水分をよく摂取する。

水道局から届く水が安全なことは十分に承知しているが、なんとなくそのままは飲みたくはないなというところ、普段はミネラルウォーターを購入していた。あるいは、余裕があるときはいったん沸かしてから飲むとか。

生活空間のシンクの蛇口は、浄水器を備えるには工数がかかるタイプであったし、それに着手するほどのモチベーションもなく、長く諦めていたのである。

ところが、世には浄水ポットなるものがあった。それに気づくのに、いくらか時間がかかった。

ペットボトルのミネラルウォーターの問題点は、廃棄するストレスだった。たかがという話だろうが、個人的にはこれが今回の最大の理由になった。あと、なんとなくコストパフォーマンスよくなるのではないか。

これもおそらく正しかろう。定期的に交換する必要があるカートリッジは割高に感じるが、それでもおそらく半年もかからないくらいで相対的に安価となるかな。

ところで、浄水器や浄水ポットを売る側からは、「ペットボトルを棄てる量が減るのでエコだ」というメッセージもあった。これはちょっと疑問であった。本体はまだしも、カートリッジの製造コスト(製造上の廃棄物とかね)がよくわからん。あまり情報らしい情報もパッとは目に入らなかったが、多分これも正しいんだろう。

で、製品だが、ドイツのメーカー BRITA が製品のラインナップも多く、なんか使いやすいそうだなと思ったが、何を日和ったか最終的にはトレビーノ製のポットにした。これもいくつか理由はあるが、最大には「洗いやすそうだから」を理由としたい。

で、初期設定こそ何だかよくわからんかったが、これはいい。水の在庫を気にする必要がないのもいい。なんとなくポットの形状もカッコいい。二重蓋が一体化しているという仕組みも心を擽る。

そこそこ洗いやすい。

いまのところ何も不自由はない。ゴミ捨ての手間も減った。

ところで、Amazon のレビューにあったが、製品名が製造コードそのまま(みたいな感じ)でとっつきづらいというのは確かにあるね。愛着もへったくれもないという姿勢なのか、この英数字を覚えてくれというメッセージなのか、どっちなんだろう。

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映画ではないが、映画カテゴリーの記事として残しておく。前作の劇場版の感想は以下です。

2023年12月追記:

『攻殻機動隊SAC_2045 最後の人間』を観てきた。本記事の総集版映画だ。いうまでもなくカットも編集も多く、特にクライマックスの展開は表現が割と変わっている。なんで自分がここまで熱心なのかもよくわからんが、ちゃんと見てきた(もちろん比べようもなく熱心で精確な鑑賞をしてる方は山ほどいるだろう)。

というわけで、この感想はどうやら的外れらしいが、それを意に介さずに同じような感想を抱いた記事をアップした。


《攻殻機動隊SAC_2045》シーズン2 を観終えた。クライマックスの展開は、概ね想像力の限界は超えなかったが、これをキッチリとやり切ったことに感動したし、終始、面白かった。まずはその一言だけは伝えたかった。

神山健治の攻殻機動隊はどれも好きだけど、それぞれにちゃんと重みのグレードがあってよい。で、今回はそれが極まったと見える。これが Netflix 最速で配信されることの意味とは!? という気がするが、どうなんだろう。そのおかげで、めちゃくちゃ翻訳されているんだよね。エンディング後の翻訳クレジットが異様なまでに長い。

キャラクターの 3DCG も必要な限り洗練されたと見えた。特に確かめたわけじゃないけど、特に荒巻部長の違和感がシーズン 1 よりも小さい。

で、まあ自分なりに気になった点のメモだけ残しておく。

ダブルシンク

『1984』をここまで執拗に引用する必要があったのかと疑問だったが、なるほどダブルシンクをこういう形で生かすのかという驚きと落胆というか、メチャクチャすごい設定なんだけど肩透かし的ではあるというか、現代と近未来あるいは超未来が割と接近して見えた。

実現不可能そうに思えるけど、やってのける。やっていることは、ドラえもんで例えるなら「もしもボックス」を全世界の人間が、それぞれ自分の都合のよいように世界のありようを捉え電話口で伝え、それは仮想現実ではなくて現実世界で、かつそれが互いに破綻していない世界ということなんだろう。

ぶっちゃけどのレベルまで整合がとれて、どこかで誰かは思考誘導されているんだろうなとか、不都合がいずれは爆発するんじゃないのかとか、思うけれど、なんかそういうのは、とりあえず許されてしまう。

みんな N になっちゃう。

最後はどうなった

ミサイルが発射されたのは、発射されて都合のよい人間にとってだけ、という事実には間違いなさそう。そういう人たちの見ている世界がどんな風になって整合性つけられているのかは不明だけど。

で、基底現実(と『BLAME!』の用語を借りてみる)では、ミサイルは打たれていない。ということは前提的に、物理的に世界が大きくダメージを受けるような現実的な事象は周到に避けられるんだろうな? とか-やはり次々に疑問は浮かぶ。

