幼いころから腰がすこしばかり弱く、激しい運動を続けたり、腰に負担のかかる動きをしたりすると、ビクッと腰に電流が走るような痛みに襲われることがあった。主には中学生ごろのことだ。結果的には若年性ヘルニアの類だった。

それも、筋肉やらをつけたり、腰の動きに気をつけたり、などなどのケアを続けるうちに、たまにヤバいなということはあっても、症状が特に重くなることもなく、それなりに生きてこれた。重症化すると、若年性でも手術を要することになるらしい。同級生で手術した子がいた。

で、腰に悪い動きの筆頭として挙げられたのがうつ伏せであった。それまではうつ伏せで就寝することがあった-疲れによる寝落ちだが。同じように、何時間も読書することもあった-これが決定的によくなかった気がする。これをすっぱり止めた。もう何年も経った。

昨年、自律神経の不調を自覚していろいろと情報を見ると、うつ伏せが短期的に効果があるという。つまるところ深呼吸を促すという話だ。胸部と腹部が自重で押しこまれ、呼吸が自ずと深くなるという。その通りだった。なんなら、きれいな話ではないが、内臓に溜まったガスも押し出されやすい。これも、便秘などにはよいらしい。

個人的な問題は、肝心の腰への影響だが、幸いにして、現時点では無い。良くも悪くもお腹の肉が増えたとか、体格の変化もあったろう。どちらかというと現状で注意すべきは首で、横を向く場合は長くないほうがいい。長時間、自然でない方向にスジを伸ばす形になる。

枕に顔を突っ込んで首を横にしない方法もあるが、これは呼吸しづらい、寝づらいという人もいるだろうし、難しいところだ。専用の枕などもあるように思うが、現時点ではそこまでは深入りしていない。

ところで、大谷翔平の直近のインタビューで、彼はうつ伏せで眠ると言っていた。スポーツ選手がどのような態勢で眠るのかというのは、なにかしら研究はあるのだろうか。

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新年に映画をということで《エッシャー通りの赤いポスト》を観た。園子温監督作品の初鑑賞、かつインディー映画と、なかなかヘヴィーな体験だった。映画周りのコミュニティの感想をいくつか見ていたが、目につく範囲では特に監督のファンからの感想は概ねポジティブであった。

なるほど……。

おおざっぱなあらすじ

気鋭の新人監督が新作品のための俳優を募集する。ほうぼうさまざまな背景を持ったひとたちが募集に殺到する。オーディションを経て俳優らは決まるが、監督はプロデューサーとの軋轢に苦しみ、合格した俳優も、落選したさまざまなひとらも、それぞれに苦しみ、悶える。最終的な撮影は混沌の渦となる。

エッシャー通りとは?

いわゆる騙し絵の類で有名な画家のエッシャーから援用された名称と思われる。実際上は成立しえないループする階段群や水路など、それらをモチーフにする絵画を描く。これをヒントに読み解くならば、身も蓋も無いが、本作にも循環構造や境界のあいまいさのような視点がよさそうだ。が、この視点自体は、物は言いようみたいになりがちではある。

本作は、ワークショップと地続きのうえで製作されたらしいので、前提からしてパッケージとしての映画作品と、そうでないインディー映画としてのあり方の境界が曖昧だと言えるかもしれない。あるいは、演者と観客、主役と脇役またはエキストラ、もしくはプロとアマチュア、諸々の境界が非常に曖昧になっているとも言える、かもしれない。

ところで作中で登場する「エッシャー通り」と「赤いポスト」は、映画作品への出演を希望するひとびとが応募書類を放り込むための道のりであり、投函先を指す。ふんわりとそれっぽいことを言うと、「応募者たちはエッシャー通りを歩んで書類をポストに投函した時点で、作品世界の不合理に溶け込む」みたいなことになる。

有名俳優たちは溶け込んだか?

