『トパーズ』《Topaz》を観た。1969 年の作品だ。前作は東ドイツだったが、本作は対ソ連ということで、共産主義の本丸を相手どった冷戦ネタの作品だ。珍しくというか、群像劇と言うほどではないものの、主人公一辺倒の構成ではなく、ハッキリと幕が分かれていることを意識させられる。ここでは大雑把に以下の 5 幕として感想を並べる。

  1. ソ連高官クセノフ一家の亡命劇
  2. フランス大使館でデベロウ登場
  3. ニューヨークでの機密情報奪取
  4. キューバへの潜入と失敗
  5. フランスでの黒幕と真相の究明

また、日本語でググっても簡単には情報が見つからなかったが、オープニングクレジットのソ連軍の行進のシーン、キューバのカストロらしき人物の演説のシーンは創作ではなくて実際の映像が利用されているのではないかな。ちょっと確認できていない。

ソ連高官クセノフ一家の亡命劇

発端だ。タイトルの通りの内容だ。コペンハーゲンのソ連大使館からアメリカへロシア人高官:クセノフの家族が脱出する。ほぼ無言で緊迫した状況が演出されるのは、いつも通りながら見事な手腕である。ここが 1 番好きって言われても全然違和感がない。

季節は秋から冬なのかな。アメリカ到着後にワシントンから車を走らせて亡命先の隠れ家に向かうシーンで森の中の屋敷に到着するが、少し木々が黄茶色のようになっている。なんとなく『ハリーの災難』(1955)を思い出したが、映像は向こうの方がキレイだったな。

屋敷で秘密会議が開かれるが、隣室で娘がピアノを奏でているシーンは印象深いね。

フランス大使館でデベロウ登場

冷戦下ではあるがフランス-パリはあくまで中立を貫くというフランス大使館でのシーンに切り替わる。そこに主人公:デベロウが登場する。フランスのエージェントである彼は、アメリカ側の組織とも仲が良い。

デベロウの自宅では、パートナーのニコールは彼の仕事を危惧しており、パリに帰りたいと促す。まぁ、そりゃそうだ。彼らには結婚した娘が本国に居り、娘夫婦がニューヨークに遊びに来るという導線が引かれる。

アメリカ側のエージェント:ジョンかな? が来訪するが、その際の会話もなかなか面白かった。

ニューヨークでの機密情報奪取

国連会議に来訪しているキューバの高官から機密書類を盗みたいが、アメリカのエージェントでは接近すら難しい。デベロウに白羽の矢が立つ。フランスとは関係のない仕事だが、彼は了承する。家族旅行の最中である。

デベロウはニューヨークで花屋を営みつつスパイ活動に従事するパートナーを使って機密情報に接触しようとする。ほとんど、 パートナーの彼の活躍が描かれる。キューバのスタッフが滞在しているホテルは半分無法状態のようだし、街路には共産主義の応援者のようや人たちが集っているし、これは当時の似たような状況を再現したのだろうけれど、なかなか画面が強い。

情報を盗み出すまでのやり取りも緊張感はそこそこにコミカルさを挟みつつ、楽しめる画作りになっていた。特定のシーンについて言えば、貴重っぽい文書をハンバーガーの包みにしており、油まみれにしているところが面白かった。

キューバへの潜入と失敗

ここから全体の尺としては後半に入る。機密文書にてソ連とキューバの繋がりのヤバ味を実感したデベロウは、単独の判断でキューバに飛ぶ。ミッションの重要性もあるが、協力者であるファニタの身を案じた面もあるだろう。

デベロウとファニタのラブロマンスのシーン、ますますドキリとさせられる表現になっていた。話は飛ぶが、拷問シーンもだいぶ精確というか直接的に描かれていた。痛々しさがよく伝わる。これらも規制の対象であったりするだろうから、時代の流れとしてこれくらいの表現ができるようになったのだろうか。スパイしていた夫婦が正気を失っていたが、妻の方の演技がよかったね。

足がついたファニタたちは粛正されていくわけだが、リコ・パラがファニタを処分するシーンも、またよい。どちらかというと彼は、ファニタを女性としてと言うよりも尊敬する英雄のパートナーとして敬愛していた、とみるほうが情に篤い。だからこそあの最期に繋がった。

彼がドアを開けて去り、エントランス中央にファニタの亡骸が残されたシーン、中南米らしい明るさ、デザインを含めて、ホドロフスキーのような美的な感覚を見た。

フランスでの黒幕と真相の究明

紆余曲折の末、デベロウは更迭される結果となるが、彼のもたらした情報によってか亡命ロシア人:クセノフが「トパーズ」の秘密を開陳した。キューバの犠牲になったメンバーの犠牲も少しは報われたろうか。

最後のパリ編では、フランス政府内の不穏分子を炙り出すための踊りがはじまる。そこまで大掛かりな話でもないが、ここで、まさかこういう風にデベロウの妻:ニコールが、まさかまさかこんなムーブを見せるとは。いや、これは酷い。酷いけど最高だ。

ニコールの動き、単純にサスペンスを楽しみたいという向きにおいてはノイズといっても差し支えなさそうなくらいで、まさかのオチをこんな、このような不貞なアスペクトに委ねるのかと思ってしまうよ。

言うなれば、キューバとフランス、本作の物語における彼らを取り巻く構図がニコールとファニタの関係に見立てられる。どうなのかね、これ。自分は面白くみたけど。

直近の緊迫した世界情勢を描いたという意味では、第二次世界大戦中の作品よりもよっぽどテーマに切り込んでいるし、これはこれで特異な作品だ。エンディングに亡くなっていった登場人物たちを思い出させる構造といい、メッセージ性も強い。