草薙素子と江崎プリンは N 化できないので、N 世間で暮らすには相当に難しいように思うが、少なくとも江崎プリンには容易いことなんだろうか。

で、問題はシマムラタカシのプラグが抜かれたか否かだ。

どちらとでも取れる結末とはなっていたのだろうが、いくつか読んだ感想だと、江崎プリンが九課に帰ってこれたことを決定的な理由として、少佐はプラグを抜いていない、という説をとる方がやや多かった。いずれの解読も納得的な理由であった。

ところが、私はそうでもない気もしている。

少佐がロマンチストだから N化 しないというオシャレな理由は置いておくとしても、彼女がその選択権を持ったということの意味は、草薙素子がプラグを抜くということを示していたと読みたい。そしてそれを実行したろうと。

シマムラタカシがパーソナルな旧人類的な個人として、草薙素子に母への手紙への礼を言っていたが、このことは重要ではないのか。いま思いついたけれど、身近な人間の理不尽な死も、N化 は何かしら好都合な理由をつけて後腐れない感情として処理させるのか。

息子を失った母の喪失を、シマムラタカシはどうやって埋めるのか。

話がズレていった。

自分が考えたのは、プラグを抜いたからとていきなり世界中の人間の目が覚めて、恐慌状態に陥るみたいなことはなくて、基底現実と理想現実のギャップを徐々に受け入れていくんじゃないかってことだ。カプセルに入れたのと逆の処理を現実で行うことになるんでしょ、きっと。

だのでまぁ、少佐が去るエンディングというのは、そういうまだるっこしい辻褄合わせの冷却期間には付き合ってられんというアレじゃないのかね。

江崎プリンはどうなる

とはいったものの、また話は逸れるようだが、私も神山健治の攻殻機動隊はこれで終わってもいいように思う。もしもの現実というフォームをこんなにそれらしく扱ってみせて、その到達かあるいは限界なりをチラッとでも提示できてしまったら、もうやることがないのでは。現代におけるありうべき理想社会の可能性として。

ということで、また話を捻るようで厚かましくも、江崎プリンだが、荒巻部長の台詞のニュアンスや、ゴーストは失いつつも義体化したことで演算能力も身体能力も最強格となった彼女は、草薙素子の後継たりうるのかみたいな問題がある。バトーとの縁みたいな伏線のはり方も巧い。

ぶっちゃけもうゴーストも何も無いような気はするが-それこそ理想現実の世においては、草薙素子と江崎プリンの決定的な差はそこにあることになるんだろう。

一方、作中の世界の最後が N 解除後でも N 継続でもいいけど、いずれにせよ彼女らのどちらもが依然として社会のマイノリティであることには変わりがない。そこに基底現実がある/あった事実を知るもの同士としてはなおさら。

ただまぁ、少佐がこんな世の中には付き合っちゃおれんけん、といって姿をくらますのであれば、それはやはりゴーストの有無によって左右される選択肢なのかなという気はする。プリンちゃんは悪くないけど。

結局、見える見えないは何だったのか

ゴーストハックされたから目の前の人間が見えなくなるというのはわかるが、本作中ではそれ以上に、見える見えないが、比喩的に使われていたような気がする。

特に気になっているのは、シマムラタカシの元同級生が何故か東京にいるところで、トグサが彼女に導かれて逃走するシーンが異様な長さで描かれているが、あれはなんだったのか。

終いには彼女も、彼女を追いかけていた群衆たちもスーッと消えている。あれは N化 した人間たちだったのだろうか?だから姿を消せた(シマムラタカシの管理下にある)とすれば、理屈はわかる。

では、元同級生の彼女は、なぜトグサの 101 号室行きを阻止しようとしてくれたのか。これ、マジで個人的にはわかってなくて、シマムラタカシ の導きと解するのが穏当なんだろうけど、どうなっているんですかね。

あー、彼女もハーフ・ポストヒューマンみたいな存在だったと捉えると自然なのかな。運動能力を見れば、それは明らかと言えそうですね……。つまり、彼女は N化 した群衆たちからも不可視だったのかもしれない。なんであそこにいたんかね。

『1984』にヒロインがいたなと気づいてあらすじを Wikipedia で読み返したけど、なるほどね。101号室とヒロイン、主人公はそういう関係にあったんだっけな。

と、なると、どういうことだってばよ、というところまで考えようとしてシーズン 1 の「14歳革命」の情報を読み直してたら、同級生だった子も亡くなってるんだっけか。あの存在は、「14歳革命」のときのユズ(従妹)同様に、幻想的な存在だったということかしら。

そう考えると、ポストヒューマンというのは近しい人の死を「死者の人格を模倣するAI」ではないが、そういった存在(そう呼ぶとして)を許容することで克服しようという試みなのかもしれない。だとすれば、なんだ半ば死者は存在しないみたいな空間で生きられるのかな? 先ほどの母親の悲しみも解決するかもしれない。

そんな未来でいいですかね?

あるいはタチコマの課題は

タチコマたちのアイデンティティについて誤解があったらアレなんだけど、彼らは意志や情報共有はしつつも、それぞれの意思判断は個体別にできると考えていいんだよね?