これも監督の狙いといえばそうなるだろうし、いわゆる「○○組」という縁もあるのだろう、有名俳優たちもいくらか出演している。私が気がついた限りだと-名前をあとから確認した方ばかりだが、渡辺哲、諏訪太朗、吹越満、藤田朋子などがいた。

渡辺哲、諏訪太朗が登場するシーンは、本作におけるアンチテーゼな部分を担っており、だからこそ彼らのような俳優が起用されたのかなと察する限りだが、どうだろうか。別にここの配役も新人とされるタイプの方々でよかったのでは。エッシャーし過ぎではなかったか。

藤田朋子もまた存在感が強くて、すごい。言わずもがな。吹越満はちょっと出の友情出演くらいだったので、まぁ、でも画面を持っていって、エッシャーが過ぎる。

監督もエッシャー通りするする

作中における監督もエッシャー通りに差し掛かるシーンがある。ここも妙なことで、結局のところ監督も迷える子羊なのであった。監督の背景事情は少し明かされるだけだが、まぁ見ていれば事の次第はわかる。

殊、創作において、クリエイターという領分にとっての美の根源というか、創作意欲の源泉というのは、どういうものか。単純なことだ。

個人的には監督の元恋人の方子、彼女の最後のほうでの登場のしかたがああいう見せ方でいいのかというのが心に残っており、ああいう方法で見せるしかなかったのかなという疑問が浮かんだままだ。

粗削りというか、放り投げるとうか、逃げ去るというか、それが魅力といえばそうなんだろうか。つまるところ、園監督の状況をそのままに体現したシーンとしてしまってないのだろうか。

この作品の熱とはなんだったのか

いくつもの感想に、本作を表して「熱い」「熱量」「熱意」などのワードがよく使われていた。端的には、本作の元となったワークショップの参加者たちが抱く「映画に出たい」というパッションが、そのまま映画に反映されていたということと思う。スゲェな。

ん-、どう言えばいいのか。作品の性質上、そうなるのか。少なくとも監督がそれを求めていたかは疑問というか。言ってみればそういう熱さを冷たい目で見離した目線も監督にはあるのではないのか。それは穿ちすぎだろうか。逆にだとすれば、そういったなかで演技を求められる俳優陣たちはツラかろうな、とも。

ついては 51 人の登場人物がいるとのことだが、公式サイトには彼らの氏名はクレジットされておらず不満だったが、映画.com には記載されていたので感動した。

ついでにいうとなんだが、解説には「群像劇」とあるけど、この作品を群像劇と割り切るのもなかなか難しいような不安が付きまとう。

さまざまなエッシャー通りと、その空気のよさ

ざっと思い出すだけで、6 つくらいエッシャー通りがあったと思うが、その風景はどれもよかった。

アスファルトの脇を小川が流れる小路に置かれたポスト、大きな河川沿いのサイクリングロードっぽいところに置かれたポスト、住宅街にぽっと置かれたポスト、どうみてもイマジネーションの産物といった情景とポストなどがあった。

ひとつのポストの背景の電柱には武蔵野市とあった気がした。撮影はほとんど都内とのことだので間違いなさそう。草ッ原がきれいな河川も美しく、映画のビジュアルにも採用されているようだが、どこの河川かわからない。下記のサイトに詳しいが載っていない。都内なら西寄りの河川と思うが、土地勘がない。

最後のシーンは監督の地元である豊橋らしいが、田舎の商店街で繰り広げられる夏の小さな催事と、このゴチャゴチャ感は愛おしかった。カラッとした夏っぽさが画面中を妙に瑞々しくしており、これはとても心地よい。

そういえば、笑いを狙ったシーンも多かったと思うが、クスクスレベルでも笑うひとが少なくて、これも少しツラかった。決して大真面目な映画でもなさそうなので、みんなもっと笑おうぜ、とは感じるのであった。

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《マトリックス リザレクションズ/The Matrix Resurrections》を観た。雑な鑑賞者なので、過去のどの作品における結末も、その意味も曖昧なままで臨んだが「これはシリーズ最高傑作じゃないか?」となった。 もちろん、第 1 作目ありきという点はある。

空を飛べるはず

2 作目の「リローデッド」にて、仮想現実におけるネオの超常性の極みとして彼は、空を飛んだ。1人の視聴者としてそのスゴさを理解できたとは思っていないが、これがどれだけスゴいかは、他の登場人物たちには不可能な行為であることから示される。あるいは銃弾を受けとめたり、ハンドパワーでオブジェクトを撥ね退けるのもネオ特有の能力だ。

さて、空を飛ぶヒーローといえば古今東西の事実として、孫悟空(『西遊記』)かピーターパンか、スーパーマンでもいいが、とにかく普通の人間じゃない存在の筆頭だ。マトリックスは第 1 作でもありえない跳躍力や身体能力は見せつけてくるが、この時点では空は飛べない。

で、今作でも空を飛ぶことが如何にもキーポイントになっている。ときどき現実感を失うアンダーソンは、なんか空を飛べる気がしてしまう瞬間がある。言うまでもなくて、過去作の変奏であって、アンダーソンは深層では現実を自覚している。

