無学と不幸、あるいはささやかな幸せ|《ウンベルト・D/Umberto D.》

《ウンベルト・D/Umberto D.》を観た。1951 年の作品だ。ひさびさのスコセッシおすすめ古典外国映画マラソンの続きだ。前回の《自転車泥棒》(1948)と同じく、ヴィットリオ・デ・シーカ監督による作品で、戦後から数年ぼっちとはいえ流石に戦後の影響を直接映した雰囲気はないが、貧乏苦労譚には変わりない。

というか、年金生活の老人と愛犬というテーマを知った時点、既にツラい。ネオリアリズモ、ツラい。同カテゴリーのほか作品と同じようにして、俳優陣は専門ではないらしい。老人の借りているアパートの小間使いの女の子なんかは、登場した当初はガッツリとカメラ目線なのでちょっと笑ってしまった。

20 年生活した部屋を追い出されることになった。犬を飼っている孤独な老人-犬がいるので1人暮らしではない-が主役だ。年金は家賃の半分以下、どうしてそこの部屋にこだわるのかというか、ほかに部屋を借りるアテもないことの裏返しなのだろうが、見ている方としては破綻が約束されていて居心地が悪い。

時計や蔵書を売るが、半分も足しにならない。救護院に逃げ込んで時間稼ぎをもくろむも、これも上手く行かない。大家には無視されて追い出されるための準備だけが着々と進むだけであった。

最終的には部屋を諦めるという段で、愛犬:フライクの処遇をどうするかとういう最大の悩みに向き合うことになる。ツラいテーマに解決を見い出せないエンディングではあったが、最後の場面だけを切り出せば、案外は暗くないのかもしれない。それが束の間の安らぎであってもだ。

心に残った要素など

なんというか。まぁ、書いておく。

路面電車

改装されつつある襤褸となった部屋から窓下を見下ろすと路面電車が道を往く。カーブに差し掛かった電車は轟音を立てて曲がっていく。すると擦れるパンタグラフからは、軽く火花が散っていった。いうまでもなく、ウンベルトは死を意識している。

しかしだ、部屋のベッドには気持ちよさそうに眠るフライクがいる。彼を残しては安易には死ねない。これはクライマックスの伏線でもあった。フライクを携えて踏切に迫るウンベルトのどうしようもなさは、同時に、フライクによってある種の救われが待っていることもわかる。苦さと甘さが同居する。これが現実。

小間使いの少女

学がないものの、なんとか女将に雇われているらしい。兵士らしき彼氏の子供を身籠っているらしい。ウンベルトとは割と仲が良く、なにかと世話を焼いてくれるが、無垢なだけの善良さという感じがある。彼女もまた不幸なままだ。

すごくどうでもいいが、新聞に火をつけて壁を這う蟻を払うシーンがある。めちゃくちゃ新聞が燃えて、ほとんど手元あたりまで火が伸びているのに平然としていた。凄いなと思った。

フライク

雑種ということだが、ジャック・ラッセル・テリアのように見えた。こいつがよく手懐けられているというか、芸がちゃんと仕込まれているというか、かなりしっかりと演技する。ういやつだ。

どのシーンでの彼も好きだが、預けられそうになったときに吠えられて、ウンベルトの足元に怯えて隠れていたシーンがなんとも愛おしい。しかし、この犬も、まず時代性からして芸能用の犬ってことはなさそうだが、どうやって見つけ出したのだろうか。

バスで去る旧友

家賃を工面しようとウンベルトは、古い同僚にお金を借りようとする。相談したところで貸してくれなかった友人はバスに飛び乗り逃げようとしつつ、「○○によろしく」と別の旧友を話題にして、話を切り上げようとする。バスは走り出す。

するとウンベルトが「○○は死んだよ」みたいに叫んで返す。この返答を聞いた友人は、悲喜に満ちたようなおどけた表情となった。もちろん喜んでいるわけではないが、話題を転換しようとして、完全に墓穴を掘ってしまって、どうしようもない。そのままバスは加速して、旧友は去っていく。

このやるせなが本作でもっとも心に残ったかもしれない。

さて、ヴィットリオ・デ・シーカ監督作品は、このマラソンではもう終わりだが、いわゆる晩年時代の《悲しみの青春》(1971)なんかも面白そうだし、機会をみて追ってみたい。