映画《アルプススタンドのはしの方》を観た。原作は戯曲・演劇だそうで兵庫県の、県立東播磨高等学校の演劇部顧問、籔博晶氏による作品らしい。それが人気を博し、世に広がった末に映画化となった。このような成り立ち故というか、本作の特徴だが、甲子園の 1 回戦を応援する状況を描きながらフィールドは一切登場しない。

あくまで「アルプススタンドのはし」が主役なので映るのは、ほとんどそこのみだ。ロケに使われている球場はあきらかに甲子園ではないのだが、Wikipedia によれば交渉はされており、実現しなかったようだ。残念やね。キャストも高校生役であることも前提になるが、若手主体で新鮮だった。ちょっと高校生を演じるにはどうなのという雰囲気も序盤にはあったが、まぁ些細な問題か。エンディングのための含みもあったのだろう。

コメディっぽさ、それこそ舞台でみるような小ネタの挟み方もあり、登場人物たちの高校生ならではの青春のアレコレもあり、そこそこに楽しめた。予算も小さいだろうし、ちょっとしたいい話というスケールの話だが、こういう作品を鑑賞する機会が年に何度かあってもよいなぁ。ポテンシャルを感じさせられる。

大きなファールが飛んでいく、飛んできたときの間の長さ、目線の方向がトンチンカンに映ったのが気になったけど、これも計算の範疇ということなら文句はない。あと、映画版のオリジナル脚本らしいが、茶道部に全国大会なんてあるのか? という疑問がひとつ。

もともと縁のある(同じ演劇部の)安田と田宮、そこに元野球部の藤野、孤独な成績上位者の宮下を加え、本来は仲良くなるはずもなかったであろう 4 人が試合の終盤には打ち解けているというのは如何にも青春っぽくてよい。オチの回収もオリジナルなんだろうけど、おもしろかった。

前述のオリジナル脚本の展開を頼れば、このあとも 4 人は近からず遠からずよい友人関係を築いていったのかなという推測も成り立って、清々しい。

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《映画ドラえもん のび太の新恐竜》を観た。映画ドラえもんシリーズに私が復帰したのは、2 作前の《映画ドラえもん のび太の宝島》からであった。それは新海誠とタッグを組んだ川村元気が脚本した作品であって、今作も「のび太の宝島」以来の 1 作ぶりの脚本として川村元気が担当している。同じく、監督も「のび太の宝島」の今井一暁ということだ。

普段、感想を残すときはなるべく心に残った良い点を、気になった点があれば自分なりに消化できる解釈を残そうと心がけてはいるが、思い入れのあるシリーズだけにどうしても心残りも多い。まぁ、よかったなと思った点からあげていきたい。

よかったなと思った点

ちょっと近未来を感じる広告スクリーン

冒頭の恐竜パーク、のび太がティラノサウルスにビビって騒いだ顛末でカメラが施設の天井方向に移るが、そこにある曲面スクリーンには夏の清涼飲料水の広告が流れていた。おそらく実現可能な設備で、新宿のヤマダ電機の施設に付いてるスクリーンのようではあるが、こういう近未来感を感じさせる描写はおしなべて好き。サイバーパンクというか『ドラミちゃん ミニドラSOS!!!』を観たときのワクワク感に近い。

豆腐売りとスマートフォンの合わせ技

リヤカーを曳いた豆腐売りが夕方に野比家前を横切っていくカットがある。設定は練馬区だったと思うが、さすがに現代には居らんやろ。いるのかね? 練馬には。まぁいい。その一方で、公共の場で異変が発生すると通行人がこぞってスマホで撮影するシーンが出てくる。完全にワザとなんだけど、時間-時代の感覚を揺るがせてくる。

これが本筋の展開-恐竜時代へと遡行するストーリーへの記号的な伏線として描写されているなら細やかながら面白いけど、誰が気がつくのか、誰が気にかけるのかという疑問も湧く。だがまぁ、誰かが気がついたら面白いよなと思うし、こういう表現は嫌いではない。ただまぁ、豆腐売りが日常空間に存在した世代って、本作のメインターゲットとなるキッズの親世代でもなく、もっと古いよな。

タイムマシンやっぱりカッコいいわ

そもそもが「のび太の恐竜」のレールに乗ったストーリーであり、双子の恐竜の育成物語にも感じたところも特になかったが、タイムマシンに乗り込んで過去に移動するシーンは個人的には盛り上がった。というか、全体でいえばピークだったような気もなくはない。

すんなり移動できずに、やや時空の乱れみたいなのに巻き込まれるところもよいし、ドラえもんのタイムマシンの表現のスタンダードからはちょっと離れた、途方もない時間を遡ったという雰囲気の、目的時間への到着時の描写は特に好きだ。

