ヒッチコックマラソンです。『北北西に進路を取れ』《North by Northwest》を観た。1959 年の作品だ。『三十九夜』をハリウッドでやろうとしたという情報を Wikipedia で目にしたが、『サボタージュ』などを挟んでいるので真意がイマイチわからない。

本作は特に評価が高いらしいが、これはヒッチコック流のアクション、サスペンスの集大成としてが 1 点、そしてタイミング的には今後量産されるようになるアクション作品群のフォーマットとなった点が大きく評価されているのではないか。

作品の全体感としてはなかなか難しい。なにせ内容が無い。

例によって巻き込まれ型の物語したはいいが、最後まで主人公:ソーンヒルが奮闘する理由がレディを救うためだけという-真っ当ではあるけれど、過去作と比較してもかなりパーソナルな理由に絞られている。

悪いというわけではない。この点は『三十九夜』や『サボタージュ』とは異なると思われる。これらの物語は、同様に巻き込まれ型のストーリー、かつ主人公とヒロインが道中で危機に陥るという点こそ同じだが、枠組みとしては社会的に大きな陰謀に直面して主人公らは動いていた。

上記の作品に比して、本作の敵役のバンダムは闇商人ということだったが、作中では具体的な犯罪的なマターは発生しておらず、明示されない。逆に、ヒロインらの組織は骨董品に秘蔵されたフィルムを回収しようとするが、それがどのようなものであるかもどうでもいい。

また、バンダムのグループだが、序盤からして杜撰なのもよくない。どうして主人公をターゲットの諜報員:カプランと同定したのか根拠がない。ヒッチコック作品では、このパターンが珍しくないのだが、つまりはミスまたは偶然による事故が発端となるのだが、肩透かし感は否めない。結局、バンダムらはソーンヒルが彼らの利害にまつわる係争には本来まったくの無関係の存在であったことには最後まで気づいていない。どれだけマヌケなのさ。

まぁ、ただ、敵がどうこうってのは本作ではどうでもいい。結末の放りっぱなしさ加減をみても明らかでしょう。

ヒロインを救うことにのみ注力する

この観点から見ると過去作としては『汚名』が近い。『汚名』ではクライマックスで主人公は、スパイとして敵地に潜り込んでいたヒロインを職務を捨てて救いに行く。

だが、こちらの彼にも大義名分があった。しかし、繰り返しになるが『北北西に進路を取れ』では、そんなことはない。単純に、レディを救うために命を懸けるのである。

中身がない物語におけるソーンヒルという主人公はどういう人間なのか。

どれだけスケコマシなのか

ひとつに、ソーンヒルはマザコンなのだろう。主人公の母親がガッツリ登場する過去作はあまり例が思いつかないが、どうだろうね。このあとに続く作品だと、実はこのテーマが採用され続ける。また、ヒッチコック本人と母親の関係も、よくクローズアップされるようだが、それはここでは置いておく。作中でのソーンヒルと母親との関係は良好そうだった。

しかし、ソーンヒルが結婚と離婚を 2 回も経験していることを考えると、この母親は少なくともあまり良い義母とも言えなかったのではないか、とも疑いやすい。そうでなければ、ソーンヒルが相当に夫としてはダメ男か。あるいは、双方にとって馬の合わないパートナー選びをしてしまうケースが連続したのだろうか。

彼のスケコマシ感は、オープニングの秘書に対する態度でも察せられるが、クライマックスで治療室から抜け出した際にも差し込まれていた。笑わせたかったシーンなんだろうか。よく分からない。

イヴは彼のどこに惹かれたのか

自分のために命を張ってくれたんだから、それは惚れるでしょう。というのは結果論で、ニューヨークからシカゴへ向かう列車のなかでソーンヒルと初対面したイヴは、流れで男女の関係になる。この時点で惹かれていたとは断言できよう。

だがその後に彼女は、組織と調整をした結果としてソーンヒルをハメ殺す手続きを取った。その後、ホテルで再開した時点でもボロは出していない。この時点ではソーンヒルに惹かれていたとはいえ、後戻りできないところにはいなかったのではないか。

転機はどう見てもオークション会場で、ソーンヒルはイヴを罵ってみせ、彼女はそっと涙を溜めた。どういうことやねん。そこで惚れるのか? いやー、わからないな。もう 2 人の心情は当人同士にしかわからないんだろう。想像を働かせるのもバカらしい気分になる。

台詞のやりとりを解読するしかない。たとえば、ソーンヒルがバツ2男だと自嘲したときに、「逆にそんな男しか結婚なんてできない」みたいなニュアンスの返答をイヴはした。これも深読みする意味があるのか定かではないが、まぁやっぱり、それだけ作中ではソーンヒルがどうしようもなく魅力的であるという解釈には繋がるのかな、しっくりはこないけれど。

コーン畑での交流がおもしろかった

騙されたソーンヒルが田舎のコーン畑でカプランを待つシーンが印象的なカットだった。道路の対面に立って地元のオジサンと向かい合うシーンは、とってもキマってて、かつすごく笑えた。マジメだけど、その分だけシュールだよね。

ちなみに、この向き合う構図はクライマックス付近でのソーンヒルとイヴの面会でも再現されていた。こちらは荒野ではなくて、生い茂る林中である。意図的なんだろうけど、それは明確ではないだろうね。好きだけど。

謎の飛行機に追っかけ回されるシーンも、なんやかんやで謎の緊迫感がちゃんとあるよね。流石なんだよなぁ。

という感じで、ヒッチコックマラソンも終盤戦に入ってきた。

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ひさびさにヒッチコックマラソンの続きです。『めまい』《Vertigo》を鑑賞しました。”Vertigo” はラテン語を語源として「グルグル回るようになる」みたいなニュアンスからできた単語らしい。

1958 年の作品で原作小説があり、こちらはフランスの小説『死者の中から』だそう。脚本には 2 名入ってますね。映画の舞台はサンフランシスコということで、起伏に富んだ街の地形を十分に生かされた撮影となっており、ホテルや美術館、公園、教会などの美しい建築物の使い方、映し方も的確で、やっぱりヒッチコックの作品だなと身に沁みる。

冒頭、主人公のジャックは犯人追跡の途中で高層建築物から落ちそうになり、また同僚は彼を救おうとして落下死した。結果としてジャックは高所恐怖症となった。「めまい」というタイトルは高所恐怖症の彼が作中で引き起こす、その症状を指すということでよいだろうか。また、高所恐怖症の症状として階段で引き起こされる当該シーンの撮影技法は、大変有名であるらしい。どうでもいいけど、ヒッチコックって階段を使うのが好きだよな。

しかし、およそ前半の追跡シーンなどは特に、台詞も少なくて何をやっているのかも分かりづらい一見して退屈な箇所も多く、過去のいくつかのヒッチコック作品に見られるような冗長さを感じなくもない。とにかく話の展開と落とし所がわからないまま-これもいつものことだが、逆に言えばその謎に牽引されて、あるいはただ画面に惹きつけられて展開を眺めることになる。

奇妙な現実に囚われていく

話がおかしな方向に転げ始めるのは、ジャックの追跡がホテルに及んだ時点であって、私は単純に展開の成り行きに期待してしまった。進行している事態は現実のうちの出来事、マデリンの病質的な妄想に過ぎないのか、あるいは本当にマデリンの曾祖母の残したなんらかの力が彼女に作用しているのか。それらが曖昧になっていく。

敢えて言うと「ヒッチコック=サスペンス」の構図が揺るがない前提で見てしまうと退屈な作品だろう。何かしら現実的な理由づけがなされることは分かりきってしまう状態での鑑賞となるので、すべてが白々しくなるのではないか。本作はそういう意味では、類型の『レベッカ』などよりは楽しみづらい作品かもしれない。

