《マリグナント 狂暴な悪夢》を観た。予告でおもしろそうなホラーだなと思っていたが、評価が高かったのも後押しした。映画館で観てよかったなというバランスで、おおむね満足だ。自宅などのディスプレイで見ると、この作品の嘘っぽさが悪い方に浮きそうだので、このへんのメディアによる差というのは面白い。

本作はホラーなのかな、サスペンスなのかな。R 指定されているのは、グロ表現によるものだろうけど、眼をそむけたくなるほどの残虐さと言うほどでもなかった。もちろん、苦手なひと、慣れないひとにはツラかろうくらいではあるわけだ。

ホラー作品の経験値が少ないのだが、古い作品などからジャンル的に培われたギミックや作法、技術をキッチリと上手く的確に生かしている雰囲気があり、それでいて古さを感じさせない作風となっていたのが面白い。

ユニークだなと気づいたのは、特に前半でシーンの大きく切り替わるタイミングでの劇伴で、笑いを狙っているかというくらいの B 級感を演出した音だったのが大爆笑であった。これは後半のサスペンス味とのギャップを試みているんだと思うが、実際にそうなったワケだ。

ていねいに開陳されていった伏線を冷静に整理すると、おのずと答えは見えてくるという設定も魅力的で、やっぱりこうなるか、だよねー、という気分で謎解き風味の心地よさも楽しめた。

最序盤の一部の演出はむりくり説明できなくもなさそうだが、大筋としてはブラフだったのか? という疑問は否めないが、そのほかの設定や演出も、やっぱりおバカホラー映画の枠組みでしか説明しきれないところもあるので、そういうもんと楽しむのが正しかろうな。

そうか。ジェームズ・ワン監督の作品ははじめてだった。

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《サマーゴースト》を観た。監督、原案の loundraw のイラストなどの作品は見たことがあるような、ないような、というくらいだが、彼の原案を乙一が脚本化し、それを映画とした経緯になっているのかな。

物語の背景とその説明は最小限のようにみえるが、特にこれ以上説明することもないという設定でもあったかな。

最小限の構成と繊細なアニメーションで、全体的にフワッとしたお話を、しかし丁寧に楽しませてくれたという感触だが、同時に、これをどのように楽しんだと言えばいいのか、やや困っている。能書きはいらない、といえばそうなのかもしれないけれど。

物語の舞台はどこか

廃空港の滑走路が広がる平たい大地が、あるいは彼らが眺める光景が、どういう土地なのかということをずっと考えていた。

Wikipedia によると loundraw は福井県の出身で大学は九州大学だそうだ。乙一も九州は福岡出身だ。だとすると舞台のイメージは九州かなとも思うが、それにしては地平線の向こうまで山が見えないことがあるか? 後半の時間経過をハイライトで描いたシーンでは積雪していたが、九州ってこんなに積雪するのか? などなどの疑問がボンヤリとした混乱を生んだ。

あるいは作中で登場する美術館のモデルは兵庫県立美術館だそうだが、舞台が兵庫県ってこともなさそうだよなぁ、とも感じている。正解のようなものが見つかったら、追記するかも知れない。

20220831:追記

ロケーションについてだが、以前に Twitter を眺めていたら兵庫県でほぼ確定らしい。作中に登場する空港となったモデルとなった空港が神戸あたりから 2 時間圏内くらいにあるという話だった。途中で見渡される水平線も神戸湾なんだろう。雪も積もるというものだ。

死に触れようとするとは

ゴースト:絢音に会えるのは「死に触れようとしているひと」だけらしい。初対面ながら夏休みの気晴らしか、気分転換か、あるいはそれ以外、それぞれ思うところのある 3 名、友也、あおい、涼はそれぞれが彼女に対面できたので、彼らそれぞれが条件を満たしたことになる。

ゴーストに会える条件がファジーにも思えるが、もちろん 3 人ともそれぞれ理由があった。それぞれの「死に触れようとする」という心情や状況、その重みには客観的にこそ違いはあるが、それぞれの気持ちや意識に偽りはない。

この設定で気になっているのは、最後のアレで、どうして 3 人が出会えたのか。この状況にどのような思いが込められているのか、よくわかっていない。

大地の触感はどんなもんか

死んだ人間は空に帰るのか、土に還るのか、単純に悩ましい。本作の想像力は絶妙に両方のいいとこ-悪いとこ-取りをしている気がする。

ところで土に潜るイマジネーションと言えば、忍術でいえば「土遁の術」、ドラえもんでいえば「どんぶら粉」、キテレツ大百科でいえば「潜地球」だろうか。他に何かあったら教えてほしい。

本作では、話の都合もあるけれど、ゴーストが大地に触れる。大地に溶け込む。

これを利用した象徴的なシーンは、決定的なほぼひとつ、あのシーンだったろう。この大地とゴーストとの関係があったからこそ、友也の最後の蛮行も、諸々のギャップを演出するために為されたと理解でき、納得につながった。