「魔界大冒険」や「日本誕生」でもそうだが、やはり時空間という異次元の特殊さが、メインではないにせよキッチリ表現されて生かされているのは気持ちがいい。

ジャイアンとスネ夫のコンビは良し

映画の原作(大長編ドラえもん)があった頃から、ジャイアンとスネ夫が-あるいはしずかちゃんのケースも-別行動をとることがある。本筋を解決するためのヒントを別ルートで回収したりといった展開が多いけれど、なんのために別々になったのかよく分からないシナリオに収束していることも少なくない。

今作はこの操作が割とうまくいってたという印象があり、ジャイアンとスネ夫の掛け合い自体も笑えた。ジャイアンの体形のデザインがかなりデフォルメがかかっており、カートゥーンっぽさすらあったのも、いろいろと動かすための工夫の末だったのだろうと。

気になってしまった点

OPが無いでない EDが地味でない?

前作の OP が非常によくできていただけに残念だった。OP がカットされた理由はよく分からないが、尺の都合だろうか。 TV アニメの OP が新恐竜仕様になったとのことなので、兼ね合いもあったのだろうか。かなりガッカリした。個人的には本作最大のマイナスポイントです。

加えて ED が地味ではなかったか。本作はかなり強くキッズ向けに振っているように思えるのだが、ちょっと思わせぶりなだけの、のび太が1人で迎えるラストといい、地味な ED といい、他の箇所にも言えることだが、ところどころ妙に大人向けというかキッズ向けに徹せていない点がある。ED のあの描写、脚本家からはあの作品を連想してしまうし、好みではなかった。ワクワクの終わったあとの余韻が欲しかった。

突然に逆上がりの練習をするな

双子の恐竜の片割れの運動神経が悪い。彼がのび太の分身で、彼の成長と別れまでが描かれる。キッズ向け映画の典型とも思わないが、のび太の葛藤や問題の解決法もピンとせず、悪い言い方をすれば子供だましではなかったかなとも思う。

たとえば恐竜が飛べるようになるまで僕が指導すると言ったのび太だったが、その方法というのは「とにかく頑張れ、みんなできてるのにできないはずがない」みたいなメッセージに基づく、悪く言うと根性論っぽい、反復練習のみだ。こんなのは、現実社会において延々と批判されていたメンタリティ、メソッドそのもので、それこそ本来ならのび太が正面切って反抗してきた対象でしょ。

こういうのをキッズに見せるの? なんなんコレ、という。

お前はどこのピー助じゃい

これは完全にファンサービスなんだろうけど、少なくとも原作映画か 2006年版の視聴者向けというのは確かで、やはりターゲットの軸がよく分からない。14年前の映画を予習済みのキッズ向けということなのか。

また、もともと考えても仕方がないドラえもんの世界観の整合性に、さらに余計なノイズを与えられたのも気持ちよくはないが、これは完全に良くないオタクのやっかみではある。

タイムパラドックスはどうした

同じ藤子・F作品ではあるが、ドラえもん原作には採用されていない道具が登場する。そこはいい。それにしたって、せっかくここまで話を単純化したというのにギリギリでタイムパラドックスのややこしい話題を持ち出すのは厳しいし、当該道具の効能も、あの説明だけでは大人でも分からないだろうし、ことさらキッズにはチンプンカンプンだろう。

ついでは、どういう意図か分からぬが、ざっくり言って「竜の騎士」のストーリーをなぞった展開が披露されるうえ、どうしてそれが許容されるのか、タイムパトロールの対応も疑問だらけで設定がガバガバになって終わる。

どうにもこれは「すこしふしぎ」の範疇ではないような気がしてしまう。

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大林宣彦『海辺の映画館 キネマの玉手箱』(英題:”Labyrinth of Cinema”)を観た。恥ずかしながら同監督の作品はいずれも未見で、今回も特な思い入れなく、そもそも映像の超大御所という認識もなく、マンダムの CM の演出を手がけられていたことは分かったが、『時をかける少女』こそ知っているが未見だし、それ以外のお仕事も分からない。

想起された作品

というワケで何も知らずに初見の視聴者としては、おそらく御多分に漏れず作風に早々に面食らったが、序盤の終わりの頃には夢中になってしまった。まず感触として連想させられたのは、今敏監督のアニメ映画『千年女優』(2002)で、メタ映画という視点とその扱い方が似ている。

次いで寺山修二の映像作品で、本作の冒頭に「映像」「純文学」というメッセージが発せられたこともヒントになったが、ミュージカルあるいは実験作品のような切り回し、詩の引用などが自由でいて綿密で-中原中也はあまり好みではないのだが-唸るしかなかった。早逝した寺山修二のほうが 3 歳上ではあるが、ほぼ同世代なのだな。Wikipedia によれば一緒に仕事をしたこともあったらしい。