とはいえ、ジャックが彼女に誘われて、かつその魅力にまんまと嵌り、自我を失いかねないところまで到達してしまうという過程の描写は、いつものヒッチコック流の謎のロマンス成分を絡めたギリギリ絶妙な話運びであった。

ついては、私自身のアホさのおかげか、サスペンスという枠組みのジャンル作品として本作を鑑賞することは、およそせずに済んだ。幻想的なホラー作品に、なんとなく現実的な理由が付与された体の作品だったなという印象だ。

本当にただの狂言で終わったことなのか

というのも、ジャックは最終的に彼を騙した側のジュディを受け入れた。それが仮初で始まった関係であり、構図としてはジャックは犯罪に利用されただけだったにも関わらずである。

ところが、その直後にジュディはあっけない最期を迎える。教会の鐘楼で最後に登場した修道尼の影姿は、明らかに恐怖の対象のイメージだった。これはジュディに対してのみでなく、鑑賞者の私にもそう見えた。そういうふうに撮られている。

この事態の意味付けは、いわゆる天罰の形なのか、あるいは彼女が悪魔にでも魅入られたのか定かではないが、物語の経過、結末としてはただの偶然とは処理し難く、奇しくも彼女が演じたに過ぎなかったはずの超常的な作用のしっぺ返しと見える。

とにかくジャックには救いがない

旧友の奥さんに懸想するし、いい関係だったと思われるミッジをも便利扱いしてほっぽってるし、思い人に似た女性に仮装を強いるし、長身イケメン元刑事であること以外にろくすっぽ魅力も見いだせない、ダメダメな主人公ではあるけれど、一番かわいそうなのもジャックだったね。

クライマックスに至っては、彼は錯乱しているよね。ホテルでのキスでの描写がそれを強調しているけれど、ここをピークにしてオチへと展開していく。ラストでは、ジャックはジュディがマデリンの偽物だったと気がついてはいるが、わざわざ現場検証させようとする。

この目的が、高所恐怖症の克服なのか、ジュディへの罰なのか、あるいは愛ゆえなのか、もはや判断できない。皮肉にも彼は最後の場面では、不安定な足場で、眼下の光景を凝視している、できてしまっている。これは彼にとっての小さな救いなのか。皮肉なのか。笑えるといえば、笑える。

CGとアニメーションの共演があった

オープニングクレジットでは、女性の瞳に幾何学模様の光彩のグラフィックが幾重にも回転する。これはどう見ても CG だなぁと思ったが、やはり初期のコンピューターグラフィックの一種と言ってよいらしく、『2001年宇宙の旅』でも活躍したらしい、ジョン・ホイットニー・シニアが手がけた映像とのことだ。

この回転する模様は、実は作中でも提示される。美術館に展示された絵画中のカルロッタ、彼女の髪型、そこに添えられた花束。一方で、カルロッタと似たような装いで絵画を鑑賞するマデリン、そして手元の花束。絵画中の花束が図案化され、アニメーションとなって模様が展開される。

こういう手法は当時にしても奇抜だろうて、なかなか使いづらいと思うが、類例はどれくらいあるのかね。ヒッチコックでいえば、『白い恐怖』でも似たような手法はあったけれど。

逆に、アニメーションが実写を援用することなどは、現代の日本の作品では割と効果的に使われるよね。この辺もていねいに歴史を調べるとおもしろそうではある。

余談だけれど、カルロッタの生前の苦しみや異常性がマデリンを通して再現されるという構図は、なんだか日本のホラー映画を見ている気分になった。というか、私の本作への印象がこのイメージに引っ張られたことは否めない。

印象的なカットとして、マデリンの死後に執行された裁判の終わりにて、ジャックと付添人を映したシーンを挙げておく。天井近いところにカメラがあって、実際に画面の半分近いかそれ以上を天井が占めていた。こういうカットをサラッと入れてくるのが、本当に巧みだよね。

なお、ロケーションなどについては以下のブログの記事がめちゃくちゃ詳細に扱ってますね。いままで知らなかったブログだけど、丁寧な記事だ。

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『BLUE/ブルー』を観た。松山ケンイチ、東出昌大、柄本時生などが出演している。松山ケンイチは『ユリゴコロ』以来、東出昌大は『寝ても覚めても』以来、柄本時生は初めて目にした。作中での柄本時生は、あのフニャフニャ感が凄い上手いなぁ。

吉田監督の作品は『犬猿』(2017)は見たことがあって、あまり記憶になかったので粗筋を追ってみたが、オチの部分で違和感を感じて終わったことの印象を、なんとなく思い出した。けど、この作品も印象的なシーンや配役はめっちゃキマッてたね。なお、監督の「よし(吉)」の字は「土」のように下の方が長いほうが正式っぽい。

監督自身のボクシング歴が 30 年以上とのことで、主要登場人物の三者三様なブルーなボクシング人生を、実にうまいこと描写し切っている。終劇に至っての小川の状況は悲惨と言えるが、謎の清涼感で誤魔化されてしまう。こんな感じでボクサー自身もボクシングの魅力に取り込まれているのだろうか、などと思ってしまう。

ヒロインといっていいのか、木村文乃も出演している。彼女はとても好きな俳優なのだが、印象が定まらない。今回も終わってからキャストを確認して本人だと認識できた。言うてみれば作中の中心人物でまともな大人って、彼女くらいしかいない。どのシーンも好いけど、後楽園ホール(だよね?)のカウンターで前の 2 人のイヤな話を耳にしながらも佇んでいる姿が良かったです。

天野は小川と付き合っているが、瓜田とは同窓の間柄であり、という三角関係的な要素も、映画全体のよいスパイスになっていた。なにかと後腐れのような雰囲気とはかけ離れた出来になっているのは、本当に好い。楢崎の失恋にしてもそうだった。

ふらふらと揺れるカメラが心地よかった

いわゆる手ブレ演出っていうのかね。カメラがふらふらと揺れる画面ってあるけれど、この手法って使いどころが難しいように常々感じていて、見せる側の意図以上にノイズとなってしまっているケースもあるように思う。

本作、このふらふら画面が割と多発したと覚えているが、これが妙に味を出していて好きだ。揺れる速度や幅などが内容と調和してるのかな、なんか無駄に揺れてイヤだなぁと感じさせられるシーンがまったくなかった。

言うまでもなく、これは試合のシーンではなくて日常シーンでのことだ。単純に不安、不安定さを意図しただけとも取れ切れず、さりとて単に視聴者の視線を揺さぶってやろうという印象でもなかった。

この感覚はまた体験したいな。なお、撮影は志田貴之ということで、志田さんは吉田監督の作品には多く携わっているようだ。ついでに、監督自身が殺陣の指導をしたという試合シーンのカメラワークももちろん好かったよ。

カラッとした人間関係が気持ちいい

私は個人競技にあまり馴染みがないのだが、ボクシングをはじめとした格闘技というのは、趣味で続けるにしても伴う真剣さの水準というのは、ちょっと高めになりそうだ。

瓜田と小川はかなり長い付き合いのようだが、それを加味してももちろん、お互いを認め合っており、ステキな人間関係だ。あるいは、怪我をさせてしまった楢崎と被害者の洞口との関係も、必要以上に深刻にはならずに解消される。

本作においては人間関係のネガティブな面は最小限にオミットされたと考えればいいのだが、それ以上に、同じ競技の魅力に取りつかれたバカたちの緩い連帯みたいなのが気持ちいい。

楢崎と小川なんていうのは、ほとんど接点が描かれないが、デビューで緊張する楢崎にさらっと声掛けしてやる小川は単純に清々しいし、計量後の蕎麦屋でちょいちょい駄話に花を咲かせている(大したこたぁないが)シーンは本作で 1 番好きでしたね。

