《シン・エヴァンゲリオン劇場版:||》を観た感想です。とりあえずこの文章を書き始めた時点で 2 回まで鑑賞し、さらに追加で 1 回観た。ここまでが 4 月 4 日まで。この記事は、 2 回目の鑑賞の段階で途中まで書いたものの、なかなか解きほぐせずに置いたままであった。
というか、解きほぐせないのは、いまもそうではある。
そこには非常に単純な動機があって、TV シリーズから長く続いたこのシリーズの完結を、そんな簡単に味わった気になりたくないし、そういうものではないだろうという話だ。
エヴァの魅力はさまざまだが、私としては惣流・アスカ・ラングレーの魅力に引きずられてエヴァファンの端くれになった具合だったので、初見では今回の式波の扱いがあんまりだと感じた。が、2 回目の鑑賞では「これ以上ない終わり方だったか?」と逆に納得した。しかし、3 回目で微妙に揺り戻しが起きた。なかなか笑える。
ネットに拡がったさまざまな感想も読んだが、TV シリーズおよび旧劇のアスカのファンには概ね受け入れられていない、そんな雰囲気を感じなくもない。とはいえ、本作を肯定しなくてどうするという話だので、私はひたすら好意的に考えたい。
本作、155 分ということで、身も蓋もないことをいうと、大体 50 分ずつがレイ、アスカ、シンジという三大主要キャラクターに落とし前を付けるために与えられている。そう見ることもできる、くらいの話ではある。
もちろん、正確に時間を割ったワケでもなく、あくまで大雑把な話の区切りの上での見解だ。公開も終わるので追記すれば、最後のシンジのパートは半分以上がゲンドウのパートと言ってもよかろう。
ま、そんな感じなので、拡散気味になるがアスカ周りの感想として書きたい。あるいは、そのつもりだった。
プラグスーツはいくつもの色を重ねる
話は尽きないが、プラグスーツの色の変化に作品の意図はうまく象徴されていて、この視点に立てば真希波の役割も割と、くっきりとする気配がある。あまりにも便利で分かりやすい演出であった。
アスカについて触れておくと、EOE を模したシーンで、アスカは 14 年分成長した状態になり、かつ赤いプラグスーツを身につけている。そして、ガキとして見下していたシンジに対して、今更のように恥じらっている。
この情景がいわゆる EOE との接続であることは言うまでもなく、また、お互いが「好きだった」という点を確認する作業自体も、お話全体の流れと 2 人の関係性を発展的に解消させていくための当然のやりとりではあった。
14 年分だけ先に歳を取ってしまったという彼女の悲しい恋、あるいは愛が斯様に締めくくられたというだけでよいのではないでしょうか。逆に「これが EOE のエンディングの再定義なのか?」みたいな受容は難しそうで、重ね合わせこそされているが、あくまでそこまでと見るのが筋としてはよさそう。
惣流と式波をどのように落とし込むのか
そうなると「式波は幸せになった、惣流はどうする?」みたいな妄想が膨らむ。
閑話ではないが、本作は TVシリーズおよび旧劇場版からの変更点として、各人物とその母親との関係性は最小限になっている。シンジにしてもリツコにしてもそうで、アスカに至っては設定そのものが消失した。物語をスマートに進行させるにはよい手段だったと思う。
本作で母性を必要としていたのは-現実的にはパートナーだが、ゲンドウだったワケだし、それが焦点化されたのが完結篇でもあった。逆に、式波-綾波もそうだが、彼女らはそういった人間関係の基本さえ知り得ない存在だったのだ。
一応、式波にとっては真希波が母様の存在としてはあるように思われるし、真希波自身が作中ではある程度はそのように振る舞っていた。同時に、最終的に真希波は、式波を救ったシンジを救ったが、こうなると作品の動力として EOE をやり直しているのは作中では真希波に他ならないとも見えるかもしれない。
やり直しがいいのか、悪いのかはしらん。
逆にだ。強引に結論だけ述べると、「EOEのラストが惣流にとっても幸せではないとは言えない」のではないか。あの強引で曖昧な開かれたな幕引きが、視聴者を虜にして、私たちの想像力をこれだけ掻き立ててきたワケだけれど、そんな気がする。今回の完結前に、EOE をあらためて見返したのだが、初見のインパクト時よりも悲壮感はなかった。
年を重ねることをどのように受け入れるか
真希波の存在について考えていて思い浮かんだテーマだが、真希波はアレよだね。タイムリープかパラレルワールドか、使徒化なのかしらんけど、何らかの手段で 14 債の肉体年齢となって登場している。この状況そのものは、カヲルと似ているし、式波は事故的に同じようになった。
面白いなと思うのは、過去の真希波を知っていて、それが明らかであり、かつまともに邂逅を果たしたシーンが描かれるのが、冬月さんだけのことなんだよね。「Q」時点でゲンドウチームからヴィレをみたとき、誰かしらパイロットを補充してることはわかっただろうが、それが真希波かは定かだったのだろうか。
全体でみたとき、意識的に、半ばチート的に作品内を走り回れたのがカヲルと真希波だけだとしたら、その両者に引きずられる形とはいえ、自覚的に接近した結果になった唯一の人物って、冬月だけなんじゃないのと。彼がもっとも分からんよな。なんかの贖罪のようにしか思えないよね。
なんだかんだでアスカが主役だなと思うのは
上映開始してしばらくしてから「ロボットアニメが」という枕詞で語られることも少なくなかった本作だが、この劇場シリーズでいえば、シンジの乗った初号機が前半で活躍したかと思えば、後半はほとんど二号機の活躍ばかりではなかったか。
シンエヴァンゲリオンでいえば、私はやはりシンニを無理やりアスカが何か強くして、グワァーってなっていくシーンが 1 番好きだね。アレがロボットなのかはしらんけど。
