全体的に自然な感じで|《エッシャー通りの赤いポスト》

新年に映画をということで《エッシャー通りの赤いポスト》を観た。園子温監督作品の初鑑賞、かつインディー映画と、なかなかヘヴィーな体験だった。映画周りのコミュニティの感想をいくつか見ていたが、目につく範囲では特に監督のファンからの感想は概ねポジティブであった。

なるほど……。

おおざっぱなあらすじ

気鋭の新人監督が新作品のための俳優を募集する。ほうぼうさまざまな背景を持ったひとたちが募集に殺到する。オーディションを経て俳優らは決まるが、監督はプロデューサーとの軋轢に苦しみ、合格した俳優も、落選したさまざまなひとらも、それぞれに苦しみ、悶える。最終的な撮影は混沌の渦となる。

エッシャー通りとは?

いわゆる騙し絵の類で有名な画家のエッシャーから援用された名称と思われる。実際上は成立しえないループする階段群や水路など、それらをモチーフにする絵画を描く。これをヒントに読み解くならば、身も蓋も無いが、本作にも循環構造や境界のあいまいさのような視点がよさそうだ。が、この視点自体は、物は言いようみたいになりがちではある。

本作は、ワークショップと地続きのうえで製作されたらしいので、前提からしてパッケージとしての映画作品と、そうでないインディー映画としてのあり方の境界が曖昧だと言えるかもしれない。あるいは、演者と観客、主役と脇役またはエキストラ、もしくはプロとアマチュア、諸々の境界が非常に曖昧になっているとも言える、かもしれない。

ところで作中で登場する「エッシャー通り」と「赤いポスト」は、映画作品への出演を希望するひとびとが応募書類を放り込むための道のりであり、投函先を指す。ふんわりとそれっぽいことを言うと、「応募者たちはエッシャー通りを歩んで書類をポストに投函した時点で、作品世界の不合理に溶け込む」みたいなことになる。

有名俳優たちは溶け込んだか?

これも監督の狙いといえばそうなるだろうし、いわゆる「○○組」という縁もあるのだろう、有名俳優たちもいくらか出演している。私が気がついた限りだと-名前をあとから確認した方ばかりだが、渡辺哲、諏訪太朗、吹越満、藤田朋子などがいた。

渡辺哲、諏訪太朗が登場するシーンは、本作におけるアンチテーゼな部分を担っており、だからこそ彼らのような俳優が起用されたのかなと察する限りだが、どうだろうか。別にここの配役も新人とされるタイプの方々でよかったのでは。エッシャーし過ぎではなかったか。

藤田朋子もまた存在感が強くて、すごい。言わずもがな。吹越満はちょっと出の友情出演くらいだったので、まぁ、でも画面を持っていって、エッシャーが過ぎる。

監督もエッシャー通りするする

作中における監督もエッシャー通りに差し掛かるシーンがある。ここも妙なことで、結局のところ監督も迷える子羊なのであった。監督の背景事情は少し明かされるだけだが、まぁ見ていれば事の次第はわかる。

殊、創作において、クリエイターという領分にとっての美の根源というか、創作意欲の源泉というのは、どういうものか。単純なことだ。

個人的には監督の元恋人の方子、彼女の最後のほうでの登場のしかたがああいう見せ方でいいのかというのが心に残っており、ああいう方法で見せるしかなかったのかなという疑問が浮かんだままだ。

粗削りというか、放り投げるとうか、逃げ去るというか、それが魅力といえばそうなんだろうか。つまるところ、園監督の状況をそのままに体現したシーンとしてしまってないのだろうか。

この作品の熱とはなんだったのか

いくつもの感想に、本作を表して「熱い」「熱量」「熱意」などのワードがよく使われていた。端的には、本作の元となったワークショップの参加者たちが抱く「映画に出たい」というパッションが、そのまま映画に反映されていたということと思う。スゲェな。

ん-、どう言えばいいのか。作品の性質上、そうなるのか。少なくとも監督がそれを求めていたかは疑問というか。言ってみればそういう熱さを冷たい目で見離した目線も監督にはあるのではないのか。それは穿ちすぎだろうか。逆にだとすれば、そういったなかで演技を求められる俳優陣たちはツラかろうな、とも。

ついては 51 人の登場人物がいるとのことだが、公式サイトには彼らの氏名はクレジットされておらず不満だったが、映画.com には記載されていたので感動した。

ついでにいうとなんだが、解説には「群像劇」とあるけど、この作品を群像劇と割り切るのもなかなか難しいような不安が付きまとう。

さまざまなエッシャー通りと、その空気のよさ

ざっと思い出すだけで、6 つくらいエッシャー通りがあったと思うが、その風景はどれもよかった。

アスファルトの脇を小川が流れる小路に置かれたポスト、大きな河川沿いのサイクリングロードっぽいところに置かれたポスト、住宅街にぽっと置かれたポスト、どうみてもイマジネーションの産物といった情景とポストなどがあった。

ひとつのポストの背景の電柱には武蔵野市とあった気がした。撮影はほとんど都内とのことだので間違いなさそう。草ッ原がきれいな河川も美しく、映画のビジュアルにも採用されているようだが、どこの河川かわからない。下記のサイトに詳しいが載っていない。都内なら西寄りの河川と思うが、土地勘がない。

最後のシーンは監督の地元である豊橋らしいが、田舎の商店街で繰り広げられる夏の小さな催事と、このゴチャゴチャ感は愛おしかった。カラッとした夏っぽさが画面中を妙に瑞々しくしており、これはとても心地よい。

そういえば、笑いを狙ったシーンも多かったと思うが、クスクスレベルでも笑うひとが少なくて、これも少しツラかった。決して大真面目な映画でもなさそうなので、みんなもっと笑おうぜ、とは感じるのであった。