本当の強さとはなにかね。その思いは最後のシーンに籠められているのではないかな。「ブルー」というタイトルが染みてきた。

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『ザ・スイッチ』《Freaky》を観た。本国では 2020 年に公開された映画のようだが、日本ではこのシーズンでの公開となった。予告は何度か目にした気はする。特に興味もなかったのだが、知り合いが興味があると言うので、なんとなく見てきた。一緒に行ったわけではない。感想だが、少し悩ましい。

「13日の金曜日」シリーズ? 「ジェイソン」シリーズ? をオマージュしてる部分が多かれ少なかれあることは分かるが、あんまり知らないのであった。

監督:クリストファー・ランドンの『ハッピー・デス・デイ』(2017)を評価するファンは日本でも多いようだが、目にした範囲の感想としては今回はこの作品ほどは面白くはなかった、というような感想がいくつか目に入った。どうなんだろうね。私は未見なので何とも言えないけれど。

冒頭、「伝説のシリアルマーダーが都市伝説として持て囃されたのは 20 年も前の 90 年代の話だよ」という旨の前振りがオープニングの登場人物によって語られるが、その存在が本作で登場したブッチャーと同一人物だったのかがイマイチ分からない。関係あるのかね、ないのかね。

本作に登場するブッチャーと身体が入れ替わるのが、ヒロインのミリーだが、彼女側は家庭環境からハイスクール内でのヒエラルキーまで、大方が滅入ったステータスであることが描かれる。この 2 人の身体の入れ替わりで起こる素っ頓狂な事件が、スプラッターで快楽的な表現を添えて、楽しめるという構図だったはずだ。いや、まぁ狙い通りの楽しさはあったことはあった。

周辺のことで、いくつか気になったことを書いておく。

古代アステカの呪術具:ラ・ドーラ

この道具立ての設定が粗くないかね。生贄を捧げるときに利用された短剣ということでよさそうだが、それがなんでシリアルマーダーを作出する機能をもったのか明確な説明はない。短剣自体が本来の目的を見失ったということだろうが、生贄を捧げるために適当に人を屠っていくというのは、どうにも違和感が残った。

この短剣にはスペイン語で(!)その秘密が記述されているとのことだが、それもどういうことなのか。悪いのはスペイン人の侵略者たちなのか? とこうやって振り返りながら妄想していくと多少は背後関係を辿れるが、どうにも鑑賞中には、つまり、作品内ではよう分からん。

B 級ホラー並のファジーさということで片付けられればいいんだけど、そこまでホラーなりスプラッターなりの娯楽感覚に振り切った作品とも受容できなかったので、私の抱いてしまった違和感がなかなか破壊されなかった。

結局、ブッチャーはどういう人間だったのか

つまるところ、ブッチャーの人物の肉付け、背景をもう少しだけ明かしてほしかった。これがあれば入れ替わり時の彼の行動なりにも心が通じたような気がする。ブッチャーは、ラ・ドーラがなくてもシリアルマーダーだったようではあるが、呪術具に魅了された存在であるようにも見えた。

廃工場なりに居を構えているらしいが、浮浪者仲間のようなおじさんが薬を恵んでもらいに来たりするあたりからして、ブッチャーは単なるバカなアレではない。ミリーと同化したときに、彼女の社会的な立場や心理をそこそこ的確に洞察してみせたりもした。身体能力も異常に高い。

これがまた、仕掛けが別にあるホラーだったら、驚異的な頭脳と身体能力を持った謎に包まれた異常者、でいけるのかもしれないが、いかんせん、ブッチャー側の存在も、ミリーの憑依によってキュートあるいはコミカルな人間性が-中身はミリーなので理屈でいえば別物として考えるべきだが-ビジュアルで表現されている。

この辺の違和感との調和が難しいね。おもしろいんだけどね。

ふたつのキスに奇妙な真実味があった

やりたかったことの根幹は実はここだったんじゃないのかなぁ。本作には冒頭を除いて、ふたつの重要なキスシーンがあるんだけど、ふと考えると前者のキスシーンを撮影するために本作全体があったような気がしてならない。

違和感との調和、あるいは不調和のピークというかクライマックスがどう考えてもここなんだよね。これについて考えると、本作はホラーでもコメディでもなくて、広く愛を扱った作品な気がしてくる。

そう捉えると、ミリーについては家族愛、友情、他者への憧憬と調和、といったようなさまざまな愛のカタチについては、それぞれ全体のボリュームとしてはやや寂しいが、しかしバランスをとっては描かれていたね。

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大島渚監督の作品が国の機関にアーカイブされるらしい。ということで、興行企画にするのが今後は難しくなるらしく、最後の大型上映ということで 4K リマスターなりの上映が始まった。大島渚というと私としてはテレビに出演している眉毛の濃い怖いおじさんというイメージが強く、映画監督だということは知っていたが、作品は見たことがなかった。

映画を見るようになってから、いずれは鑑賞することになるなと思っていたが、とうとうタイミングが来たわけです。というわけで、『戦場のメリークリスマス』を見てきました。英題は、《Merry Christmas Mr.Lawrence》ということで、こっちの方がタイトルとしてはしっくりきますね。でも、欧州では《Furyo》(俘虜)で公開されたんだっけ。なんでなんだろうね。

物語として考えると、大したことが起きない。かなり情緒に委ねられたような映画なんだけど、それが全然飽きない。画面に集中している自分を客観視できるタイミングがあるのだが、不思議とそこからスッと作品へのコンセントレーションに戻れる。こういう作品っていうのは珍しいし、おしなべていい作品なんだが。

ある種の性愛の映画だとか、日本と西洋の価値観の相違だとか、全体主義だなんだってトピックを取り上げた感想をいくつか見るけど、いやー、なんというか大事なことではあるんだけど、どうでもいいような。いずれも本作のテーマとして取り上げて何かを論じようには分かりやす過ぎやしないか。もちろん、大事なことではあるんで、繰り返しておくけれども。

ヨノイ大尉はジャワで何に出会ったか

冒頭のハラ軍曹の騒動から軍事裁判でのヨノイの動揺まで見ると、ヨノイを中心とした彼らの破滅なりが明らかで、酷くずる賢い導入だなというのが第一印象だった。こんな簡単に種明かしして、この先を楽しめるのかなと侮ってしまった。

そのヨノイは二二六事件にこそ参加できなかったが、もともとはそこそこ優秀な青年将校であったことに疑いなさそう。当時の日本のエリート軍人の精神構造が、どのような価値観で構成されていたのか、凝り固まっていたのか、或いは洗脳された状態だったのかは知らぬが、それはそれとして形のあるものであったことは確かなはずだ。

それがだ、裁判中に見せるあの動揺、思い出しただけで笑ってしまうけれど。セリアズに彼が読み取ったのは、ここでは言い知れぬ「美」だろうと断ずる。

何かしら策を凝らして、セリアズを手元に置くことができたヨノイは、実際に彼をどう扱おうとして、自分はどうしたいのか本人でもわかっていない。全くの突然に予期もせぬタイミングで訪れた、自分の価値観にはかつてカケラも存在しなかった「美」に出会ったとして、そんなの普通の人間には無力でしょう。

ヨノイは結局、その美を持て余し、破滅することになった。だが、それは彼にとって悪いことではなかったのかもしれない。俘虜収容所のあった土地は、なんといっても美しい場所だったのだから。

ハラとロレンスは何を交えて別れていったのか

ハラの奇妙な笑顔で描かれた 2 つのシーンが残した強烈な印象は本作のイメージを大きく決定づけているけれど、別にハラって全然いいやつじゃないし、ロレンスに対して友情が云々と言ったって、そんな独りよがりのものを見せられてもなと思うよ。実際、捕虜と監視にある種の信頼関係は生まれるだろうけどもさ。