というか、もっとツマラナイ話をすると、1997 年に《新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に》と《もののけ姫》が同時に上映されているワケだが、エヴァがデイダラボッチに影響を与えたかはしらないが、イメージは重なる。
今回のシンニにイメージはさらにデイダラボッチを上書きしてきた。そんなものなのか? なんなら《風立ちぬ》の序盤のいくつかの表現は、だいぶん新劇場版のエヴァと呼応するところがあったように思う。私の想像力の貧弱かね、これは。
デイダラボッチの結末は、神の吸い上げた生命力が行き場を失ったがゆえの暴走であり、その結果はなんらかの清算だった。シンニを駆って人の姿を止めてまでアスカが阻止しようとしたのは、なんだったのか。
話を戻すと、最後こそシンジに主導権を譲ることになったものの、物語を牽引する決断を重ねてきた役割といい、ロボットアニメとしての大胆な活躍っぷりを示してくれたのは、いつだってアスカだったよなと、それは言っておきたい。
だいたい満足です。
ところで、オープニングとクライマックスはモロの日本映画よね。
もともと日本映画の巨匠の影響が大きいと言われる庵野監督の作品だが、オープニングは《砂の器》を連想させられるし、終盤は《田園に死す》を意識せずにはいられない。これらが両方とも 1974 年の作品だというのもユニークだね。
また折があったら触れたいね。
さらば、すべてのエヴァンゲリオンファン。
この 4 月に《騙し絵の牙》を観た。大泉洋の主演だが、結果としては松岡茉優にも主演級の役割が与えられていた。原作は未読で、普段はこのようなケースで読もうと思うこともないのだが、今回は原作を読みたいなと思った。けれど、結局は読まずじまいにこの記事を書いている。
なぜ読もうと思ったかというと、原作から相当に手入れがなされた脚本であるのは見た目に明らかで、かといって空中分解することのない絶妙なバランスであったから、一体原作はどんなものなのか気になったのだ。
特に、時代設定についてチグハグに感じる部分が、あえてであるにしても目立っていて、それらをひっくるめて、どのように成立させられたのかな? それというのは、たとえば安っぽい TV ショーだったり、オフィス内の執務室、会議室で当たり前のように葉巻が消費されるシーンなどだ。なんだったんだろうね、あれは。
映画の脚本だが、監督の吉田大八が手掛けている。監督の作品は《桐島、部活止めるってよ》(2012)が有名だが、私は未鑑賞だ。2018 年の《羊の木》は鑑賞している。こちらは好みの作品だった。原作アリ作品をうまくまとめる名手、みたいなことでいいのかな。
舞台となる薫風社と小説薫風は、文藝春秋なりの雑誌を連想させられるが、実際に撮影には文藝春秋社が協力したとか? また一方で、新社長にならんとした東松龍司の計画の雰囲気は KADOKAWA の「ところざわサクラタウン」構想などを連想させられる。いろいろと現実の要素をハイブリッドさせている結果と思うが、贅沢だな。
伊庭惟高の持ち土産の Amazon との独自契約というのも、まったく同じなわけはないが、各出版社はそれなりのかたちでやっていることだろうし、あまり驚きもなかった。が、まぁこれは高野恵の独立出版社&書店との対比でもあるんだろうな。どちらかといえば、後者が引き立てられるワケだが。
このへんは、有名どころだとコルクの佐渡島庸平などだろうと思うけれど-細部はいろいろあるけど-、まぁ個人出版社なり新しい書店なりの模索が実はたくさんあって、実情としては模索せざるを得なくなっているのが現行の出版業界ということで、その戯画化はうまく達成されていたのではないでしょうか。しらんけど。
速水輝が打つ手打つ手もかなり突飛に見えるが、当てる企画者、編集者ってあれくらいのことはガンガンやるイメージがあるので、これも割とリアリティというか、真実味の含みは大きいのではないかな。とにかく大泉洋が格好よくて子気味いい。
城島咲の転落もバネにしようというのは、キャストの妙も相まって面白かった。
二階堂大作の活躍をもうひと捻り見てみたかったのと、東松龍司の出生の秘密になにかしら設定があるのか、冒頭の伊庭前社長はリードから手を離せばよかったのでは? などが心残りといえば、そう。
屋上で悔しそうに紙コップを叩きつけるシーンがもっとも印象に残っている。
《1秒先の彼女》を観た。
台湾映画だ。台湾映画を観るのははじめてなんじゃないのかな?
原題は「消失的情人節」、英題は “My Missing Valentine” となるようだ。「情人節」が「バレンタインデー」なので、単純に「バレンタインデーの消失」というタイトルだろうから英題もほぼ直訳なんだろう。邦題の工夫も納得しやすい。
作中では「消失」の効果によって原題をスクリーン上で言葉遊びしていたようだが、字幕も無かったかあるいは一瞬かだったので、意味がよくわからなかった。中国語を勉強したいね。
美しい台湾の風景
行ったことないのだけれど、台湾の都会の風景と海辺の田舎町の風景がとても美しかった。作中でキーとなる海岸とそこに向かう道中、都会に戻る道中があまりにもよく撮られていて、大胆にいえばこれだけでも鑑賞する価値はある。
最後のほうで、メディアなどでよく目にするバイクのすごい流れなんかも目に入ってきた。これは美しいとは言えないが、ある意味で現実に戻ってきたことの象徴なのだろうな。ギャップを生み出す効果があった。
なにより、ドローンで上空から撮影されたであろう海岸線が見事だ。同監督の前の作品でもこのあたりが舞台になったことがあるらしいという情報を目にしたけれど、これだけ美しい景色は、それは何度でも使いたくなるだろう。
ヘアメイクの重要さがわかってきた
主人公、ヒロイン:ヤン・シャオチーのころころと変わる表情豊かな演技がとても印象深い。これも間違いなく本作の魅力のひとつだろう。父親の失踪という不幸な生い立ちから都会の郵便局の窓口案内になり、下町風のエリアの小汚いアパートに暮らしている。が、文句を垂れながらも彼女なりに幸せそうだ。