映画って本当にいいものだ

身も蓋もないけど、映画って総合芸術だなという一言に尽きる。監督の自伝的なストーリーと反戦メッセージが、用意されたシチュエーションにおいて二重三重と言わずに繰り返される。幕末から明治維新、太平洋戦争における各局面を取り上げ、実在の人物を登場させることでドキュメンタリー性を強めて独特の重みを強めているが、主役 3 名の適度に軽い演技がエンターテインメント色をよい具合に添える。

というように、ストーリーの重さ軽さも、プロットの運びのテンポも、一本調子ではとても厳しいだろう作品の全体像を、絶妙な脚本と演出で凌ぐ。ちゃんとエンターテインメントにしてる。「この作品の台本ってどんなんなってんだろ?」って映画を見ながら初めて思ったかもしれない。

大雑把な印象

主役は厚木拓郎(馬場毬男役)、細山田隆人(鳥鳳介役)、細田善彦(団茂役)の 3 名だ。厚木拓郎は監督の自伝作『マヌケ先生』(2000)にて同役で(監督の分身)、今作もその文脈を汲んでいるようだが、彼自身は普段は映像よりも舞台、コントの俳優らしい。それらしさはあった。細山田隆人は監督作品の常連のようだし、TV ドラマなどにもよく出演してるみたい。だが知らない。細田善彦は『羊の木』(2018)に出演とのことだが記憶にない。

対応するように 3 名のヒロインがおり、謎の少女:希子を演じる吉田玲、成海璃子(斉藤一美役)、山崎紘奈(芳山和子役)が居る。もう 1 人忘れてならないのは、キーマンとなる女性に常盤貴子(立花百合子)か。希子を除く 3 名の役名は、やはり過去作品からとのことだ。

ストーリー全体としては、馬場毬男と希子の数奇な運命がベースに敷かれているが、要所で団茂と一美、鳥鳳介と和子、それぞれの愛と悲劇が挟まれる。さまざまな時代の苦難の中で、虚実入り混じった物語が展開されるが、団茂と一美の悲劇がもっとも印象的ではなかったか。ちょっと戦争というテーマから脱線気味なんだよね、このエピソードだけがそうなっていはしないか。

もちろん悪いことなくて、小さな岬でよりそう 2 人が妙に映えていて、そんななかでも私は背景が 1 番好きだったな。チープなようでいて幻想さをうまく演出していた。というか、役柄上の都合もあるのだろうが、設定的には主人公は毬男のはずなのだが、主に物語を動かしていたのは団茂と言っても過言ではなく、これは制作の途上で花開いていった部分も大きいのではないかなと思える。細田善彦への以下のインタビューは面白かった。

テーマと映画

メタ映画であることは述べたが、テーマとして反戦であることは無視できるわけない。本作の本当の上映開始予定はもっと早かったらしいが、奇しくもこの時期となってしまったことに運命があるのかもしれない。

映画が大好きで大好きでたまらない監督が、自身のテーマとしての反戦をエンターテインメントのなかで語るという矛盾はあって、ここを深堀しても仕方ないことで、これは宮崎駿などにも言えることだが、どうすべきかしらん。

本作としては「観客にもできることはある」というメッセージを提示することで、映画-純文学でもいいが-つまり、フィクションから現実へ働きかけるチカラを信じるという作家の魂が突きつけられている。オーソドックスな話ではあるが、これを一笑に付すことはできまいなぁ。いや、まぁ雑なまとめ方だけど。

希子について

なかなか難しい。そもそも大林監督はホラー的な表現が好きだったという記述を目にしたのだが、フィルム上で焼けていく希子のカットが繰り返されるのは印象強い演出とはいえ、あまり気持ちのいいものではない。いや、気持ちの悪い感情を植え付けさせる目的であるから成功しているのだが、しかし。

同じように、座敷童子の扱いがある。物語の序盤から説明付きで画面に登場する座敷童子は、中盤、終盤にも幕間のカットで登場する。この座敷童子だが、説明と違い、何やら怪しい存在として機能している。ただ、そんな理由のためだけの存在なワケはない。どういうことか。なるほど、座敷童子は作品の中からの作品の鑑賞者なのかもしらん。

その他のことなど

細田善彦のインタビューもおもしろかったが、以下の常盤貴子のインタビューも面白いな。ちょろっと出演していた稲垣吾郎に関してもそうだけど、監督は口約束をちゃんと守ろうとするんだなぁと。出演俳優のインタビューがあったら、できるだけ読んでいきたいね。

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2020年 8月の Amazon Prime に『七つの会議』がラインナップに加わった。

