中国語の原題が「江湖儿女」、英題が「Ash Is Purest White」となっている。原題の意味がわからず、幾つかのウェブ翻訳にかけた結果「世の中の子供たち」というようなニュアンスに訳出された。どういうことなのか。追記(20220113):DeeplL に翻訳をかけたら「ヤクザの娘」と訳出されたが、これが正しそうだ。

英題は「灰こそが純白」といった感じか。いやー、各国で表現がまったく異なるタイトルとなる作品か。日本での公開は 2019 年の 9 月だったか。しばらくはどこかのミニシアターなどでも上映されているかもしれない。

本作、物語は2001年からはじまって、結末は2017年で着地する。15年以上ほどの長いスパンを扱っている。ざっくり言うと、田舎ヤクザのカップルが紆余曲折の末に別々になって、それでもなんだか寄り添って、でもやっぱり道は繋がらなかったという切ないやら何とやらの物語だ。主役はヒロインのチャオ、恋人のヤクザはビンという。

どうしたって中国社会の変遷が背後に描かれるわけだが、三峡ダムの開発で環境が激変した奉節が全体のキーポイントになる。奉節、山奥の谷側に挟まれた土地に町がポツンと存在するのは秘密基地みたいでおもしろい。

ビンを追ってチャオは奉節までやってくる。ビンは彼女を避けて何とか会わないようにと工夫するのだが、後のないチャオは力技で再会を果たす。といっても元鞘に収まらないことは 2 人とも分かっている。チャオの宿でのお互いのやり取りが最高にクールだった、と記憶している。

端的には、別れ話をビンがはっきりと切り出せずに、チャオが問いつめて凝り固まった関係を解していくのだが、最後に厄払いのような儀式をしようとビンが言い出す。盥に新聞紙、火をつけて煙をチャオが越すという日本にもあるような方法だ。ピリッとした表情を崩さないチャオを映したカメラが非常に美しかった。

変化する中国は山峡ダムに終わらず、本作では発展した内モンゴルも描かれる。主人公 2 人の出身地、山西省の大同は内モンゴル自治区の隣接地なんだなぁ。やたらと立派なターミナル駅だが、そこは閑散としており、冷たい風が吹きすさぶなかに夢が破れたビンは到着する。そこでチャオと二度目の再会を果たすのであった。

また、終盤に登場人物が使うスマートフォンにも何らかのメッセージが込められているように思うが、どの機種だったか忘れてしまった。iPhone か Xiaomi の類の中華スマートフォンだったか、どちらも使われていた気もする。

ビンは大成せずに帰京し、もっとまともな人生を選択できたであろうチャオも故郷の場末の雀荘を切り盛りするに至る。チャオからも、監視カメラからも逃れるように消えたビンに託されたのはどういうニュアンスだったか。新しい社会に違え、そこに何とか居場所を確保した古く懐かしい者達とも違えた草臥れた存在が、どこへともなく消えていく。

以下は読んだ関連記事のリンクだ。

賈樟柯(ジャ・ジャンク―)監督の作品は見たことがなかったが、《長江哀歌》《山河ノスタルジア》には興味があった。主演の趙濤(チャオ・タオ)は監督と夫婦なんだってね。ファンなら基本知識なんだろうけど知らなかった。監督の出身地が山西省なのね。

同じく朝日の記事だ。監督の主張と中国の検閲の状況などが本人の口から語られるのが貴重ではないかしら。香港映画の凋落については、検閲の問題も語られるが、アジア各国独自の映画文化の勃興も一因と考えているらしい。へぇ。

タイトルが長い。これはコアな中国映画ファンでないと気がつかないだろうが、色々な監督がカメオ出演していたとのこと。各監督の演技を思い出すと、なるほど面白い。

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公開時は迷った末に行きそびれたが、ようよう鑑賞した。序盤は物語が退屈で、これを 2 時間も耐えられるかと不安だったが、徐々に面白くなってくる。最後にはそこそこに感動したし、結末は微笑ましかった。

解散を決めたバンド「ハルレオ」のメンバーはハル(門脇麦)とレオ(小松菜奈)、ローディ―であるシマ(成田凌)が最後の全国ツアーをギクシャクしつつもこなしていくという内容で、ロードムービーとしての面もある。ライブは、名古屋、四日市、大阪、新潟、酒田、弘前、函館を辿ったと記憶している(大阪と新潟はどこだったか覚えていない)。

私は劇中の運転シーンがどうにも苦手で、交通事故がいつか起こるのではと不安になる。本作も同様だった。作中ではローディーであるシマがほとんど運転する。冒頭と最後だけ車中のフロントから外を映した画面が流れる。iPhone で撮影しているのかなと思うが詳細はわからない。あとはほとんど車中の人物の表情や行動などを映していたが、車を正面から映したカットがいくつか、後方から映したカットもいくつかあり、それぞれが効果的に使われていた。

