久々にヒッチコックを鑑賞した。今回、鑑賞したのは『断崖』《Suspicion》(1941)である。3 連休にまとめて数本見たので、しばらくヒッチコックの感想マラソンが続く。
思い切りよく結婚した相手が、無一文のお調子者であった。資金繰りに困ったうえに怪しい動きを取る夫への疑惑は深まる一方で、結末はどうなる? という話だ。原題は “Suspicion” ということで「疑い」などの類だが、これは「断崖」として割と面白い邦題ではないかな。
夫への疑惑はどのように解決されるのかという点のみが焦点だが、なんというかオチはごくパーソナルというか夫婦愛だぞ! みたいな着地点だったので、この尺が必要だったのかしらとなった。
面白くなかったわけではない。夫が自分を殺そうとしているのではないかと疑わしいシーンにおける夫の挙動の怪しさ、その撮り方はやはり魅力的ではあった。しかし、それくらいかな。
そもそも夫は、本当にクズ男で、これはそれだけ愛情の深さを逆説的に表現していると受け取る以外は難しいが、それくらいダメ男なので、当時の人たちに共感されたかも訝しい。しかし、映画で描かれるダメ男というのはひとつのモデルなのだものな。
クズ男を演じるのはケーリー・グラントで、本作以後にもヒッチコック作品では『汚名』『泥棒成金』『北北西に進路を取れ』でも主演なのかな。最後の鬼気迫るシーンでの表情はとっても良かったな。
ヒロインの設定のハイミス(今日では死語、あるいは使ってはいけない類の言葉)は、なんだか逆に目新しいなとも思ったが、ヒッチコック作品としては割と典型的なヒロイン像でもあるなと思い返した。
『ザ・ハント』《The Hunt》を観た。確認すると本作は 90 分程度ということで短めな作品だ。そう言われればそうだね、短かった。とはいえ、ボリュームがないわけではなくて、満足感でお腹いっぱいだよ。R15+指定ということで、残虐な表現を含んだ作品です。
本作の制作背景などはまったく知らないが、いわゆる「人間狩り」ゲームで物語は進行する。ありがちやな、という第一印象は、序盤のグロテスクでスプラッターな描写によって吹き飛ばされる…、ってことはなくて単純に目の毒であるだけなのだが、ただのスプラッター映画ではなさそうな本作の正体は、しばらく分からない…。
ハンター側の老夫婦が待ち構えるスタンド脇の雑貨店の様子、狩られる側との攻防、老夫婦のやりとり、オチの描写まででようやく前提がわかる。狩られる側は、主にネットでフェイクニュースを生産、拡散、盲信してしまうような人びとのステロタイプたちで、一方の狩る側は、そのフェイクニュース(とも言い切れない)の被害者側たちなのだ。
本作の制作側などからの発信、あるいは批評筋の説明がどうなっているかは不明だが、これを具体的な政治的なカテゴリーにあてはめるのは最終的には悪手だとは思う。とはいえ、大雑把にはハンター側は、リベラル主義者のような思想を武装しており、富裕者たちだ。
対して狩られる側は、一括りにはできないが、上述のようなタイプの人たちだ。彼らをどのように括るべきかは難しい。現実的な意味でもそうだと私は考えるし、作品中でもそのように描かれる。つまり、狩られる側のバックグラウンドはほぼ語られていないし、そもそも一定しない(ステロタイプとは言っているが)。
重ねて言うが、狩られる側は上述のステロタイプのようには設定されており、もちろんそういう人物たちの問題、そういう人物たちが問題であるようにも提示されているが、それはあくまでハンター側の立場からの描写においてのみだ。
最終的に、本作の物語の起点かつオチは、ここに集約されているのだが「被害者ぶって、そこから生じた敵意を周囲にまき散らしたら事故るぞ」という教訓譚じみた話になっている。
残虐なカットがウリの作品でもあるので、このシーンがよかったみたいなのはあまり(言いたくも)ないのだが、最後の、悪く言うと間延びしたような印象も否めないインファイトも好きだし、淡々と処理されていく人間たちの描写は割り切りがあってよいね。
