家族という単位を再発見する|《自転車泥棒/Ladri di Biciclette》

《自転車泥棒/Ladri di Biciclette》を観た。スコセッシおすすめ外国映画マラソンです。90 分程度と比較的短めの本作は、そういう意味では鑑賞しやすいが、ネオ・レアリズモの後味の凄まじさは、これまたイヤなものだ。

ド直球のタイトル通りの内容で、自転車泥棒の被害者の父と息子がおよそまる 1 日ローマを彷徨って徒労に明け暮れる、そして……。

冒頭のシーンにおける市街の様子、自転車泥棒を追い詰めようと迫ったエリアの様子、サッカーが賑わっていたクライマックスの街の様子、という感じでそれぞれを見ていくとき、戦後のイタリア、ローマといえども、賑わっている地域はそうなっているし、治安が悪かろうと一見する限りは整然とした街並みを保っているエリアもある。

そしてアントニオの生活圏と思われるエリアといえば、新興地なのか戦争で蹂躙されたエリアなのか、ほぼほぼ殺風景だ。少なくとも中心から外れた周縁地域なのだろう。戦後とはいえ、あきらかに格差がある。苦い。

ここまで、本マラソンにて時系列にいくつかのクラシック映画をみてきたが、本作における父と子の描写ほど、身近なテーマを終始して扱った作品もなかったかもしれない。たしかにこれを「新しい現実主義」といわれれば、そうなのかと感じる。もちろん、自転車泥棒というテーマも然りだが。

父親のプライドと大人の男としての矜持-下らないものであろうとも、メンツのようなところがあり、そしてそれは言うまでもなく家族を養うという目的と手段に直結する部分にもかかわっており、その極限状態に息子を連れまわす。なぜか?

なんでなんだろう。単純に人手がもう息子しかいなかったということだろう。

実際、役に立っているし。そうしたなかで、息子は当然、父親を観察することになる。クライマックスにおけるアレは、あまりにも自然で、そこはかとなく哀しいが、そこにどういった感情として言語化していいのか、難しいな。

ロケーションを生かした奥行のあるカットが多かった。自転車が盗難されるシーン、いずれも街中を遠くまで映すが、これって現代でいうところのほとんどゲリラ撮影的な面もあったんだろうけれど、景色としてキレイだね。

サッカーが盛り上がって、大量に駐輪されていた自転車たちが無慈悲にも彼らの前を横切っていくシーンの無常感もよい。よくない。

教会でも無碍にされ-闖入者だから仕方ない面もあるが、占い婆にも雑な対応をされ-これも仕方ない、誰も頼れない。もちろん警察も頼れない。街を巡回しているお巡りさんは一応ていねいに対応してくれていたのが唯一の救いだったかもしれない。

疲れ果てた 2 人がちょっとしたレストランに入り、「お母さんには内緒だぞ」とランチに洒落こむシーン、1 番好きだねぇ。さすがに本作の影響だけとは思えないけど、こういうシチュエーションって、必ずあるよね。

いはやは。