年を取った 2 人 あるいは

それぞれの発表の当時 3 部作をザックリと眺めていたときは、トリニティーの重要性にそこまで注目できていなかった。

ところで、セカイ系のような文脈で括りたくはないが、思い合う 2 人の関係がもたらすエネルギーは桁が知れない。今作は、ネオとトリニティーの過去におけるすれ違い、というか不幸な生き別れに対し、あらためて明確な答えが提出される。これこそがリザレクションなワケだ。

2 人は仮想現実でも現実世界(こっちはどうなんだろう)でも年を経ている。なんなら同僚もいれば家族もいる。若いままの彼らではない。とはいえ、ここは案外に重要なことと思うが、今作では、年を重ねてこそいるが、老いを理由にした要素を持ち出すことは最小限で、それもほとんどネガティブなことはない。

しかしなんだね、気がついてみれば、本作あるいはシリーズを通してのネオは周囲に振り回されるのが半分、自分の決意が半分、なんかどうにかなっちゃったぜが半分という雰囲気だなとあらためて感じる。

そこに今回はトリニティーの存在意義があらためて問い直されているワケで、ネオはいったい何だったんだとすらなり得る。こういう配役で浮きすぎず、かといって存在意義を失わないのがキアヌ・リーヴスたる俳優の凄さだろうか。

繰り返すようになるが、トリニティーがなにより重要である一方、ネオも重要なのは言うまでもない。エンドロールの最後にあるように、そして監督インタビューなどでも語られたように、監督は両親への愛と感謝を前提に今作を残したことを考えると、自ずと答えは出るだろう。

スミスの台詞のニュアンスよ

最終決戦というかクライマックスの段において、スミスは「君になることは誰にでもできるが、僕は誰にでもなれる」という旨の発言をした。

ここから、スミス支配下におかれた市民たちによる狂乱の舞台が繰り広げられる。あきらかに《ワールド・ウォーZ》(2013)や《新感染 ファイナル・エクスプレス》(2016)のシーンをそのまま反映させたような、ゾンビ映画様のシチュエーションが繰り広げられ、笑ってしまう。

ところが、スミスの発言のキモは、その後半にあったのではなくて前半にあった。わかりやすいといえばそれまでだが、最終的にこのセリフの意味が、こういうことになるとは、という感心があった。ありがとう、いいスミスです。

こまごまとしたこと

以下のことは何となく気になったのでメモとして残しておく。

日本をどうしたいんだよ

作中で「ここは日本だ」というようなシーンがある。新幹線のなかで東海道だろうか富士山を背に東京方面に向かっているようなビジュアルだったか。紛い物の桜の美しさが鼻につく。

乗客は子供たちやらサラリーマンやらいたが、一様にマスクを装着している。今作がどの期間に撮影されたかしらぬが、まぁみんなルールに従ってマスクしているわけだ。

で、上述したクライマックスのスミスの人間ハック技はここで実はすでにお披露目されており、スミスの手下となってしまった醜悪で無垢な日本人たちがネオの一行に襲い掛かる。新幹線のなかでのことだ-やっぱり「新感染」じゃんとなる。

このシーンに日本を選んだことにどういう意図があったかは想像するしかないのだろうが、いかにも皮肉に映ることは確かだろう。再度目覚めようというネオに降りかかる最後の障害であった。ちょっと心に刺さるものがあったよね。

再現の舞台空間の古めかしさよ

日本人たちから逃れて辿り着いたのは、ネオの記憶を呼び覚まし、ふたたび現実へ彼を呼び戻すためのステージだった。このステージ、大きなスクリーンに過去作の映像をそのまま映し出して、ネオの動揺を誘うという仕掛けだが、安っぽいと言えば安っぽい。

作品のメタさと舞台のベタさの相乗効果がなんともいえないシチュエーションを生み出しており、ぶっちゃけ萎えてしまったひともいるのではないかとすら思う。なにかしらの作品のオマージュでもある気もするが、ハッキリとはわからない。

でもこのシーン、なんだかんだで好きなんだよね。


で、だいたい言いたいことは終わりだが、ひとつだけ不満というか、トレーラーで使われていた音楽について、たしかに作中でも同じシーンでそのままに使われていた。印象に残るものだったが、そこ 1 箇所で利用されるだけだったのが少し寂しい。

