角川ゲームズから発売された『メタルマックス ゼノ リボーン』(METAL MAX Xeno Reborn)をプレイしている。なんでもいいけど、正式な表記はカナなのか、アルファベットなのかハッキリしてほしい。

さて「メタルマックス」の傍系(ここではそのように扱う)にして、「メタルマックス ゼノ」のリメイクである本作は…、という時点で、もはや本作、本シリーズの立ち位置がよく分からない、が、まぁそれはこの記事では置いておく。

いろいろと意見を並べたいのだが、キリがない。できるだけ本題に絞る。ということで、リメイク前の『メタルマックス ゼノ』には、「メタルマックス」シリーズの恒例キャラクターである犬、つまり「ポチ」は参戦しなかった。

この判断は、おそらくは、リアリティ寄りの 3D 作品に仕上げる意図を重視した結果、世界観にそぐわないとされたのだ、と私は考えていた。しかして、「ゼノリボーン」の制作発表と同時に開催されたファンイベントにおいては、ポチの復活が大きく要望された、と記憶している。

結果として「ゼノリボーン」ではポチが復活した。

プレイ体験の本心と実感としては、実際のところ、やっぱりポチが居ると楽しい。ポロポロと戦闘からは離脱してしまうが、移動時に戦車に乗っている姿は可愛いし、本拠地で佇んでいる様子もよい。たまに殊勲賞ものの活躍もする。癒しである。

そうではあるのだが、これは本当は、やはりディレクターの友野氏がやりたかったことではない、のではないかと、やはりそう思う。だからやはり、残念ではあるが、ポチは必要なかったのではないか。

危惧するには、「ゼノリボーン」が修正パッチにてプレイヤーからの声より「人間が移動するときの挙動を修正」という対応したわけで、今後に発売されるであろう続編にも、同じようにプレイヤーの声を反映させるらしい。このとき、仮に自らの意見と相克した場合、友野ディレクターはどうするのだろうか。

「ゼノリボーン」は、メタルマックスとしておもしろいのか、メタルマックスである必要はあるのか、などなどと疑問は個人的には潰えないのだが、とりあえず、ディレクターの思い描いた内容とならない限りは、良くも悪くも軸のない作品にしかならないであろうから、作品が成功するか否かとは別の視点とはなり得るが、そうあってほしくはない。

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たまに読み返すコミック『ケンガイ』(大瑛ユキオ)のことを記す。映画《エレファント・マン》を観たキッカケになった作品だ。

本作は『月刊!スピリッツ』にて 2012年 3月号から 2014年 8月号まで連載されていたらしく、私は 1 巻が発売したタイミングで単行本を読んだ(全 3 巻)。それももう 8 年ほど前のことか。作者の大瑛ユキオは、同誌 2016年 7月号に読み切り作品『シスコンじゃない』を描いてから商業誌へのマンガの掲載は無いようで、残念である。創作活動を続けているのかもよく分からない。

なお、以上のことは作者のブログからまとめた。こちらも現在では未更新であるし、いつか無くなっているかもしれない。

タイトルの「ケンガイ」とは「圏外」であり、いわゆるガラケーを使っていた人たちには馴染み深いキーワードだが、最近のスマートフォンでは「圏外」と表示されることは、ほぼ無いのではないか。同時に、作品掲載時の 2012 年時点でも既にスマートフォンは普及が進んでいたし、「圏外が、日常用語としてやや耳慣れなくなっている」という状況は、連載当時でもあったのではないか? とも推測する。まぁ些細なことだけど。

ついては、本作におけるケンガイとは「恋愛対象外の異性」を指す。こういう使い方が巷の若者たちのあいだで実際にあったのだろうか? これもよく分からない。これも些細なことのように思うが、もし作者の発明だとしたら面白いし、そうでなくてもやっぱり面白い。個人的にはこのタイトルに痺れている。

本作の主人公である伊賀君は、おそらくそこそこの大学に通っている(通っていた?)学生だが、特に具体的な目的もなく、就職氷河期も相まって明確な未来像が描けない。そんな折に彼はレンタルビデオ店でアルバイトを始めるが、そこの同僚である白川さんに惚れる。ところが、白川さんは職場のリア充系男子たちには「ケンガイ」な女子と揶揄されていた。ここでタイトルが回収される。

シネフィルの白川さんに近づきたい伊賀君は、映画を見ることを習慣化していく。本作冒頭、彼女の立ち話を耳にした彼は、言及されていた映画《エレファント・マン》を見ることにする。だが、彼にはこの映画のどこが白川さんの琴線に触れたのか、分かっていない。

生い立ちを含めた白川さんの人間性、抱える問題が徐々に明かされていくのであるが、つまり彼女は「エレファント・マン」に共感する側の人間だ。バイト生活にその日暮らしを重ね、映画を観るために人生を費やしている。映画を扱うバイト先であってもマイノリティー側であることに変わりはない。

一方の伊賀君は、マジョリティー側に所属しそうな側の人間なのだが、白川さんに惚れてしまっては仕方がない、恋の力は無限なので。職場においてはケンガイとされる彼女を、逆に、自分自身を彼女の圏内に置くために試行錯誤するのだ。かっこいいではないか。実際に伊賀君のとる手順や態度、考え方はだいたい真っ当で、単純に好青年なのが、むしろよくできている。つまり彼も、生きるのが下手なんだよね。

ストレートにアプローチする伊賀君、アプローチを正面から受け取れきれない白川さん、という状況が続く、が、さてどうなる。全 3 巻という比較的コンパクトなまとまりになりつつ、破綻も後腐れもない終わり方は見事だ。

恋愛作品というよりはセラピーというか人間関係の修復という面もあるわけだが、作中で引用された《エレファント・マン》の当該シーンと台詞を本作にどうやってパラフレーズしていくのかを考えたりすると、楽しい。

