《コーダ あいのうた/CODA》を前情報もほとんどなしに、友人に薦められて鑑賞した。よかった。レイトショーで鑑賞したが、女性客のほうが多かったかな。フランスの映画《エール!》(2014)を下敷きにしたリメイク作品ということは鑑賞後に知った。ということで、此方はもちろん未見だが、もともとの作品の方はもっとコメディ色が強いとか。
大雑把なあらすじ
海辺の漁師町、ヒロイン:ハイスクールに通うルビーは聴覚能力をもたない両親と兄と 4 人家族で漁師一家として生計を立てている。事情が事情なので彼女も幼いころから現場に駆り出されている。漁師兼学生だ。パワフルである。
高校の自由選択の科目で合唱を選んだ彼女は、持ち前の歌唱力、ほのかに抱いていた恋心を同時に昇華させる運命に導かれる。ともなって家族とあらためて向き合うことになる。
撮影場所
マサチューセッツ州のグロスターというところらしい。ボストンの北東にある少し突き出た半島、といっていいのかという地理にある。作中はおそらく春夏あたりだったろうが、冬はそこそこに寒そうだ。実際、水遊びのシーンは、水が冷たいということだったな。ルビーの目指すことになった音楽学校に車で向かえる距離だったので気になったが、実際に 45 分程度で着くらしい。主には下記のサイトの情報で確認した。ありがたいことだ。
家族の関係性
家族で 1 番に状況の整理や内心の制御が覚束なかったのは彼女の母に見えた。いろいろな意味でルビーと和解し切れたとは思えないものの、現実的なラインだろう。こういうところのリアリティは、母との関係以外も見事に描かれていた。
父と兄は漁業という生業の重労働、同時に卸市場での苛酷な現場において彼女と、長い間に渡って過ごしているから、彼女の強さを見つめている。知っている。
作中でのテーマとなるのは等身大のティーンエイジャーのルビーとしての物語だが、荒くれ物の漁師たちと渡り合っている彼女は、本当には強者なんですよね、良くも悪くも。そういうことを意識させられた。
兄は家族の犠牲になるなと言い、父も彼女はずっと大人だったと呟く。このへんの思いやりのすれ違いみたいなやりとりは、泣きそうになるくらいの繊細さでもって、繰り返すが見事な演出だった。
その兄と父だが、フィクション然としてではあるが、彼らの事業はそれなりに成功している状況で描かれている。もちろん作り話としてではあるが、決して彼ら自身が無能であったということはなかった。このような描写や展開には、娘、妹に頼り過ぎていたという面も見いだされる。
少しだけ気になったのは、結局のところ、ある時点で問題とされた、支払いなり罰金なりの解決は鑑賞者のご想像にお任せという体で、一昔前によく見たようなアメリカ映画のご都合主義というか、敢えてこのような収束にしたのだろうし、特には不満ともならなかったが、やや心残りではあった。
気になる点のようなところ
まずは 1 点、ルビーの恋愛相手である彼の家庭は幸せではない。ほとんど匂わせ程度であったし、社会問題として扱うほどで深刻ではないという立て付けだろうけど、機能不全家族みたいな感じだろうな。深堀りするとすれば、家庭の問題は、必ずしも身体的なディスアドバンテージとは関係しないという点で、これも言ってしまえば当たり前のことではあるが、そういう留保はあった。
2 点目。これは鑑賞方法についての話だが、これは本国なり原語版の上映だと手話に字幕が付くという理解でいいんだろうか。基本的にはそうせざるを得ないだろうから、この憶測で間違っていないだろうけど。ただ漠然とそのことが気になっただけだが、結局のところ手話者のコミュニケーションを翻訳しているということに違いはないんだなと。
彼女の家族の俳優の方たちは耳の聞こえない方たちらしいが、主演の彼女は手話をそれなりに学んだろうかね。まぁ、そうなんだろう。
3 点目というか。その関連でいうと制作にあたっては、家族を演じたの俳優陣やその他、実際に耳の聞こえない方たちの意見を取り入れられたというが、原則的には耳の聞こえる私たち中心に向けられた作品になっている本作が、耳の聞こえない方たちにどういうふうに受け入れられるかは気になる。
そこに差はないはず、と言い切る勇気はない。
最後はさらに余談だが、冒頭の兄と父との会話からは《揺れる大地》(1948)が連想させれらた。意識して引用していることは、間違いないと言ってよさそう。いくつか感想を読んだが数名ばかり挙げている方がいた。
本作が、作品内でよい話としてまとまっているのは疑いなく思うが、タイトルや《揺れる大地》の引用などを踏まえると、眼前にある問題と真摯に向き合う態度もあらためて要求されているよな、とは。