シーズン 2 が放映中のドラマ『半沢直樹』との相乗を狙っているのか、このタイミングを逃す手はない。本作との関係としては原作が池井戸潤、監督(演出)が福澤克雄であることが重要で、内容に繋がりはない(同原作の『下町ロケット』も同監督によって映像化されている)。

いずれの原作も私は未読だが、半沢の 1 シーズンは楽しんでおり、映画『祈りの幕が下りる時』(2018)で福澤監督のファンになったので『七つの会議』は映画館で鑑賞した。

福澤克雄だが、ドラマ『3年B組金八先生』の第 4 シリーズから演出に参加しており、私は 第 5 シリーズ、第 6 シリーズは視聴していたので、この時点で出会っていみたいだ-当時は演出に興味など欠片もなかった『祈りの幕が下りる時』で好きになったのは、劇中に登場した遠景のカットが心地よかったからである。

豪華なキャスト

監督にまつわる話となるが『七つの会議』では主な出演者が「福澤組」-という通称が通用するのか知らないがネットメディアの記事で見かけた-で固められている。本作では、香川照之、及川光博、片岡愛之助、北大路欣也などだ。説明するまでもなく、半沢シリーズにも登場する面々で、もはや作風と言っていいレベルの枠組みが整えられている。ここに主演の野村萬斎が加わるという贅沢さである。

その他の出演者も豪華で、橋爪功、小泉孝太郎、吉田羊、役所広司、土屋太鳳などがいる。橋爪功こそ登場シーンは多かったが、小泉孝太郎以下の 4 名は、ほんの少しのシーンの数カットにしか出てこない。よく出演したものだと思うが、それだけ魅力的な作品だということだろうか。こちらも贅沢である。

好きなシーン

ここでは好きなシーンを個別に列記していく。

工場

登場するトーメイテックという会社、およびその工場だが、北関東は群馬県の前橋にある設定となっている。映像としては高崎線沿いの道路であったり、工場の空撮映像であったりだが、これがいい。関東平野の平べったさが存分に発揮されている画作りだ。

同工場の部品倉庫もよく、卸用の管理倉庫なのでやたらと広い。作中では営業一課の浜本(朝倉あき)がここを駆け回り、主人公の八角(野村萬斎)が速歩で彼女らを追いかける。まぁなんてことないシーンではあるのだが、倉庫の広がりと奥行きができるだけ感じられ、なんてことないシーンなりに緊張感がある。

墓参り

とあるシーンで八角が墓参りをするが、お話の筋的にこんなところにお墓を建てるような登場人物か? という疑問が浮かぶ。ところで、そんなことはどうでもよくて、いわゆる墓地でこのシーンを撮影するよりも、よっぽど画面映えするのである。青々とした稲を風が撫でていく田園風景は最高に気持ちがいい。

会議室

クライマックスに登場する会議室、やたらとデカい。この部屋を、およそ 8 人という少人数で使っている。対面した座席間は人数に比してバカみたいな距離になっている-もちろんそれも狙いだが、相対者同士の心理的な距離感の演出とともに、一種のマヌケさすら匂わせている。

八角を含めた同社の 4 人が横に並んで着席しているのを正面から移したカットが本作で 1 番好きだ。そもそも八角の所属する東京建電内での対立が描かれていた前半から、今度は彼らの一団が親会社と対峙することになっている矛盾がこの 1 シーンにバシッと収められている。『赤ひげ』の食事シーンすら思い出した。

ちなみにこの会議室は、埼玉県さいたま市中央区保健センターの会議室らしい。 さいたま市ホームページの貸し出し実績 にも掲載されている。本作のロケ地については調べると多くが割り出されているので、おもしろい。上記の工場、およびその本社も、設定とほぼ同じ場所にある企業の施設を利用しているらしい。

歌舞伎と狂言

半沢シリーズの視聴者が「この演技はもはや歌舞伎」みたいなことをツイートしているのを何度か目にした。実際のところ、本作でも香川照之と片岡愛之助(前者は紆余曲折あるが)は、歌舞伎俳優だし、今期の半沢シリーズには他にも歌舞伎俳優が出ているらしいではないか。

『七つの会議』のキャストにおいては、主演の野村萬斎の本職は狂言界の俳優だ。終始に渡って怒気を発する香川照之や片岡愛之助の役に比して、野村萬斎の役はヒョウヒョウとして彼らの怒りを逸らしていく。いずれの文化にも詳しくはないが、歌舞伎は大仰な演技、立ち振る舞いが根幹に、狂言はそもそも喜劇を主にした笑いが根幹にあるという。であれば、配役の意図はこの点にもあるはずで、面白い。