移動中、外部の情報はあまりなく、高速道路の標識だったり、街の風景だったり、延々と続く田圃だったりするわけだが、それぞれに味がある。

冒頭で「全国を 7 箇所回る」かつ「最後は函館」という情報が提示されるので最初に走っているのは東名道だろうなぁ、などと楽しむ。愛知から三重、大阪までは移動がメインに扱われることはない。このあとは更に西へ行くのか U ターンでもするのかワクワクとしていたが、日本海側に出る。どこか山中の湖と森のシーンがあったが、これが美しかった。新潟から酒田あたりを走ってあいだは田園風景が広がる。よい。函館はすっかり都会の港町でちょっとドッキリする。エンディングに相応しい舞台だ。

帰りは掲示板に提示された仙台の表示で東北道と察せられ(それはそうなのだが)、ゴール直前で羽田の案内が出るのは首都高だろう。こうして東京へ戻ってくることで、本作は終わる。東北道ですべてをやり終えたあとのシマの倦怠、疲労感とハルのやり切った感がまたよい。交通事故が起きそうな運転シーンはやめてくれ、こわい。

バンド解散の原因だが、言うまでもなく人間関係の縺れだ。色恋沙汰といってもいいが、そう片付けては面白くない。人物のうち、もっともフラットでマトモな人間はシマであって、バンド継続のためにシマが身体を張った結果として諸々のややこしさが臨界を突破した。ハルは独特の悩みを抱えているが、それ以外の環境についてはよくわからない。ぶっちゃけ、音楽がなくても生きていけそうな冷静さはあり、才覚もありそう。ただし、自分の悩みの強さと才能に比例するように仲間の感覚にはやや疎い。レオは迷い猫のような存在で、バンド解散後は工場で働かないと賃貸から追い出されると笑っており、またロクでもない男に捕まる未来がみえる。そう考えると、むしろ 1 番に音楽を必須としていそうなのはレオなのだが、この辺がまた上手い。全体の構図はハルが中心、シマとレオを錘にしたやじろべえのような体裁だろうか。

ハルレオ、作詞作曲はハルが担当しており、レオにギターを教えたのもハルなので、バンドの支柱は間違いなく彼女だ。一方、ライブ会場ではレオへの歓声のほうがやや多くなっている。そういう演出がなされている。トークも基本的にレオから始まるようになっており、外向けの体裁としてはレオが顔役みたいになっているところもある。この関係性の問題も扱われており、バンドによくありそうだなと笑いながら見られる(笑えないけど)。

作中で披露される曲は 3 曲あるようで、秦基博とあいみょんが提供している。歌詞が絶妙でよい。作品に合っているともいえるが、よい意味で個性がなくギリギリの抽象性が紡がれている。Spotify で何度か聴いたが、どこのサブスクリプションサービスにもあるのではないか。

門脇麦、個性が強いし、表情がいろいろとある。バレエをやっていたからだろうか、首筋のフォルムが美しすぎる。他の作品を 2 つくらい見ただけだが、もっと追ってみたい。

小松菜奈、初めてみた。キャストでは先頭なのでメイン人物は彼女という企てはあったのかもしれないし、実際のところ、そのように考えるのが自然な気もする。前述のように、レオが音楽をやる理由こそが本作のひとつの答えにもなりそうだからだ。彼女は Wikipedia によるとダンスとフルートが得意だそうだ。門脇麦よりも 8 cm も背が高いらしい。どちらも、へぇと思う。

成田凌、《愛がなんだ》では役柄のせいもあってよくわからんなと見ていたが、本作では好感触だった。本作でも半分くらい何だかよくわからない人間なのだが、こっちのほうが現実と虚構のさじ加減が私の好みだ。大人っぽいことを言えば、ロマンチズムに浸ったセリフも吐く。尊い。

総じて満足だった。

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11 月 26 日、渋谷の LIQUIDROOM で開催された Metronomy の LIVE に行ってきた。イギリスのインディーバンドだ。2015 年前後に iTunes 経由かで知って聴くようになったと記憶している。3 作目『The English Riviera』(2011)、 4 作目の『Love Letters』(2014)、 2 作目『Nights Out』(2008)の順に好みであって、代表曲とも言われているそうだが 3 作目とその収録曲「The Bay」が最も好みだ。いや、ほんとうにこの曲は最高なんだ。1 作目の『Pip Paine (Pay The £5000 You Owe)』(2006)も聴いているが、ぱっと思い出せない。

2016 年に『Summer 08』が発売されていたことをしばらく知らずにおり、昨年くらいに初めて聴いた。今年になって『Metronomy Forever』が新譜として登場した。今回の来日は、その一環もあって実現したと思われる。