少なくとも決戦に駆り出されていた 10 体以内ほどの彼らは、どこからが理想世界の描写かはしらんが、みんなシマムラタカシの構想に同意していたように描かれていた。これも演出の都合やらと言ってしまえばそれまでだが、異を唱える個体が居ないことにはやや違和感があった。スリリングではあったが。

そういえば、自分が N 解除を推す理由のひとつにはエンディングでの彼らの会話にもあって、「今回の件は僕らもまた勉強になったなぁ」とか言ってたけど、あれ解除してなかったら出てこない台詞なのではないのか。しらんけど。

少年に革命を背負わせるな

なんかこれに尽きる気がしてきた。

問題はシマムラタカシであったことなのではないのか、本作は。結局のところ「1A84」の意思を継いだポストヒューマンって、シマムラタカシとミズカネスズカくらいだったのでしょう、少なくとも作中では。

で、言うまでもなく最後の砦はシマムラタカシであったわけだけど、そもそも妹のように慕ってくれていた従妹も変な風に亡くすし、大切な存在であったろう同級生も大変な目に合ってるし、そんな彼になんでこんな重大な役目にさせたよ。

少年にいろんなことさせすぎなんだよな、日本の作品は。逆に言うと本作が問いかけることがあるとすれば、ここなんじゃないの。しらんけど。

前回の感想で「最終的には彼女(※草薙素子)は、ポストヒューマンたちの深淵みたいのを覗くのだろうか。」と書いたけど、なるほど彼らの深淵というか、理想的な世界の深淵という感じだったな。そういう意味ではたしかに彼女(と江崎プリン)が、少なくとも作中では設定された世界の臨界に直面したという結果になったか。

仮に続編を構想するとしたら、どういう掘り下げがあるか妄想するのは楽しそうではある。雑に言えば、宇宙とか。サイバーパンクと土地の問題とかやってほしい。

リンク

検索上位にきていて、参考にしたり、面白かった感想など。

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《チタン/TITAN》を観た。監督の前作《RAW〜少女のめざめ〜》も劇場で観たけど、なるほどね。前作のタイトルに冠された “RAW” が象徴した生々しさは、本作で更にパワーアップし、しかもそれが或る意味で反転されていた。

なんという倒錯か。この歪みっぷりは容易ではないというか、よくやった。拍手したい。

マーダーシーンも多いし、お産というか妊婦がむやみやたらと自分の身体を苛め抜く描写も多いので、グロテスクというか端的に奇怪な画面が多く、あんまりひとには薦められる作品ではない。全然、そういう作品ではない。

あらすじのような説明をする

ヒロイン:アレクシアは、幼少時から車が好きだったようで。父の運転中、喧嘩みたいなことになって事故にあう。自損事故だ。で、彼女は右耳の周囲にチタンを埋め込む。その生々しい傷跡は成人してからも残っている。そして彼女は、ダンサーとなった。

車が好きだった彼女は、ある晩、車と交わる。なんだか抽象的な映画だなと思うが、メタファーなんかじゃなくて実際にヤるのだ。どういうことなのか…。

で、なんかしらんけど殺人衝動も持ちあわせていた彼女は、いろいろと人もヤッてたが、最後は両親を燃やして地元から逃走し、長年に渡り行方不明の息子を探しているヒーロー:ヴァンサンの家に潜り込む。まぁ、ファンタジーな展開というか、話は単純だ。

ヴァンサンは、地域の消防隊の隊長らしい。フランスの消防システムってこういう感じなのか? という疑問はあるが、まあいい。周囲は彼女が隊長の息子であるはずがないことに気づきつつも、なんか受け入れる雰囲気が醸されつつあった。

が、いかんせん彼女は妊娠している。さて、どうなる?

父と娘、あるいは息子の関係とは

アレクシアはずっと父と仲良くなかったみたいで、燃やす晩の最期にチラッと邂逅する。ちなみに、これはクライマックスで対比されている。

父はアレクシアになるたけ触れようとしなかったという描写も端的ながら、これもヴァンサンとは真逆であることが強調される。スキンシップに溢れたヴァンサンのボディランゲージには、見覚えのあるような気さえする。

親のスキンシップが子の心理や成長に与える影響などはしらぬが、アレクシアは次第に絆されていく。やっぱり展開としてはベタなんだよね。

アレクシアは発声によって息子でないこと、女であることがバレるのを恐れているが、ある程度まで関係が進んだ時点で危険を忘れてまで「病気なの?」と尋ねる。あまりに自然だった。ヴァンサンも気に留めてもいない。家族があった。よい。

そんななか、いろいろと限界が近づく。そりゃお腹に子供が居るからな。

車と踊ることの意味とはなんだ

終盤にて、あるキッカケで消防車と踊ることになったアレクシアはついつい本気を出してしまう。

序盤と終盤のそれぞれの交わり、そもそもアレクシアは対物性愛というか性的倒錯というか、車に興奮してしまうらしいんだけど、これが何を象徴してるのか、これがサッパリわからない。最初に交わった車が妙なクラシックカーだったのもよくわからない。父性への渇望なんだろうか。

