《少年の君/少年的你》を観た。2019年の作品だ。原作はオンライン小説だそうだ。
啓蒙、教育映画なのか、ラブロマンスなのか、よくわからない。ラブロマンスといっても、これも非常にプラトニックだと言っていいのか、どういう類のラブなのか、よくわからない。ちょっとノワール作品ぽい面もあるか。
学生のイジメ、もとい暴力事件が話の筋に大きく関わっており、これは現実に中国でも問題になったからして本作が製作されたひとつの要因であるようだが、これもよくわからない。調べれば関連情報は多少は浚えるだろうか。とりあえず現時点では着手していない。ところで「一人っ子政策」の路線変更の明確化、過度な学歴競争も見直しが始まった現タイミングで視聴するにはタイムリーな作品かもしれない。
主人公、もといヒロイン:陳念は、高校生のようで大学受験を控えてる。トップ層の受験戦争はえげつないほどで、精神を壊す子供たちも、たくさんいる。という状況下で、チンピラの青年と出会い、なんやかんやあって連帯が生まれる。
受験戦争のクライマックス、それを阻むように起きるエスカレートした暴力事件、その先に 2 人が見たものとは……。のような話だ。
どんな画面だったか
日本のドラマでも見ているのかというくらい俳優のアップが多く、ちょっと疲れた。これは主演 2 人の演技を最大限に引き出そうという意図でもあり-実際よかった、ファンサービスみたいな面もあるのかなとも思った。
撮影は重慶市で行われたと Wikipedia にあったが、街の様子などはほとんどわからない。異様に長そうなエスカレーターとか、ところどころ面白かったが、あまり効果的には使われていなかったかなという印象が残る。
風景としては、ハイウェイの類だろう高架の道路、それと地上を繋ぐ螺旋状の通路などは印象に残る。螺旋状の通路が効果的に使われたのはほぼ 1 箇所、バイクで抜けていく際にちょっと映ったのが 1 箇所、警察署の駐車場らしきところで映るなどしていたかな。思い返すと、警察署-実物か知らないけど-の立地がとても面白かった。
エンディング直前では、ハイウェイを走る車がそれぞれの道を行くが、これもよかった。
学校でのシーンは多くはないが、受験が終わった後にみんなが階上から中庭に向けてテキストを破り散らして捨てて喜んでいるシーンがとても中国映画らしかった。なんか中国映画というか中国ってこういうの好きだよね。ほかの映画でも見たことがある。
ていうか、あの決定的なシーンの床面も同じよな美術だよね。
その他のことなど
陳念を演じた俳優:周冬雨という方らしいが、中学生かと思うほど小さく見えたが 160 cm 以上あるらしい。メイクアップも素朴な雰囲気で本当に幼くみえたが、これまた驚く 1992 年生まれの 29 歳とのことだ。ときどき妙に色気を醸していてそれを感知した自分にビビっていたが、それは年齢相応のそれを隠せていないだけだったようで多少安心するなど。
ついで、相手:小北役の易烊千璽は 2000 年生まれらしいので、この 2 人はおよそディケイドの差がある。彼はアイドルでもあるらしいので、上述のファンサービスでは? という憶測はこれに拠る。
女性の刑事さんが妊婦さんであることをあからさまに強調するカットがあり、どういう意図があるのかなと思っていたら、陳念の強烈なシーンですごく活用されていて呆気にとられた。ここはガツンときました。
良くも悪くも、原作であるオンライン小説らしいガチャガチャさはあった作品かなと。
《竜とそばかすの姫》を観た。細田守監督の作品を鑑賞するのは前作《未来のミライ》から 2 作目となる。個人的には独特の作風-これは本質的にはアドバンテージだろう-、とりわけ作中で描かれる人間関係が苦手だという直感があり、前作まではずっと避けていた。原作のある作品として評価の定まっている《時をかける少女》すら見ていない。
ところで前作は公開当時、既存のファンから不評を買っていたようだったので、逆に興味を持って劇場に足を運んだ経緯がある。その結果としては受け入れられる範囲の作品だった。
《竜とそばかすの姫》だが、なんでこういう風に話が進むんだろうと気になった箇所こそいくつかあったが、まぁ、面白かった。
テーマは《未来のミライ》から大きくぶれていないと考える。展開の主軸は「主人公なりが遭遇するひとつのステップ」ということに異論はないだろう。少し深読みして、そこに私は「徹底して大人の大人らしさを排する」「大人は決して神でもないし、無条件の味方でもない」あたりの裏テーマを見てしまう。
なんなら今作では前作よりも、その状況は先鋭化したようにも思えた。
見守る大人か、ヤジウマしかいない
近しい大人は「いい大人たち」で、鈴の成長や行く末を見守ってくれる。アドバイスめいたコミュニケーションも取ってくれる。だが、劇中で起こる事態に対しては、それ以上の存在ではない。これをして雑とみたり、怒ってしまう人も観測したけれど、これはもうこういうスタンスだから、そのように受け取るしかない。
一方の大衆、鈴の世界の「外側の大人たち」、これは本作では<U>の世界の住人、ゲームのユーザーたちとして描かれるが、これはほとんどが野次馬だったり、有害な攻撃者だ。この奇妙でデタラメなバーチャル世界のキモのひとつには、<U>の世界とやらの住人には「大人と子供の区別がない」という点だろう。
<U>の世界について少し書く。
やり直しがきく、は本当か?