しかし、当然と言えばそうなのだが、人物の髪型でそれぞれのキャラクター性がガラッと変わってくるのがスゴイなと、最近は映画をみていると、そう実感させられる-もちろん本作に限った話ではないけれど。シャオチーがクライマックスで、田舎に引っ込んだのに垢ぬけた感じになってしまう逆転的なギャップには、クスッとなりつつもグッときた。彼女も成長したのだ。
しかしどうにも偏狂な愛だなぁ
シャオチーに想いを寄せる登場人物の愛が、まぁ彼なりの愛が、ああいうかたちを取らざるを得なかったのは納得はできるが、これが別に原則的にはいい話ではない、はずで、そういう意味では何とも歯痒い。
しかし、決定的な設定であったが、それらを相殺し合うような-実際にはぜんぜん相殺しないし、むしろ差は拡がる-、そんな不器用な 2 人がくっつくというのは、ある意味では収まりがよいような気はする。
どう考えても狂ってはいる状況なのだけれど、ツーショットを撮るにあたって、パントマイムのような演技を導入していたのは、おもしろかったね。
《TENET》と同じ年の映画として本作は
鑑賞後にふと、この設定とそれを生かした大胆な撮影は、《TENET》あるいはクリストファー・ノーランへの挑戦なんじゃないか? と勝手に妄想した。だが、どちらも 2020 年の作品であった。
これはどなたかの感想からの孫引きなのだが、予算の都合もあって特殊効果(CG)は極力使われなかったらしい。奇しくも、この点も類似している。ノーラン監督の場合は拘りゆえであるが。
本作のトリッキーなシーンは、ところどころ俳優さんがプルプル震えてしまったり…、ということが見えるので、あぁ、これは演技しているのだなと判明するのが微笑ましい。いや、でもかなり魅力的な画なのでこれもスクリーンで観られてよかった。
ついては、ヒロインだけ日曜日をすっ飛ばした原因が、鑑賞後も自分のなかで怪しかったのだが、よくよく考えて判明した。こわいわ。
なんかキャストがおもしろい
公式ページでキャストを読んだが、個性的な面子が多くユニークだったので、端的にメモしておく。
ヤン・シャオチーを演じたのは、リー・ペイユー(李霈瑜) またはパティ・リーという女性だが経歴をみるにマルチタレントだ。服飾デザインを学び、モデルデビューし、TV に出演するようになってから俳優としても出演しはじめたようだ。
ウー・グアタイを演じたリウ・グァンティン(劉冠廷)は、大学で演劇を学んだがいったんは夢をあきらめて 3 年間は体育教師として働いたらしい。公式ページの説明によると「いま台湾で最も注目を集める実力派俳優」とのことだ。
郵便局の後輩:ペイ・ウェンを演じたヘイ・ジャアジャア(黒嘉嘉)またはジョアン・ミシンガムは、どこかで見たと思ったら、美しすぎる囲碁棋士として有名になった子だった。本作が初の映画デビューらしい。
シャオチーに言い寄っていたリウを演じたダンカン・チョウ(周群達)は香港出身で台湾に移住した経歴の持ち主で、どちらの地域でも活躍しているとのことだ。こういう状況の人が今後の香港で活躍する機会があるのかは不明だが、こうなると香港問題も身近に感じるね。
一言だけネガティブなことをいえば、セクシャルなネタ? ギャグ? が割と多くて、これは良い意味での現代的な大らかさなのか、単純に旧時代的なのか、途中で訳がわからなくなった。が、冷静になると旧時代的ってことで間違いないと思う。上述の偏狂な愛もそうだが、これらが決定的に苦手なひとにはキツそう。
最後に。
ラジオのパーソナリティーから発せられた「恋が記憶を成立させる」みたいなのと「愛は自己欺瞞(自己陶酔だっけ?)」みたいなのの 2 つの台詞が妙に印象的で、これらのキーワードとイモリのおじさんの忠告をうまく掘り下げていくと、別の味わいが出てくる気がする。どうだろうか。
《100日間生きたワニ》を観たよ。
原作の『100日後に死ぬワニ』だが、タイトルの趣味の悪さとブームの広がりの気味の悪さが相まって、私は最初から最後まで距離を置いていた。タイトルについては普段は気にならない程度のケレン味だが、どうにも今作では引っかかった。
そんな作品イメージだったが、直感として映画は面白いだろうなと思ったので、見にいった。
動物が人間染みた社会を作って生活している。類例を挙げれば、直近の作品なら『Beastars』、永遠の名作ならアンパンマンが思い浮かぶ。ところで、本作の主人公のワニは上半身はほとんど裸で、靴も履いていない。他のキャラクターは着用していることが多い。深い意図があるのか気になったが、まぁいいか。
彼は裸足だもんだから、映画ではペタペタという足音が聞こえる。原作にこのような音が表現されていたかも気になる。
ワニとネズミとモグラがマブダチっぽくて、フリーターかしらんが学生である様子はなく、バイト生活しているようだ。90 年代くらいの日本社会のような状況だろうか。プロゲーマーを目指したり、彼女を作ったり、結婚を意識したり、といったノンビリかつほのぼのとした青春(のちょっと後か)が描かれる。
時代設定というほどのアレがあるのかわからないが、ハイブリッドな感じはする。
ワニが亡くなったのち、彼らのコミュニティに町に越してきたカエルが加わることになる。ここからが本作のオリジナルエピソードだ。
カエルは蝶ネクタイをして、なんかオシャレな上着を羽織っている。下はよくわからない。ざっと見た感じ、ワニと対比できる格好をしている。ただし、カエルも裸足なので、彼の足音もペタペタという。うまい演出だなと。
本作の前半にあたる原作のエピソードとオリジナル要素を繋ぐのは、ネズミの存在が大きい。カエルが弱みをみせる直前のタイミングでネズミの横顔(だよね?)が超クローズアップされて、画面がほとんどネズミ色で埋まった。