また消防車との交合を試みたシーンで、彼女が達することができなかったとすれば、それはもはや車への倒錯がなくなったと考えるのが自然だろうか。悩ましいな。

だが、だとすれば、それはなぜか。父との関係が、これは単純に家族愛でいいと思うが、成立したことに尽きるか。

だが、腹には子がある。

祝え、新たなる生命の誕生を

重大なネタバレというか、物語の中盤くらいから徐々に、そしてクライマックスでは決定的に物語の主軸が実はヴァンサンになっている。

圧倒的な交代劇だ。

これは覆しがたい事実で、ラストカットを見れば明らかであるし、なんならキャストのクレジットも見ればいいし、とにかくそうとしか言えない。

アレクシアの腹の子は、ヴァンサンのもとでしか生まれ得なかったと、結果論かもしれないが、そうとしか言えない。

この新しい生命は、本当に文字通り新しい生命であり、言うなれば「ゴシックSF」とでも言いたくなるような展開なのだが、そういうサブジャンルがあるのか知らぬ。

お産のシーンというのは、不可侵さがあるというか、それだけで神聖な気がしてくるというか、とにかく特別なのだが、今回はそれに輪をかけている。常軌を逸している。

「見捨てないで」と叫んだ息子(妊婦)の願いを、父は最期まで捨てることはないだろう。いやー、やっぱり圧倒的な倒錯だな。

補足的な話をする

ヴァンサンは、消防隊員の食堂調理場で「ここでは自分は神だ」と言った。これはもちろん言葉通りの意味でもあるし、喩えでもある。いずれにせよ彼は神として君臨している。

ということは、アレクシアは神の子であり、それが生む子もやはり神の系譜に連なることになる。

鑑賞時こそ、これは神とキリストの関係の寓話かなと感じたが、よく考えると、ギリシア神話的な要素のほうが大きいだろう。

父との交流によってこそ結果的に子を成しえたというのは、ゼウスもろもろによって喩えられるエピソードを連想させられるし、なによりも本作のタイトルが「TITAN」なのであった。

語源としては、いうまでもなくタイタンであって、ギリシア神話における神の係累を指している。このいわゆるタイタンという神らから作品をさらに掘り下げても面白かろうが、まぁいいか。

ただまぁ、アレなんですよね。ギリシア神話は大らか? なので神と人間以外との交わりエピソードも割と多い。そういうニュアンスは意図されているでしょう。

当然、描かれたことには奇妙さしかないのだが、人間の系譜とか時代の変化というのは、そういうことなのかもしれん。なんだこの話の展開は……。

もしまた思い返すことがあるとすれば、新しい時代の神話のひとつと思って、本作に向き合いたい。

父に、ありがとう、母に、さようなら。また、このオチか。

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《ハケンアニメ!》を観た。フォローしている人たちの絶賛が背中を押してくれた。最近、このパターンが多い。配信に来ても見なかったろうから、この流され方は正しい。そう信じるしかない。

いや、よかったんじゃないですかね。よかった。かなりいい。すごくいい。めちゃくちゃいい、の目前くらいまでよい映画だった。もっとみんな見てほしい。

原作は 2014 年の辻村深月による小説だ。原作では、映画の主人公として描かれた齋藤瞳(吉岡里穂)のほか、脇を固めた行城(柄本佑)プロデューサーやライバルとなった王子監督(中村倫也)のエピソードもそれぞれ独立していたらしい。

ところで、辻村深月といえば『ドラえもん のび太の月面探査記』(2019)の脚本であったが、なるほど、もともとアニメ制作に造詣があったんだなとなった。

監督の対比をみる

新作アニメ『サウンドバック』の監督に抜擢された斎藤瞳は、社会人経験ありの業界人という珍しい経歴のようだが、具体的にはアニメーターを経て監督になったということでいいんだろうか。作画してるっぽいシーンもあるけれど。

一方のライバル役に据えられた『リデルライト』の監督:王子千晴は、絶賛された前作からのカムバックという立て付けであった。って、数年くらいはギャップがありそうだけど、何をしてたんだろう。

同じ監督業ではあるものの、初監督に苦しむ彼女のもがくさまと、復帰作で全力全身のクリエイティビティを発揮できるか苦しむ彼の葛藤とが、そこそこ絶妙に対比されている。そこを意識させられることも、あまりないが。

「覇権を競う」というタイトルに適った、彼らのアニメ放映時における周囲が注視する展開は、つまりは主に視聴率なのだが、どちらの監督も最終的には、そんなことは気にしちゃいない、いられない、という点で、新人だろうが天才だろうが、同じ立場だ。

ところで作中で『サウンドバック』は「サバク」と省略されていたけど、これには違和感大でして「サンドバ」とかのがよくない? とずっと考えていた。

プロデューサーの対比をみる

「サバク」のプロデューサーである行城は、斎藤の面接にも同席していた様子からして、純正コースのプロデューサーなんですかね。少なくとも会社の体制寄りの立場が強いことには変わりないだろう。

「リデル」の有科さんは、制作進行上がりだそうなので、彼女は現場寄りなんだろう。なんなら予告映像の制作も指揮できちゃうのである。彼女が王子監督と体制との板挟みにあうのも、多分にフィクション然としてはいたが、なるほど面白かった。