最後のロレンスもイヤに白々しくて、私はなぁ、なんだかなぁってなったよ。でも結局、この 2 人の奇妙な連携があったからこそ話が進んだんだよな。ロレンスは「すべての人が間違っている」と2度ほどセリフを発していたが、そのなかで登場人物たちは何をしていくかというのがポイントなんだろう。

間違っている人生のなかでも、つまり目的自体は「善」に基づくものでなくても、人は善行をしうる。ハラはロレンスとセリアズらを救う役割を結果的に果たした。一方のロレンスも自己保身のためでもあり、あるいは職分柄の務めでもあり、彼らの価値観としての「善」の導き手として、可能な限り日本人どもに寄り添おうとした。

そういう意味で、ハラとロレンスを中心にしつつ、本作は誰もが間違っているなかでも生を過ごしつつも、彼らなりの善をまっとうしようとした。いくらかの例外はあるだろうけれど。そういう象徴的な意味が、この 2 人には役割づけられていたのではないか。

セリアズが最期に見たのはなんだったか

現時点で、本作で1番好きなのは実はセリアズの回想シーンかもしれない。なんでかよくわからないが、実家の庭園の構図が決まりまくっててカッコいい。あの実家は、完全に妄想の世界で、回想のなかでの弟は全然成長しないんだよね。配役が変わらないという意味で。ギリギリでリアリティが崩れていないとも見える一方、セリアズの弟のイメージが固着しているという表現ともなっている。

弟は兄に嫌われたくはなかった。それは兄だってそうだろう。弟からの信頼を自ら失うようなことはしたくなかった。兄は弟の成長を願い、それは達成されたが、そこで喪失された(ように見えたもの)に兄は戸惑い、それが彼の枷になっていった。それが戦争に従軍する理由ですらあったという。冷静になれば、地球の反対側に戦争で来るまでのトラウマになってたのかよ…、という話だ。

でも、セリアズだって本当は気がついていたはずで、弟はとっくに兄のことなんて許しているし、なんなら最初っから恨んでなんかいない。奇しくもすべてを奪われた状態になって、ようやくそのことを受け入れられたセリアズの最期の表情はあまりにも美しかったね。

ヒックスリーの残した言葉の意味は

何気に彼が重要な気がするんだよね。工事現場へと収容所を去るにあたり、ロレンスとの別れ際で彼は「俺が日本人でお前の立場だったら切腹してる」という旨の文句を残して去っていったと思う。いかにも気持ちの悪いセリフだが、原作にあったのかね、映画化の脚本で登場したセリフなのかね。

もともとヒックスリーとロレンスはあまり折り合いがよくなかった。立場こそ違うとはいえ、同じ英国の兵士として、英国人として、一定以上の価値観は共有していたはずだ。そんなヒックスリーが「日本的な恥」を受けて「切腹」しかねないという文句を発するほどに、彼にはロレンスに対してのネガティブな感情を膨らませ続けたという結果になっている。

まぁね、これは背後の設定がよくわからない。ヨノイが俘虜から銃火器に詳しい人物を提供せよというのは、軍務上の任務だったのだろうけれど、それ以上の情報はない。ジュネーブ協定という前提があるにしても、ヒックスリーは、正当な理由があるとはいえ意図的に情報を遮断し、俘虜全員を危険に晒したとも言える。そもそも彼の見立てでは 3 カ月後には終戦するだろうといったが、実際はもっと日本に粘られた。

物語全体の経緯のどこにロレンスに対する怒りポイント加算要素があったのか。これは、ロレンスとセリアズの対比によって浮かび上がるのだろう。ヒックスリーは、最後はセリアズに命を救われている。表面的にはこの行為が、セリアズが彼らの信念と価値観に殉じ、それがヒックスリーを守ったと映ったのではないか。より長い期間を過ごしてきたロレンスは、彼らのためにそこまではしてくれない、してくれなかったとヒックスリーは断じた。

ヒックスリーはセリアズの死を通して、その死について、半ば日本的な価値観に染まったのではないか。そうでなければ、ロレンスへのあの台詞は出てこない。この点において、実に巧妙に価値観の倒錯が起きている。そしてこれは、最後のハラの状況へと繋がっている。

追記:20220116

2022 年の元旦付けの CINEMORE の記事で長大な記事があった。前中後と 3 編に分かれて描写されている本作にまつわるエピソードと問題提起は読み応え十分だったので以下にリンクしておく。

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ひさびさに知り合いに会う機会があり、せっかくなので楽しく時間を費やすコースを取ろうということで、Twitter でたまたま見かけた本展に出掛けてきた。中村橋に降りたこと自体が初めてであったが、美術館下にある図書館もなかなかよさげで、小さいながら公園も併設されているし、ここはステキな場所だなという印象を持つ。

展示は電線の普及前、ペリー来航後の西洋文化の摂取を開始した 19 世紀半ばから始まった。電線設備の実験設備のスケッチなどがあった。

言うまでもなく、電気、電線の設備は都会、重要地点などを中心に敷設されていくので、人通りの多い往来や街をテーマに描く作家の視界にはいやおうなく電柱や電線が映るようになる。もちろん、新しい存在の電線が主題となることもあるわけで、その変化が楽しめる。

第 1 章、まさに電線の普及と町の発展、西洋化が進む中での日本の風景だ。豊原国周の《東京高輪風凉図》が印象的だった。あまり出来がいい作品とは思わないが、ちょうど最近、遺跡が発掘された高輪のあたりが舞台だということもあり、旬と言えば旬だ。

夏の磯遊びをテーマにした 3 枚絵というのは、浮世絵の典型的なフォーマットのひとつだと思うが、近代化でこういう風になるんだね、という。

河鍋暁斎の《電信柱》は、やっぱり対象の捉え方が独特で、それっぽいね。月岡芳年も彼らしい絵だった。天狗かなにかがいたね。

第 2 章、電気の光ということで、凌雲閣がテーマになった作品や帝国議事堂の火災を描いた作品があった。個人的には楊洲周延の《上野公園乃夜景》がよかったね。中央の女性と右の女性、中央背後の女性 2 名の計 4 名には色がついているのだが、それ以外はモノトーンで処理されている。素敵だね。

第 3 章、都会はなにも東京だけじゃないということで、東京と西とをつなぐ電線も存在した、ということだろうが、富士山と電線を収めた絵画がやはりある。ここも小林清親が多かったが、まぁきれいだね。

第 4 章、岸田劉生が主で、その影響を受けた椿貞雄の作品も 1 点。神奈川の結核病院から描いたとかだったと記憶しているが《窓外夏景》がいいなと。

第 5 章、印象的な絵が多かった。松本竣介の《鉄橋近く》は、木炭と墨で描かれていたが、物体はかなり抽象的でところどころは何を描いているのか判別しづらく、シュールだった。

藤牧義夫の《隅田川両岸画巻》は、圧倒的だったが、ポテンシャルが分からない。藤牧義夫は本作を制作し、個展を開いたのちに失踪したらしい。24 歳だ。Wikipedia によると、お墓が館林市にあるらしいので、消息はとれたようだが、雑にググった程度だとそれ以上は分からない。

あとは、小絲源太郎の《屋根の都》もよかったね。バッキバキですよ。

第 6 章、ここまでで大体が 1930 年代までの作品となるが、この辺になると、あまり古さを感じない。川瀬巴水の版画などは色のよさもあって、すっかりカッコいい。個人的には小茂田青樹の《松江風景》が気に入った。

近くにあった近藤浩一郎の《十三夜》もよかったね。単純に好きなのだが、この作品には妙がひとつあって、近年では本作の描かれた箇所にあったはずの電柱は景観保持のために撤去されているそうな。時代は捻じれていく。