開始時刻の 19:30 とほぼ同時に LIVE が開始されたことに、まず驚く。「ふぁっ、海外のバント、時間をちゃんと守るやん」となったのだ。今年になって海外バンドの LIVE は 3 度目であったが、いずれのミュージシャンも 30 分~ 1 時間ほど待たされた記憶がある。好感触やわぁ。

言うまでもなく旧作のほうが聴き慣れており、事前に予習した新アルバムの曲は初聴きでは馴染まなかったが、 LIVE で体験するとダンゼンにカッコよく耳に入ってくるもので「こういう音楽だったんだなぁ」という実感が湧く。よいわぁ。

曲目はアンコールの 2 曲を含めた 22 曲だ。これが一般的に多いか少ないかはわからないが、多いほうだろうな。セットリストは、最新アルバムからの曲、次に3作目、4作目、2作目、その他諸々みたいな分量だったのかな。演奏もパフォーマンスもテンションも最高で、とにかく最高だったんだ。アップテンポで乗りやすい曲からメロウでムーディーな曲まで、即興ならではのハラハラ感とバンドとしての一体感、決めポーズ、どれも最高。とにかく最高。よい。

以下は新作や今回の来日に関連したインタビュー記事などのリンクまとめだ。

リーダー? ボーカルのジョセフ・マウントを対象としたインタビュー。いろいろなことが分かる。『Summer 08』も『Metronomy Forever』もレコーディングはほぼ 1 人でやっているらしい。なんぞな。まぁ、もともとジョセフ・マウントのソロ・プロジェクトだった企画らしいから、そういうもんなのかな。

これは今回のライブハウス LIQUIDROOM のページの企画なんだろうけど、メンバー 5 人から 2 曲ずつマイ・ベスト・アルバムを紹介する。おもしろい。もちろん、ジョセフ以外のメンバーのコメントも入っている。

個人の運営する音楽サイトっぽいのだが、ジョセフからインタビューを取っている。すごい。メンバーがほとんど本国(イングランドなり)に暮らしていないというのは、ちょっと面白かった。“Bay” というキーワードにまつわる話題と、音楽と政治にまつわる話題もよい。

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摂取した昼食が原因であることはわかっていたのだが、夕方以降にお腹の調子が悪くなっていった。帰宅後にしばらくトイレに籠り、普段より身体が暖かくなるようにして布団に籠ったら寝落ちしていた。気がついたときには体調はほぼ戻っていた。

目が覚めてしまったので夜中に《シャイニング》を鑑賞しはじめる。《ドクター・スリープ》のための予習といったところだ。ところで本作、最後までちゃんと見たことがあったかなかったか、結局エンディングまで見ても記憶が定まらない。

キューブリックに歪められたとキングが非難してきたことで有名だが、キングの作品をひとつでも読んでいれば、原作で表現されていたことのニュアンスは分かる。映像化にあたってどれだけ手入れをするかは脚本やら監督に委ねられるわけだろうが、まぁ映像として面白くなってしまった以上は享受する側としては否定もできないよねという身も蓋もない意見しかない。

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2018 年の夏頃だったか「バレットジャーナル」という手帳術、メモ術、アイデア、タスクの管理術みたいなテクニックを耳目にした。基本的な使い方などはググれば出てくるが、なんというかアテのない話だなと思って見ていた。今となっては完全に見当違いだとわかる疑問だが、「自分でノンブルを振る」「インデックスを設ける」といった作業が本当に必要なのか、可能なのかと疑った。そんなめんどくさいことできるか? という気持ちもあった。

その後、MdN から発刊された『シンプルなのに驚くほどうまくいく! バレットジャーナル活用術』を読む。この本を読んだ頃は、類書が 2 つあるかくらいで、その他にはムック本が既刊としてあったが既に店頭にはなく、取り寄せる気もなかった。MdN の本を読んで概略は掴めた気がしたし、悪くない方法だと思った。試してみたが、結論としては、やはりよく分からない、という経緯で挫折していた(利用したノートの判型が小さかったという点もよくなかった)。

そんな折、2019 年の春に『バレットジャーナル 人生を変えるノート術』が発売された。このノート術の考案者、ライダー・キャロル氏による著作であり、いわば遅れてきた原典だ(元々、著者のウェブページには必要な情報はあるようだが)。バレットジャーナルの誕生の経緯、基本的な概念と使い方、活用法などが分かる。

しばらくは遠目に見ていただけだったが、ようやく夏頃に手に取った。やはり公式の情報は大事だということが実感され、バレットジャーナルの哲学が身に沁みた。実用的なこと以上に、著者の試行錯誤を通して達っせられた境地を体感できる、心地よい読書体験が得られた。