最後に、過去最高作じゃないかと感じた理由づけを簡単にしておくと「蛇足とは言いがたい内容になっていた」という点に尽きる。何も新しいとは感じないが、観るに値しないみたいなことはまったく思わないし、奇妙な味わいが確かにあった。

参考

以下の上の記事を読んで劇場で観たいとなった。作品について詳しく、社会批評寄りの内容で、特にジェンダー方面の視点を取り扱っている。作品周辺の事情については下の記事がより具体的であった。あんまりこういう視点に寄りたくもないが、世の中がこの作品をどう評価して、どう利用しようとしているかはキモではある。

あらためて個人的な感触だけ付言すると、ごくパーソナルな視点としては、女性というイデアにまつわる根源的な視点を求めるんじゃないかなという気はする。上述したが、そこには監督の本作へのモチベーションが何に根ざしているか、というのが基本になるのではないか。

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およそ人間にとって、とるべきインプットおよびアウトプットの量とバランスは、生活や仕事における内外の事情にあわせて変動するだろう。

ところで、メモという行為は「最小限のインプットに対する最小限のアウトプットである」という、言ってみれば極当前のように思える事実にあらためて気がついた。

2022 の年明けからひさしぶりに測量野帳を取り出して、読んだことなどの小さなまとめをメモとして残すようにしているが、これだけでもだいぶん頭の巡り方に影響がある。そもそも意識せずには手書きが生活から決定的に減る。

いまさら手書きかデジタルかという二元論的な話はしないが、手書きはなんらかの方法、目的で生活に取り込んだ方がいいと自覚した。というか、毎回のこと自覚し続けている。

とはいえ、このような自覚すら維持することが難しい部類の人間もいる。私だ。最小限でいい。それでも続かない。どうしたらいいだろうか。

何かを書き出す、書き写すようのリストを作って、日に 1 回はそれに従事するというのを企画してみた。しばらく続くか試してみる。

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2022 年だ。明けましておめでとうございます。年末年始も終わり、日常に戻ってきた。年始には新しいスケジュール帳を購入し、ざっとした抱負などを書き綴った。大まかに言うと、学ぶことと健康を維持することの道筋を立てるに尽きる。

年を経るほどに、これらを意識せざるを得ないという状況には苦笑いしてしまう。基本的に人生などは、やりたいことができればいいわけで要はバランスだろうが、人生の設計というとき、ゴールをどこに置くかは、誰かが死ぬまでは永遠の問題だ。

ところで、主には女性向けのコンテンツではあるが、以下の 2 つの占いを直近の数年ほどは、なんとなく読んで参考にしている。後者は恋愛占いだが、別に恋愛に限らず、いずれにせよ、なんとなく良さげなアドバイスが書いてある。というか、読ませる魅力的な文章を書ける占い師の方たちは凄い。編集の手がどれくらい入っているかは別にしても。

というわけで珍しく本ブログのメタ的な内容を記事として残すことにするが、2022 年は映画の感想もそうだが、読書や展覧会などの記録も、もう少しちゃんとしたボリュームとして残したい。日記の類も、他人の目に晒して埃ばかりでも意味がありそうなら増やしたくはある。

2021 年の最後のほうに書いた課題だが、宣言したからには少しばかり回答編みたいなのを自分のために残しておく。

大きな前提となるけど、人付き合いの数や多様性、深浅などは各人の目的やキャパシティに依る。原則的に、それぞれの人間の其れに、他人があれこれと口出しするようなことはない。

あるいは「合う / 合わない」はどうだろうか。概ね上記と同じように、夫々による前提ではあるが、幼い頃から成長するにつれて、濃淡のハッキリした好き嫌いから、多少は色調の幅が広がるものだろう。だが、これも究極的にパーソナルな次元で、利害を抜きにすれば「合う/合わない」に収束しませんか。

たくさんの人に会わねば、それぞれに価値観に触れることはできないが、むやみに数を増やして、消耗することも愚かしい。というところで結論としては、ここ数年は数を増やす方向にシフトしていたが、そろそろ風向きを変えてもいい。そのように頃合いと判断した。

ところで、というのは、いわゆるリアルでの話であって、インターネット空間ではもう少し他人と関わりたいなという意識がある。旧世代の人間であることだなぁ。

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『さよなら私のクラマー』全 14 巻を読んだ。春に映画《さよなら私のクラマー ファーストタッチ》を観た関連で原作を追った結果となる。

新川直司のマンガのおもしろさ

のっけから作者の話をする。新川直司は『四月は君の嘘』の単行本から知った。ところで、この作品は「少年マンガで少女マンガをやる」という目論見があったらしい(最下のリンクの記事より)。そこに違和感はない。

