年末、なにかと絶賛されている『燃ゆる女の肖像』を観てきた。なんならこの作品が 2020 年の劇場での映画納めだった。フランス映画かな。原題は《Portrait de la jeune fille en feu》、英題は《Portrait of a Lady on Fire》だ。

あまりによくできた映画だ。言及したいポイントも尽きないが、私としては、エロイーズの表情の変化が本作の全体を支えていたなぁ、としみじみ思う。というわけで、キャストに興味が湧き、 Wikipedia などを読んだ。以下の部分は、ほぼそのまとめなので、特別な内容はない。

監督のセリーヌ・シアマは 1978 年生まれのイタリア系フランス人だそうだ。過去の作品は未見だが、エロイーズ役のアデル・エネルは監督の第 1 作『水の中のつぼみ』に出演しており、この作品でフランス国内の有望若手女優賞を受賞した経緯がある。これが 2007 年だ。

ついては本作では、アデル・エネルの配役が最初に決定したらしいので、少なくともキャストについては彼女の存在、演技が作品のイメージを決めることが想定されていたのだろう。

で、そんなことを思いながらここまで書いて、幾つかの記事を読んだら、セリーヌ・シアマとアデル・エネルは私生活でもパートナーだったらしい。おぅ、それはそれは、決定的に重要なファクターじゃないですか。監督へのインタビューでは以下のような発言も目にした。

アデルが私の「ミューズ」であるという概念に終止符を打ち、互いの創造性によって作り上げる作業が、映画作りの核にあったと思います。私たちはお互いに刺激を与える協力者という関係です。

https://www.elle.com/jp/culture/movie-tv/a34855511/cfea-cinema-active-celine-sciamma-20-1204/

そのアデル・エネルは 1989 年生まれの 31 歳であるのに対し、もう片方の主役となるマリアンヌ役のノエミ・メルランは 1988 年生まれの 32 歳だ。設定上、18世紀のフランス貴族で嫁入り前の娘の役をするには実年齢が大きくかけ離れているように思えるが、別にこれは珍しくもないことだろうな。ただ一応、マリアンヌのほうが実年齢が上でよかったなと個人的には…。

作品の外側の問題と作品そのもの、作品内でのアレやコレを一緒くたにしてはいけないけれど、これは流石に見落とせないポイントであるなぁ、しかし。安易に捉えてはいけないけれど、構図としてはマリアンヌがエロイーズに焦がれた状況は、セリーヌ監督にとってのアデルの存在を重ねることができてしまう。

状況を支配したのは誰か

まず、この点が気になった。エロイーズは生活の定まった修道院生活から解放され、逆に母親から幽閉されることとなり、知らずのうちに婚姻用の画題にされている。一見すると、というか冷静に考えても、彼女は可哀想な立ち位置にいる。

それは事実として、だが、よくよく展開を追うと、どうみても画家のマリアンヌよりもエロイーズのほうが賢く、口が立ち、彼らを取り巻く世界を現実的かつ忠実に捉えていて、物語の主導権を握っていることが分かる。

逆に、これは或る意味であるべき展開なり結果なりであって、つまり芸術家が対象に魅了されてこそ作品の制作は、その完成度を押し上げる。結果として、マリアンヌはエロイーズを描くことに成功した。という構図になっている。

マリアンヌは何に魅了されたか

中盤くらいまでエロイーズはほとんど不機嫌なんだよね。笑顔を見せない。だから、マリアンヌも彼女を描けない。仕事の目的を達成するためには彼女の笑顔を引き出す必要があったが、それってエロイーズを理解することに他ならないし、じゃぁエロイーズを理解するってどういうこと? となる。

「キスしたくなったのはどのタイミングだったか」という問いが交換されていて非常にエロチックだったが、回答された「そのタイミング」は割と曖昧だったと思う。

先程のエロイーズの強さは、メイドのソフィーの顛末でのあのタイミングで頂点に達してたと画面を眺めていた視聴者としては私は実感した。だので、私は「あのタイミング」こそがエロイーズがマリアンヌを落とした瞬間だったと感じる。イヤだねぇ、そんなことどうでもいいよね。