第 7 章、災害と電線ということだが、最初に展示されていた梅堂小国政《三陸大海嘯之実況》はやや古く、1896 年ということらしい。被災する人々の造詣は皮肉にもコミカルに見えた。その他、東京の震災の絵などがあったが、割と残っているビルなどもあるのだなと、逆に感心してしまったね。

第 8 章、東京の拡大ということで、高田馬場、落合、板橋、練馬あたりを題材にした作品がいくつかあった。これはこの美術館との接続もそれなりに意識されているのではないかと勝手に想像した。

第 9 章、木村荘八の挿絵を中心にした東京の景色、朝井閑右衛門の電線風景の作品が幾点かずつあった。後者、はじめて見た気がするけれど、これほどすごい作品があるとは、とは。これはもう電線というか配線の狂気で、サイバーパンクの世界だ。ちょっと凄すぎた。

第 10 章、「碍子」ということで、電線を支持するための絶縁体、でいいのかな。ほとんどが日本ガイシ株式会社から提供された展示品だった。つまり実用品であり、工業美術にカテゴリーできるだろう。室内用のレジン製の碍子がひとつだけ展示されていたが、それ以外はすべて磁器製だ。ガラスの向こうに並んでいるとまさに芸術品然としており、おもしろい。

同じく展示されていた碍子をテーマにした掛け軸画:玉村方久斗《碍子と驟雨(紅蜀葵)》が最高によかった。もともと対となる《碍子と驟雨(梧桐)》とともに制作されたらしいが、現在はどちらも京都国立近代美術館に所蔵されているらしい。これは見れてよかった。

第 11 章、現代作品だ。あまり知らないのだが、山口晃などがあった。阪本トクロウの《呼吸(電線)》が好きだね。同じ作家の作品をどこかで見たことあったかな。ちょっと曖昧だ。

なんかいろいろと考えたこと

絵画芸術のモードの変遷などは知らないが、本展の内容がたとえば第 10 章の《碍子と驟雨》は制作が 1943 年で、あるいは朝井閑右衛門の作品が 1950 年代である。以降はどうなのか。阪本トクロウの《呼吸(電線)》は 2012 年の作品だが、これは「呼吸」という日常をテーマにした作品群のひとつである。

もちろん、本展で主に展示された作品年代以降も電線がモチーフになった絵画はあるだろうけれど、まとまった展示に至らなかった理由としては絵画芸術の勢いの衰えや電線が日常になったことが理由とはなりそうだなと。当て推量の域をでないけれど。

一方、アニメーションなんかでは電線や電柱が象徴的に使われることは未だに多いような気がして、これはエヴァンゲリオンなんかで顕著とされたように思う。だが、エヴァンゲリオンの場合は、監督が特撮から受けた影響も多かろう。

実際、70 年代にバラエティ番組に登場したという デンセンマン とやらの特撮ヒーロー、その電線音頭のレコードのジャケットも展示されていたっけ。

最近では電線は地中化も進んでおり、いつの間にか生活空間から減っていっている。まったく無くなる日も来るのだろうか。私は幼い頃に木製の電柱を見たことがあるが、最近はとんとみない。未だにあるところにはあるようだが、これも減る運命だろう。

逆に、碍子については、国内ではやはり陶器製が多いようで、これは面白い。

最後に。基本的には時代背景別となった展開だったが、電線なだけにちゃんと流れがあって、これはよく練られた企画だ。セクションの解説も作品ごとの解説もよく出来ていて作品解説の見出しは、ちょっと目を留めざるを得ないキャッチーさがあった。よい展覧会でした。

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『ガールズアンドパンツァー 最終章 第 3 話』を観た。前回から何年ぶりだろうか、夜のジャングルで知波単学園に追い詰められていたことは覚えていたので、特に問題なく物語に入り込めた。

さまざまな視点や角度から高密度なタンク戦が描かれる本作には、熱中せずにはいられない魅力がある。爆走する戦車の上で突っ立てても大丈夫だし、剥がれた装甲を手軽に修復してしまうのも OK なのは、クスッと来てしまうが、本作のリアリティ、非リアリティのバランスを維持する手腕は、いつも見事だ。

ここまで 3 話かけて 2 戦を描いてきた。残り 2 戦で予定通りの 残り 3 話となる計算だろうから、ピッタリだ。2020 年代で収束するスケジュールかはよくわからないが、楽しみにして待つしかない。

今回の本編は、どちらかというと知波単の成長の描写に重きが置かれていた。そのため、相対的にではあるが、大洗のメンバーの弱さがやや浮き彫りになった。いつも通りと言えばそうかもしれない。そういう意図によるだろう状況ではあるが、歯がゆさはある。

成長して健闘した知波単にしても、最後は見事にエース:あんこうチームに釣られる結末で終わってしまった点も、少しばかりもどかしい。会長、桃ちゃん達のカメさんチームが漁夫の利的に撃墜していくシーンは、過去のどこかにもあった気がするが、どうだったかな。

前半の大洗 vs 知波単を雑にまとめてしまうと、福ちゃんの成長とそこへの橋渡しというニュアンスが強く感じられた。世代交代がしっかり描かれているので、これも特に不満はない。

知波単戦が終わり、幕間としては他学校の対戦が描かれる。これは多くの視聴者が指摘しているが、勝ち上がってくるチームと、最終的に対戦することになりそうなチームは大方の予想がつく。

黒森峰のエリカとプラウダのカチューシャはどちらも面白かった。言ってしまうと、カチューシャの活躍のシーンって実は劇場版からあまり与えられてない気がして、やや不憫ではある。見せ場ではあるんだけどね。一方のエリカはそこそこ恵まれている。これは西住姉妹に挟まれているから致し方ないか。

で、結局は第 3 戦では継続高校が対戦相手となった。この高校は、劇場版からの本格登場だったハズだが、隊長のミカがまたひどい人物で、どうやってこれでチームを率いていられるのかまったく想像がつかない。が、有能なことに変わりないのだろう。

大洗の西住と秋山は、偵察にてサンダース大学付属が継続に負けた展開を見ていたが、それにしては戦闘の序幕の切り方がやや無防備だったなと、やはり思ってしまう。まぁ、この展開もそこまで意外ではなかったが、こうなるよね、という展開なので次回が楽しみではある。

西住みほが、ある意味で隊長という職務を降りている現状で、良くも悪くも肩のチカラが抜けており、判断力が鈍っている、みたいな想像もできるが、どんな感じなんだろうね。大洗女子学園の各チームの活躍を祈りたい。

オープニングでは、あんこうチーム、他学校のメンバー、大洗のその他のチームそれぞれが交互に描写されたが、自動車部のレオポンさんチームの 4 人は画面分割で入っていたのが面白かった。あんこうチーム以下はレオポンさんチームが好きなのだが、自動車部はほとんどが卒業なのだね。

どうしても間が空いてしまうので、キャラクターもとい声優さんの声の雰囲気が変わった、なかなか戻らない感じを幾人かから受けた。が、まぁこれも仕方ないのかな。通しで見たときに、どういう感じになるのかは気になる。

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『長江 愛の詩』の記録をようやくまとめた。原題は「長江圖」となっており「長江の図」の意味か。英題は “Crosscurrent” で「逆流」「遡行」などか。作中で何が起きたかは英題が端的に表しているように思える。邦題はエモくて、実に日本らしい。けど、詩をピックアップしたのは良いと思う。

本作について監督は構想から数えて 10 年以上を費やしたとどこかで読んだインタビューで明かされていたが、シナリオの制作が進むたびに内容は複雑になっていったらしい。ということで、本作は非常に分かりづらい。

発表は 2016年 で日本国内では 2018年 にシネマート系(テアトルグループかな)で主に上映された、と思う。

2019年 には岐阜の映画祭で扱われたらしい。2020 年には仙台で上映されたらしい。私は 2018 年に劇場で鑑賞して非常に感動して、 DVD まで購入した。撮影は 35mm フィルムカメラを使ったらしく、恵比寿ガーデンシネマでの上映は 4K だったそうだが、残念ながら相応に画質が保証されたパッケージは、少なくとも日本国内では販売されていない。