ポスターに鎮座してモチーフとなっている豚ちゃんは、設定上はハンター側のペットのようだが、なんで放し飼いにしているのか皆目不明という代物ではあったが、雑にか丁寧にか『動物農場』を絡めた風刺にはなっている模様で、そのアイコンなのかなぁ。
『動物農場』を持ち出すということは、愚直に受け取れば、本作は根底的には全体主義批判も合意している…のかもしらんが、構図は全体主義を志向する輩が登場するわけでもないから単なる小道具のひとつでしかないような気もする。
ついては、彼女が彼女をスノーボールと名づけたというメタファーもよくわからないが、彼女は自身をナポレオンと自負していたのか? とも思えない。いや、一方の彼女とやらが自称していたという「全体の正義」(正確な字幕は忘れた)というネーミングを逆手にとったのがスノーボールという渾名なのかな。
タイトルについても少し気になる。あまりにも捻りがない。この言葉をそのまま「狩り」と受け取ってしまうのは、本作の主張を真に受ければ、あまりにも単純に過ぎないか。どうだろう。
最後にひとつだけ言うとすれば、敵か味方かも判別することすらできずに散っていった彼こそが象徴的だったのかもしれない。社会に余裕があれば、コウモリを見逃す余裕も、あるいはコウモリの意見を聴取する余裕もあるかもしれないが、極限の状況ではそもそも彼がコウモリであるのか否かを判断する猶予すら与えられない。
時制的にもプロット的にも、その描写にも、総合的に見て好意的に受け入れづらい作品とは思うが、こういうエッジがきいている作品は好きだな。
2019 年のアニメ『ケムリクサ』を暇つぶしがてらに視聴しはじめたら、一晩で最後まで観てしまった。2012 年頃に制作された同人作品のほうは皆目知らなかったが、それがリメイク、拡張されたのが本作と言っていいのかな。
あらすじだが、あかぎり(赤霧)というモヤに包まれた大小の島々が幾つかの壁に隔てられている。主人公である「りん」の姉妹は、闖入者にしてもう 1 人の主人公である「わかば」とともに、水源を求めて危険な島へと移動することを決意する。
さて、監督の前回監督作品も似たような設定でポストアポカリプス様の世界だったが、いわゆるまともな人間は存在しない。「ケムリクサ」という能力をまとった草のようなアイテムと、それを行使できる姉妹がいる。そこに わかば という人物が合流した、という具合だ。
ここまで書いて思ったが、この作品を魅力的にしているバランスってすごい繊細なのかな。まぁ、世に出される作品というのは、ヒットするにせよ否にせよ、そういうものか…。これがおもしろいんですって言いづらいけど、ついつい先が気になってしまう。そういう作品ではある。
本作についていえば、「世界の謎と物語の結末が気になる」といえばそうなのだけれど、ではそれを魅力的にしている材料はなんだ? ケムリクサの存在や設定の見せ方の巧妙さか? 姉妹の可愛さや格好よさが魅力か?
とは言ってもやっぱり「砂漠でオアシスを探す」というのが大きな魅力だな。類作としては『BLAME!』などが思い当たるが、命かながらに旅を続け何と出会うのか、目的の成果が見つかるのか、途中で断念するのか、不幸にて断絶するのか、別の結果に至るのか、などなどである。
オチについてだが、彼らが現実から別の層にあるメタ(あるいはデータ的な)存在であり、そこでの消滅が更なるデータの海への一体化なのだと解釈すれば、ネタを明かされたうえでひっくり返してみれば、時間はとてもかかるが事実上はずっとコンテニューできるゲームのようにも見えた。
これをどう捉えるのかは、なかなか難しいような…。
とりあえず置いておく。
ところで本作、閉じた世界観と植物というモチーフがそこそこの抽象度で設定されているので、話を拡げるには割とフックが少ない。が、個人的には「ケムリクサ」というネーミングがよく分からず、気になっている。漢字にすれば「煙草」なんだろうけど、これではタバコになっちゃう。意図はあるのか?
