読書:『ファイアパンチ』

8 月中に「ジャンプ+」で全話公開されていた。初めて読んだ。現行の連載作品『チェンソーマン』よりも分かりやすいのではないか。巻数も 10 巻以内となっているし、これは個人的な佳作、名作のラインナップに加えたい品だ。

祝福という名の呪いを受けた人間たちがいる。そのなかでもきわめて不幸な状況に陥った主人公アグニは、自らの祝福が効力を発しつつ、他者の祝福である業火に包まれている。業火はアグニが消滅するまで永続するが、アグニ自身の祝福によってその消滅は阻まれている。

この状況って何だっけなぁ。ジレンマというか、非常にうまいトリックなんだけど、似たような設定が生かされた類似の作品が思い出されるようで、出てこない。まぁいいか。しかし、これを第 1 話でバビェーンとやってしまうのが藤本タツキの凄さよなぁ。

さて、長々と書きたいことを散らかすとあらすじを追うだけになるし、テーマで切っても似たような書き方になっちゃいそうだし面倒だから、キャラクターで感想をまとめる。

アグニ

イニシャルは「アンパンマン」のアだそうだが、結果的にはインドの神話に登場するアグニ神の名となり、ベタに燃えることが運命づけられている。復讐か正義か、なんのためにどのような衝動で動いているのか不明瞭なままに死にながら生きつづける(誰でもそうじゃん)が、苦痛でしかない生を過ごすにあたって(誰でもそうじゃん)理由が必要だので、なんとなく指針をとる。この指針作りについてはトガタとのコンビ時には安定していたが、いかんせん、話が動くときは自我をコントロールできることも稀であったので、いかんともしがたい。

ところで妹への愛は家族愛としてのプラトニックなそれではあったが、じゃぁその最愛の存在に似た別人が目の前に現れたらどうする? というようなテーマは実はあったんじゃないのか? 結論と言えば身も蓋もないが、全部を忘れてから再会できればいいじゃんね。倒錯的だなぁ。

しかし、時空を超越した先の再会という意味では『一千年後の再会』(藤子・F・不二雄)を連想せざるを得ないね。これもそんなに珍しい設定ではないけれど。ところで、アグニのような図体はでかいけどそれをコントロールする知性や目的が足りないという人物像はよく講談社系のコミックスで目にする印象があり、これが集英社系のコミックスで描かれたことに割と違和感が大きい。チェンソーマン然りである。

ドマ

アグニを燃やした張本人で、そういう意味では本作の超重要人物だが、ほとんど退場している。「半端な正義が世を正す方向にうまく作用するか」というようなお題をアグニに提出するあたりは、皮肉も利いていておもしろい。

本キャラクターのネーミングは「ドラえもん」から取っているというヒントが著者から与えられてるので、では彼自身のキャラクターにも何らかの反映はあるのではないかと勘ぐってしまうが、そう簡単でもなさそう。万能な(とされる)人物の身勝手さ、あるいはその限界、その象徴という意味ではたしかにドラえもんほど的確なものもいないかもしれない。

とはいえ、後述のサン(「サザエさん」より命名)との関係を考えると、ドマ-アグニ-サンの順に継承される愛憎というのは、あまり表面化されないが割と重要なサブテーマだったのでは。生きるための精神的な糧を完全に他者に委ねてはならない、とでもいうような。

トガタ

いいよね、彼のようなトリックスターは最高だ。作者の分身といってもよさそうな役割、人物像だが、その最期はどうだ。トガタ自身も再生の祝福持ちで、どうやらその効力も大きいのだが、しかしドマの炎には敵わなかった。まぁ本音をいうとトガタが燃えていくシーンが私は本作で 1 番ツラかった。

アグニのまともな理解者というのはトガタしかいなかったという点が大きい。これは逆についても言えることで、2 人の気持ちがやっと通じた矢先の別れというのは悲劇としては鉄板だが、だからこそ、これがいい。

亡くなって以降、名前すらほとんど登場しなくなったトガタだが、映画という概念は残していった。アグニの夢か妄想かしらぬが、妹と映画館でふにゃふにゃしているイメージは本来はアグニには抱きえないものだろうし、設定上というか作劇場というか、その観点からは矛盾にも思えるが、まぁなんか、いいからいいんだよな。いいものはいい。

サン

彼の結末はなんというか「こういう風に使われてしまったか」というメタ的な感想になってしまった。サンにはアグニ教をおだやかに維持させるポテンシャルがあったようには思うが、そうはならなかった。根本的には狂信者だものね。どうも『地球へ…』のトォニィの失敗した姿が彼ではないかとイメージを重ねてしまった-背景は全然異なるが。

本来はそのまま「太陽」だという名前だが祝福は電気である。このギャップに作者として深い意図はあるのだろうか。そこまで無いようにも思う。とはいえ、仮にサンがアグニと最終的に敵対すると設定されたとき、もっとも適当な能力とも言えそうだ。

ネネトによって介護されるアグニに彼の名が与えられるのも相当に皮肉が効いており、ちょっと目眩がするくらいだ。とはいえ、ここでやっとアグニという炎が太陽としてのそれに一致するのだ。うまいなぁ。少なくともサンという名前には意味があったじゃないか。意図はあったんだ。

ネネト

割と重要キャラというか、居ないと話が進まないんだよなぁ。トガタによりカメラマンに任命された彼女は、名実ともに本作をギリギリ最後の方まで見送ることとなった仕事人である。ずっとサンを想いつづけている純情のようななにかも、それがステキなものなのかは判別しづらいが、まぁいいか。

とはいえ、結末で描かれる彼女の様子から察するに、彼女こそが太陽のように多くの人らを導いたであろうことは想像に難くない。焦点にするとすれば、彼女には作中で特定の祝福は明かされなかったことだが-普通の人間としていたが、何かしらあったのではないか? 天寿を全うする祝福とか。

ユダあるいはルナ

言うまでもなくネーミングによる印象は裏切り者だが、実際にそのような立ち位置である。幾重にも人びとを裏切っていく彼女の生き様を君は見届けたか? ストーリーの展開上、本来は望んでもいなかったルナになるという役割を時間の経過に従って受け入れてしまう狂気もよい。もう本作、頭は大丈夫ですか? となる。

スーリャ、ユダ、ルナが似たような容姿をしていることには設定上の意味付けがありそうだが、どうなのだろうか。

トガタにせよユダにせよ、再生の祝福持ちは人間的な感情が希薄になりがちだが、同じく再生持ちのアグニの激情に感化されるというのは、なんだろうか。そのアグニの激情そのものも端緒は呪いのような炎なのであるからして、業というものをよくよく考えさせられる。

一見して無垢なハッピーエンドのように描かれた太陽と月の邂逅だが、これは果たして幸福なのか。2 人は永遠にいちゃついているのかね。本作、もし仮に続編的な次回作を作るとしたら、どこに誰をどのように設定していくかを考えたら案外とおもしろそうだなとふと思った。

そこではもしかしたらスーリャの野望がそのまま実現しているかもしれない。まる。