という感じで、オススメしたい作品だ。

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伊図透の『銃座のウルナ』全 7 巻を読み終えた感想を残す。完結したのは 2019 年の 3 月(最終巻の発売)で、私は 2016 年 3月に 1、2 巻を読んでから新刊の発売とともに 2018年 3月の 5 巻まで追っていた。その後、6 巻と 完結巻の 7 巻までが出ていたことは知っていたが、ここまでの時点でなぜか買うのを躊躇っていた。今回はカドカワの Kindle セールのタイミングで読んだ次第だ。この記事の初稿は 8 月に書いている。

普段はネタバレ上等という感じで肝心なところの内容もガシガシと書いているが、なんというか本作はそのような気分にならないので、ほのめかしばかりの汚い文になった。いつも汚い文であるからして趣が少しだけ異なるというだけだけど、読む人がいたら許してほしい。

さて物語だが、寒さの厳しい戦地に送られた女性の腕利きスナイパー、主人公のウルナである。タイトルの通りだ。戦争というか、よくわからん僻地で小競り合いをしているらしい。状況も把握できないまま、どこから本作の特徴が出てくるのかと読み進めていくと、そこには対抗している蛮族とされるヅード族、彼らのビジュアルに特徴があった。彼らは蛮族というか、造詣が人間とかけ離れた、異形の怪物なのである。まぁヤバい。こりゃ退治せにゃならん!

伊図透の描画がもたらす印象には、宮崎駿や諸星大二郎のような繊細さがある。なんともいえない浮遊感のあるフワッとした線だ。これがヅード族の怖さをうまく表していた。そうではあったのだが…。

その僻地での戦闘も、ウルナの活躍によって 3 巻で終わった、のかな確か。そうすると舞台は一転して地元に戻ったウルナについて、4、5 巻と幸せとも覚束ない彼女の生活が描写される。どういうことか? 全 7 巻です。ざっくりと言うと、僻地での異形との戦闘はあくまで前振りだったのでした…。どういうことか?

ところで、というわけではないのだが、最終巻について Amazon に星 3 のレビューがあって、引用はしないが内容は「まぁね、同意しないが気持ちは分かるよ」というコメントであった。私が 6 巻にすぐに手が出せなかったのも、彼とおそらくは似たような感覚による。「あの戦争はなんだったのか」というような不安定な気持ちの切り替えが、読者として割り切れず、そこが本作の少しの難しさかもしれない。

だが振り返ってみると、そういう読者としての置いていかれた感覚が、そのまま登場人物たちが抱く戦争と生活に対する漠然とした感覚とリンクする。

リンクしたのではないか。

さて、ヅード族の異様さ、ところが何となく愛着を感じさせる様子、もしくは彼らとウルナ達との交流(とも呼べないようなそれ)もあったのかもしれない。前半の前振りの作用の仕方が、気がついてみれば割とありきたりな話(設定)とも思われるが、どういうわけか、あまりにも驚かされた、こういう話だったのかと…。

タイトルでもあり主役でもあるウルナの運命や決断は、言うまでもなく主題として物語りを牽引しているのだが、なんというか全体感としてはウルナッー!! という感じではなくて、群像劇というほどでもないし、個別の人間関係にフォーカスして思いを抱く気分にもならず、読後感としてはちょっとした爽やかさと、それに随伴する後ろめたさとが表裏にあって、なかなか得難い体験であった。

この感覚は、端的な形容詞で表すと「切ない」がもっとも近いような気もしたが、その切なさがどうやって紡がれているのか、どういう理路によって生成されるかも、良い意味でハッキリしてこない気がしている。そう結論した方がいい気分である。

あるいは戦争文学、映画などに類するような虚無感や寂寥感が同居する、と言ってもいいのかもしれない。まぁ、戦争を扱ってる作品なので、当然とも言えるのだけれども…。逆に言えば、コミックでこの感触を残すのは凄いのでは? とも思え、似た作品で同じような読後感の作品はちょっと思い当たらず。

この感触を味わいたいタイプの人間には、とてもよい作品だわね、という感じでオススメしたい。

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Kindle Unlimited に収録されているコミックを漁っていたら『けずり武士』が異様におもしろく、ビックリした。湯浅ヒトシというマンガ家を知らなかったことを悔いる。Wikipedia には個別のページもなかったので、さまざまに転がっている情報をかき集めるのみである。一応、主な発刊作品は以下のようであるらしい。なお、おそらく『B級探偵』以降の作品は Kindle Unlimited で全巻が読める状態となっている(本記事執筆2020年10月5日時点)。

  • 『田舎刑事』(1986?)
  • 『凶獣よ荒野へ』(1987?)
  • 『次太郎部屋住録』(1888?)
  • 『田舎市長』(1989?)
  • 『左京SAKYO』(1990?)
  • 『B級探偵』(1990?)
  • 『ホイッスル』(1993-1995?)
  • 『かぶきの多聞~大江戸痛快時代劇~』(1996?)
  • 『耳かきお蝶』(2005-2008?)
  • 『けずり武士』(2011-2012?)
  • 『空拳乙女』(2012-2013?)

上記は、 まんがseek の湯浅ひとし のプロフィール および Amazon その他の雑多な書籍情報から集めた内容および類推(誤記らしきものの修正)なので、まったく出鱈目になっているとは思わないが、必ずしも正確な内容ではない。

また、まんがseekに拠ればデビューは 1975 年とのことで、途中までは兼業作家だったのかな。さらに生まれは 1956 年で今年で 64 歳になるようだが『空拳乙女』以降に作品を出しているのかも不明で、ただ残念である。なお、『耳かきお蝶』以前は「湯浅ひとし」名義であったようで、以降は「湯浅ヒトシ」としたようだ。

「かぶきの多聞」以降に時代物(江戸から幕末、明治維新までかな)に本格的に着手されたようで、時代物についていえば現時点で『耳かきお蝶』と『けずり武士』を読んだ。『けずり武士』がタイトルを「削り節」と掛けていることからも察せられるが、時代に翻弄される浪士たちを描いたシリアスな本筋に、江戸当時の食文化が丁寧に絡んでいる。