<U>の世界は、バーチャルだからこそ現実とは違い、「なんでもできる、新しい人生を」のような優しい女性の音声による甘いメッセージが何度か述べられる。
が、いうまでもなく表現されている世界は、そんなことは全然なくて、なんなら心身あるいは才能、そのポテンシャルが極端に先鋭化される滅茶苦茶なバランスの仮想世界だ。
謳い文句の割にはしょうもない雰囲気のモブが多い。彼らの何かしらの活動が描かれることはほとんどない。これも演出の要不要で省かれたと見ることも当然可能だが、結果的には、これが現実だというメッセージに見えた。<U>の世界だろうが、現実と地続きで、モブはモブだ。
新しい世界が与えられようと、本来のエネルギーとそのポテンシャルを持ち合わせていないプレイヤーは、結局のところ<U>の世界でだって大衆の一部であったり、文句や不平をまき散らす結果になる。
殊更、Belleのライブシーンに至っては、作中の観客と劇場の観客がオーバーラップすることになるので、果たして私は<U>の世界の有象無象と一体になっているのだ。こんなユニークな映像体験ってある? 私はどっち側だ?
大人を信じるなとは言わないが
やや繰り返しになる。
別に大人や大人たちが形成する社会を全面的に悪とはしないが、基本的には大人も社会も無防備に信頼を寄せる相手ではない。たしかに子供が助けを求めれば、それに応じたリアクションはあるだろうが、それこそ事態に積極的に介入してくる存在ではない。
本作において、子供にとって不可解な大人とは、鈴にとっては母親の判断であり、竜にとっては父親の存在であった。
あえて言えば、鈴や竜の子の「大人への成長」というよりは、大人に対する諦め、あるいは理解を深めた結果の適切な距離感の自覚というあたりではないか。それが大人になること、といえばそうだろうが、メッセージとしては激渋だよね。
竜の子周りについていえば、これもどこかのメディアでライターが批判していたが、社会制度が、行政が何かしてくれるというような現実的な解決法は、本作では恐ろしいくらいに無視されている。
批判が出るのも確かな面もあるが、実際にすべての被害者が救われるわけではない現実があると思うと、<U>の世界の出来事然り、自分を大人だと自覚している自分がこういった事態に対して何をできるか、というところまでついつい考え込んでしまう。
というわけで、関連しそうな NGO なりに募金をして、私は心を落ち着かせた。
余談。あまり言及しているひとも見ないが、作中の子供たちは、竜が現実でどういう人物なのかは何となく気づいているような演出もあって、なんだか複雑だね。
変なおばさんと、正義マンあたりも深掘りしてもよさそうだが、主軸とはずれてきそうなのでここまで。
ゴールデンウィークの中日といっていいのか、2021/5/1(土)の深夜に Twitter を彷徨っていたら、ニコニコ美術館(ニコ美)で《【第二夜:江戸春画の名品たち】「春画展」》が開催されていた。特にやることもなかったので、ついつい最後まで見た。3 時間の長丁場であった。
ニコ生の仕組みあんまり把握していないけれど、有料会員ならば現時点では視聴可能なのかな。もちろん、年齢制限はある。
ニコニコ美術館では、それなりに良い企画(失礼な表現)が多いことは知っており、フォローはしていたのだが、ここまでガッツリと放送に張りついて鑑賞したのは今回が初めてだった。第二夜ということで、数日前に開催された第一夜は見逃していたが、後編だけでも十分に楽しかった。
春画展ということで、まぁ雑に言うとエッチな浮世絵だが、披露されていた。記憶にある限りだと、鈴木春信、喜多川歌麿、葛飾北斎と彼の師匠筋にあたる勝川派のいくつか、歌川豊国、国芳ほか歌川派の諸浮世絵師などの作品があったか。
いつだったかは大英美術館でも春画をテーマにした展覧会があったし、その後に永青文庫で開催された展覧会には私も足を運んだものだ。
今回、特におもしろかったのが、案内人に浦上満さんがいたことで、放送を見始めた直後はしばらく気がつかなかったが、見覚えのある名前の記憶を辿ってようやく気がついた。
言うまでもなく業界きってのひとなんだろうけど、浮世絵展でこの方の名前を見ないことはないくらいの方が、実際に動いている状況を目にして感動してしまった。なんなら、このことが最大の楽しみだったとも言える。
まぁ、というわけで、浦上さんが愛する葛飾北斎の生誕 260 年にあたっては、映画なんかもやってますが、浦上さんなども協力した展覧会《北斎ずくし》も始まりますね。代表的な作品は大体目にしたと言っても、やっぱり北斎は何となく飽きない、そんな気がするような、しないような。
まぁ、ひさびさに浮世絵を見たいなというお気持ちが強まるという話でした。
《シン・エヴァンゲリオン劇場版:||》を観た感想です。とりあえずこの文章を書き始めた時点で 2 回まで鑑賞し、さらに追加で 1 回観た。ここまでが 4 月 4 日まで。この記事は、 2 回目の鑑賞の段階で途中まで書いたものの、なかなか解きほぐせずに置いたままであった。