定番の福澤組の為す演出のなかに混じった野村萬斎の存在は、序盤こそ違和感の塊でしかないが、少しずつシリアスさを増してくる内容に、紐解かれていく謎に、それに見合った演技を加味していき、最後には等身大のサラリーマン-あくまでも理想のヒーロー像としてではあるが-に収束していく。なんとも気持ちがいい。

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なんとなくアクションゲームをプレイしたくて、Switch の新作ゲームを漁って見つけた『タイムスピナー』をプレイした。コンシューマ、特に日本国内の配信では新作だが、PC(Steam)での発売は 2018 年であったようだ。

メトロイドヴァニア系と呼ばれるタイプの作品で、メトロイドシリーズよろしく右上に表示されたマップを探索し、少しずつ武装やスキルを増やして攻略していく。

「時間を織る」と言っていいのかしら、本作には紡績機にみたてたタイムトラベル装置が登場する。この装置は、登場人物たちの超常的なパワーを介して機能するので、 SF やサイバーパンクというよりは、マジカル寄りな設定だ。

いたって普通のアクションゲームだが、装備したオーブの種類によって攻撃パターンに差があり、これらは使い続けることで各々のレベルが上昇して補正がかかるようになっている。こうなると使いづらいオーブを使うのが楽しい。そして苦しい。

ストーリーだが、時間を跳躍する能力を管理する一族と、それを追い求める一族などがゴチャゴチャとやる。主人公はゴチャゴチャをちゃぶ台返ししようと、原因を探し求め、クエストをこなし、暗躍したり、全然隠れずに戦ったりする。

道中で入手可能な各テキストから物語の全体像が伺える仕組みなのだが、ストーリーの芯への理解や感情移入が浅い時点で世界観のオリジナルワードが連発され、かつ日本語フォントが読みづらいのでほぼ飛ばし読みしてしまった。残念である。

とはいえ、話の大方は予想を超えるものではなく、内容もつまらないワケではない。王道こそおもしろい。特定のエンディングについては、ここまでやる? というくらいで、それは好みではないけど清々しい。こういうパターンの類型ってあるかな。

その他、LGBT というか登場人物の性の多様性が割と強めに主張されている面がある。メインストーリーではないが、はっきりと感じ取れるレベルにおいてのことだ。同時に、ところどころで下品なセリフ回しもある。バランスか? どういう?

ただのクリアなら攻略に難しさはなく、ざっくりしたプレイでも十分楽しめるが、一部のマップやアイテムなどは隠されていたり、分かりづらかったりする。以下のサイトにお世話になった。

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六本木は森アーツセンターギャラリーで開催されている《おいしい浮世絵展 ~北斎 広重 国芳たちが描いた江戸の味わい~》に行ってきた。リサーチしていたワケでもなかったが、ひさびさに美術館で浮世絵を眺めたいという機運が、Twitterに流れてきた広告に見事に引っかかり、行くことにした。

会期は 4 回に分かれており、少しばかり展示品に入れ替えがある。これは目録 PDF で確認できる。目録は上記リンク先の公式ページの[見どころ]の項からダウンロード可能だ。コロナ対策のためか会場では手に入らなかったので、目録必須の人は気をつけてほしいね。(2021年10月追記:公式ページがもう閉鎖されており目録PDFもないですね)

また、これもコロナ対策だが、日時指定予約が必要となっている。ということは必然的に人が減るのだ。混んでいないというワケではないが、作品をじっくり楽しむには十分な人口密度となっていた。

企画は「第1章 季節の楽しみと食」「第2章 にぎわう江戸の食卓」「第3章 江戸の名店」「第4章 旅と名物」の順となっており、その並びに無理も違和感もほぼなく、ワクワクが優った楽しい構成だった。展示品の制作年代の明記がなかったのは残念だったが、構成上の理由なのか、他に理由があるのかよく分からん。

出品元で目立ったのは「味の素食の文化センター」で、なるほど食文化という観点からは本展にびったしの収蔵元だな。高輪にあるらしいけど、知らなかった。

ほとんどが歌川派の作品で-まぁねぇ-、国貞(三代目豊国)、国芳をあらためて鑑賞できたのは収穫だった。サブタイトルには「広重」「国芳」がピックアップされているが、国貞が居なかったら成立しない企画でしょう。第 4 章の内容に応じて広重も多かったが、これは流石に何度も見てきたので慣れてしまった部分も大きい。

その他、北斎漫画からの出品で葛飾北斎、知っている浮世絵師としては溪斎英泉、勝川春亭、月岡芳年などが展示されていた。東洲斎写楽は、会期 2 と 3 のみとなるらしい。その他、歌川派や知らない方がちらほら。

あとは、『パリ・イリュストレ』誌の日本特集とやらに掲載されている喜多川歌麿の「台所美人揃」もみられた。これはその構図を国芳が「江戸じまん名物」というシリーズで取り入れている例の側面もあり、目の前でそれらの作品と比較できる。正しくそのままの構図なのであった。いいよね、こういう風にその場で比べられるのは。