この土の硬さ、あるいは柔らかさは覚えておきたい、かもしれない。

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本年 9 月に 午前 10 時の映画祭 で鑑賞した記録が残っていたが、ここには何も記していなかったようなので、書いておく。《真昼の決闘》を観た。

1952 年の作品ということで、ヒッチコック映画でいえば《見知らぬ乗客》《私は告白する》と重なる時期か。主演のゲーリー・クーパーはほぼ初見な気はするが、ヒロインのグレース・ケリーは、ヒッチコック作品で何度かにしたので、流石に覚えていた。

作品背景としては、冷戦時代の赤狩りとその影響がハリウッドでの製作体制やコンテンツの内容にまで深く入り込んでいたようで、メタにもベタにも影響が大きく見られるとのことだ。が、その影響を特に内容に対していかに見出すべきかは難しかろう。

あらすじ

ケイン保安官はエイミと結婚し、町の保安官を辞して旅立とうとしていた。一方、ケインが以前に逮捕して刑務所送りにしたならず者フランク・ミラーとその仲間たちが復讐を誓って町に接近していた。

辞職済みとはいえケインは町を守ろうと奔走する。平和ボケした市民、またはフランク時代のほうが景気がよかったと嘯く経営者らは積極的に協力しようとしない。ケインとミラー達、それを見守るエイミたちの行く末は如何に。

ケインの覚悟をどうみるか

ケインの正義感あるいは使命感-あるいはそれ以外か?-、を見ていると単純に受容しづらいモーメントが生まれる。もはや職務ではなく、新婚ほやほやのパートナーも隣にいるはずで、市民も対処に乗り気ではない。何が彼を突き動かすのか。

クライマックスでの決着後、事態をこっそり隠れながら見守っていた市民たちは彼の周りに駆け寄って賛辞を贈る。だが、ケインは保安バッジを地に叩きつけ、町を去るワケだが、その様子は怒り気味だ。

「なにをいまさら」という気分だろう。そりゃそうなんだけど、なかなか難しい。

彼に協力したいと声をかけた正保安官希望の若造には理由をつけて頼るそぶりも見せず、同時に引退した老いぼれには頼ろうとしたり、もちろんそれには理由はあるのはわかるが、切羽詰まった状況に対して、ポリシーを貫くにも加減はあるだろうなどと見てしまう。

最終的には、むしろ、人事交代のスムーズに立ち行かない結果の現状が対処のままならない原因であり、その歯がゆさがリアリティに富んでいて心臓に悪い。

あくまでケインの正義、善意-あるいはそれ以外か?-が町の平和を守ったという事実だけが残る。

決闘シーンもよかったが、オープニングでフランクの仲間が彼の帰還を迎えるために待ち合わせしているシーンがとても素敵だった。西部劇、あまり見ないのだが、敵役たちが時間を潰したり、たむろしていたりするシーンがキマッていることが多いな。

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《劇場版マクロスΔ絶対LIVE!!!!!!》を観た。前後編の作品だが、前編《劇場版マクロスΔ 激情のワルキューレ》は鑑賞していない。だが前編は TV シリーズ本編に相当するので、少なくとも物語を追うには影響は、ほぼ無かったようだ。

もともと TV シリーズは放送当時に 3 話ほどで挫折したが、今年になって何となく時間のあるときに完走した。なんだかんだで完成度は高水準といっていいだろう。今回の映画(後編)をみて気づいたが、映画版(前編)はハヤテとフレイヤの出会い、およびハヤテの小隊への参加の経緯がおそらく TV シリーズから設定変更されているのかな。

初代、および「マクロス7」のマックスが登場したり、作品世界における謎を握っているとされる初期の船団が絡んできたりと、プロトカルチャー文明までおよぶ全シリーズの総括も近いという観測もあるようで楽しみだ。それが実現するなら立ち合いたいものだ。

同時上映された短編《劇場短編マクロスF 〜時の迷宮〜》も見た。マクロスF 劇場版からの 10 年後だとかのストーリーで、やはり遺跡絡みで話が進む。この記事を書くにあたって気がついたが、時系列的には「マクロスΔ」が「マクロスF」の 8 年後くらいの時代設定らしいので、この短編は「マクロスΔ」の騒動が終わったのちの出来事と言っていいのかな? その辺に設定が生かされることがあるのかは、よくわからないが。

短編についてだが、マクロスF はやっぱりシンプルなのがいいし、楽曲も分かりやすくていいね。アルト君が見つかるといいけど。

こまごまとしたことなど

3Dライブ

序盤、もはや最新のスマホゲームなどではアタリマエのように活用されている 3DCG キャラクターを贅沢に活用した映像が流れる。曲もよかったし不満はないのだが、アレを劇中で主に舞台の下側で鑑賞している市民たちには、あんまり楽しめる画にはなっていなさそうだなと、勝手にツラい方向に共感していた。