もっともっと余談だけど、本作の配給権は 2021 年の 2 月だかに Apple 社が獲得してるんですね。で、今回はアカデミー賞にノミネートされたとのことで本年の 2 月にプレスリリースなんかも打っている。へぇ。
アカデミー賞の関連もあって以下のような記事も出ましたね。
《ナイル殺人事件》(2022)を観た。監督が主演も務める。前作も劇場で観て、その流れで今作も観たわけだが、個人的には前作の方が入り込めた。今作はなんとなく展開も読めたし、ミステリーというよりは人間関係の不条理さを描いている面が強い。
「展開も読めた」と書いたが、つまり原作は読んでいない。人物の背後関係、プロフィールなどは整理されているらしいが、概ね原作通りではあるらしい。
映像としてはそこまで面白いってこともない作品だが、話の骨格自体は面白かったので、アガサ・クリスティーは凄いなと、身も蓋もないことをクライマックスあたりで考えていた。
気になったことなどを書いておく。
農民になるとは
冒頭の回想シーンと本編での会話から、ポアロは「農民になる」という。いろいろな疑問が付きまとった。
まずは訳語についてだ。 “farmer” を「農民」としたワケだが、これは割と違和感が大きかった。時代背景として「農民」としたのだろうか。なぜ「農家」じゃいけなかったのか。あるいは私の感覚がずれているのか。
で、ポアロシリーズに詳しくないのだが、これ、冒頭の回想シーンの字幕の雰囲気だと彼が農民(農家)出身のように受け取れてしまった。そういう雰囲気でやり取りがなされている。実際、他の鑑賞者でも「ポアロが農家出身だとは知りませんでした」という感想があった。
で、それがそのまま 2 つ目の疑問になる。私の勘違いならすまない。
少し調べた限りだと、原作においては彼の実家が農家だということもなさそう。おそらく追加された設定で、これについて怒っている雰囲気の感想も見た。もし、設定が追加されたものだとすれば、どうも次回作の構想への伏線ではないかなとはなるが、スマートとは思えない。
それにしても「農業をやる」とか、それくらいの訳出でよかったよなぁとは思う。
ワニは鳥を、魚は小魚を
船が出港したというあたりの、ナイル川を往く船を中景くらいから映すカットで、河岸の岩場に留まっていた鳥が水中からワニに襲われて捕食されていた。さりげない。ちなみにナイルワニという種類なんでしょう。エジプトでは神聖視されることもあったとか。
もうひとつ。事件の発生後に凶器が河に捨てられたのではという経緯でか、何度か水中が映される。そのひとつに河底で小魚がそれよりも大きな魚に捕食されているカットがあった。なにかと入念だなと思った。
気が付いただけでも 2 つの状況で捕食シーンがあったわけで、何をか表したかったのか、このことを引き合いに何かしら考えられなくもなさそう。本作のテーマが「愛」を指すのであれば、その象徴がこれらの捕食で表されるのか? ということは言い放てるけど、概ね謎だ。
客船めっちゃかっこいい
カルナック号というらしい。この船が 1 番観る価値があったんじゃないかな。実際にモデルを建造してそこで撮影したらしい。メチャクチャ豪華で、壁面がほぼガラス張りの船体は、作中でも見事に映えていた。美しかった。
1930 年代当時にこういう船が可能だったのか、実際にどういう雰囲気だったのかはよくわからないが、それなりに嘘はないんだろうなと信じたい。船体後方の居住区はおそらく部屋のランクが 3 つほどあるんだろうけど、最大で何人くらいが寝泊まりできるんだろうね。
話の都合かしらんけど、クルーは夜間時間帯は船外へ帰っていくというのも笑っちゃう話で、当時なら有りえたのか? 流石に無いように思うけど、原作ではどうなっているのだろうなどと、余計なことを考えてしまった。
風景その他がチャッチイかどうか
ほとんどが CG まるだしで、みたいな話があった。CG によって補完された風景なりシーンなりを批判的に捉えているひとがチラホラといる。彼らの言うこともわからないではないが、個人的には代案も無い。批判してるひとだって埃っぽい画面が見たいとか、1930 年代なりのボロッ臭さが見たいとかってわけでもなかろうし。
まったく同じとは言わないが、以前の大河ドラマでリアリティ寄りに演出や美術を設定したら批判されたことがあったよね。似たようなことの反面ではないか。突き詰めたらキリがない。
思い返してみれば、冒頭からいやに性的な暗示が多いなと思ったが、まぁそういう作品だったな。犯人グループは目的を達成するための擬態を半年以上も続けていたらしいので、たしかにこれは愛のなせる業だなと思う。どちらも耐えられないだろうし、そういう意味では彼女の、あるいは彼の狂気は演技ではなかったのかもしれない。