新川直司の作品の特長は、独特の勢いの奔流とその魅力ではないか。下手したらハイライト様の調子になりかねない、ババーッと展開を推し進める方法が随所で使われるが、これが爽快だ。

逆に、この方法の弱点といえば、単行本などのまとまった分量でないと、その波に乗りづらい。

月刊少年マガジンで『さよなら私のクラマー』をパラパラ捲っていたときは、全体で何が起きているのか、よく分からないことが多かった。だが、通しで単行本を読んだらべらぼうに面白い。そういう体験の基づいて話している。

さよなら私のクラマー

作者はもともとサッカー好きで、本作には実在のサッカー選手とその活躍をオマージュしたシーンや台詞回しが多く登場する。本作は女子の高校サッカーが舞台だが、テーマとしては女子サッカーの文化的な側面も無視できない。

現実、2011 年に日本女子サッカー代表が 2011 FIFA 女子ワールドカップで優勝を果たした。本作の連載はそれから 5 年ほどのちだが、それからどれだけ日本女子サッカー界が正当に評価されたか、後裔は育っているか。どうなのか?

ぶっちゃけ私はわからないが、本作の登場人物たちは、この問題意識に立ち向かっている。悪く言えば、作品全体がこの問題に取りつかれている面がある。作者の主張といえばそうなる。

たとえば、主人公ら蕨青南高校にコーチとしてきた元代表の能見奈緒子は、この問題意識を象徴する筆頭キャラクターで校内校外を問わず、選手たちから篤い憧れと信頼を得つつ「あの優勝が」という前提がさまざまな選手にモチベーションを与えている。

サッカー小僧 世に出ずる

主人公:恩田らの蕨青南高校女子サッカー部、特にその 1 年生チームは、相対的には、上記の問題意識とは縁遠いキャラクター達だ。つまるところ、ただのサッカー好きだ-ただし、個々の実力がそれまで発揮されてこなかった恩田、そして周防が主軸にいる。

ここに設定の妙があって、作品は大上段な問題意識を隠しもせずに度々開陳しつつ、主人公たち、彼女らに感化された対戦相手は根本的にサッカーが好きで楽しんでいるから、せん手たちはひたむきに勝ちを目指していく。説明してしまえばごく当たり前だが、そうやって青春スポーツ漫画なりの熱量や勢いを演出してくる。割り切り方と見せ方のバランスは巧い。

好きなエピソードやシーンはどこか

試合のシーンは、恩田の異様さが目立つシーンがやはり印象深い。最初の練習試合でのマルセイユルーレット、雨天の試合でのリフティングドリブル、シューズが脱げてもボールへ向かう気迫など、キリがない。どれも好きだけど、最後の試合で曽志崎の退場後、不意に入れたゴールがかっこよすぎるでな。

周防だが、なんだかんだで活躍は限定的だが、彼女については「わたしは今、フットボールをしている」と試合中にモノローグが入るシーンがどうしても記憶に残る。新川直司の作品は、同じ台詞やテーマの主張を同じ形で繰り返すことにあまり躊躇いがなく、このモノローグもバタ臭くはあるけれど、それだけ印象が強い。周防の活躍はもっと見たかったが、本人が楽しそうなので、ヨシ。

なんかほかに言いたいこと

他の登場人物たちにもいいシーンはたくさんあるんだけど、私が主人公とみている 2 名を挙げたらとりあえずいいかなとなった。

逆に、あらためて思い返すと登場人物はやたらと多いが、それぞれ個性的なキャラクターになっているのはスゴイ。というか、キャラクターの描き分けがスゴイとも言えるのかもしれない。

ひとつ気になるは、挟まれるギャグパートの小ネタが罵倒語の掛け合いに終始することが多い点だ。やや稚拙さを感じる。男子キャラも女子キャラも同じノリでやっているのはフラットといえばそうなのだろうけど、ちょっと後味が悪い。

この作品、2021 年 1 月号まで掲載されたとのことだが、つまるところ 2020 年の最後の発売号で完結ということかな。あえて 2021 の枠に入れるけど、今年完結した作品のなかでは特別なおもしろさがあった。

どれかの記事では「この完結はほぼ想定通り」とあった気がしたがどうなのだろうか。何かといえば、タイトルをどのように読めばいいのか十分に理解できた気がしない。

新川直司も今は連載がないようだが、新しい作品が楽しみである。

以下は参考に読んだ記事など。

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《ラストナイト・イン・ソーホー/Last Night in Soho》を観た。

