《100日間生きたワニ》を観たよ。

原作の『100日後に死ぬワニ』だが、タイトルの趣味の悪さとブームの広がりの気味の悪さが相まって、私は最初から最後まで距離を置いていた。タイトルについては普段は気にならない程度のケレン味だが、どうにも今作では引っかかった。

そんな作品イメージだったが、直感として映画は面白いだろうなと思ったので、見にいった。

動物が人間染みた社会を作って生活している。類例を挙げれば、直近の作品なら『Beastars』、永遠の名作ならアンパンマンが思い浮かぶ。ところで、本作の主人公のワニは上半身はほとんど裸で、靴も履いていない。他のキャラクターは着用していることが多い。深い意図があるのか気になったが、まぁいいか。

彼は裸足だもんだから、映画ではペタペタという足音が聞こえる。原作にこのような音が表現されていたかも気になる。

ワニとネズミとモグラがマブダチっぽくて、フリーターかしらんが学生である様子はなく、バイト生活しているようだ。90 年代くらいの日本社会のような状況だろうか。プロゲーマーを目指したり、彼女を作ったり、結婚を意識したり、といったノンビリかつほのぼのとした青春(のちょっと後か)が描かれる。

時代設定というほどのアレがあるのかわからないが、ハイブリッドな感じはする。

ワニが亡くなったのち、彼らのコミュニティに町に越してきたカエルが加わることになる。ここからが本作のオリジナルエピソードだ。

カエルは蝶ネクタイをして、なんかオシャレな上着を羽織っている。下はよくわからない。ざっと見た感じ、ワニと対比できる格好をしている。ただし、カエルも裸足なので、彼の足音もペタペタという。うまい演出だなと。

本作の前半にあたる原作のエピソードとオリジナル要素を繋ぐのは、ネズミの存在が大きい。カエルが弱みをみせる直前のタイミングでネズミの横顔(だよね?)が超クローズアップされて、画面がほとんどネズミ色で埋まった。

このとき、キャラクターのデザイン的な面もあって、ネズミがどういう表情だったかは読み取れないけれど-これもおもしろいよなぁ、目の前のカエルと自分がほぼ同じ立場に置かれていて、似たような苦しみに面していることを、彼が自覚したことはわかる。

うーん、最高のシーンだ。これはいい。観にいってよかったなぁ…。

ところで、彼らの使うガジェットはスマートフォンだが、ワニはなにかとタイミングで記念撮影を重ねる男だった。そいでこれを写真として現像するマメさも持ち合わせている。この辺も、懐かしい雰囲気がある。

ネズミの最後のアクションは、なにかしらの区切りであり、継承なんだと思うけれど、このシーンも地味に好きだね。

余談だけれど、カエルの蝶ネクタイは監督の上田慎一郎を連想させられたよね。こういうのも面白かった。

四コマ漫画の映像化、特に映画化というと『となりの山田くん』や『生徒会役員共』などはパッと思いつくが、まぁやっぱりそれなりの工夫が求められるものだよなぁなどとも思う。こういったポイントを取り扱った話とか、どっかに転がってないかな。

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《彼女来来》を観た。平日のレイトショーの映画が処によって再開していることを思い出し、ひさびさに何かを見ようかなと、結果として本作をとった。これといった前情報もなく、一応あらすじと SNS の評価を軽く確認した。

本作は「日常系」「不条理」のどちらにも該当する作品に思えるが、序盤こそ後者の印象が強かったものの、段々と前者のイメージが強まっていくという不思議な体験がある。そこがミソだ。

マリAの消失は超常的な現象ではなくて、それなりに理由があるように見せられているし、実際にそういうことなんだろう。この部分の日常性が、マリBの不条理さを際立たせる。

このマリBは、完全に不条理の産物であり、最大の問題児だ。本作は彼女の不気味さ、そして日常への彼女の侵略が重要だが、逆説的には正にそれこそが日常、この移り変わりそのものがテーマと言ってよかろう。

コップをさ、どこに置くかさ

主人公の紀夫は左利き、マリAは右利きだったと思われるが、冒頭の食卓で対面した 2 人の手元のコップは同じ方に置いてあった。画面の手前側、つまり俊夫にとっては利き手、マリAにとっては逆手側だ。これ、個々人の感覚、あるいはタイミングによっては、食事中の飲料をどちらで取りたいという変化もあろうが、気にはなる。

ところで本作では、コップが割と登場する。マリBはシンクにあったコップを勝手に使うし、なんならトマトジュースを満たしたそれを床に落とす。嵐のなか、パスタを食べる紀夫はデスクまで水の入ったコップも一緒に持っていく。

諸々を経た後の食事のシーンでは、それぞれのコップはそれぞれの利き手側に置かれていた。序盤から気になっていた配置の妙が、マリBと囲んだ食卓にあるコップの配置によって、なぜだかホッとさせられた。

マリBの怖さ、あどけなさ

不条理のマリBのホラー感、不快感は最後まで拭い去ることはできないものの、それがただそのままだったら、本作は失敗なわけで、いつの間にか居ることを許してしまう。もしくは望んでしまっている。そして当たり前になっている。

このマリB、いやぁ上手いよなぁ。紀夫はよく耐えたよ。怖いし、ムカつくし、怖いし、怖い。ファム・ファタールというイメージでもないが、魔女の魅力などでもない。庇護欲をそそるみたいな雰囲気も演出されていないし、ただ居る。いや、あくまで彼女の魅力は抑制的でなくちゃならんのだろう。

それでも居ることが許される存在になってる。

クライマックスで川辺に向けている彼女の視線のニュアンスがまだよくわかっていないのだが、このとき彼女を背後から捉えた紀夫の視界には、マリBの後頭部が見えていたはずで、これがまた憎い演出である。

後頭部のさ、仄暗さがさ

マリA、マリBの表情は、画面の明暗によって映されないシーンがいくつかある。表情が読めないということでもあるのだが、これは同じように、いくつかのシーンで映されるマリBを背後から映したイメージにも当てはまる。

マリAはストレートヘアで、マリBは若干パーマだろうか、ウェーブがかかっている。マリBはシーンごとにちょっとずつ雰囲気が変わるんだが、このへんのニュアンスの変化が楽しい。彼女のイメージの変化をもっとも表現していたのは、表情やそのメイクアップよりも、髪の雰囲気な気がする。