好きですね。

余談というか、後期作品になるほど日本語で浚える情報が減ってくる。今回の感想は、以下のブログの記事で登場人物の関係とあらすじ確認しながら書かせてもらったのでリンクしておく。

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『引き裂かれたカーテン』《Torn Curtain》を観た。1966 年の作品だ。船旅のシーンから始まる。カップルが客室でいちゃついている。ロマンスシーンは時代を経るごとにさらに露骨になっている。2人は本作の主人公カップルである。

船はコペンハーゲンに到着し、よくわからないままに主人公:アームストロング博士は東ドイツに亡命することになる。よくわからない。よくわからないままに助手兼フィアンセ:サラは彼を尾行して付いていく。よくわからない。本当によくわからない。

サラの行動もなかなか迷惑だが、言うまでもなくアームストロングの行動がよくわからない。なんで、こんな杜撰なムーブでサラを巻き込んだのか。仮にもフィアンセやろ。男が単なる亡命目的ではなく、なんらかの使命を背負って東ドイツに潜り込んだことは、鑑賞者であれば誰だってわかるが、それにしたってお粗末じゃないか。

農場での格闘

東ドイツへの到着翌日、エージェントと町はずれの農場で会って会話する。会話の内容に意味があるとも思えず、ただの挨拶のためだけに尾行を巻くような危険な行為をするのかね。そこが敢えてオミットされているにしても、やっぱりよくわからないな。

さて、案の定と言っていいのか尾行を巻くことには失敗しており、監視者:グロメクが彼に追いついた。

展開の次第で、農場付きの家屋でグロメクを殺める結果に至る。この格闘シーンが 1 番面白かった。エージェントの協力者である女性もおり、なんなら最初に手を出したのは彼女であった。2 対 1 でグロメクを無力化しようと死闘を繰り広げるが、この攻防が手に汗握る。最後はガスオーブンを活用して息の根を止めるのだが、緊迫感があった。

この事態の終結に当たって、女性がアームストロングに血塗れの手を洗うように促すシーンが好きだ。共犯関係のなかに、ちょっとしたエロチズムがある。

脱出劇

なんやかんやとミッションを進め、東ドイツから脱出しようという段になるが、この辺は個人的にはさほど面白みを感じなかった。序盤から付き添っていたカールが大した役割も果たさずにフェードアウトしていったのも気になった。

反体制組織とのバス移動のシーン、なんというか手弁当な感じのサスペンスだが、流石に上手い。臨時便を偽装して走行する逃走用のバスに対し、背後から本来のバス便が迫っているので緊張感が生まれるという仕組みだ。「本当にそれって緊張するの?」って書いていて自分でも思うが、そこはうまく演出されていて、そこそこの緊張感がある。

バスと別れ、謎のスウェーデン人のマダムに遭遇し、郵便局で一悶着あって、という流れもよくわからない。このマダムを登場させることの意味が、おそらく当時にはあったのだろうけれど、十分に解読できず残念である。それにしても、この一連のシーンも郵便局であえて目立つ動きをする必要がないんだよな。決死の逃避行としては温い。

クライマックスに至るシーン、劇場にて観劇しながら逃亡の時間を待っている。そこにふと奇妙なカットが現れた-ここはとてもヒッチコックらしい仕掛けだった。だが、これも序盤での妙なシーンの理由が判明したくらいで、特にこれといって意外性もなかった。

その後、主人公が「火事だ」と英語で叫んで観客たちが動揺し、騒動になるシーンも如何にもな演出だが、本作では、さまざまなシーンで言葉が通じないことが生かされてきたので、逆に違和感を感じた。流石にそれくらいの英語なら皆わかると前提されるのだろうか。設定の粗のように感じてしまった。

まとめ

ダラダラと書いたが、重ねて述べておくと、農場でのシーンが1番面白かった。あの農場の家屋と女性、『三十九夜』で主人公が逃亡中に匿われた若い嫁のことを連想させられた。そういう意味では本作でも、ヒロインよりも道中でちょっとだけ手助けしてくれる女性キャラクターの方が強烈な印象を残してくれた。

なお、本作と次作『トパーズ』(1969)は冷戦構造が物語の主軸に横たわっている。タイトルの「カーテン」もそのことを意味しているハズだ。

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『マーニー』《Marnie》を観た。1964 年の作品だ。前作に続いてヒロインはティッピ・ヘドレン、パートナーの役としてはショーン・コネリーが演じる。

冒頭、駅のプラットホームに立つ主人公:マーニーが映し出される。奥行きのあるカットが印象的だが、似たような構図は序盤で彼女の滞在するホテル、または彼女の母の暮らす波止場の住宅街を映すときに使われている。そこまで深い意味はなさそうだけれど、どうだろうな。

マーニーがどういう人間で、どういうことをやって来たのか、それをマークが突き止めて対処を決断するまでに 45 分ほど、マークがマーニーの問題を解決しようと四苦八苦する過程が 45 分ほど、そして最後の 30 分がここまでのドタバタの解決編となる。クライマックスまでの展開、先が見えなくてなかなかキツい。

作品周辺の話から入ると、日本では「赤い恐怖」という副題をつけてパッケージ化されたこともあるらしい。Amazon Prime での作品情報としてのタイトルもこのようになっている。言うまでもなく『白い恐怖』(1945)を意識してのことだ。

