背中を押してくれたのはだれか|《シン・エヴァンゲリオン劇場版:||》

《シン・エヴァンゲリオン劇場版:||》を観た感想です。とりあえずこの文章を書き始めた時点で 2 回まで鑑賞し、さらに追加で 1 回観た。ここまでが 4 月 4 日まで。この記事は、 2 回目の鑑賞の段階で途中まで書いたものの、なかなか解きほぐせずに置いたままであった。

というか、解きほぐせないのは、いまもそうではある。

そこには非常に単純な動機があって、TV シリーズから長く続いたこのシリーズの完結を、そんな簡単に味わった気になりたくないし、そういうものではないだろうという話だ。

エヴァの魅力はさまざまだが、私としては惣流・アスカ・ラングレーの魅力に引きずられてエヴァファンの端くれになった具合だったので、初見では今回の式波の扱いがあんまりだと感じた。が、2 回目の鑑賞では「これ以上ない終わり方だったか?」と逆に納得した。しかし、3 回目で微妙に揺り戻しが起きた。なかなか笑える。

ネットに拡がったさまざまな感想も読んだが、TV シリーズおよび旧劇のアスカのファンには概ね受け入れられていない、そんな雰囲気を感じなくもない。とはいえ、本作を肯定しなくてどうするという話だので、私はひたすら好意的に考えたい。

本作、155 分ということで、身も蓋もないことをいうと、大体 50 分ずつがレイ、アスカ、シンジという三大主要キャラクターに落とし前を付けるために与えられている。そう見ることもできる、くらいの話ではある。

もちろん、正確に時間を割ったワケでもなく、あくまで大雑把な話の区切りの上での見解だ。公開も終わるので追記すれば、最後のシンジのパートは半分以上がゲンドウのパートと言ってもよかろう。

ま、そんな感じなので、拡散気味になるがアスカ周りの感想として書きたい。あるいは、そのつもりだった。

プラグスーツはいくつもの色を重ねる

話は尽きないが、プラグスーツの色の変化に作品の意図はうまく象徴されていて、この視点に立てば真希波の役割も割と、くっきりとする気配がある。あまりにも便利で分かりやすい演出であった。

アスカについて触れておくと、EOE を模したシーンで、アスカは 14 年分成長した状態になり、かつ赤いプラグスーツを身につけている。そして、ガキとして見下していたシンジに対して、今更のように恥じらっている。

この情景がいわゆる EOE との接続であることは言うまでもなく、また、お互いが「好きだった」という点を確認する作業自体も、お話全体の流れと 2 人の関係性を発展的に解消させていくための当然のやりとりではあった。

14 年分だけ先に歳を取ってしまったという彼女の悲しい恋、あるいは愛が斯様に締めくくられたというだけでよいのではないでしょうか。逆に「これが EOE のエンディングの再定義なのか?」みたいな受容は難しそうで、重ね合わせこそされているが、あくまでそこまでと見るのが筋としてはよさそう。

惣流と式波をどのように落とし込むのか

そうなると「式波は幸せになった、惣流はどうする?」みたいな妄想が膨らむ。

閑話ではないが、本作は TVシリーズおよび旧劇場版からの変更点として、各人物とその母親との関係性は最小限になっている。シンジにしてもリツコにしてもそうで、アスカに至っては設定そのものが消失した。物語をスマートに進行させるにはよい手段だったと思う。

本作で母性を必要としていたのは-現実的にはパートナーだが、ゲンドウだったワケだし、それが焦点化されたのが完結篇でもあった。逆に、式波-綾波もそうだが、彼女らはそういった人間関係の基本さえ知り得ない存在だったのだ。

一応、式波にとっては真希波が母様の存在としてはあるように思われるし、真希波自身が作中ではある程度はそのように振る舞っていた。同時に、最終的に真希波は、式波を救ったシンジを救ったが、こうなると作品の動力として EOE をやり直しているのは作中では真希波に他ならないとも見えるかもしれない。

やり直しがいいのか、悪いのかはしらん。

逆にだ。強引に結論だけ述べると、「EOEのラストが惣流にとっても幸せではないとは言えない」のではないか。あの強引で曖昧な開かれたな幕引きが、視聴者を虜にして、私たちの想像力をこれだけ掻き立ててきたワケだけれど、そんな気がする。今回の完結前に、EOE をあらためて見返したのだが、初見のインパクト時よりも悲壮感はなかった。

年を重ねることをどのように受け入れるか

真希波の存在について考えていて思い浮かんだテーマだが、真希波はアレよだね。タイムリープかパラレルワールドか、使徒化なのかしらんけど、何らかの手段で 14 債の肉体年齢となって登場している。この状況そのものは、カヲルと似ているし、式波は事故的に同じようになった。

面白いなと思うのは、過去の真希波を知っていて、それが明らかであり、かつまともに邂逅を果たしたシーンが描かれるのが、冬月さんだけのことなんだよね。「Q」時点でゲンドウチームからヴィレをみたとき、誰かしらパイロットを補充してることはわかっただろうが、それが真希波かは定かだったのだろうか。

全体でみたとき、意識的に、半ばチート的に作品内を走り回れたのがカヲルと真希波だけだとしたら、その両者に引きずられる形とはいえ、自覚的に接近した結果になった唯一の人物って、冬月だけなんじゃないのと。彼がもっとも分からんよな。なんかの贖罪のようにしか思えないよね。

なんだかんだでアスカが主役だなと思うのは

上映開始してしばらくしてから「ロボットアニメが」という枕詞で語られることも少なくなかった本作だが、この劇場シリーズでいえば、シンジの乗った初号機が前半で活躍したかと思えば、後半はほとんど二号機の活躍ばかりではなかったか。

シンエヴァンゲリオンでいえば、私はやはりシンニを無理やりアスカが何か強くして、グワァーってなっていくシーンが 1 番好きだね。アレがロボットなのかはしらんけど。

というか、もっとツマラナイ話をすると、1997 年に《新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に》と《もののけ姫》が同時に上映されているワケだが、エヴァがデイダラボッチに影響を与えたかはしらないが、イメージは重なる。

今回のシンニにイメージはさらにデイダラボッチを上書きしてきた。そんなものなのか? なんなら《風立ちぬ》の序盤のいくつかの表現は、だいぶん新劇場版のエヴァと呼応するところがあったように思う。私の想像力の貧弱かね、これは。

デイダラボッチの結末は、神の吸い上げた生命力が行き場を失ったがゆえの暴走であり、その結果はなんらかの清算だった。シンニを駆って人の姿を止めてまでアスカが阻止しようとしたのは、なんだったのか。

話を戻すと、最後こそシンジに主導権を譲ることになったものの、物語を牽引する決断を重ねてきた役割といい、ロボットアニメとしての大胆な活躍っぷりを示してくれたのは、いつだってアスカだったよなと、それは言っておきたい。

だいたい満足です。

ところで、オープニングとクライマックスはモロの日本映画よね。

もともと日本映画の巨匠の影響が大きいと言われる庵野監督の作品だが、オープニングは《砂の器》を連想させられるし、終盤は《田園に死す》を意識せずにはいられない。これらが両方とも 1974 年の作品だというのもユニークだね。

また折があったら触れたいね。

さらば、すべてのエヴァンゲリオンファン。