こじつけるなら-と言うほどのつもりもないが、姉妹が求める生存条件としての水を元として「あかぎり」は水から生成されて、「ケムリクサ」は水をエネルギーとして機能している。
つまり“霧”と“煙”はさまざまな意味で相反しているわけだが、一般に“霧”や“煙”は視界を遮るように、空気中を漂って拡がる存在である点については同様だ。
これらの醸すイメージというのは、一般に幻想性とかだと思うのだが、まぁつまりそういう所与があって「ケムリクサ」という名前になったのかな、とか。結論めいたものはないけれど…。
アニメーション自体には特に述べたいこともないが、姉妹のキャラクターの個性の出し方、伴って ED のビジュアルがカッコよかった。さて、ざっと見る限りでは、タツキ監督(尾本達紀)は 2020 年は発表された作品には名前を出していないようだけど、次は何をしてくれるんだろうか。楽しみが尽きない。
『羅小黒戦記』(ロシャオヘイ戦記)を観た。ミニシアター系で昨年だかに国内でも上映されていた中国スタジオ産のアニメーション作品だが、上映当初から高評価であった。この度に日本語訳となってシネコンでも上映される次第となったようだ。
これは都合がよいというわけで劇場に向かった。
小さな黒猫(型の森の妖精)である小黒が、故郷の森を失い、彷徨い、仲間に出会い、敵に出会い、師匠に出会い、という感じでサラッと冒険活劇して、ちょっと成長する濃厚な物語だ。泣ける。
テーマとしては、似たような作品、あるいは社会背景などから話を拡げると、あまりこの方法は上手ではないが-『もののけ姫』や『ドラえもん のび太と雲の王国』などが個人的にはすぐに思い浮かぶ。
つまり日本のアニメで 20 年以上前に試みられたテーマが採用されている。現在の中国には勢いがあるが、伴う犠牲や反省のような風潮もあるのだろう、としてよさそう、だが、これも一旦置いておく。
そうした前提のなかで物語は、扱いの軽重にかかわらずに重苦しくてダルくなりかねないテーマとは裏腹に、コミカルで笑えて、戦闘シーンを含んだアクションは多彩にして繊細、そして雄弁で、極上のエンターテインメントになっている。ビビる。
妖精の属性や能力といった諸設定は SF やファンタジーというよりはむしろ(それらは大前提として)、昨今の日本のコミックで主流となっている能力バトルの系譜に乗っているというのも間違いなさそう。なんなんだ、これは…。
小黒の成長についても、最近の日本の作品でみられるほどの押しつけがましさはなく、少しばかりの唐突さは感じたが、なだらかで心地よい描写に留まっていて非常に好印象だった。せめて灰色を経てほしかったが。
付け加えるならば、小黒を取り囲む大人たちの-対立しながらであっても-彼の幼い心に寄り添う気持ちには、それぞれの理があった、はずだ。
ところで、このテーマは善悪というよりも、抗いようのない流れに如何に身を任せるか、が焦点となりやすいが、本作の提示するとりあえずの結論はなかなかドライである。アジア人らしい現実主義っぽさも滲ませている。だが、現状の世界を鑑みてもそういうものなのだろうな、とも言える。私も大人になってしまった。
中国のアニメーション作品がこの素晴らしさをもって発信されてくるというのは、上から目線で評価したいわけではないが、まずもって感動だ。凄すぎる。そのようななか、『三体』についての感想でも書いたが、歯痒い部分もある。
本作の世界観は、おそらくはそこまでは現行の中国の国家体制とコンフリクトしない。言うまでもなく、それが端的に悪いわけではないし、原則的には作品と切り分けて考えるべきであるわけだが、逆に本作をなんらかの免罪符として解釈してはいけないことも心に留めておきたい。
『鬼滅の刃』の人気が限界を突破している。限界を突破ってなんじゃい。別に私が何を言っても二番煎じにしかならないと思うが、なんとなく感想を残しておきたい。作者の吾峠呼世晴だが、情報として正式に公開されているわけではないが、女性の作家であるらしい。少年マンガにおいて女性の作家が活躍することも珍しくないが、これだけ突出した例となるのは、あまりないのではないか。
ところで、ちょうど同じ時期に板垣巴留が『BEASTARS』を完結させた。『鬼滅の刃』が全 23 巻、『BEASTARS』が全 22 巻ということらしい。どちらの作品も発表(雑誌掲載)期間が 2016 年から 2020 年となっている。また、いずれの作家も雑誌連載の初作品である。ちなみに、板垣巴留のほうが 4 歳ほど若いようではある。とはいえ、なんともよい比較対象のように思える。対談してくれないかな。
ちょっと話が逸れた。
私は本作が世代を渡って支持されている理由に、キャラクターの等身が割と影響しているのではないかという持論を持っている。等身の正確な捉え方にはあまり自信はないのだが、炭治郎をはじめとした主人公組は、割と小さい。なんなら柱と呼ばれるメンツも小さい。実に子供っぽいデザインであると言えないか? そうでもないか?