登場する食品や食料、調味料には、寿司、天ぷら、果物、蕎麦、うなぎ、餅、豆腐、魚類、醤油、酒などなど。いずれも大衆化への道筋が示されていた点に企画の妙があって、たとえば寿司なら食酢の流通、天ぷらならごま油などの食用油の流通、蕎麦なら醤油や酒、鰹節などからのつけ汁の発達など、それぞれの事情がある。

個人的にもっとも興味深かったのは豆腐で、これはかなりの古来から日本に伝わっていたらしいが、江戸時代に生産が安定したためか庶民で爆発的に流通し、幕府はその量に制限を掛けたほどだという。

以下は気になった作品のメモなど。

『十二月ノ内 水無月 土用干』

第1章の展示作品。梅雨明けに着物を干す図という作品だが、女性らの足元にはキューブ上に切り並べられた西瓜(スイカ)がある。他の作品にも西瓜が描かれていることは少なくないが、本作はちゃんと黒い種、白い種と描かれており、面白い。

女性らの干す着物、纏っている着物の柄のパターンの美しさに国貞のよさが詰まっている。彼の作品で描かれる衣装の柄は決してひとつのパターンに収まらず、必ず 2 種以上を用いてくる。

『春の虹蜺』

第2章の展示作品。歌川国芳による、うなぎに纏わる作品ということでの展示。団扇用に制作されたようだ。以前に上野のなんかしらのイベントで見たような気もしてきた。「手元のうなぎ、空には虹」という図がおもしろいということだが、今回は見事に感化されてしまった。おもしろい。

『東都宮戸川之圖』

これもうなぎに纏わる作品で同じく国芳だが、風景画である。近景の水場の青と遠景の空と山の青が美しいよね。本展、国芳の割とオーソドックスな浮世絵が多かったのはかなり嬉しい。水場にいる漁師はうなぎを捕っている。

宮戸川というのは何処なのかなと思ったが、ググると落語の演目が紹介される。Wikipedia を読むと、現在の隅田川は浅草周辺を指したということらしいが、定かではない。

このほかうなぎ料理屋の厨房の作品もあったが、どの作品だったか失念。映画《居眠り磐音》を観たときに登場したシーンを思い出した。こういう浮世絵作品が参照されているのだなぁと。

『十二月之内 弥生 足利絹手染乃紫』

国貞による海の幸、貝を拾う、潮干狩りの図である。このような潮干狩りの図は、国貞の作品としてはいくつも類作があるようだが、本作は見立絵である点に特徴がある、と思われる。

上記のリンク内の説明に詳しいが、右側の舟に乗ってポーズをとる男が光源氏であるらしい。しかし、本展ではそこは割とどうでもよい。この図でおもしろいのは、蛸や貝集めもそうなのだが、浜辺には蕎麦屋や団子屋の出店が点在しているところで、しかも蕎麦屋においては店主が自分の店の蕎麦を食べてるっぽい。

『名所江戸百景 びくにはし雪中』

これも有名な作品だろうか。広重です。左手前に描かれた「山くじら」という看板、その意味は詰まるところ獣肉だそう。ここいらに有名店があったらしい。原則的には禁止されていた食物ではあるが、冬には重宝されたとか。

隣に展示されていた『両国夕景一ツ目千金』には、擂り鉢で調理される鍋の具材と思しき皿には、どうみても肉っぽい食材が鎮座している。画そのものとしては、左手の看板の配置がエグく、構図が良すぎる。

というなかで上記のリンクを読んでいたら、本作が最初に制作されたタイミング-安政五年(1858)には広重はコレラで亡くなっており、本作は二代目の作品なのではという見当もあるらしい。へぇ。

まとめ

ほかにも何点かいいなと思った作品があったが手元に目録もなかったので記憶だよりに探すのが疲れた。気が向いたら追加するかもしらん。

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2018年の韓国映画《はちどり》を鑑賞した。前情報をほとんど仕入れずに観たが、いろいろな映画祭で受賞した作品らしい。原題はハングルで《벌새》と表記する。冒頭、小さくこのタイトルが表示されたときは字幕がなく、意味を読み取れずに困惑したが、何を表すのかを翌朝になって気がついた。アホかね。

あらすじ。1994年、高度経済成長の最中の韓国はソウル市周辺が舞台とのことだ。集合団地の 10 階に 5 人家族で暮らす中学生の女の子、ウニが主人公だ。彼女は年齢の割には小柄だが、作中世界での登場人物たちの認識としてもそれなりに可愛らしい子として扱われているようだ。とはいえ、家庭内でも学校内でも居心地が悪く、友達も少なく、冴えないながらもクソ冴えないボーイフレンドは居り、そこは思春期の少女らしく、彼女なりに希望に繋がるようなスタイルを暗中模索して苦しんでいる。