「登場人物が特定の色に強い拒否反応を示す」「その人物の記憶に隠されたトラウマ的な事件がある」の 2 点が共通している。

また、本作は前作までの 3 作と比べると、母と息子ではなく、母と娘の関係がやや歪んでいる。

マーニーは武装を解除しない、マーニーは本当の自分を明かさない。というか、ある意味で彼女自身も本当の自分を見失っている。唯一の生きがいは母への送金と愛馬を駆った乗馬だ。馬は人間と違い美しいと彼女は言う。乗馬をしているときだけ、彼女は素に戻れるようだ。

彼女が本当の自分を見失った原因は何か。これは序盤から示唆されているので意外性は小さいが、特に今作では性的な表現がさらに露骨に描写されるようになった点に驚く-どちらかといえば映画製作とその描写を取り巻く環境についての話だが。

という状況の中、クライマックスに発生する事件のショックから逃れるべく、皮肉ではあるがマーニーはようやく人間らしい、装いのない態度を見せる。限界状態なのでただただ恐ろしいだけだけれど、90 分ほど溜めこまれたエネルギーが四方八方に放たれる。凄い。これを見せるために本作はあったんや、という興奮に包まれた。

映像としては金庫破りと清掃員から逃れるまで、クライマックスの乗馬、ラストの回想あたりのシーンがおもしろかった。最後の乗馬のシーンはどうやって撮影したのか気になる。

また、母の暮らす波止場の住宅街、リアルなのかセットなのかよく分からなかった。奥に停泊している客船のような大型の舟、本物というよりはイラストによるフェイクに見えるのだが、最後だけは本物のように見えた。答えは探せば見つかるだろうか。

ショーン・コネリーについてだが、映画俳優としては初期のキャリアにあたる作品なのかな。若い。記憶の中の彼と比すと、目元くらいしか面影がない。しかし、いままでの男性側の主人公像とちょっと趣が異なり、面白味があった。

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ヒッチコックマラソンもあと少しで終わりそうだ。一応、Wikipedia に記載されているヒッチコックの「主な作品」リストに従って、Amazon Prime (レンタルを含む)で視聴できる作品を年代順に見てきた。そのつもりだったが、先ほど確認したら『暗殺者の家』(1934)『間諜最後の日』(1936)『第3逃亡者』(1937)『疑惑の影』(1943)の 4 作品をを見逃していたようだ。

とりあえず、上記の漏れを除いて『三十九夜』(1935)から 28 作品を観てきた。1930 年代後半から 1970 年代に入るところまでだ。

ヒッチコックのイギリス時代とアメリカ時代は第二次世界大戦を境にしている。私は無声映画時代のヒッチコックは見れていないので、映画製作という観点からの転機について言えば、『ロープ』(1948)の初のフルカラー作品であった点が唯一か。細かく言えば、いろいろとあるけれど。その直後の作品『山羊座のもとに』(1949)も、おそらくは唯一の時代物ということで印象深くはある。

第二次世界大戦が関連した作品という意味では『海外特派員』(1940)『救命艇』(1943)が主だっているが、戦後にかけて兵役あがりのキャラクターを主軸に据えられた物語が少なくないことも押さえておきたい。そういう意味では『私は告白する』(1953)が個人的にはツボである。

また、詳細は確認していないが、実は原作モノが多く、オリジナル脚本の作品は思ったほどは多くないようだ。これも発見と言えば発見だった。とはいえ、どれくらい脚本で物語に変更がされているかも分からないので、何とも言い難いところはある。

ところで、監督には「サスペンスの神様」という異名があるようだが-出典も知らないけれど、この「サスペンス」と言うのは作中に仕掛けられたハラハラさせる要素の巧妙さくらいのニュアンスで、決してジャンル的な意味ではないと理解した。

どの作品にも男女関係の縺れのようなもの、またはロマンスが絡んでいるのは明らかで、それらが前面になっているときもある。『ハリーの災難』(1955)のような不条理なコメディ作品もあれば、『めまい』(1958)のように幻想的な(それを装った)作品もあるし、『泥棒成金』(1955)や『北北西に進路を取れ』(1959)のようにエンターテインメントに振り切った作品もある。

ヒッチコックマラソンが終わる前になんでこんなことを書いたかと言うと、取りこぼしこそあれど、残り 3 作となって何となく飽きてきたからだ。途中で 2 度だか中断を挟んだので、また中断すればいいのだけれど、残り少ないのでこのまま走り切りたい。決意表明したかったわけでもないけれど、そんなところだ。

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『鳥』《The Birds》を観た。1963 年の作品だ。ちょっと惰性っぽくなっているヒッチコックマラソン、そろそろ区切りをつけたい。本作は、私の世代でも TV で放送されているのを何度か見ている。今回、観ようかどうか迷ったけれど、あらためて見たら、内容はほとんど記憶に残っていなかったので、見てよかったかな。

冒頭、前回の『サイコ』の感想で述べたが、さっそく階段をうまく使ったシーンが出てくる。これ見よがしに、とも言いたくもなる。この階段があるペットショップだが、これは実際の建築物ではなくてスタジオセットかな。であれば、割と大掛かりとはなるけれど、それでも『裏窓』ほどではないか。

のっけから主人公:メラニーの行動原理がわからないが、気にしても仕方なかろう。不躾な嫌味を投げかけてきたミッチへの善行による意趣返しという面が大きいのかな。メラニーは、大新聞社の令嬢として社会貢献的な振る舞いを心がけようとしている節がある。これが明かされるのは中盤ほどのことだ。

メラニーが鳥の襲撃を連れてきたというような側面も強いが、それを否定する材料も用意されている。どっちでもいいけれど。メラニー来訪が何を脅かすかといえば、それはミッチを囲んだ環境だろう。けれど、これは視点を変えれば上述のようにミッチにとっては因果応報ともいえるだろう。なぜなら、メラニーを取り巻く噂は、父のライバル社がばら撒くデタラメのようだからだ。

