狩りではなくて探求ではないか|『ザ・ハント』

『ザ・ハント』《The Hunt》を観た。確認すると本作は 90 分程度ということで短めな作品だ。そう言われればそうだね、短かった。とはいえ、ボリュームがないわけではなくて、満足感でお腹いっぱいだよ。R15+指定ということで、残虐な表現を含んだ作品です。

本作の制作背景などはまったく知らないが、いわゆる「人間狩り」ゲームで物語は進行する。ありがちやな、という第一印象は、序盤のグロテスクでスプラッターな描写によって吹き飛ばされる…、ってことはなくて単純に目の毒であるだけなのだが、ただのスプラッター映画ではなさそうな本作の正体は、しばらく分からない…。

ハンター側の老夫婦が待ち構えるスタンド脇の雑貨店の様子、狩られる側との攻防、老夫婦のやりとり、オチの描写まででようやく前提がわかる。狩られる側は、主にネットでフェイクニュースを生産、拡散、盲信してしまうような人びとのステロタイプたちで、一方の狩る側は、そのフェイクニュース(とも言い切れない)の被害者側たちなのだ。

本作の制作側などからの発信、あるいは批評筋の説明がどうなっているかは不明だが、これを具体的な政治的なカテゴリーにあてはめるのは最終的には悪手だとは思う。とはいえ、大雑把にはハンター側は、リベラル主義者のような思想を武装しており、富裕者たちだ。

対して狩られる側は、一括りにはできないが、上述のようなタイプの人たちだ。彼らをどのように括るべきかは難しい。現実的な意味でもそうだと私は考えるし、作品中でもそのように描かれる。つまり、狩られる側のバックグラウンドはほぼ語られていないし、そもそも一定しない。

重ねて言うが、狩られる側は上述のステロタイプのようには設定されており、もちろんそういう人物たちの問題、そういう人物たちが問題であるようにも提示されているが、それはあくまでハンター側の立場からの描写においてのみだ。

最終的に、本作の物語の起点かつオチは、ここに集約されているのだが「被害者ぶって、そこから生じた敵意を周囲にまき散らしたら事故るぞ」という教訓譚じみた話になっている。

残虐なカットがウリの作品でもあるので、このシーンがよかったみたいなのはあまり(言いたくも)ないのだが、最後の、悪く言うと間延びしたような印象も否めないインファイトも好きだし、淡々と処理されていく人間たちの描写は割り切りがあってよいね。

ポスターに鎮座してモチーフとなっている豚ちゃんは、設定上はハンター側のペットのようだが、なんで放し飼いにしているのか皆目不明という代物ではあったが、雑にか丁寧にか『動物農場』を絡めた風刺にはなっている模様で、そのアイコンなのかなぁ。

『動物農場』を持ち出すということは、愚直に受け取れば、本作は根底的には全体主義批判も合意している…のかもしらんが、構図は全体主義を指標した輩が登場するわけでもないから単なる小道具のひとつでしかないような気もする。

ついては、彼女が彼女をスノーボールと名づけたというメタファーもよくわからないが、彼女は自身をナポレオンと自負していたのか? とも思えない。いや、一方の彼女とやらが自称していたという「全体の正義」(正確な字幕は忘れた)というネーミングを逆手にとったのがスノーボールという渾名なのかな。

タイトルについても少し気になる。あまりにも捻りがない。この言葉をそのまま「狩り」と受け取ってしまうのは、本作の主張を真に受ければ、あまりにも単純に過ぎないか。どうだろう。

最後にひとつだけ言うとすれば、敵か味方かも判別することすらできずに散っていった彼こそが象徴的だったのかもしれない。社会に余裕があれば、コウモリを見逃す余裕も、あるいはコウモリの意見を聴取する余裕もあるかもしれないが、極限の状況ではそもそも彼がコウモリであるのか否かを判断する猶予すら与えられない。

時制的にもプロット的にも、その描写にも、総合的に見て好意的に受け入れづらい作品とは思うが、こういうエッジがきいている作品は好きだな。