この塩梅が絶妙で絶品なのよ。説明も難しいし、これ以上ここでは触れないが、とにかくよい。

ところで、時代物のコミックも、史実にオリジナルを混ぜ込みつつ、考察の余地というか学習マンガのような側面が明らかに認められるタイプがあるように思われ、いうまでもなく『風雲児たち』を念頭に置いているが、これらを「歴史もの」呼ぶなら、『けずり武士』をここに括るにはやや大胆か。これらのサブジャンルの分類って確立してなさそうだけど、熱心なファンおよび研究者とかどれくらい居るんかね。

その他は『空拳乙女』、『ホイッスル』を 2 巻まで読んだ。どちらもおもしろい。それ以前のどちらかというとハードボイルドっぽい内容?、および絵柄の作品はまだ読めずにいるが、機会を見て読みたい。

段々と話がずれていっているが、「ひとし」という名前のマンガ家というと岩明均を忘れてはならない。こちらは生年が 1960 年ということで湯浅ヒトシとは 4 歳差か。大雑把に同年代と括っても問題はないだろうか。60 歳代のマンガ家というとどの辺なのかなと思いあたる作家を調べると何だかんだでいろいろな発見がある。おそらく週刊少年サンデー最盛期といっても過言ではない時代の作家さんたちはこの年代が多いのではないかな。こち亀の秋本治もこの世代か。

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《テネット》を観た。クリストファー・ノーラン監督の作品は、《インセプション》(2010)、《インターステラー》(2014)、《ダンケルク》(2017)は観たが、特にファンというワケでもない。《ダークナイト》(2008)は配信で視聴したが、途中でリタイアしている。なんだかんだで《インセプション》が 1 番好きかな。

断然、劇場で観たほうがいい作品が多いだろう作風で-消極的な意味でも、本作も漏れないというか、少なくともここまで鑑賞した作品のなかではもっとも攻めている。

ここまでやるのか!? と笑ってしまうシーンはいくつかあった。いやー、おもしろいっすけどねぇ。鑑賞中に思い当たった大枠での大雑把な印象としては、今回は 007 ばりのスパイアクションをゴリゴリの SF 味でやりたかってんなというのと、全体感として監督の姿勢と売り方、観客の取り込み方はなんとなく新海誠に似ているな、というくらいだが、これらは内容とはほぼ関係ない。

本作、展開が「まったく分からん」という人には残念だが仕方ないと言うしかないし、「なんとなくは分かった」「大体わかったって人」はそれで充分なんだろう、と思う。私もモヤモヤしている。時間を逆行するという設定がどのように展開に作用するのか、という説明らしい説明はほとんどなく、おそらくさまざまに現れているであろう設定上の矛盾も、気にしてもしゃーないっしょ、となるくらいの勢いである。

まぁ SF に限らず、フィクションって突き詰めればそういうもんや。

本当の主人公は誰なんや

ジョン・デイビッド・ワシントンの演じる「名もなき男」を主役として物語は展開する。彼はいわゆる CIA に雇われたエージェントとして世界の破滅を阻止するために、世界中を駆け回ることになる。そういえば、中国という存在がからっきし無視されているのは最近の映画にしては珍しい。これは大分に意図的なのかねぇ。

話は彼がいないと回らないわけだが、なんとも釈然としない。いや、別にいいんだけども、いかんせんプロット上で計算されて名前も与えられていないわけだし、プロフィールも無に等しいので、この作品は少なくとも「名もなき男」に感情移入するようには作られていない。別にそうなっていないからダメという話ではないが、留保。

で、身も蓋もない話をすると一応はヒロイン枠のキャット(エリザベス・デベッキ)と、悪役でありキャットの夫として登場するセイター(ケネス・ブラナー)のごくパーソナルな愛憎こそが本筋めいてくるのではと思ってしまう。

このように私が思ってしまった原因だが、感情移入という点も然ることながら、クライマックスの展開において、何が起きているのかが分かりやすいのがこの 2 人の駆け引きのシーンに他ならないからだ。身も蓋もなくて申し訳ない。

なんなら印象的なのは、中盤あたりのキャットの台詞が最後のギリギリで回収される描写であって、本作は基本的にはタイムパラドクス的な作用は小さめ(あるいは起きえない)になっているのだが、ここの関しては、遡行による手続きが生み出した、彼らの中期的な運命を決定しかねなかった(どう作用したのかはキャットのみが知る)内容につながるアクション-もといリアクションが映る。

キャットはセイターに息子を人質のようにされていたわけだが、息子は姿や陰こそみせることはあれど、顔や表情などはほとんど映さない、不自然とも思えるほどに。当然のように台詞もない。キャットと息子という分かりやすい関係も感情移入の対象として最小限とされている。

そんなもんで、繰り返しになるが、本作で感情らしい感情を吐いているのはキャットとセイターくらいで、感情の向く方向も双方にしかあり得ないのだ。とはいえ実のところ、この 2 人の感覚というのも、感情移入しやすい代物ではないのだが。

世界を道連れにする男と女

まずはセイターだが、ソ連の出身地で未来人から自分に向けられたメッセージを受け取る。いわく、別の未来人が同時代に埋め込んだ、世界を決定的に巻き戻すツールを完成させ、実行せよと。

対価として巨万の富を得るが、そもそもの彼の人間性、および膵臓癌が寿命となることが運命づけられているというルートによって破滅を実行することになる。

自分がしょうもない死に方をするくらいなら世界を丸ごと道連れにしてやろうというアナーキーというか退廃的な思想は、どこまでも自己愛的でしかないわけで、いや、こいつに同情するのは無理でしょ(笑。とはなる。

同じようなラインの感想として、悪役としては小物すぎるというコメントを見かけたが、逆に言えば、世界を巻き戻して破壊するなどというのは、ごくパーソナルな破滅と直結しない限りは描写しえないと監督は踏んだのではないか。

あらためてキャットについてだが、まず画家との関係がよく分からん。なんなんや。まぁどうでもいいけど。

えーっと、キャットがセイターから暴力を受けるシーンをネガティブに捉えてたコメントをいくつか散見した。つまるところフェミニズム的な観点であったり、ノーラン監督の作風に関しての視点だったりする。これらの視点が問う問題は言うまでもなく在るはずで、私も鑑賞中に嫌な気持ちになったり、-嫌な気持ちと同じくらいハラハラさせられたりしたが、なかなか難しいところではというのが意見で。