さて、ミッチの環境とはいうが、ざっくりと言えば、彼の母親だ。ミッチの母:リディアは、過去 2 作から継続されてきたトピックである母子のやや屈折した関係を担っている。本作では、この状況は彼女の唯一の寄りどころであった夫の死に因るところが大きいようではある。

で、いきなりクライマックスの話をするけれど、最後にとうとうリディアは、息子でも娘でもない第三者として新たに、リディア本人を頼ってくれるひとを獲得した、たとえそれがその場限りのものであってもだ。

ざっくり言って、本作の人間関係におけるテーマこそリディアが背負っているようにしか思えない。鳥の襲来という出来事を別に置いたとき、一番メンタルがアッチャコッチャしていたのも彼女でしょう。メラニーは一貫して強いし、アニーは残念ながら脱落するし、他にめぼしい登場人物はいない。

そういえば、メラニーとともにボガデ・ベイに来た存在が他にいた。二羽の愛の鳥である。野暮な考察となりそうだが、鳥たちが襲おう、あるいは救おうとしたのが、この駕籠に入った愛の鳥であった、と考えてはどうだろうか。

愛の鳥は駕籠に囚われたままボガデ・ベイを去ることになったのか、それとも何かしら救いを得て、あるいは人間らに救いをもたらしたのか。意味付けはありそうだけれど、なんだろうね。

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『サイコ』《Psycho》を観た。1960 年の作品だ。しばらくフルカラー化されたヒッチコックが続いたが、本作はひさびさにモノクロ作品だ。モノクロって言ってもちょっとセピアっぽいというか、カラー時代のモノクロなのでかつてのモノクロよりも風合いの高さがあるような気もする。もちろん、保存状態うんぬんなども絡むだろうけれど。

いろいろと情報を目にしたけど、あの有名なシーンの色味なりの問題でモノクロを選んだということらしい。もっともだろう。

物語がどう転ぶかは相変わらず伏せ気味の展開で、本題らしきインシデントが発生するのは全体の 1/3 が過ぎたくらいからか。徐々に表現が露骨になってきたロマンスなシーンも本作ではかなりあからさまで、序盤からちょっとビックリした。

前後の作品で引き継いでいるメタテーマ

ヒッチコックの創作について少し述べる。

前作の『北北西に進路を取れ』の感想で述べたが、本作でも、母と息子の偏執的な関係が背後に潜んでいる。これは次作の『鳥』にも引き継がれるが、ヤバさでいえば本作がピークだ。こういうパラフレーズは、どのような創作でもあるだろうけれど、同じ監督や作家の作品を続けて見ていると本当によく分かる。

ついでに『鳥』に関連した話をすると、本作では主人公:ノーマンが鳥の剥製作りを趣味にしている。鳥こそは人間よりもすばらしい存在だのように演説をぶつシーンがあるが、これは『鳥』にも類似したシーンがある。どの段階から意図しているのか、単に創作、脚本のテクニックなのか、それ以上の狙いがあるのか。どうなんだろうね。

本作でも地味に活躍する階段たち

ヒッチコックは高低差を使った演出が好きで、これもどこかでしら論じられているのだろうけれど、そのなかでも私がいつも気になるのが、地味ではあるが階段の使い方だ。階段を活用しないシーンはほぼ無いと言えるくらい、特にハリウッド時代に入ってからのヒッチコック作品には、象徴的にとでも言えるくらい階段シーンがある。

そいでまぁ、本作の階段だけれども、大きく分けて3つにわけて見られる。なお、本作の階段は、いつもよりもちょっと象徴的な使い方がなされているけど、逆にそれが新鮮だった気がするのでこうして書いている。

  • ノーマン宅への階段
  • ノーマン宅の二階への階段
  • ノーマン宅の地下への階段

それぞれについて見ていく。

ノーマン宅への階段

主な舞台となるノーマン家の経営するモーテルの管理室から奥まった小高い丘にノーマン宅がある。モーテル側からノーマン宅の玄関口までは高低差は 5 メートル乃至 10 メートルほどか。

この階段を使ってノーマンは自宅とモーテルを往復する。ザックリと言ってしまうと、ノーマン宅側は死に囚われた世界で、モーテル側は彼を現実に繋ぎとめる唯一の場であり、かつ彼の狩り場でもある。

この階段を使うのは、そして使えるのは彼だけだ。私立探偵ミルトンは、この階段を使ってノーマン宅へと侵入したわけだが、その結果は死に繋がった。

一方、行方不明の姉を探すライラがノーマン宅に忍び込むときは、この階段は経由しなかった。もちろん、展開上の都合が前提されるわけだが、ミルトンと異なり、最終的には彼女は難を逃れている。

ノーマン宅の二階への階段

ノーマン宅のエントランスを開けると右手にある。二階には、主にノーマンの母の自室があると思われる。この階段は作中では、私立探偵ミルトンが昇り降りした 1 回、あとはノーマンが母を地下に匿う際に 1 回、それぞれ登場する。

この階段は、もはや死そのものだ。

本作でもっとも気になったカメラワークは、ミルトンの悲劇のシーンで、これは作品の根幹をカモフラージュする意図が先行したのだろうけれど、真上からの俯瞰に移行していくカメラ、追い詰められて階段から後退りするミルトンを正面から映すカメラなどなど、大変見ごたえがあった。