というか、解きほぐせないのは、いまもそうではある。
そこには非常に単純な動機があって、TV シリーズから長く続いたこのシリーズの完結を、そんな簡単に味わった気になりたくないし、そういうものではないだろうという話だ。
エヴァの魅力はさまざまだが、私としては惣流・アスカ・ラングレーの魅力に引きずられてエヴァファンの端くれになった具合だったので、初見では今回の式波の扱いがあんまりだと感じた。が、2 回目の鑑賞では「これ以上ない終わり方だったか?」と逆に納得した。しかし、3 回目で微妙に揺り戻しが起きた。なかなか笑える。
ネットに拡がったさまざまな感想も読んだが、TV シリーズおよび旧劇のアスカのファンには概ね受け入れられていない、そんな雰囲気を感じなくもない。とはいえ、本作を肯定しなくてどうするという話だので、私はひたすら好意的に考えたい。
本作、155 分ということで、身も蓋もないことをいうと、大体 50 分ずつがレイ、アスカ、シンジという三大主要キャラクターに落とし前を付けるために与えられている。そう見ることもできる、くらいの話ではある。
もちろん、正確に時間を割ったワケでもなく、あくまで大雑把な話の区切りの上での見解だ。公開も終わるので追記すれば、最後のシンジのパートは半分以上がゲンドウのパートと言ってもよかろう。
ま、そんな感じなので、拡散気味になるがアスカ周りの感想として書きたい。あるいは、そのつもりだった。
プラグスーツはいくつもの色を重ねる
話は尽きないが、プラグスーツの色の変化に作品の意図はうまく象徴されていて、この視点に立てば真希波の役割も割と、くっきりとする気配がある。あまりにも便利で分かりやすい演出であった。
アスカについて触れておくと、EOE を模したシーンで、アスカは 14 年分成長した状態になり、かつ赤いプラグスーツを身につけている。そして、ガキとして見下していたシンジに対して、今更のように恥じらっている。
この情景がいわゆる EOE との接続であることは言うまでもなく、また、お互いが「好きだった」という点を確認する作業自体も、お話全体の流れと 2 人の関係性を発展的に解消させていくための当然のやりとりではあった。
14 年分だけ先に歳を取ってしまったという彼女の悲しい恋、あるいは愛が斯様に締めくくられたというだけでよいのではないでしょうか。逆に「これが EOE のエンディングの再定義なのか?」みたいな受容は難しそうで、重ね合わせこそされているが、あくまでそこまでと見るのが筋としてはよさそう。
惣流と式波をどのように落とし込むのか
そうなると「式波は幸せになった、惣流はどうする?」みたいな妄想が膨らむ。
閑話ではないが、本作は TVシリーズおよび旧劇場版からの変更点として、各人物とその母親との関係性は最小限になっている。シンジにしてもリツコにしてもそうで、アスカに至っては設定そのものが消失した。物語をスマートに進行させるにはよい手段だったと思う。
本作で母性を必要としていたのは-現実的にはパートナーだが、ゲンドウだったワケだし、それが焦点化されたのが完結篇でもあった。逆に、式波-綾波もそうだが、彼女らはそういった人間関係の基本さえ知り得ない存在だったのだ。
一応、式波にとっては真希波が母様の存在としてはあるように思われるし、真希波自身が作中ではある程度はそのように振る舞っていた。同時に、最終的に真希波は、式波を救ったシンジを救ったが、こうなると作品の動力として EOE をやり直しているのは作中では真希波に他ならないとも見えるかもしれない。
やり直しがいいのか、悪いのかはしらん。
逆にだ。強引に結論だけ述べると、「EOEのラストが惣流にとっても幸せではないとは言えない」のではないか。あの強引で曖昧な開かれたな幕引きが、視聴者を虜にして、私たちの想像力をこれだけ掻き立ててきたワケだけれど、そんな気がする。今回の完結前に、EOE をあらためて見返したのだが、初見のインパクト時よりも悲壮感はなかった。
年を重ねることをどのように受け入れるか
真希波の存在について考えていて思い浮かんだテーマだが、真希波はアレよだね。タイムリープかパラレルワールドか、使徒化なのかしらんけど、何らかの手段で 14 債の肉体年齢となって登場している。この状況そのものは、カヲルと似ているし、式波は事故的に同じようになった。
面白いなと思うのは、過去の真希波を知っていて、それが明らかであり、かつまともに邂逅を果たしたシーンが描かれるのが、冬月さんだけのことなんだよね。「Q」時点でゲンドウチームからヴィレをみたとき、誰かしらパイロットを補充してることはわかっただろうが、それが真希波かは定かだったのだろうか。
全体でみたとき、意識的に、半ばチート的に作品内を走り回れたのがカヲルと真希波だけだとしたら、その両者に引きずられる形とはいえ、自覚的に接近した結果になった唯一の人物って、冬月だけなんじゃないのと。彼がもっとも分からんよな。なんかの贖罪のようにしか思えないよね。