なんならクライマックスでキャットがセイターに対して復讐のように、まさしく復讐として死を与えるシーンというのは上記の暴力シーンよりもよっぽど猟奇的で、そこにはセイターが世界を滅ぼす悪だからいいでしょ、という言い訳は成り立ちづらく、やはりごくパーソナルなのだ。そもそもタイミングを間違えたら世界を破滅させていたのはキャットなので。

であるからして、割とおもしろいのは、これもありがちではあるが、世界の存亡と或る夫婦の愛憎が紙一重になっている点だ。

つくづく、セイターとのやり直しを考えていた時期のキャットが目撃したデッキから飛び込ぶ女の存在が、そのキャットの心情の行く先をどれくらい左右したかは定かではないが、それは運命的に、そして文字通りセイターとの離別を示していた。この点がどうしても心残りだ。

私にとっては、テネットとは、そういう話であった。と書いたことを読み返していたら、やっぱり新海誠じゃん! とか、これ、セカイ系じゃん! みたいな気分になってきたが、Twitter をみてみるとこの類の感想も散見されるので自分の想像力の弱さにゲンナリしてしまった。

汝、早送りは不可能なりか

突っ込むのも野暮だという設定まわりだが、一点だけ気になっていることがある。それは「遡行開始時点にピンポイントで戻ることができるか否か」なのであった。まずか回転機構の確認からしたい。

回転機構に入って、出ると遡行時間の流れの中で行動できる。これは分かる。回転機構に入るときは、必ず反対側に設置された同装置から出現する自分を確認するようにルールづけられており、まぁこれも分かる。

目的のポイントまで遡行したら再度、装置に入ることで順行する。これも分かる。とはいえ、このとき順行側から出てくる自分を確認することはあるのだろうか。それがまずよく分からない。逆行から順行に戻る描写は、クライマックスのニールのシーンでは描写されてたのかな? その他の要所でもここは省かれて描写されていたように記憶している。

関連して「本作はタイムトラベルではない」とか「多元的な世界-いわゆるタイムパラドクスは採用しない」とかいうコメント(真偽はしらぬ)を散見した。

前者はまあわかるのだが、後者はどうか。少なくとも最新時間からは自分はいなくなっているはずで、巻き戻しから到達する最新時間は遡行者の介入のなかったはずの未来から僅かずつ異なっていくのでは? あるいは、さんざん取り上げたがキャットの心情を決定づけた展開と状況をどう説明するか。

でまぁ、特に関連もない新たな疑問を広げてしまったが、気になっている一点は、おそらく不可能で、元いた時間(巻き戻しの瞬間)に戻るためには同じだけ時間経過をたどる必要があるだろう。そうなるとよほど時間遡行を計画的かつ慎重に実行しないと、同一時間内が自分だらけにならないだろうか。

また、特にタイムパラドクスがないという観点を主軸にした場合、タイムトラベルと違って自分が実行しないことは起きえないはずなので「未来の自分がやってくれる」みたいな希望的、信念的な時間感覚は採用されないと思っていいのかな? これは。設定の性質上、通常の時間トリックの SF よりやたらと忙しく、おそろしく時間を費やすイメージがある。まぁ、よくわからん。ただ、時間を操る代償としては分かりやすいか。

しかし、設定こそ異なれど、やはり「ドラえもんだらけ」が如何に秀逸な作品であったかが再認識させられるものである。さて、いくつか解説記事で読んで理解を深めたりしたが、関連作品の参照先としては以下が参考になった。さすがの大森望である。

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《薄氷の殺人》(2014)を観た。同監督(ディアオ・イーナン)および同主演(グイ・ルンメイ)の《鵞鳥湖の夜》の上映が始まるので、それを期した短期上映を利用させてもらった。また、どちらにもリャオ・ファンも出演している。彼は《帰れない二人》でも見た俳優であった。

原題は『白日焰火』、英題は “Black Coal, Thin Ice” となっており、どちらもよい。原題は話が進むにつれて決定的な意味をもたらす仕組みになっている。一方で英題は、本作の基調を表していると解釈して大方は間違いではなさそう。

ところで邦題の「薄氷の殺人」というのは、解釈のしようはあるとは思うものの、本作をミステリーと勘違いしてしまいそうだ。そういう意図があるのもしれない。この作品、ミステリーやサスペンスといった面もあるが、不幸で陰鬱、だが救いがなくもないようなという映画で、これがいわゆるフィルム・ノワールの系統である、らしい。まぁジャンルはどうでもいいが、ミステリーやサスペンスに主軸があると評すると、作品としては杜撰にみえてしまう強度か。

グイ・ルンメイがあまりに美しい、美しすぎる、といえばなんか感想としては七割くらい言い切った気持ちになってしまうが、さすがにそれだけでは味気ない。本作、私は何を楽しんだか。

この作品の舞台や年代はどうなっているのか

まぁどの映画でも気にするに越したことはないテーマだが、作品によっては舞台や年代を気にしても仕方ないパターンもある。本作は 2014 年の映画だが舞台となるのは 1999 年、および 2004 年らしい。どうしてこの年代を選んだのか、よくわからん。

舞台は中国北部、華北地方らしいが、詳細は特にないらしい。土地柄か時代性か、あるいは両方だろうけれども、田舎の中国らしいやや貧相で雑多な雰囲気が漂う街、画面となっている。リャオ・ファンの演じる主人公をはじめとした刑事たちも、花形職としてプライドはありそうだが、どこかマヌケというか杜撰さが否めない。

携帯電話やパソコンなどが一般化しつつあった時代と思われるが、中国の田舎としてほとんど登場しない。最近は話題にならないが、この頃の中国は Windows の海賊版が流通していたような状態だったのではないかな。逆に、あるシーンで中国などでよく目にするタイプのネットカフェのような設備が映るが、これは逆に 00 年代にすでにあったのか? やや疑問となる。まぁ、あったんだろうな。どっちでもいいけど。