ちょっとあまりに多面的に書きたいことが多く、メモを書き連ねて残して置いたら 3 年くらい経っていた。修正や補筆をして出そう。

あらすじ

主人公のガオ・チュンは、死んだ父を継いで長江で運航する貨物船の船長となった。操舵をはじめとした貨物船の従事者としての能力は低く、ベテランのホンウェイ、若手のウー・シェンに頼りきりだ。やくざ絡みの積み荷を上海から遡行して運んでいくことになったが、積み荷の正体がどうも怪しい。ほぼ同時期、エンジンルームで長江の地図、亡父の作と思われる詩が添えられている-を発見した。積み荷を運ぶにあたって長江を遡りつつ、印の土地に沿って停泊していたら、そのたびに謎の女性アン・ルーと邂逅することになった。

ざっくりした感想

本作は、解こうとしても解けないメタファーが折り重なっている。アン・ルーはいうなれば長江そのものであり、その歴史であり、ガオ・チュンがなぜか惹かれる対象であり、おそらくまた父の愛した人でもある-これがガオ・チュンの母であるとも考えられるし、まったく別の存在であるとも考えられる。

あまり行儀のよい解釈とも思わないが、父の船に乗った息子が、彼らにとって母なる河ともいえる長江の源流に向かっていく図として見たとき、やや艶めかしいというか「父殺し」の亜流にも読み替えられるような気がする。

だが、本作の場合に殺されるのは、父という以上に、長江で育まれた文化、民衆そのものですらあり得る-これは本編終了後のカットで表されている。

この作品で描かれるのは、実は登場人物のパーソナルな愛やその問題ではなく、長江そのものへの愛であり、鑑賞者はその体験に付き合わされたのだと自覚してしまって唖然した。

監督、脚本のヤン・チャオの自伝的な側面もなくはないという話だった気がするが、ちょうど「シン・エヴァ」を見た直後だから言うけれども、失われた父、あるいは母に対して煮え切らない思いと態度を抱えつつ、彼らの深奥を探っていかざるを得ないという構造が割と似ている。そういう気がした。

なにより、そういうところに惹かれたのかもしれない。

アン・ルー

ガオ・チュンは都合 10 回ほど、彼女に遭遇する。遭遇することのできない係留所もあったが、そこにも彼女の痕跡は残っている。長江を遡るほどに彼女は若返っていく(ように描写される)が、これは話が逆で、彼女の歴史あるいは長江の歴史をガオ・チュンと私たちが逆に辿っている。

いずれにしても彼と彼女の邂逅はどれも現実的ではなく、描写自体は幻想であることをなるべく避けるようにしながらも、現実には不可能な状況を見せつけてくる。ラスト方向から感想を並べていく。回数とシチュエーションは、精確に記録したわけではないので、子細にはミスがあるだろう。

10 回目:最後の邂逅は山道を川上に向かって歩くアン・ルーをガオ・チュンの船がサーチライトで照らす。全体の筋として本来はアン・ルーは川下に向かっていくと思われるが、これは演出上の都合だろうか。ガオ・チュンがいくら彼女を呼んでも、彼女は歩くことに夢中な様子で彼には気がつかない。

この直後、とうとう現実と幻想の結節点が現れる。いや、切断面かな。このへんの描写や演出や、最高に好き。

9 回目:アン・ルーはどこかの寺院の壁画の清掃と岸壁に残されれた詩文かなにかの収集、版画作成の仕事をしている。ガオ・チュンと居合わせて、墨で顔を黒く染める。軽く交流するだけだ。可愛らしい。

8 回目:しばらく 2 人は邂逅していない。このシーンでは、アン・ルーは仏寺で修業中のようだ。また、夫と見られる男性が布団を運んで来ていた。まったく分からない。

7 回目:アン・ルーは海女のような作業をしており、河中の浮島に建てられた屋敷に居を構えている。ガオ・チュンは彼女に会えず、付近を通り過ぎる。彼女の佇む部屋の窓から、その姿が視聴者には垣間見える。視点は定かではない。

6 回目:仏塔(だろうか)に入ったガオ・チュンはアン・ルーと僧侶の問答を耳にする。彼は構内を上下して彼女を探すが見つからずじまいである。

5 回目:浜辺に立つアン、ルーは沖を行く船に向かって「私に会わずに置いていくのか」と叫ぶ。船はもちろんガオ・チュンのそれだ。だが、ガオ・チュンに話しかけているのかは定かではない。砂浜には詩が書かれている。これはガオ・チュンの父が残した詩だろうか。

4 回目:洪水なり浸水なりで家屋がどんどん駄目になっていく地区にアン・ルーは暮らしている。滞在期間、ガオ・チュンとアン・ルーは夫婦のように時間を過ごした。そのようにみえた。

ところが、アン・ルーはそこに夫が居たようである。最初の晩の次の夜、ガオ・チュンは家を再訪し、男女の諍いを目撃する。その後、なぜか男はベッド上で死んでいる。劇場と DVD で字幕に違いがあるだろうか、劇場では口論の内容が字幕された気がしたが、DVD ではなかった。

この辺、本作でもっとも分からない箇所のひとつで、当該地区が水没していくのは河川事業の一環なのだろうが、そもそも夫も 8 回目に夫らしかった人物と同一人物でもなさそうな気がした。

3 回目:深夜、路上で眠るアンルー、少し遠くでは高層ビルに花火が舞っている。これは上海なのかな。

2 回目:防波堤沿いのバラックに暮らしているアン・ルー。かつては母とここで暮らしていたという。アン・ルーとガオ・チュンはここで初めて身体を重ねた。というか、直接的に描写されるのはここだけだ。アン・ルーという存在にだけ着目すれば、あきらかにここから現実離れしはじめる。

1 回目:仕事を受けるために発船準備を進めるガオ・チュンはそばに停泊している小舟に乗った女性に妙に惹かれる。彼女こそがアン・ルーだが、船上生活でもしているようだ。解説などによると、船上で身売りをしているらしい。疲れ切った様子がある。

その他のことなど

物語の背景には長江の開発、代表される三峡ダムの存在、それに伴って変化していく流域の人々の生活、河川の環境が変化し、絶滅したとされるヨウスコウカワイルカの存在、などなどさまざまなファクターが入り混じっている。

クライマックス付近で三峡ダムを利用して、上流へ向かうシーンがあったが、劇場でこのシーンを観ることはすごい体験で、ダム施設内では船を係留するのだが、水位が上昇していくなかで響き渡る係留索の奏でる摩擦音が、長江の泣き声のようにしか聞こえなかった。

いや、まぁ、とにかくいいんだ。

以下、だいぶん前にググったときに解釈などの参考にした記事などだ。

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キミは『あのこは貴族』を観たか。

テアトル系の映画館では、年末年始あたりから上映前の案内に登場していた記憶がある。門脇麦、水原希子が主演となれば、見ないわけにはいくまいと決意していた。こうした心づもりで上映開始を迎えたわけだが、決意を翻すことなく、あっさり鑑賞できた。よかった。

本作、すごくよかった。物語自体は、まぁなんというか否定的-のつもりはないのだが率直に言うと、しょーもないというか、一般化すればどこにでもある話で(あまりにも乱暴な物言い)、また、これといった起伏もない。

だが、決して退屈ということもない。何がスゴイと感じたかいうと、ことごとくツボを突いてくる俳優の演技と映像の演出で、みるみると、のめり込んでいった。

登場人物別に感想を残すのがしっくりきそうなので、そうする。そうしてみた結果、無駄に長くなった。けどまぁいいや。

平田里英

山下リオが演じる。主役のひとりである時岡美紀とは地元からの同窓生で、ふたりは富山の高校から慶應義塾大学に入学する。その後、10 年ほど音信不通のような状態になっていたようだが、2017 年の地元の同窓会で再会した後は、都内でもしばしば面会を重ねるようになる。