このとき、キャラクターのデザイン的な面もあって、ネズミがどういう表情だったかは読み取れないけれど-これもおもしろいよなぁ、目の前のカエルと自分がほぼ同じ立場に置かれていて、似たような苦しみに面していることを、彼が自覚したことはわかる。
うーん、最高のシーンだ。これはいい。観にいってよかったなぁ…。
ところで、彼らの使うガジェットはスマートフォンだが、ワニはなにかとタイミングで記念撮影を重ねる男だった。そいでこれを写真として現像するマメさも持ち合わせている。この辺も、懐かしい雰囲気がある。
ネズミの最後のアクションは、なにかしらの区切りであり、継承なんだと思うけれど、このシーンも地味に好きだね。
余談だけれど、カエルの蝶ネクタイは監督の上田慎一郎を連想させられたよね。こういうのも面白かった。
四コマ漫画の映像化、特に映画化というと『となりの山田くん』や『生徒会役員共』などはパッと思いつくが、まぁやっぱりそれなりの工夫が求められるものだよなぁなどとも思う。こういったポイントを取り扱った話とか、どっかに転がってないかな。
《彼女来来》を観た。平日のレイトショーの映画が処によって再開していることを思い出し、ひさびさに何かを見ようかなと、結果として本作をとった。これといった前情報もなく、一応あらすじと SNS の評価を軽く確認した。
本作は「日常系」「不条理」のどちらにも該当する作品に思えるが、序盤こそ後者の印象が強かったものの、段々と前者のイメージが強まっていくという不思議な体験がある。そこがミソだ。
マリAの消失は超常的な現象ではなくて、それなりに理由があるように見せられているし、実際にそういうことなんだろう。この部分の日常性が、マリBの不条理さを際立たせる。
このマリBは、完全に不条理の産物であり、最大の問題児だ。本作は彼女の不気味さ、そして日常への彼女の侵略が重要だが、逆説的には正にそれこそが日常、この移り変わりそのものがテーマと言ってよかろう。
コップをさ、どこに置くかさ
主人公の紀夫は左利き、マリAは右利きだったと思われるが、冒頭の食卓で対面した 2 人の手元のコップは同じ方に置いてあった。画面の手前側、つまり俊夫にとっては利き手、マリAにとっては逆手側だ。これ、個々人の感覚、あるいはタイミングによっては、食事中の飲料をどちらで取りたいという変化もあろうが、気にはなる。
ところで本作では、コップが割と登場する。マリBはシンクにあったコップを勝手に使うし、なんならトマトジュースを満たしたそれを床に落とす。嵐のなか、パスタを食べる紀夫はデスクまで水の入ったコップも一緒に持っていく。
諸々を経た後の食事のシーンでは、それぞれのコップはそれぞれの利き手側に置かれていた。序盤から気になっていた配置の妙が、マリBと囲んだ食卓にあるコップの配置によって、なぜだかホッとさせられた。
マリBの怖さ、あどけなさ
不条理のマリBのホラー感、不快感は最後まで拭い去ることはできないものの、それがただそのままだったら、本作は失敗なわけで、いつの間にか居ることを許してしまう。もしくは望んでしまっている。そして当たり前になっている。
このマリB、いやぁ上手いよなぁ。紀夫はよく耐えたよ。怖いし、ムカつくし、怖いし、怖い。ファム・ファタールというイメージでもないが、魔女の魅力などでもない。庇護欲をそそるみたいな雰囲気も演出されていないし、ただ居る。いや、あくまで彼女の魅力は抑制的でなくちゃならんのだろう。
それでも居ることが許される存在になってる。
クライマックスで川辺に向けている彼女の視線のニュアンスがまだよくわかっていないのだが、このとき彼女を背後から捉えた紀夫の視界には、マリBの後頭部が見えていたはずで、これがまた憎い演出である。
後頭部のさ、仄暗さがさ
マリA、マリBの表情は、画面の明暗によって映されないシーンがいくつかある。表情が読めないということでもあるのだが、これは同じように、いくつかのシーンで映されるマリBを背後から映したイメージにも当てはまる。
マリAはストレートヘアで、マリBは若干パーマだろうか、ウェーブがかかっている。マリBはシーンごとにちょっとずつ雰囲気が変わるんだが、このへんのニュアンスの変化が楽しい。彼女のイメージの変化をもっとも表現していたのは、表情やそのメイクアップよりも、髪の雰囲気な気がする。
エンディングの直前の日常シーンでは別の女性、あるいはマリAの幻想も登場した。なにかと俊夫は女の、女たちの後姿を追っている。
服装のさ、清潔感のさ
俊夫のシャツはパリッとしていて、いくつも着ていてオシャレ感がある。アイロン掛けしているシーンもあったな。マリBは 2、3 着くらいしか着てなかったんじゃないかな。相対的に清潔感が無かった。
それと言うのも、そもそも本作では、お手洗いを使うシーンは一瞬だけ出てくるが、お風呂場などはまったく映さない。川やら嵐やら画面は少しばかり湿っぽいことが多いのだが、台所のシンク以外はほとんど部屋からは水気を感じさせられない。
別にシャワーシーンなどを見たいわけではないが、ちゃんとこいつら風呂に入っているのか? と不安になるのである。実際、俊夫は何度かは為すすべ無くてそのままベッドにダイブしたりしているでしょ。この辺の絶妙な気持ち悪さもよく出来ている。
その他のことなど
「俊夫がキライ、気持ちが悪い」という感想をいくつか見た。いや、わかる。特に序盤から中盤までの俊夫はなんだか中途半端でとにかく気持ちが悪かった。思い返すと何故だかよくわからないが、マリAへの態度にもなにか鬱陶しさがあった。そうなると、マリAの失踪も納得できるか?
似たような感想として、「男の願望っぽい」という感想もふたつ以上は目にした。すごく大事にしていた彼女が行方不明になっても、なんだかんだで得体の知れない新彼女に乗り移ってるあたりを指すのだろうか? であれば、別にそれは少なくとも「男だけの願望」の結果とは言い難いような?