Twitter のタイムラインでやたらと褒められていた。個人的にはそこそこ、くらいの面白さだった。ホラー作品という面で直近で鑑賞した《マリグナント_狂暴な悪夢》と比べると、性質の差こそあれギリギリで「マリグナント」のほうがよかったかなぁ。

ざっくりしたあらすじ

ファッションデザイナーを目指す少女:エリーは、都会の服飾学校に合格し、単身ロンドンへ赴く。彼女はコーンウォール地方に祖母と暮らしていた。その影響もあって 1960 年代のポップスを好んで聴く。都会への憧れもある。

引っ越し先のアパートの一室で彼女は、60 年代に存在した同世代の女の子:サンディーの思念に憑依する、みたいなことになる。なんとエリーには見えないものを見る能力があったのだ。

憧れの 60 年代のロンドンの光と闇、それらがほぼ一瞬でエリーを襲う。そんななかでサンディーが巻き込まれる不幸に、エリーはどう立ち向かうのか。

成功を夢見る 2 人

サンディーは歌姫に憧れて、エリーはファッションデザイナーに憧れて、それぞれロンドンに出てきた。舞台の表方、裏方の差こそあれ、それぞれに野望を抱いている。

それぞれの希望が早々に打ち砕かれていくのだが、そのへんの処理のしかたは現代映画だなという感じで、全体の展開に比して深刻には描写されない。というか、見せ方がスタイリッシュだったね。

サンディーが楽屋を逃げ回るシーンで周囲に描写されたグロテスクな世界は、ディズニーの「カリブの海賊」のような見世物感があったーまさに見世物とも言えるのだが。

この辺の扱いについて、救いといえば、それぞれの少女のポテンシャルはたしかにあったことが描写された点だろうか。救いとも言えないけれど。

エリーを襲う男たちの執念

個人的にはこれが不満だった。エリーの普段の生活にサンディー経由で生み出された男たちの亡霊が付きまといはじめる。ついには彼女は、ロンドンの繁華街を駆け回って逃げる羽目になるうえに、警察署に逃げ込む。えぇー。

男たちの亡霊がどうやって生み出されたのか、あるいは半ばエリーの妄想の産物であったかは定かではないが、間を持たせる以上の機能があったとは思えなかった。これらの一連の描写自体が特別に恐ろしいわけでもない。

むしろ話の流れの上で彼らは憎悪の対象だろうので、そういう意味では的確だったのかもしれないが、であれば結末が導くそれぞれの想念は完全に狂気だよね。まぁ、それでいいのか?

そのアパートはどうなっているの?

さすがにバレるやろ。「身元もおぼつかないやつらが」云々といかにもな説明台詞があったが、さすがにバレるやろ。ちょっとしたリアリティがなぁ、という点が個人的には引っかかった。

ざっくりしたまとめ

いうて主演 2 名は美しくて、眺めているだけで楽しい。それはよかった。ここでは不満げな感想が厚めになったが、映画としては普通に楽しめたのも確かであった。

イギリス映画、ロンドンが舞台ということで個人的にはヒッチコックをイメージせざるを得なかったが、包丁(ナイフ?)が舞うシーンは《サイコ》を意識しているだろうし、階段で繰り広げられるサスペンスについても諸々を連想せざるを得ない。

ただなんというか上手くカモフラージュされていると言っていいか微妙だが、吟味すると後味は苦いだけの作品なので、そういう意味ではホラー映画な面が強いのかな。あえて問題提起的な側面は誤魔化されているといってもいいかも。

ところで、説明するまでもないが「ソーホー」街とは、かつては性産業も盛んな歓楽街で、いまでは時代なりにはなっているらしいが、ロンドンの光と闇が同居する地域だそうだ。

ついては、エリーの地元のコーンウォールはド田舎。友人:ジャックは南ロンドン出身ということで、こちらは昔は労働者階級の住まういわゆる危険地帯だったそうだが、現在は観光地化が進んだりで割と安全になりつつある、ということらしい。ザっとネットで見た。

この友人のジャックは車持ちだし、ボンボンなんだろうけど、作中で登場する土地柄や人間性の背景がわかると味わいも増すよね。現代のロンドンの街並みが登場する作品、映画ではないが《SHERLOCK》くらいしか個人的にはアテがないが、ごっちゃりした中に楽しげな風景ではある。