美紀の転機に寄り添ってくれるという立場の重要性と絶妙な存在感が無視できない一方、ちょいちょい登場するくらいなので紹介が難しい。2 つのシーンをあげたい。

まずは、自転車を引いて歩く美紀と語り合いながら歩くシーン。これはどれだけ演出の意図通りか不明だが、背景となった車道を白い車がややスピードに乗ったまま左折してふたりを追い抜いていく。この情景が、怒られるかもしれないが、本作でもっとも強烈に心に残っている。ある種の緩急を感じ、ちょっとビックリさせられた、とでも言おうか。

このシーンにそのまま続いてだが、内幸町の駅からニケツで美紀の自宅に向かっていく箇所も、本作でも 1、2 を争う名シーンであって、思わず鳥肌が立ってしまった。自転車をうまく生かす作品ってのはそれだけで貴重なんだ。

喫茶店や東京駅のシーンもそれぞれよくて、それぞれの状況で描かれる里英と美紀との連帯は、そこにあるのが何かは明言し難いが、なんなら友情やビジネスパートナーを超えた情愛があるのかもしらん。

青木幸一郎

高良健吾が演じる。慶應の幼稚舎から法学部を出て東大の法科大学院だかを経由して弁護士になり、果ては議員を目指すとか。生活の足元を固めるには結婚が必要というわけで、ちょうどよいところに榛原華子が現れた。彼らはアレヨという間もなく結婚する。

幸一郎さん、パッとした第一印象では、イケイケのリア充だったのでは? と思うが、見ていくと割とそうでもなく、実家を継ぐことのプレッシャーと葛藤、親族との世代ギャップに静かながらに悶々と苦悩している描写が醸されていて、演技も含めて、これはこれは見事だった。

結婚相手も、彼の経歴なら簡単に選べそうなものだが、そうはなっていない。実は、外面だとか社交性だとかの能力は低いのだろう。華子の前ではやたらと誠実だが、美紀が「実はそれほどイヤな奴じゃない」みたいなニュアンスの台詞をこぼすあたりで、察せられるところがある。

設定上はおそらく 32 歳である彼を、幼いと見るか、年相応と見るかは視聴者次第ではあるが、まぁこんなもんかな。とはいえ、ほんまもんのお坊ちゃまエリートの描写としては、やや弱いのかもとも思わなくもない。実態はもっとエグイだろうなと。

なお、「原作ではもっと旧弊な価値観に染まっているので、映画の脚本のキャラクターの方がしっくりきた」という感想も見た。なるほど。

榛原華子

門脇麦が演じる。主役のひとりで、作品全体としては、ほぼ彼女の視点が中心になる。29 歳かな。

父が医院を経営し、松濤暮らしのボンボンの三女ということで、大事に育てられたなりの価値観の基盤の無さ、周囲の意に沿った故の諦念に包まれた人生観を滲ませる。

バカではないものの要所で知恵が抜けている、一方で、お育ちの物腰とピンポイントでの配慮の良さはちゃんと備わっている、これまたアンバランスな人間像が絶妙な演技で表現される。

ほとんど主体的な意見を表明せずに、のらりくらいと周囲の欲望を最小ダメージで躱してきた彼女だが、とはいえ、彼女自身の意思や感情をそれなりに発した箇所はいくつかあるはずで、私は 2 つのシーンで気になった。

作中で彼女が本当の意味でひとりになれるのは、タクシーを駆って都内を縦横無尽に移動する車中だったりして。感情の機微もここで発露されることが多い。別に彼女自身にとっては、タクシーはただの移動手段にすぎない。

タクシーと決別した彼女を、そしてその選んだルートを誰が否定できようか。エンディングに解釈の余地があるのか否かは両論あろうけれど、自分勝手さが極端に振れたことを除いて、華子本人の意思決定を作品全体が肯定するとすれば、あの終わり方はどこまでも前向きだ、と個人的には考える。

相良逸子

石橋静河が演じる。華子の同窓生である彼女は、バイオリニストとしてドイツと日本を中心に活動する。良家のお嬢様然としつつ、現代社会なりの新しげな、しかし彼女自身の価値観に沿って生きる道を選んでいる。

雑に括れば、美紀に対する里英、華子に対する逸子といった構図となり、そういう意味では説明するまでもなく、逸子は華子の助けになっている。

単純に私が石橋静河のファンなだけなのだが、窮屈な世界をそれでも自分なりに伸び伸びと生きようとしている逸子は、とてもカッコイイのであった。

本作での仕掛けとしては、彼女は右手の薬指だかに指輪をしており、どこかの会話のシーンでも示唆されていたが、恋人のようなパートナーがいるのか否かは明らかではない。ノイズと思わなくもないが、フックとしての機能はあるのだろう。

時岡美紀

水原希子が演じる。甲乙つけがたいというか、出演者はみんな好きなんだけど、本作で誰に敬意を示したいかといえば彼女になる。本当によくやった。里英の説明で触れたように、主役のひとりである。

富山の高校から上京して大学生になったのち、紆余曲折あってイベント会社のコーディネーターのような仕事をしていると思われるが、学生時代の縁から幸一郎とたまに時間を過ごす仲になっている。

彼女は貴族ではないので、タイトルの視点はあえて特定するとすれば、時岡美紀の視点がもっとも近いとは言えるだろう。

でもね、別にタイトルの「あのこは貴族」というようなニュアンスは、作中ではあからさまに表現されることはなかった。そう言ってもいいと思う。

本作において華子と美紀の交錯点というのは、思いのほか小さい。

それでありながらも、物語は全体として美紀と華子を取り巻いた、行き当たりばったりを強いられるような生活と環境、彼女らの生活は対比ではなくて、それぞれの喜びも悲しみも、等しくそれぞれに訪れるだけで、実際には縁があるのかないのかも定かではない華子と美紀が、見事に重ねられている。

攻めと受けの八方美人の在りかた

そんな彼女らについて、あえて対比をして見てみると、華子が防御力をあげて世界と対峙してきた一方、美紀はそれなりに攻撃力をあげて世界と対峙する必要があった。

大学入学を喜ぶ美紀、年末年始に草臥れて富山の実家で過ごす美紀、同窓会でひとり酒を煽る美紀、年明けのパーティーで逸子に挨拶する美紀、突然に逸子に謎の会合に呼び出される美紀、その他、その他、その他…。

彼女の見せなければならない表情が多いこと多いこと。

同時にして逆に、華子は、最小限の表情の変化で、それぞれの状況で彼女自身の感情のゆらめきを表している。

これらの演技、演出を振り返ると、あらためて驚かされるが、とにかく主演の彼女らの演技には惚れ惚れする。

女性たちによる世界観なのか

本作、監督・脚本が岨手由貴子、原作が山内マリコということで、制作人の主要メンバーも内容、テーマ的にもほぼほぼ女性が中心になっている。

珍しいことはなくて、これは潮流なのだろうけれど『燃える女の肖像』しかり、『はちどり』しかり、そういうところがあった。

そこにどこまで意味を見い出すかは鑑賞者次第といっていいとは思うが、特に本作においては単純に旧世代側の人間か否か、でいいのかなと。逸子が美紀に対して「旧来の女性」が強いられていた生き方を論じるシーンがあったが、少なくとも「旧来の生き方」を強いられ続けて逃れられないでいるのは、高良健吾なのだよな、本作は。

