およそ人間にとって、とるべきインプットおよびアウトプットの量とバランスは、生活や仕事における内外の事情にあわせて変動するだろう。

ところで、メモという行為は「最小限のインプットに対する最小限のアウトプットである」という、言ってみれば極当前のように思える事実にあらためて気がついた。

2022 の年明けからひさしぶりに測量野帳を取り出して、読んだことなどの小さなまとめをメモとして残すようにしているが、これだけでもだいぶん頭の巡り方に影響がある。そもそも意識せずには手書きが生活から決定的に減る。

いまさら手書きかデジタルかという二元論的な話はしないが、手書きはなんらかの方法、目的で生活に取り込んだ方がいいと自覚した。というか、毎回のこと自覚し続けている。

とはいえ、このような自覚すら維持することが難しい部類の人間もいる。私だ。最小限でいい。それでも続かない。どうしたらいいだろうか。

何かを書き出す、書き写すようのリストを作って、日に 1 回はそれに従事するというのを企画してみた。しばらく続くか試してみる。

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2022 年だ。明けましておめでとうございます。年末年始も終わり、日常に戻ってきた。年始には新しいスケジュール帳を購入し、ざっとした抱負などを書き綴った。大まかに言うと、学ぶことと健康を維持することの道筋を立てるに尽きる。

年を経るほどに、これらを意識せざるを得ないという状況には苦笑いしてしまう。基本的に人生などは、やりたいことができればいいわけで要はバランスだろうが、人生の設計というとき、ゴールをどこに置くかは、誰かが死ぬまでは永遠の問題だ。

ところで、主には女性向けのコンテンツではあるが、以下の 2 つの占いを直近の数年ほどは、なんとなく読んで参考にしている。後者は恋愛占いだが、別に恋愛に限らず、いずれにせよ、なんとなく良さげなアドバイスが書いてある。というか、読ませる魅力的な文章を書ける占い師の方たちは凄い。編集の手がどれくらい入っているかは別にしても。

というわけで珍しく本ブログのメタ的な内容を記事として残すことにするが、2022 年は映画の感想もそうだが、読書や展覧会などの記録も、もう少しちゃんとしたボリュームとして残したい。日記の類も、他人の目に晒して埃ばかりでも意味がありそうなら増やしたくはある。

2021 年の最後のほうに書いた課題だが、宣言したからには少しばかり回答編みたいなのを自分のために残しておく。

大きな前提となるけど、人付き合いの数や多様性、深浅などは各人の目的やキャパシティに依る。原則的に、それぞれの人間の其れに、他人があれこれと口出しするようなことはない。

あるいは「合う / 合わない」はどうだろうか。概ね上記と同じように、夫々による前提ではあるが、幼い頃から成長するにつれて、濃淡のハッキリした好き嫌いから、多少は色調の幅が広がるものだろう。だが、これも究極的にパーソナルな次元で、利害を抜きにすれば「合う/合わない」に収束しませんか。

たくさんの人に会わねば、それぞれに価値観に触れることはできないが、むやみに数を増やして、消耗することも愚かしい。というところで結論としては、ここ数年は数を増やす方向にシフトしていたが、そろそろ風向きを変えてもいい。そのように頃合いと判断した。

ところで、というのは、いわゆるリアルでの話であって、インターネット空間ではもう少し他人と関わりたいなという意識がある。旧世代の人間であることだなぁ。

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『さよなら私のクラマー』全 14 巻を読んだ。春に映画《さよなら私のクラマー ファーストタッチ》を観た関連で原作を追った結果となる。

新川直司のマンガのおもしろさ

のっけから作者の話をする。新川直司は『四月は君の嘘』の単行本から知った。ところで、この作品は「少年マンガで少女マンガをやる」という目論見があったらしい(最下のリンクの記事より)。そこに違和感はない。

新川直司の作品の特長は、独特の勢いの奔流とその魅力ではないか。下手したらハイライト様の調子になりかねない、ババーッと展開を推し進める方法が随所で使われるが、これが爽快だ。

逆に、この方法の弱点といえば、単行本などのまとまった分量でないと、その波に乗りづらい。

月刊少年マガジンで『さよなら私のクラマー』をパラパラ捲っていたときは、全体で何が起きているのか、よく分からないことが多かった。だが、通しで単行本を読んだらべらぼうに面白い。そういう体験の基づいて話している。

