見たいものだけ見せない|《攻殻機動隊SAC_2045》シーズン2

映画ではないが、映画カテゴリーの記事として残しておく。前作の劇場版の感想は以下です。

《攻殻機動隊SAC_2045》シーズン2 を観終えた。クライマックスの展開は、概ね想像力の限界は超えなかったが、これをキッチリとやり切ったことに感動したし、終始、面白かった。まずはその一言だけは伝えたかった。

神山健治の攻殻機動隊はどれも好きだけど、それぞれにちゃんと重みのグレードがあってよい。で、今回はそれが極まったと見える。これが Netflix 最速で配信されることの意味とは!? という気がするが、どうなんだろう。そのおかげで、めちゃくちゃ翻訳されているんだよね。エンディング後の翻訳クレジットが異様なまでに長い。

キャラクターの 3DCG も必要な限り洗練されたと見えた。特に確かめたわけじゃないけど、特に荒巻部長の違和感がシーズン 1 よりも小さい。

で、まあ自分なりに気になった点のメモだけ残しておく。

ダブルシンク

『1984』をここまで執拗に引用する必要があったのかと疑問だったが、なるほどダブルシンクをこういう形で生かすのかという驚きと落胆というか、メチャクチャすごい設定なんだけど肩透かし的ではあるというか、現代と近未来あるいは超未来が割と接近して見えた。

実現不可能そうに思えるけど、やってのける。やっていることは、ドラえもんで例えるなら「もしもボックス」を全世界の人間が、それぞれ自分の都合のよいように世界のありようを捉え電話口で伝え、それは仮想現実ではなくて現実世界で、かつそれが互いに破綻していない世界ということなんだろう。

ぶっちゃけどのレベルまで整合がとれて、どこかで誰かは思考誘導されているんだろうなとか、不都合がいずれは爆発するんじゃないのかとか、思うけれど、なんかそういうのは、とりあえず許されてしまう。

みんな N になっちゃう。

最後はどうなった

ミサイルが発射されたのは、発射されて都合のよい人間にとってだけ、という事実には間違いなさそう。そういう人たちの見ている世界がどんな風になって整合性つけられているのかは不明だけど。

で、基底現実(と『BLAME!』の用語を借りてみる)では、ミサイルは打たれていない。ということは前提的に、物理的に世界が大きくダメージを受けるような現実的な事象は周到に避けられるんだろうな? とか-やはり次々に疑問は浮かぶ。

草薙素子と江崎プリンは N 化できないので、N 世間で暮らすには相当に難しいように思うが、少なくとも江崎プリンには容易いことなんだろうか。

で、問題はシマムラタカシのプラグが抜かれたか否かだ。

どちらとでも取れる結末とはなっていたのだろうが、いくつか読んだ感想だと、江崎プリンが九課に帰ってこれたことを決定的な理由として、少佐はプラグを抜いていない、という説をとる方がやや多かった。いずれの解読も納得的な理由であった。

ところが、私はそうでもない気もしている。

少佐がロマンチストだから N化 しないというオシャレな理由は置いておくとしても、彼女がその選択権を持ったということの意味は、草薙素子がプラグを抜くということを示していたと読みたい。そしてそれを実行したろうと。

シマムラタカシがパーソナルな旧人類的な個人として、草薙素子に母への手紙への礼を言っていたが、このことは重要ではないのか。いま思いついたけれど、身近な人間の理不尽な死も、N化 は何かしら好都合な理由をつけて後腐れない感情として処理させるのか。

息子を失った母の喪失を、シマムラタカシはどうやって埋めるのか。

話がズレていった。

自分が考えたのは、プラグを抜いたからとていきなり世界中の人間の目が覚めて、恐慌状態に陥るみたいなことはなくて、基底現実と理想現実のギャップを徐々に受け入れていくんじゃないかってことだ。カプセルに入れたのと逆の処理を現実で行うことになるんでしょ、きっと。

だのでまぁ、少佐が去るエンディングというのは、そういうまだるっこしい辻褄合わせの冷却期間には付き合ってられんというアレじゃないのかね。

江崎プリンはどうなる

とはいったものの、私も神山健治の攻殻機動隊はこれで終わってもいいように思う。もしもの現実というフォームをこんなにそれらしく扱ってみせて、その到達かあるいは限界なりをチラッとでも提示できてしまったら、もうやることがないのでは。現代におけるありうべき理想社会の可能性として。

