《自転車泥棒/Ladri di Biciclette》を観た。スコセッシおすすめ外国映画マラソンです。90 分程度と比較的短めの本作は、そういう意味では鑑賞しやすいが、ネオ・レアリズモの後味の凄まじさは、これまたイヤなものだ。
ド直球のタイトル通りの内容で、自転車泥棒の被害者の父と息子がおよそまる 1 日ローマを彷徨って徒労に明け暮れる、そして……。
冒頭のシーンにおける市街の様子、自転車泥棒を追い詰めようと迫ったエリアの様子、サッカーが賑わっていたクライマックスの街の様子、という感じでそれぞれを見ていくとき、戦後のイタリア、ローマといえども、賑わっている地域はそうなっているし、治安が悪かろうと一見する限りは整然とした街並みを保っているエリアもある。
そしてアントニオの生活圏と思われるエリアといえば、新興地なのか戦争で蹂躙されたエリアなのか、ほぼほぼ殺風景だ。少なくとも中心から外れた周縁地域なのだろう。戦後とはいえ、あきらかに格差がある。苦い。
ここまで、本マラソンにて時系列にいくつかのクラシック映画をみてきたが、本作における父と子の描写ほど、身近なテーマを終始して扱った作品もなかったかもしれない。たしかにこれを「新しい現実主義」といわれれば、そうなのかと感じる。もちろん、自転車泥棒というテーマも然りだが。
父親のプライドと大人の男としての矜持-下らないものであろうとも、メンツのようなところがあり、そしてそれは言うまでもなく家族を養うという目的と手段に直結する部分にもかかわっており、その極限状態に息子を連れまわす。なぜか?
なんでなんだろう。単純に人手がもう息子しかいなかったということだろう。
実際、役に立っているし。そうしたなかで、息子は当然、父親を観察することになる。クライマックスにおけるアレは、あまりにも自然で、そこはかとなく哀しいが、そこにどういった感情として言語化していいのか、難しいな。
ロケーションを生かした奥行のあるカットが多かった。自転車が盗難されるシーン、いずれも街中を遠くまで映すが、これって現代でいうところのほとんどゲリラ撮影的な面もあったんだろうけれど、景色としてキレイだね。
サッカーが盛り上がって、大量に駐輪されていた自転車たちが無慈悲にも彼らの前を横切っていくシーンの無常感もよい。よくない。
教会でも無碍にされ-闖入者だから仕方ない面もあるが、占い婆にも雑な対応をされ-これも仕方ない、誰も頼れない。もちろん警察も頼れない。街を巡回しているお巡りさんは一応ていねいに対応してくれていたのが唯一の救いだったかもしれない。
疲れ果てた 2 人がちょっとしたレストランに入り、「お母さんには内緒だぞ」とランチに洒落こむシーン、1 番好きだねぇ。さすがに本作の影響だけとは思えないけど、こういうシチュエーションって、必ずあるよね。
いはやは。
濱口竜介監督の商業2作目長編だ。《ドライブ・マイ・カー》を観た。個人的には《寝ても覚めても》ほどの衝撃はなかったかな。
岡田将生は『リーガルハイ』(シーズン2)でくらいしかまともに見たことがない気がするけれど、こういう役がハマる。美味しいなぁ。西島秀俊もよかったが、どういうわけか、彼の鼻の高さが 1 番気になってしまった。カッコいいな。
監督はロードムービーというか高速道路が好きなのかなと、もちろん普通の道路での走行も含むが、今回も広島のハイウェイはもちろん、日本海東北道だろうか、その他にも首都高など、さまざまな道路が出てくる。
作品で演じられる舞台『ワーニャ叔父さん』の台詞読みと、作中での話の展開が重なり合って意味を齎すのは、これは本当に見事としかいいようがない。何がどうなって作用しているかは、ぶっちゃけ、よくわからんくらいだった。それほどの綿密さを感じた。
ただまぁ、悲劇を共有し、奇妙な関係を維持していた妻を失った家福の、自身で自覚していなかった重荷、そして同時にドライバーの渡利の抱えていた後悔のような念、これらが 2 人のよくわからん感情の交感を経て、なんやかんやと昇華されていくという話自体は、個人的にはピンと来なかった、というほどでもないが、まぁそうだね、くらいの展開ではあった。
これはいいなと思ったシーンなど
ごみ処理施設で廃棄物をクレーンが巻き上げる。渡利が「まるで雪のようだ」と言う。彼女は北海道出身らしいが、この発言はとっても詩的だなと思った。舞い散るゴミってのはそりゃ汚い。その汚さを地元の苦い記憶に重ねているのか、それともそこに何らかの美しさを見ているのか。どっちもと言えばそうなんだろうけど。
この施設はロケーションを広島にする決定打になったそうだ(Wikipedia拠)。私も機会があれば行きたいと思っているところなので、いいですね。
家福が滞在先となる部屋に訪れて、海に面した窓を開ける。そこに手前の小道に、同行した韓国人の助手さんの車を回してきた渡利が現れて、運転に満足したかと問う。のような展開になって、そこで渡利は喫煙をはじめて事態は収束してく雰囲気になるが、そこ窓の目の前に車を回す必要まったくないよね、細かな間取りは分からないけどさ。てか通行の邪魔だし。
自分はこのシーンに「こういった画にしたい」という力強さをもっとも感じた。