さよなら私のクラマー

作者はもともとサッカー好きで、本作には実在のサッカー選手とその活躍をオマージュしたシーンや台詞回しが多く登場する。本作は女子の高校サッカーが舞台だが、テーマとしては女子サッカーの文化的な側面も無視できない。

現実、2011 年に日本女子サッカー代表が 2011 FIFA 女子ワールドカップで優勝を果たした。本作の連載はそれから 5 年ほどのちだが、それからどれだけ日本女子サッカー界が正当に評価されたか、後裔は育っているか。どうなのか?

ぶっちゃけ私はわからないが、本作の登場人物たちは、この問題意識に立ち向かっている。悪く言えば、作品全体がこの問題に取りつかれている面がある。作者の主張といえばそうなる。

たとえば、主人公ら蕨青南高校にコーチとしてきた元代表の能見奈緒子は、この問題意識を象徴する筆頭キャラクターで校内校外を問わず、選手たちから篤い憧れと信頼を得つつ「あの優勝が」という前提がさまざまな選手にモチベーションを与えている。

サッカー小僧 世に出ずる

主人公:恩田らの蕨青南高校女子サッカー部、特にその 1 年生チームは、相対的には、上記の問題意識とは縁遠いキャラクター達だ。つまるところ、ただのサッカー好きだ-ただし、個々の実力がそれまで発揮されてこなかった恩田、そして周防が主軸にいる。

ここに設定の妙があって、作品は大上段な問題意識を隠しもせずに度々開陳しつつ、主人公たち、彼女らに感化された対戦相手は根本的にサッカーが好きで楽しんでいるから、せん手たちはひたむきに勝ちを目指していく。説明してしまえばごく当たり前だが、そうやって青春スポーツ漫画なりの熱量や勢いを演出してくる。割り切り方と見せ方のバランスは巧い。

好きなエピソードやシーンはどこか

試合のシーンは、恩田の異様さが目立つシーンがやはり印象深い。最初の練習試合でのマルセイユルーレット、雨天の試合でのリフティングドリブル、シューズが脱げてもボールへ向かう気迫など、キリがない。どれも好きだけど、最後の試合で曽志崎の退場後、不意に入れたゴールがかっこよすぎるでな。

周防だが、なんだかんだで活躍は限定的だが、彼女については「わたしは今、フットボールをしている」と試合中にモノローグが入るシーンがどうしても記憶に残る。新川直司の作品は、同じ台詞やテーマの主張を同じ形で繰り返すことにあまり躊躇いがなく、このモノローグもバタ臭くはあるけれど、それだけ印象が強い。周防の活躍はもっと見たかったが、本人が楽しそうなので、ヨシ。

なんかほかに言いたいこと

他の登場人物たちにもいいシーンはたくさんあるんだけど、私が主人公とみている 2 名を挙げたらとりあえずいいかなとなった。

逆に、あらためて思い返すと登場人物はやたらと多いが、それぞれ個性的なキャラクターになっているのはスゴイ。というか、キャラクターの描き分けがスゴイとも言えるのかもしれない。

ひとつ気になるは、挟まれるギャグパートの小ネタが罵倒語の掛け合いに終始することが多い点だ。やや稚拙さを感じる。男子キャラも女子キャラも同じノリでやっているのはフラットといえばそうなのだろうけど、ちょっと後味が悪い。

この作品、2021 年 1 月号まで掲載されたとのことだが、つまるところ 2020 年の最後の発売号で完結ということかな。あえて 2021 の枠に入れるけど、今年完結した作品のなかでは特別なおもしろさがあった。

どれかの記事では「この完結はほぼ想定通り」とあった気がしたがどうなのだろうか。何かといえば、タイトルをどのように読めばいいのか十分に理解できた気がしない。

新川直司も今は連載がないようだが、新しい作品が楽しみである。

以下は参考に読んだ記事など。

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《ラストナイト・イン・ソーホー/Last Night in Soho》を観た。