なんだかんだでアスカが主役だなと思うのは
上映開始してしばらくしてから「ロボットアニメが」という枕詞で語られることも少なくなかった本作だが、この劇場シリーズでいえば、シンジの乗った初号機が前半で活躍したかと思えば、後半はほとんど二号機の活躍ばかりではなかったか。
シンエヴァンゲリオンでいえば、私はやはりシンニを無理やりアスカが何か強くして、グワァーってなっていくシーンが 1 番好きだね。アレがロボットなのかはしらんけど。
というか、もっとツマラナイ話をすると、1997 年に《新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に》と《もののけ姫》が同時に上映されているワケだが、エヴァがデイダラボッチに影響を与えたかはしらないが、イメージは重なる。
今回のシンニにイメージはさらにデイダラボッチを上書きしてきた。そんなものなのか? なんなら《風立ちぬ》の序盤のいくつかの表現は、だいぶん新劇場版のエヴァと呼応するところがあったように思う。私の想像力の貧弱かね、これは。
デイダラボッチの結末は、神の吸い上げた生命力が行き場を失ったがゆえの暴走であり、その結果はなんらかの清算だった。シンニを駆って人の姿を止めてまでアスカが阻止しようとしたのは、なんだったのか。
話を戻すと、最後こそシンジに主導権を譲ることになったものの、物語を牽引する決断を重ねてきた役割といい、ロボットアニメとしての大胆な活躍っぷりを示してくれたのは、いつだってアスカだったよなと、それは言っておきたい。
だいたい満足です。
ところで、オープニングとクライマックスはモロの日本映画よね。
もともと日本映画の巨匠の影響が大きいと言われる庵野監督の作品だが、オープニングは《砂の器》を連想させられるし、終盤は《田園に死す》を意識せずにはいられない。これらが両方とも 1974 年の作品だというのもユニークだね。
また折があったら触れたいね。
さらば、すべてのエヴァンゲリオンファン。
この 4 月に《騙し絵の牙》を観た。大泉洋の主演だが、結果としては松岡茉優にも主演級の役割が与えられていた。原作は未読で、普段はこのようなケースで読もうと思うこともないのだが、今回は原作を読みたいなと思った。けれど、結局は読まずじまいにこの記事を書いている。
なぜ読もうと思ったかというと、原作から相当に手入れがなされた脚本であるのは見た目に明らかで、かといって空中分解することのない絶妙なバランスであったから、一体原作はどんなものなのか気になったのだ。
特に、時代設定についてチグハグに感じる部分が、あえてであるにしても目立っていて、それらをひっくるめて、どのように成立させられたのかな? それというのは、たとえば安っぽい TV ショーだったり、オフィス内の執務室、会議室で当たり前のように葉巻が消費されるシーンなどだ。なんだったんだろうね、あれは。
映画の脚本だが、監督の吉田大八が手掛けている。監督の作品は《桐島、部活止めるってよ》(2012)が有名だが、私は未鑑賞だ。2018 年の《羊の木》は鑑賞している。こちらは好みの作品だった。原作アリ作品をうまくまとめる名手、みたいなことでいいのかな。
舞台となる薫風社と小説薫風は、文藝春秋なりの雑誌を連想させられるが、実際に撮影には文藝春秋社が協力したとか? また一方で、新社長にならんとした東松龍司の計画の雰囲気は KADOKAWA の「ところざわサクラタウン」構想などを連想させられる。いろいろと現実の要素をハイブリッドさせている結果と思うが、贅沢だな。
伊庭惟高の持ち土産の Amazon との独自契約というのも、まったく同じなわけはないが、各出版社はそれなりのかたちでやっていることだろうし、あまり驚きもなかった。が、まぁこれは高野恵の独立出版社&書店との対比でもあるんだろうな。どちらかといえば、後者が引き立てられるワケだが。
このへんは、有名どころだとコルクの佐渡島庸平などだろうと思うけれど-細部はいろいろあるけど-、まぁ個人出版社なり新しい書店なりの模索が実はたくさんあって、実情としては模索せざるを得なくなっているのが現行の出版業界ということで、その戯画化はうまく達成されていたのではないでしょうか。しらんけど。
速水輝が打つ手打つ手もかなり突飛に見えるが、当てる企画者、編集者ってあれくらいのことはガンガンやるイメージがあるので、これも割とリアリティというか、真実味の含みは大きいのではないかな。とにかく大泉洋が格好よくて子気味いい。
城島咲の転落もバネにしようというのは、キャストの妙も相まって面白かった。
二階堂大作の活躍をもうひと捻り見てみたかったのと、東松龍司の出生の秘密になにかしら設定があるのか、冒頭の伊庭前社長はリードから手を離せばよかったのでは? などが心残りといえば、そう。
屋上で悔しそうに紙コップを叩きつけるシーンがもっとも印象に残っている。
《1秒先の彼女》を観た。
台湾映画だ。台湾映画を観るのははじめてなんじゃないのかな?