年内の映画はこれで終わりになりそう。

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このテーマで考えごとをしてアレコレ筋を練っていたが、時間がかかりそうだし、まとまらないので CMS の編集画面にベタ打ちしている。「この 2 年」というのは明らかにコロナ禍を指すのだが、こういった事態ってベタな表現ではあるけれど歴史の教科書に載るレベルの事件じゃないですか。現在進行形ですけど。

幸か不幸か、狙い通りか否か、2021 年 12 月現在の日本は概ね平和のような状況になっている。これも猶予期間に過ぎないような気はするが、とにかく誰もがそれなりに落ち着けるタイミングであろう。もちろん、現下で対策を講じざるをえない立場の人らもたくさんいるだろう。

で、ここでは「生活」の一言にまとめてしまうが、以前と変わらない生活を過ごしているという方がいるとすれば、それは幸運だろうか。そういうことにする。一方、少なからずの人らは生活に大小の変化を求められた。あるいは自ら変化を為したろう。

それぞれの人の余裕の差や、立場の差こそ考慮すべきだろうが、頭を使って乗り切った人、何となく乗り切れた人、これらは結果論的には強い。乗り切るのに苦労した人、いまだに苦労している人は大変だ。これをどのように見ていくかも社会の課題っちゃそうだろう。

自分としてはギリギリ何となく乗り切りつつある側の人間ではあるつもりだが、果たして本当にそうか? というのが本文で述べたいところだ。もう少し具体的かつ大雑把に言うと「他人との関わり方を自分がどう求めているのか?」という視点が、不気味の露出した期間だったように考えていて、そこに何かしらの問題意識がある。

そして、このタイミングでこれを言語化しておかないと、それを忘れそうだなという気配もある。一見すると、極々パーソナルな視点であり、内的な問題ではあるのだが、今後の自分の生活や周囲との関係におけるグランドデザインにも直結しそうなので、立ち向かいたい。

年末年始の課題にでもしようかな。

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以前から KeyChron の K4 を自宅のマシンでは使っている。日本語を中心に入力するときは、既定の Alt – ` キーでの IME 切り替えでも不自由さはそこまででもないが、英文字を中心に入力中、少しばかり日本語を入力したいというタイミングが起きるときは、このキー設定のままではツラい。

最新の Windows だと、日本語キーボードの場合は CapsLock キー単体で IME の切り替えが可能だが、US キーボードの場合は CapsLock – Shift が必要になるらしい。指の位置は近いが、 Alt – ` と大差ない。ていうか、CapsLock 単体で何とかできるようにならんのか?

結論から言って、最新版の PowerToys でよかった。

似たような情報はかなり以前から探しており、私は Ver.0.29 くらいの PowerToys での設定変更を試みていたのだが、そのバージョンだと単独キーからショートカットへのキーのリマップには対応していなかった。

しばらくバージョンアップを忘れて、というか無視して他の方法を探し回った。常駐型のフリーアプリでもレジストリの書き換えアプリでも、なんなら直接書き換えてもよかったのだが、どうにもうまくいかず、諦めていた。ハッキリ言って、こんな思いをしてまで US キーボードを使う理由なんてないよなとすら思う。

というタイミングで、Twitter で久しぶりに関連ワードで調べてみたら、最新の PowerToys でこのキーマップ変更が可能になっているらしいじゃないの。

上記リンク先の記事の通りだ。

もう少し言うと、Windows 10 の最近のバージョン更新で、IME の設定 UI が非常にシンプルになって可能な設定範囲が著しく小さくなった。旧バージョンの IME であれば、別の方法でキーを変更する方法もあったようだ。現行では、設定アプリからボタンひとつで旧バージョンに戻せるが、それはそれでどうなのという感じ、なのでこの方法も見送った次第だ。

ありがとう。CapsLock、いいキーです。

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NETFLIX で配信の『攻殻機動隊_2045_持続可能戦争』が総集編劇場版となっていた。それを観た。総集編としての編集、劇場版としてのパッケージ向けには監督として藤井道人がオファーされたらしい。

藤井道人については何かを受賞した《新聞記者》(2019)は映像としてはそこそこ面白かったが、ともかく内容がてんでなぁ、という印象で、《ヤクザと家族》(2021)は未見だが、こちらも自分の見聞する範囲では賛否両論をみた。ところで、個人的には《宇宙で一番あかるい屋根》(2020)は好きなんすよね。