エンディングの直前の日常シーンでは別の女性、あるいはマリAの幻想も登場した。なにかと俊夫は女の、女たちの後姿を追っている。

服装のさ、清潔感のさ

俊夫のシャツはパリッとしていて、いくつも着ていてオシャレ感がある。アイロン掛けしているシーンもあったな。マリBは 2、3 着くらいしか着てなかったんじゃないかな。相対的に清潔感が無かった。

それと言うのも、そもそも本作では、お手洗いを使うシーンは一瞬だけ出てくるが、お風呂場などはまったく映さない。川やら嵐やら画面は少しばかり湿っぽいことが多いのだが、台所のシンク以外はほとんど部屋からは水気を感じさせられない。

別にシャワーシーンなどを見たいわけではないが、ちゃんとこいつら風呂に入っているのか? と不安になるのである。実際、俊夫は何度かは為すすべ無くてそのままベッドにダイブしたりしているでしょ。この辺の絶妙な気持ち悪さもよく出来ている。

その他のことなど

「俊夫がキライ、気持ちが悪い」という感想をいくつか見た。いや、わかる。特に序盤から中盤までの俊夫はなんだか中途半端でとにかく気持ちが悪かった。思い返すと何故だかよくわからないが、マリAへの態度にもなにか鬱陶しさがあった。そうなると、マリAの失踪も納得できるか?

似たような感想として、「男の願望っぽい」という感想もふたつ以上は目にした。すごく大事にしていた彼女が行方不明になっても、なんだかんだで得体の知れない新彼女に乗り移ってるあたりを指すのだろうか? であれば、別にそれは少なくとも「男だけの願望」の結果とは言い難いような?

ただまぁウンザリするよね。

いろいろと書いたけど、コップの役割とお風呂場を映さないのが気に入った。あとは俊夫の陰は横から映されていて、生唾を飲んだのもハッキリとわかったカットなどがよかった。居間兼寝室から隣の部屋へカメラがスーッと逃げていって開いた窓でレースが揺れているのは、アレは何だったのかね。

そういえば公式サイトの URL が格好よくて好きですね。

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《映画 さよなら私のクラマー ファーストタッチ》を観た。スタァライトとポンポさんの間の上映回で、観た。つまりこの日は、劇場でアニメ作品を 3 作見た。

月刊マガジンで連載していた『さよなら私のクラマー』の前日譚に当たる『さよならフットボール』の映像化作品だ。『さよなら私のクラマー』がアニメ放映中であったのもあっての映画化なのかな。詳しいことはわからない。

「さよなら私のクラマー」は掲載誌で読んだり、読まなかったりしていた。というか気が付いたら連載終了していたなぁ。あらためて著者の履歴をみると、『さよならフットボール』は『四月は君の嘘』よりも先の作品だったようだ。そのあとに『さよなら私のクラマー』の連載に至ったというのは割と変則的な気はするが、どうだろう。「さよならフットボール」は読んだことなかったな。

ヒロインの恩田希はスポーツ神経がいい、というかサッカーが上手い。ボーイズの頃から男子に交じってプレイしていたが、そのまま地元の中学校のサッカー部に所属する。そいでまぁ、男子に交じってプレイすることの挑戦とその限界までが描かれる。

男子に対抗するためにスタミナや体幹を鍛えるという描写はよかった。あまり、そこが重点的に描かれたというようにも思えないけれど。

ボーイズ時代には子分扱いだったライバル校のキャプテン、谷君は恩田を心底尊敬していて、まぁ惚れている。そのへんの中学生らしい青さはよかった。夜のランニングでニアミスする描写などは、映画としてとても好きだ。

最後の試合のシーンは 3D でカメラも割と豊富に動いており、なかなか楽しかった。サッカーのアニメを見るのも久々だし、映画館でサッカーの試合の描写を見るのも久々だったのでは。というか、実写かアニメかにかかわらず、サッカーが描写されている作品をピックすると、名探偵コナンのシリーズが 1 番多くなりそうで、それはそれで疑問符が浮かぶね。

コミックの映像化という点では、すごい好い作品だったと思う。あと、エンドロールでリアルの女子サッカー(これは中学ではなくて高校なのかな? よくわからなかったが学生であるのはたしかか?)のいろいろなチームの(強豪チームなりなのだろうけれど)集合写真などが流れたのは、「さよなら私のクラマー」のほうのテーマを引き継いでいる感じがあってよかった。

  • 作品のテーマについて言えば、結局、メディアの力が足りてないのかなというのは個人的には思うところではある。
  • 映画については、ある部分の展開の強引さはコミックだからこそ許されれたなぁという感じと、劇場特典のコミックの意味不明さが、ほろ苦い。
  • この記事では、サッカーと書いてしまったが、本作は基本的に「フットボール」で統一している。

というわけで『さよなら私のクラマー』もこのあときちんとすべて読んだ。これがまた油断していたのだが、すごくよかった。書けたら書く。

というわけで、書いた(追記:20211224)。

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《映画大好きポンポさん》を観た。原作も読んだことはなかったし、どういう映画なのかもよくわからずに臨んだ。同日に《劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト》も鑑賞していたので、メタネタが続いた。

メタ映画(あるいは映像)の作品、世の中には腐るほどあるだろうけど、直近だと《カメラを止めるな》がイヤでも思い出される。メタ映画の傑作、誰か教えてください。

本作、ニャルウッドという映画産業が栄える街で有名なプロデューサー:ポンポさんが取り仕切る映画会社がある。タイトルの彼女だ。だが、この映画の主人公はそのアシスタントの ジーンだ。彼は瞳が輝いていないからこそ採用されたらしい。つまり、彼には映画が唯一の光明だろうとのことだ。ふむ。

ナタリーという俳優志望の少女の魅力にあてられたポンポさんは、超本格ドラマティックな脚本を書きあげた。同じタイミングでナタリーを発見していたジーンは、ポンポさんから監督を託された。ほう。