Twitter のタイムラインでやたらと褒められていた。個人的にはそこそこ、くらいの面白さだった。ホラー作品という面で直近で鑑賞した《マリグナント_狂暴な悪夢》と比べると、性質の差こそあれギリギリで「マリグナント」のほうがよかったかなぁ。

ざっくりしたあらすじ

ファッションデザイナーを目指す少女:エリーは、都会の服飾学校に合格し、単身ロンドンへ赴く。彼女はコーンウォール地方に祖母と暮らしていた。その影響もあって 1960 年代のポップスを好んで聴く。都会への憧れもある。

引っ越し先のアパートの一室で彼女は、60 年代に存在した同世代の女の子:サンディーの思念に憑依する、みたいなことになる。なんとエリーには見えないものを見る能力があったのだ。

憧れの 60 年代のロンドンの光と闇、それらがほぼ一瞬でエリーを襲う。そんななかでサンディーが巻き込まれる不幸に、エリーはどう立ち向かうのか。

成功を夢見る 2 人

サンディーは歌姫に憧れて、エリーはファッションデザイナーに憧れて、それぞれロンドンに出てきた。舞台の表方、裏方の差こそあれ、それぞれに野望を抱いている。

それぞれの希望が早々に打ち砕かれていくのだが、そのへんの処理のしかたは現代映画だなという感じで、全体の展開に比して深刻には描写されない。というか、見せ方がスタイリッシュだったね。

サンディーが楽屋を逃げ回るシーンで周囲に描写されたグロテスクな世界は、ディズニーの「カリブの海賊」のような見世物感があったーまさに見世物とも言えるのだが。

この辺の扱いについて、救いといえば、それぞれの少女のポテンシャルはたしかにあったことが描写された点だろうか。救いとも言えないけれど。

エリーを襲う男たちの執念

個人的にはこれが不満だった。エリーの普段の生活にサンディー経由で生み出された男たちの亡霊が付きまといはじめる。ついには彼女は、ロンドンの繁華街を駆け回って逃げる羽目になるうえに、警察署に逃げ込む。えぇー。

男たちの亡霊がどうやって生み出されたのか、あるいは半ばエリーの妄想の産物であったかは定かではないが、間を持たせる以上の機能があったとは思えなかった。これらの一連の描写自体が特別に恐ろしいわけでもない。

むしろ話の流れの上で彼らは憎悪の対象だろうので、そういう意味では的確だったのかもしれないが、であれば結末が導くそれぞれの想念は完全に狂気だよね。まぁ、それでいいのか?

そのアパートはどうなっているの?

さすがにバレるやろ。「身元もおぼつかないやつらが」云々といかにもな説明台詞があったが、さすがにバレるやろ。ちょっとしたリアリティがなぁ、という点が個人的には引っかかった。

ざっくりしたまとめ

いうて主演 2 名は美しくて、眺めているだけで楽しい。それはよかった。ここでは不満げな感想が厚めになったが、映画としては普通に楽しめたのも確かであった。

イギリス映画、ロンドンが舞台ということで個人的にはヒッチコックをイメージせざるを得なかったが、包丁(ナイフ?)が舞うシーンは《サイコ》を意識しているだろうし、階段で繰り広げられるサスペンスについても諸々を連想せざるを得ない。

ただなんというか上手くカモフラージュされていると言っていいか微妙だが、吟味すると後味は苦いだけの作品なので、そういう意味ではホラー映画な面が強いのかな。あえて問題提起的な側面は誤魔化されているといってもいいかも。

ところで、説明するまでもないが「ソーホー」街とは、かつては性産業も盛んな歓楽街で、いまでは時代なりにはなっているらしいが、ロンドンの光と闇が同居する地域だそうだ。

ついては、エリーの地元のコーンウォールはド田舎。友人:ジャックは南ロンドン出身ということで、こちらは昔は労働者階級の住まういわゆる危険地帯だったそうだが、現在は観光地化が進んだりで割と安全になりつつある、ということらしい。ザっとネットで見た。

この友人のジャックは車持ちだし、ボンボンなんだろうけど、作中で登場する土地柄や人間性の背景がわかると味わいも増すよね。現代のロンドンの街並みが登場する作品、映画ではないが《SHERLOCK》くらいしか個人的にはアテがないが、ごっちゃりした中に楽しげな風景ではある。

