市川春子はどういう作家だろうか

『宝石の国』連載再開に寄せて。

愚問というか、作家のファンとしてはどうでもいいことというか、そういうことではあるんだが、『宝石の国』の既刊を読んでいて気になったので、書いておく。書いてみたら別に、作家性みたいな話にはならなくて、『宝石の国』の続きが楽しみということに尽きた。

紙の雑誌で月刊アフタヌーンを購入しはじめた頃、四季賞の存在を知った。で、たまたまその 1 回目に小冊子で出会った大賞作品が『虫と歌』だった。これは衝撃でしたね。

下記のリンク先の記事を読むと、マンガ表現的な面としては高野文子の影響が大きいとのことだが、高野文子を読んだことが無い。この方の記事に詳しい。それだけは伝えたかった。

続ける。

デビュー作を含む『虫と歌』に収録された作品は設定があまり明かされない作品が割とあったが、それでも傑作「日下兄妹」や絶妙な趣味の悪さを誇る「星の恋人」なんかは設定もそれなりに明かされる SF 寄りな作品だろうか。『25時のバカンス』とその収録作品なんかは、もはや SF だろう。ようしらんけど。

で、初の連載作となった『宝石の国』はもっと SF なんだけど、今月のアフタヌーンからおよそ 1 年半の休載を経て再開がなされた。

私は 4 巻までは Kindle で買って読んでいて、月 1 の連載だと細かい部分を忘れがちだったので、続きはいずれと思っていたら、しばらく読まなくなっていた。

で今回、連載の再開に伴って コミックDAYS で全巻が解放されたので、それに肖って読んだ。

はい。

これだけのスケールの SF を描けるマンガ家、現行でほかに居るっけ? となる。ビビりますねぇ。小説家とも比べたいくらいなんだけど、現代 SF 小説はほとんど追えてないので何もわからん。まぁ「三体」や「天冥の標」のシリーズは比肩しうるか。

現行の展開で達成されそうなことといえば、悪い人類の悪さを濾したような悪い人たちの救済というか補完みたいなところで、無垢で純粋な宝石たちは、本当にその無垢さゆえに何色にも染まりやすい。美しさとはなにか。

遠大に過ぎるスケールで描かれる矮小な人間模様とその記憶や意思の移ろいやすさは、絶品の味わいである。歯痒い。

巷では「火の鳥」を連想したというまとめを目にしたが、「すまん、この報われない其れは類作としてはやっぱりエヴァじゃん」となる。あるいは、いくつかの、のび太の物語か。ジェームズ・ティプトリー・Jr にも似た感触がある。

個人的にあえて「火の鳥」との差を言えば、あれは絶対的な存在である火の鳥がある種のマクガフィン的な存在としての主役であるし、また全体として輪廻を認める世界観であることは明らかで、対して本来仏教的なレールを走っている(ように見える)『宝石の国』とは相容れない。

話を戻す。フォスフォフィライトを主人公とすると、この人物がこの苛酷な展開によって、ここまで苛め抜かれることも、なかなかない。そういう意味では上記のほかに具体的に「この作品」とは言いづらいが、90 年代の作品っぽいダークさも感じる。というか、そういうことだ。

この終末感よ。

いずれ閉鎖されるという cakes のインタビューがまだ読めたが、仏教高校に通ったという作者の提供するクライマックスまでの展開が、まさに仏教的な内容だとすれば、それをどう表現しうるのか、あるいはフォスフォフィライトの苦しみこそが強調されて終わるのか。

長い休載の理由は知らんけど、本作の構想が頭に浮かばないわけは無かっただろうから、休載前から変化があったろうが、無かろうが、新たな進展を楽しむだけだ。どういうタイプの希望を残すのか。

また、勝手にいろんなテーマとつなげてしまったが、どうしてもこのように読んでしまう業がある。長丁場になるのか、割合スパッと終わるのかもしらんが、長くとも 15 巻内くらいで終わると個人的には最高だ。