古い価値観から逃れていく人たちと、そうでない人たち、そういったギャップの観点としては、まぁティピカルだったかな。些細なことではあるけれど。

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『すばらしき世界』を観た。原案の小説『身分帳』(1990、佐木隆三)は、未読だ。監督の西川美和の作品を観るのも初めてで、役所広司が主演した映画をちゃんと見るのも初めてだ。

物語の主人公、三上正夫(役所広司)は正当防衛とも思しき殺人を犯し、自己弁護の失敗も重ね、平成 16 年に収監されて平成 29 年に娑婆に戻ってきた。社会生活に 13 年間のブランクがある。彼は「一匹狼」を自称するが、反社会的勢力の部分であったことは確かで、出所後に東京に向かう道すがら「カタギ」として生きると自ら誓う。

冒頭、東京の身元引受人の家にあったテレビ脇のカレンダーは 2 月 20 日を指していた。冬だ。そして物語はおそらく 7~8 月に終わる。よって、本作はおよそ半年程度の出来事を描いている、と思われる。

こう振り返ると、およそ 2 時間の上映時間は濃密だった。彼の生活は、アパートをなんとか借りて生活保護を受けながら職探しを始めるところから始まるが、暮らすことになったのは荒川付近だろう。荒川区か足立区か江東区か、そのへんかな。

前置きが長くなってしまった。

コメディ調に演出される箇所も多く、緊張と緩和のテンポのよさが不気味に心地いい。個人的には中盤の転換点がやや怠く感じたが、その弛んだ感触も長続きせず、結果的には幕引きまでちゃんとジェットコースターに乗って楽しめた。

本作に問題提起があるとすれば

社会派な作品でもあるが、そういう意味での本作の根幹を成す部分はなんだろうか。たとえば『万引き家族』(2018)と比べようとすると難しくて、「どちらのほうが自分にとってより身近な問題に感じるか?」というと、かなり回答に迷う。というか、答えが出ない愚問ではあるか。

よほど整備された世界で生まれ育った、相当に幸福な人間でもない限りは、三上のような、怒りが暴力に直結しやすい人間に、誰でも人生で 1 度以上は遭遇するだろう。暴力やその破壊力の次第ではあるが、居ることはいる。

とはいえ、遭遇したことがあるタイプの人間だから彼に共感しやすいかというと、そうはならない。それは多くの人間にとっては、彼は加害者、もしくは邪魔者、乱暴者であって、決して何かの被害者ではない-少なくとも表面的には。

もちろん、私は本作で描かれた彼の感情の起伏の程度には引いてしまった。大方の反応もそうだろうと感じる。

そういう意味では、「万引き家族」のほうが身近な問題のようにも思えるが、此方にしたって日常的に万引きを実行し、それを生活の基盤とする価値観なんて、なかなか分からない。

視点を変えよう。

あらためて三上の問題の根本は

私が結末付近で得た感想は、本作は『エレファント・マン』(1980)の類型だなという点で、突き詰めれば、これに尽きる。三上の属性がヤクザである、そうであったことに意識が寄りがちだが、ぶっちゃけヤクザとかどうでもいい。本作においては、それは物語の前提、または三上の性質と実績の結果でしかないので。

過去に彼が起こした犯罪、あるいは作中で実行した揉め事(事件化はしていないが悪事だ)を無視すると、三上という人間が社会生活を目指すうえで抱える問題点は「およそ正当な怒りが破壊的な暴力に直結しやすい」という性質にある。

それが「まじめすぎる」あるいは「幼少期の母親との別れ」などといったオブラートや原因探しに包まれて、作中では、まともな協力者達から批判、あるいは諭される。お前は普通じゃないんだからと。

就職が決まったときのパーティーが代表的だが、三上を救おうとする庄司夫妻、松本店長、ケースワーカーの井口、ライターの津乃田に至るまで、あくまでまともな側の人間である彼らは、すごく真っ当なアドバイスをくれる。

そこに少なからずの違和感を感じたのか、同シーンでの津乃田は一瞬だけ揺らいでいた。この点について、説明はなされないが、もどかしさはある。

『エレファント・マン』との比較を利用すると、何においても三上を無辜であるとできないので、彼の立場はエレファント・マンよりも難しい。が、三上を受け入れてやろうというカタギの世界は、そんなにもすばらしいものかね。

すばらしき世界を諦めない

作品のクライマックスに至っては、三上が彼自身の抑えがたい性質を社会に、あくまで「カタギ」として生活していけるレベルで、順応させていけるかという点に希望らしきものが提示される。

が、私にはよく分からない。そんなことが社会性なのか。あるいは、まともな人間性なのか。その分岐点ってどこね?

それでも本作がなんらかの感動を鑑賞者に与えるのは、三上自身がカタギの世界に希望を見い出すことを諦めなかったからなんだろう。あのエンディングをもって美談めいたノーサイドになってしまうのも心苦しいが、これも現実か。

それでもすばらしい世界はあるか

本作で、まっとうな人とはみ出し者の彼岸を、実にピンポイントに、悪びれて照らすのは、ちょい役の吉澤遥(長澤まさみ)くらいだ。なのだが、いかんせん主題めいた内容がボケるだろうから、これもそこまで深入りして描写はされない。

結局、三上がまともな社会に受け入れられ得たか分からない。そこに希望があるかどうかも、私的な感想としては、そこまでポジティブにも思わない。まともになろうという三上がコスモスを手にしたとき、何を思っていたのか。

付言というか、ベタな話ではあるが、「万引き家族」にせよ本作にせよ、前者ではタイトルが示す通りではあるのだが、家族というものの在りようへの問いが根底にはあるような気はするね。

まとまりのない感想になった。

その他

物語とは別に気に留まった点などをメモしておく。

東京タワーと”Love Lost In Heaven”

「カタギ」を諦めかけた三上がアニキ分に連絡し、そこへ向かうシーン。まぁ美しかったね。まずは東京タワーが映る夜景をバックに、横浜方面へ移動していく空撮(これもドローンで撮影できるのかな)を背景に、”Love Lost In Heaven” という、いかにも甘い曲が流れる。

この曲、実際の歌手も実在するようなのだが、本作への書き下ろし、専用のナンバーなのかしら。よくわからん。いい曲です。タイトルがね。

ちなみに、このシーンでのアニキ分との通話は、いかにも肩肘のはらない気の抜けた、彼らなりの愛情のこもった会話だった。福岡に着いてから舎弟の運転する車がほかに車両のいない高速を抜けていくシーンにも現実感がなくて、妙に美しい。三上が過去に生きていた世界がすでに現実離れしていることを予感させられる。

余談というほどでもないが、東京スカイツリーも『万引き家族』以来に映像作品での登場をみた。権利的に映像に登場させるのは相当に難しい建造物であるらしいが、東京タワーを上述のように活用しておいて、こちらを映さないわけにもいくまいな。なんだかんだで時代を象徴するモニュメントになっているね。

光のつぶつぶの効果

上述の東京タワーの情景然りだが、エモいシーンで多用されていたように思う。まるっきり CG ってワケでもなさそうだけど、なんらかの加工を加えないとこういう感じにはなかなかならないだろうね。こういう映し方の技法なりにも名前がありそうだけど、あいにく知らない。

やっぱりシーン全体が幻想的な調子になる効果がある。なんなら、全部が夢物語だったのではとすら思うが、残念ながらそうでもない。

福岡のアニキ分の女将

本作、最後に登場した介護施設の若者たちも好きなのだが、軍配は福岡の女将さんに上がった。夢のような福岡滞在、津乃田からの朗報。ウキウキ気分で釣りから帰宅すると警察との押し問答が発生していた。朗報と女将の説得がストッパーとなり、ふたたびカタギに傾いた三上は、現場から去る。

彼女こそ、まっとうではない側から、三上をまっとうな世界へ背中を押した、本作で唯一の人物なのだ。それはそれでどうなのと思わなくもないが、これこそが救いだと私は感じる。

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