《ザ・ビートルズ Get Back: ルーフトップ・コンサート》を観た。上映期間が延長され、なんとなく時間があったので、行った。ステッカーとミニポスターみたいのを貰ってしまって、なんか申し訳ない。
鑑賞者の年代層が高かったように見えたが、レイトショーの時間帯とはいえ、大きめのシアターに半数近くの座席が埋まっていた。さすがのビートルズ、コンテンツぢからの大きさを思い知る。
結果的には解散となったが、その前にして、新たなパフォーマンスについてコンセプトの議論が煮詰まった結果、彼らのアップル社の社屋は屋上でゲリラライブを実施するに至った、ということらしい。
この時期、メンバーの関係性は消耗しきっていて、険悪だったという。
ところが、ライブの演奏中は、そういう空気は皆無だ。というか、メチャクチャ仲がいい。本当に楽しそうだし、連携にそつがない。寒くて演奏できないとかいうけど、お構いなしのパフォーマンスを発揮している。いや、本当に解散する必要なくね? ってくらいだ。そうもいかなかったワケだが。
ここまでちゃんと映像としてビートルズを確認したのは初めてだったが、あらためてポールのボーカルの素晴らしいこと、ジョンのボーカルのエネルギー、リンゴのドラムの繊細でいて確かな安定感と絶妙なリズム感、ジョージの包容力、それぞれが凄かった。
ポールがジョンに合わせるときに、彼の口元を注視することが度々あるのだが、キュン死しそうになるよね。
映像としてはライブを撮影しているカメラは定点で 5 箇所だっけ。あとは路上のインタビュー、エントランス内の隠しカメラなどが撮影した素材をもとに構成される。
映像の半分ほどは、それぞれのカメラの視点をスクリーンに同時に映していた。単純に同サイズで横に並べたり、それぞれサイズを違えてスクエア状に構成したりで、視聴する側も割と忙しい。
彼らの演奏を楽しもうと路上や屋上にあがってくる一般ピープルたち、迷惑を感じているひとたちを除いて平和な光景が広がっていた。街頭のインタビューでも賛否両論を取り上げていたが、好意的な意見の内容がそれぞれそれなりに興味深かった。
私が SNS で読んだ感想では 1969 年当時の女性らのファッションが際立っていい、というコメントがいくつかあったが、確かに男女にかかわらずスマートな出で立ちの方が多い。都会だもんな。しかし、明るい色の服を着こなす女性が多かった。
迷惑を感じているひと、演奏を止めにきた警察官など、彼らは本当にイライラしており、大変そうで心が痛んだね。どういうコンセプトでこういう映像としたのかは不明なんだけど、これも含めてビートルズの軌跡ということだろうかな。
担当の警官は押し問答の末、なんとか屋上までたどり着く。リンゴとポールが警官に気づいても演奏を止めなかったり、軽口を飛ばしたりなんていうシーンも好きだが、全体としてはライブ後-直後なのかな?ーに、スタジオに入って延々とレコーディングするシーンが好き。
オノ・ヨーコがなんでレコーディング中もあんなにジョンに寄り添っているのかは謎で笑ってしまうが、時間が止まったような空間でそれぞれがそれぞれと音楽に向き合っていた。そのままフワッとエンドクレジットに入っていくのもキライじゃない。
文字通りだ。恐い夢をみた。どうやら自分は 60 年ほどコールドスリープかなにかで眠っていたらしく-夢のなかの私は現実の私としての私ではなかったようだが-、なんとか起きて社会に迎えられたらしい。眠っていた理由は不明なままだ。
これを現実の時間軸と一致させるなら目が覚めたのは 2080 年くらいの社会だろうか。大きなビルのなかで生活しているようで、屋内はそれなりに安定した社会を維持しているようだが、屋外の治安は悪そうだった。
なんともいえない人間関係のなかに放り込まれていた。個室というよりは集団生活のような感じだった。雑多な生活空間であった。ジェンダーのあり方は多様になっているようだった。そういう状況に巻き込まれていた。どういう夢なのか。
外の治安の悪さが生活空間まで及んできたようで、脱出を図るという段になって目が覚めた。犠牲者が出たようだった。いろいろと時勢を取り込んだ夢だったと思うが、なかなか難しい。
いやに現実味があって、居心地が悪い。
2022 年 2 月、国立新美術館にて開催されているメトロポリタン展に行った。そのついでに、同時に開催されていた公募展を散策したメモを残しておく。新槐樹社展、全日本アートサロン絵画大賞展、NAU 21世紀美術連立展を歩いた。メトロポリタン展については、別途、メモを残しておく。
第66回 新槐樹社展
メトロポリタン展の半券によって割引 500 円で入場できた。ほとんどが油彩の作品で、陶芸などもあったか。概要を確認してないが、同作者ごとに 2 作品ずつ展示されるケースが多い。出品の規約どおりに 2 作品を出した人が多いということなのかな?