なぜ彼が監督してオファーされたかは、以下の記事で説明されている。

以下の記事は、監督へのインタビューだ。

ざっくりとした全体感

物語の大筋は、電脳化した人間の一部が異常な発熱を経てポストヒューマンに、ざっくり言うと過去シリーズの難敵をさらに超えた超人類が出現し、社会に謀反を引き起こす、という立て付けだ。

前シリーズ(どれだっけ?)で国内の公的な仕事から去った 9 課の主要メンバーは、米国で傭兵稼業に勤しんでいた。そして同国でポストヒューマンの鹵獲作戦に巻き込まれ、巡り巡っては日本国内で同じ任務に継続して就くことになるという経緯だ。

基本的には、全 12 話を 2 時間にまとめた内容なので、話の展開が濃厚というか、なかな忙しい。じんわりと長く感じる。監督へのインタビューで語られているが、米国での事件、日本でのポストヒューマンへの対処が 2 時間の半々になっている。

前半は傭兵部隊のバッチバチの戦闘メイン、後半はポストヒューマンとの追いかけっこ、またはそれぞれのポストヒューマンの背景事情のような物語への重みづけが描かれる。駆け足感の一言で済むが、前半と後半でストーリーのテンションが違うのが、良くも悪くも本作の味になっている。

少佐とトグサのバランス

過去シリーズでの、そしてそれらと本作との関係性にあまり自信はないが、元メンバー警察出身のトグサは、彼なりの役割を期待され、それに応えて貢献しつつも、構造としては唯一の家庭持ち、一般人寄りの視点を担わされている。

本作でもそれはバリバリ機能していて、ポストヒューマンになってしまった少年とその家族への共感、そして彼ら側へのアプローチは物理的にはトグサに配役されている。

これ、過去シリーズの例を見渡すと、微妙にズレが起きている気はしている。というのも、従来は敵側に立場も近く、彼らの本質めいた部分にもっとも接近したのは、基本的には草薙素子だった。今回も原理上はそうであってもおかしくないし、今後の展開ではそのような事態にもなろうが、現時点ではポストヒューマンと草薙素子の性質はほぼ相容れない。おもしろいよなぁ。

電脳戦ですらポストヒューマンに、ほぼ侵略されかけた描写すらあった草薙素子だが、これいつものようなオチになるのなら最終的には彼女は、ポストヒューマンたちの深淵みたいのを覗くのだろうか。

話を戻すが、草薙が敵対する組織や人物に対して最終的にはメタ的な同化を試みる一方で、トグサは常にベタに歩み寄ろうとする。この構図が大枠として守られる限りは、シリーズが崩れることもなかろうさ、とは感じるが、大きなどんでん返しもあるかもしれない?

フル 3DCG の攻殻機動隊

攻殻機動隊で フル 3DCG のアニメーションは初めてなんでしたっけ?

まぁ違和感は大きい。特に序盤、特に人物の描画と動きはそんなによくないように映るのは否めない。さらに荒巻部長はモデルがどうなのという感じで、これは最初から最後まで違和感の塊である。

しかし、おもしろいのは、タチコマやドローン、パワードスーツ、アンドロイドなどの未来的または現代でも先端的なマシンの動きは違和感が小さい。あるいは脳が違和感と受け取れないのかな?

一方、バギーやスポーツカーのようなオブジェクトを仮に中間とすると、これらも割と違和感がある。面白いな。歴代の PlayStation を持ち出して比較するひとも多く、その気持ちも分からないでもない。

個人的には、物語の進行に伴って製作側の進歩、視聴の慣れも加わって、それほど気にならなくなっていった。劇場版用の追加シーンもあったろう。クライマックスのシーンも追加だと思うが、妙に美しかったねぇ。

妙に美しかったといえば、作中での展開としても、3DCG を駆使した映像としても、少年の母親が泣き崩れるシーンがもっとも好きだね。

ついでに述べておくと草薙素子だけは別格に、手を掛けられていることも明白で笑ってまう。それはそれで当然なのだが。

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今回のテーマや作風がどうなの? みたいな声も目にするけれど、各々のポストヒューマンにも個性があり、ついては少年の目指すところがどのように描かれるかは気になるところで、タイトルの「持続可能戦争」にどのような意味付けがされるのか、続編では期待したい。

この文章を大方まで書き上げたところで、以下のレビューを読んだが、まぁ大体みんな同じ感想にはなるよね。

上のレビューでは、最後にもっともな問題提起がなされているように思う。しかして、諸々が話題にするところの「リアリティ」の切り取り方って、難しいテーマであることよな。

雑に終わり。

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