マックス

「マクロス7」はほぼ未履修なのだが、初代からのキャラクターが老いてもなお活躍してくれる姿はいいですね。最大のファンサービスとも言えるだろうこの登場には胸が躍る。実際、最新のヴァルキリーを駆った彼に敵うパイロットが居らんやん。それってどうなの? とは思うけれど。彼が異常なだけかな。

話が逸れる。歌の力が物語の趨勢に決定的に作用するというテーマを本格的に掘り下げたのが「マクロス7」だと思うが、F や Δ では、主人公やその機体の能力に決定的な底上げを施す装置になっているよね。それが正しいか否かは難しいけれど。

三雲さん

三雲さんは彼女の出生の秘密やらなんやら絡んで、物語の後半からは半分くらいは等身大の彼女というか、やや天然ポンコツ気味が強まる。のだが、やっぱりファンとしては妙に自信満々というか、ミステリアスさを醸す彼女も見たいわけで、その辺はちょっと味気無さを感じた。ワルキューレのメンバー全員に重みを与えるのも難しいだろうし、ツラいところだ。

話が逸れる。ワルキューレの存在や演出について、他作品の影響などはとんと知らぬが、TV シリーズ放送当時時点で、すでに「シンフォギア」を通った身としては、歌を歌いながら戦闘の現場にどうやって歌姫がコミットする演出を見せるのか、みたいな工夫はあったのかなとは常々考えており、その辺の試行錯誤はおもしろい-歌って戦う少女ものが他にあれば、それは知らないのだけれど。

対バン

これは他の人の感想からのイメージだが、言われてみればポスターには「歌合戦」とあるが、それにしては敵役の歌姫たちはそれがマヤカシであったという点も含めて、あまり印象に残らなかった。歌という意味でも、存在としても、だが。これは設定が勝ちすぎていて仕方ない面もありそう。

話が逸れる。クライマックス後の彼女だが、作中における人類(というか味方)サイド側の最強の歌姫候補ということにはなるんだろうな。諸々の余談と絡めても、今後のストーリーが気になる。

絶対ライブ

マクロスの定番といえば、必ずしも思い合う同士がキレイに結ばれたままにはなりづらい、という点だが、本作でも踏襲された。これは本当に見事で、TV シリーズの結末ではフワッと片付けられた課題に対し、本作のエンディングは力強く結論に手を付けて、それが見事に感動に結びつけられた。

彼女の覚悟は、なにも作中の SF 的な設定に限った話ではなくて「同じような状況で私ならどうする」という問いかけにするに難くない。こういうのがいいんだよね。

いや、すばらしい結末だった。最初の TV シリーズから時間が離れすぎているのが最大のボトルネックと感じているが、もっと多くのひとがみても楽しめる完成度だとは思うんすよ。

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《DUNE/デューン 砂の惑星》を観た。

観測範囲の Twitter の映画好きたちの評価は、そこそこくらいだったので、やたらと称賛するメディアとのギャップにやや警戒して臨んだが、杞憂だった。というか、これは期待感の大きさゆえの揺り戻しだろうなと。

大袈裟、または大胆に言って、こんな映画を撮れる監督が今日現在、他にいれば教えてほしい。それくらいの異様な構図とスケール感が、あらゆるシーンを占めている。

スターウォーズの第 1 作を劇場で鑑賞した当時の人間は、この感覚を受けたのだろうと座席で何度となく思った。影響の関係としては順序が逆なワケだが。

異様な画面があった。原作は SF 作品として古典だが、描くビジョンの新鮮さは逆説的に古びない。これこそがイマジネーションの産物だという謎の感動。

しかし、同じスクリーンに入っていたのは割と若者世代が多く、それぞれがどういう感想を抱いたかは別にしても、それなりの期待感をもって来場したことは事実だろうから、なんかいいなぁと思った。

お話としては、まぁよくあるというか、偉そうなことを言っておいて、原作を読んでいないのだが。皇帝とその貴族たちの争いと、その背後でパワーバランスを操る宗教的な集団などがある。その宗教的な集団は、超常的な人間の能力とその秘術みたいなのを継承しているっぽい。

で、まぁ惑星 DUNE の現地人たちを巻き込んで、主人公ポールの巻き返しが始まるのだろう。

既読組のひとたちは「予習してから見に行け」とおっしゃるが、それほど複雑でもないだろうというのが本音ではある。

こまごまとしたことなど

サンドワーム

サンドワームが登場するのは知っていたが、どのくらいのスケール感なのか不明だった。そしたらいろいろな大きさの子がいるみたいですね。冷静に考えれば、そりゃそうか。バカバカしいくらい大きくて、大きな機械がスルっと飲み込まれるサイズの大きな口には笑ってしまった。

砂漠の逃亡劇が始まるときの、現地の調査員だかの女性が試みたことはすぐにわかったのだが、これをクライマックスでチラ見せしてくるあたりは、シリーズ物を感じさせる流れであった。