ノーマンが母を抱えて階段を下りていくシーンのカメラの視点はちょっとうろ覚えだが、オチを知ってしまったあとで思い返すと、やっぱり気持ちのいいものではないね。

ノーマン宅の地下への階段

ライラがノーマンから隠れるために身を隠したのが地下への階段で、この階段は扉を挟んで続き、地下室へと繋がっている。クライマックスもクライマックス、とうとうすべてが終わるシーンに至る。

特別に述べることもないのだが、身を隠さねばならないライラ、そこに地下への階段がちゃんとあるんですよね。作品のご都合ではあるが、ここまで見たような階段の布石、演出があるからこそ、この階段が最後の糸口だとなる。そういう丁寧さがある。

扉を挟んで階段が続いているのも巧くて、要するにノーマンは必ず、階段を降りていくことで姿を変えるということが端的に表されている。この家において、まともなノーマンの姿は 1 階のダイニングらしき部屋での姿のみだ。このような点も、考えてみれば非常に収まりがよく、気持ちがいい。

その他のことなど

ひとつめ。冒頭のマリオンとサムの逢瀬のシーンだが、アリゾナ州フェニックスのホテルだっけ。高層階の一室であることがカットから分かるはずだが、これもこれで割と珍しい。もちろん他の作品にも高層階というロケーションを使ったシーンはあるが、あまりその高さを意識させない。『私は告白する』『泥棒成金』などは別かな。

このシーン自体が、マリオンの不安か、あるいは作品全体の不安感を、ホテルの高さそのものより想起させようとした、とするのは考えすぎだろうけど、ね。

ふたつめ。別の感想では不評だったのを目にしたけれど、最後に精神科医フレッドが種明かしをするシーンがある。私はこのシーンが好きだね、役者は相当に気合を入れていてひょっとしたら浮きかねないのだけれど、いい演技をしている。本来はテレビ俳優だったのかな。英語版 Wikipedia の記載をざっと目にした限りだと。

みっつめ。ノーマン役のアンソニー・パーキンスの演技、すごくよかった。波乱万丈ながら佳作、名作とされる作品にも多く出演しているようだし、なにより本作から地味にシリーズ化されたらしい(よくわかっていない)「サイコ」シリーズにほとんど出演しているっぽいのが最高にクールだね。

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ヒッチコックマラソンです。『北北西に進路を取れ』《North by Northwest》を観た。1959 年の作品だ。『三十九夜』をハリウッドでやろうとしたという情報を Wikipedia で目にしたが、『サボタージュ』などを挟んでいるので真意がイマイチわからない。

本作は特に評価が高いらしいが、これはヒッチコック流のアクション、サスペンスの集大成としてが 1 点、そしてタイミング的には今後量産されるようになるアクション作品群のフォーマットとなった点が大きく評価されているのではないか。

作品の全体感としてはなかなか難しい。なにせ内容が無い。

例によって巻き込まれ型の物語したはいいが、最後まで主人公:ソーンヒルが奮闘する理由がレディを救うためだけという-真っ当ではあるけれど、過去作と比較してもかなりパーソナルな理由に絞られている。

悪いというわけではない。この点は『三十九夜』や『サボタージュ』とは異なると思われる。これらの物語は、同様に巻き込まれ型のストーリー、かつ主人公とヒロインが道中で危機に陥るという点こそ同じだが、枠組みとしては社会的に大きな陰謀に直面して主人公らは動いていた。

上記の作品に比して、本作の敵役のバンダムは闇商人ということだったが、作中では具体的な犯罪的なマターは発生しておらず、明示されない。逆に、ヒロインらの組織は骨董品に秘蔵されたフィルムを回収しようとするが、それがどのようなものであるかもどうでもいい。

また、バンダムのグループだが、序盤からして杜撰なのもよくない。どうして主人公をターゲットの諜報員:カプランと同定したのか根拠がない。ヒッチコック作品では、このパターンが珍しくないのだが、つまりはミスまたは偶然による事故が発端となるのだが、肩透かし感は否めない。結局、バンダムらはソーンヒルが彼らの利害にまつわる係争には本来まったくの無関係の存在であったことには最後まで気づいていない。どれだけマヌケなのさ。

まぁ、ただ、敵がどうこうってのは本作ではどうでもいい。結末の放りっぱなしさ加減をみても明らかでしょう。

ヒロインを救うことにのみ注力する

この観点から見ると過去作としては『汚名』が近い。『汚名』ではクライマックスで主人公は、スパイとして敵地に潜り込んでいたヒロインを職務を捨てて救いに行く。

だが、こちらの彼にも大義名分があった。しかし、繰り返しになるが『北北西に進路を取れ』では、そんなことはない。単純に、レディを救うために命を懸けるのである。

中身がない物語におけるソーンヒルという主人公はどういう人間なのか。

どれだけスケコマシなのか

ひとつに、ソーンヒルはマザコンなのだろう。主人公の母親がガッツリ登場する過去作はあまり例が思いつかないが、どうだろうね。このあとに続く作品だと、実はこのテーマが採用され続ける。また、ヒッチコック本人と母親の関係も、よくクローズアップされるようだが、それはここでは置いておく。作中でのソーンヒルと母親との関係は良好そうだった。

しかし、ソーンヒルが結婚と離婚を 2 回も経験していることを考えると、この母親は少なくともあまり良い義母とも言えなかったのではないか、とも疑いやすい。そうでなければ、ソーンヒルが相当に夫としてはダメ男か。あるいは、双方にとって馬の合わないパートナー選びをしてしまうケースが連続したのだろうか。