それらの多くは関連性のあるテーマで描かれていたり、作品によっては合わせてひとつであったりした。割と抽象的な作品も多かったが、メトロポリタン展を終えたあとという状況もあってか、日本の風景画を目にできたのはホッとする。
それぞれの受賞作については、以下のリンクに掲載されていた。
東京都議会議長賞:栗原親史《鎮座》は馬の土偶が可愛くて印象的だった。努力賞:石黒千佳子《奏2022-Ⅰ》も好き。新人賞:濱井剛《コロナ禍「109号」93年目の引退》も印象に残った。コロナ禍のなか、引退を見届けたんだなという情緒がな。
東美賞:高木葉子《ラスベガスの夜》も色彩感覚が好きだった。マツダ賞:杉浦和彦《原始の森》も美しくていいなと思ったけど、これ水中に翼竜がたくさん居るのか。現地での鑑賞では気づかなかった記憶がある。
マツダ賞:坂井千鶴子《桜は秋も美しい》がもっとも印象的だった。というのも《桜は冬も美しい》が同時に展示されており、とにかく桜への愛があった。というのと、普通にいい絵だなとなったのよね。きっと、春夏の作品もあるんだろうさ。
サクラクレパス創業100周年記念 第31回全日本アートサロン絵画大賞展
文具メーカーである「サクラクレパス」が主宰(なのかな)の展覧会だそうで、創業 100 周年ということで気合も入っていたみたい。産経新聞も協賛しているのか新聞に取り上げられたと大々的であった。
自由表現の部門と写実表現の部門に分かれていた。それぞれの作品には画材なり手法なりが記載されており、油彩やアクリルのほかに、ミクストメディア、コラージュ、水彩、色鉛筆などがあったかな。珍しいところだと「日本画」となっている作品もあったかもしれない。
素人にゃミクストメディアとコラージュの差がわからんが、おもしろかった。受賞作は以下のリンク先で確認できる。けれど、これ URL がこのままならいづれは見れなくなりそう。
写実表現部門:芝茂雄《おお、なんという生命力》、画題の玉ねぎが面白かったが、この作品のほかにも玉ねぎを扱った作品があったような気がする。玉ねぎブームがあったのだろうか。
写実表現部門:Ananda《ミャンマーの僧院にて-3》も、時事的な面でも印象的だったね。この作品、この展覧会に限らず、海外での体験を題材にしている作品がチラホラあって、そういうのも面白いやね。
そういえば、栃木か群馬か茨城からの出品で、別々の作者が同じような海外の街角の景色を同じような描き方をしていて、確認したら名字が同じだった。親類が描いているんだろうな、などとメタ的な発見も楽しめた。
第20回 NAU 21世紀美術連立展
1 番手前の展示スペースで開催されていた。入場無料であった。「NAU」とは “New Artists Unite” の略称らしく、よくわからんが世界的に連帯もあるような感じっぽい。
絵画もあるが、インスタレーションだったり、立体の造形物だったりが比較的多い展示だった。
この字はなんて読むのか?
1 番奥、屋外の展示場との間口となる小さなエリアで、書道の創作が展示されていた。田畑理恵という方らしい。この記事を書くにあたって、プロフィールは以下のリンクで確認したが、書道には大学を卒業してから本格的に取り組んだらしい。すごい。
英題と漢字をリンクさせた作品があった。たとえば、「盡歓」と書いて”Joy of Life” というような-もはやうろ覚えだが、概ね誤っては無いと思うー、そのような作品たちだ。よかった。「とめはねっ!」を思い出させられる。
ほかには前衛書としていいのか、矢印を上に伸ばした作品もあった。これは上のリンク先の紹介に類作が掲載されている…、と思ったら無いな。あれれ?
あるいは扇面の紙に筆記体の英文で日記を書き、屏風に集めた作品があった。これも創作書道の類なのかな。ひとつには「お父さんがどうの」という内容をチラリと読めたが、解読に至らず。あまり頑張って読むようなアレでもないだろうと。
で、あらためて英題と漢字をリンクさせた作品たちを眺めると「雲」《Cloud》や「龍」《Dragon》などがあったが、《Clearing》と題された作品の漢字が読めない。ブワッてなってムワムワってなっている。読めない……。
幸いにも作者の田畑さんが現場にいらして相手をしてくれそうだったので聞いてみたら「断」だそうだ。ほほーぅ。
そもそもこれらの漢字作品は、漢詩からの抜粋というかインスピレーションのもとらしい。で、その漢詩が李白が「秋思」で、抜粋した箇所は「海上碧雲断」の「断」だそうだ。あまりキレイなリンク先が見つからなかったが、インターネットからは以下を引かせてもらった。
「海上碧雲断」のニュアンスは「湖上をゆく雲も切れ切れになって」というような解釈が主らしいが、「水平線を雲が断つ」みたいなニュアンスもあるのでは、みたいな考えもあるらしい。いずれにせよ、題となった詩全体からは「遥かに遠いみたい」な雰囲気がありそう。
一方、作品のタイトルとなった《Clearing》は、説明いただいた内容の記憶が確かであればセザンヌから引いたという。ほほーぅ。さっき、メトロポリタン展で見たじゃん、となった。
ということで、インターネットを漁った。発見に苦労したが、最終的には WikiArt にあった。灯台下暗し。《Clearing》(1867)だ。初期の作品だろうか。
説明もらったのが本作であっているか定かではないが、話を進める。そうは言っても、手掛かりははなく、ものの本なり解説なりに当たる余裕も流石に無いので、雰囲気の語りだ。