北海道への愛の逃避行。これもよかった。道中の看板に「新潟」などが目に入ったと記憶しているので、日本海側から日本海東北自動車道を経由したようだ。コメリに寄っちゃったりするのも、小ワザながら味がある。寝落ちしてしまう家福というのは、本作中では彼にとって、もっとも安心できる幸福な時間だったろう。
舞台稽古を公園で行うシーンがある。耳の聞こえない韓国人イ・ユナと台湾人のジャニス・チャンが劇のあるシーンを演じる。公園の樹木をうまく使ったりして、2 人の演技は本番さながらの雰囲気を醸す。なんか、この映画を見てよかったと思えるシーンだった。本作の本題とどれだけ親和してるかは、よくわかってないけど。
音が残した謎っぽいナニカ
これら問い自体が意味を持つともあまり思わないが、一定の謎として残っていることは事実なので、適当に書いておきたい。私がパッと思いついたのは以下など。
- 音は家福に何を伝えようとしたか
- 大槻は物語の展開を音に伝えていたか
上から触れる。抽象的にいえば、現状になにかしら変化を求める一手を放つつもりだったという点については異論あるまい。それが「離婚」のひと言で片付けやすい内容とは思いたくないが、では何なのかというと言葉にもしづらい。
彼女はイタコ的に物語を紡いでいたわけだが、それ自体が苦しみになっていたとも思える。彼女は物語を語ることを止めようとしていたのではないだろうか。それはあらためて、家福と向き合うことであるだろうし、悲しみの共有のやり直しだったのではないか。
下に触れる。これ、音は家福以外からも自分の物語の展開を確認できる機会を設けていたということに他ならないが、誰もがそうしていたとは限らないし、音がそれをどれくらい目的としていたかも定かではないけれど。
で、件の大槻も音と物語のやりとりをしていたことは家福に自白したが、それを音との関係においてどう処理していたかは明言していない。翻って、本編で家福が音に情報をはぐらかした瞬間、時系列も定かではないが、もしかしたら音のほうは、家福が隠した彼女の物語の顛末をすでに知っていた可能性すら考えられる。
家福のはぐらかしが、音の決断の最後のひと押しになったとみても不自然ではないだろう。結論の出ない謎が残るのは楽しいですね。
交わるシーンとか、喫煙シーンとか、出し惜しみがないのもよかったですね。
《揺れる大地/La terra trema: episodio del mare》を観た。ひさびさに、スコッセシおすすめ外国映画マラソンを走る。 160 分の映画で、ヴィスコンティ監督の初期作品にしてネオ・リアリズモとやらの代表作とされる。
シシリアの現地の漁村の人たちを役者として採用し、撮影している。
日々の生活の糧を稼ぐので精一杯の漁村の漁師たちと彼らの生活、そのなかで戦争帰りの長男が稼ぎ頭となっている一家の抵抗を描く。一応、三幕構成ととらえていいのかな。現状と問題提起、つかの間の成功、失敗と顛末、となっている。抵抗はあえなく失敗に終わり、ツラく、どうしようもない日々が延々と描かれる。
門あるいは窓越しの奥行
室内にせよ屋外にせよ、一家の暮らす部屋と部屋をつなぐ出入口、あるいは一家の家屋へ入るための門、あるいは周囲の窓との関係をうまく捉えた構図が多発する。それぞれをフレームと見立てて、奥行きを出しつつ、画面をキメる手段なのだろう。
序盤、漁から戻った兄弟が部屋で着替えをすますシーン、成功して調子に乗っている長男が庭に横たわったときに奥にある家屋の二階の窓がグッと中央に配置されたシーンなどが印象的だった。
ラッキーストライクのこと
すぐ下の弟が職を失ったのち、外からやってきた人間に連れられて家出同然に出稼ぎに向かう。これ、どういうニュアンスなのだろうか。どうにも真っ当な仕事ではないのではないか、という気がしてしまう。
とにかくツラい
《無防備都市》、《戦火の彼方》と比べても生々しい。直接に命を奪うような明確な敵がいるわけではなくて、彼らを悩ませるのは日常であり、なんなら仲間であり、身近な関係そのものだ。貧乏から抜け出すために頭を使おうと、リスクを背負おうと、失敗した途端にゼロ以下からのスタートに陥ってしまう。
これは明らかに、彼らを取り巻くシステムに問題がある、と考えるのが現代的にも真っ当だろうが、現実はそうではない。
特に同じ漁師仲間が構成するであろう組合の態度は、悪意の塊そのものでー卸業者よりも悪質に見えた、これが本当に素人の演技だろうかというえげつなさもさることながら、あまりの毒々しさに思わず目を背けたくなった。
あまりクローズアップされないが、下の妹が、おそらくではあるが警察署長だかに手籠にされたような展開になり、ブチ切れてから家を飛び出たのちにまったく姿を現さなくなったのもえげつない。ナレーションでは表現が柔らかくなっていたが、その後に登場しないということは彼女の結末も明るいものではない。そういうことだろう。
祖父の入院という状況のナレーションもよくわからなかった。入院したという表現で説明はされていたが、どう見ても亡くなったような描写であった。病院といったってまともな治療を受ける余裕などあるわけがないのだから、教会に付属する看取り所みたいなところでしょう。勝手な想像だけど。
とにかく救いがない。面白みを見つけるのが難しい。
なんか課題が残るな、こういう作品の鑑賞については……。敢えて言うなら、現代にも通じるどこにでもある問題とはいえそうなので、そういう意味で本作のテーマは、戦争などを描かなくても常に身近であり現代的な社会問題の縮図であり続けるという視点はあるか。