彼のスケコマシ感は、オープニングの秘書に対する態度でも察せられるが、クライマックスで治療室から抜け出した際にも差し込まれていた。笑わせたかったシーンなんだろうか。よく分からない。

イヴは彼のどこに惹かれたのか

自分のために命を張ってくれたんだから、それは惚れるでしょう。というのは結果論で、ニューヨークからシカゴへ向かう列車のなかでソーンヒルと初対面したイヴは、流れで男女の関係になる。この時点で惹かれていたとは断言できよう。

だがその後に彼女は、組織と調整をした結果としてソーンヒルをハメ殺す手続きを取った。その後、ホテルで再開した時点でもボロは出していない。この時点ではソーンヒルに惹かれていたとはいえ、後戻りできないところにはいなかったのではないか。

転機はどう見てもオークション会場で、ソーンヒルはイヴを罵ってみせ、彼女はそっと涙を溜めた。どういうことやねん。そこで惚れるのか? いやー、わからないな。もう 2 人の心情は当人同士にしかわからないんだろう。想像を働かせるのもバカらしい気分になる。

台詞のやりとりを解読するしかない。たとえば、ソーンヒルがバツ2男だと自嘲したときに、「逆にそんな男しか結婚なんてできない」みたいなニュアンスの返答をイヴはした。これも深読みする意味があるのか定かではないが、まぁやっぱり、それだけ作中ではソーンヒルがどうしようもなく魅力的であるという解釈には繋がるのかな、しっくりはこないけれど。

コーン畑での交流がおもしろかった

騙されたソーンヒルが田舎のコーン畑でカプランを待つシーンが印象的なカットだった。道路の対面に立って地元のオジサンと向かい合うシーンは、とってもキマってて、かつすごく笑えた。マジメだけど、その分だけシュールだよね。

ちなみに、この向き合う構図はクライマックス付近でのソーンヒルとイヴの面会でも再現されていた。こちらは荒野ではなくて、生い茂る林中である。意図的なんだろうけど、それは明確ではないだろうね。好きだけど。

謎の飛行機に追っかけ回されるシーンも、なんやかんやで謎の緊迫感がちゃんとあるよね。流石なんだよなぁ。

という感じで、ヒッチコックマラソンも終盤戦に入ってきた。

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ひさびさにヒッチコックマラソンの続きです。『めまい』《Vertigo》を鑑賞しました。”Vertigo” はラテン語を語源として「グルグル回るようになる」みたいなニュアンスからできた単語らしい。

1958 年の作品で原作小説があり、こちらはフランスの小説『死者の中から』だそう。脚本には 2 名入ってますね。映画の舞台はサンフランシスコということで、起伏に富んだ街の地形を十分に生かされた撮影となっており、ホテルや美術館、公園、教会などの美しい建築物の使い方、映し方も的確で、やっぱりヒッチコックの作品だなと身に沁みる。

冒頭、主人公のジャックは犯人追跡の途中で高層建築物から落ちそうになり、また同僚は彼を救おうとして落下死した。結果としてジャックは高所恐怖症となった。「めまい」というタイトルは高所恐怖症の彼が作中で引き起こす、その症状を指すということでよいだろうか。また、高所恐怖症の症状として階段で引き起こされる当該シーンの撮影技法は、大変有名であるらしい。どうでもいいけど、ヒッチコックって階段を使うのが好きだよな。

しかし、およそ前半の追跡シーンなどは特に、台詞も少なくて何をやっているのかも分かりづらい一見して退屈な箇所も多く、過去のいくつかのヒッチコック作品に見られるような冗長さを感じなくもない。とにかく話の展開と落とし所がわからないまま-これもいつものことだが、逆に言えばその謎に牽引されて、あるいはただ画面に惹きつけられて展開を眺めることになる。

奇妙な現実に囚われていく

話がおかしな方向に転げ始めるのは、ジャックの追跡がホテルに及んだ時点であって、私は単純に展開の成り行きに期待してしまった。進行している事態は現実のうちの出来事、マデリンの病質的な妄想に過ぎないのか、あるいは本当にマデリンの曾祖母の残したなんらかの力が彼女に作用しているのか。それらが曖昧になっていく。

敢えて言うと「ヒッチコック=サスペンス」の構図が揺るがない前提で見てしまうと退屈な作品だろう。何かしら現実的な理由づけがなされることは分かりきってしまう状態での鑑賞となるので、すべてが白々しくなるのではないか。本作はそういう意味では、類型の『レベッカ』などよりは楽しみづらい作品かもしれない。

とはいえ、ジャックが彼女に誘われて、かつその魅力にまんまと嵌り、自我を失いかねないところまで到達してしまうという過程の描写は、いつものヒッチコック流の謎のロマンス成分を絡めたギリギリ絶妙な話運びであった。

ついては、私自身のアホさのおかげか、サスペンスという枠組みのジャンル作品として本作を鑑賞することは、およそせずに済んだ。幻想的なホラー作品に、なんとなく現実的な理由が付与された体の作品だったなという印象だ。

本当にただの狂言で終わったことなのか

というのも、ジャックは最終的に彼を騙した側のジュディを受け入れた。それが仮初で始まった関係であり、構図としてはジャックは犯罪に利用されただけだったにも関わらずである。

ところが、その直後にジュディはあっけない最期を迎える。教会の鐘楼で最後に登場した修道尼の影姿は、明らかに恐怖の対象のイメージだった。これはジュディに対してのみでなく、鑑賞者の私にもそう見えた。そういうふうに撮られている。