原題は「消失的情人節」、英題は “My Missing Valentine” となるようだ。「情人節」が「バレンタインデー」なので、単純に「バレンタインデーの消失」というタイトルだろうから英題もほぼ直訳なんだろう。邦題の工夫も納得しやすい。
作中では「消失」の効果によって原題をスクリーン上で言葉遊びしていたようだが、字幕も無かったかあるいは一瞬かだったので、意味がよくわからなかった。中国語を勉強したいね。
美しい台湾の風景
行ったことないのだけれど、台湾の都会の風景と海辺の田舎町の風景がとても美しかった。作中でキーとなる海岸とそこに向かう道中、都会に戻る道中があまりにもよく撮られていて、大胆にいえばこれだけでも鑑賞する価値はある。
最後のほうで、メディアなどでよく目にするバイクのすごい流れなんかも目に入ってきた。これは美しいとは言えないが、ある意味で現実に戻ってきたことの象徴なのだろうな。ギャップを生み出す効果があった。
なにより、ドローンで上空から撮影されたであろう海岸線が見事だ。同監督の前の作品でもこのあたりが舞台になったことがあるらしいという情報を目にしたけれど、これだけ美しい景色は、それは何度でも使いたくなるだろう。
ヘアメイクの重要さがわかってきた
主人公、ヒロイン:ヤン・シャオチーのころころと変わる表情豊かな演技がとても印象深い。これも間違いなく本作の魅力のひとつだろう。父親の失踪という不幸な生い立ちから都会の郵便局の窓口案内になり、下町風のエリアの小汚いアパートに暮らしている。が、文句を垂れながらも彼女なりに幸せそうだ。
しかし、当然と言えばそうなのだが、人物の髪型でそれぞれのキャラクター性がガラッと変わってくるのがスゴイなと、最近は映画をみていると、そう実感させられる-もちろん本作に限った話ではないけれど。シャオチーがクライマックスで、田舎に引っ込んだのに垢ぬけた感じになってしまう逆転的なギャップには、クスッとなりつつもグッときた。彼女も成長したのだ。
しかしどうにも偏狂な愛だなぁ
シャオチーに想いを寄せる登場人物の愛が、まぁ彼なりの愛が、ああいうかたちを取らざるを得なかったのは納得はできるが、これが別に原則的にはいい話ではない、はずで、そういう意味では何とも歯痒い。
しかし、決定的な設定であったが、それらを相殺し合うような-実際にはぜんぜん相殺しないし、むしろ差は拡がる-、そんな不器用な 2 人がくっつくというのは、ある意味では収まりがよいような気はする。
どう考えても狂ってはいる状況なのだけれど、ツーショットを撮るにあたって、パントマイムのような演技を導入していたのは、おもしろかったね。
《TENET》と同じ年の映画として本作は
鑑賞後にふと、この設定とそれを生かした大胆な撮影は、《TENET》あるいはクリストファー・ノーランへの挑戦なんじゃないか? と勝手に妄想した。だが、どちらも 2020 年の作品であった。
これはどなたかの感想からの孫引きなのだが、予算の都合もあって特殊効果(CG)は極力使われなかったらしい。奇しくも、この点も類似している。ノーラン監督の場合は拘りゆえであるが。
本作のトリッキーなシーンは、ところどころ俳優さんがプルプル震えてしまったり…、ということが見えるので、あぁ、これは演技しているのだなと判明するのが微笑ましい。いや、でもかなり魅力的な画なのでこれもスクリーンで観られてよかった。
ついては、ヒロインだけ日曜日をすっ飛ばした原因が、鑑賞後も自分のなかで怪しかったのだが、よくよく考えて判明した。こわいわ。
なんかキャストがおもしろい
公式ページでキャストを読んだが、個性的な面子が多くユニークだったので、端的にメモしておく。
ヤン・シャオチーを演じたのは、リー・ペイユー(李霈瑜) またはパティ・リーという女性だが経歴をみるにマルチタレントだ。服飾デザインを学び、モデルデビューし、TV に出演するようになってから俳優としても出演しはじめたようだ。
ウー・グアタイを演じたリウ・グァンティン(劉冠廷)は、大学で演劇を学んだがいったんは夢をあきらめて 3 年間は体育教師として働いたらしい。公式ページの説明によると「いま台湾で最も注目を集める実力派俳優」とのことだ。
郵便局の後輩:ペイ・ウェンを演じたヘイ・ジャアジャア(黒嘉嘉)またはジョアン・ミシンガムは、どこかで見たと思ったら、美しすぎる囲碁棋士として有名になった子だった。本作が初の映画デビューらしい。
シャオチーに言い寄っていたリウを演じたダンカン・チョウ(周群達)は香港出身で台湾に移住した経歴の持ち主で、どちらの地域でも活躍しているとのことだ。こういう状況の人が今後の香港で活躍する機会があるのかは不明だが、こうなると香港問題も身近に感じるね。
一言だけネガティブなことをいえば、セクシャルなネタ? ギャグ? が割と多くて、これは良い意味での現代的な大らかさなのか、単純に旧時代的なのか、途中で訳がわからなくなった。が、冷静になると旧時代的ってことで間違いないと思う。上述の偏狂な愛もそうだが、これらが決定的に苦手なひとにはキツそう。