アクション、バトルを中心とした展開で、キャラクターのデザインをこのようにしている作品って、最近の少年ジャンプだとあまり思いつかないが(そもそもあまり熱心な読者ではないのだが)、少年マガジンだと真島ヒロなどが思いあたる。同雑誌では『七つの大罪』の主人公のデザインも、かなり子供らしさを意識しているように思えるが、これは『ドラゴンボール』へのオマージュが強いのかなとも。
『鬼滅の刃』とキャラクターの話に戻すと、同じように「ピッコロ大魔王編」まででキッチリ完結させたドラゴンボールであるようにも捉えられるのではないか。あるいは『ダイの大冒険』なども遠くはない気がするが、周囲のキャラクターを合わせていくと、やはり全体的には等身が大きいほうに寄っていくのではないかな。
細かい定義は置いておくとして、少年マンガの主人公が少年であるまま継続し、終わる作品というのは実はかなり希少なのではないかという気がしてくる。もちろん成長することは必要であるし、当然なのだが、それは年を経ることによる身体的な成長を伴っていることが多い。まぁこれに関しては、そうともいえない作品もかなりあるだろうので、あくまでキャラクターのデザインとの両輪で見ていきたいという話なのだが…。
ということを主に書き残したかった、等身については、調べてみれば似たような話は転がっていた。最初に違和感を感じたらしいのが、外国の視聴者らしい? のはちょっと面白い。
角川ゲームズから発売された『メタルマックス ゼノ リボーン』(METAL MAX Xeno Reborn)をプレイしている。なんでもいいけど、正式な表記はカナなのか、アルファベットなのかハッキリしてほしい。
さて「メタルマックス」の傍系(ここではそのように扱う)にして、「メタルマックス ゼノ」のリメイクである本作は…、という時点で、もはや本作、本シリーズの立ち位置がよく分からない、が、まぁそれはこの記事では置いておく。
いろいろと意見を並べたいのだが、キリがない。できるだけ本題に絞る。ということで、リメイク前の『メタルマックス ゼノ』には、「メタルマックス」シリーズの恒例キャラクターである犬、つまり「ポチ」は参戦しなかった。
この判断は、おそらくは、リアリティ寄りの 3D 作品に仕上げる意図を重視した結果、世界観にそぐわないとされたのだ、と私は考えていた。しかして、「ゼノリボーン」の制作発表と同時に開催されたファンイベントにおいては、ポチの復活が大きく要望された、と記憶している。
結果として「ゼノリボーン」ではポチが復活した。
プレイ体験の本心と実感としては、実際のところ、やっぱりポチが居ると楽しい。ポロポロと戦闘からは離脱してしまうが、移動時に戦車に乗っている姿は可愛いし、本拠地で佇んでいる様子もよい。たまに殊勲賞ものの活躍もする。癒しである。
そうではあるのだが、これは本当は、やはりディレクターの友野氏がやりたかったことではない、のではないかと、やはりそう思う。だからやはり、残念ではあるが、ポチは必要なかったのではないか。
危惧するには、「ゼノリボーン」が修正パッチにてプレイヤーからの声より「人間が移動するときの挙動を修正」という対応したわけで、今後に発売されるであろう続編にも、同じようにプレイヤーの声を反映させるらしい。このとき、仮に自らの意見と相克した場合、友野ディレクターはどうするのだろうか。
「ゼノリボーン」は、メタルマックスとしておもしろいのか、メタルマックスである必要はあるのか、などなどと疑問は個人的には潰えないのだが、とりあえず、ディレクターの思い描いた内容とならない限りは、良くも悪くも軸のない作品にしかならないであろうから、作品が成功するか否かとは別の視点とはなり得るが、そうあってほしくはない。
たまに読み返すコミック『ケンガイ』(大瑛ユキオ)のことを記す。映画《エレファント・マン》を観たキッカケになった作品だ。
本作は『月刊!スピリッツ』にて 2012年 3月号から 2014年 8月号まで連載されていたらしく、私は 1 巻が発売したタイミングで単行本を読んだ(全 3 巻)。それももう 8 年ほど前のことか。作者の大瑛ユキオは、同誌 2016年 7月号に読み切り作品『シスコンじゃない』を描いてから商業誌へのマンガの掲載は無いようで、残念である。創作活動を続けているのかもよく分からない。
なお、以上のことは作者のブログからまとめた。こちらも現在では未更新であるし、いつか無くなっているかもしれない。