作中作品の類似をみる

作中で制作、放映される 2 作品『サウンドバック』『リデルライト』もよくできていた。おもしろそうだった。布陣も豪華で笑ってしまった。

「リデル」が監督の訴えていた展開をそのままなぞらなかったのは何を表しているのか。ざっくり言って彼の創作も単独では無しえないことの結果なんだろう。いいと思います。面白いなと思うのは、監督が選んだこのクライマックスは、現実の現代に選択されがちなルートだと感じられた点だ。

「サバク」は逆にわかりづらい結末を選んだということであった。開かれたエンディングというやつだ。そこに至るには、冒頭での脚本家とのいざこざが解消されたのが個人的には 1 番好きな展開だったが、ようやく監督の覚悟が開かれ、そこに作家性の端緒のようなのが見えたというところか。

この作品ら、作中作品なだけあってか、形式がわかりやすくなっており、方や主人公が 1 話ごとに 1 歳ずつ年を取っていくとか(斬新でおもしろそう! あの映画が思いつくけど)、あるいは 1 話ごとに新ロボットになっていくとか、仕掛けがシンプルだ。それでいておもしろそうなのは流石だ。

その他のことなど

  • 序盤のエピソードで並澤さんが描かされたカバー表紙のイラストに藤島康介っぽいテイストを感じていたら、王子監督の台詞に「ベルダンディー」の名前が出てきて、こだわりを感じた。
  • 王子監督の台詞には「草薙素子」も登場したが、此方はアニメーションが現行でも新作発表されているのがまた面白い。
  • 以前、細田守監督の執筆環境が狭いワンルームの缶詰部屋であるとドキュメンタリーで見たことがあったので、王子監督の執筆環境が真逆なのはユニークだった。映画の見せ方としては正解だろうけれど、気が散りそうだよね。
  • ナレーターに朴璐美さんがクレジットされていたが、どこで喋られていたのかわからなかった。残念である。
  • この映画、若者向けだとしたらテレビではなく、SNS を中心に盛り上げなくちゃならんと思うのだが、プロモーションはどうなっているのか。上映前の予告のラインナップなんかも違和感があった。
  • 「サバク」が音を捧げるついでに、別のものまで捧げなきゃいけない設定になっていたのが気になっている。そこにあまりオリジナリティも感じないし、アレはなんなんだろうね。

リンク

パッと見ただけだけど、anan NEWS の媒体の記事が検索で目に入ったのでリンクだけしておく。やはりターゲットがよくわから、これは吉岡里帆のアレなのかな。そういうことでもなくない?

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朝日新聞からも毎日新聞からも岸田政権がアベノミクスをどうしようとするのか、できるのか、みたいな記事が出ていた。

参院選の対策を含めて、財政健全化推進本部とやらの会合でなんか揉めたってのが発端のようだが、詳しい話は報道を読んでな。雑な感想としては、安倍さんの影響力はまだまだ大きいのだなぁというツラ味である。

岸田政権の施策にどう繋がるかという話ではあるのだが、肝心の岸田さんのやることが-本人がどれだけ企図しているかしらんけど、あんまり実を結ぶようには思えない。

件のアベノミクスだけども当初は、金融緩和、積極財政、成長戦略のセットだという話だったが、世に出ている情報を読む限りでは、まともに継続されたのは金融緩和だけのようだ。

で、直近でいえば現下のコロナ禍の問題を除いても、資産家らや富裕層やらは富を増やしたようだが、日本全体はしょっぱいままであることは疑いようはなく、このような状況においてアベノミクスが成功したと、安倍さんは信じてるんですかね。マジで。そう主張せざるを得ないというのはわかるけど。

日本の財政とインターネットというと、白川さんが日銀総裁だった時代は、なんかしらんけど日本のインターネットでも経済、財政、金融緩和の是々非々の議論が盛り上がっていたけれど、安倍政権になって、総裁も黒田さんに変わったりして、そういった議論をぶつ人もいなくなっていった。

それが言論空間といえるものだったかは知らんけど、アレは何だったんだろうねと偶に思い出す。本当になんだったんですかね。みんな何所に消えたのか。

そういう私は、発表された当初の安倍さんの経済政策には賛成的だったが、「アベノミクス」という呼称がついたあたりでダメだなと思った。ダサいもん。

この呼称、いつからそう呼ばれるようになったのか以前ちょっと調べたのだが、これがよくわからなかった。のだが Wikipedia に割と詳しく載ってますな。ソースらしきものまで確認はしてないが、確度は高そうですね。

アベノミクスとは、2012年(平成24年)11月の衆議院解散(「近いうち解散」)前後から朝日新聞が使用したことをきっかけに多用され始めたともされるが、「アベノミクス」「三本の矢」という呼称自体は既に2006年(平成18年)時点で、第1次安倍内閣当時の自由民主党幹事長・中川秀直による造語である。

経済は甦るさ、いつかはどこかで。

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5 月の後半に《攻殻機動隊 SAC_2045》の第 2 シーズンの配信が開始された。総集編については感想を残している。後編もいずれは劇場に来るだろうが、これはとっとと結末まで楽しみたい作品だので、タイミングを窺っていた。

Netflix は割と日本上陸の初期から利用していて、見たいものが思い当たらなくなったら更新を中断して、というのを繰り返している。現在の規約だと 6 か月以内に戻れば、アカウントのデータは保持されるらしい。