年内の映画はこれで終わりになりそう。

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このテーマで考えごとをしてアレコレ筋を練っていたが、時間がかかりそうだし、まとまらないので CMS の編集画面にベタ打ちしている。「この 2 年」というのは明らかにコロナ禍を指すのだが、こういった事態ってベタな表現ではあるけれど歴史の教科書に載るレベルの事件じゃないですか。現在進行形ですけど。

幸か不幸か、狙い通りか否か、2021 年 12 月現在の日本は概ね平和のような状況になっている。これも猶予期間に過ぎないような気はするが、とにかく誰もがそれなりに落ち着けるタイミングであろう。もちろん、現下で対策を講じざるをえない立場の人らもたくさんいるだろう。

で、ここでは「生活」の一言にまとめてしまうが、以前と変わらない生活を過ごしているという方がいるとすれば、それは幸運だろうか。そういうことにする。一方、少なからずの人らは生活に大小の変化を求められた。あるいは自ら変化を為したろう。

それぞれの人の余裕の差や、立場の差こそ考慮すべきだろうが、頭を使って乗り切った人、何となく乗り切れた人、これらは結果論的には強い。乗り切るのに苦労した人、いまだに苦労している人は大変だ。これをどのように見ていくかも社会の課題っちゃそうだろう。

自分としてはギリギリ何となく乗り切りつつある側の人間ではあるつもりだが、果たして本当にそうか? というのが本文で述べたいところだ。もう少し具体的かつ大雑把に言うと「他人との関わり方を自分がどう求めているのか?」という視点が、不気味の露出した期間だったように考えていて、そこに何かしらの問題意識がある。

そして、このタイミングでこれを言語化しておかないと、それを忘れそうだなという気配もある。一見すると、極々パーソナルな視点であり、内的な問題ではあるのだが、今後の自分の生活や周囲との関係におけるグランドデザインにも直結しそうなので、立ち向かいたい。

年末年始の課題にでもしようかな。

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以前から KeyChron の K4 を自宅のマシンでは使っている。日本語を中心に入力するときは、既定の Alt – ` キーでの IME 切り替えでも不自由さはそこまででもないが、英文字を中心に入力中、少しばかり日本語を入力したいというタイミングが起きるときは、このキー設定のままではツラい。

最新の Windows だと、日本語キーボードの場合は CapsLock キー単体で IME の切り替えが可能だが、US キーボードの場合は CapsLock – Shift が必要になるらしい。指の位置は近いが、 Alt – ` と大差ない。ていうか、CapsLock 単体で何とかできるようにならんのか?

結論から言って、最新版の PowerToys でよかった。

似たような情報はかなり以前から探しており、私は Ver.0.29 くらいの PowerToys での設定変更を試みていたのだが、そのバージョンだと単独キーからショートカットへのキーのリマップには対応していなかった。

しばらくバージョンアップを忘れて、というか無視して他の方法を探し回った。常駐型のフリーアプリでもレジストリの書き換えアプリでも、なんなら直接書き換えてもよかったのだが、どうにもうまくいかず、諦めていた。ハッキリ言って、こんな思いをしてまで US キーボードを使う理由なんてないよなとすら思う。

というタイミングで、Twitter で久しぶりに関連ワードで調べてみたら、最新の PowerToys でこのキーマップ変更が可能になっているらしいじゃないの。

上記リンク先の記事の通りだ。

もう少し言うと、Windows 10 の最近のバージョン更新で、IME の設定 UI が非常にシンプルになって可能な設定範囲が著しく小さくなった。旧バージョンの IME であれば、別の方法でキーを変更する方法もあったようだ。現行では、設定アプリからボタンひとつで旧バージョンに戻せるが、それはそれでどうなのという感じ、なのでこの方法も見送った次第だ。

ありがとう。CapsLock、いいキーです。

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NETFLIX で配信の『攻殻機動隊_2045_持続可能戦争』が総集編劇場版となっていた。それを観た。総集編としての編集、劇場版としてのパッケージ向けには監督として藤井道人がオファーされたらしい。