解決策は外部から入手するものではない

「解決策は外部から入手するものという思い込み」というフレーズが本書のどこかに出てくる。この本を読んでいて、もっとも心に響いた。言ってみれば本書で得た知識だって、インターネットで得た知識だって、それは参考にはなるが、直面している自分の問題には直接の関係はない。ごく自然で当たり前の発想ではあるが、疎かにしていたところであった。

紙のノートを使ったほうがいい理由

デジタルデバイスのメリット、デメリットについて細かくは触れないが、少なくとも記憶や思考については紙、手書きのほうがよさそうという研究結果などが揃いつつある。そういう前提のうえ、著者が紙のノートを使うことを推奨する理由のひとつに、刺激に対するフィードバックの間を作れる点を挙げている。ToDo やイベント、発想のメモを紙に残す、転記する作業のなかで振り返りが起こるという。まぁ、ディスプレイ上のトピックをドラッグ&ドロップしていても同じことができるんじゃね? という疑問が起こることは否定しないが、文字を手で起こすという行為の大切さは本書を読み進めると実感できるので、気になったら読んでみてほしい。

ダレたあとの再開ハードルが低い

前述の通り、読書体験としての本書の内容も気に入っているが、バレットジャーナルという手法もかなり気に入っていていて、適宜利用している。最後に、何がよいかという点を述べておこうと思う。

たとえば『ほぼ日手帳』だとかリフィル型の手帳、使いやすく工夫されたノートやスケジュール帳など、文具屋やそこらにはたくさんある。そういうノートを使いこなせる人や、使わないとスケジュール管理がままならないほどの生活の方は、それはそれでよいに決まっているし、また羨ましい。

一方で、私などの人間は、気を抜くと手帳を開くことも忘れるし、気力が湧かない日もある。そこまでスケジュールが目まぐるしく変化する仕事をしているわけでもないので、幸か不幸か日付や時間に厳しく頓着する必要もない。つまるところ、手帳のページやスケジュールが内発的にも環境的にも埋まらない日がよく発生するのである。

フォーマットのきっちり定まったページが空のまま置いていかれることの恐怖に耐えられない。「あぁ、最後に記入したのは 2 か月前だったか」みたいな間抜け感とそれに伴って発生する無能力感は、計り知れない負のエネルギーだ。これに対して、バレットジャーナルはかなり緩い。無駄になるのは見開きの半分 1 ページ分くらいのもので、2 か月分の無駄が犠牲になったページにそこまで反映されない。かなり心が救われる。

もうひとつ、バカにならないがノンブルを振ること、インデックスを作ることだ。冒頭で述べたように「そんなめんどうなことできるか」と最初は思っていたが、やり始めるとこれがおもしろくてクセになる。こういうノート法がなぜ今までなかったのかと疑問になるくらいに発明的だとすら感じる(なんかあったような気もする)。考えてみれば、目次や見出し、ノンブルの振られていない書籍など読めないではないか。日付でフォーマットされた手帳には縛られたくない。これは自分の思考のままの書籍になるのだ。あらゆる目的のノートに効くはずの根源的な秘訣が本書にはある。

使用するノートや筆記具について

著者公式のノートがロイヒトトゥルムから発売されているようだし、他メーカーからもほぼバレットジャーナル用にカスタマイズされたノートが発売されているようだ。和気文具の以下のページで端的にまとまっている。これらはドット入りの紙面で、ノンブルもあらかじめ振られている。

私は、MARK’S の EDiT シリーズの方眼ノート( B6 変型)を使っている。A5 サイズだとやや小さく、A4 だと大きい。これくらいがちょうどいい。ノンブルは自分で振っているが、上述の通り、それが楽しい。

ペンは好きなものを使えばいいと思うが、0.38 mmなど細めのほうが誤字などがあったときに対処しやすいし、雑に書いても判別しやすいので、そうしている。主に使っているのは STYLE FIT だ。マーカー等は適当に探そう。

かつてバレットジャーナルについて、検索をすると割とデコレーションに寄った話題が多かったが、著者も本書で書いている通り、このノート術の本質はそこにはない。あくまでシンプルであることが信条であって、その仕組みの根本はとてもロジカルでもある。雑で汚くてもいいのであった。

追記:20200117

昨日だか一昨日だか 「AccessNotebook」というノートの存在を知った。目次ページとノンブルが用意されており、PUR製本で閉じ開きしやすい。バレット・ジャーナル用のノートとしても使いやすそうで、メモしておきたい。

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読書:『三体』

劉慈欣の『三体』を読んだ。読んでからしばらく経ったが、どういう感想を残すか、困っていた。

作品は、おもしろかった。おもしろかったには、おもしろかったが、おもしろさ故のアレだが、兎にも角にも、おもしろさはあった。読み切るまで 三部作の第一作であることを失念しており、読了の満足とともに置いてゆかれた期待が寂しさをも呼び出した。

