《テネット》を観た。クリストファー・ノーラン監督の作品は、《インセプション》(2010)、《インターステラー》(2014)、《ダンケルク》(2017)は観たが、特にファンというワケでもない。《ダークナイト》(2008)は配信で視聴したが、途中でリタイアしている。なんだかんだで《インセプション》が 1 番好きかな。

断然、劇場で観たほうがいい作品が多いだろう作風で-消極的な意味でも、本作も漏れないというか、少なくともここまで鑑賞した作品のなかではもっとも攻めている。

ここまでやるのか!? と笑ってしまうシーンはいくつかあった。いやー、おもしろいっすけどねぇ。鑑賞中に思い当たった大枠での大雑把な印象としては、今回は 007 ばりのスパイアクションをゴリゴリの SF 味でやりたかってんなというのと、全体感として監督の姿勢と売り方、観客の取り込み方はなんとなく新海誠に似ているな、というくらいだが、これらは内容とはほぼ関係ない。

本作、展開が「まったく分からん」という人には残念だが仕方ないと言うしかないし、「なんとなくは分かった」「大体わかったって人」はそれで充分なんだろう、と思う。私もモヤモヤしている。時間を逆行するという設定がどのように展開に作用するのか、という説明らしい説明はほとんどなく、おそらくさまざまに現れているであろう設定上の矛盾も、気にしてもしゃーないっしょ、となるくらいの勢いである。

まぁ SF に限らず、フィクションって突き詰めればそういうもんや。

本当の主人公は誰なんや

ジョン・デイビッド・ワシントンの演じる「名もなき男」を主役として物語は展開する。彼はいわゆる CIA に雇われたエージェントとして世界の破滅を阻止するために、世界中を駆け回ることになる。そういえば、中国という存在がからっきし無視されているのは最近の映画にしては珍しい。これは大分に意図的なのかねぇ。

話は彼がいないと回らないわけだが、なんとも釈然としない。いや、別にいいんだけども、いかんせんプロット上で計算されて名前も与えられていないわけだし、プロフィールも無に等しいので、この作品は少なくとも「名もなき男」に感情移入するようには作られていない。別にそうなっていないからダメという話ではないが、留保。

で、身も蓋もない話をすると一応はヒロイン枠のキャット(エリザベス・デベッキ)と、悪役でありキャットの夫として登場するセイター(ケネス・ブラナー)のごくパーソナルな愛憎こそが本筋めいてくるのではと思ってしまう。

このように私が思ってしまった原因だが、感情移入という点も然ることながら、クライマックスの展開において、何が起きているのかが分かりやすいのがこの 2 人の駆け引きのシーンに他ならないからだ。身も蓋もなくて申し訳ない。

なんなら印象的なのは、中盤あたりのキャットの台詞が最後のギリギリで回収される描写であって、本作は基本的にはタイムパラドクス的な作用は小さめ(あるいは起きえない)になっているのだが、ここの関しては、遡行による手続きが生み出した、彼らの中期的な運命を決定しかねなかった(どう作用したのかはキャットのみが知る)内容につながるアクション-もといリアクションが映る。

キャットはセイターに息子を人質のようにされていたわけだが、息子は姿や陰こそみせることはあれど、顔や表情などはほとんど映さない、不自然とも思えるほどに。当然のように台詞もない。キャットと息子という分かりやすい関係も感情移入の対象として最小限とされている。

そんなもんで、繰り返しになるが、本作で感情らしい感情を吐いているのはキャットとセイターくらいで、感情の向く方向も双方にしかあり得ないのだ。とはいえ実のところ、この 2 人の感覚というのも、感情移入しやすい代物ではないのだが。

世界を道連れにする男と女

まずはセイターだが、ソ連の出身地で未来人から自分に向けられたメッセージを受け取る。いわく、別の未来人が同時代に埋め込んだ、世界を決定的に巻き戻すツールを完成させ、実行せよと。

対価として巨万の富を得るが、そもそもの彼の人間性、および膵臓癌が寿命となることが運命づけられているというルートによって破滅を実行することになる。

自分がしょうもない死に方をするくらいなら世界を丸ごと道連れにしてやろうというアナーキーというか退廃的な思想は、どこまでも自己愛的でしかないわけで、いや、こいつに同情するのは無理でしょ(笑。とはなる。