藤井道人については何かを受賞した《新聞記者》(2019)は映像としてはそこそこ面白かったが、ともかく内容がてんでなぁ、という印象で、《ヤクザと家族》(2021)は未見だが、こちらも自分の見聞する範囲では賛否両論をみた。ところで、個人的には《宇宙で一番あかるい屋根》(2020)は好きなんすよね。

なぜ彼が監督してオファーされたかは、以下の記事で説明されている。

以下の記事は、監督へのインタビューだ。

ざっくりとした全体感

物語の大筋は、電脳化した人間の一部が異常な発熱を経てポストヒューマンに、ざっくり言うと過去シリーズの難敵をさらに超えた超人類が出現し、社会に謀反を引き起こす、という立て付けだ。

前シリーズ(どれだっけ?)で国内の公的な仕事から去った 9 課の主要メンバーは、米国で傭兵稼業に勤しんでいた。そして同国でポストヒューマンの鹵獲作戦に巻き込まれ、巡り巡っては日本国内で同じ任務に継続して就くことになるという経緯だ。

基本的には、全 12 話を 2 時間にまとめた内容なので、話の展開が濃厚というか、なかな忙しい。じんわりと長く感じる。監督へのインタビューで語られているが、米国での事件、日本でのポストヒューマンへの対処が 2 時間の半々になっている。

前半は傭兵部隊のバッチバチの戦闘メイン、後半はポストヒューマンとの追いかけっこ、またはそれぞれのポストヒューマンの背景事情のような物語への重みづけが描かれる。駆け足感の一言で済むが、前半と後半でストーリーのテンションが違うのが、良くも悪くも本作の味になっている。

少佐とトグサのバランス

過去シリーズでの、そしてそれらと本作との関係性にあまり自信はないが、元メンバー警察出身のトグサは、彼なりの役割を期待され、それに応えて貢献しつつも、構造としては唯一の家庭持ち、一般人寄りの視点を担わされている。

本作でもそれはバリバリ機能していて、ポストヒューマンになってしまった少年とその家族への共感、そして彼ら側へのアプローチは物理的にはトグサに配役されている。

これ、過去シリーズの例を見渡すと、微妙にズレが起きている気はしている。というのも、従来は敵側に立場も近く、彼らの本質めいた部分にもっとも接近したのは、基本的には草薙素子だった。今回も原理上はそうであってもおかしくないし、今後の展開ではそのような事態にもなろうが、現時点ではポストヒューマンと草薙素子の性質はほぼ相容れない。おもしろいよなぁ。

電脳戦ですらポストヒューマンに、ほぼ侵略されかけた描写すらあった草薙素子だが、これいつものようなオチになるのなら最終的には彼女は、ポストヒューマンたちの深淵みたいのを覗くのだろうか。

話を戻すが、草薙が敵対する組織や人物に対して最終的にはメタ的な同化を試みる一方で、トグサは常にベタに歩み寄ろうとする。この構図が大枠として守られる限りは、シリーズが崩れることもなかろうさ、とは感じるが、大きなどんでん返しもあるかもしれない?

フル 3DCG の攻殻機動隊

攻殻機動隊で フル 3DCG のアニメーションは初めてなんでしたっけ?

まぁ違和感は大きい。特に序盤、特に人物の描画と動きはそんなによくないように映るのは否めない。さらに荒巻部長はモデルがどうなのという感じで、これは最初から最後まで違和感の塊である。

しかし、おもしろいのは、タチコマやドローン、パワードスーツ、アンドロイドなどの未来的または現代でも先端的なマシンの動きは違和感が小さい。あるいは脳が違和感と受け取れないのかな?

一方、バギーやスポーツカーのようなオブジェクトを仮に中間とすると、これらも割と違和感がある。面白いな。歴代の PlayStation を持ち出して比較するひとも多く、その気持ちも分からないでもない。

個人的には、物語の進行に伴って製作側の進歩、視聴の慣れも加わって、それほど気にならなくなっていった。劇場版用の追加シーンもあったろう。クライマックスのシーンも追加だと思うが、妙に美しかったねぇ。

妙に美しかったといえば、作中での展開としても、3DCG を駆使した映像としても、少年の母親が泣き崩れるシーンがもっとも好きだね。

ついでに述べておくと草薙素子だけは別格に、手を掛けられていることも明白で笑ってまう。それはそれで当然なのだが。

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今回のテーマや作風がどうなの? みたいな声も目にするけれど、各々のポストヒューマンにも個性があり、ついては少年の目指すところがどのように描かれるかは気になるところで、タイトルの「持続可能戦争」にどのような意味付けがされるのか、続編では期待したい。