ポール

貴族の公子っぽいフワッと軽くて未だやや不安定な雰囲気がピタッとしていた。本作で面白いなと思ったのは-もちろん原作由来だろう、DUNE の自室でホログラム映像を見ながら、現地の植生とネズミを観察しつつ、フレメンの歩き方をちゃんと学んでいるところだ。

このシーンで、侵入してきた暗殺用の小さなロボットを避けるためにホログラムに混じって息をひそめるところは最高に好きだ。なんだろうね。

母と砂漠に投げ出されたのち、この映像で学んだことが生かされるのだが、この場面転換でもネズミが登場する。うひひひ。

戦闘描写など

割ともっさりした描写が多かったと記憶しているが、これもどちらかといえば好き。あんまり派手な殺陣って、「これホンマに?」ってなりませんか。プロレスならまだしも。シールド兵器の性質込みで、本作の戦闘って重々しいというか、スローみたいになるというか、そういうところがある。

居合みたいな緊張感というと、それには及ばない気がするので、そういう意味では中途半端ではあるのかもしれない。

ハルコンネンあるいは弐瓶勉

ハルコンネン男爵も異能の使い手という点では間違いないのだろうが、彼の軍隊が出国するにあたっての妙な儀式とか、わたしは『BLAME!』などの特に初期の弐瓶勉作品を連想せざるを得なかった。これももちろん原作からイメージがあるわけだろうが。

となると、ヴィルヌーブ監督の描くスケール感と弐瓶勉のそれとのイメージの類似も気になってくるわけで、そんなことばかり考えていた。直近で完結したが『人形の国』も割と砂漠然とした風景ばかりであった、そういえば。

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続編、または完結までの制作は現時点でほぼ決定の方針らしいので、ちゃんと楽しめるように生きていきたい。

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《007/No Time To Die》を観た。なんだかんだでシリーズを通しで鑑賞できたダニエル・クレイグ版のボンドにはそれなりに愛着がある。全体における物語の背後関係を理解しきれていない気がするけど、まぁいいでしょ。

  1. 《007 カジノ・ロワイヤル/Casino Royale》
  2. 《007/慰めの報酬/Quantum of Solace》
  3. 《007 スカイフォール/Skyfall》
  4. 《007 スペクター/Spectre》
  5. 《007/ノー・タイム・トゥ・ダイ/No Time To Die》

となっているわけだが、どうだろうな。3 作目が個人的には 1 番好きかな。自分が出生の秘密みたいなネタに弱いのと、単純に完成度が高いように感じる。1、2 作目は昔に TV で放送されたのをぼんやりと鑑賞した経験があったのだが、それをすっかり忘れていた。直近で再見して確認した。

1 作目は新シリーズとして好評だったらしいが、カジノで毒を盛られる展開がなんだかなという、個人的にはややネガティブな印象が強い。2 作目は短いんだっけ。それでも最後のほうの展開は嫌いじゃなかい。

4 作目はラストに砂漠の秘密基地を攻めるという、いかにもな展開は嫌いじゃないが、そこそこというところ。3 作目で明らかになった敵役との決着という点では重要ではあるのだけれど。でも、いわゆるポスターのデザインは 4 作目が 1 番好きだ。かっこいいね。

で、今作だが外連味のある敵役が来たなぁ、という。北方領土あたりを決戦の地に選ぶのは監督さんの出自の流れもあるのだろうか、胡散臭いナノ兵器工場とよくよく考えるとバカバカしいウソ臭さにあふれた毒草園のデザインも、なんか許せちゃう気にさせられる。奇妙な畳の間と奥に鎮座する神棚のような何かは、ちょっと苦笑いするけど。

熱心なファンの方の感想で知ったが、ドゥニ・ヴィルヌーブも監督候補になっていたらしい。今回のキャリー・J・フクナガ監督だが、ところどころの美術やカットの美観が似ている印象はあった。それらの影響関係は知らないけれど。ヴィルヌーブは次回シリーズ作品の監督を熱望という報道もあるみたいだが、どうか。

国家レベルの秘密組織の人外エージェントという役割を背負った、かつ出生にも傷のある人間が、それでもどこかにしら人間性を求めつつ、任務を全うしていく。女性に対しては「50:50 で女性は彼に対してあんな態度をとる」と言われてしまうような関係性をいやおうなしに構築せざるを得ない。そんな彼が安らげる住処は果たしてあるのか。

みたいな経緯を本シリーズ全体で辿ったとき、今作の結末はパッと見以上に、類型の物語の枠を外していないド定番だろう。007 シリーズであるという点を除けばだ。最後には、ちゃんとした人間としての、特に実にパーソナルな使命を全うした。

映像としては、いろいろな距離やアングルからの映像が的確に入り乱れており、これが大作ならではのよさだが、撮影なり編集なりのこだわりがしっかり効いていた。個人的には森での抗争が終わるとき、飛び去るヘリコプターの音を追い、草原に出て空を仰ぐまでのシーンとカットが 1 番印象に残っている。