同じようなラインの感想として、悪役としては小物すぎるというコメントを見かけたが、逆に言えば、世界を巻き戻して破壊するなどというのは、ごくパーソナルな破滅と直結しない限りは描写しえないと監督は踏んだのではないか。

あらためてキャットについてだが、まず画家との関係がよく分からん。なんなんや。まぁどうでもいいけど。

えーっと、キャットがセイターから暴力を受けるシーンをネガティブに捉えてたコメントをいくつか散見した。つまるところフェミニズム的な観点であったり、ノーラン監督の作風に関しての視点だったりする。これらの視点が問う問題は言うまでもなく在るはずで、私も鑑賞中に嫌な気持ちになったり、-嫌な気持ちと同じくらいハラハラさせられたりしたが、なかなか難しいところではというのが意見で。

なんならクライマックスでキャットがセイターに対して復讐のように、まさしく復讐として死を与えるシーンというのは上記の暴力シーンよりもよっぽど猟奇的で、そこにはセイターが世界を滅ぼす悪だからいいでしょ、という言い訳は成り立ちづらく、やはりごくパーソナルなのだ。そもそもタイミングを間違えたら世界を破滅させていたのはキャットなので。

であるからして、割とおもしろいのは、これもありがちではあるが、世界の存亡と或る夫婦の愛憎が紙一重になっている点だ。

つくづく、セイターとのやり直しを考えていた時期のキャットが目撃したデッキから飛び込ぶ女の存在が、そのキャットの心情の行く先をどれくらい左右したかは定かではないが、それは運命的に、そして文字通りセイターとの離別を示していた。この点がどうしても心残りだ。

私にとっては、テネットとは、そういう話であった。と書いたことを読み返していたら、やっぱり新海誠じゃん! とか、これ、セカイ系じゃん! みたいな気分になってきたが、Twitter をみてみるとこの類の感想も散見されるので自分の想像力の弱さにゲンナリしてしまった。

汝、早送りは不可能なりか

突っ込むのも野暮だという設定まわりだが、一点だけ気になっていることがある。それは「遡行開始時点にピンポイントで戻ることができるか否か」なのであった。まずか回転機構の確認からしたい。

回転機構に入って、出ると遡行時間の流れの中で行動できる。これは分かる。回転機構に入るときは、必ず反対側に設置された同装置から出現する自分を確認するようにルールづけられており、まぁこれも分かる。

目的のポイントまで遡行したら再度、装置に入ることで順行する。これも分かる。とはいえ、このとき順行側から出てくる自分を確認することはあるのだろうか。それがまずよく分からない。逆行から順行に戻る描写は、クライマックスのニールのシーンでは描写されてたのかな? その他の要所でもここは省かれて描写されていたように記憶している。

関連して「本作はタイムトラベルではない」とか「多元的な世界-いわゆるタイムパラドクスは採用しない」とかいうコメント(真偽はしらぬ)を散見した。

前者はまあわかるのだが、後者はどうか。少なくとも最新時間からは自分はいなくなっているはずで、巻き戻しから到達する最新時間は遡行者の介入のなかったはずの未来から僅かずつ異なっていくのでは? あるいは、さんざん取り上げたがキャットの心情を決定づけた展開と状況をどう説明するか。

でまぁ、特に関連もない新たな疑問を広げてしまったが、気になっている一点は、おそらく不可能で、元いた時間(巻き戻しの瞬間)に戻るためには同じだけ時間経過をたどる必要があるだろう。そうなるとよほど時間遡行を計画的かつ慎重に実行しないと、同一時間内が自分だらけにならないだろうか。

また、特にタイムパラドクスがないという観点を主軸にした場合、タイムトラベルと違って自分が実行しないことは起きえないはずなので「未来の自分がやってくれる」みたいな希望的、信念的な時間感覚は採用されないと思っていいのかな? これは。設定の性質上、通常の時間トリックの SF よりやたらと忙しく、おそろしく時間を費やすイメージがある。まぁ、よくわからん。ただ、時間を操る代償としては分かりやすいか。

しかし、設定こそ異なれど、やはり「ドラえもんだらけ」が如何に秀逸な作品であったかが再認識させられるものである。さて、いくつか解説記事で読んで理解を深めたりしたが、関連作品の参照先としては以下が参考になった。さすがの大森望である。

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