この時点に至るにあたって、ポンポさんはなぜ大作映画の製作にはコミットせずに、B級作品ばかりを手掛けるのか? というエクスキューズも関係してくる。

が、まぁ、はい。

伝説の俳優をアサインしてスタートした撮影は、紆余曲折を経て完了する。数十時間におよぶ映像を作品に仕上げるための作業に取り掛かるジーンの苦悩と決断が本作のハイライト、と言っていいのかな。うーむ。

これ以上を説明すると、なんかあらすじを並び立てるみたいになっちゃう-もう十分そうなっているけれど-、なかなか難しいな。

結論…、ではないけれど、ポンポさんは B 級志向というよりも、いろいろな意味で新しい映画を模索しているということと思う。が同時に、映画内ではそれがあまり明らかではなかったようにも思う。上映時間-映画の長さについての問いかけは用意されていたが、それ自体も別に目新しさは感じない。

ジーンの格闘をイメージ化したシーンについても、縦横無尽に回るフィルムたちを彼が裁断するなどのことが描かれるが、いや、お前が向かっているのは編集ソフトを起動した巨大なディスプレイだし、映像は全部ハードウェアのなかじゃん、というツマラナイ感想が、どうしても残ってしまった。

ジーンは古い名作も好きだし、一方でこれから新しい映画を作る監督として羽ばたいていくという面もある。「故きを温ねて新しきを知る」じゃあないけど、そのへんの繋ぎが、ポンポさんの祖父のペーターゼンくらいしかなかったかな。ポンポさん自身にも仮託されているといえばそうなんだけども。

難しいな。映画の感想ではなくなるかもだが、そもそも娯楽その他の時間を占有する対象が増えたので、長い映画は敬遠されるようになったという説自体、自分はあまり信じていない。

別に昔だって 1 日の半分以上を潰すような、たとえば 6 時間の大作映画を観るなんて、ちょっと躊躇してたでしょ、絶対。そこに時代性はあまり関係ないのでは。時代による作る側の感覚の問題だったり、あるいは鑑賞者が単純に映画が好きか嫌いかのレベルの差であったり…、と言うと元も子もなくなってくるが。

ついでのようだが、ジーンの同窓生の格闘は、完全に映画オリジナルの脚本らしいけれど、なんというかこういうウソっぷりは自分はキライではなかったし、なんなら本作を映画たらしめているのは、この部分なのではとすら。

なんかネガティブな感想を並び立てた結果になったけど、映画自体はメチャクチャ面白かったので、鑑賞できてないひとは損してます。めっちゃおもしろい映画です。

ポンポさんが可愛いです。

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《劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト》を観た。本作については、コミカライズの最初の 1 巻だけ読んでいたのでイメージの大枠はあったが、アニメなり演劇なりの鑑賞歴はなく、物語の全体像もしらずに映画館に臨んだ。

が、よかった。よいものだった。本当によかった。結果として後、TV シリーズ 全 12 話とその総集編となる劇場版《少女☆歌劇レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド》も見た。

アニメ全体の物語は、基本的にはヒロイン:愛城華恋と神楽ひかりの友情あるいは約束、もとい運命を軸にしている。詳らかには、そのほかの登場人物たちを交えた群像劇とも言えそう。

9 人の登場人物は、およそペアになっており、本劇場版でもそれを生かして関係性を整理しつつ、TV シリーズの結末後の彼女らの行く末に道筋をつける。

変則とはいえ 2 人ずつのエピソードを軸に 4 セット で 9 人のキャラクターの人間像と関係を掘り下げる。TV シリーズも本劇場版でもそうだが、それぞれのシチュエーションの配分が絶妙だった。

そもそも舞台の「スタァ」つまり「1番星 はたった 1 人」という命題に、華恋は最後まで抵抗する。これが二転三転して、キリンも予期せぬ舞台を繰り広げることとなった。この構図は TV シリーズでも本劇場版でも変わらない。

そもそも「レヴュー」ってなんなのか?

舞台芸術についてはサッパリだが、芸能用語としての「レヴュー」には以下の意味があるらしい。

演劇舞台のジャンルとして「レビュー」もしくは「レビューショー」という言い方が用いられることもあるが、この「レビュー」は英語の review ではなくフランス語の revue に由来する語であり、「時事的話題に対する風刺などが多く盛り込まれ、舞台装置や踊りといった視覚的要素が充実した喜劇」を指すカテゴリーを指す用語である。この「レビュー」は「レヴュー」と表記される場合が多い。

Weblio|実用日本語表現辞典「レビュー」

本作は元々、男性の演劇鑑賞者を増やそうという企図で組み立てられた企画らしいが、あえて「レヴュー」をタイトルに冠したのは見事だね。類作で前例はあるのかな。アニメーションという「視覚的要素が充実した喜劇」という観点からは、まさに本劇場版は、ハッキリ言って図抜けたコンテンツになっているよね。

そもそも「ワイルドスクリーンバロック」ってなんなのか?

SF のジャンルに「ワイドスクリーンバロック」”Wide-screen Baroque” という用語が存在する。本劇場版は、それをもじっている。で、もともとの用語の意味だが、以下のブログ記事に詳しい。

元々はイギリスの SF 作家:ブライアン・オールディスが書評中で用いた造語であるらしい。上記のブログではそれを示す引用が 2 つあるが、上記ブログでの引用をさらに引用するワケにもいかない。

ので、ここでは私なりに勝手に翻案する。ワイドスクリーンバロックとは「巨大、かつさまざまに繰り広げられ、目まぐるしく情況の切り替わる物語が、イメージが、それでいて破綻せずにエンターテインメントとして成立している」としたい。雑なのはご愛敬として、参照先の記事を読んでほしい。

また、参照先の記事によればアニメとしては『天元突破グレンラガン』(2007)と『キルラキル』(2013)においてその影響があきらかだそうだ。

で、「ワイルドスクリーンバロック」って?

本劇場版の作中において、彼女らは自身を常に「舞台の上」であると意識しつづけているけれど、「ワイルド」という表現を採用することによって TV シリーズの外側、あるいは「スタァライト」の外側、あるいは既存の関係性の外側を意識づけているよね。まぁそこも結局は舞台なんだけど。映画館のスクリーンで、という体験も意味付けられているだろうし、この辺は本当に巧みだ。

特にそれ以上は言うことはない。

しかし、あらためて表明したいのは上述の「レヴュー」の概念と「ワイドスクリーンバロック」の概念が、ことアニメーションという表現を介してここまで見事にクロスオーバーするのか! という驚きだ。マジでビックリしませんか。

なぜトマトなのか?