エロイーズの容貌と瞳は

作品全体で平均するとマリアンヌの瞳が一番美しく映っていた。だが、あるシーンではたしかにエロイーズの瞳が爆発的に美しかった。普段は、やや青みがかかった小さめの瞳に見えるのだが、あのシーンだけは彼女の瞳は大きく漆黒の美しさがあった。どうやって撮ってるのかなぁ。

あとこれは、もちろんアデル・エネルの演技力の賜物なのだろうが、化粧もうまく意図されてコントロールされているのだなと感じる。エロイーズは、ときとして少女のようだが、ときとして疲れ果てた-それこそ俳優の実年齢なりの-女性の素顔にも見えたのだ。

これも調子に乗って勇んで言えば、本作中でエロイーズは永遠をそこに秘めているワケで、つまりマリアンヌにとってエロイーズは庇護の対象でもあるが、同時にエロイーズこそが彼女の救いにもなっていった。作中でさまざまな表情で魅せる彼女に、マリアンヌは捕らわれている。

詩人は永遠を脱せたのか

オルフェ神話を扱ったシーンとその扱いも絶妙だったね。彼女は「オルフェは詩人でいたかったから振り返った」という。もう一方の彼女は「妻が振り向いてと言ったのではないか」という。そもそもの視点が違うのだ。

結末でマリアンヌが発見したエロイーズは、子供を産み、それなりに老けこんでいた。だがそれでもマリアンヌは彼女を愛している。少なくとも彼女の愛は、エロイーズを作品にしたことで、それを永遠性のなかに閉じ込めた。

一方のエロイーズは絵画のなかでこそマリアンヌへの愛を確かに示すが、現実はそうはいかない。決して彼女を振り返らず、ただ思い出に浸って、思い出の藝術を鑑賞し、そのなかで喜怒哀楽を消費し、思いを昇華させていただけだった。

疑問はひとつあって、オープニングで登場したマリアンヌの作品、これは島での体験を統合して描いた作品だと思うが、タイトルでもある。この作品は、おそらくマリアンヌがエロイーズを思い出に昇華しようとして描かれた。だから女は燃えている。

その他のことなど

まず、作中の基本設定として、これも個人的な見解だが、エロイーズは作中の世界観では一般的にいって美しくないタイプの容貌なのだろう。母親もそう思っていない。母親とマリアンヌが昼の居間で、なにやら語らうシーンがあったが、それがこのことを暗示しているようにしか思えない。

それでも、エロイーズは美しい。そういう瞬間を愛する人は求めている。エロイーズがマリアンヌに最初に笑顔を見せるのが寝ているときというのもよかった。そしてそれが、実は半ば覚醒してたっぽいのも彼女らしい憎たらしさがあった。

次に、最初の画家についてだが、少なくとも画家としての技量はマリアンヌよりもあったのではないか。未完成の作品に彼女が火をかけたのには、その辺の理由がある気がする。皮肉にもというか、ここにもタイトルが掛かってしまっている。が、これは意図しているわけではない、のかな。

最後に、海と色遣いについて。マリアンヌは赤い衣装をまとっている。エロイーズは濃い青、または絵になるときは緑のドレスになる。ソフィーはだいたい白い。まぁだいたい想像しやすいイメージにあった配色なんだけど、これがキレイな海とよく調和していた。むしろ、海の美しさが際立っていた。

また、最近読んだ本によると、中世以降においては緑の服は「恋煩い」、青の服は「貞節」を意味していたらしいので、その辺は忠実に充てられているのだろう(追記:2021-01-12)

決意したソフィーを砂浜で走らせているとき、あの構図が怖かったよね。あのときはマリアンヌもエロイーズも黒っぽくなっていて、ちょっとビックリしたんだよな。18 世紀後半のフランスで、ヴィヴァルディを聴いて泣くエンディングがエモ過ぎて泣く。

自分なりに咀嚼するのに参考になったのは以下のサイトなど。

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