《サマーフィルムにのって》を観る。知人に薦められてなかったら見ていなかったかもしれない。感謝します。情報はほぼ無しで鑑賞したけれど、SF 要素があることは知っていた。これも後述するが、一応は問題ない。公式が種明かししている。キャッチフレーズとしては「恋×友情×時代劇×SF」だそうだ。
具体的に「ここがいい!」というオススメポイントは特に見つかってないのだが、今夏の映画としては何だかんだで 1 番の体験だったような。なんというか「こういう映画を見てもいい」という鑑賞者の懐の深さを滋養すると言っていいのか、味のある作品というか、諸々含めてウェルメイドな青春映画なんじゃないか。
恋
作中では映画部の作品のテーマでもあり、あらためて本作品の根幹でもあるが、あんまり前衛化しないというかクドイ描かれ方はしていない。青春にとって「恋」は前提という共通認識のうえでのこの扱いなのか、逆説的にはアンチテーゼめいているのか、その両方かもしれない。
とはいえ、主人公のハダシ、親友らしきビート板、ブルーハワイの女子 3 人がそれぞれの恋(のようなものを含めて)を経過していく過程は見事だった。特にブルーハワイのギャップがいい。
友情
仲良し女子 3 人組と急造のスタッフたち、あるいはライバルの映画部、それぞれの関係性もエンタメとしての描写としての心地よさ、なにより気楽さが際立っている。後腐れを予感させる部分すらないし、それぞれが必要十分な役割をこなしている。
やはりテーマの配合が本当に上手い。
あえて不満というか、結末がああいう風だったので、いわゆる開かれたエンディングという類だと言えそうだが、スパっとしていて、想像の余韻を残さない。まさしくひと夏の青春だということか。後味があるような、無いような、絶妙な味わい。
時代劇
この映画としては最大の工夫点だろうか。ハダシが好きなのは初期の時代劇で、それは勝新太郎やら三船敏郎やらなので、もっとも古くて渋い類だろう。眠狂四郎がちょろっと出てきたけど-これは少し時代が下るような?
凛太郎の時代における映画のありように対して、現代における時代劇のありようが似た状況だと捉えるのであれば、監督のテーマとしては時代劇の危機というか、そういった意気込みもあったのだろうか。
『るろうに剣心』の劇場版シリーズを時代劇と見做していいのかは知らぬが、私が最後に見たのは《居眠り磐音》だったかな。これが 2019 年だと思うが、それ以降でめぼしい時代劇って何かあったかな。
これぞ時代劇といった大立ち回りが、ハダシの映画への愛、時代劇への愛、あるいは恋への決着をつけるために活用される。まぁ、そうなるよね。見たときはビックリしたけど。今になって思えば、予定調和だったろう。
SF
これも割と道具然として、役割がハッキリしている。このあっさりさは、使われ方としては《ドロステの果ての僕ら》に似ているというか、「そういえば、不思議」とでもいうか。どうしても《君の名は。》以後、気になってしまうよな。今回は出会い頭の驚きを体験できなかったが、人によっては巫山戯るなと感じても不思議はないかもな。
『時をかける少女』のオマージュということもあるらしいが、初恋らしきそれは永遠に断絶するという線と、それが作品制作に昇華されるという線と、制作した作品はホニャララという如何にも大変な状況を、この道具で実現してくる。
SF はヒドい。SF は便利だ。
あれこれ
どなたかの「時代劇じゃなくても演目はなりたったのでは」という意見を目にして、確かになとも思う。時代劇を選んだ理由は、監督の趣味を超えるものはあったのだろうね。
雑に考えるに、映画が好きな女子高校生と、あくまでも女子高校生の一般的なイメージにもっともマッチしづらそうなジャンルを想像してみると、時代劇以上に何かあるだろうか。やっぱり時代劇が収まりがよさそうだな、とは感じる。
主演の伊藤万理華は、もともと乃木坂46のメンバーだったとか。ちゃんと見たのははじめてだった。現時点で 25 歳ということだが、学生の若々しさをうまく表現していた。ブサイクな表情になるときとフワッとした表情になるときのギャップが、うまくてビックリしますね。
大人が出てこない。大人を排している。知人が《竜とそばかすの姫》について「何なら大人が出てこなければよかった」と感想を漏らしていたことが思い出された。本作のような完全娯楽でこそ、このような割り切りが利くのだなと。
殺陣の撮影に使われていたお寺だが、他の撮影箇所もの含めて足利市が使われていたようだし、エンドクレジットで目にした寺名に間違いがなければ、鑁阿寺だろうか。近年に訪れたことがあったので、見ながらなんとなくここだろうと思ったが、当たっていたようだ。そうなると作中で登場した海は茨城のほうだろうか。
最後に印象的なシーンを挙げておきたい。
なんとなく川に飛び込む箇所が印象深かった。あの川、そこまで水深なさそうだし、特別に身体を張る必要もないだろうから、トリックなのかもしれない。何かの作品のオマージュだったりするのだろうか。こういう突飛さを差し込んでくるの嫌いじゃない。
《少年の君/少年的你》を観た。2019年の作品だ。原作はオンライン小説だそうだ。