本作、トマトがやたらと破裂する。初見、劇場版を鑑賞した時点では TV シリーズでのキーアイテムだったのかと思ったが、そういうわけでもなかった。トマトは心臓をイメージしているのは確かなようだが、なぜトマトなのか。なぜ野菜なのか。

野菜といえば TV シリーズを通じていれば、いちおう霧崎まひるを引くことはできるが、そこまで意識的な関連は無さそう。あるいは大場ななのモチーフであるバナナから関連を見出せるか? そういうわけでもなさそうだ。

また本劇場版では、キーパーソンとなるキリンがアルチンボルド様に野菜と果物で体を為し、そしてそれが結果的には燃えていく。キリンが燃える理由は、観客が聴衆が舞台の熱にヤラレることを示すワケだけれど-まとめ方として雑だけど、じゃぁそれってなんだ?

という経緯で辿り着くのは「観客をかぼちゃかじゃがいもだと思え」という文句であって、キリンが野菜となる理由、野菜のキリンが燃える理由、もうこれでいいでしょう。ところで、この文句の出典ってなんなんだろう。

ではトマトは?

もちろん心臓をイメージしていることには代わりないんだけど、それよりもキモだなと思うのは、その回文性にありそうだよね。トマト・トマト・トマトだ。

そもそも華恋の「みんなをスタァライトしちゃいます」という決まり文句の意味について、「スターのきらめきで魅了しちゃう」ならマシで、戯曲の通りにほんとにスタァライトされたらえらいこっちゃやで。

華恋に魅了されたとき、私はトマトを齧っているのだろうか?

半分くらいスッキリしたので、とりあえずここで終了します。

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《戦火のかなた/Paisà》英題は “Paisan” を観た。ロベルト・ロッセリーニ監督の 1946 年の作品で、前年の《無防備都市》に続く戦争三部作の二作品目となる。120 分の上映時間は 6 つの小話に 20 分ほどずつ区切られており、それぞれが独立している。

小話は、連合軍の US 小隊がシシリアの海辺の村に上陸する話から始まり、舞台は徐々に半島を北へ移していく。これはドイツ軍の撤退方向と一致すると思われるが、どうなんだろうね。

というわけで、スコセッシおすすめ外国映画マラソンの 9 作品目です。

ep.1 シシリア

シシリアに到着した US の部隊が当地の女性を案内人にして古い砦へ向かう。女性と見張りを残して探索隊が出る。束の間の交流が非常に微笑ましいが、ちょっとした気の緩みから見張りはドイツ兵の凶弾に倒れる。

戻った部隊は女性を疑うが、女性は倒れた見張りの銃を手にして、ドイツ兵に反撃を試みていたのであった。最後は両軍とも砦を去るようだが、その結末は暗い。

暗闇でのシーンが多いのでフィルムの状態も相まってか、見張りと女性の交流シーンなどは特に鮮明でなく、結末もどう解釈していいのかわかりづらい。いずれにせよ、戦場で垣間見えた日常が一瞬で塵となり、それに巻き込まれた人間のあっけない運命が心に残る。

ep.2 ナポリ

孤児たちが酔っぱらった黒人兵を囲んで身包みを剥ごうとしている。その少年達の 1 人と黒人兵のやり取りはしばらく続く。2 人の追いかけっこは、さまざまなカットが入り乱れて続くが、よく撮られている。

少年にアメリカの都会の物語を聞かせるシーンは本編のダイジェストだろう。2 人とも、とても楽しそうだ。前編の見張りは自宅に帰りたいと繰り返していたが、本編の黒人兵は家はボロボロだから別に帰りたくないらしい。さまざまだ。

後日、素面の黒人兵と少年は再会するが、兵士は途中まで少年と気づかない。ある理由があって、彼らは少年の住処に向かう。戦火に破壊された少年ら現地民の状況をあらためて目のあたりにした黒人兵は黙ってそのまま去る。

最後のシーンが好きだ。手塚治虫が使いそうなカットである。

ep.3 ローマ

ローマが解放され、街へ入ってくる連合軍の部隊をローマ市民が大盛り上がりで歓迎する。入り乱れたカットで演出される、その盛り上がりの躍動感がすごい。

一転して半年後、解放当時の盛り上がりは何処へと兵士もホステス達も嘆くキャバレーのような店内に、治安部隊のガサ入れがある。娼婦のひとりが逃げ去る。

娼婦は逃げる途上で酔った兵士を掴まえる。実はこの 2 人は既知の間柄であったが、お互いは気づいていない-という点では前編と似たことが起こる。女は途中で彼に気がつき、なんとか別日に再開しようと試みるが、それは失敗に終わる。

これがよく分からない。男は女に気がついていたのかそうでないのか、明らかではない。私は初見では気がついたうえでそれを無視したのかと思ったが、そうとも言い切れないようだ。誰が悪いわけでもない、戦争が悪い。誰が悪い。

ep.4 フィレンツェ

アクション作品として楽しんだ。ドイツ軍から解放されたエリアから、まだ銃撃戦が続いているエリアへ赴く男女がいる。それぞれに事情は異なる。市民のゲリラ兵とドイツ軍がドンパチやっているなかをソロリソロリと移動していく。

区画から区画へ、閉ざされたエリアへ逃げ込んだり、屋根伝いに走り回ったりと移動していく 2 人を横から眺めるようなカメラワークがおもしろい。完全に遮断された箇所を横断するために、閉鎖された美術館を利用する方法も面白い。この美術館も実物らしいし、この方法自体も現実にあったのだろう。

身内の安全を求めて戦闘区域の中心部へと進んでいった 2 人の残した結果は、これはこれで残酷極まりない。

ep.5 トスカーナ

市民からも篤い信仰を集めているらしいカトリック修道院がある。そこそこ階級の高そうな US の兵士 3 名が寝所を求めて来訪した。修道院側もこれを受け入れた。食料の交換などが描かれて微笑ましい。