本作を SF 作品たらしめる面白さのポイントは並行的に何箇所かあり、それぞれの強度にかなり差があるように思え、そこに若干の違和感を感じないではない。ただ、これは好みの問題だったり、SFというジャンルそのものの問題だったりするので、なんともかんとも。

本作のおもしろさ

まず 1 つ目のおもしろさは、ポリティカルな話であることはないか。興味が無けりゃおもしろくもないだろうと言えばそこまでだが、文化大革命が扱われている。第 1 の主人公、葉文潔は革命に翻弄され、人生が狂った。読んでみれば分かるが、とても文化大革命が肯定的に扱われているとは言えず、思いっきり否定的に読める。本国の事情は詳しくないが、ここまで書けるものなのかと感心してしまう。

その裏で、政府は極秘の天文学的な実験を遂行していた。ここが本作を含んだシリーズの機転であり、おもしろいところの 2 つ目だ。世情と離れた田舎の天文台で、実験は繰り返されていた。葉文潔はこの実験に参加するとともに、この革命に対する復讐を達成するための希望をも見い出す。

3 つ目。本作の肝とも言える。三体星人の侵略行為のおもしろさだ。これには、彼ら三体星人史を VR ゲーム機で人類に追体験させることに秘密がある。規則性なく生存不可期間が訪れる三体世界は、あまりにも過酷といえる環境を経て進化した。その文明は地球人類よりも進んでいる。

だが、である。彼らはより安定した生存世界を望んでいる。説明するまでもなく、地球こそが理想郷だ。地球を発見した時点では彼らにとって取るに足らないレベルの地球人類であるが、侵略のスケジュールを組んでみると安穏ともしていられないということが分かる。おもしろい。

地球人の洗脳、文明の進歩の遅延行為、これらを VR 三体世界を体験させながら行う。すごくスリリングだ。ただし、三部作の 1 作目ということなので、最後は打ち切りエンドのような勢いのよさで締めくくられる。「俺たち人類は負けない」といった感じだ。第 2 の主人公である汪淼は、まぁ活躍らしい活躍もないような感じで、次回作に期待したい(登場するのかもわからん)。

本作の受け取り方

この感想を残すにあたって困ったのは「現代中国で描かれた作品であるということ」を個人的にどう受容していいのか分からない点だ。作家と作品、社会とは別物であり、その峻別については厳密であるべきだが、であるからこそ、この作品をどのように楽しんでいいのか、あるいは単純に楽しかったと言っていいのか、勝手に悩んでいる。

大森望のあとがきによると、作者の劉慈欣は中国の文学文化的な事業の面でそこそこに重要なポジションに就いているようだし、中国国家としても SF というジャンルを大きく育てたいみたいなところもあるようだ(インタビューを読むと劉慈欣としては「市場が小さすぎて話にならない」ということも言っているようだが)。

とまぁ、そういう背景を踏まえて、劉慈欣が現行の中国をどのように見ているのかがよく分からない。たとえば、本作で描かれる過酷な三体世界の描写は、序盤で描かれる文化大革命の最も苛烈な時期のパラフレーズとしても機能しているわけだが、現行に於いてこの中国の苛烈さは、香港でのデモ騒動、ウイグルへの弾圧や洗脳へと移行し、大きく表面化している。あるいは、NBA のスポンサーとして国家体制への批判を抑圧するなど、国力の増大とともに内外への圧力を増し続けている最中だ。

劉慈欣本人が、これらの事態をどのように捉えているか。あるいは内側から何かを変えようとしているのか。彼の心は計りようもないが、少なくともポリティカルな内容を直接に扱う作家として、中国国内でそれなりに地位を築きつつある作家として、現状の世界、中国に対しての態度を伝えてほしい。少なくとも『三体』では分からなかった。そのような作品であるからこそ中国内での発表が可能という面もあるだろう。だが、そういう作品の力ってなんなんだろうか。本作は絶妙に奇妙なバランスのうえに立っている。作品は間違いなくおもしろかったが、そういう心残りがある。

追記:以下がその後に記した「三体Ⅱ」「三体Ⅲ」の感想となる。

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最近になって Amazon Prime で解禁されたと知って同サービスで鑑賞した。3 時間越えの長編作品で、主演がロバート・デ・ニーロ、メリル・ストリープの映画初出演作といった点が今に通じるところか。長くて要領を得ない映画のようにも思えるが、味わいが深い。

Amazon の評をみていると戦争に焦点をあてたレビューが多いが、適当には思われない。本作の最大の問題点は、ニックの葛藤のしょうもなさにある。それが、ベトナム戦争、ロシアンルーレット、鹿狩りなどに分けて表現されている。脚本に突飛なところがあるようにも見えるが、ニックの無様さに焦点をあてれば、そこはどうでもいい程度かなぁ。