タイトルの「ケンガイ」とは「圏外」であり、いわゆるガラケーを使っていた人たちには馴染み深いキーワードだが、最近のスマートフォンでは「圏外」と表示されることは、ほぼ無いのではないか。同時に、作品掲載時の 2012 年時点でも既にスマートフォンは普及が進んでいたし、「圏外が、日常用語としてやや耳慣れなくなっている」という状況は、連載当時でもあったのではないか? とも推測する。まぁ些細なことだけど。
ついては、本作におけるケンガイとは「恋愛対象外の異性」を指す。こういう使い方が巷の若者たちのあいだで実際にあったのだろうか? これもよく分からない。これも些細なことのように思うが、もし作者の発明だとしたら面白いし、そうでなくてもやっぱり面白い。個人的にはこのタイトルに痺れている。
本作の主人公である伊賀君は、おそらくそこそこの大学に通っている(通っていた?)学生だが、特に具体的な目的もなく、就職氷河期も相まって明確な未来像が描けない。そんな折に彼はレンタルビデオ店でアルバイトを始めるが、そこの同僚である白川さんに惚れる。ところが、白川さんは職場のリア充系男子たちには「ケンガイ」な女子と揶揄されていた。ここでタイトルが回収される。
シネフィルの白川さんに近づきたい伊賀君は、映画を見ることを習慣化していく。本作冒頭、彼女の立ち話を耳にした彼は、言及されていた映画《エレファント・マン》を見ることにする。だが、彼にはこの映画のどこが白川さんの琴線に触れたのか、分かっていない。
生い立ちを含めた白川さんの人間性、抱える問題が徐々に明かされていくのであるが、つまり彼女は「エレファント・マン」に共感する側の人間だ。バイト生活にその日暮らしを重ね、映画を観るために人生を費やしている。映画を扱うバイト先であってもマイノリティー側であることに変わりはない。
一方の伊賀君は、マジョリティー側に所属しそうな側の人間なのだが、白川さんに惚れてしまっては仕方がない、恋の力は無限なので。職場においてはケンガイとされる彼女を、逆に、自分自身を彼女の圏内に置くために試行錯誤するのだ。かっこいいではないか。実際に伊賀君のとる手順や態度、考え方はだいたい真っ当で、単純に好青年なのが、むしろよくできている。つまり彼も、生きるのが下手なんだよね。
ストレートにアプローチする伊賀君、アプローチを正面から受け取れきれない白川さん、という状況が続く、が、さてどうなる。全 3 巻という比較的コンパクトなまとまりになりつつ、破綻も後腐れもない終わり方は見事だ。
恋愛作品というよりはセラピーというか人間関係の修復という面もあるわけだが、作中で引用された《エレファント・マン》の当該シーンと台詞を本作にどうやってパラフレーズしていくのかを考えたりすると、楽しい。
という感じで、オススメしたい作品だ。
伊図透の『銃座のウルナ』全 7 巻を読み終えた感想を残す。完結したのは 2019 年の 3 月(最終巻の発売)で、私は 2016 年 3月に 1、2 巻を読んでから新刊の発売とともに 2018年 3月の 5 巻まで追っていた。その後、6 巻と 完結巻の 7 巻までが出ていたことは知っていたが、ここまでの時点でなぜか買うのを躊躇っていた。今回はカドカワの Kindle セールのタイミングで読んだ次第だ。この記事の初稿は 8 月に書いている。
普段はネタバレ上等という感じで肝心なところの内容もガシガシと書いているが、なんというか本作はそのような気分にならないので、ほのめかしばかりの汚い文になった。いつも汚い文であるからして趣が少しだけ異なるというだけだけど、読む人がいたら許してほしい。
さて物語だが、寒さの厳しい戦地に送られた女性の腕利きスナイパー、主人公のウルナである。タイトルの通りだ。戦争というか、よくわからん僻地で小競り合いをしているらしい。状況も把握できないまま、どこから本作の特徴が出てくるのかと読み進めていくと、そこには対抗している蛮族とされるヅード族、彼らのビジュアルに特徴があった。彼らは蛮族というか、造詣が人間とかけ離れた、異形の怪物なのである。まぁヤバい。こりゃ退治せにゃならん!
伊図透の描画がもたらす印象には、宮崎駿や諸星大二郎のような繊細さがある。なんともいえない浮遊感のあるフワッとした線だ。これがヅード族の怖さをうまく表していた。そうではあったのだが…。
その僻地での戦闘も、ウルナの活躍によって 3 巻で終わった、のかな確か。そうすると舞台は一転して地元に戻ったウルナについて、4、5 巻と幸せとも覚束ない彼女の生活が描写される。どういうことか? 全 7 巻です。ざっくりと言うと、僻地での異形との戦闘はあくまで前振りだったのでした…。どういうことか?
