並べる。
- ソ連高官クセノフ一家の亡命劇
- フランス大使館でデベロウ登場
- ニューヨークでの機密情報奪取
- キューバへの潜入と失敗
- フランスでの黒幕と真相の究明
また、日本語でググっても簡単には情報が見つからなかったが、オープニングクレジットのソ連軍の行進のシーン、キューバのカストロらしき人物の演説のシーンは創作ではなくて実際の映像が利用されているのではないかな。ちょっと確認できていない。
ソ連高官クセノフ一家の亡命劇
発端だ。タイトルの通りの内容だ。コペンハーゲンのソ連大使館からアメリカへロシア人高官:クセノフの家族が脱出する。ほぼ無言で緊迫した状況が演出されるのは、いつも通りながら見事な手腕である。ここが 1 番好きって言われても全然違和感がない。
季節は秋から冬なのかな。アメリカ到着後にワシントンから車を走らせて亡命先の隠れ家に向かうシーンで森の中の屋敷に到着するが、少し木々が黄茶色のようになっている。なんとなく『ハリーの災難』(1955)を思い出したが、映像は向こうの方がキレイだったな。
屋敷で秘密会議が開かれるが、隣室で娘がピアノを奏でているシーンは印象深いね。
フランス大使館でデベロウ登場
冷戦下ではあるがフランス-パリはあくまで中立を貫くというフランス大使館でのシーンに切り替わる。そこに主人公:デベロウが登場する。フランスのエージェントである彼は、アメリカ側の組織とも仲が良い。
デベロウの自宅では、パートナーのニコールは彼の仕事を危惧しており、パリに帰りたいと促す。まぁ、そりゃそうだ。彼らには結婚した娘が本国に居り、娘夫婦がニューヨークに遊びに来るという導線が引かれる。
アメリカ側のエージェント:ジョンかな? が来訪するが、その際の会話もなかなか面白かった。
ニューヨークでの機密情報奪取
国連会議に来訪しているキューバの高官から機密書類を盗みたいが、アメリカのエージェントでは接近すら難しい。デベロウに白羽の矢が立つ。フランスとは関係のない仕事だが、彼は了承する。家族旅行の最中である。
デベロウはニューヨークで花屋を営みつつスパイ活動に従事するパートナーを使って機密情報に接触しようとする。ほとんど、 パートナーの彼の活躍が描かれる。キューバのスタッフが滞在しているホテルは半分無法状態のようだし、街路には共産主義の応援者のようや人たちが集っているし、これは当時の似たような状況を再現したのだろうけれど、なかなか画面が強い。
情報を盗み出すまでのやり取りも緊張感はそこそこにコミカルさを挟みつつ、楽しめる画作りになっていた。特定のシーンについて言えば、貴重っぽい文書をハンバーガーの包みにしており、油まみれにしているところが面白かった。
キューバへの潜入と失敗
ここから全体の尺としては後半に入る。機密文書にてソ連とキューバの繋がりのヤバ味を実感したデベロウは、単独の判断でキューバに飛ぶ。ミッションの重要性もあるが、協力者であるファニタの身を案じた面もあるだろう。
デベロウとファニタのラブロマンスのシーン、ますますドキリとさせられる表現になっていた。話は飛ぶが、拷問シーンもだいぶ精確というか直接的に描かれていた。痛々しさがよく伝わる。これらも規制の対象であったりするだろうから、時代の流れとしてこれくらいの表現ができるようになったのだろうか。スパイしていた夫婦が正気を失っていたが、妻の方の演技がよかったね。
足がついたファニタたちは粛正されていくわけだが、リコ・パラがファニタを処分するシーンも、またよい。どちらかというと彼は、ファニタを女性としてと言うよりも尊敬する英雄のパートナーとして敬愛していた、とみるほうが情に篤い。だからこそあの最期に繋がった。
彼がドアを開けて去り、エントランス中央にファニタの亡骸が残されたシーン、中南米らしい明るさ、デザインを含めて、ホドロフスキーのような美的な感覚を見た。
フランスでの黒幕と真相の究明
紆余曲折の末、デベロウは更迭される結果となるが、彼のもたらした情報によってか亡命ロシア人:クセノフが「トパーズ」の秘密を開陳した。キューバの犠牲になったメンバーの犠牲も少しは報われたろうか。
最後のパリ編では、フランス政府内の不穏分子を炙り出すための踊りがはじまる。そこまで大掛かりな話でもないが、ここで、まさかこういう風にデベロウの妻:ニコールが、まさかまさかこんなムーブを見せるとは。いや、これは酷い。酷いけど最高だ。
ニコールの動き、単純にサスペンスを楽しみたいという向きにおいてはノイズといっても差し支えなさそうなくらいで、まさかのオチをこんな、このような不貞なアスペクトに委ねるのかと思ってしまうよ。