ポスターで使われている彼女の顔のアップしか知らなかった段階ではもっと年上の人物の話かと思っていた。

家族

父母と兄姉に彼女という構成だが、とりわけ父は情緒が極端で、端的にそれが原因で家族内の不和は日常的だ。また、韓国、あるいは韓国作品によく描かれる長男信仰が存在し、舞台となる 20 世紀末は現在に比べ、なおさらその気は強かっただろう。ところで、韓国映画ならではの字幕における息子から父への発言の敬語の丁寧さがおもしろい。韓国語が分かれば、実際の具合も分かるのだろうが、どうなのだろう。

また、ウニにとって母は、かなり儚く頼り気がなく、信頼しづらい。夫との関係をはじめ、彼女は人生にいくつかの大きな後悔があるらしい。私は少なくとも 3 つのシーンでそれを感じた。そのうちの真ん中のシーンは、夢か幻か、悪夢のようなシーンで、これは冒頭のリフレインなのだろうが、母親とのコミュニケーションの不能というのは、こんなにも怖いのかとなる。

とはいえ、いずれにせよ、家族愛がたしかにあることはジワジワと、かつそれなりに明確に描写される。だが「家族の情があった、よかった」という情感で締めくくられるワケではなく、かなり繊細なバランスだ。ソファーに隠されたアレはよかった。

死の匂い

作中で登場人物が亡くなるのだが、もうね、予想通りの展開! とは言わないが、登場してからしばらくすると、この人物は亡くなるなと予感させられる。なんだろうね、別に特別にそのような描写があるわけでも、なにかしらヒントがあるわけでもない。「死の匂い」というクサい見出しをつけたが、そういう感じだ。別に本作がテーマとして生死を中心に扱っているわけでもなく、ただ物悲しい。

1 つだけ挙げるとすれば、記憶頼りなので定かではないが、背中からのカットが意識的に多かったかな。

ウニの挙動

ウニは気を許した相手にしか自分の右側-観る側にとってはウニが右側-に置かないようなイメージがあり、確かにそのように演出されていると思われる。記憶の限りでは彼女が気を許した模様のシーンは 4 つだ。自宅の一室で母とソファーに掛けているとき、後輩とカラオケに入っているとき、帰りの寄り道で先生とおしゃべりしているとき、同じく先生とソファーで並んでいるときだ。

右側というのは、ウニが耳裏に違和感を感じた場所であり、重ねて傷を創った場所でもある。こちら側を特定の相手にしか晒さないというのは、分かりやすい。立ち位置に同じくして、ウニの耳の出し方も明確に意識的に操作されているように見えた。

挙動と言えば、地団駄のシーンとそこからの差が印象強くて、好きだね。

何が描かれたか

ウニが成長したかと言われると首肯しかねるが、ラストの景色にはある種の自立や決意、旅立ちが読み取れた。そもそも母親との交わらない点を主にした家族関係の歪み、親友とのすれ違い、ボーイフレンドや後輩との捻じれ、それぞれの人間関係がどれくらい貴重か、あるいはそうでないのかをあらためて考え、確認するキッカケになったのは何だったのか。

そのキッカケはどれくらい実があって、本当に確実なものだったのか。もしかしたら、大したキッカケではなかったかもしれない。結局、そのキッカケがウニに何をもたらしたのか。そういえば、母とウニは第 3 幕にて、かなり独特な視点でようやく交差するのであった。とても皮肉なことではあるが、同じ類の虚無を共有した点で、やっとのことでウニは母を掴んだ、のかもしれない。

あと、私は姉の存在が効いていると思う。姉の彼氏がいいやつだという点で、作中における姉はその時点では幸福だし、それだけにウニに対しても余裕があり、親和できている。そもそも家族内で存在が一番近いという前提はあるが。

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たまに環境音を流したくなる。川のせせらぎだとか雑踏で耳に入るノイズだとか、そういった類だ。そもそもこの類のコンテンツの存在を知ったのは、藤子・F・不二雄の『ドラえもん』でスネ夫が環境ビデオなるアイテムを自慢するコマであった(コロコロコミック 40巻 「環境スクリーンで勉強バリバリ」)。当時は「贅沢だな」とも「本当に価値があるのか?」とも感じたが、オンラインでの動画鑑賞や高画質の映像の身近さが増すにつれて触れる機会が増えているし、実際に欲っする自分がいる。