啓蒙、教育映画なのか、ラブロマンスなのか、よくわからない。ラブロマンスといっても、これも非常にプラトニックだと言っていいのか、どういう類のラブなのか、よくわからない。ちょっとノワール作品ぽい面もあるか。
学生のイジメ、もとい暴力事件が話の筋に大きく関わっており、これは現実に中国でも問題になったからして本作が製作されたひとつの要因であるようだが、これもよくわからない。調べれば関連情報は多少は浚えるだろうか。とりあえず現時点では着手していない。ところで「一人っ子政策」の路線変更の明確化、過度な学歴競争も見直しが始まった現タイミングで視聴するにはタイムリーな作品かもしれない。
主人公、もといヒロイン:陳念は、高校生のようで大学受験を控えてる。トップ層の受験戦争はえげつないほどで、精神を壊す子供たちも、たくさんいる。という状況下で、チンピラの青年と出会い、なんやかんやあって連帯が生まれる。
受験戦争のクライマックス、それを阻むように起きるエスカレートした暴力事件、その先に 2 人が見たものとは……。のような話だ。
どんな画面だったか
日本のドラマでも見ているのかというくらい俳優のアップが多く、ちょっと疲れた。これは主演 2 人の演技を最大限に引き出そうという意図でもあり-実際よかった、ファンサービスみたいな面もあるのかなとも思った。
撮影は重慶市で行われたと Wikipedia にあったが、街の様子などはほとんどわからない。異様に長そうなエスカレーターとか、ところどころ面白かったが、あまり効果的には使われていなかったかなという印象が残る。
風景としては、ハイウェイの類だろう高架の道路、それと地上を繋ぐ螺旋状の通路などは印象に残る。螺旋状の通路が効果的に使われたのはほぼ 1 箇所、バイクで抜けていく際にちょっと映ったのが 1 箇所、警察署の駐車場らしきところで映るなどしていたかな。思い返すと、警察署-実物か知らないけど-の立地がとても面白かった。
エンディング直前では、ハイウェイを走る車がそれぞれの道を行くが、これもよかった。
学校でのシーンは多くはないが、受験が終わった後にみんなが階上から中庭に向けてテキストを破り散らして捨てて喜んでいるシーンがとても中国映画らしかった。なんか中国映画というか中国ってこういうの好きだよね。ほかの映画でも見たことがある。
ていうか、あの決定的なシーンの床面も同じよな美術だよね。
その他のことなど
陳念を演じた俳優:周冬雨という方らしいが、中学生かと思うほど小さく見えたが 160 cm 以上あるらしい。メイクアップも素朴な雰囲気で本当に幼くみえたが、これまた驚く 1992 年生まれの 29 歳とのことだ。ときどき妙に色気を醸していてそれを感知した自分にビビっていたが、それは年齢相応のそれを隠せていないだけだったようで多少安心するなど。
ついで、相手:小北役の易烊千璽は 2000 年生まれらしいので、この 2 人はおよそディケイドの差がある。彼はアイドルでもあるらしいので、上述のファンサービスでは? という憶測はこれに拠る。
女性の刑事さんが妊婦さんであることをあからさまに強調するカットがあり、どういう意図があるのかなと思っていたら、陳念の強烈なシーンですごく活用されていて呆気にとられた。ここはガツンときました。
良くも悪くも、原作であるオンライン小説らしいガチャガチャさはあった作品かなと。
《竜とそばかすの姫》を観た。細田守監督の作品を鑑賞するのは前作《未来のミライ》から 2 作目となる。個人的には独特の作風-これは本質的にはアドバンテージだろう-、とりわけ作中で描かれる人間関係が苦手だという直感があり、前作まではずっと避けていた。原作のある作品として評価の定まっている《時をかける少女》すら見ていない。
ところで前作は公開当時、既存のファンから不評を買っていたようだったので、逆に興味を持って劇場に足を運んだ経緯がある。その結果としては受け入れられる範囲の作品だった。
《竜とそばかすの姫》だが、なんでこういう風に話が進むんだろうと気になった箇所こそいくつかあったが、まぁ、面白かった。
テーマは《未来のミライ》から大きくぶれていないと考える。展開の主軸は「主人公なりが遭遇するひとつのステップ」ということに異論はないだろう。少し深読みして、そこに私は「徹底して大人の大人らしさを排する」「大人は決して神でもないし、無条件の味方でもない」あたりの裏テーマを見てしまう。
なんなら今作では前作よりも、その状況は先鋭化したようにも思えた。
見守る大人か、ヤジウマしかいない
近しい大人は「いい大人たち」で、鈴の成長や行く末を見守ってくれる。アドバイスめいたコミュニケーションも取ってくれる。だが、劇中で起こる事態に対しては、それ以上の存在ではない。これをして雑とみたり、怒ってしまう人も観測したけれど、これはもうこういうスタンスだから、そのように受け取るしかない。
一方の大衆、鈴の世界の「外側の大人たち」、これは本作では<U>の世界の住人、ゲームのユーザーたちとして描かれるが、これはほとんどが野次馬だったり、有害な攻撃者だ。この奇妙でデタラメなバーチャル世界のキモのひとつには、<U>の世界とやらの住人には「大人と子供の区別がない」という点だろう。
<U>の世界について少し書く。
やり直しがきく、は本当か?