ただまぁウンザリするよね。
いろいろと書いたけど、コップの役割とお風呂場を映さないのが気に入った。あとは俊夫の陰は横から映されていて、生唾を飲んだのもハッキリとわかったカットなどがよかった。居間兼寝室から隣の部屋へカメラがスーッと逃げていって開いた窓でレースが揺れているのは、アレは何だったのかね。
そういえば公式サイトの URL が格好よくて好きですね。
《映画 さよなら私のクラマー ファーストタッチ》を観た。スタァライトとポンポさんの間の上映回で、観た。つまりこの日は、劇場でアニメ作品を 3 作見た。
月刊マガジンで連載していた『さよなら私のクラマー』の前日譚に当たる『さよならフットボール』の映像化作品だ。『さよなら私のクラマー』がアニメ放映中であったのもあっての映画化なのかな。詳しいことはわからない。
「さよなら私のクラマー」は掲載誌で読んだり、読まなかったりしていた。というか気が付いたら連載終了していたなぁ。あらためて著者の履歴をみると、『さよならフットボール』は『四月は君の嘘』よりも先の作品だったようだ。そのあとに『さよなら私のクラマー』の連載に至ったというのは割と変則的な気はするが、どうだろう。「さよならフットボール」は読んだことなかったな。
ヒロインの恩田希はスポーツ神経がいい、というかサッカーが上手い。ボーイズの頃から男子に交じってプレイしていたが、そのまま地元の中学校のサッカー部に所属する。そいでまぁ、男子に交じってプレイすることの挑戦とその限界までが描かれる。
男子に対抗するためにスタミナや体幹を鍛えるという描写はよかった。あまり、そこが重点的に描かれたというようにも思えないけれど。
ボーイズ時代には子分扱いだったライバル校のキャプテン、谷君は恩田を心底尊敬していて、まぁ惚れている。そのへんの中学生らしい青さはよかった。夜のランニングでニアミスする描写などは、映画としてとても好きだ。
最後の試合のシーンは 3D でカメラも割と豊富に動いており、なかなか楽しかった。サッカーのアニメを見るのも久々だし、映画館でサッカーの試合の描写を見るのも久々だったのでは。というか、実写かアニメかにかかわらず、サッカーが描写されている作品をピックすると、名探偵コナンのシリーズが 1 番多くなりそうで、それはそれで疑問符が浮かぶね。
コミックの映像化という点では、すごい好い作品だったと思う。あと、エンドロールでリアルの女子サッカー(これは中学ではなくて高校なのかな? よくわからなかったが学生であるのはたしかか?)のいろいろなチームの(強豪チームなりなのだろうけれど)集合写真などが流れたのは、「さよなら私のクラマー」のほうのテーマを引き継いでいる感じがあってよかった。
- 作品のテーマについて言えば、結局、メディアの力が足りてないのかなというのは個人的には思うところではある。
- 映画については、ある部分の展開の強引さはコミックだからこそ許されれたなぁという感じと、劇場特典のコミックの意味不明さが、ほろ苦い。
- この記事では、サッカーと書いてしまったが、本作は基本的に「フットボール」で統一している。
というわけで『さよなら私のクラマー』もこのあときちんとすべて読んだ。これがまた油断していたのだが、すごくよかった。書けたら書く。
というわけで、書いた(追記:20211224)。
《映画大好きポンポさん》を観た。原作も読んだことはなかったし、どういう映画なのかもよくわからずに臨んだ。同日に《劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト》も鑑賞していたので、メタネタが続いた。
メタ映画(あるいは映像)の作品、世の中には腐るほどあるだろうけど、直近だと《カメラを止めるな》がイヤでも思い出される。メタ映画の傑作、誰か教えてください。
本作、ニャルウッドという映画産業が栄える街で有名なプロデューサー:ポンポさんが取り仕切る映画会社がある。タイトルの彼女だ。だが、この映画の主人公はそのアシスタントの ジーンだ。彼は瞳が輝いていないからこそ採用されたらしい。つまり、彼には映画が唯一の光明だろうとのことだ。ふむ。
ナタリーという俳優志望の少女の魅力にあてられたポンポさんは、超本格ドラマティックな脚本を書きあげた。同じタイミングでナタリーを発見していたジーンは、ポンポさんから監督を託された。ほう。
この時点に至るにあたって、ポンポさんはなぜ大作映画の製作にはコミットせずに、B級作品ばかりを手掛けるのか? というエクスキューズも関係してくる。
が、まぁ、はい。
伝説の俳優をアサインしてスタートした撮影は、紆余曲折を経て完了する。数十時間におよぶ映像を作品に仕上げるための作業に取り掛かるジーンの苦悩と決断が本作のハイライト、と言っていいのかな。うーむ。
これ以上を説明すると、なんかあらすじを並び立てるみたいになっちゃう-もう十分そうなっているけれど-、なかなか難しいな。
結論…、ではないけれど、ポンポさんは B 級志向というよりも、いろいろな意味で新しい映画を模索しているということと思う。が同時に、映画内ではそれがあまり明らかではなかったようにも思う。上映時間-映画の長さについての問いかけは用意されていたが、それ自体も別に目新しさは感じない。
ジーンの格闘をイメージ化したシーンについても、縦横無尽に回るフィルムたちを彼が裁断するなどのことが描かれるが、いや、お前が向かっているのは編集ソフトを起動した巨大なディスプレイだし、映像は全部ハードウェアのなかじゃん、というツマラナイ感想が、どうしても残ってしまった。
ジーンは古い名作も好きだし、一方でこれから新しい映画を作る監督として羽ばたいていくという面もある。「故きを温ねて新しきを知る」じゃあないけど、そのへんの繋ぎが、ポンポさんの祖父のペーターゼンくらいしかなかったかな。ポンポさん自身にも仮託されているといえばそうなんだけども。
難しいな。映画の感想ではなくなるかもだが、そもそも娯楽その他の時間を占有する対象が増えたので、長い映画は敬遠されるようになったという説自体、自分はあまり信じていない。
別に昔だって 1 日の半分以上を潰すような、たとえば 6 時間の大作映画を観るなんて、ちょっと躊躇してたでしょ、絶対。そこに時代性はあまり関係ないのでは。時代による作る側の感覚の問題だったり、あるいは鑑賞者が単純に映画が好きか嫌いかのレベルの差であったり…、と言うと元も子もなくなってくるが。
ついでのようだが、ジーンの同窓生の格闘は、完全に映画オリジナルの脚本らしいけれど、なんというかこういうウソっぷりは自分はキライではなかったし、なんなら本作を映画たらしめているのは、この部分なのではとすら。
なんかネガティブな感想を並び立てた結果になったけど、映画自体はメチャクチャ面白かったので、鑑賞できてないひとは損してます。めっちゃおもしろい映画です。
ポンポさんが可愛いです。
《劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト》を観た。本作については、コミカライズの最初の 1 巻だけ読んでいたのでイメージの大枠はあったが、アニメなり演劇なりの鑑賞歴はなく、物語の全体像もしらずに映画館に臨んだ。
が、よかった。よいものだった。本当によかった。結果として後、TV シリーズ 全 12 話とその総集編となる劇場版《少女☆歌劇レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド》も見た。
アニメ全体の物語は、基本的にはヒロイン:愛城華恋と神楽ひかりの友情あるいは約束、もとい運命を軸にしている。詳らかには、そのほかの登場人物たちを交えた群像劇とも言えそう。
9 人の登場人物は、およそペアになっており、本劇場版でもそれを生かして関係性を整理しつつ、TV シリーズの結末後の彼女らの行く末に道筋をつける。
変則とはいえ 2 人ずつのエピソードを軸に 4 セット で 9 人のキャラクターの人間像と関係を掘り下げる。TV シリーズも本劇場版でもそうだが、それぞれのシチュエーションの配分が絶妙だった。
そもそも舞台の「スタァ」つまり「1番星 はたった 1 人」という命題に、華恋は最後まで抵抗する。これが二転三転して、キリンも予期せぬ舞台を繰り広げることとなった。この構図は TV シリーズでも本劇場版でも変わらない。
そもそも「レヴュー」ってなんなのか?