背景事情は知らぬがマイクとニックは同居しており、マイクはニックに対して重く信頼を置いている。これがまず大前提である。マイクは仲良しグループのなかにあっても、鹿狩りに彼らと一緒に出掛けるのはニックが居るからこそだと彼に直接、伝えている。ニックはグループのバランサーだ。

同時に、ニックとスティーブンの関係を見たおきたい。スティーブンとアンジェラの結婚パーティーで、この 2 人は、始めから終わりまで踊りつづけている。年齢が近いからだろうか、2人の仲がよいことが分かる。そしてこれは、スティーブンが重大な秘密を、ニックに明かしたことからも察せられる。

さて、ベトナム戦争従軍後、半身不随となったスティーブンに対し、現地に残ったニックから多額の送金が行われる。スティーブンは送金主がニックであることに気が付かなかったようだが、マイクは即座に事態に気がつく。スティーブンの相談した重大な秘密の根源にいたのは、ニックに他ならないことが、あからさまではないが、確実に鑑賞者に知らされるのである。

正面からは明かされないこの秘密の答えが、いかにも本作の味を出しているのはツラい。彼らの日常であった友情も、ニックの帰りを待ちつづけるリンダの心情も、あまりに頼りなくて儚いものになってしまうからだ。

ニックの秘密を知るのが、アンジェラ、マイク、スタンリーだけだとしたらこれもまた絶妙なところで、スティーブンは最後まで知らなかったのだろうか。リンダもである。まるで道化ではないか。

ニックを連れ戻そうとしたマイクの心情はどうだ。それは他の誰のためでもなく、あくまでマイクの本心であった。それは友情だったし、愛情でもあったが、その真髄はまた客観的に鑑賞したところで理解も納得も、共感もしづらい。いっそのこと真心とでもいったほうがグッとくる。ニックを許しうるのはマイクのみなのだ。

そういう意味でみてみると、本作というのはとてもプライバシーな映画なんだなぁと思う。とても打ち解けた仲間同士ではあるが、個々の心情の深いところは共有されない。それでも彼らは仲間なのであった。

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10月かに《Once Upon a Time in the West》(1968)を観た。《ウェスタン》と呼ばれることも多いらしい本作、新宿ピカデリーで上映していた。《Once Upon a Time in the Hollywood》の関連もあるだろう。以下の引用の通りらしい。

初公開から50年、そしてレオーネ生誕90年・没後30年を迎える今年2019年には、かねてよりセルジオ・レオーネ作品への愛と敬意を公言するクエンティン・タランティーノ監督が、本作のタイトルを引用した最新作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』を発表する。ぜひ、あわせてご覧いただきたい。

https://theriver.jp/once-upon-west-release/

西部劇の古典的名作ということで、何の前知識も下調べもなしに見にいった。座席に座っているひとの数はまばらだが少なくはなく、映画好きそうな方たちが多い。ところどころカップルがおり、これまた数奇なカップルらだなと敬いたい気持ちになった。

監督のセルジオ・レオーネの他に原案には、ダリオ・アルジェント、ベルナルド・ベルトルッチが参加とのことで、非常に豪華だ。実はセルジオ・レオーネの作品を観るのもはじめてだったのだが、本作の藝術映画っぽさは、ベルトルッチの要素が強いらしい。また、当時にしても長尺の映画だということで、各地では短縮版(2時間45分)が上映されることが常だったそう。今回はオリジナル版(2時間55分)だったが私は初見なので、どこがどう編集されていたのかは当然わからん。

長くはあったけど退屈はほとんどなく、実にエキサイティングな体験だった。冒頭、誰も寄り付かないような荒野にポツンと立つ駅舎、線路のカットが映るまで駅舎とも気づかれないようなボロ屋にガンマンが3名、よくわからんが列車の到着を待つ。強盗かと思いきや待ち人があったようで、彼らの見当違いだったのか去ろうとする。というところで、実は下車していたハーモニカとの決闘。まずは3名が亡くなる。

駅に併設されていた風車、貯水タンク、木の床の下は貯水槽かわからんが、どれも妙にかっこいい。ハットに水を溜めて飲む黒人ガンマンもよければ、蝿を払うのに意地でも手を使わないバカもかわいい。ここまでで分からないのは、彼らがハーモニカを待っていた理由で、この謎の回収には少し時間がかかる。

場面は一転、荒野に暮らす家庭がホームパーティの準備を進めている。父は金持ちになるぞ! と気合十分だが、それも束の間、ならず者らに襲われて一家は全滅する。彼らが去り際に「フランク」の名前を出すことで何らかの関係が示唆されるが、まだよく分からない。モブっぽいなと思われた父、マクベインは割と重要な役なのかな? と思いはじめた途端に亡くなるので、気が置けない。