<U>の世界は、バーチャルだからこそ現実とは違い、「なんでもできる、新しい人生を」のような優しい女性の音声による甘いメッセージが何度か述べられる。
が、いうまでもなく表現されている世界は、そんなことは全然なくて、なんなら心身あるいは才能、そのポテンシャルが極端に先鋭化される滅茶苦茶なバランスの仮想世界だ。
謳い文句の割にはしょうもない雰囲気のモブが多い。彼らの何かしらの活動が描かれることはほとんどない。これも演出の要不要で省かれたと見ることも当然可能だが、結果的には、これが現実だというメッセージに見えた。<U>の世界だろうが、現実と地続きで、モブはモブだ。
新しい世界が与えられようと、本来のエネルギーとそのポテンシャルを持ち合わせていないプレイヤーは、結局のところ<U>の世界でだって大衆の一部であったり、文句や不平をまき散らす結果になる。
殊更、Belleのライブシーンに至っては、作中の観客と劇場の観客がオーバーラップすることになるので、果たして私は<U>の世界の有象無象と一体になっているのだ。こんなユニークな映像体験ってある? 私はどっち側だ?
大人を信じるなとは言わないが
やや繰り返しになる。
別に大人や大人たちが形成する社会を全面的に悪とはしないが、基本的には大人も社会も無防備に信頼を寄せる相手ではない。たしかに子供が助けを求めれば、それに応じたリアクションはあるだろうが、それこそ事態に積極的に介入してくる存在ではない。
本作において、子供にとって不可解な大人とは、鈴にとっては母親の判断であり、竜にとっては父親の存在であった。
あえて言えば、鈴や竜の子の「大人への成長」というよりは、大人に対する諦め、あるいは理解を深めた結果の適切な距離感の自覚というあたりではないか。それが大人になること、といえばそうだろうが、メッセージとしては激渋だよね。
竜の子周りについていえば、これもどこかのメディアでライターが批判していたが、社会制度が、行政が何かしてくれるというような現実的な解決法は、本作では恐ろしいくらいに無視されている。
批判が出るのも確かな面もあるが、実際にすべての被害者が救われるわけではない現実があると思うと、<U>の世界の出来事然り、自分を大人だと自覚している自分がこういった事態に対して何をできるか、というところまでついつい考え込んでしまう。
というわけで、関連しそうな NGO なりに募金をして、私は心を落ち着かせた。
余談。あまり言及しているひとも見ないが、作中の子供たちは、竜が現実でどういう人物なのかは何となく気づいているような演出もあって、なんだか複雑だね。
変なおばさんと、正義マンあたりも深掘りしてもよさそうだが、主軸とはずれてきそうなのでここまで。
ゴールデンウィークの中日といっていいのか、2021/5/1(土)の深夜に Twitter を彷徨っていたら、ニコニコ美術館(ニコ美)で《【第二夜:江戸春画の名品たち】「春画展」》が開催されていた。特にやることもなかったので、ついつい最後まで見た。3 時間の長丁場であった。
ニコ生の仕組みあんまり把握していないけれど、有料会員ならば現時点では視聴可能なのかな。もちろん、年齢制限はある。
ニコニコ美術館では、それなりに良い企画(失礼な表現)が多いことは知っており、フォローはしていたのだが、ここまでガッツリと放送に張りついて鑑賞したのは今回が初めてだった。第二夜ということで、数日前に開催された第一夜は見逃していたが、後編だけでも十分に楽しかった。
春画展ということで、まぁ雑に言うとエッチな浮世絵だが、披露されていた。記憶にある限りだと、鈴木春信、喜多川歌麿、葛飾北斎と彼の師匠筋にあたる勝川派のいくつか、歌川豊国、国芳ほか歌川派の諸浮世絵師などの作品があったか。
いつだったかは大英美術館でも春画をテーマにした展覧会があったし、その後に永青文庫で開催された展覧会には私も足を運んだものだ。
今回、特におもしろかったのが、案内人に浦上満さんがいたことで、放送を見始めた直後はしばらく気がつかなかったが、見覚えのある名前の記憶を辿ってようやく気がついた。
言うまでもなく業界きってのひとなんだろうけど、浮世絵展でこの方の名前を見ないことはないくらいの方が、実際に動いている状況を目にして感動してしまった。なんなら、このことが最大の楽しみだったとも言える。
まぁ、というわけで、浦上さんが愛する葛飾北斎の生誕 260 年にあたっては、映画なんかもやってますが、浦上さんなども協力した展覧会《北斎ずくし》も始まりますね。代表的な作品は大体目にしたと言っても、やっぱり北斎は何となく飽きない、そんな気がするような、しないような。
まぁ、ひさびさに浮世絵を見たいなというお気持ちが強まるという話でした。
《シン・エヴァンゲリオン劇場版:||》を観た感想です。とりあえずこの文章を書き始めた時点で 2 回まで鑑賞し、さらに追加で 1 回観た。ここまでが 4 月 4 日まで。この記事は、 2 回目の鑑賞の段階で途中まで書いたものの、なかなか解きほぐせずに置いたままであった。