舞台芸術についてはサッパリだが、芸能用語としての「レヴュー」には以下の意味があるらしい。
演劇舞台のジャンルとして「レビュー」もしくは「レビューショー」という言い方が用いられることもあるが、この「レビュー」は英語の review ではなくフランス語の revue に由来する語であり、「時事的話題に対する風刺などが多く盛り込まれ、舞台装置や踊りといった視覚的要素が充実した喜劇」を指すカテゴリーを指す用語である。この「レビュー」は「レヴュー」と表記される場合が多い。
Weblio|実用日本語表現辞典「レビュー」
本作は元々、男性の演劇鑑賞者を増やそうという企図で組み立てられた企画らしいが、あえて「レヴュー」をタイトルに冠したのは見事だね。類作で前例はあるのかな。アニメーションという「視覚的要素が充実した喜劇」という観点からは、まさに本劇場版は、ハッキリ言って図抜けたコンテンツになっているよね。
そもそも「ワイルドスクリーンバロック」ってなんなのか?
SF のジャンルに「ワイドスクリーンバロック」”Wide-screen Baroque” という用語が存在する。本劇場版は、それをもじっている。で、もともとの用語の意味だが、以下のブログ記事に詳しい。
元々はイギリスの SF 作家:ブライアン・オールディスが書評中で用いた造語であるらしい。上記のブログではそれを示す引用が 2 つあるが、上記ブログでの引用をさらに引用するワケにもいかない。
ので、ここでは私なりに勝手に翻案する。ワイドスクリーンバロックとは「巨大、かつさまざまに繰り広げられ、目まぐるしく情況の切り替わる物語が、イメージが、それでいて破綻せずにエンターテインメントとして成立している」としたい。雑なのはご愛敬として、参照先の記事を読んでほしい。
また、参照先の記事によればアニメとしては『天元突破グレンラガン』(2007)と『キルラキル』(2013)においてその影響があきらかだそうだ。
で、「ワイルドスクリーンバロック」って?
本劇場版の作中において、彼女らは自身を常に「舞台の上」であると意識しつづけているけれど、「ワイルド」という表現を採用することによって TV シリーズの外側、あるいは「スタァライト」の外側、あるいは既存の関係性の外側を意識づけているよね。まぁそこも結局は舞台なんだけど。映画館のスクリーンで、という体験も意味付けられているだろうし、この辺は本当に巧みだ。
特にそれ以上は言うことはない。
しかし、あらためて表明したいのは上述の「レヴュー」の概念と「ワイドスクリーンバロック」の概念が、ことアニメーションという表現を介してここまで見事にクロスオーバーするのか! という驚きだ。マジでビックリしませんか。
なぜトマトなのか?
本作、トマトがやたらと破裂する。初見、劇場版を鑑賞した時点では TV シリーズでのキーアイテムだったのかと思ったが、そういうわけでもなかった。トマトは心臓をイメージしているのは確かなようだが、なぜトマトなのか。なぜ野菜なのか。
野菜といえば TV シリーズを通じていれば、いちおう霧崎まひるを引くことはできるが、そこまで意識的な関連は無さそう。あるいは大場ななのモチーフであるバナナから関連を見出せるか? そういうわけでもなさそうだ。
また本劇場版では、キーパーソンとなるキリンがアルチンボルド様に野菜と果物で体を為し、そしてそれが結果的には燃えていく。キリンが燃える理由は、観客が聴衆が舞台の熱にヤラレることを示すワケだけれど-まとめ方として雑だけど、じゃぁそれってなんだ?
という経緯で辿り着くのは「観客をかぼちゃかじゃがいもだと思え」という文句であって、キリンが野菜となる理由、野菜のキリンが燃える理由、もうこれでいいでしょう。ところで、この文句の出典ってなんなんだろう。
ではトマトは?
もちろん心臓をイメージしていることには代わりないんだけど、それよりもキモだなと思うのは、その回文性にありそうだよね。トマト・トマト・トマトだ。
そもそも華恋の「みんなをスタァライトしちゃいます」という決まり文句の意味について、「スターのきらめきで魅了しちゃう」ならマシで、戯曲の通りにほんとにスタァライトされたらえらいこっちゃやで。
華恋に魅了されたとき、私はトマトを齧っているのだろうか?