いままでアカウントの作り直しになったことはないが、かつては 6 か月より長く契約を切断していた記憶があるので、ルールの変化があったんだろうかな。どっちでもいいけど。

で、なんとなく再加入のタイミングだが、利用している au 回線の契約プランのバリエーションにて Netflix と Amazon Prime が含まれるプランがある。それが半年間のキャンペーンで割り増し分が免除されるとのことだ。どんなもんだろうかと思って、乗ってしまった。

という経緯をもって、ひさびさに Netflix にサインインしてトップ画面を見たけども、相変わらずというか、配信事業におけるサジェストの難しさってなかなか解消されないんだろうなという扁平さである。

ゲームに至ってはメニューから消し去りたいぞな。

そういえば Netflix、直近では契約者が伸び悩み、本社の人員整理も実施されたというではないか。興味は薄れつつあったので見出し以上のことはしらぬが、残念なことですね。

さて、自分なりに楽しむか。

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6月に突入した。気がついたら 6 月だった。ゴールデンウィークが去ってからも久しい。前半戦の終盤ということは、前半戦の振り返りには適したタイミングでもある。やっていきましょう。

1月

そこそこ人間らしく生きていた。まぁなんだ、月の振り返りをちゃんとやってないし、方々に断片的な記録しか残ってないので何とも言えない。日記を読んでみると、当時関わっていたプロジェクトの忙しさが垣間見えるが、そのことにはあえて触れていないことがわかる。

2月

この月も悪くは無かったというイメージはある。人間的に活動していた。例年、日記を残す習慣が 1 年のうちの半分乃至は生きており、残りは失っているような状況だが、本年は 2 月から 5 月まで日記をほぼ書いていない。それとは裏腹に、生活リズムは安定していた。

3月

なんやかんやで前半戦では 1 番好調だったシーズンというイメージが残っている。生産性があった。生産性があったというとある意味では味気ないが、生活が整っていたからこその充実と言えるだろう。

4月

悪くは無かった。すべては順調のはずだったのではないか。月末に、哀しい別れがあった。率直にいえば、それを 5 月末まで引きずっていた。というか、まだ解消していない。関連する心労が増えた。

5月

年頭のブログ記事に記したように、人間関係に気を遣う 1 年にしようとしている。ところが 5 月は不意の予定が重なった。どれもこれも自分で選び取った結果ではあったが、負担になった。4 月の件が重しになってダメージが倍化された面もある。

悪いことばかりではないが、いや、好かったことも多かった。部分的に悪いこともあった。大方悪くなかった。だが、しんどい人間付き合いに時間を割く必要はない。最小限でいいんだった。気にせずにおこう。

という感じだった。前半戦の最終月、ちょっと立て直したい。とりあえず日記の習慣を戻していくか。

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パリ13区》を観た。モノクロで気取った映画なのかなという勝手なイメージを抱いていたが、まぁなんというか……。英題は “Paris, 13th District” だそうで、原題は “Les Olympiades” だそうだ。

原題についてだが、てっきり現地での地区名だと思ったが、13 区の地区名は “Les Gobelins ” (レ・ゴブラン)だそうで、そんなら「オリンピアード」とやらは何ねと思ったら、13 区南部の高層住宅団地を指すらしい。その中心商業地区は中華街だそうです。Wikipedia ありがとう。

フォローの人たちが幾人か見ていたので次第に興味が出たというワケで鑑賞した。ほかに目ぼしい作品も無いし。結果としては、そこまで気取っちゃいなかったが、ただただ人間の苦しさがあった。この作品にポジティブさは、どれくらいあったかなぁ。自信がない。

ところで、本作がモノクロだったのは単純に、肌が頻繁に露出されるからだろう。そのまんま、つまりフルカラーだと、おそらくかなり、どぎつい。ほんのワンシーンだけでも、それが示されていた。

さて、監督:ジャック・オーディアールの作品も初見だが、(嘘です、《ゴールデン・リバー/The Sisters Brothers》を見てた)、本作は原作がクレジットされており、エイドリアン・トミネという米国人のコミックスだという。彼のことも知らなかったが、日系 4 世の作家だそうで彼の 3 作品がベースになっているとのことだ。

その原作の舞台がパリかはわからないが-というか、そうではない気がするけど、どうなんだろう。そのへんの感覚は普遍的なんだろうか。そのへんの感覚ってのは、本作で描かれるような一般的な若者(いうてアラサー)の性的接触にまつわる感覚の話だ。

ということで、最中のシーンはやたらと多いが、そこまでエロティックでもなければ、ドロドロもしていない。生活の一部という感じがするのは、そういう前提であり、演出でありなんだろうけど、悪くなかった。こういうカジュアルさは自分にとってはそこまで身近ではないので、新鮮と言えばそうだね……。

さて、4 人の登場人物について、ザックリと私見を述べると、ノラとアンバーの過去はおそらくに相当えげつない。彼女らの抱えるものは、特にノラについては、カミーユには捉えきれなかったろう。まぁ、話の次第はそうなった……。

ノラとアンバーの紡ぐ愛のようなものが、セラピー的なもので終始するのか、そういう枠組みを取っ払って自律した愛として発展していくのかはしらんけど、少なくとも作中の段階では、こりゃこうとしかならんわね。ツラい……。