というか、解きほぐせないのは、いまもそうではある。
そこには非常に単純な動機があって、TV シリーズから長く続いたこのシリーズの完結を、そんな簡単に味わった気になりたくないし、そういうものではないだろうという話だ。
エヴァの魅力はさまざまだが、私としては惣流・アスカ・ラングレーの魅力に引きずられてエヴァファンの端くれになった具合だったので、初見では今回の式波の扱いがあんまりだと感じた。が、2 回目の鑑賞では「これ以上ない終わり方だったか?」と逆に納得した。しかし、3 回目で微妙に揺り戻しが起きた。なかなか笑える。
ネットに拡がったさまざまな感想も読んだが、TV シリーズおよび旧劇のアスカのファンには概ね受け入れられていない、そんな雰囲気を感じなくもない。とはいえ、本作を肯定しなくてどうするという話だので、私はひたすら好意的に考えたい。
本作、155 分ということで、身も蓋もないことをいうと、大体 50 分ずつがレイ、アスカ、シンジという三大主要キャラクターに落とし前を付けるために与えられている。そう見ることもできる、くらいの話ではある。
もちろん、正確に時間を割ったワケでもなく、あくまで大雑把な話の区切りの上での見解だ。公開も終わるので追記すれば、最後のシンジのパートは半分以上がゲンドウのパートと言ってもよかろう。
ま、そんな感じなので、拡散気味になるがアスカ周りの感想として書きたい。あるいは、そのつもりだった。
プラグスーツはいくつもの色を重ねる
話は尽きないが、プラグスーツの色の変化に作品の意図はうまく象徴されていて、この視点に立てば真希波の役割も割と、くっきりとする気配がある。あまりにも便利で分かりやすい演出であった。
アスカについて触れておくと、EOE を模したシーンで、アスカは 14 年分成長した状態になり、かつ赤いプラグスーツを身につけている。そして、ガキとして見下していたシンジに対して、今更のように恥じらっている。
この情景がいわゆる EOE との接続であることは言うまでもなく、また、お互いが「好きだった」という点を確認する作業自体も、お話全体の流れと 2 人の関係性を発展的に解消させていくための当然のやりとりではあった。
14 年分だけ先に歳を取ってしまったという彼女の悲しい恋、あるいは愛が斯様に締めくくられたというだけでよいのではないでしょうか。逆に「これが EOE のエンディングの再定義なのか?」みたいな受容は難しそうで、重ね合わせこそされているが、あくまでそこまでと見るのが筋としてはよさそう。
惣流と式波をどのように落とし込むのか
そうなると「式波は幸せになった、惣流はどうする?」みたいな妄想が膨らむ。
閑話ではないが、本作は TVシリーズおよび旧劇場版からの変更点として、各人物とその母親との関係性は最小限になっている。シンジにしてもリツコにしてもそうで、アスカに至っては設定そのものが消失した。物語をスマートに進行させるにはよい手段だったと思う。
本作で母性を必要としていたのは-現実的にはパートナーだが、ゲンドウだったワケだし、それが焦点化されたのが完結篇でもあった。逆に、式波-綾波もそうだが、彼女らはそういった人間関係の基本さえ知り得ない存在だったのだ。
一応、式波にとっては真希波が母様の存在としてはあるように思われるし、真希波自身が作中ではある程度はそのように振る舞っていた。同時に、最終的に真希波は、式波を救ったシンジを救ったが、こうなると作品の動力として EOE をやり直しているのは作中では真希波に他ならないとも見えるかもしれない。
やり直しがいいのか、悪いのかはしらん。
逆にだ。強引に結論だけ述べると、「EOEのラストが惣流にとっても幸せではないとは言えない」のではないか。あの強引で曖昧な開かれたな幕引きが、視聴者を虜にして、私たちの想像力をこれだけ掻き立ててきたワケだけれど、そんな気がする。今回の完結前に、EOE をあらためて見返したのだが、初見のインパクト時よりも悲壮感はなかった。
年を重ねることをどのように受け入れるか
真希波の存在について考えていて思い浮かんだテーマだが、真希波はアレよだね。タイムリープかパラレルワールドか、使徒化なのかしらんけど、何らかの手段で 14 債の肉体年齢となって登場している。この状況そのものは、カヲルと似ているし、式波は事故的に同じようになった。
面白いなと思うのは、過去の真希波を知っていて、それが明らかであり、かつまともに邂逅を果たしたシーンが描かれるのが、冬月さんだけのことなんだよね。「Q」時点でゲンドウチームからヴィレをみたとき、誰かしらパイロットを補充してることはわかっただろうが、それが真希波かは定かだったのだろうか。
全体でみたとき、意識的に、半ばチート的に作品内を走り回れたのがカヲルと真希波だけだとしたら、その両者に引きずられる形とはいえ、自覚的に接近した結果になった唯一の人物って、冬月だけなんじゃないのと。彼がもっとも分からんよな。なんかの贖罪のようにしか思えないよね。