この画、画面の大方を占める緑と部分的な空、木々のあいだの陰となる黒がバランスをとっているっぽい。陰が在るその部分を、陰自体が縦に割いているようにも見えるし、画面の奥への侵入を拒んでいるようにも見える。陰のなかにちょっと覗いている青がまた絶妙というか。
本作の《Clear》の意味だが、「くっくりした」とか「雲のない」というニュアンスだろうか? となったところでイメージしてみると、なんとなく腑に落ちた気がした。陰の部分の黒が、なんとなく「断」の墨の残した印象にオーバーラップする。
というわけで、最後の最後で面白い体験をしたというオチになった。こういう身近な現代アートなりは、制作者の存在も身近で楽しいものだ。いつもこういくというワケでもないが、こういう出会いもバカにならないね。ありがとうございました。
ヒッチコック映画の情報を浚っているとき、インターネットに転がっている紀要論文らしきものを見つけた。
この事実だけ記録して、内容は放っておいたのだが、溜めていた情報を棚卸しようと機会があって読んだ。おもしろかった。
「バックロット」という用語を知らなかったが、要するにスタジオ撮影の延長線上にある張りぼての町を指すらしい。太秦映画村なんかもバックロットの一種なのではないかな。
で、このバックロットの誕生の背景には、サイレントからトーキーへの移行がもたらした撮影環境の精確さの要求がひとつ、大量生産時代の製作需要、特にそれらはスケジュール管理にかかわる問題として集約される、というようなことがあったらしい。で、要するにはバックロットのような設備が求められたというわけだ。
並行するように、美術監督をはじめとした工作班の発展、監督とマネジメントを繋ぐ役職としてのプロデューサー職の誕生などといったトピックが説明されており、これも非常に参考になった。
あるいは、当時の作家らが脚本家として求められてハリウッドに足を伸ばしたはいいが、文藝としての作家性と、大量生産時代に求められる脚本とのギャップに彼らは苦しんだというエピソードも、なかなか興味深い。フォークナー脚本の映画というのも興味があるが、鑑賞は難しそうだね。
斎藤英治の情報も一応、メモしておこう。
ジャン・コクトーの《美女と野獣》(1946)を観た。スコセッシおすすめ外国映画マラソンの続きだ。
あらためて原作の『美女と野獣』について調べると、もとは 18 世紀の女性作家による作品であったとか、現行で流通しているのは原典の簡略版であるとか、知らない事実が多い。
ディズニー作品での鑑賞歴はあるので、話の大方はわかったうえで臨んだが、細部は異なっており、そのへんの相違を確認できたのは面白かった。
ベルをダシにして一攫千金せんとする兄や姉たち、兄友らの薄汚さなどは、やや飛ばし気味であったが、それぞれの描写は端的ながらも、それなりに生き生きとして、そこそこに無暗で考え無しな悪意が印象に残る。
一方で、野獣の苦しみや秘密、クライマックスの兄たちの顛末、特に後半は割と急ぎ足というか、取ってつけたような構成に見えてしまい、少しばかり残念ではあった。
ちょっとググった程度では不明だが、本国なりでは、映画以前に舞台なりで上演されているには決まっているよね? と思ってフランス語版の Wikipedia などを見てみたが、そうでもないのかしら。
ルイ16世の婚約のために書かれたという 1771 年に発表された喜歌劇が原作の翻案という情報が載っていたが、それ以外はおよそ 20 世紀のコンテンツばかりで、ジャン・コクトーの映画の前にも 3 作くらい映像の小品(らしきもの)があったようだが、ざっくりそれくらいなのかな? 童話の扱いという感じなのかも知らん。
映画自体は、美術はもちろん演出も舞台のような雰囲気が多かったし、そういったところも面白かった。中遠景のシーンは無いに等しい。野獣の城に迷い込むときの草葉の揺らめきとか、もろに舞台だよね。
城の勤め人などが魔法で備品類にされているという設定を、そのまま人間を使って映像化するというのも奇抜でシュールでおもしろい。これも先行の舞台などでも用いられていた手法なのかなと思ったが、そういうわけでもないのかな? もう少し詳しい情報がほしいが。
まぁ、しかし面白い。後半こそ少し雑に感じたが、全体的に面白い。なんでおもしろいのか? 淡々とした画面と進行、やり取りに魅力がある。なんだろう。こういうのも古典の面白い味といえばそれまでだが。
心に残った要素など
特に気に留まったっところを挙げておく。
自動ドア
基本的に、城の扉は勝手に開くし、勝手に閉じる。紐で引っ張るなりしてるだけだろうが、なかなか面白い。ひとつだけ、最初の晩餐での会話後に野獣が去るシーンは、仕掛け格子みたいな扉だったが、ここは彼が彼の意思で閉じていた。こういう強調のしかたもある。
鏡のマジック
鏡にほかの場所の情景が映る。フィルムを切り貼りして実現するシーンなのかね。よくわからん。遠隔の情報を映し出せるというのは、昔から幻想されたファンタジーだったが、現代では普通になった。奇しくも本作の上映されたころは、テレビ放送も実用化の目前とかなんじゃないかな。
であれば、もしかしたら作品が映したファンタジーは、当時はまだたしかにファンタジーだったのかもしれない。
そのほかの魔法
野獣がベルの部屋に勝手に入室し、「プレゼントを持ってきた」と言い訳してその場で首飾りを作り上げる。ヒュヒュヒュっと地面の方から吸い寄せて作ったように見えたが、これは実際には落としたのをコマを逆回しでつなぐ方法なのかな。そういうのあるよね?