この文章を大方まで書き上げたところで、以下のレビューを読んだが、まぁ大体みんな同じ感想にはなるよね。

上のレビューでは、最後にもっともな問題提起がなされているように思う。しかして、諸々が話題にするところの「リアリティ」の切り取り方って、難しいテーマであることよな。

雑に終わり。

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《マリグナント 狂暴な悪夢》を観た。予告でおもしろそうなホラーだなと思っていたが、評価が高かったのも後押しした。映画館で観てよかったなというバランスで、おおむね満足だ。自宅などのディスプレイで見ると、この作品の嘘っぽさが悪い方に浮きそうだので、このへんのメディアによる差というのは面白い。

本作はホラーなのかな、サスペンスなのかな。R 指定されているのは、グロ表現によるものだろうけど、眼をそむけたくなるほどの残虐さと言うほどでもなかった。もちろん、苦手なひと、慣れないひとにはツラかろうくらいではあるわけだ。

ホラー作品の経験値が少ないのだが、古い作品などからジャンル的に培われたギミックや作法、技術をキッチリと上手く的確に生かしている雰囲気があり、それでいて古さを感じさせない作風となっていたのが面白い。

ユニークだなと気づいたのは、特に前半でシーンの大きく切り替わるタイミングでの劇伴で、笑いを狙っているかというくらいの B 級感を演出した音だったのが大爆笑であった。これは後半のサスペンス味とのギャップを試みているんだと思うが、実際にそうなったワケだ。

ていねいに開陳されていった伏線を冷静に整理すると、おのずと答えは見えてくるという設定も魅力的で、やっぱりこうなるか、だよねー、という気分で謎解き風味の心地よさも楽しめた。

最序盤の一部の演出はむりくり説明できなくもなさそうだが、大筋としてはブラフだったのか? という疑問は否めないが、そのほかの設定や演出も、やっぱりおバカホラー映画の枠組みでしか説明しきれないところもあるので、そういうもんと楽しむのが正しかろうな。

そうか。ジェームズ・ワン監督の作品ははじめてだった。

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《サマーゴースト》を観た。監督、原案の loundraw のイラストなどの作品は見たことがあるような、ないような、というくらいだが、彼の原案を乙一が脚本化し、それを映画とした経緯になっているのかな。

物語の背景とその説明は最小限のようにみえるが、特にこれ以上説明することもないという設定でもあったかな。

最小限の構成と繊細なアニメーションで、全体的にフワッとしたお話を、しかし丁寧に楽しませてくれたという感触だが、同時に、これをどのように楽しんだと言えばいいのか、やや困っている。能書きはいらない、といえばそうなのかもしれないけれど。

物語の舞台はどこか

廃空港の滑走路が広がる平たい大地が、あるいは彼らが眺める光景が、どういう土地なのかということをずっと考えていた。

Wikipedia によると loundraw は福井県の出身で大学は九州大学だそうだ。乙一も九州は福岡出身だ。だとすると舞台のイメージは九州かなとも思うが、それにしては地平線の向こうまで山が見えないことがあるか? 後半の時間経過をハイライトで描いたシーンでは積雪していたが、九州ってこんなに積雪するのか? などなどの疑問がボンヤリとした混乱を生んだ。

あるいは作中で登場する美術館のモデルは兵庫県立美術館だそうだが、舞台が兵庫県ってこともなさそうだよなぁ、とも感じている。正解のようなものが見つかったら、追記するかも知れない。

20220831:追記

ロケーションについてだが、以前に Twitter を眺めていたら兵庫県でほぼ確定らしい。作中に登場する空港となったモデルとなった空港が神戸あたりから 2 時間圏内くらいにあるという話だった。途中で見渡される水平線も神戸湾なんだろう。雪も積もるというものだ。

死に触れようとするとは

ゴースト:絢音に会えるのは「死に触れようとしているひと」だけらしい。初対面ながら夏休みの気晴らしか、気分転換か、あるいはそれ以外、それぞれ思うところのある 3 名、友也、あおい、涼はそれぞれが彼女に対面できたので、彼らそれぞれが条件を満たしたことになる。