不器用な男の、散っていく、なんだろうね

リャオ・ファンが演じる元刑事が主役ではあるのだが、まぁなんだか憎めない男であるように描かれるが、やってることは本当にクズ男そのものなんだよね。弁明の余地がない。彼の行動はいずれの状況でも一方通行なんだよね。

《帰れない二人》でリャオ・ファンが演じた男にも似たようなどうしようもなさがあったが、これは何なのかなぁ。中国映画にあまり明るいわけじゃないけど、主要な登場人物がそこそこにクズ男の割合がそこそこ高いような気はする。これはなんなのか。開き直りなのか。時代性なのか。

結末をどのように解釈しようが-まぁ目を逸らさずにしようとすれば、選ばれるのは決まっているように思うが、音楽と踊りという要素が本作のなかでどう作用しているのかはよく分からんままだ。

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《シチリアーノ 裏切りの美学》(以後「シチリアーノ」)を観た。イタリア映画である。原題および英題は “Il traditore”、”The Traitor” となっているので端的に「裏切り」でよいようだが、邦題に付された「美学」はどうか。とある SNS で的確でないとツッコんでいる人がいたが、この場合は「貫き通した信念」くらいのニュアンスで「美学」としているのだろうから、許容の範囲ではないか。どうでもいいけど。

同じく SNS でよく見かけたコメントより、背景知識の欠如が鑑賞の足を引っ張ることになることが確かめられたので、主役となった人物 トンマーゾ・ブシェッタ の Wikipedia の記事を事前に読んでおいた。これは完全に正解で、起こる出来事はだいたい把握でき、話が見えずに集中できないという事態は免れた。なんとなく絶妙におもしろくて、珍しくも鑑賞後にパンフレットを買うてしまった。

イタリアにとってのマフィアとは

さっそくだが、本作の話題からすこし逸れる。

《シシリアン・ゴースト・ストーリー》(2018)という映画があり、これは劇場で知識なしで観たら困ってしまった作品であった。この作品は、シチリアで起きた誘拐事件(ジュゼッペ事件)がベースになっており、言うまでもなくシチリアのマフィアの存在が根底にある。

この誘拐事件は 1993年に起きたとのことで、今回の「シチリアーノ」で描かれた時代と部分的に重なる。重要な登場人物、というか当時に権力を利かせていた大ボスである サルヴァトーレ・リイナ が同じ背景におり、改悛しようとした構成員を脅すための誘拐だったらしい。

この作品の監督は「事件から20年以上が経って、シチリアでもこの事件のことを知らない人がいたりして、この事件のことを忘れて欲しくないという思いで撮った」らしく、なるほどそういう意義も大きいのかと、あらためて学んだ次第だ。

「シチリアーノ」にも同じ面はあるはずで、現存のイタリアやシチリアにおけるマフィアの支配はおそらく弱まりつつあるのだろうけれども、とはいえこの半世紀以内に起きた出来事のインパクトはあまりにも強烈で凶悪であり、一方で、マフィアが必要悪として受け入れられていた状況もあるだろうわけで、このような作品たちがイタリア国内でどのように消化されていくかは単純に興味深い。

「シチリアーノ」の感想として、マフィア映画としては微妙のような意見もいくつか目にしたのだが、そもそも実話ベースの社会派作品という本作の側面を見落としているのではないか。

奇妙な倫理観、あるいは残虐性

ブシェッタも所属したコーサ・ノストラ、彼らの約束する「血の掟」とは、まずは組織の秘密を必ず守ることにある。そもそも組織の存在とその構成員であることを彼らは公的には否定する。その掟のもと、ブシェッタの主張としては、もし構成員が組織から排除されるにしても、それは彼らの関係性の内、最小限の人間関係の中で処理されるべきものであった。

こういった条件の下、彼らは家族となる。任侠の世界では義兄弟になるし、マフィアも似たようなものらしい。ところがブシェッタの裏切りと、本作で最大の黒幕として描かれる-実際にそうなのだが-サルヴァトーレ・リイナとの確執の大元には、まず 2 人の家族観の相違があったようだ。本作でもその点が大きな要素として描かれる。

が、言っては何だが、だからなんなのだという話にも見える。

リイナの指示の下(とされる)に繰り広げられた虐殺ともいえるコーサ・ノストラの大凶行は-リイナの極端なまでの猜疑心の強さにも起因するらしいが-、とにかく見境がないようで。劇中で、まるでゲームでもあるかのように演出された状況は、悪く言って爽快ですらあった。

そんなリイナは、端的に言っていわゆるサイコパスなんじゃないのかとも思うが、そうしてしまうとマフィアのほとんどが該当しそうになる。家族は大事であると口を酸っぱく言う彼らだが、どんな家族だよ、それ、という。また、結局のところブシェッタも、度を過ぎた大量殺人には異を唱えたものの、外道には変わりない。

結論というほどのことでもないが、社会的に、人の命が軽くなるという状況において、どのような諸条件がそれを引き起こすのかしら。それは麻薬なのか、戦争なのか、金なのか。

えらい法廷があったもんだ

話が拡散してしまいがちだ。ブシェッタの告発により、幾人ものボス級の構成員が捕まる。そんで、彼らの罪を裁こうという段になる。

1984年に執り行われたらしい所謂「マフィア大裁判」だが、逮捕された大量の構成員が、大法廷に用意された左右の檻に収監され、やいのやいの騒いでいる。各人の弁護人と担当などが中央の座席に扇状に並んでおり、後方の 2 階部分には親族やマスコミが立ち並ぶ。パンフレットによると、この大法廷はこの裁判を目的として建造されたらしい。

同パンフレットには、この法廷劇を迫力があるというように述べていたが、どうか。一方で、SNS ではシラケたというような意見もあった。私の意見はどちらでもないが「ところがどっこい、これは現実」をほぼ忠実に再現した作品なので、「迫力」をそのまま解釈すれば、これは私は真実味ということになると思う。

檻のなかのマフィアは一部の人物を除いてはかなり滑稽に描かれている。ここには社会派映画としての側面、監督としての矜持があったのではないかな。マフィアは恐れられることは十分に認めるが、滑稽にされることについては許さない、とのことで、これはなかなかマフィアに対しては攻撃的な描写に見える。牢の中でお道化ている彼らは正直、ダサい。