また、ベルの空間転移は、カットのつなぎ方の工夫くらいだろうけど、最初の転移のときは壁のなかから出して、あたかも宙から湧いたように見せようとしたっぽい。が、あんまり出来がよくなかったのか、なんか中途半端だった。それ以降は、単純にカットの切り替えで表現していた。
逃げる野獣
城の外縁みたいなところでデートしてたら、野獣が苦しんで逃げるシーンがあった。横に逃げていく野獣がパッと 90 度左に旋回すると、カメラもパッと奥に向かって荒野に飛び込んだ野獣の背が離れていく。とにかく、いいシーンだった。
階段を上り去っていく野獣とか、カーテンが揺れる城内の廊下をベルが往くシーンとか、ところどころ奥行きを生かすシーンが要所で上手く使われていた。
飛ぶ 2 人
またシャガールみたいなことになってる。というか、これは思ってみれば、最新のマトリックスでも再現されているテーマだ。空を飛ぶというのはどういうイメージなのか。原作にもあるのかな。
離陸した瞬間こそワイヤーでの演出っぽさが見え見えのダサい雰囲気だったが、それ以降はなんかよい映像になっていた。すごい。
ところで、映像で空を飛ぶように演出された作品って、どの作品が嚆矢となっているのだろうな。そういうところも気になってきた。
///
監督のジャン・コクトーだがマルチタレントなんですね。小説家としては知っていたが、「芸術のデパート」という異名は知らなかった。発表年の 1946 って戦後だろうし、大変だよななどと思いつつググったら以下の記事がいろいろと詳しかった。
《ウンベルト・D/Umberto D.》を観た。1951 年の作品だ。ひさびさのスコセッシおすすめ古典外国映画マラソンの続きだ。前回の《自転車泥棒》(1948)と同じく、ヴィットリオ・デ・シーカ監督による作品で、戦後から数年ぼっちとはいえ流石に戦後の影響を直接映した雰囲気はないが、貧乏苦労譚には変わりない。
というか、年金生活の老人と愛犬というテーマを知った時点、既にツラい。ネオリアリズモ、ツラい。同カテゴリーのほか作品と同じようにして、俳優陣は専門ではないらしい。老人の借りているアパートの小間使いの女の子なんかは、登場した当初はガッツリとカメラ目線なのでちょっと笑ってしまった。
20 年生活した部屋を追い出されることになった。犬を飼っている孤独な老人-犬がいるので1人暮らしではない-が主役だ。年金は家賃の半分以下、どうしてそこの部屋にこだわるのかというか、ほかに部屋を借りるアテもないことの裏返しなのだろうが、見ている方としては破綻が約束されていて居心地が悪い。
時計や蔵書を売るが、半分も足しにならない。救護院に逃げ込んで時間稼ぎをもくろむも、これも上手く行かない。大家には無視されて追い出されるための準備だけが着々と進むだけであった。
最終的には部屋を諦めるという段で、愛犬:フライクの処遇をどうするかとういう最大の悩みに向き合うことになる。ツラいテーマに解決を見い出せないエンディングではあったが、最後の場面だけを切り出せば、案外は暗くないのかもしれない。それが束の間の安らぎであってもだ。
心に残った要素など
なんというか。まぁ、書いておく。
路面電車
改装されつつある襤褸となった部屋から窓下を見下ろすと路面電車が道を往く。カーブに差し掛かった電車は轟音を立てて曲がっていく。すると擦れるパンタグラフからは、軽く火花が散っていった。いうまでもなく、ウンベルトは死を意識している。
しかしだ、部屋のベッドには気持ちよさそうに眠るフライクがいる。彼を残しては安易には死ねない。これはクライマックスの伏線でもあった。フライクを携えて踏切に迫るウンベルトのどうしようもなさは、同時に、フライクによってある種の救われが待っていることもわかる。苦さと甘さが同居する。これが現実。
小間使いの少女
学がないものの、なんとか女将に雇われているらしい。兵士らしき彼氏の子供を身籠っているらしい。ウンベルトとは割と仲が良く、なにかと世話を焼いてくれるが、無垢なだけの善良さという感じがある。彼女もまた不幸なままだ。
すごくどうでもいいが、新聞に火をつけて壁を這う蟻を払うシーンがある。めちゃくちゃ新聞が燃えて、ほとんど手元あたりまで火が伸びているのに平然としていた。凄いなと思った。
フライク
雑種ということだが、ジャック・ラッセル・テリアのように見えた。こいつがよく手懐けられているというか、芸がちゃんと仕込まれているというか、かなりしっかりと演技する。ういやつだ。