半分くらいスッキリしたので、とりあえずここで終了します。
《戦火のかなた/Paisà》英題は “Paisan” を観た。ロベルト・ロッセリーニ監督の 1946 年の作品で、前年の《無防備都市》に続く戦争三部作の二作品目となる。120 分の上映時間は 6 つの小話に 20 分ほどずつ区切られており、それぞれが独立している。
小話は、連合軍の US 小隊がシシリアの海辺の村に上陸する話から始まり、舞台は徐々に半島を北へ移していく。これはドイツ軍の撤退方向と一致すると思われるが、どうなんだろうね。
というわけで、スコセッシおすすめ外国映画マラソンの 9 作品目です。
ep.1 シシリア
シシリアに到着した US の部隊が当地の女性を案内人にして古い砦へ向かう。女性と見張りを残して探索隊が出る。束の間の交流が非常に微笑ましいが、ちょっとした気の緩みから見張りはドイツ兵の凶弾に倒れる。
戻った部隊は女性を疑うが、女性は倒れた見張りの銃を手にして、ドイツ兵に反撃を試みていたのであった。最後は両軍とも砦を去るようだが、その結末は暗い。
暗闇でのシーンが多いのでフィルムの状態も相まってか、見張りと女性の交流シーンなどは特に鮮明でなく、結末もどう解釈していいのかわかりづらい。いずれにせよ、戦場で垣間見えた日常が一瞬で塵となり、それに巻き込まれた人間のあっけない運命が心に残る。
ep.2 ナポリ
孤児たちが酔っぱらった黒人兵を囲んで身包みを剥ごうとしている。その少年達の 1 人と黒人兵のやり取りはしばらく続く。2 人の追いかけっこは、さまざまなカットが入り乱れて続くが、よく撮られている。
少年にアメリカの都会の物語を聞かせるシーンは本編のダイジェストだろう。2 人とも、とても楽しそうだ。前編の見張りは自宅に帰りたいと繰り返していたが、本編の黒人兵は家はボロボロだから別に帰りたくないらしい。さまざまだ。
後日、素面の黒人兵と少年は再会するが、兵士は途中まで少年と気づかない。ある理由があって、彼らは少年の住処に向かう。戦火に破壊された少年ら現地民の状況をあらためて目のあたりにした黒人兵は黙ってそのまま去る。
最後のシーンが好きだ。手塚治虫が使いそうなカットである。
ep.3 ローマ
ローマが解放され、街へ入ってくる連合軍の部隊をローマ市民が大盛り上がりで歓迎する。入り乱れたカットで演出される、その盛り上がりの躍動感がすごい。
一転して半年後、解放当時の盛り上がりは何処へと兵士もホステス達も嘆くキャバレーのような店内に、治安部隊のガサ入れがある。娼婦のひとりが逃げ去る。
娼婦は逃げる途上で酔った兵士を掴まえる。実はこの 2 人は既知の間柄であったが、お互いは気づいていない-という点では前編と似たことが起こる。女は途中で彼に気がつき、なんとか別日に再開しようと試みるが、それは失敗に終わる。
これがよく分からない。男は女に気がついていたのかそうでないのか、明らかではない。私は初見では気がついたうえでそれを無視したのかと思ったが、そうとも言い切れないようだ。誰が悪いわけでもない、戦争が悪い。誰が悪い。
ep.4 フィレンツェ
アクション作品として楽しんだ。ドイツ軍から解放されたエリアから、まだ銃撃戦が続いているエリアへ赴く男女がいる。それぞれに事情は異なる。市民のゲリラ兵とドイツ軍がドンパチやっているなかをソロリソロリと移動していく。
区画から区画へ、閉ざされたエリアへ逃げ込んだり、屋根伝いに走り回ったりと移動していく 2 人を横から眺めるようなカメラワークがおもしろい。完全に遮断された箇所を横断するために、閉鎖された美術館を利用する方法も面白い。この美術館も実物らしいし、この方法自体も現実にあったのだろう。
身内の安全を求めて戦闘区域の中心部へと進んでいった 2 人の残した結果は、これはこれで残酷極まりない。
ep.5 トスカーナ
市民からも篤い信仰を集めているらしいカトリック修道院がある。そこそこ階級の高そうな US の兵士 3 名が寝所を求めて来訪した。修道院側もこれを受け入れた。食料の交換などが描かれて微笑ましい。
暗雲が立ち込めるのは 3 名のうち 2 名がプロテスタント、ユダヤ教徒であることが判明してからだ。かなり教義に厳格であるらしいこの修道院の僧侶たちは、異教徒をもてなしたことに恐慌状態に陥る。
傍からみたら笑っちゃうかもしれないけれど、当人たちにとっては重大事だ。結局、修道僧らはある方法をとって、彼らを受け入れることとしたが、それに対して自身もカトリック神父である兵士が礼を述べる。
神に赦しを求める修道僧を、リーダー格の僧侶が宥めるシーンがなんともよく出来ている。前のエピソードでもそうだが、ロッセリーニ監督も階段を使ったシーンの使い方が巧みに思えるがどうだろう。
ep.6 ポー川
ポー川のデルタ地帯といっていいらしいが、イタリア北部を流れるポー側の東側の河口付近、ヴェネチアのほぼ南に位置する。葦が茂る河口付近で市民のゲリラ部隊と応援の US 兵達がドイツ軍に囲まれつつも何とか生き延びようとしている。
が、絶体絶命らしい。
エリア内にある小さな村もやられてしまった。本作でもっとも残酷なシーンも割とあっさりと流されてくる。無常だ。
まともな戦闘シーンが登場する。ほとんど絶望的な対決は、絶望に終わって、その後の結末も絶望でしかない。あまりにもあっさりとしている。淡々と処理しなければやっていけないのは戦場の常なのだろう。最後にポー川の水面が静かに映されて “FINE” となるが、 やはり、あまりにもあっさりとしている。
千年王国を築くというドイツ兵の文句は《無防備都市》でも登場したが、このくらいの現場感のある兵の台詞の方が、その誇大妄想さが極まってみえた。
葦のなかを小舟がゆくシーンがいくつも登場するけれど、これも巧い。撮影側も同じような、今にも沈みそうな小舟から撮っているワケでもないだろうけど、そこまで設備が整っているとも思えないので、やっぱり似たような不安定な小舟にカメラを載せてるのかね。撮影現場の記録とか、ないのかな。
戦闘とは無関係に、葦の草っぱらがむやみにキレイだ。
その他のことなど
一応、エピソード 1、4、6 は戦闘領域でのお話、エピソード 2、3、5 は戦闘領域外でのお話という構成と見てよさそうだ。これを対比したとき、言うまでもないが前者では戦場における悲劇が描かれる。後者では、戦場からふと離れた日常における人間の矮小さ、あるいはその中での救いのようなものが描かれる。それはそれで戦争とは地続きではあるけれど。
だからどうという話ではないが、そもそもなぜ本作は連作形式となったのだろうか? 脚本も、ロッセリーニ監督を加えて 6 人参加しているということは各エピソードごとに脚本が入っているということに違いなさそうだ。