不満というほどではないが、時代性を配慮した演出が増えているのはわかるが、一方で、冒頭と終盤で幼い女の子が危険にさらされる描写は、お話の構成の面で仕方がないとはいえ、あまり心臓によくなかった。

ともいえ、子供という要素をそこまで前面化させるつもりもなかったようなのも理解はできた。

ダニエル・クレイグのボンドは、安酒をバカバカと飲んでいる姿が印象深い。アルコール中毒だという指摘は昔からあるらしいけど、そりゃそうなるでしょ。南洋と黒人の街がこれほどピタッとハマるのも彼らしくて好きだった。シリーズがあらたに始まるのか知らないけれど、とりあえずお疲れさまでした。

過去シリーズはちょいちょいしか見てないので、時間が作れれば見たいところではある。アメリカのアクション映画史の側面でもあるわけでな。

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《アンテベラム/Antebellum》を観た。2020年の作品らしいが、国内では本年 11 月に上映開始された。題字の「Antebellum」は「戦前」を意味するらしいが、USでは「南北戦争前」を意味することが多いらしい(Wikipedia拠)。

本作は割とネタバレが問題になる作風なので、いつもは書かないが、鑑賞しようとしている人は読まないようにしてほしい。

もう言うまでも無いが、黒人および女性への人種差別と奴隷の歴史的な問題を扱った作品で、それがエンターテインメントになっている。公式などにはスリラーとあったと記憶しているが、違和感はない。

長いワンカットで映画が始まる。ある集落かしらぬが、少人数の管理者側の白人たちとなにやら下働きさせられている黒人たちの景色が延々と映される。集落の外れまで進んでいくと、なにやら騒ぎが起きている。逃亡奴隷が捕まっていた。

結論から言って-もちろん鑑賞後の放言となってしまうが、この集落が妙に箱庭染みていて、作り物臭かったのは、まさにその通りではあった。綿花畑もお庭のような面積しかなく、見張りのような将校のようなようわからん男たちも騎馬したまま畑を割ってくる。嘘やん。

後半だったと思うが、集めたそれを燃やしているところとか笑うしかないよね。

気づく人にはこの世界がまやかしであることは明らかだろう。正直に言って私はギリギリまで確信はできなかった。

新しい奴隷の候補として送られてきた娘の発言も、よくよく振り返ってみれば当時にしてはあり得ないのだ。

そういう意味で、いろいろと突き詰めていくと本作が、どれだけ誠実かは難しい。というか、一般的には誠実な作品はいえなそう。スリラーであり、エンターテインメントではあるけれど。

場面転換と画面の美しさは好きだ。現代におけるヴェロニカの活躍は、どれだけ本国の先進的な黒人女性のオピニオンリーダーの実際を再現しているのかはハッキリわからないが、それなりには何ともそれらしいとは感じた。

ちなみに、彼女の寝起きのシーンで乗馬で騎馬しているカットが入っているのは、丁寧ではあった。

話の全体が統合されてからの結末にかけての展開は、もうオチの回収が残っただけだし、大した展開を期待できる組み合わせでもないので、淡々とことは進んでいったように思う。

脱出の最期で「Antebellum」を経る過程を馬を走らせて逃げる彼女にあのようにオーバーラップさせたのは、賛否両論あるとは思うけれど、それらしくするのは成功していたとは思うので、まぁ上手いな、とは。

細々としたことなど

全体とは別にいくつかのポイントっぽいのだけ列記しておく。

攫われた土地と集落のあった土地

攫われたのはルイジアナのニューオリンズで間違いないようだが、集落があったのはどこだったのかね。作中で登場した地図や最後の看板で判断できるような気もするが、定かではない。けど、Wikipedia の説明欄にはルイジアナと書いてあるから、そうなんだろうな。

事実確認しないで書くけど、南北戦争前後って大方は北部から徐々に黒人奴隷制度が無くなっていってたハズで、ルイジアナのニューオリンズは、このときはどんなだったんだっけ。いや、歴史的な事実に即しているなら文句も無いし、ワザと脚本が歴史的には完全に誤りである状況を演出してても文句はないのだが、こういうことを丁寧に解くことに、それなりに意義はありそう。誰かがやっていそうだけれど。

エデンとは

ヴェロニカの現地での名前だが、倒錯もここまで酷いと笑ってしまうよね。デントン上院議員(だっけ?)にとって、集落は理想郷であり、その象徴がヴェロニカであるわけだが、同時に彼女が禁断の果実でもあったみたいな。単純ではある。

ホテルのサービスとディナー

ところどころで差別的な対応がなされる状況があるが、これもリアルではあるのだろう。体格のいい友人、すっごい嫌味な役だったが、キャラが立っている。

本作の謎っぽいひとつに、この友人にカクテルを持ってくる男がこき下ろされるシーンがあるのだが、何のためのシーンだったのか、これがよくわからない。

エレベーターの少女

鑑賞者をミスリードさせる以上の目的があったのか、このシーンも謎である。んー、あれ、冒頭で奴隷に名前を与えていたのもこの子だったのだっけ? まぁ、だとしても意味が分からない。

客室への侵入とハウスキーパー

ヴェロニカ誘拐前に、彼女の部屋に侵入したエリザベス(?)の目的もよくわからないのだが、エリザベスに従って部屋を開けたっぽいハウスキーパーもよくわからない。それなりに高級そうなホテルだが、そんなこと可能なのか?