なんだかんだでアスカが主役だなと思うのは
上映開始してしばらくしてから「ロボットアニメが」という枕詞で語られることも少なくなかった本作だが、この劇場シリーズでいえば、シンジの乗った初号機が前半で活躍したかと思えば、後半はほとんど二号機の活躍ばかりではなかったか。
シンエヴァンゲリオンでいえば、私はやはりシンニを無理やりアスカが何か強くして、グワァーってなっていくシーンが 1 番好きだね。アレがロボットなのかはしらんけど。
というか、もっとツマラナイ話をすると、1997 年に《新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に》と《もののけ姫》が同時に上映されているワケだが、エヴァがデイダラボッチに影響を与えたかはしらないが、イメージは重なる。
今回のシンニにイメージはさらにデイダラボッチを上書きしてきた。そんなものなのか? なんなら《風立ちぬ》の序盤のいくつかの表現は、だいぶん新劇場版のエヴァと呼応するところがあったように思う。私の想像力の貧弱かね、これは。
デイダラボッチの結末は、神の吸い上げた生命力が行き場を失ったがゆえの暴走であり、その結果はなんらかの清算だった。シンニを駆って人の姿を止めてまでアスカが阻止しようとしたのは、なんだったのか。
話を戻すと、最後こそシンジに主導権を譲ることになったものの、物語を牽引する決断を重ねてきた役割といい、ロボットアニメとしての大胆な活躍っぷりを示してくれたのは、いつだってアスカだったよなと、それは言っておきたい。
だいたい満足です。
ところで、オープニングとクライマックスはモロの日本映画よね。
もともと日本映画の巨匠の影響が大きいと言われる庵野監督の作品だが、オープニングは《砂の器》を連想させられるし、終盤は《田園に死す》を意識せずにはいられない。これらが両方とも 1974 年の作品だというのもユニークだね。
また折があったら触れたいね。
さらば、すべてのエヴァンゲリオンファン。
この 4 月に《騙し絵の牙》を観た。大泉洋の主演だが、結果としては松岡茉優にも主演級の役割が与えられていた。原作は未読で、普段はこのようなケースで読もうと思うこともないのだが、今回は原作を読みたいなと思った。けれど、結局は読まずじまいにこの記事を書いている。
なぜ読もうと思ったかというと、原作から相当に手入れがなされた脚本であるのは見た目に明らかで、かといって空中分解することのない絶妙なバランスであったから、一体原作はどんなものなのか気になったのだ。
特に、時代設定についてチグハグに感じる部分が、あえてであるにしても目立っていて、それらをひっくるめて、どのように成立させられたのかな? それというのは、たとえば安っぽい TV ショーだったり、オフィス内の執務室、会議室で当たり前のように葉巻が消費されるシーンなどだ。なんだったんだろうね、あれは。
映画の脚本だが、監督の吉田大八が手掛けている。監督の作品は《桐島、部活止めるってよ》(2012)が有名だが、私は未鑑賞だ。2018 年の《羊の木》は鑑賞している。こちらは好みの作品だった。原作アリ作品をうまくまとめる名手、みたいなことでいいのかな。
舞台となる薫風社と小説薫風は、文藝春秋なりの雑誌を連想させられるが、実際に撮影には文藝春秋社が協力したとか? また一方で、新社長にならんとした東松龍司の計画の雰囲気は KADOKAWA の「ところざわサクラタウン」構想などを連想させられる。いろいろと現実の要素をハイブリッドさせている結果と思うが、贅沢だな。
伊庭惟高の持ち土産の Amazon との独自契約というのも、まったく同じなわけはないが、各出版社はそれなりのかたちでやっていることだろうし、あまり驚きもなかった。が、まぁこれは高野恵の独立出版社&書店との対比でもあるんだろうな。どちらかといえば、後者が引き立てられるワケだが。
このへんは、有名どころだとコルクの佐渡島庸平などだろうと思うけれど-細部はいろいろあるけど-、まぁ個人出版社なり新しい書店なりの模索が実はたくさんあって、実情としては模索せざるを得なくなっているのが現行の出版業界ということで、その戯画化はうまく達成されていたのではないでしょうか。しらんけど。
速水輝が打つ手打つ手もかなり突飛に見えるが、当てる企画者、編集者ってあれくらいのことはガンガンやるイメージがあるので、これも割とリアリティというか、真実味の含みは大きいのではないかな。とにかく大泉洋が格好よくて子気味いい。
城島咲の転落もバネにしようというのは、キャストの妙も相まって面白かった。
二階堂大作の活躍をもうひと捻り見てみたかったのと、東松龍司の出生の秘密になにかしら設定があるのか、冒頭の伊庭前社長はリードから手を離せばよかったのでは? などが心残りといえば、そう。
屋上で悔しそうに紙コップを叩きつけるシーンがもっとも印象に残っている。
《1秒先の彼女》を観た。
台湾映画だ。台湾映画を観るのははじめてなんじゃないのかな?