それぞれ異なる視点から、イタリア各地における戦場での、さまざまなテーマによるドラマが、本作のように見事に織りなされる-そこに異論はあるだろうけど-というのは本当に凄い。この一言に尽きる。
いくつかの部門に分けて、鑑賞してきたヒッチコック作品のオススメ順に取り上げる。部門別、オススメ順としたのは軸が多いほうが記事にしやすかったという以上の理由はない。好みの問題だ。また、言うまでもなく恣意的なカテゴリーかつランキングで、ほかにも方法はたくさんあるだろうけれど、これが私のヒッチコック星だ。
なお、ランキングのリンク先は私の感想記事になるので注意されたし。
【巻き込まれ男女の珍道中】部門
ヒッチコック作品の典型にして、初期時からほぼ完成形と思われる「男と女」が何かしらの事件に巻き込まれて、そこから困難を経て事件を解決に導いていく、パターンの作品となる。以下の 3 作をピックアップした。
なんだかんだで、最初期の作品《三十九夜》を 1位 としたい。完成している。そしてオチが好き。《白い恐怖》は「信用できない男」部門でもよかったが、この部門のノミネートが少ないのでこちらに置いた。《逃走迷路》は、西海岸から東海岸へ縦断ツアーするのが好きです-そのものの描写があるわけではないけれど。
【予測不可能なサスペンス】部門
サスペンス作品のうち、あえて展開が読みづらい作品として部門を設けた。要点としては犯人がよくわからん類のストーリーとしている。《救命艇》を 3 位としたけれど、あの重苦しい空気はキライじゃない。が、やっぱり 1位 は大掛かりなセットが見ものの《裏窓》かな。《バルカン超特急》も好きだけれど、ここでの他 2 作と比べると、個人的にはそこまでプライオリティがない。
【薄氷を踏むような展開】部門
同じサスペンスでも、こちらは鑑賞者にも全体の状況が分かっている作品として部門とした。圧倒的に《私は告白する》を推したい。扱っているテーマ、舞台設定、カメラワークなどなどいずれをとっても面白い。次点以下の《ロープ》《ダイヤルMを廻せ!》も完全におもしろい。《見知らぬ乗客》は比べると、やや見劣りするか。
- 《私は告白する I Confess》(1953)
- 《ロープ Rope》(1948)
- 《ダイヤルMを廻せ! Dial M for Murder》(1954)
- 《見知らぬ乗客 Strangers on a Train》(1951)
【キング オブ 頭おかしい】部門
途中で全体像がおよそ掴めるタイプの作品でもあるが、基本的には犯人がヤベェ作品とした。どちらも歴代としてみると最後のほうの作品なので、時代性なんかもあるんだろうか。どちらも好きだけど、あえてのモノクロ、クライマックスの一瞬の狂気ということで《サイコ》を推したい。《フレンジー》のじゃがいも遊びも好きだけどね。
ていうかこの 2 作品で 12 年もギャップがあるのか。
【信用できない男】部門
巻き込まれパターンのうち、男がどうにも信用できないパターンの作品を取り上げる。《汚名》と《引き裂かれたカーテン》は別部門でもよさそうだが、ここに配置した。そのうえで比べてみると、鑑賞時はそこまで好きとも思わなかったが、《汚名》は好いとあらためて実感した。
《レベッカ》《断崖》は、ジリジリとした展開が馴染めばおもしろいが、これら以下の作品もなんとなく展開がじれったい気がする。あまり得意ではない作品が比較的多いなという自覚を得られた。
- 《汚名 Notorious》(1946)
- 《レベッカ Rebecca》(1940)
- 《断崖 Suspicion》(1941)
- 《舞台恐怖症 Stage Fright》(1950)
- 《引き裂かれたカーテン Torn Curtain》(1966)
【信用できない女】部門
上の部門とは反対に、男は女に尽くそうとするが、その女は信用に値するのか? というパターンを取り上げる。この視点で捉えられる作品も案外少なくないので驚いた。
世評はあまり高くないらしいが歴史物、ユニークさという点でもって《山羊座のもとに》を推したい。珍しく人間ドラマが中心といってもいいのではないかな。エンディングのカラッとした感じも好きだ。
《マーニー》《めまい》も大好きだよ。《北北西に進路を取れ》は、個人的にはこの部門なのだよね。本作において世間的に評価されている要素って、《三十九夜》と《泥棒成金》のほうが面白いぞ、というのが持論です。
- 《山羊座のもとに Under Capricorn》(1949)
- 《マーニー Marnie》(1964)
- 《めまい Vertigo》(1958)
- 《北北西に進路を取れ North by Northwest》(1959)
- 《パラダイン夫人の恋 The Paradine Case》(1947)
【頭からっぽで楽しもう】部門
もっとも重複を許す部門だ。逆に、それだけ総合的に評価しやすいということだ。他部門含めても屈指で熱中できた《泥棒成金》をトップとしたい。いや、おもしろいよ。主役のダンディさ、身体性、ユーモア、ほろ苦さ、ロマンス、ほぼ全部入りです。
社会情勢を扱ったサスペンスも多いが、そのなかでは《トパーズ》が 1番 かな。これも最後のほうの作品である要因が大きいのか、いい意味で、割と脚本がちゃんとしていて気持ちがいい。他がちゃんとしていないという意味ではなく、なんとなく整合性の部分の詰めが見えるというくらいのニュアンスだ。
上記以降の作品もどれも無難に面白い。
- 《泥棒成金 To Catch a Thief》(1955)
- 《トパーズ Topaz》(1969)
- 《ファミリー・プロット Family Plot》(1976)
- 《海外特派員 Foreign Correspondent》(1940)
- 《知りすぎていた男 The Man Who Knew Too Much》(1956)
【オリジナリティにしびれろ】部門
ここまでの部門のどこにも入れがたい作品を扱う。《鳥》なんていうのは典型で、諸要素には他作品でも用いられているモチーフが少なくはないが、全体としては鳥じゃん。ていうか、鳥じゃん。最後のほうとかよくわからんし。
1位 としては《ハリーの災難》を挙げたい。シュールなコメディとして大変面白いし、なにより画面がずっとキレイなのが好い。ちょっとホラー味があるのも好きだ。
《間違えられた男》はヒッチコックに限らず映画全体からみれば特に珍しいテーマとも思えないが-どうだろうか。他部門でもよかったが「実話をもとにしたフィクション」と監督が冒頭で解説する特徴もあって、あえてここに配置した。こちらも好きな作品だが、まぁここに。
というわけで、以上となる。この記事によって、とりえあずではあるが、ようやくヒッチコックマラソンの自分なりの振り返りができた。ほなまた。