マクベインの婚約者、ジルが荒野に降り立つシーンに移る。迎えが来ないことは私たち観客には分かっているが、彼女は事情を知らない。彼女の不安とともに開拓町の活気が描写され、馬車をチャーターした彼女の移動とともにアリゾナ州の大自然が描かれる。いい、これを映画館のスクリーンで味わえたのは最高だった。

途中の馬宿でシャイアン登場。名前だけ登場したフランクをあわせて、本作の主要人物が全員揃った。ハーモニカによる演奏が単なる演奏ではなくて、劇中のメタ的な要素を兼ねていることもハッキリする。哀愁漂う美しい音色に不気味さが加わる。馬宿の一悶着が終わる時点で、フランク一味がシャイアン一味を嵌めようとしたことまでは分かる。フランクの目的とハーモニカの目的は不明のままとなる。

徐々にマクベイン夫人(未亡人)となったジルの美しさと狙いも明らかになってくる。元々クローズアップが多用される作品だが、マクベイン家のベッドに仰向け大の字で横たわるジルのクローズアップを天幕の刺繍のパターン越しに映したカットは印象深い。また、彼女専用の劇伴があるのもおもしろい。

続いて、ハーモニカが洗濯屋のおっさんを尋問するシーン、冒頭の疑問を解決する。ハーモニカは洗濯屋のおっさんを通してフランクを呼び出す算段だったようだ。本作での暴力的なシーンはここがピークで、ネクタイを引っ張られ、壁や床に叩きつけられ、おっさんはボッコボコにされる。

このへんで何度か映されることになるハーモニカの回想シーンが入る。ぼんやりと男が歩んでくる画が浮かぶが、もちろん、ハーモニカがフランクを追っている理由を指し示す図である。1番思い浮かべやすいのが復讐劇で、親父か兄弟でもやられたのかな、くらいの想像が働く。

長くなったので、巻く。

ここまでで気になる謎は 2 つあり、「ハーモニカとフランクの関係」「マクベインが狙われた理由」となる。オチとしては、マクベインの所有していた未開拓地が鉄道敷設用の財産になるというのひとつ、ハーモニカはフランクに復讐を果たしに来たというのがひとつだ。

フランクを雇うモートンという鉄道敷設事業者は、ビジネスマンであるという人間性、鉄道や文明の象徴とし現れる。対して、ハーモニカもフランクも荒野の男たちである。そういったなかで各人物の目的や生きざま、復讐と正義、ガンマンとしての筋、男と女などなどの調和や不調和があれこれと作用していて最後まで目が離せない。最高であった。

余談だが、劇場にいたカップルのうち少なくとも 2 組は、《Once Upon a Time in the Hollywood》と間違って入っていたようで、片方は途中で退出し、もう片方は最後まで観ていたが終了後にお互いに笑っていた。

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『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』を読んでいた。タイトルが長い。書籍は達人出版会で販売されており、epub 、 PDF で配信される。最初は PDF を Acrobat Reader で読んだが、Google Play ブックスに epub を突っ込んだら割とすんなりと読めることに気がつき、8 月末からツラツラと読んでいた。2 か月半くらい読んでいた計算になる。以下が商品ページになる(URL の命名規則がよくわからん。追記:「情報共有の未来」の続刊という意味か)。

この本のことを知った時期も、経路もよく覚えていない。著者である yomoyomo さんのブログ、YAMDAS現更新履歴 も RSS リーダーに突っ込んではいるがそこまで熱心に読んでいるワケでもない。もう少し言うと、以前から買って読もうかなと何度となく意識していたが、買えていなかった。うろ覚えだが、PayPal 決済が障害になっていたような気がする。ところが、今回はすんなりと購入できたのだった。というか、決済方法にクレジットカードがあるなぁ。それで買えたんだっけ。何も覚えていない。

最初に読んだ解説によれば、本書は「2013年から2016年までのインターネットを巡る思想史の変遷」だという。なるほど、おもしろそうだな。一方で、解説に登場する人物の名前が半分以上わからない。なるほど、不安になるな。結果として、これはどちらも半分ずつ的中という感じで、話題の大半は興味深くておもしろいものの、登場人物や背景についての知識が十分でない場合は、話題をフォローするのが精いっぱいという章も多い。補足するまでもないが、私の知識量などに基づいた話だ。技術的な話題から政治や経済など、扱われている内容は多岐にわたる。

さらに言うと、2013 年から 2016 年という長いようで短い期間であって、短いながらも、その期間にはたくさんの思惑や事件がワーッと起こっている。そのリアルタイムのできごとを扱った記事の集合なワケで、1冊の本の全体像としてまとまっているとも言いがたいところはある(繰り返すが連載記事のまとめだからそりゃね)。個人的な要約としては「CNET や TechCrunch の日本版でたまに掲載される関連記事を追うくらいじゃ足りない、ワールドワイドなインターネットの近況や背景事情、思想の近況を教えてくれる」のが本書かな。