暗雲が立ち込めるのは 3 名のうち 2 名がプロテスタント、ユダヤ教徒であることが判明してからだ。かなり教義に厳格であるらしいこの修道院の僧侶たちは、異教徒をもてなしたことに恐慌状態に陥る。

傍からみたら笑っちゃうかもしれないけれど、当人たちにとっては重大事だ。結局、修道僧らはある方法をとって、彼らを受け入れることとしたが、それに対して自身もカトリック神父である兵士が礼を述べる。

神に赦しを求める修道僧を、リーダー格の僧侶が宥めるシーンがなんともよく出来ている。前のエピソードでもそうだが、ロッセリーニ監督も階段を使ったシーンの使い方が巧みに思えるがどうだろう。

ep.6 ポー川

ポー川のデルタ地帯といっていいらしいが、イタリア北部を流れるポー側の東側の河口付近、ヴェネチアのほぼ南に位置する。葦が茂る河口付近で市民のゲリラ部隊と応援の US 兵達がドイツ軍に囲まれつつも何とか生き延びようとしている。

が、絶体絶命らしい。

エリア内にある小さな村もやられてしまった。本作でもっとも残酷なシーンも割とあっさりと流されてくる。無常だ。

まともな戦闘シーンが登場する。ほとんど絶望的な対決は、絶望に終わって、その後の結末も絶望でしかない。あまりにもあっさりとしている。淡々と処理しなければやっていけないのは戦場の常なのだろう。最後にポー川の水面が静かに映されて “FINE” となるが、 やはり、あまりにもあっさりとしている。

千年王国を築くというドイツ兵の文句は《無防備都市》でも登場したが、このくらいの現場感のある兵の台詞の方が、その誇大妄想さが極まってみえた。

葦のなかを小舟がゆくシーンがいくつも登場するけれど、これも巧い。撮影側も同じような、今にも沈みそうな小舟から撮っているワケでもないだろうけど、そこまで設備が整っているとも思えないので、やっぱり似たような不安定な小舟にカメラを載せてるのかね。撮影現場の記録とか、ないのかな。

戦闘とは無関係に、葦の草っぱらがむやみにキレイだ。

その他のことなど

一応、エピソード 1、4、6 は戦闘領域でのお話、エピソード 2、3、5 は戦闘領域外でのお話という構成と見てよさそうだ。これを対比したとき、言うまでもないが前者では戦場における悲劇が描かれる。後者では、戦場からふと離れた日常における人間の矮小さ、あるいはその中での救いのようなものが描かれる。それはそれで戦争とは地続きではあるけれど。

だからどうという話ではないが、そもそもなぜ本作は連作形式となったのだろうか? 脚本も、ロッセリーニ監督を加えて 6 人参加しているということは各エピソードごとに脚本が入っているということに違いなさそうだ。

それぞれ異なる視点から、イタリア各地における戦場での、さまざまなテーマによるドラマが、本作のように見事に織りなされる-そこに異論はあるだろうけど-というのは本当に凄い。この一言に尽きる。

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いくつかの部門に分けて、鑑賞してきたヒッチコック作品のオススメ順に取り上げる。部門別、オススメ順としたのは軸が多いほうが記事にしやすかったという以上の理由はない。好みの問題だ。また、言うまでもなく恣意的なカテゴリーかつランキングで、ほかにも方法はたくさんあるだろうけれど、これが私のヒッチコック星だ。

なお、ランキングのリンク先は私の感想記事になるので注意されたし。

【巻き込まれ男女の珍道中】部門

ヒッチコック作品の典型にして、初期時からほぼ完成形と思われる「男と女」が何かしらの事件に巻き込まれて、そこから困難を経て事件を解決に導いていく、パターンの作品となる。以下の 3 作をピックアップした。

なんだかんだで、最初期の作品《三十九夜》を 1位 としたい。完成している。そしてオチが好き。《白い恐怖》は「信用できない男」部門でもよかったが、この部門のノミネートが少ないのでこちらに置いた。《逃走迷路》は、西海岸から東海岸へ縦断ツアーするのが好きです-そのものの描写があるわけではないけれど。

  1. 《三十九夜 The 39 Steps》(1935)
  2. 《白い恐怖 Spellbound》(1945)
  3. 《逃走迷路 Saboteur》(1942)

【予測不可能なサスペンス】部門

サスペンス作品のうち、あえて展開が読みづらい作品として部門を設けた。要点としては犯人がよくわからん類のストーリーとしている。《救命艇》を 3 位としたけれど、あの重苦しい空気はキライじゃない。が、やっぱり 1位 は大掛かりなセットが見ものの《裏窓》かな。《バルカン超特急》も好きだけれど、ここでの他 2 作と比べると、個人的にはそこまでプライオリティがない。

  1. 《裏窓 Rear Window》(1954)
  2. 《バルカン超特急 The Lady Vanishes》(1938)
  3. 《救命艇 Lifeboat》(1943)

【薄氷を踏むような展開】部門

同じサスペンスでも、こちらは鑑賞者にも全体の状況が分かっている作品として部門とした。圧倒的に《私は告白する》を推したい。扱っているテーマ、舞台設定、カメラワークなどなどいずれをとっても面白い。次点以下の《ロープ》《ダイヤルMを廻せ!》も完全におもしろい。《見知らぬ乗客》は比べると、やや見劣りするか。

  1. 《私は告白する I Confess》(1953)
  2. 《ロープ Rope》(1948)
  3. 《ダイヤルMを廻せ! Dial M for Murder》(1954)
  4. 《見知らぬ乗客 Strangers on a Train》(1951)

【キング オブ 頭おかしい】部門

途中で全体像がおよそ掴めるタイプの作品でもあるが、基本的には犯人がヤベェ作品とした。どちらも歴代としてみると最後のほうの作品なので、時代性なんかもあるんだろうか。どちらも好きだけど、あえてのモノクロ、クライマックスの一瞬の狂気ということで《サイコ》を推したい。《フレンジー》のじゃがいも遊びも好きだけどね。

ていうかこの 2 作品で 12 年もギャップがあるのか。

  1. 《サイコ Psycho》(1960)
  2. 《フレンジー Frenzy》(1972)

【信用できない男】部門

巻き込まれパターンのうち、男がどうにも信用できないパターンの作品を取り上げる。《汚名》と《引き裂かれたカーテン》は別部門でもよさそうだが、ここに配置した。そのうえで比べてみると、鑑賞時はそこまで好きとも思わなかったが、《汚名》は好いとあらためて実感した。