最後に。
ラジオのパーソナリティーから発せられた「恋が記憶を成立させる」みたいなのと「愛は自己欺瞞(自己陶酔だっけ?)」みたいなのの 2 つの台詞が妙に印象的で、これらのキーワードとイモリのおじさんの忠告をうまく掘り下げていくと、別の味わいが出てくる気がする。どうだろうか。
《100日間生きたワニ》を観たよ。
原作の『100日後に死ぬワニ』だが、タイトルの趣味の悪さとブームの広がりの気味の悪さが相まって、私は最初から最後まで距離を置いていた。タイトルについては普段は気にならない程度のケレン味だが、どうにも今作では引っかかった。
そんな作品イメージだったが、直感として映画は面白いだろうなと思ったので、見にいった。
動物が人間染みた社会を作って生活している。類例を挙げれば、直近の作品なら『Beastars』、永遠の名作ならアンパンマンが思い浮かぶ。ところで、本作の主人公のワニは上半身はほとんど裸で、靴も履いていない。他のキャラクターは着用していることが多い。深い意図があるのか気になったが、まぁいいか。
彼は裸足だもんだから、映画ではペタペタという足音が聞こえる。原作にこのような音が表現されていたかも気になる。
ワニとネズミとモグラがマブダチっぽくて、フリーターかしらんが学生である様子はなく、バイト生活しているようだ。90 年代くらいの日本社会のような状況だろうか。プロゲーマーを目指したり、彼女を作ったり、結婚を意識したり、といったノンビリかつほのぼのとした青春(のちょっと後か)が描かれる。
時代設定というほどのアレがあるのかわからないが、ハイブリッドな感じはする。
ワニが亡くなったのち、彼らのコミュニティに町に越してきたカエルが加わることになる。ここからが本作のオリジナルエピソードだ。
カエルは蝶ネクタイをして、なんかオシャレな上着を羽織っている。下はよくわからない。ざっと見た感じ、ワニと対比できる格好をしている。ただし、カエルも裸足なので、彼の足音もペタペタという。うまい演出だなと。
本作の前半にあたる原作のエピソードとオリジナル要素を繋ぐのは、ネズミの存在が大きい。カエルが弱みをみせる直前のタイミングでネズミの横顔(だよね?)が超クローズアップされて、画面がほとんどネズミ色で埋まった。
このとき、キャラクターのデザイン的な面もあって、ネズミがどういう表情だったかは読み取れないけれど-これもおもしろいよなぁ、目の前のカエルと自分がほぼ同じ立場に置かれていて、似たような苦しみに面していることを、彼が自覚したことはわかる。
うーん、最高のシーンだ。これはいい。観にいってよかったなぁ…。
ところで、彼らの使うガジェットはスマートフォンだが、ワニはなにかとタイミングで記念撮影を重ねる男だった。そいでこれを写真として現像するマメさも持ち合わせている。この辺も、懐かしい雰囲気がある。
ネズミの最後のアクションは、なにかしらの区切りであり、継承なんだと思うけれど、このシーンも地味に好きだね。
余談だけれど、カエルの蝶ネクタイは監督の上田慎一郎を連想させられたよね。こういうのも面白かった。
四コマ漫画の映像化、特に映画化というと『となりの山田くん』や『生徒会役員共』などはパッと思いつくが、まぁやっぱりそれなりの工夫が求められるものだよなぁなどとも思う。こういったポイントを取り扱った話とか、どっかに転がってないかな。
《彼女来来》を観た。平日のレイトショーの映画が処によって再開していることを思い出し、ひさびさに何かを見ようかなと、結果として本作をとった。これといった前情報もなく、一応あらすじと SNS の評価を軽く確認した。
本作は「日常系」「不条理」のどちらにも該当する作品に思えるが、序盤こそ後者の印象が強かったものの、段々と前者のイメージが強まっていくという不思議な体験がある。そこがミソだ。
マリAの消失は超常的な現象ではなくて、それなりに理由があるように見せられているし、実際にそういうことなんだろう。この部分の日常性が、マリBの不条理さを際立たせる。
このマリBは、完全に不条理の産物であり、最大の問題児だ。本作は彼女の不気味さ、そして日常への彼女の侵略が重要だが、逆説的には正にそれこそが日常、この移り変わりそのものがテーマと言ってよかろう。
コップをさ、どこに置くかさ
主人公の紀夫は左利き、マリAは右利きだったと思われるが、冒頭の食卓で対面した 2 人の手元のコップは同じ方に置いてあった。画面の手前側、つまり俊夫にとっては利き手、マリAにとっては逆手側だ。これ、個々人の感覚、あるいはタイミングによっては、食事中の飲料をどちらで取りたいという変化もあろうが、気にはなる。
ところで本作では、コップが割と登場する。マリBはシンクにあったコップを勝手に使うし、なんならトマトジュースを満たしたそれを床に落とす。嵐のなか、パスタを食べる紀夫はデスクまで水の入ったコップも一緒に持っていく。
諸々を経た後の食事のシーンでは、それぞれのコップはそれぞれの利き手側に置かれていた。序盤から気になっていた配置の妙が、マリBと囲んだ食卓にあるコップの配置によって、なぜだかホッとさせられた。