ところで、というわけではないのだが、最終巻について Amazon に星 3 のレビューがあって、引用はしないが内容は「まぁね、同意しないが気持ちは分かるよ」というコメントであった。私が 6 巻にすぐに手が出せなかったのも、彼とおそらくは似たような感覚による。「あの戦争はなんだったのか」というような不安定な気持ちの切り替えが、読者として割り切れず、そこが本作の少しの難しさかもしれない。
だが振り返ってみると、そういう読者としての置いていかれた感覚が、そのまま登場人物たちが抱く戦争と生活に対する漠然とした感覚とリンクする。
リンクしたのではないか。
さて、ヅード族の異様さ、ところが何となく愛着を感じさせる様子、もしくは彼らとウルナ達との交流(とも呼べないようなそれ)もあったのかもしれない。前半の前振りの作用の仕方が、気がついてみれば割とありきたりな話(設定)とも思われるが、どういうわけか、あまりにも驚かされた、こういう話だったのかと…。
タイトルでもあり主役でもあるウルナの運命や決断は、言うまでもなく主題として物語りを牽引しているのだが、なんというか全体感としてはウルナッー!! という感じではなくて、群像劇というほどでもないし、個別の人間関係にフォーカスして思いを抱く気分にもならず、読後感としてはちょっとした爽やかさと、それに随伴する後ろめたさとが表裏にあって、なかなか得難い体験であった。
この感覚は、端的な形容詞で表すと「切ない」がもっとも近いような気もしたが、その切なさがどうやって紡がれているのか、どういう理路によって生成されるかも、良い意味でハッキリしてこない気がしている。そう結論した方がいい気分である。
あるいは戦争文学、映画などに類するような虚無感や寂寥感が同居する、と言ってもいいのかもしれない。まぁ、戦争を扱ってる作品なので、当然とも言えるのだけれども…。逆に言えば、コミックでこの感触を残すのは凄いのでは? とも思え、似た作品で同じような読後感の作品はちょっと思い当たらず。
この感触を味わいたいタイプの人間には、とてもよい作品だわね、という感じでオススメしたい。
Kindle Unlimited に収録されているコミックを漁っていたら『けずり武士』が異様におもしろく、ビックリした。湯浅ヒトシというマンガ家を知らなかったことを悔いる。Wikipedia には個別のページもなかったので、さまざまに転がっている情報をかき集めるのみである。一応、主な発刊作品は以下のようであるらしい。なお、おそらく『B級探偵』以降の作品は Kindle Unlimited で全巻が読める状態となっている(本記事執筆2020年10月5日時点)。
- 『田舎刑事』(1986?)
- 『凶獣よ荒野へ』(1987?)
- 『次太郎部屋住録』(1888?)
- 『田舎市長』(1989?)
- 『左京SAKYO』(1990?)
- 『B級探偵』(1990?)
- 『ホイッスル』(1993-1995?)
- 『かぶきの多聞~大江戸痛快時代劇~』(1996?)
- 『耳かきお蝶』(2005-2008?)
- 『けずり武士』(2011-2012?)
- 『空拳乙女』(2012-2013?)
上記は、 まんがseek の湯浅ひとし のプロフィール および Amazon その他の雑多な書籍情報から集めた内容および類推(誤記らしきものの修正)なので、まったく出鱈目になっているとは思わないが、必ずしも正確な内容ではない。
また、まんがseekに拠ればデビューは 1975 年とのことで、途中までは兼業作家だったのかな。さらに生まれは 1956 年で今年で 64 歳になるようだが『空拳乙女』以降に作品を出しているのかも不明で、ただ残念である。なお、『耳かきお蝶』以前は「湯浅ひとし」名義であったようで、以降は「湯浅ヒトシ」としたようだ。
「かぶきの多聞」以降に時代物(江戸から幕末、明治維新までかな)に本格的に着手されたようで、時代物についていえば現時点で『耳かきお蝶』と『けずり武士』を読んだ。『けずり武士』がタイトルを「削り節」と掛けていることからも察せられるが、時代に翻弄される浪士たちを描いたシリアスな本筋に、江戸当時の食文化が丁寧に絡んでいる。
この塩梅が絶妙で絶品なのよ。説明も難しいし、これ以上ここでは触れないが、とにかくよい。
ところで、時代物のコミックも、史実にオリジナルを混ぜ込みつつ、考察の余地というか学習マンガのような側面が明らかに認められるタイプがあるように思われ、いうまでもなく『風雲児たち』を念頭に置いているが、これらを「歴史もの」呼ぶなら、『けずり武士』をここに括るにはやや大胆か。これらのサブジャンルの分類って確立してなさそうだけど、熱心なファンおよび研究者とかどれくらい居るんかね。