原題は「消失的情人節」、英題は “My Missing Valentine” となるようだ。「情人節」が「バレンタインデー」なので、単純に「バレンタインデーの消失」というタイトルだろうから英題もほぼ直訳なんだろう。邦題の工夫も納得しやすい。
作中では「消失」の効果によって原題をスクリーン上で言葉遊びしていたようだが、字幕も無かったかあるいは一瞬かだったので、意味がよくわからなかった。中国語を勉強したいね。
美しい台湾の風景
行ったことないのだけれど、台湾の都会の風景と海辺の田舎町の風景がとても美しかった。作中でキーとなる海岸とそこに向かう道中、都会に戻る道中があまりにもよく撮られていて、大胆にいえばこれだけでも鑑賞する価値はある。
最後のほうで、メディアなどでよく目にするバイクのすごい流れなんかも目に入ってきた。これは美しいとは言えないが、ある意味で現実に戻ってきたことの象徴なのだろうな。ギャップを生み出す効果があった。
なにより、ドローンで上空から撮影されたであろう海岸線が見事だ。同監督の前の作品でもこのあたりが舞台になったことがあるらしいという情報を目にしたけれど、これだけ美しい景色は、それは何度でも使いたくなるだろう。
ヘアメイクの重要さがわかってきた
主人公、ヒロイン:ヤン・シャオチーのころころと変わる表情豊かな演技がとても印象深い。これも間違いなく本作の魅力のひとつだろう。父親の失踪という不幸な生い立ちから都会の郵便局の窓口案内になり、下町風のエリアの小汚いアパートに暮らしている。が、文句を垂れながらも彼女なりに幸せそうだ。
しかし、当然と言えばそうなのだが、人物の髪型でそれぞれのキャラクター性がガラッと変わってくるのがスゴイなと、最近は映画をみていると、そう実感させられる-もちろん本作に限った話ではないけれど。シャオチーがクライマックスで、田舎に引っ込んだのに垢ぬけた感じになってしまう逆転的なギャップには、クスッとなりつつもグッときた。彼女も成長したのだ。
しかしどうにも偏狂な愛だなぁ
シャオチーに想いを寄せる登場人物の愛が、まぁ彼なりの愛が、ああいうかたちを取らざるを得なかったのは納得はできるが、これが別に原則的にはいい話ではない、はずで、そういう意味では何とも歯痒い。
しかし、決定的な設定であったが、それらを相殺し合うような-実際にはぜんぜん相殺しないし、むしろ差は拡がる-、そんな不器用な 2 人がくっつくというのは、ある意味では収まりがよいような気はする。
どう考えても狂ってはいる状況なのだけれど、ツーショットを撮るにあたって、パントマイムのような演技を導入していたのは、おもしろかったね。
《TENET》と同じ年の映画として本作は
鑑賞後にふと、この設定とそれを生かした大胆な撮影は、《TENET》あるいはクリストファー・ノーランへの挑戦なんじゃないか? と勝手に妄想した。だが、どちらも 2020 年の作品であった。
これはどなたかの感想からの孫引きなのだが、予算の都合もあって特殊効果(CG)は極力使われなかったらしい。奇しくも、この点も類似している。ノーラン監督の場合は拘りゆえであるが。
本作のトリッキーなシーンは、ところどころ俳優さんがプルプル震えてしまったり…、ということが見えるので、あぁ、これは演技しているのだなと判明するのが微笑ましい。いや、でもかなり魅力的な画なのでこれもスクリーンで観られてよかった。
ついては、ヒロインだけ日曜日をすっ飛ばした原因が、鑑賞後も自分のなかで怪しかったのだが、よくよく考えて判明した。こわいわ。
なんかキャストがおもしろい
公式ページでキャストを読んだが、個性的な面子が多くユニークだったので、端的にメモしておく。
ヤン・シャオチーを演じたのは、リー・ペイユー(李霈瑜) またはパティ・リーという女性だが経歴をみるにマルチタレントだ。服飾デザインを学び、モデルデビューし、TV に出演するようになってから俳優としても出演しはじめたようだ。
ウー・グアタイを演じたリウ・グァンティン(劉冠廷)は、大学で演劇を学んだがいったんは夢をあきらめて 3 年間は体育教師として働いたらしい。公式ページの説明によると「いま台湾で最も注目を集める実力派俳優」とのことだ。
郵便局の後輩:ペイ・ウェンを演じたヘイ・ジャアジャア(黒嘉嘉)またはジョアン・ミシンガムは、どこかで見たと思ったら、美しすぎる囲碁棋士として有名になった子だった。本作が初の映画デビューらしい。
シャオチーに言い寄っていたリウを演じたダンカン・チョウ(周群達)は香港出身で台湾に移住した経歴の持ち主で、どちらの地域でも活躍しているとのことだ。こういう状況の人が今後の香港で活躍する機会があるのかは不明だが、こうなると香港問題も身近に感じるね。
一言だけネガティブなことをいえば、セクシャルなネタ? ギャグ? が割と多くて、これは良い意味での現代的な大らかさなのか、単純に旧時代的なのか、途中で訳がわからなくなった。が、冷静になると旧時代的ってことで間違いないと思う。上述の偏狂な愛もそうだが、これらが決定的に苦手なひとにはキツそう。
最後に。
ラジオのパーソナリティーから発せられた「恋が記憶を成立させる」みたいなのと「愛は自己欺瞞(自己陶酔だっけ?)」みたいなのの 2 つの台詞が妙に印象的で、これらのキーワードとイモリのおじさんの忠告をうまく掘り下げていくと、別の味わいが出てくる気がする。どうだろうか。