っていうかハウスキーパーの性別がよくわからないのだが、画面に映った足元が、エリザベスもハウスキーパーも不気味で、何なら本作で 1 番好きなシーンまである。

まとめ

疑問点みたいなのを並べてくと、そんなにピタッと出来のよい作品でもないんだけど-そもそも現代社会でこんなん可能なのかみたいな話でもあるワケで-、画面はそれなりに決まっていて楽しめたので、個人的にはそれはそれとして何となく許せた。

また、本作の背景となった主に歴史的な事実やその描写などについて、既知の人間から見た本作の箱庭集落の酔狂さや奇矯さ、ズレのような設定や振る舞い(あるいはズレそのもの)も、対してそれらについて無知の人間には、それなりにもっともらしい世界(過去の現実)にも見えるようにはなっているハズで-でなければ本作のスリラーさなどそもそも否定される-、だとすれば、この認識のギャップを作品や製作者たちが狙っているとも考えられる。

としたときに、その狙いの先を想像してみると、やっぱり本作は-前言撤回して-それなりによく出来ていると言えるのではないのかしら、とかね。

ついでに、ざっくり《ザ・ハント/HUNT》っぽいなとは見ながら思ったが、あちらのほうがアクションや残虐性が派手で構成の妙も効いていた気がする。その分だけスリラーとして分がいい気がする。

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特に有益な情報などはありません。そのハズです。

iPhone と iOS 、Android と Pixel の最新バージョンが時期を同じくして発表、発売されたせいか、妙な空気がいつも以上に強く立ち込めている気がする。以下の記事などは楽しく読んだ。

そんな雰囲気のなか、Google の Pixel 6 に携帯電話を機種変更した。キャリアは au だ。ドコモ、ソフトバンクなどと渡り歩いて au にお世話になりはじめ、何年くらいたったかしら。

時は200X年、 iPhone 3G が登場したので、FOMA を卒業すると同時にソフトバンクに乗り換えた。フィーチャーフォンにもフルブラウザ機能が搭載された時期と思うが、実用にはほど遠いなと横目で見ていた。それに比して、iPhone のタッチ操作が今後の Web ブラウジングのアタリマエになることはひと目でわかった-というと言いすぎか。

この iPhone 3G の個人的な最大の問題は、おサイフケータイでもワンセグでもなく、プッシュ通知に対応するメールアカウントがほぼ無く、米国 Yahoo! のメールアドレスくらいだったことだ。わざわざアカウントを取得し、メインで使っていた。したがって、この時点でキャリアメールは、ほぼ使わなくなった。

しかして、その後、HTC の Desire HD で Android 端末デビューを果たした。iPhone 3GS の登場するちょっと前くらいだったろうか。手元の iPhone 3G がヘタったので、気分転換も兼ねた変更だったと記憶している。

Desire HD は、これで評価は固まっていたし、使い勝手はたしかに良かった。この時期はどちらの OS、端末も-Android については「よくチューンアップされている場合は」という留保がつくが、一長一短という印象だった。あと、やはりこの時点でも Android 端末のほうがほんの少し安価だった。

同時期には国内メーカーでは au が Android au なんて銘打って大々的に披露されていた気がするが、まぁ評判は芳しくなかったし、現在の結果が大体を物語っているんでしょう。フィーチャーフォン時代はずっと富士通製のケータイを愛用、応援していたが、ついぞ arrows を使う機会も無かったのは残念ではあった。

その後、Nexus 5 の登場時に IIJmio に鞍替えして、しばらく使っていた。さらに次のタイミングではいくつかの都合が重なって、 iPhone 5 でひさびさの iOS に戻ったりもした。この時点で au にしたんだっけな。

iPhone 5 だが、フラットデザインが採用されたのがこのタイミングだったハズだ。UI に慣れるまでに時間もかかったし、iPhone 3G のときよりもチグハグな印象が増えた-機能が増えたからそれはそうなるだろうけれど。

ついては、この時点で-経歴的には Android OS の期間の方が圧倒的に長くなっていたわけだ孰れにせよ、Android のほうが使いやすいというイメージが固まっていった。

この頃には、韓国メーカーの Android 端末はどれも完成度が高いことは知っており、プライベートとは別に触る機会が増えていた、iPhone 5 がそこそこヘタったあとは LG 製のスマートフォンを 2 世代くらい使った。ところが、とうとう LG がスマートフォン事業から撤退した。