裁判としてまともに機能していない法廷劇は、感触としてはたしかに「シラケている」のだが、なので、だからこそ面白い。

「対決」という謎のシステム(イタリアの裁判システム)によって、ブシェッタとの旧知の友にしてコーサ・ノストラの要人でもある ジュゼッペ・カロ、彼とブシェッタとの口論も描かれるのだが、カロの主張があまりにも弱く、なんでこんな茶番染みていて子供っぽい言い争いになるのかさっぱりわからん。しかし、これも実際にこういうやりとりがなされたんだろう。

そう考えると単純にウケるし、こういうトンチンカンな主張を公的に開陳するやつ等が何人もの人たちの命を軽々と奪ってきたのだという奇妙な現実感も引き起こす。

結局のところ、この大裁判によって、カロは終身刑で投獄され、まだ獄中にいる。また、大裁判より 8年後の 1993年にはリイナが逮捕されており、こちらは 2017年に亡くなったらしい。ブシェッタはそれより早く、2000年にアメリカ合衆国で亡くなっている。

この記事を書くにあたって軽くググってたら、以下のブログよりリイナの訃報のネットニュースのリンクがあった。当時の報道や獄中のリイナの様子などが動画で確認できるが、なるほど作中では要所が的確に再現されていたのだなと確認できて、よい。

その他のことなど

なんか音楽がよかったらしい。鑑賞中、今回はあまり気づけなかったのだが、パンフレットに記載された最後の記事によると、かなり手が込んでいたようだ。担当のニコラ・ピオヴァーニは、いくつかの有名な作品でも仕事をしている。もう一度鑑賞したいというモチベーションは今のところないが、確認はしたいなぁ。

Netflix にブシェッタのドキュメンタリー作品『裏切りのゴッドファーザー』があるらしい。これは見てみたいな。

似たような状況というか、命の軽さという面で、現在のメキシコは当時のイタリアに近いのではないか。あるいはそれ以上の異常事態なのだろうか。メキシコにおける命の軽さはその死生観にも関連があるのではという話もあったが、そうではないのかもしれない。あるいは、イタリアとメキシコの死生観、命の軽さって似てるんじゃないのか、とも考えられるが、どうなんだろう。日本人にも割と近いところがあるようにも感じる。

監督マルコ・ヴェロッキオの他の作品は見たことがなかったが、何か機会を作って鑑賞したい。

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《宇宙でいちばんあかるい屋根》を観た。映画の原作の野中ともそという方を知らなかったが、元は音楽畑から活動をはじめて編集者となり、現在はニューヨークに在住らしい。Wikipedia に載ってる情報の受け売りだが、原作はもともと 2003年にポプラ社で書き下ろしの単行本として刊行され、2006年に角川文庫、今回の映画に合わせて本年 4月に光文社から再文庫化されて刊行されているらしい。数奇な運命やな…。

本作、ファンタジーらしいぞ? というくらいの事前情報のみで鑑賞した。劇場には老若男、という感じで確認できる範囲では男性しかいなかったが気になったが、どういうことかな? よく分からない。レイトショーなのでそもそも疎らではあったのだが。

さて、今年はコロナの影響などもあって観られている作品自体がそこまで多くはないのだが、序盤のワクワク感は割とかなり強烈なインパクトを残してくれた作品で、総合的にもかなり満足感の高い作品だった。

脈絡のなさなどどうでもいいのだ

原作も未読なので本作の想像力を支えている根本的なテーマを見落としている可能性はあるのだが、作品への没入に失敗するか、没入を拒むと、そもそもつばめと星ばあの出会いがなぜ発生したのかという疑問が大きくなるばかりだろう。実際、そんなことは気にしても仕方ないのだが。

「宇宙でいちばんあかるい屋根」というテーマがどのように導出されるのかについても、率直に言うと星ばあ(桃井かおり)のインパクトに一任されている感がある。とはいえそれはオープニングの映像をはじめとした映像表現の端々で補強されてはいるのだ。

ところで、撮影のロケ地は神奈川県秦野市と聖蹟桜ヶ丘で行われたらしい。作中で登場する水族館は設定上は江の島だろうと思うが、もっとも幻想的に描かれたクラゲ水槽のシーンは山形県の鶴岡市立加茂水族館がロケ地とのことで。

山形に足を延ばす機会はなかなかないが、加茂水族館には行ってみたいものである。

わかりやすい多様性をさまざまに見せる

この映画のよさは、登場人物たちの多面性がわかりやすく描かれていることにある、としたい。主人公である大石つばめ(清原果耶)の体験やその他の描写を通じて私たちはそれを楽しんでいる。

本作で 1 番よかったなと思ったのは、伊藤健太郎の演じた浅倉亨と彼の演技だった。つばめの憧れの近所のお兄さんとして画面に映るときは、ちょっと年上のお兄さん役を格好よく魅せているが、家族内で浮いている姉をなんとか繋ぎとめようと努力しているシーンでは、健気な弟として、ある種の弱弱しさと健気さを醸していた。よい。

つばめの父である大石敏雄(吉岡秀隆)、妻が妊娠中であるためかしらないが、よく家に居る。本作の設定の仕掛けのひとつは中盤くらいから徐々に明かされるが、敏雄の葛藤というのはほとんど表面化しない。というのも、本人の中ではほとんど解決しているからだろう。つばめへのフォローが父としてどうなのか? みたいな疑問は湧いたが、思春期の娘への対処としてできる限りのことはしている、とも取れる。

男性陣としては笹川誠(醍醐虎汰朗)もよかった。作中では残念ながら全編に渡ってほぼ好感をもてるキャラではないのだが、最後のシーンでは大いに笑わせてもらった。擁護するものではないが、結局のところ単純にこのような不器用さが生き方になってしまっているのであるなぁ。