ということで江崎プリンだが、荒巻部長の台詞のニュアンスや、ゴーストは失いつつも義体化したことで演算能力も身体能力も最強格となった彼女は、草薙素子の後継たりうるのかみたいな問題がある。バトーとの縁みたいな伏線のはり方も巧い。

ぶっちゃけもうゴーストも何も無いような気はするが-それこそ理想現実の世においては、草薙素子と江崎プリンの決定的な差はそこにあることになるんだろう。

一方、作中の世界の最後が N 解除後でも N 継続でもいいけど、いずれにせよ彼女らのどちらもが依然として社会のマイノリティであることには変わりがない。そこに基底現実がある/あった事実を知るもの同士としてはなおさら。

ただまぁ、少佐がこんな世の中には付き合っちゃおれんけん、といって姿をくらますのであれば、それはやはりゴーストの有無によって左右される選択肢なのかなという気はする。プリンちゃんは悪くないけど。

結局、見える見えないは何だったのか

ゴーストハックされたから目の前の人間が見えなくなるというのはわかるが、本作中ではそれ以上に、見える見えないが、比喩的に使われていたような気がする。

特に気になっているのは、シマムラタカシの元同級生が何故か東京にいるところで、トグサが彼女に導かれて逃走するシーンが異様な長さで描かれているが、あれはなんだったのか。

終いには彼女も、彼女を追いかけていた群衆たちもスーッと消えている。あれは N化 した人間たちだったのだろうか?だから姿を消せた(シマムラタカシの管理下にある)とすれば、理屈はわかる。

では、元同級生の彼女は、なぜトグサの 101 号室行きを阻止しようとしてくれたのか。これ、マジで個人的にはわかってなくて、シマムラタカシ の導きと解するのが穏当なんだろうけど、どうなっているんですかね。

あー、彼女もハーフ・ポストヒューマンみたいな存在だったと捉えると自然なのかな。運動能力を見れば、それは明らかと言えそうですね……。つまり、彼女は N化 した群衆たちからも不可視だったのかもしれない。なんであそこにいたんかね。

『1984』にヒロインがいたなと気づいてあらすじを Wikipedia で読み返したけど、なるほどね。101号室とヒロイン、主人公はそういう関係にあったんだっけな。

と、なると、どういうことだってばよ、というところまで考えようとしてシーズン 1 の「14歳革命」の情報を読み直してたら、同級生だった子も亡くなってるんだっけか。あの存在は、「14歳革命」のときのユズ(従妹)同様に、幻想的な存在だったということかしら。

あるいはタチコマの課題は

タチコマたちのアイデンティティについて誤解があったらアレなんだけど、彼らは意志や情報共有はしつつも、それぞれの意思判断は個体別にできると考えていいんだよね?

少なくとも決戦に駆り出されていた 10 体以内ほどの彼らは、どこからが理想世界の描写かはしらんが、みんなシマムラタカシの構想に同意していたように描かれていた。これも演出の都合やらと言ってしまえばそれまでだが、異を唱える個体が居ないことにはやや違和感があった。スリリングではあったが。

そういえば、自分が N 解除を推す理由のひとつにはエンディングでの彼らの会話にもあって、「今回の件は僕らもまた勉強になったなぁ」とか言ってたけど、あれ解除してなかったら出てこない台詞なのではないのか。しらんけど。

少年に革命を背負わせるな

なんかこれに尽きる気がしてきた。

問題はシマムラタカシであったことなのではないのか、本作は。結局のところ「1A84」の意思を継いだポストヒューマンって、シマムラタカシとミズカネスズカくらいだったのでしょう、少なくとも作中では。

で、言うまでもなく最後の砦はシマムラタカシであったわけだけど、そもそも妹のように慕ってくれていた従妹も変な風に亡くすし、大切な存在であったろう同級生も大変な目に合ってるし、そんな彼になんでこんな重大な役目にさせたよ。

少年にいろんなことさせすぎなんだよな、日本の作品は。逆に言うと本作が問いかけることがあるとすれば、ここなんじゃないの。しらんけど。

前回の感想で「最終的には彼女は、ポストヒューマンたちの深淵みたいのを覗くのだろうか。」と書いたけど、なるほど彼らの深淵というか、理想的な世界の深淵という感じだったな。そういう意味ではたしかに彼女(と江崎プリン)が、少なくとも作中では設定された世界の臨界に直面したという結果になったか。

仮に続編を構想するとしたら、どういう掘り下げがあるか妄想するのは楽しそうではある。雑に言えば、宇宙とか。サイバーパンクと土地の問題とかやってほしい。

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