どのシーンでの彼も好きだが、預けられそうになったときに吠えられて、ウンベルトの足元に怯えて隠れていたシーンがなんとも愛おしい。しかし、この犬も、まず時代性からして芸能用の犬ってことはなさそうだが、どうやって見つけ出したのだろうか。
バスで去る旧友
家賃を工面しようとウンベルトは、古い同僚にお金を借りようとする。相談したところで貸してくれなかった友人はバスに飛び乗り逃げようとしつつ、「○○によろしく」と別の旧友を話題にして、話を切り上げようとする。バスは走り出す。
するとウンベルトが「○○は死んだよ」みたいに叫んで返す。この返答を聞いた友人は、悲喜に満ちたようなおどけた表情となった。もちろん喜んでいるわけではないが、話題を転換しようとして、完全に墓穴を掘ってしまって、どうしようもない。そのままバスは加速して、旧友は去っていく。
このやるせなが本作でもっとも心に残ったかもしれない。
さて、ヴィットリオ・デ・シーカ監督作品は、このマラソンではもう終わりだが、いわゆる晩年時代の《悲しみの青春》(1971)なんかも面白そうだし、機会をみて追ってみたい。
五島美術館で開催されていた《アジアのうつわわーるど》展を見てきた。昨年のことだ。二子玉川に寄ったという記事を先日アップした。その続きだ。その日の用事を終え、観光地はないかと検索した結果の訪問先となった。二子玉川の駅からは徒歩で 15 分ほどだろうか。
本展の趣旨としては、そもそも町田市立博物館という施設がある。それがリニューアルを前提に閉館され、所蔵品である陶器類、ガラス製品類を見せようという企画となったらしい。そのなかでも中国、東南アジアの収蔵品は世界でも数えるほどのラインナップとのことだ。展覧会には正確には「町田市立博物館所蔵陶磁・ガラス名品展」という副題がついた。四部構成となっている。
中国陶器 鑑賞陶器
「鑑賞陶器」とは主に観賞用に製作された陶器らしいが、国際的に有効なカテゴリーなのか日本国内でのみ通用する視点なのか。どうなんだろうか。 つまるところ、墓所に収められた陶器だとか、人形だとか、実用品ではなくて飾りとしてして作られた壺だの皿だとかである。ところで、下記の枕のように実際に使われていたとしても不思議ではなさそうな器もあったので、カテゴリーの範疇が、よくわからない。
No.7 三彩牡丹文盤
遼で作られた器らしい。色合いが濃い黄色と外側の縁のあたりは緑色かな。図録で見ると、外縁は黒様だが、直接にみた時は緑色だったと記憶している。逆さに窯入れして焼く方式だそうで、内と外の黄と緑の釉薬が接する面で垂れるような状態になり、仕上がりとしては、ちょっと盛り上がった形になっているとか。とにかく濃い黄色がよかった。
No.10 白釉鉄絵草花文枕
変わり種の焼き物というか、文字通りの枕。結構、首の位置が高くなる大きめの仕上がりだ。大男が使うとちょうどよかったのかな? 上述のように、これを観賞用というのは無理がある気がするのだが、どうなのかな。鉄絵具で描かれた図案が美しい。
中国陶器 貿易陶器
こちらはカテゴリーの由来がハッキリしている。中国で製作されたことは確かだが、中国以外で見つかった、つまり交易品だったろう陶器類だ。これもさまざまな年代と思われる出土品があるが、西は東アフリカまで確認されたそうな。
No.23 青磁双魚文皿
小ぶりだったが、見込み、皿の底に魚がプクッとさりげなく浮いている。どこかで似たようなのを見たことがある気もしたが、目に留まった。南宋から元時代、13 世紀ごろの品だろうとのことだった。子宝的なモチーフらしい。実際に使うには、水なりスープなりの液体を入れるんだろう。
No.27 青花束蓮文大盤
「蘇麻離青」という顔料を使っているらしいが、これはイスラム圏から輸入したそうだ。というわけで、イスラム美術っぽい青色をしている。というイメージで伝わるか知らんが、そうとしか言いようがない。この美術品が逆にイスラム圏に輸出されたりしたらしいので、それはそれで面白い。
東南アジア陶器
1 番面白かったというか、発見があったというか。 タイの窯が割と活発だったのがおもしろい。あとはミャンマーかな。欧州やアラブで流行した青い釉薬を生かした技法があり、それは他の東アジア地域では使われていなかったものの、ミャンマーには伝来していたことが確認できている、らしい。中東圏が当時から東南アジアに影響を及ぼしていたという事実がよくわかる。
ベトナム
特に中国と隣接が強いので、技術も流れてきやすかったという面はあるようだった。展示物にはいくつかボテッとしたスタイルの壺が展示されていた。あとは前述の蘇麻離青による彩色がある。中国とは異なり、画題は花に限らないのがポイントのようだ。
クメール