手元の端末は使い続けて 4 年ほど経ち、マイクは壊れ、やや動作がもたつきはじめ、バッテリー持続力に不安を覚えるシーンも少しずつ増えた。それなりに傷もヒビも増えた。

isai V30+ LGV35 、過去イチ愛用した端末であった気がする。

だので本当はそこまで変えたくもなかったが、やはり流石にヘタッたし、このタイミングで LG の端末からの代替としての最新 Pixel は十分でしょう、ということで購入を決した。

XPERIA 10 Ⅲ も選択肢だったが、最後の 1 歩で Pixel 6 が来てしまった。

Pixel 6 Pro は個人的にはオーバースペックでございました。

LG が撤退したイマ、韓国のメーカーは SAMSUNG が残るだけか。華系の端末も性能はよく、かつ安価だが、日常的に使うには躊躇うところがあるママだ。Android がなくなることはないだろうけど、次回に端末を交換するときにはどういう選択肢があるのだろうか。

iPhone もとい iOS がゼロベース近いレベルで再構築されるってこともないだろうけれど、やっぱり iPhone 3G の恩恵は忘れられないし、いつかは、スマートフォン全体レベルでの変革もなにかしらおこるだろうけれど、そのときに私は生きているのだろうか。

で、Pixel 6 と Android 12 だが、シンプルに使おうとする分には最高だが、いろいろとアプリを追加すると見た目という意味でも操作性という意味でもデザインが破綻する未来が目に見える。これは仕方がない。

以前の環境をそのまま移行することは現時点ではしていないので、面倒だが、ちょっとずつ慣らしていきたい。これも現時点の話だが、 Feedly と Brave のどちらも動かないのはちょっと苦笑い。早うアップデートなりで対応してくれたまえ。

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《レミニセンス/Reminiscence》を観た。クリストファー・ノーランの兄弟ジョナサン・ノーランが製作に関わっていることがプッシュされていた。監督のリサ・ジョイは、商業的な長編映画は初めてらしいが、アメリカの SF ドラマシリーズを大ヒットさせた手腕が買われたとのことだ。

近未来、海面上昇と戦争の影響で人間の居住可能地域はごく限られた範囲となり、いわゆる「陸」は一部の特権階級やら地主やらしか住めないらしく、一般以下の市民は堤防によって無理やり開拓されたエリアや半ば水没した都市、あるいは水上都市、バラックなどに暮らすようだ。マイアミ、ニューオリンズなどが舞台とされた。

水没した世界というと《ウォーターワールド》(1995)が浮かぶが、そこまで破滅的ではなく、パッと見た印象では《天気の子》(2019)のラストを思い出させられるような状況であった。同じような設定も珍しくはなかろうが、そんな感じだ。

気候変動で日中は暑すぎるので生活時間帯は夜間になっているらしいが、残り時間を過ごすような世界観で、そもそも社会がまともに成立しているようには見えず-少なくとも主人公を取り巻く生活の範囲では-なんとも苦い設定となっていた。

前置きが長い。

過去の記憶を操る装置をもつ主人公らは、思い出体験マシーンとしてそれを商売に使いつつ、警察の捜査に協力もしている。そのような経緯のなか、物語は「鍵を失くした」と営業終了後に飛び込んできた女性との出会い、ロマンス、喪失、そして背後で進行していた事態の真相の究明を描く。

オルフェウス神話

割と最近に鑑賞した《燃ゆる女の肖像》 でも効果的に引用されていたが、オルフェウス神話が話中で活用される。同時に、もともとの結末を「幸せなままの物語」として伝えるために主人公はヒロインに対してウソの展開を語っていた。

死んでいる妻との幸せを取り戻すために、ある意味で彼女の本当の素顔を隠したままにして死の世界から妻を救い出そうというオルフェウスの態度は、ある程度まで本作の主人公の辿った経緯をそこに重ねることはできようし、脚本もそれを狙って構成されているのは間違いない。

バラック群島で悪徳警官とのバトルの末に、彼女の幻影に出会うシーンは印象的な箇所のひとつだが、このシーンが示唆していることは多いと、鑑賞後に強く実感した。

とはいえ、前例として挙げた《燃える女の肖像》が、オルフェウス神話の要点を効果的に反映させたのに比して、本作は「言われてみればこうだったな」というような程度に落ち着いてしまったのは残念で、「なるほどね!」というハマった感もない。

狂気と記憶と二度目の邂逅

簾のような天幕が円形のスクリーン上に垂れており、ここに光をあてて 3D 映像を作り出す。このシステム自体はいちおう実在するらしい。

記憶なり夢の中からどうやって映像化するかまでは未知だが、主人公のような誘導技師がおり、一種の催眠術のような類とイメージすればいいのだろうが、深層意識下の記憶の描く風景を再現する。