《レベッカ》《断崖》は、ジリジリとした展開が馴染めばおもしろいが、これら以下の作品もなんとなく展開がじれったい気がする。あまり得意ではない作品が比較的多いなという自覚を得られた。

  1. 《汚名 Notorious》(1946)
  2. 《レベッカ Rebecca》(1940)
  3. 《断崖 Suspicion》(1941)
  4. 《舞台恐怖症 Stage Fright》(1950)
  5. 《引き裂かれたカーテン Torn Curtain》(1966)

【信用できない女】部門

上の部門とは反対に、男は女に尽くそうとするが、その女は信用に値するのか? というパターンを取り上げる。この視点で捉えられる作品も案外少なくないので驚いた。

世評はあまり高くないらしいが歴史物、ユニークさという点でもって《山羊座のもとに》を推したい。珍しく人間ドラマが中心といってもいいのではないかな。エンディングのカラッとした感じも好きだ。

《マーニー》《めまい》も大好きだよ。《北北西に進路を取れ》は、個人的にはこの部門なのだよね。本作において世間的に評価されている要素って、《三十九夜》と《泥棒成金》のほうが面白いぞ、というのが持論です。

  1. 《山羊座のもとに Under Capricorn》(1949)
  2. 《マーニー Marnie》(1964)
  3. 《めまい Vertigo》(1958)
  4. 《北北西に進路を取れ North by Northwest》(1959)
  5. 《パラダイン夫人の恋 The Paradine Case》(1947)

【頭からっぽで楽しもう】部門

もっとも重複を許す部門だ。逆に、それだけ総合的に評価しやすいということだ。他部門含めても屈指で熱中できた《泥棒成金》をトップとしたい。いや、おもしろいよ。主役のダンディさ、身体性、ユーモア、ほろ苦さ、ロマンス、ほぼ全部入りです。

社会情勢を扱ったサスペンスも多いが、そのなかでは《トパーズ》が 1番 かな。これも最後のほうの作品である要因が大きいのか、いい意味で、割と脚本がちゃんとしていて気持ちがいい。他がちゃんとしていないという意味ではなく、なんとなく整合性の部分の詰めが見えるというくらいのニュアンスだ。

上記以降の作品もどれも無難に面白い。

  1. 《泥棒成金 To Catch a Thief》(1955)
  2. 《トパーズ Topaz》(1969)
  3. 《ファミリー・プロット Family Plot》(1976)
  4. 《海外特派員 Foreign Correspondent》(1940)
  5. 《知りすぎていた男 The Man Who Knew Too Much》(1956)

【オリジナリティにしびれろ】部門

ここまでの部門のどこにも入れがたい作品を扱う。《鳥》なんていうのは典型で、諸要素には他作品でも用いられているモチーフが少なくはないが、全体としては鳥じゃん。ていうか、鳥じゃん。最後のほうとかよくわからんし。

1位 としては《ハリーの災難》を挙げたい。シュールなコメディとして大変面白いし、なにより画面がずっとキレイなのが好い。ちょっとホラー味があるのも好きだ。

《間違えられた男》はヒッチコックに限らず映画全体からみれば特に珍しいテーマとも思えないが-どうだろうか。他部門でもよかったが「実話をもとにしたフィクション」と監督が冒頭で解説する特徴もあって、あえてここに配置した。こちらも好きな作品だが、まぁここに。

  1. 《ハリーの災難 The Trouble with Harry》(1955)
  2. 《鳥 The Birds》(1963)
  3. 《間違えられた男 The Wrong Man》(1956)

というわけで、以上となる。この記事によって、とりえあずではあるが、ようやくヒッチコックマラソンの自分なりの振り返りができた。ほなまた。

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《無防備都市/Roma città aperta》を観た。1945 年、ロベルト・ロッセリーニ監督による作品だ。

スコセッシおすすめ外国映画マラソンの 8 作品目となるが、ドイツ編、フランス編ときてイタリア編となった。

第二次世界大戦で連合側に降伏したイタリアは、降伏直後にドイツに占領された。本作はドイツ占領下のローマ市民とレジスタンスたちの苦難を描いている、という説明していいだろうか。1945 年というと日本はまだ降伏前だが、イタリアはすでにドイツの占領からは解放された後らしい。そのような状況で製作されたこととなる。

本作はあくまでフィクションではあるが、ほんのひと時前までに現実に目前にあった、体験された過酷な状況を、それほどの歳月を経ずに映像化していることになる。それぞれの主要な登場人物と、纏わるエピソードは実在の人物に基づいて構築されているらしい。

このような作品に対して、どう反応すればいいのか難しさがある。半世紀以上前の作品だからと割り切れるものでもない。最近の映画で言えば《ムンバイ》を観たときの感触に近い。もっと一般化すれば、ドキュメンタリーに近いフィクションとの接し方という問題意識になるか。

皮肉なことだが、このような作品を単体で見たとき、面白さも小さければ、それなりの評価で済むんだろう。けれども本作、とても面白いので、どうやって消化していいのか悩む。

ジョルジオ、神父、ピナのそれぞれが迎える結末は、いずれもツラい。でも、それぞれの生きざまが反映されていて、カッコいい。彼らの情熱を否定する材料はほとんどない。受けとめ方はいろいろとあっていいはずだが、作品内での意味付けとしては止めの神父の台詞に集約されるだろう。

悪役、というかドイツ軍側のベルクマンとイングリッドも、よくよくこんな役をこなしているものだ。彼らの世界はほとんど閉じており、鑑賞者からみれば穴だらけなのだけれど、彼らは彼らの信念を生きている。

ベルクマンの執務室、入って右側が拷問部屋、左側が将校クラスのレストルームのような構造になっており、左右の対比があまりにも明確だ。実際の施設が本当にこんな構造だったとは思えないが、ギャップの演出にはもってこいだ。

判断力を鈍らされたマリーナがあまりにも哀れで、どうしようもない。

中盤とクライマックスの描写に明らかと思うが、子供たちの在りようについての気の配り方が絶妙だ。「大人たちが抵抗に敗れても、子供たちが引き継いでいく表れ」のようなコメントも見たが、そういうことなのかね。