この事態の意味付けは、いわゆる天罰の形なのか、あるいは彼女が悪魔にでも魅入られたのか定かではないが、物語の経過、結末としてはただの偶然とは処理し難く、奇しくも彼女が演じたに過ぎなかったはずの超常的な作用のしっぺ返しと見える。

とにかくジャックには救いがない

旧友の奥さんに懸想するし、いい関係だったと思われるミッジをも便利扱いしてほっぽってるし、思い人に似た女性に仮装を強いるし、長身イケメン元刑事であること以外にろくすっぽ魅力も見いだせない、ダメダメな主人公ではあるけれど、一番かわいそうなのもジャックだったね。

クライマックスに至っては、彼は錯乱しているよね。ホテルでのキスでの描写がそれを強調しているけれど、ここをピークにしてオチへと展開していく。ラストでは、ジャックはジュディがマデリンの偽物だったと気がついてはいるが、わざわざ現場検証させようとする。

この目的が、高所恐怖症の克服なのか、ジュディへの罰なのか、あるいは愛ゆえなのか、もはや判断できない。皮肉にも彼は最後の場面では、不安定な足場で、眼下の光景を凝視している、できてしまっている。これは彼にとっての小さな救いなのか。皮肉なのか。笑えるといえば、笑える。

CGとアニメーションの共演があった

オープニングクレジットでは、女性の瞳に幾何学模様の光彩のグラフィックが幾重にも回転する。これはどう見ても CG だなぁと思ったが、やはり初期のコンピューターグラフィックの一種と言ってよいらしく、『2001年宇宙の旅』でも活躍したらしい、ジョン・ホイットニー・シニアが手がけた映像とのことだ。

この回転する模様は、実は作中でも提示される。美術館に展示された絵画中のカルロッタ、彼女の髪型、そこに添えられた花束。一方で、カルロッタと似たような装いで絵画を鑑賞するマデリン、そして手元の花束。絵画中の花束が図案化され、アニメーションとなって模様が展開される。

こういう手法は当時にしても奇抜だろうて、なかなか使いづらいと思うが、類例はどれくらいあるのかね。ヒッチコックでいえば、『白い恐怖』でも似たような手法はあったけれど。

逆に、アニメーションが実写を援用することなどは、現代の日本の作品では割と効果的に使われるよね。この辺もていねいに歴史を調べるとおもしろそうではある。

余談だけれど、カルロッタの生前の苦しみや異常性がマデリンを通して再現されるという構図は、なんだか日本のホラー映画を見ている気分になった。というか、私の本作への印象がこのイメージに引っ張られたことは否めない。

印象的なカットとして、マデリンの死後に執行された裁判の終わりにて、ジャックと付添人を映したシーンを挙げておく。天井近いところにカメラがあって、実際に画面の半分近いかそれ以上を天井が占めていた。こういうカットをサラッと入れてくるのが、本当に巧みだよね。

なお、ロケーションなどについては以下のブログの記事がめちゃくちゃ詳細に扱ってますね。いままで知らなかったブログだけど、丁寧な記事だ。

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『BLUE/ブルー』を観た。松山ケンイチ、東出昌大、柄本時生などが出演している。松山ケンイチは『ユリゴコロ』以来、東出昌大は『寝ても覚めても』以来、柄本時生は初めて目にした。作中での柄本時生は、あのフニャフニャ感が凄い上手いなぁ。

吉田監督の作品は『犬猿』(2017)は見たことがあって、あまり記憶になかったので粗筋を追ってみたが、オチの部分で違和感を感じて終わったことの印象を、なんとなく思い出した。けど、この作品も印象的なシーンや配役はめっちゃキマッてたね。なお、監督の「よし(吉)」の字は「土」のように下の方が長いほうが正式っぽい。

監督自身のボクシング歴が 30 年以上とのことで、主要登場人物の三者三様なブルーなボクシング人生を、実にうまいこと描写し切っている。終劇に至っての小川の状況は悲惨と言えるが、謎の清涼感で誤魔化されてしまう。こんな感じでボクサー自身もボクシングの魅力に取り込まれているのだろうか、などと思ってしまう。

ヒロインといっていいのか、木村文乃も出演している。彼女はとても好きな俳優なのだが、印象が定まらない。今回も終わってからキャストを確認して本人だと認識できた。言うてみれば作中の中心人物でまともな大人って、彼女くらいしかいない。どのシーンも好いけど、後楽園ホール(だよね?)のカウンターで前の 2 人のイヤな話を耳にしながらも佇んでいる姿が良かったです。

天野は小川と付き合っているが、瓜田とは同窓の間柄であり、という三角関係的な要素も、映画全体のよいスパイスになっていた。なにかと後腐れのような雰囲気とはかけ離れた出来になっているのは、本当に好い。楢崎の失恋にしてもそうだった。

ふらふらと揺れるカメラが心地よかった

いわゆる手ブレ演出っていうのかね。カメラがふらふらと揺れる画面ってあるけれど、この手法って使いどころが難しいように常々感じていて、見せる側の意図以上にノイズとなってしまっているケースもあるように思う。

本作、このふらふら画面が割と多発したと覚えているが、これが妙に味を出していて好きだ。揺れる速度や幅などが内容と調和してるのかな、なんか無駄に揺れてイヤだなぁと感じさせられるシーンがまったくなかった。

言うまでもなく、これは試合のシーンではなくて日常シーンでのことだ。単純に不安、不安定さを意図しただけとも取れ切れず、さりとて単に視聴者の視線を揺さぶってやろうという印象でもなかった。

この感覚はまた体験したいな。なお、撮影は志田貴之ということで、志田さんは吉田監督の作品には多く携わっているようだ。ついでに、監督自身が殺陣の指導をしたという試合シーンのカメラワークももちろん好かったよ。