その他は『空拳乙女』、『ホイッスル』を 2 巻まで読んだ。どちらもおもしろい。それ以前のどちらかというとハードボイルドっぽい内容?、および絵柄の作品はまだ読めずにいるが、機会を見て読みたい。
段々と話がずれていっているが、「ひとし」という名前のマンガ家というと岩明均を忘れてはならない。こちらは生年が 1960 年ということで湯浅ヒトシとは 4 歳差か。大雑把に同年代と括っても問題はないだろうか。60 歳代のマンガ家というとどの辺なのかなと思いあたる作家を調べると何だかんだでいろいろな発見がある。おそらく週刊少年サンデー最盛期といっても過言ではない時代の作家さんたちはこの年代が多いのではないかな。こち亀の秋本治もこの世代か。
《テネット》を観た。クリストファー・ノーラン監督の作品は、《インセプション》(2010)、《インターステラー》(2014)、《ダンケルク》(2017)は観たが、特にファンというワケでもない。《ダークナイト》(2008)は配信で視聴したが、途中でリタイアしている。なんだかんだで《インセプション》が 1 番好きかな。
断然、劇場で観たほうがいい作品が多いだろう作風で-消極的な意味でも、本作も漏れないというか、少なくともここまで鑑賞した作品のなかではもっとも攻めている。
ここまでやるのか!? と笑ってしまうシーンはいくつかあった。いやー、おもしろいっすけどねぇ。鑑賞中に思い当たった大枠での大雑把な印象としては、今回は 007 ばりのスパイアクションをゴリゴリの SF 味でやりたかってんなというのと、全体感として監督の姿勢と売り方、観客の取り込み方はなんとなく新海誠に似ているな、というくらいだが、これらは内容とはほぼ関係ない。
本作、展開が「まったく分からん」という人には残念だが仕方ないと言うしかないし、「なんとなくは分かった」「大体わかったって人」はそれで充分なんだろう、と思う。私もモヤモヤしている。時間を逆行するという設定がどのように展開に作用するのか、という説明らしい説明はほとんどなく、おそらくさまざまに現れているであろう設定上の矛盾も、気にしてもしゃーないっしょ、となるくらいの勢いである。
まぁ SF に限らず、フィクションって突き詰めればそういうもんや。
本当の主人公は誰なんや
ジョン・デイビッド・ワシントンの演じる「名もなき男」を主役として物語は展開する。彼はいわゆる CIA に雇われたエージェントとして世界の破滅を阻止するために、世界中を駆け回ることになる。そういえば、中国という存在がからっきし無視されているのは最近の映画にしては珍しい。これは大分に意図的なのかねぇ。
話は彼がいないと回らないわけだが、なんとも釈然としない。いや、別にいいんだけども、いかんせんプロット上で計算されて名前も与えられていないわけだし、プロフィールも無に等しいので、この作品は少なくとも「名もなき男」に感情移入するようには作られていない。別にそうなっていないからダメという話ではないが、留保。
で、身も蓋もない話をすると一応はヒロイン枠のキャット(エリザベス・デベッキ)と、悪役でありキャットの夫として登場するセイター(ケネス・ブラナー)のごくパーソナルな愛憎こそが本筋めいてくるのではと思ってしまう。
このように私が思ってしまった原因だが、感情移入という点も然ることながら、クライマックスの展開において、何が起きているのかが分かりやすいのがこの 2 人の駆け引きのシーンに他ならないからだ。身も蓋もなくて申し訳ない。
なんなら印象的なのは、中盤あたりのキャットの台詞が最後のギリギリで回収される描写であって、本作は基本的にはタイムパラドクス的な作用は小さめ(あるいは起きえない)になっているのだが、ここの関しては、遡行による手続きが生み出した、彼らの中期的な運命を決定しかねなかった(どう作用したのかはキャットのみが知る)内容につながるアクション-もといリアクションが映る。
キャットはセイターに息子を人質のようにされていたわけだが、息子は姿や陰こそみせることはあれど、顔や表情などはほとんど映さない、不自然とも思えるほどに。当然のように台詞もない。キャットと息子という分かりやすい関係も感情移入の対象として最小限とされている。
そんなもんで、繰り返しになるが、本作で感情らしい感情を吐いているのはキャットとセイターくらいで、感情の向く方向も双方にしかあり得ないのだ。とはいえ実のところ、この 2 人の感覚というのも、感情移入しやすい代物ではないのだが。
世界を道連れにする男と女
まずはセイターだが、ソ連の出身地で未来人から自分に向けられたメッセージを受け取る。いわく、別の未来人が同時代に埋め込んだ、世界を決定的に巻き戻すツールを完成させ、実行せよと。