イタリア映画だからだろうと雑な括りは許されないだろうけれど、家族関係についての視点が強い。加えて神父は、さまざまな子たちの面倒を見ていたようだので、そういう意味では家族を超えた絆のような面もあるだろう。

同じ視点上だろうか、マルチェロがピナのスカーフをフランチェスコの手渡して別れるシーンが強く印象に残っている。

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《天井桟敷の人々/Les enfants du Paradis》を観た。1945 年のフランス映画で、監督はマルセル・カルネという方らしい。タイトルを辛うじて耳にしたことがあるくらいで、監督名やその他の詳細はまったく知らなかった。

というわけで、スコセッシおすすめ外国映画マラソンの 7 作目かな。Amazon Prime で上下に分けられて配信されているバージョンで鑑賞した。二部映画で 190 分だ。

舞台の年代を同定できなかったのだが、Wikipedia に拠ると 1820 代ということらしい。舞台はパリだ。フレデリックという若手俳優志望が劇団に入ろうとするところから始まる。女たらしだが、演劇に対する情熱は本物で、実力も相応にあるようだ。幼少時は孤児院で育ったことも中盤で示唆される。

彼の入団した劇団にはバチストという青年がおり、バチストの家族はこの劇団のメンバーとして生計を立てている。バチストには無声演劇(作中ではパントマイムという)の才能が有り、それを次第に開花させていく。

彼は前編の或るシーンで「天井桟敷の人々」を笑わせる劇を目指していると告白する。この台詞は正しくタイトルを指すが、それが生きているかは、どうなんだろう。

ところで、ガランスという美女が登場する。彼女を巡ってフレデリックとバチスト、さらには無法者のラスネール、伯爵のモントレーがぐちゃぐちゃとなって物語を推進していく。大局的に見ると、バチストとガランスのラブロマンスのようだが、どうもそういう楽しみ方はできなかった。

舞台、無声、あるいは映画とは

本作にはメタ映画、あるいはメタ舞台的な企てがあるんだろうと思うが、そのほどはどうか。バチストが演じる作中劇《古着屋》は、まぁ作中で見るだけでも面白い。一方、フレデリックが売れっ子になってから上演中に勝手に脚本をいじって演じる作品も、ハチャメチャではあるが観客ウケするのはわかる。

バチストの劇はカメラ自体もほぼ正面からの定点撮りなのだが、一方のフレデリックの劇は、メタ演劇みたいな要素があるのでカメラも視点を変えざるを得ない。それぞれの面白味があることがわかる。

バチストの表現力がスゴイのは画面越しでも伝わってくるし-無声劇であることをどう受け止めても、それこそがバチストの才能なのだが、映画の映像を見ている身としてはフレデリックの劇の方が面白味は伝わりやすい。作中では 2 人は相互に敬意を示しているが、フレデリックとしては演技の方向性こそ違えど、バチストの才能に嫉妬すらしている。何とも言えない皮肉がある。

しかしながら、なにより本作の映画としての醍醐味部分は、バチストが劇を捨てるある瞬間にある気配だ。あそこだけは本作全体においても珍しくカメラがよく動いたと記憶している。酷い雑に言えば、この舞台という要素の重みが本作を名作たらしめているし-まぁそりゃぁね、一方で掴みづらくもしているのではないか、偉そうだけれどもそう感じた。

なんだか妙に台詞がキマっている

これは何なんだろう。この映画、淡々と会話が繰り広げられて、そこに映画特有の跳躍やキレもないのでそういう意味では退屈になりがちではあるのだが、台詞そのものは妙にカッコいい。小説ばりといってよさそうなくらいに。

それでまぁ、脚本のジャック・プレヴェールを引けばわかるのだが-鑑賞後に確認しました-、彼は文学者であり、詩人であり、という人物なのだ。言うまでもなく、台詞回しが評価されているらしい。私は自分の鑑賞眼をそれなりに褒めたい。

しかし、逆に言うと台詞が決まりすぎているように思う。映像があんまり面白くないんだよね-だけどこれはもちろん上述のように舞台を扱っている点にも由来すると思う。群衆のシーンなどは流石と思うのだが、ピンとくるシーンが少ない。

バチストとガランスの鏡に向かっているシーンの対比などはさすがに記憶に残った。あとは、フレデリックの決闘に向かうシーン、無法者のラスネールの最後の覚悟なんかはよかったね。

なんの映画なんだろうか

最初に書いたように、バチストとガランスのラブロマンスに思えない。かといって群像劇という風でもない。このへんが特にこの時期のフランス映画っぽいのかなと思うが-数本見た程度で判断できることではなかろう-、登場人物の係る係争のすべてがすれ違っていく事象自体が描かれてるというか。

バチストの人間性が特に後半はまったくよくわからない。逆に考えれば、ガランスの心理のような面こそが捉えやすいのではないか。ガランスは男を翻弄しているようでいて、よくよく考えると彼らに頼るしかないうえで、それぞれに翻弄されていった結果が彼女の運命のように思える。

クライマックスにおける彼女のとった行動は、彼女を取り巻く愚かな男たちからの決別なんじゃないの、とかね。

文句のような感想になってしまったが、本作を映画館のスクリーンで観て、そこから現実に帰ってきたときは、疑問や納得できない面は抱えつつも、それなりに気持ちのいい体験になっていそうなんだよね。そういう魅力の作品だ。

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《ゲームの規則/LA REGLE DU JEU》を観た。ジャン・ルノワールの作品としては、前回の《大いなる幻影》に続いて 2 作目の鑑賞となる。1939 年の作品だが、完全版となったのは 1959 年らしい-下記のリンク先記事に基づく。

スコセッシおすすめ外国映画マラソンの 6 作目となる。本作については、Wikipedia に単独記事が存在せず、人名などは以下の allcinema というサイトの概要を参考にして書かせてもらった。

不倫を扱った作品で発表当時は不評に終わったという前評判を確認して臨んだが、結果としては今回のマラソンでは現時点で、もっとものめり込んだ作品となった。全体的に、特に後半の展開は狂気とユーモアに溢れており、画面にくぎ付けだった。