環境音については、もっとも触れやすいのはラジオ放送だと NHK の「音の風景」が該当するだろうか(というか、この文脈で言えば『世界の車窓から』なども環境ビデオ型のコンテンツか)。ラジオ以外、スマートフォン登場以前の歴史はあまり知らないが、スマートフォンが登場してからアプリ型で環境音を提供するコンテンツがとても入手しやすくなったというのが個人的な実感だ。

それで、ここまでは完全に余談でした。

先日、あてもなく「環境音」でググろうとしたら、その日は間違えて「環境音楽」とした。こうなると別のジャンルで、この記事を書くにあたって知ったが、いわゆる「環境音楽」はいわゆる「アンビエント」を指し、これはブライアン・イーノの提唱した概念なんだな。といっても、明確に定義されているわけではなさそうだが、大雑把にいって本来的にバックミュージックとして機能するように制作された音楽、あるいはシチュエーションに応じて適当と選曲された楽曲のまとまりとか、そういったものだろう。というわけで、どういうわけか、以下の記事を読んでいた。

私は記事内のすべてのアーティスト、アメリカのアンビエントユニット Visible Cloaks も アーティストの 尾島由郎 も ピアニストの 柴野さつき も知らない。そもそも日本の 20 世紀末のシティポップが海外で再評価、再発見される流れは知っていたが、その流れに日本の環境音楽も乗っていたらしいことも知らなかった。そいで、『serenitatem』というアルバムを聴いてみたが、これが非常に心地いい。

電子音とピアノが交じり合いについて、演奏した柴野さんは、以下のように述べている。

私はピアノを弾いたけど、できあがるにつれて次第に、電子音と生楽器の音の境界線がわからなくなっていった。それがこのアルバムの質感だと思うんですよね。

https://mag.mysound.jp/post/451

まさしくといった感じで、大雑把に昨今の音楽制作やその環境においては、いずれに限ったことではなく認められる傾向ではあるのだろうけど、なんといっても心地いい。ここのところ、Spotify がセットした[Classical Meets Electronica]というプレイリストを聴いているのだが、これも似たような感覚で楽しんでいた。

環境音楽については、動物豆知識bot さんの以下の note 記事に詳しいようだ。深堀していくと楽しそうだが、私はそういう楽しみ方は苦手なのであった。

それで、ここまでは大分余談でした。

いい音楽に新しく出会うと、なるべく、もっといい環境で聴いてみたいと思うのが人情ではないだろうか。できるだけコンパクトに、安価で取り回しのきく環境が欲しいなと思い Bluetooth の スピーカーを探してみたが、外れのなさそうな無難な選択肢は、Anker か JBL 、SONY くらいしかないな。なんならサウンドバーでも検討してみてもいいのかもしれない。

本題は 3 文で終わった。

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私が頭脳警察のファンになったのは、20 年ほど前であったか、そのころは解散状態で活動は休止していた。頭脳警察名義のアルバムは 8 枚目の『歓喜の歌』まで出ていた。幸か不幸か、というか幸運だったのだが、近所の中古 CD ショップを歩き回ったらほとんどのアルバムが手に入ったので、大体すべての曲を聴き込んだ。

PANTA 個人としても表立った音楽活動は最小限に抑えられていた時期だろうと思う。『CACA』(2006)や前後あたりではじめてリアルタイムで、彼の音楽に触れた。そこから『俺たちに明日はない』が頭脳警察名義の 9 枚目のアルバムとして発売されたが、これも 2009 年のことか。時間の経過はあまりに早い。

どうしてもPANTA寄りの話になってしまいがちだが、彼は映画の出演も増えており、メディアへの露出がここ数年で本当に増えたと思う。ということで、新聞などにも取り上げられており、世代違いのファンではあるが、なんというか隔世の感がある。

ここのところライブ活動も盛んなようだし、50 周年ということでドキュメンタリー映画が放映されるらしいが、どうだろうな。今の私のテンションだと観に行く気にはならない。

以下、メディアの記事へのリンクをメモ代わりに張っておく。

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午前中にふと、ある本のことが思い出された。ところがその本のタイトルを覚えていない。おぼろげなキーワードで検索するものの目的の書籍はヒットしなかった。10 年ほど前に発行された書籍であること、一部のブロガー界隈で話題になっていたことは覚えていたので、当時よく閲覧していたブログを辿ってみて、ようやく見つけた。

正しく 10 年前の書籍であったが、まだたった 10 年前なのかと実感する。書籍はとっくに絶版になっていたが、Kindle 版は存在するようであるし、なんなら Unlimited に登録していれば読めるようであった。今月、たまたま同サービスの無料体験を使っており、つまりほぼコストを意識せずに読むことができる。

ところで本書は、話題になった当時に購入して読んだのであったが、手元の記録には何も残っていないのである。というか、記録がない。記録っていうのはつくづく大事なものだなぁと思う。

読むかもしれないし、読まないかもしれない。

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