対価として巨万の富を得るが、そもそもの彼の人間性、および膵臓癌が寿命となることが運命づけられているというルートによって破滅を実行することになる。
自分がしょうもない死に方をするくらいなら世界を丸ごと道連れにしてやろうというアナーキーというか退廃的な思想は、どこまでも自己愛的でしかないわけで、いや、こいつに同情するのは無理でしょ(笑。とはなる。
同じようなラインの感想として、悪役としては小物すぎるというコメントを見かけたが、逆に言えば、世界を巻き戻して破壊するなどというのは、ごくパーソナルな破滅と直結しない限りは描写しえないと監督は踏んだのではないか。
あらためてキャットについてだが、まず画家との関係がよく分からん。なんなんや。まぁどうでもいいけど。
えーっと、キャットがセイターから暴力を受けるシーンをネガティブに捉えてたコメントをいくつか散見した。つまるところフェミニズム的な観点であったり、ノーラン監督の作風に関しての視点だったりする。これらの視点が問う問題は言うまでもなく在るはずで、私も鑑賞中に嫌な気持ちになったり、-嫌な気持ちと同じくらいハラハラさせられたりしたが、なかなか難しいところではというのが意見で。
なんならクライマックスでキャットがセイターに対して復讐のように、まさしく復讐として死を与えるシーンというのは上記の暴力シーンよりもよっぽど猟奇的で、そこにはセイターが世界を滅ぼす悪だからいいでしょ、という言い訳は成り立ちづらく、やはりごくパーソナルなのだ。そもそもタイミングを間違えたら世界を破滅させていたのはキャットなので。
であるからして、割とおもしろいのは、これもありがちではあるが、世界の存亡と或る夫婦の愛憎が紙一重になっている点だ。
つくづく、セイターとのやり直しを考えていた時期のキャットが目撃したデッキから飛び込ぶ女の存在が、そのキャットの心情の行く先をどれくらい左右したかは定かではないが、それは運命的に、そして文字通りセイターとの離別を示していた。この点がどうしても心残りだ。
私にとっては、テネットとは、そういう話であった。と書いたことを読み返していたら、やっぱり新海誠じゃん! とか、これ、セカイ系じゃん! みたいな気分になってきたが、Twitter をみてみるとこの類の感想も散見されるので自分の想像力の弱さにゲンナリしてしまった。
汝、早送りは不可能なりか
突っ込むのも野暮だという設定まわりだが、一点だけ気になっていることがある。それは「遡行開始時点にピンポイントで戻ることができるか否か」なのであった。まずか回転機構の確認からしたい。
回転機構に入って、出ると遡行時間の流れの中で行動できる。これは分かる。回転機構に入るときは、必ず反対側に設置された同装置から出現する自分を確認するようにルールづけられており、まぁこれも分かる。
目的のポイントまで遡行したら再度、装置に入ることで順行する。これも分かる。とはいえ、このとき順行側から出てくる自分を確認することはあるのだろうか。それがまずよく分からない。逆行から順行に戻る描写は、クライマックスのニールのシーンでは描写されてたのかな? その他の要所でもここは省かれて描写されていたように記憶している。
関連して「本作はタイムトラベルではない」とか「多元的な世界-いわゆるタイムパラドクスは採用しない」とかいうコメント(真偽はしらぬ)を散見した。
前者はまあわかるのだが、後者はどうか。少なくとも最新時間からは自分はいなくなっているはずで、巻き戻しから到達する最新時間は遡行者の介入のなかったはずの未来から僅かずつ異なっていくのでは? あるいは、さんざん取り上げたがキャットの心情を決定づけた展開と状況をどう説明するか。
でまぁ、特に関連もない新たな疑問を広げてしまったが、気になっている一点は、おそらく不可能で、元いた時間(巻き戻しの瞬間)に戻るためには同じだけ時間経過をたどる必要があるだろう。そうなるとよほど時間遡行を計画的かつ慎重に実行しないと、同一時間内が自分だらけにならないだろうか。
また、特にタイムパラドクスがないという観点を主軸にした場合、タイムトラベルと違って自分が実行しないことは起きえないはずなので「未来の自分がやってくれる」みたいな希望的、信念的な時間感覚は採用されないと思っていいのかな? これは。設定の性質上、通常の時間トリックの SF よりやたらと忙しく、おそろしく時間を費やすイメージがある。まぁ、よくわからん。ただ、時間を操る代償としては分かりやすいか。
しかし、設定こそ異なれど、やはり「ドラえもんだらけ」が如何に秀逸な作品であったかが再認識させられるものである。さて、いくつか解説記事で読んで理解を深めたりしたが、関連作品の参照先としては以下が参考になった。さすがの大森望である。