どうやって感想として切り出そうかな。あらすじから述べる。

ロベールという伯爵がいる。彼には愛人がいるのだが、彼の妻のクリスチーヌにも愛人:英雄パイロットのアンドレがいる。ちなみに、アンドレを紹介したのは彼女の旧来の友人であるオクターヴだ。オクターヴだけちょいと年齢が離れているようだ。

ロベールは彼自身およびクリスチーヌの浮ついた状況を清算する目的も兼ねて、彼の別荘にそれぞれの愛人を含め、貴族クラスの人らを集める。狩りを楽しんだり、仮装劇を楽しんだりして、終いには乱痴気騒ぎへ発展する。

物語全体の後半にて、仮装劇から騒動に移行していくが、直接の発端は別荘の狩猟区域の番人:シュマシエルとその妻:リゼット、元密猟者:マルソーの 3 人が引き起こした痴話喧嘩となっている。広い屋敷内で繰り広げられるかくれんぼと鬼ごっこ、決闘騒ぎ、垂れもせずにうまく撮られている。バカバカしいけど、面白い。

狩りのシーンにどんな重みがあるのかしら

別荘到着の翌日は日中に狩りに出る。この狩りの描写がやたらと丁寧だ。兎は地に転げるし、鳥は墜ちる。割と延々と続く。どんどんと倒れるし、どんどんと落ちる。痛々しさがある。私の少ない映画鑑賞歴から思い出される他の映画の印象的な狩猟のシーンのいずれと比べても、どれよりも強く厳しい。

なんだろう、これを上手く消化できない。まぁ残酷だというのがひとつ。そして、これが貴族たちの遊戯に過ぎないというのがひとつ。そして、後半の騒動への導線であるわけだが、どういう作用があるのか。全体像の享楽性を強調しているのでは、と思えば納得できなくもないが、そうなのかな?

非日常的な状況へ引きずり込むという意図はあるだろうか。うーん。

クリスチーヌの本心はどこにある

仮装劇が終わりに差し掛かったところで、クリスチーヌは上記で紹介した以外の男と乳繰り合うべくかしらぬが、こっそりと裏方へ流れていくのだが、この辺からしてもう異常な光景が連続する。

まず、主要登場人物たちの演技後、髑髏様の衣装を身に纏ったメンバーによる劇が始まる。薄暗くなった会場で、明滅するスポットライトが、並んで鑑賞する主要登場人物たちを照らす。カメラも左から右へ追随する。

この瞬間を縫って、夫でも渦中の愛人でもなく別の男と遊びにいくのかクリスチーヌよ。という想定外の事態と並行し、上述のシュマシエルとリゼット、マルソーの追いかけっこも本格化する。状況を転換させてクライマックスへ雪崩れ込む直前の、このシーンが 1 番好きだね。

ところで、狩猟の終了直前にクリスチーヌは、夫:ロベールと愛人の別れの挨拶を望遠レンズ越しに目撃してしまっている。これは遠目には別れに見えないので、彼女は勘違いを起こしているわけだが、この作品ではこの勘違いが重要な要素とされているようには見えなかった。女の奇妙な連帯のような描写はあったが、これもなんか有耶無耶と泡となっていくし。

何が言いたいかとしては、クリスチーヌの心理が難しくて、そもそもロベールとクリスチーヌの本望が明確でない。ロベールは結婚生活を諦めかけている描写があるもののやり直しもまんざらではなさそう。

だが、クリスチーヌ自身はそもそも問題の深刻さを、さほど表わさない。彼女のそもそもの浮気相手として仕立て上げられたアンドレにしてもほぼ一人相撲だ。階級の問題もあるんだろうけれど、この辺は文脈を読めていないのかな、とも感じた。

礼節あるいは男の友情とは

ロベールは気まぐれに密猟者マルソーを、半ば彼を哀れに思いつつもか靴磨き担当として別荘に雇い入れる。マルソーは身分違いのご主人に対してかなりフランクな態度で接して、ロベールもそれを許す。この関係がおもしろい。

言ってみれば《大いなる幻影》でも階級-身分の差を持ち出しつつも、その融和のような状況を描いてみせていた。監督のテーマなのか、得意とするとところなのか。

アンドレとロベールのクリスチーヌを巡った諍いも、落ち着いてみれば相互を尊重して認め合うような展開になっている。これも笑いどころで、泥酔した女性のケアなどを率先して協力しているあたりがユニークだ。なんというかね、ホモソーシャル的とでも言っていいのかね。

そんななかでシュマシエルだけは哀れなんだよな。これは狩猟というモチーフと結びついている部分があるのか、結婚のあり方についての示唆なんだろうか、彼自身に自業自得的な面があるとはいえ、かなり可哀相ではある。

こんな喜劇はあんまり見たことない

本作について、いくつかの目にした説明や感想で「悲喜劇」というキーワードがあったが、私は本作は完全に喜劇だと思う。もちろん喜劇というのは根底に悲劇があるわけだが、それでも本作における悲劇は完全に道具以下の機能しか果たしておらず、言うなれば不条理ベースのコメディと捉えたほうが見やすい気がする。

やっぱりね、哀れなシュマシエルが何処をとっても狂言回し、かつ道化でしかないのがポイントではないか。そして、そのせいか、たしかにクライマックスに悲劇はあるんだけれど、これも悲劇というよりはギャグの範疇に感じられた。

あるべき終着点が見づらいせいでもある。誰が悪いともいわないが-だからこそ悲劇たる面はあるのだが、いかんせんクリスチーヌがどうしたいのか、ある程度予想された展開ではあったが、最後のそれですら半信半疑にならざるを得ない。実際、起きる事件はそれゆえの結末でもある-直接的にはクリスチーヌのせいではないにせよ。

本作は、どこまでも俗な内容なのだけれど、笑わいどころの魅せ方はなんとなく上品さを装っているというか、そういう面が強い-もともとそのような戯曲が元ネタらしいけれど。

しかし、監督がオクターヴを演じているとは恐れ入った。そりゃないよ笑。

上述したように狩りの情景や仮装劇でのライトとカメラの動き、屋敷の騒動のシーンやクライマックスのカメラワークは特別感というほどは感じなかったけど、決まっていて好かった。植物園を覗きに行くシュマシエルとマルソーのカットも好きだね。

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