マリBの怖さ、あどけなさ
不条理のマリBのホラー感、不快感は最後まで拭い去ることはできないものの、それがただそのままだったら、本作は失敗なわけで、いつの間にか居ることを許してしまう。もしくは望んでしまっている。そして当たり前になっている。
このマリB、いやぁ上手いよなぁ。紀夫はよく耐えたよ。怖いし、ムカつくし、怖いし、怖い。ファム・ファタールというイメージでもないが、魔女の魅力などでもない。庇護欲をそそるみたいな雰囲気も演出されていないし、ただ居る。いや、あくまで彼女の魅力は抑制的でなくちゃならんのだろう。
それでも居ることが許される存在になってる。
クライマックスで川辺に向けている彼女の視線のニュアンスがまだよくわかっていないのだが、このとき彼女を背後から捉えた紀夫の視界には、マリBの後頭部が見えていたはずで、これがまた憎い演出である。
後頭部のさ、仄暗さがさ
マリA、マリBの表情は、画面の明暗によって映されないシーンがいくつかある。表情が読めないということでもあるのだが、これは同じように、いくつかのシーンで映されるマリBを背後から映したイメージにも当てはまる。
マリAはストレートヘアで、マリBは若干パーマだろうか、ウェーブがかかっている。マリBはシーンごとにちょっとずつ雰囲気が変わるんだが、このへんのニュアンスの変化が楽しい。彼女のイメージの変化をもっとも表現していたのは、表情やそのメイクアップよりも、髪の雰囲気な気がする。
エンディングの直前の日常シーンでは別の女性、あるいはマリAの幻想も登場した。なにかと俊夫は女の、女たちの後姿を追っている。
服装のさ、清潔感のさ
俊夫のシャツはパリッとしていて、いくつも着ていてオシャレ感がある。アイロン掛けしているシーンもあったな。マリBは 2、3 着くらいしか着てなかったんじゃないかな。相対的に清潔感が無かった。
それと言うのも、そもそも本作では、お手洗いを使うシーンは一瞬だけ出てくるが、お風呂場などはまったく映さない。川やら嵐やら画面は少しばかり湿っぽいことが多いのだが、台所のシンク以外はほとんど部屋からは水気を感じさせられない。
別にシャワーシーンなどを見たいわけではないが、ちゃんとこいつら風呂に入っているのか? と不安になるのである。実際、俊夫は何度かは為すすべ無くてそのままベッドにダイブしたりしているでしょ。この辺の絶妙な気持ち悪さもよく出来ている。
その他のことなど
「俊夫がキライ、気持ちが悪い」という感想をいくつか見た。いや、わかる。特に序盤から中盤までの俊夫はなんだか中途半端でとにかく気持ちが悪かった。思い返すと何故だかよくわからないが、マリAへの態度にもなにか鬱陶しさがあった。そうなると、マリAの失踪も納得できるか?
似たような感想として、「男の願望っぽい」という感想もふたつ以上は目にした。すごく大事にしていた彼女が行方不明になっても、なんだかんだで得体の知れない新彼女に乗り移ってるあたりを指すのだろうか? であれば、別にそれは少なくとも「男だけの願望」の結果とは言い難いような?
ただまぁウンザリするよね。
いろいろと書いたけど、コップの役割とお風呂場を映さないのが気に入った。あとは俊夫の陰は横から映されていて、生唾を飲んだのもハッキリとわかったカットなどがよかった。居間兼寝室から隣の部屋へカメラがスーッと逃げていって開いた窓でレースが揺れているのは、アレは何だったのかね。
そういえば公式サイトの URL が格好よくて好きですね。
《映画 さよなら私のクラマー ファーストタッチ》を観た。スタァライトとポンポさんの間の上映回で、観た。つまりこの日は、劇場でアニメ作品を 3 作見た。
月刊マガジンで連載していた『さよなら私のクラマー』の前日譚に当たる『さよならフットボール』の映像化作品だ。『さよなら私のクラマー』がアニメ放映中であったのもあっての映画化なのかな。詳しいことはわからない。
「さよなら私のクラマー」は掲載誌で読んだり、読まなかったりしていた。というか気が付いたら連載終了していたなぁ。あらためて著者の履歴をみると、『さよならフットボール』は『四月は君の嘘』よりも先の作品だったようだ。そのあとに『さよなら私のクラマー』の連載に至ったというのは割と変則的な気はするが、どうだろう。「さよならフットボール」は読んだことなかったな。
ヒロインの恩田希はスポーツ神経がいい、というかサッカーが上手い。ボーイズの頃から男子に交じってプレイしていたが、そのまま地元の中学校のサッカー部に所属する。そいでまぁ、男子に交じってプレイすることの挑戦とその限界までが描かれる。
男子に対抗するためにスタミナや体幹を鍛えるという描写はよかった。あまり、そこが重点的に描かれたというようにも思えないけれど。
ボーイズ時代には子分扱いだったライバル校のキャプテン、谷君は恩田を心底尊敬していて、まぁ惚れている。そのへんの中学生らしい青さはよかった。夜のランニングでニアミスする描写などは、映画としてとても好きだ。