カラッとした人間関係が気持ちいい

私は個人競技にあまり馴染みがないのだが、ボクシングをはじめとした格闘技というのは、趣味で続けるにしても伴う真剣さの水準というのは、ちょっと高めになりそうだ。

瓜田と小川はかなり長い付き合いのようだが、それを加味してももちろん、お互いを認め合っており、ステキな人間関係だ。あるいは、怪我をさせてしまった楢崎と被害者の洞口との関係も、必要以上に深刻にはならずに解消される。

本作においては人間関係のネガティブな面は最小限にオミットされたと考えればいいのだが、それ以上に、同じ競技の魅力に取りつかれたバカたちの緩い連帯みたいなのが気持ちいい。

楢崎と小川なんていうのは、ほとんど接点が描かれないが、デビューで緊張する楢崎にさらっと声掛けしてやる小川は単純に清々しいし、計量後の蕎麦屋でちょいちょい駄話に花を咲かせている(大したこたぁないが)シーンは本作で 1 番好きでしたね。

本当の強さとはなにかね。その思いは最後のシーンに籠められているのではないかな。「ブルー」というタイトルが染みてきた。

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『ザ・スイッチ』《Freaky》を観た。本国では 2020 年に公開された映画のようだが、日本ではこのシーズンでの公開となった。予告は何度か目にした気はする。特に興味もなかったのだが、知り合いが興味があると言うので、なんとなく見てきた。一緒に行ったわけではない。感想だが、少し悩ましい。

「13日の金曜日」シリーズ? 「ジェイソン」シリーズ? をオマージュしてる部分が多かれ少なかれあることは分かるが、あんまり知らないのであった。

監督:クリストファー・ランドンの『ハッピー・デス・デイ』(2017)を評価するファンは日本でも多いようだが、目にした範囲の感想としては今回はこの作品ほどは面白くはなかった、というような感想がいくつか目に入った。どうなんだろうね。私は未見なので何とも言えないけれど。

冒頭、「伝説のシリアルマーダーが都市伝説として持て囃されたのは 20 年も前の 90 年代の話だよ」という旨の前振りがオープニングの登場人物によって語られるが、その存在が本作で登場したブッチャーと同一人物だったのかがイマイチ分からない。関係あるのかね、ないのかね。

本作に登場するブッチャーと身体が入れ替わるのが、ヒロインのミリーだが、彼女側は家庭環境からハイスクール内でのヒエラルキーまで、大方が滅入ったステータスであることが描かれる。この 2 人の身体の入れ替わりで起こる素っ頓狂な事件が、スプラッターで快楽的な表現を添えて、楽しめるという構図だったはずだ。いや、まぁ狙い通りの楽しさはあったことはあった。

周辺のことで、いくつか気になったことを書いておく。

古代アステカの呪術具:ラ・ドーラ

この道具立ての設定が粗くないかね。生贄を捧げるときに利用された短剣ということでよさそうだが、それがなんでシリアルマーダーを作出する機能をもったのか明確な説明はない。短剣自体が本来の目的を見失ったということだろうが、生贄を捧げるために適当に人を屠っていくというのは、どうにも違和感が残った。

この短剣にはスペイン語で(!)その秘密が記述されているとのことだが、それもどういうことなのか。悪いのはスペイン人の侵略者たちなのか? とこうやって振り返りながら妄想していくと多少は背後関係を辿れるが、どうにも鑑賞中には、つまり、作品内ではよう分からん。

B 級ホラー並のファジーさということで片付けられればいいんだけど、そこまでホラーなりスプラッターなりの娯楽感覚に振り切った作品とも受容できなかったので、私の抱いてしまった違和感がなかなか破壊されなかった。

結局、ブッチャーはどういう人間だったのか

つまるところ、ブッチャーの人物の肉付け、背景をもう少しだけ明かしてほしかった。これがあれば入れ替わり時の彼の行動なりにも心が通じたような気がする。ブッチャーは、ラ・ドーラがなくてもシリアルマーダーだったようではあるが、呪術具に魅了された存在であるようにも見えた。

廃工場なりに居を構えているらしいが、浮浪者仲間のようなおじさんが薬を恵んでもらいに来たりするあたりからして、ブッチャーは単なるバカなアレではない。ミリーと同化したときに、彼女の社会的な立場や心理をそこそこ的確に洞察してみせたりもした。身体能力も異常に高い。

これがまた、仕掛けが別にあるホラーだったら、驚異的な頭脳と身体能力を持った謎に包まれた異常者、でいけるのかもしれないが、いかんせん、ブッチャー側の存在も、ミリーの憑依によってキュートあるいはコミカルな人間性が-中身はミリーなので理屈でいえば別物として考えるべきだが-ビジュアルで表現されている。

この辺の違和感との調和が難しいね。おもしろいんだけどね。

ふたつのキスに奇妙な真実味があった

やりたかったことの根幹は実はここだったんじゃないのかなぁ。本作には冒頭を除いて、ふたつの重要なキスシーンがあるんだけど、ふと考えると前者のキスシーンを撮影するために本作全体があったような気がしてならない。

違和感との調和、あるいは不調和のピークというかクライマックスがどう考えてもここなんだよね。これについて考えると、本作はホラーでもコメディでもなくて、広く愛を扱った作品な気がしてくる。

そう捉えると、ミリーについては家族愛、友情、他者への憧憬と調和、といったようなさまざまな愛のカタチについては、それぞれ全体のボリュームとしてはやや寂しいが、しかしバランスをとっては描かれていたね。

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