言うなれば、キューバとフランス、本作の物語における彼らを取り巻く構図がニコールとファニタの関係に見立てられる。どうなのかね、これ。自分は面白くみたけど。
直近の緊迫した世界情勢を描いたという意味では、第二次世界大戦中の作品よりもよっぽどテーマに切り込んでいるし、これはこれで特異な作品だ。エンディングに亡くなっていった登場人物たちを思い出させる構造といい、メッセージ性も強い。
好きですね。
余談というか、後期作品になるほど日本語で浚える情報が減ってくる。今回の感想は、以下のブログの記事で登場人物の関係とあらすじ確認しながら書かせてもらったのでリンクしておく。
『引き裂かれたカーテン』《Torn Curtain》を観た。1966 年の作品だ。船旅のシーンから始まる。カップルが客室でいちゃついている。ロマンスシーンは時代を経るごとにさらに露骨になっている。2人は本作の主人公カップルである。
船はコペンハーゲンに到着し、よくわからないままに主人公:アームストロング博士は東ドイツに亡命することになる。よくわからない。よくわからないままに助手兼フィアンセ:サラは彼を尾行して付いていく。よくわからない。本当によくわからない。
サラの行動もなかなか迷惑だが、言うまでもなくアームストロングの行動がよくわからない。なんで、こんな杜撰なムーブでサラを巻き込んだのか。仮にもフィアンセやろ。男が単なる亡命目的ではなく、なんらかの使命を背負って東ドイツに潜り込んだことは、鑑賞者であれば誰だってわかるが、それにしたってお粗末じゃないか。
農場での格闘
東ドイツへの到着翌日、エージェントと町はずれの農場で会って会話する。会話の内容に意味があるとも思えず、ただの挨拶のためだけに尾行を巻くような危険な行為をするのかね。そこが敢えてオミットされているにしても、やっぱりよくわからないな。
さて、案の定と言っていいのか尾行を巻くことには失敗しており、監視者:グロメクが彼に追いついた。
展開の次第で、農場付きの家屋でグロメクを殺める結果に至る。この格闘シーンが 1 番面白かった。エージェントの協力者である女性もおり、なんなら最初に手を出したのは彼女であった。2 対 1 でグロメクを無力化しようと死闘を繰り広げるが、この攻防が手に汗握る。最後はガスオーブンを活用して息の根を止めるのだが、緊迫感があった。
この事態の終結に当たって、女性がアームストロングに血塗れの手を洗うように促すシーンが好きだ。共犯関係のなかに、ちょっとしたエロチズムがある。
脱出劇
なんやかんやとミッションを進め、東ドイツから脱出しようという段になるが、この辺は個人的にはさほど面白みを感じなかった。序盤から付き添っていたカールが大した役割も果たさずにフェードアウトしていったのも気になった。
反体制組織とのバス移動のシーン、なんというか手弁当な感じのサスペンスだが、流石に上手い。臨時便を偽装して走行する逃走用のバスに対し、背後から本来のバス便が迫っているので緊張感が生まれるという仕組みだ。「本当にそれって緊張するの?」って書いていて自分でも思うが、そこはうまく演出されていて、そこそこの緊張感がある。
バスと別れ、謎のスウェーデン人のマダムに遭遇し、郵便局で一悶着あって、という流れもよくわからない。このマダムを登場させることの意味が、おそらく当時にはあったのだろうけれど、十分に解読できず残念である。それにしても、この一連のシーンも郵便局であえて目立つ動きをする必要がないんだよな。決死の逃避行としては温い。
クライマックスに至るシーン、劇場にて観劇しながら逃亡の時間を待っている。そこにふと奇妙なカットが現れた-ここはとてもヒッチコックらしい仕掛けだった。だが、これも序盤での妙なシーンの理由が判明したくらいで、特にこれといって意外性もなかった。
その後、主人公が「火事だ」と英語で叫んで観客たちが動揺し、騒動になるシーンも如何にもな演出だが、本作では、さまざまなシーンで言葉が通じないことが生かされてきたので、逆に違和感を感じた。流石にそれくらいの英語なら皆わかると前提されるのだろうか。設定の粗のように感じてしまった。
まとめ
ダラダラと書いたが、重ねて述べておくと、農場でのシーンが1番面白かった。あの農場の家屋と女性、『三十九夜』で主人公が逃亡中に匿われた若い嫁のことを連想させられた。そういう意味では本作でも、ヒロインよりも道中でちょっとだけ手助けしてくれる女性キャラクターの方が強烈な印象を残してくれた。
なお、本作と次作『トパーズ』(1969)は冷戦構造が物語の主軸に横たわっている。タイトルの「カーテン」もそのことを意味しているハズだ。