最後の試合のシーンは 3D でカメラも割と豊富に動いており、なかなか楽しかった。サッカーのアニメを見るのも久々だし、映画館でサッカーの試合の描写を見るのも久々だったのでは。というか、実写かアニメかにかかわらず、サッカーが描写されている作品をピックすると、名探偵コナンのシリーズが 1 番多くなりそうで、それはそれで疑問符が浮かぶね。
コミックの映像化という点では、すごい好い作品だったと思う。あと、エンドロールでリアルの女子サッカー(これは中学ではなくて高校なのかな? よくわからなかったが学生であるのはたしかか?)のいろいろなチームの(強豪チームなりなのだろうけれど)集合写真などが流れたのは、「さよなら私のクラマー」のほうのテーマを引き継いでいる感じがあってよかった。
- 作品のテーマについて言えば、結局、メディアの力が足りてないのかなというのは個人的には思うところではある。
- 映画については、ある部分の展開の強引さはコミックだからこそ許されれたなぁという感じと、劇場特典のコミックの意味不明さが、ほろ苦い。
- この記事では、サッカーと書いてしまったが、本作は基本的に「フットボール」で統一している。
というわけで『さよなら私のクラマー』もこのあときちんとすべて読んだ。これがまた油断していたのだが、すごくよかった。書けたら書く。
というわけで、書いた(追記:20211224)。
《映画大好きポンポさん》を観た。原作も読んだことはなかったし、どういう映画なのかもよくわからずに臨んだ。同日に《劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト》も鑑賞していたので、メタネタが続いた。
メタ映画(あるいは映像)の作品、世の中には腐るほどあるだろうけど、直近だと《カメラを止めるな》がイヤでも思い出される。メタ映画の傑作、誰か教えてください。
本作、ニャルウッドという映画産業が栄える街で有名なプロデューサー:ポンポさんが取り仕切る映画会社がある。タイトルの彼女だ。だが、この映画の主人公はそのアシスタントの ジーンだ。彼は瞳が輝いていないからこそ採用されたらしい。つまり、彼には映画が唯一の光明だろうとのことだ。ふむ。
ナタリーという俳優志望の少女の魅力にあてられたポンポさんは、超本格ドラマティックな脚本を書きあげた。同じタイミングでナタリーを発見していたジーンは、ポンポさんから監督を託された。ほう。
この時点に至るにあたって、ポンポさんはなぜ大作映画の製作にはコミットせずに、B級作品ばかりを手掛けるのか? というエクスキューズも関係してくる。
が、まぁ、はい。
伝説の俳優をアサインしてスタートした撮影は、紆余曲折を経て完了する。数十時間におよぶ映像を作品に仕上げるための作業に取り掛かるジーンの苦悩と決断が本作のハイライト、と言っていいのかな。うーむ。
これ以上を説明すると、なんかあらすじを並び立てるみたいになっちゃう-もう十分そうなっているけれど-、なかなか難しいな。
結論…、ではないけれど、ポンポさんは B 級志向というよりも、いろいろな意味で新しい映画を模索しているということと思う。が同時に、映画内ではそれがあまり明らかではなかったようにも思う。上映時間-映画の長さについての問いかけは用意されていたが、それ自体も別に目新しさは感じない。
ジーンの格闘をイメージ化したシーンについても、縦横無尽に回るフィルムたちを彼が裁断するなどのことが描かれるが、いや、お前が向かっているのは編集ソフトを起動した巨大なディスプレイだし、映像は全部ハードウェアのなかじゃん、というツマラナイ感想が、どうしても残ってしまった。
ジーンは古い名作も好きだし、一方でこれから新しい映画を作る監督として羽ばたいていくという面もある。「故きを温ねて新しきを知る」じゃあないけど、そのへんの繋ぎが、ポンポさんの祖父のペーターゼンくらいしかなかったかな。ポンポさん自身にも仮託されているといえばそうなんだけども。
難しいな。映画の感想ではなくなるかもだが、そもそも娯楽その他の時間を占有する対象が増えたので、長い映画は敬遠されるようになったという説自体、自分はあまり信じていない。
別に昔だって 1 日の半分以上を潰すような、たとえば 6 時間の大作映画を観るなんて、ちょっと躊躇してたでしょ、絶対。そこに時代性はあまり関係ないのでは。時代による作る側の感覚の問題だったり、あるいは鑑賞者が単純に映画が好きか嫌いかのレベルの差であったり…、と言うと元も子もなくなってくるが。
ついでのようだが、ジーンの同窓生の格闘は、完全に映画オリジナルの脚本らしいけれど、なんというかこういうウソっぷりは自分はキライではなかったし、なんなら本作を映画たらしめているのは、この部分なのではとすら。
なんかネガティブな感想を並び立てた結果になったけど、映画自体はメチャクチャ面白かったので、鑑賞できてないひとは損してます。めっちゃおもしろい映画です。
ポンポさんが可愛いです。