ゴーストに会える条件がファジーにも思えるが、もちろん 3 人ともそれぞれ理由があった。それぞれの「死に触れようとする」という心情や状況、その重みには客観的にこそ違いはあるが、それぞれの気持ちや意識に偽りはない。

この設定で気になっているのは、最後のアレで、どうして 3 人が出会えたのか。この状況にどのような思いが込められているのか、よくわかっていない。

大地の触感はどんなもんか

死んだ人間は空に帰るのか、土に還るのか、単純に悩ましい。本作の想像力は絶妙に両方のいいとこ-悪いとこ-取りをしている気がする。

ところで土に潜るイマジネーションと言えば、忍術でいえば「土遁の術」、ドラえもんでいえば「どんぶら粉」、キテレツ大百科でいえば「潜地球」だろうか。他に何かあったら教えてほしい。

本作では、話の都合もあるけれど、ゴーストが大地に触れる。大地に溶け込む。

これを利用した象徴的なシーンは、決定的なほぼひとつ、あのシーンだったろう。この大地とゴーストとの関係があったからこそ、友也の最後の蛮行も、諸々のギャップを演出するために為されたと理解でき、納得につながった。

この土の硬さ、あるいは柔らかさは覚えておきたい、かもしれない。

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本年 9 月に 午前 10 時の映画祭 で鑑賞した記録が残っていたが、ここには何も記していなかったようなので、書いておく。《真昼の決闘》を観た。

1952 年の作品ということで、ヒッチコック映画でいえば《見知らぬ乗客》《私は告白する》と重なる時期か。主演のゲーリー・クーパーはほぼ初見な気はするが、ヒロインのグレース・ケリーは、ヒッチコック作品で何度かにしたので、流石に覚えていた。

作品背景としては、冷戦時代の赤狩りとその影響がハリウッドでの製作体制やコンテンツの内容にまで深く入り込んでいたようで、メタにもベタにも影響が大きく見られるとのことだ。が、その影響を特に内容に対していかに見出すべきかは難しかろう。

あらすじ

ケイン保安官はエイミと結婚し、町の保安官を辞して旅立とうとしていた。一方、ケインが以前に逮捕して刑務所送りにしたならず者フランク・ミラーとその仲間たちが復讐を誓って町に接近していた。

辞職済みとはいえケインは町を守ろうと奔走する。平和ボケした市民、またはフランク時代のほうが景気がよかったと嘯く経営者らは積極的に協力しようとしない。ケインとミラー達、それを見守るエイミたちの行く末は如何に。

ケインの覚悟をどうみるか

ケインの正義感あるいは使命感-あるいはそれ以外か?-、を見ていると単純に受容しづらいモーメントが生まれる。もはや職務ではなく、新婚ほやほやのパートナーも隣にいるはずで、市民も対処に乗り気ではない。何が彼を突き動かすのか。

クライマックスでの決着後、事態をこっそり隠れながら見守っていた市民たちは彼の周りに駆け寄って賛辞を贈る。だが、ケインは保安バッジを地に叩きつけ、町を去るワケだが、その様子は怒り気味だ。

「なにをいまさら」という気分だろう。そりゃそうなんだけど、なかなか難しい。

彼に協力したいと声をかけた正保安官希望の若造には理由をつけて頼るそぶりも見せず、同時に引退した老いぼれには頼ろうとしたり、もちろんそれには理由はあるのはわかるが、切羽詰まった状況に対して、ポリシーを貫くにも加減はあるだろうなどと見てしまう。

最終的には、むしろ、人事交代のスムーズに立ち行かない結果の現状が対処のままならない原因であり、その歯がゆさがリアリティに富んでいて心臓に悪い。

あくまでケインの正義、善意-あるいはそれ以外か?-が町の平和を守ったという事実だけが残る。

決闘シーンもよかったが、オープニングでフランクの仲間が彼の帰還を迎えるために待ち合わせしているシーンがとても素敵だった。西部劇、あまり見ないのだが、敵役たちが時間を潰したり、たむろしていたりするシーンがキマッていることが多いな。

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