現カンボジア地域の窯とされる品々ということだが、文化圏とエリアが他と重複しがちなので「クメール王国」としてまとめたらしい。丸っこい象型のツボ、兎型のツボなどが印象深い。いずれも神聖な扱いをされたとかだっけな。ヒンドゥーの文化が混じってる、みたいなことを言われると、たしかにそんな気がする。
タイ
クメールとは逆に、いくつかの地域と時期でさまざまな王国と文化がガチャガチャしていたらしいが、ここはタイとしてまとめられていた。窯の名前が印象的で-つまり地名だろうけど、シーサッチャナーライ窯とスコータイ窯という名前が魅力的だ。これらの窯の品が多かったが、スコータイ窯のシンプルな品が個人的には好ましかった。こちらも文様は、鉄絵具で描画されている。
そのほかの窯の品もそれぞれに特徴があった。鉄絵唐草文碗というのが小ぶりで文様も可愛く、お茶碗としてふつうに使えそうで、持って帰りたかった。
ミャンマー
陶器製のタイルの展示がメインだったか。8 世紀頃からあったらしい。インドだとかインドネシアだとかを連想させられる。というのも仏教的なモチーフが採用されている。これが特徴ではあるらしいことは確かで、こちらも中国の影響というよりは西側、南アジア圏の影響が強かったんだろうな。東京国立博物館の東洋館の初っ端あたりの展示物に、こういうタイル様の仏教建築の一部なんかがあるイメージだ。
中国ガラス
分厚い色ガラスを削って紋様なりイラストなりにする。見ればそのままだが、色ガラスの製品を目にする機会が少ないので、一見だと謎の技術に見える。手が込むと、たとえば白い層と色のある層の 2 種のガラスでできており、色の層を削り切って白い層が目に見える、みたいなことになる。このガラスの色が毒々しいというか、艶めかしいというか、すごい作り物感がある。青や赤も十分だが、黄が特に力強い。
「鼻煙壺」(びえんこ)と呼ばれる嗅ぎタバコ用の小さな壺たちもたくさん展示されていた。17 世紀に欧州で流行った嗅ぎタバコが中国本土でも流行したらしい。ふーむ。これらも形状が特殊であったり、いわゆる吉兆のモチーフが描かれたりと、バリエーションの豊富と細密さには目を奪われる。
上述のガラスを削る技法は使われているが、彩色するパターンもあったようで、さまざまであった。
昨年末、2021 年の 12 月に二子玉川に用事があり、そのついでに近場の美術館を探して五島美術館へ赴いた。「アジアのうつわわーるど」という特別展を鑑賞したが、それはそれとして別途、何かを書ければいいが、とりあえずは置いておく。
本館の展示スペースは最小限ながらも、庭が広い。そもそも東急グループの始祖らしい五島慶太の収集した美術品を管理するための施設らしく、この敷地もその屋敷の一部であったらしい。
庭についてだが、Wikipedia によれば高村弘平という造園家の仕事とのことだ。記事を読むと単なる職人ということではまったくなくて、空間設計するひとみたいな感じなのか。ほぼほぼ 20 世紀をまるごと生きたような時代背景と人物で、こちらも紐解くと面白そうだが。
庭園だが、世田谷区上野毛の斜面に展開されている。具体的な広さはどんなもんだろうか。斜面だからなんとも言いづらいが、小さな校庭くらいはあるのではないか。分かりづらいな。体育館2、3個分くらいとか?
仏像が何点か配されていたり、茶室があったり、富士見のポイントがあったり-聳える楽天のビルがみえる、エリアごとに門が設けられていたりと、つまるところ楽しい庭だ。どれくらい本気で仏教的な空間にしたかったのかは不明だが、浮世を離れて軽く気分転換するには十分すぎるくらい贅沢な時間になる。
いくつか池が点在し、鯉がいくつか泳いでいる。古い施設であるし、わざわざ水をどこかから流し込んでいる風にもみえなかった。それはそれとして気になったのだが、そのことを確認したわけだ。
美術館側からぐるりと庭園を歩いて 1 周し、ふたたび下って裏口から二子玉川方面に出ようとしたら、付近に古井戸がある。ははぁ。そして斜面の終点あたりに向かって、周辺の路面に流水すらしていた。
落ち葉を掃除している方がいたので、この流水はどっかから湧いているのか、溜まった雨水のそれなのか、なんとなく聞いてみたが、これはよくわからないとのことだった。どうなんでしょうね。単純には、やはり地下水と思うが。
そういえば園内には古墳の跡地らしい空間もあった。稲荷丸古墳とかいうようだが、詳細はよくわからない。調べればそれなりのことはわかるだろう。また、隣接して稲荷神社もあるようなので、この土地自体がやはり古くから、いい土地だったのでしょう。