山上ひばり役の水野美紀も大石麻子役の坂井真紀もひさびさにみたが、どちらもよかった。眼力がある演技をされていた。

その他のことなど

主演の清原果耶は中学生を演じていたが、実年齢は 18 歳か。162 cm という身長らしいが、中学生としてもそこまで違和感のない映り方をしていた。演技や衣装、撮影などが巧いのか。制服姿のときは大人っぽく、私服姿のときは中学生相応にみえるというのは上手な構成だなと。彼女の流した涙がどのように変遷したのかというのは、考えていて楽しい。星ばあと過ごした夏は、どれだけ濃密な時間だったのか。

ドローン空撮で、秦野市の住宅街を映している。オープニングでかなり映す。まぁ、これがテーマですと。これを見れただけでも鑑賞してよかった。映像にはパステル調の加工がなされていると思う。映画と直接関係ないのだが、ゲーム『Cities: Skylines』などシム系のゲームを楽しんでいるときのような光景が気持ちいい。話が飛ぶが、学校のガラスに屋根屋根が映っているのもよい。

「星ばあと邂逅するエリアの美術がちゃちい」みたいなコメントを見かけたのだが、上記のようにゲームっぽさというか、世界観の小ささとしての反映としては見て取れないか。秦野市には行ったことがないが、割と山に囲まれた箱庭的な土地のように見えた。あくまで脚色されたモノではあるが、これが大石つばめの等身大の世界なのだ。

内容の味わいとしては全然異なるが《はちどり》と同じような年齢の子が主役の物語となっており、近い時期にみた映画としてどうしても連想されてしまうのも面白かった。まぁ全然別ものなんですけど。

藤井道人監督、《新聞記者》は全然ピンと来なかったですけど、これはハマりました。ありがとうございました。

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《透明人間》(2020)を観た。もう上映はほとんど終了しているのではないか。自分は見るかどうか決めかねていたのだが、リー・ワネル監督の作品の《アップグレード》(2018)が楽しかったので気にはなっていた。

リー・ワネル自身はそもそも SAW シリーズで有名になったようだが、脚本や総指揮、出演こそすれど監督としては参加したことなかったのだな。どういう経緯なんだろうか。ちなみに、私は SAW シリーズはまったく見たことない。

ところで制作には《ゲット・アウト》(2017)や《ブラック・クランズマン》(2018)などのジェイソン・ブラムが入っている。

主演のエリザベス・モスは《アス》(2019)に出演しているし、この辺に縁というかコミュニティがあるようにも思える。まぁ余談だね。

透明人間という題材だが、ウェルズの原作を基点として最初の映画《透明人間》(1933)があり、そこから同じテーマでさまざまな作品が生まれたようだ。 1933年 の最初の作品は未見だが、2000年の《インビジブル》は私も映画館で観た。こちらの作品は、誰にも認識されなくなった恐怖と不安が狂気になっていくというプロットだったと記憶している。

話を戻す。監督の前作《アップグレード》は良質な B 級映画という印象が強かったが、本作は脚本のケレン味がほどよく配合された良質なホラー、SF、サスペンスになっっていたように思う。世界観や登場するギミック、透明人間のシステムの設計がかなり現実的ぽっくて、フィクションを楽しむために動員すべき割り切りや、へんなシラケがかなり抑え気味だ。

というところまで書いたが、いまいち感想がまとまらない。なんだろうなぁ。特に印象に残っているトピックだけ挙げておこう。

エリザベス・モスの演技がよい。セシリアの狼狽するところ、顔面蒼白(文字通り)になるところ、冷静になるところ、いろいろな表情を楽しめる。《ヘレディタリー/継承》(2018)のトニ・コレットの演技を連想してしまった。屋根裏のシーンなんかも絡んでいたので、なおさら。

ラスト付近の食卓に用意されたワイングラス。完全に円柱状のグラスになっており、あまり目にしないタイプだ。非常に印象深かった。この道具に限らず、割と監督は画面内に映る小物の配置などに、こだわりが大きいのではないか。

剣はペンより強かか

結末にはいくつかの解釈(深読みの余地)が用意されているようだが、私としては割と表面的に描かれたとおりの物語であるとしたい。彼女が果たしたエイドリアンへの復讐は、その手段から明らかなように妹エミリーへの餞であるように見える。

本作、ペンが割と象徴的に使われている。上述の小道具へのこだわりにも関連するだろうか。結局のところ、ペンはナイフには敵わなかった。

ゼウスはどこへ消えた

そういえば私としては、この点が 1 番気になっている。そもそもセシリアは冒頭でゼウスをどうしたかったのかがよく分からない。そしてゼウスと再び出会ったときの状況も不自然(ではないとされる)であったが、それもスルーされる。

その後、ゼウスは姿を消してそのまま終わってしまう。

…先ほど「私としては割と表面的に描かれたとおりの物語であるとしたい」と書いたが、飼い犬のゼウスが文字通りゼウスであったとしたら、この物語の解釈はどうなるか…。セシリアのお腹のなかにいるのは誰の子なのだろうか…。考えたくないですね。

透明であること、または視界が開けていること

「透明」というテーマは本当に奥が深い。対象が視える、あるいは視えないというのは、日常的にも学術的にもいろいろな切り口から考えたり論じたりされえるテーマでしょう。こと人間に限らず、透明であることがどういうことであるかというネタを扱った作品には興味があるね。

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8 月中に「ジャンプ+」で全話公開されていた。初めて読んだ。現行の連載作品『チェンソーマン』よりも分かりやすいのではないか。巻数も 10 巻以内となっているし、これは個人的な佳作、名作のラインナップに加えたい品だ。

祝福という名の呪いを受けた人間たちがいる。そのなかでもきわめて不幸な状況に陥った主人公アグニは、自らの祝福が効力を発しつつ、他者の祝福である業火に包まれている。業火はアグニが消滅するまで永続するが、アグニ自身の祝福によってその消滅は阻まれている。

この状況って何だっけなぁ。ジレンマというか、非常にうまいトリックなんだけど、似たような設定が生かされた類似の作品が思い出されるようで、出てこない。まぁいいか。しかし、これを第 1 話でバビェーンとやってしまうのが藤本タツキの凄さよなぁ。