結末を決定づけるシーンだが、ヒロインは半ば狂気のなか-薬を打たれているから、正面にいる悪徳警官の記憶を、いずれ主人公が探ることを予期し、経緯のあらましと愛を伝えて残した。

非常にバカバカしいように思うが、しかし、見逃しがたい異常なすれ違いがここで発生する。主人公の替え玉のようにそこに立ち、本来は彼女と相対していたはずの悪徳警官は、彼女の真正の愛の告白を、自分が受けているワケでもないのに正面から吸収してしまう結果になった。

物語のほとんどを通して、主人公にとってのファムファタールであったようにみえたヒロインは、この時点で悪徳警官にとっての其れになっていた。これが痛快というか、なんというか。

3D 映像の幻想を眺める主人公は、立ち尽くす悪徳警官の座標に移動し、ヒロインからの最期のメッセージを受け取る。倒錯が過ぎる!! めちゃくちゃ面白い手口ではあるんだけど、悪趣味というか、一歩間違えるとイヤな話なので-もともと全然イヤな話なのだが、感心するというか引いてしまうんだよね。

主人公が、他人の脳をバーンアウトさせてしまって、罰として夢の中にいることになったような結末だったが、アレはよくわからんな。仕事のパートナーの女性の将来との対比としたって、なんだかなぁ。

大枠はおもしろかったが、大枠くらいだったというか。

中国系のチンピラの頭領のキャラクターが憎めず、彼はよかったな。

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《サイコ・ゴアマン/Phycho Goreman》を観た。藤本タツキが絶賛というのも大きな印象を与えるが、いわゆる B級ホラー(でいいのだろうか)としてカルト的な人気があるらしく、行けるタイミングもあったので予約して訪問した。

上記、公式サイトの URL 、HTTPS になっていないのであんまり踏みたくないですね。

当該のシアターでは最終上映日であったらしく、既存ファンで大盛況、劇場の用意したアトラクションやサービスもてんこ盛り、初心者が紛れ込んでいい環境だったのだろうか。この熱気に気圧されてしまった。

よくできた映画だった。そう言えるのではないでしょうか。ゴテゴテの特撮感が-自分の認識する限りでは、狙い通りに効いている。

特には、クライマックスで敵役の身体を切り裂き、宇宙最強の剣を製錬して、それでもって切り払うところは絶頂でしたね。ほどよいグロテスクさと、ほぼほぼ王道な熱さが不思議な化学反応を起こしていた。

そしてラスト、愛を知ったゴアマンが「今後は気兼ねなく宇宙を破滅に導ける」みたいな謎の論理構成で、どっかの街へワープして破壊行為に勤しみ始めるシーンが、個人的には最高にクールで笑えた。

主役の兄妹はいいとして、両親がここまでストーリーに絡んでくるとは当初は予想しておらず、その点には驚いた。脳みそクンの出自も驚いたけれど。

ところでスーパー肝心な元部下とのシーンは、画面の閃光によるダメージを受けて、記憶がところどころ飛んでいる。大失態である。配信されることがあれば、復習しようかなといったところだ。

笑いどころについて

笑いどころったって、各々が面白いと思ったシーンで笑えばいいのだが、熱烈なファンたちには一定の流れがあって、これは作品を観るのが遅すぎたなと後悔したひとつだ。体感的には、父親のぼやくシーンが大抵ツボとなっているようだったが、どうだろう。

個人的には父親のぼやきはそこまででもなく、むしろ父親についてならラストのひと言、無人になっている工場との因縁がおもしろかったな。

笑いという点で無視できないのが、主人公としてのミミだけれど、これは笑いと恐怖、それこそ「サイコ」感が一体となった強烈なキャラクターで、彼女は扱い難し。

家族とヒステリーのような

ひと目したところで「家族のメロドラマになっていなくてよかった」という感想に出会ったが、なかなかどうして、サイコ・ゴアマンこそ話の中心だが、兄妹や家族の話に収束したように思う。

で、似た印象があったと感じた作品があって、それは《ヘレディタリー/継承》だ。これはホラー作品ではあるけれど、家族がアレヨアレヨトいう間に混沌に巻き込まれていく、というところで、怒りか恐怖かは別にして母親が、どえらいアクションに踏み切らざるを得なくなっていく。何だろうか。

あるいは《聖なる鹿殺し》も連想された。家族が怪異のような現象に巻き込まれ、四苦八苦する。私が比較的に直近で鑑賞した映画としては、これくらいかな。こちらの作品は、怪異の原因も中心となるのも父親だけれど。

家族がゴチャゴチャする映画というと、一気に雰囲気が変わるが武田鉄矢主演の《とられてたまるか!?》なども古い記憶ながら思い出させられる。コメディ? ギャグのような作品だったと思う。

とまぁ、なんでもいいのだが、家族が巻き込まれ型の作品という類型というのは、何かしら研究もあるのだろうけれど、どういうまとめ方ができるのかなと気になった。

《シャイニング》も家族モノだけど、ちょっと毛色が違う気がしている。

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