一方は、エミリーとカミーユである。断片的にしか明かされないノラとアンバーの過去に比べ、現実直近の苦悩が描かれている。近親者の死ということだけど。

カミーユが車椅子をどうのこうのして苦しむシーンは、本作でも屈指に好きでね。妹さんとの関係も、最終的には一種の清涼剤として機能しているのがユニークだった。

母の死に対して、父、妹、そしてカミーユがどう向き合わざるを得ないのか、それなりに丁寧に描かれている。父の動向を知ったときの居心地の悪さ、そして単にその事実は、カミーユにも、エミリーにも重ねられる。

有り体に言えば、喪失をどう埋めるか。そこには人間性の濃淡がある。

エミリーの人物像の掘り下げもおもしろかった。たとえば、ノラとカミーユの関係が、彼の経歴について理解が進んだことでちょっと打ち解けたと思ったら、ピアノを上手に弾いているエミリーのカットにすっと移って、画面に窘められた気分になる。

グッと来たね。幼少時からの家族写真がたくさん画面に並べられる。彼女、バレエを習ったり、ピアノを習ったり、いろいろなところで家族の記念撮影をしたり……。裕福あるいは大切に育てられたというニュアンスが伝わる。ついでに、冒頭の字幕が記憶通りなら、大学は政治学院だそうで、これフランスでもエリートコースでしょ。

それがついには、友人からパーソナリティ障害を通告され、妹はロンドンなりで双子を生んで、母もそちらへかかり切りで、遠く幸せな生活を過ごしている。

残された大好きな祖母は、認知症だ。打つ手がない。

まぁこうやって振り返るとね、言い方に棘があるかもだけど、ノラはノラで、エミリーとカミーユはそのまま、落ち着くところに落ち着いている。相応というと雑かもしれない。

登場人物、あるいは俳優たちの年齢構成

奇しくもノラ役のノエミ・メルランが画家マリアンヌを演じ、同作の監督のセリーヌ・シアマが今回は脚本にクレジットされた《燃ゆる女の肖像》でも役者の年齢が気になったが、今回もそうなった。

登場人物についてだが、設定上、おそらくみんな二十代後半から三十代前半だろう。ノラについてだけは明言されていて、32(33だっけ?)歳と言っていた。俳優の実年齢と同じなんだろう。

カミーユはどうか。ノラよりは若そうな雰囲気もあるが、ザックリ調べたフランスの教員制度を見ると、大学の卒業に 5 年を要するらしい。6 年教員をしたと言っていた記憶があるので、留年のたぐいが無いとして 29 歳とかか。だとすれば、イメージ通りだ。

ちなみに、彼を演じた MAKITA SAMBA は 1987 年生まれというから、制作当時は 33 歳 か 34 歳くらいかな。ノミエ・メルランとは、ほぼ同世代だ。

エミリーを演じたルーシー・チャンは 2000 年生まれということで制作時点で 21 歳前後か。キャストのなかでは最年少だろう。それであの存在感はすごいの一言だが。エミリー自体の設定年齢は 25 歳前後かなと予測するがどうだろうか。

ついでではないが、アンバー役のジェーニー・ベスは、ミュージシャンだそうで、1984 年生まれだそう。メインキャストのなかでは最年長かな。これも不思議ではないというか、イメージには一致する。

冒頭の蜜月関係は 1 週間の何日目だったか

まぁどうでもいいんだけど、プロット上、時間が遡って描写されるのは冒頭だけと思われた。

オープニング、パリ13区の高層マンションではいろんな生活があります。さて、こいつらは…、というところでエミリーとカミーユがごろにゃんしているのは、冒頭および作中で繰り広げられた会話の内容からして入居初期だ。

2 人の単純な関係は 1 週間で終わったという彼女の証言を真に受けるなら、入居後の 2、3 日中のことと予測するのが自然だろう。

だからなんだ、という話ではあるが、そういうときくらいの無責任な関係とその愉楽に、なんというか人間らしさを感じる。

ひとこと愚痴のようなことを零せば、これは現地の人たちでも「あぁー、こんな感じだよね」ってなるような作品なのかは気になるところである。もちろん、まるっきりそんなことはなかろうから、よいお話で終わるのであろう。

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《シン・ウルトラマン》を観てきた。ウルトラマンシリーズというのは通しで見たことが 1 度もないうえ、全体感もさっぱりわからない。たまたまコミックスを流し読みしたり、雑誌の特集で設定をかいつまんだりしたことはあった。

庵野秀明、樋口真嗣の座組でアレコレ言われるのはしょうがないだろうけど、彼ら、あるいは本シリーズ、もしくは特撮にそれぞれ思い入れなり深い造詣がない限りは、ヘタな詮索してもあんまり意味ないよな、という感想が多いことよ。

西島秀俊

田村君男役。いろんな映画祭で評価された《ドライブ・マイ・カー》の主演俳優ですね。これ、撮影はどうやら《シン・ウルトラマン》のほうが先行していたようで、公開が前後したようだ、多分。おもしろいね。