さて、長々と書きたいことを散らかすとあらすじを追うだけになるし、テーマで切っても似たような書き方になっちゃいそうだし面倒だから、キャラクターで感想をまとめる。

アグニ

イニシャルは「アンパンマン」のアだそうだが、結果的にはインドの神話に登場するアグニ神の名となり、ベタに燃えることが運命づけられている。復讐か正義か、なんのためにどのような衝動で動いているのか不明瞭なままに死にながら生きつづける(誰でもそうじゃん)が、苦痛でしかない生を過ごすにあたって(誰でもそうじゃん)理由が必要だので、なんとなく指針をとる。この指針作りについてはトガタとのコンビ時には安定していたが、いかんせん、話が動くときは自我をコントロールできることも稀であったので、いかんともしがたい。

ところで妹への愛は家族愛としてのプラトニックなそれではあったが、じゃぁその最愛の存在に似た別人が目の前に現れたらどうする? というようなテーマは実はあったんじゃないのか? 結論と言えば身も蓋もないが、全部を忘れてから再会できればいいじゃんね。倒錯的だなぁ。

しかし、時空を超越した先の再会という意味では『一千年後の再会』(藤子・F・不二雄)を連想せざるを得ないね。これもそんなに珍しい設定ではないけれど。ところで、アグニのような図体はでかいけどそれをコントロールする知性や目的が足りないという人物像はよく講談社系のコミックスで目にする印象があり、これが集英社系のコミックスで描かれたことに割と違和感が大きい。チェンソーマン然りである。

ドマ

アグニを燃やした張本人で、そういう意味では本作の超重要人物だが、ほとんど退場している。「半端な正義が世を正す方向にうまく作用するか」というようなお題をアグニに提出するあたりは、皮肉も利いていておもしろい。

本キャラクターのネーミングは「ドラえもん」から取っているというヒントが著者から与えられてるので、では彼自身のキャラクターにも何らかの反映はあるのではないかと勘ぐってしまうが、そう簡単でもなさそう。万能な(とされる)人物の身勝手さ、あるいはその限界、その象徴という意味ではたしかにドラえもんほど的確なものもいないかもしれない。

とはいえ、後述のサン(「サザエさん」より命名)との関係を考えると、ドマ-アグニ-サンの順に継承される愛憎というのは、あまり表面化されないが割と重要なサブテーマだったのでは。生きるための精神的な糧を完全に他者に委ねてはならない、とでもいうような。

トガタ

いいよね、彼のようなトリックスターは最高だ。作者の分身といってもよさそうな役割、人物像だが、その最期はどうだ。トガタ自身も再生の祝福持ちで、どうやらその効力も大きいのだが、しかしドマの炎には敵わなかった。まぁ本音をいうとトガタが燃えていくシーンが私は本作で 1 番ツラかった。

アグニのまともな理解者というのはトガタしかいなかったという点が大きい。これは逆についても言えることで、2 人の気持ちがやっと通じた矢先の別れというのは悲劇としては鉄板だが、だからこそ、これがいい。

亡くなって以降、名前すらほとんど登場しなくなったトガタだが、映画という概念は残していった。アグニの夢か妄想かしらぬが、妹と映画館でふにゃふにゃしているイメージは本来はアグニには抱きえないものだろうし、設定上というか作劇場というか、その観点からは矛盾にも思えるが、まぁなんか、いいからいいんだよな。いいものはいい。

サン

彼の結末はなんというか「こういう風に使われてしまったか」というメタ的な感想になってしまった。サンにはアグニ教をおだやかに維持させるポテンシャルがあったようには思うが、そうはならなかった。根本的には狂信者だものね。どうも『地球へ…』のトォニィの失敗した姿が彼ではないかとイメージを重ねてしまった-背景は全然異なるが。

本来はそのまま「太陽」だという名前だが祝福は電気である。このギャップに作者として深い意図はあるのだろうか。そこまで無いようにも思う。とはいえ、仮にサンがアグニと最終的に敵対すると設定されたとき、もっとも適当な能力とも言えそうだ。

ネネトによって介護されるアグニに彼の名が与えられるのも相当に皮肉が効いており、ちょっと目眩がするくらいだ。とはいえ、ここでやっとアグニという炎が太陽としてのそれに一致するのだ。うまいなぁ。少なくともサンという名前には意味があったじゃないか。意図はあったんだ。

ネネト

割と重要キャラというか、居ないと話が進まないんだよなぁ。トガタによりカメラマンに任命された彼女は、名実ともに本作をギリギリ最後の方まで見送ることとなった仕事人である。ずっとサンを想いつづけている純情のようななにかも、それがステキなものなのかは判別しづらいが、まぁいいか。

とはいえ、結末で描かれる彼女の様子から察するに、彼女こそが太陽のように多くの人らを導いたであろうことは想像に難くない。焦点にするとすれば、彼女には作中で特定の祝福は明かされなかったことだが-普通の人間としていたが、何かしらあったのではないか? 天寿を全うする祝福とか。

ユダあるいはルナ

言うまでもなくネーミングによる印象は裏切り者だが、実際にそのような立ち位置である。幾重にも人びとを裏切っていく彼女の生き様を君は見届けたか? ストーリーの展開上、本来は望んでもいなかったルナになるという役割を時間の経過に従って受け入れてしまう狂気もよい。もう本作、頭は大丈夫ですか? となる。

スーリャ、ユダ、ルナが似たような容姿をしていることには設定上の意味付けがありそうだが、どうなのだろうか。

トガタにせよユダにせよ、再生の祝福持ちは人間的な感情が希薄になりがちだが、同じく再生持ちのアグニの激情に感化されるというのは、なんだろうか。そのアグニの激情そのものも端緒は呪いのような炎なのであるからして、業というものをよくよく考えさせられる。

一見して無垢なハッピーエンドのように描かれた太陽と月の邂逅だが、これは果たして幸福なのか。2 人は永遠にいちゃついているのかね。本作、もし仮に続編的な次回作を作るとしたら、どこに誰をどのように設定していくかを考えたら案外とおもしろそうだなとふと思った。

そこではもしかしたらスーリャの野望がそのまま実現しているかもしれない。まる。

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