ところで、全部で 50 章にまとめられた本書において、日本国内が中心となる話題といえば、第2章「生成的な場、ユーザ参加型研究がもたらす多様性、そして巨人の肩」、第7章「集合知との競争、もしくはもっとも真摯な愛のために」、25章「空がまた暗くなる──鬱と惑いと老害のはざまで」、第33章「思想としてのインターネットとネット原住民のたそがれ」、第35章「ラストスタンド」などであった。漏らしがあるかもしれない。

なぜいきなりドメスティックな点を挙げたかというと、日本におけるインターネット思想とは何じゃろな? と思ったからだ。たとえば、第2章はニコニコ動画から派生したニコニコ学会 β の話題であり、第33章は川上量生の『鈴木さんにも分かるネットの未来』が取り上げられている。同章では、アーキテクチャの話題に敷衍して濱野智史『アーキテクチャの生態系: 情報環境はいかに設計されてきたか』が紹介されているが、この本だって初出は 2008 年だ(古いから悪いというエクスキューズではない)。第33章では、2015 年に刊行された角川インターネット講座に関連した話題が扱われており、そういえばそんなシリーズもあったなと思い出に浸っていたが、Amazon で確認したら、Kindle 版がセールされているときに買っており、そのまま、まったく目を通していないことに気がついた。

濱野智史 は AKB 関連の新書を出して以来、一般書の舞台には降りてこないから何をやっているのか知らないが、川上量生は実業家と呼ぶのがふさわしいだろうけど、なんかよく分からんことになっている。本書には津田大介もところどころで扱われているが、こちらの方も何かと泥沼だ。なんだ日本のインターネット文化なんて、文化らしい文化が無くなっているんじゃないのという気もしてくる。日本のインターネット文化をけん引するような存在や真面目に思索する方面、そういったムーブメントはあるのか? 今、どこにあるのかしら。

そこまで踏まえて本書を振り返ると、日本に限らず「インターネット文化」なるものは少なくとも従前のイメージから逸脱しつづけていて、それがタイトルともなっている第48章の「もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて」に繋がってくる、のか? ともなる。それがより具体的にはどういう力学によって齎されているかは本書を読んだら実感されるところであって、私には要約できない。

個人的には、どちらかというとユーザー寄りの立場に近い「第50章 ネットにしか居場所がないということ」が印象に強い(最後にあるのも理由なのだが)。Wikipedia 編集者の愛憎が入り交じったエピソードについての記事だが、どのプラットフォームにおいても所属する参加者たちは、それなりに自分に意味を見出しているわけだ。それを承認欲求の一言で片付けたいとは個人的には思わないのだが、何とも言いがたいよね。同じような事例やそこから発展した事件などは日本国内でもいくらでも起きているわけで、殊更インターネットに限った話とも言いづらいが、インターネットが可能にするコミュニケーションとそこから起こりうる齟齬の大きさの見積もりの難しさというのは、なかなか越えがたい障害なのだなぁ、など。こういったミクロな視点と本書全体がフォローしようとしたマクロな問題群は通底しているのだろうか。考えてみたい(考えないパターンだよこれ)。

ところで、本書で紹介されている重要な書籍の邦訳版など、どうして胡散臭い感じのタイトルや装丁になることが多いんだろうなと思うと、まぁいろいろとツラいよな。

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ある本を読み終えたので感想を書いてたら〆の文章が消えてしまって、下書きを放置することにした。このようなケースでは似たような文章を焼き直すか、開き直って今ある部分までで公開するか、などの対処をしてきたが、放っておいて書き直すのが一番だ。そもそも書きたてほやほやだったし。

前回の記事で《天気の子》の感想をあげたら、同作にまつわる話題がチラホラと目につく。なんちゃら効果というやつだろうか。そのなかで、坂上秋成さんがの現代ビジネスに掲載された 8 月の記事をこき下ろしているツイートを見た。言及先の記事は目にした記憶がなく、パラパラと読んだが、まぁ興味はない。リンクも張らない。

社会反映論と言われるような批評は、東浩紀主宰のゼロアカ道場で非常に流行っていたように思う。それが作品や社会に対して、なんらかのポジティブな視点を与えるのならいいのだが、そうでない場合は話にならない。それにしても遠回りでややこしい方法なんだよな。何も言っていないに等しい場合が非常に多い。

そうでない場合は話にならないとは言ったが、これは非常に難しいところで、ネガティブな批評というのは、問題提起や一周回ったところにある希望などを見出さなければならないはずだが、それが単純に褒めるより難しいということも当たり前に分かることではないか。だというのに、有象無象の文章が多いのはなぜか。作品の欠点や難点(に見えるところ)をあげるという行為は必要であるが、それはそこで思考停止するためのものではなく、作品理解への橋頭保であるべきだ。

まぁいいか。

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