若手の俳優たちの演技はだいぶん厳しい感じの本作だったが、特に冒頭から前半あたりの SF 的なキーワードが頻発するシーンは西島さんの台詞回しでもちょっとキツさがあって、ついついニッコリしまった。

みなさん、徐々に馴染んでいくんですけどね。見る側の慣れも含めて。あと、みんなスーツもネクタイもお洒落だったですね。

長澤まさみ

浅見弘子役。主役だろうな。全体的には詰め込まれたエピソードが立て続きに発生するなかで、彼女の神永への態度、さらに具体的には彼がウルトラマンに変身する前後において度々にアップされる彼女の描写は、一貫していたので、作品全体の軸と言っても過言ではない。

で、ベタというか説明不要というか、彼女の神永への関心の変遷がそれぞれの表情で描かれている。まぁなんというか、わかりやすいんだけど、よく演じ分けられていて感心した。偉そうな言い方になってしまうけど。その仔細について明確なアレはないけど、それで十分だという話だ。

一部界隈で目にした彼女に関連したシーンについての文句だが、個人的にはまったくぴんと来ない。ちょっと調べても、具体的にどのシーンかも判然としない。人間の尊厳レベルで問題という訴えなら、まぁ。しかし、仮に人権へのハラスメントとでも言おうものなら、それこそ本作自体のテーマでもある。

竹野内豊

役名ないんですかね。仮に《シン・ゴジラ》とアレすると赤坂秀樹(内閣総理大臣補佐官)とでもなるのだろうか。ここで気になってくるのは《シン・仮面ライダー》であって、あの作品って国家の機関が登場するスケールで語られる文脈を差し込めるの? という点が気になる。

《シン・ゴジラ》に共通して出演している俳優として気づいたのは、高橋一生ですね。声の出演だけだけど。

山本耕史

メフィラス役。登場時一瞬、藤原竜也かと思った。まぁ、いい演技だったというか、キャラクター像にあっていたというか。居酒屋で神永としっぽり飲んでいるシーンは本作でも珠玉のシーンではないか。

最後は、揺れないウルトラマン(ゾフィー)が来訪したことであっさり身を引くのも現金でよい。

ザラブ

戦闘シーンはザラブ戦が好きだったね。空戦描写がいい。重力を操っているという雰囲気が感じられたし、ザラブの幾何学的なエネルギー波とウルトラマンの光線は、それだけならザラブのほうが高性能そうだよね。気円斬みたいなのに負けたけど。

被害者たち

破壊される家屋や建物なんかの描写はあえてオモチャ感を残しているんだろう。人的被害を連想させる描写は最小限以下だったと思う。これは、《シン・ゴジラ》と比べても間違いなかろう。

そもそも正義のヒーローの話なので、そういった側面をヘタに強調するわけにもいかないんだろうね。《シン・ゴジラ》と比べて残念だったといえば、さらに無能感が強かった政府が無慈悲にも総辞職させられるということもなくて寂しい。

ゼットン

株式会社カラーがクレジットされる意味、ここにありといった感で、どこからどうみても使徒だ。こればっかりはエヴァンゲリオンだ。

逆に、使徒のデザインの根本的なイメージがウルトラマンシリーズの外星人たちに拠っているということもよくわかった。

外星人やらその兵器、あるいは怪獣(変な当て字は使わない)がどれもウルトラマンと同じサイズである保証もないということも端的に表されていたと思う。

特撮とはなんだ

批判的な意見の例に「予算がない」「しょぼい」みたいなのがあったんだけど、そうじゃないんじゃないのと。これが特撮の現代的な映像なんじゃないのと。

なんというか今回の鑑賞で一番おもしろかったのってここで、新しい映画なんだけど古臭い。CG が多用されているんだろうけど、特段それ自体の効果が豪華でカッコいいというワケでもない。

これが日本映画だ、というか。こういう作品をそつなく評価して取り込んで昇華していかないともったいないというか。マンガやアニメ原作の実写化作品でもいいけどさ、日本的でキチンとした派手な映画、もっと見たいですね。

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どこかでひさびさに日記ブログなりの方々とした話題が盛り上がっていたらしい。当該の記事に目を通したが、別になんということも無く。

どちらかというと、以下の記事が直近では心に残っている。といって 1 月の記事だ。もうそんなに経ったか。はてな内でも注目しているひとが少ないのが残念だ。

ずっと昔から thinkeroid さんの記事は読み続けているが、今年になってブログ活動を意識的に、少し活発にしたとのこと、その理由が綴られている。

想いや考えを堆積させていく、あるいは風化していくのが人間だろうけれども、節々でなにかしら振り返ることは、どんなに根無し草な人生を暮らしていてもあろう。あるいは日々に几帳面に生きているひとこそ。

ゴールデンウイークに差し掛かるあたりで、身内にアクシデントがあり、なんだか気持ちの整理も進まないままに、いろいろな予定をこなしてきたが、奥底では哀しみが渦巻いている。

しばらく映画館にも行っていないし、勉強というか、読書というか、そういった活動も停滞気味だ。アクシデントを除いても、どうにもプライベートの進捗が芳しくない。そういうタイミングだと言えば、それまでだろうか。

気持ちと生活のリズムに折り返しをつけたい。

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