《犬王》を観た。都合、2 回観た。1 回目はコンディションが悪く、ことごとく重要なシーンで寝落ちしていた。いや、さすがに今作をこんな体験のまま終わらせてはいけない。ということで、2 度劇場に足を運んだ。なお、劇場パンフレットは 3 カ所回ったけど、どこも売り切れていた。

原作『平家物語 犬王の巻』は未読なので、ついては的外れな感想になっている部分もあるかもしれない。

鑑賞後から今にかけて、サウンドトラックをヘビーローテーションで聴いている。犬王の演目の曲がどれも素晴らしい。劇中で聴いても、ももちろんいいのだが、音楽だけでも全然いい。とにかくいい。歌詞が染みる。

ネタバレを含む感想になるが、まぁ見てないひとには何を言ってるかわからん文章になった。

二重に語って見逃される

比叡座の座長、犬王の父が奇妙な面に魅せられて琵琶法師をたった斬る。そうすることによって密かに語られ、広められようとしていた平家の物語が回収され、それは比叡座の踊りの美として還元される。面がなんでか物語を回収したがったのかは、これはわからない。原作に説明はあるのだろうか。

同時に、面との契約によって呪われた犬王は京のそこかしかに溜まっている平家の兵士らの残留思念と交感する能力を得ていた。これをもって父の目をかいくぐって、新しい平家の物語を紡ぐことが可能になる。面が犬王を手に入れきれなかったのもクライマックスの描写をみれば、なぜか残留思念たちのお陰なので、まぁ面と残留思念、父と犬王という対立構造と因縁があるんだろう。

でまぁ、犬王と友有の関係にまとめ直すと、呪いの面は物語を携えた琵琶法師を探知はできるようだが、面が取り込んだつもりだった犬王が語る平家物語は未然に防げなかった。

同時に、平家の歌を咲かせる犬王のことを語る友有のことも、こちらは当然のように面にはトレースできず、結果として彼らの躍進を見逃すことになった。

おもしろいですね。

異形が受容されていく

犬王、呪いによって異形として生み出された。犬らと一緒に育てられる。それで犬王、ということと思うが原作ではどう説明されているのだろう。史実的には何だろうね、大の犬好きだったりしたのだろうか。もっとも由来はわからないのだろうが。

作話および演出上のアンビバレンツさというか、アニメーション的にも個人的には、犬王の最大の魅力は異形の腕だった。が、最初の演目にて発生した呪いの解消で、それは無くなった。あら、寂しい。

同じく演目を経るごとに鱗の体表、奇怪な相貌が無くなっていく。普通の人間然に近づいていく。もっと言うと、美の化身のごとくなっていく。並行して、異形が放つ魅力は、無くなっていく。本来は喜ばしいことだが、何故か悲しい。

最終的に犬王は彼にしかできなかった物語を終えたわけだが、そこに至っては、美しいだけの只のひとだ。美しければ十分だろうか。民の前で歌うわけでもないだろうから、なんなら名声ばかりが残るだけだろうか。結果的に、史実的にそうなった、という話なのだが。そういえば、友も失った。

最後の状態の犬王に、まだ残留思念の声を読み取ることができたか否かは気になるところではあるが、できたところでどうしようもないし、そういう意味ではできないに等しいし、できなくなったとするのが正解なんだろう。これも誰かの無念である。

モブたちがいる

湯浅監督作品の醍醐味のひとつと言えば、モブたちなんじゃないのかしら。1 回目の鑑賞ではことごとくライブシーンで寝落ちていたのだが、ライブシーンのモブたちが熱い。モブ然としていてよい。

今回は、モブ然としながらも、新しい演目に呼応する観客たちということで、彼らにもそれなりに動きが求められた。『腕塚』では、手を伸ばし、拳を突き上げるように犬王から煽られ、拍手も求められる。『鯨』では犬王の歌詞の呼びかけに重ねて歌うようになっている。

新しいものを求める

とりわけ面白かったのが、足利義満のパートナーの女性(日野業子かな)がそもそも犬王の演目を望んだということであった。

河原の友有のパフォーマンスにちょいちょい品のよさそうな女性たちが顔を見せていたようだったが、彼女らのネットワークが業子のもとへ評判として届いたのだろう、おそらく。

『鯨』の演目の前後に、お偉いところの女性(業子だろう)も注目しています、みたいなカットがちょっと入っていた。

で、彼女もワン・オブ・モブスだと断じたうえで話を変えるけど、彼女は妊娠中なんですよね。これは微かとはいえ、犬王の出生と、呪いの解呪を経た生まれ変わりに被る部分がある。

演出上もおもしろくて、『竜中将』の演目開始時、彼女の扇が天中の太陽(月じゃないよね? 部分日食という演出と受けていいのかな?)を覗いたときに光彩で画面が滲むが、アレは犬王が面越しに若葉のキラキラを目にしていた序盤のシーンを反芻している。グッときましたね。

友有のライブシーンはなんだった

2 回目の鑑賞で当たり前のことに気づいたが、友有の路上ライブはあくまで犬王の公演の宣伝で、基本的には宣伝(友有)→公演(犬王)の繰り返しが 3 回続くという単調さ、わかりやすさがあった。最後だけは、共演となったが。

サウンドトラックに収録されている曲名も『犬王 壱』『犬王 弐』『犬王 参』と、とてもシンプルだ。

もともと友魚(友有)は、亡き父の恨みを晴らすために、天叢雲剣を探すように指示した権力者を探していた。そのために平家かその後継の権力に連なる人脈への接近を試みていた。その経緯の上で、友一として琵琶法師になった。

どうして犬王に入れ込んだのか。友有となったのか。『犬王 弐』の歌詞がヒントというか、注目せざるを得ない。聴衆に「一緒に見届けようぜ」と叫ぶ。「俺にも見えてるぜ」という。「確かめよう」とこだわる。彼は琵琶法師である。

友魚が友有へとなった経緯をみれば、父の恨みを超えて、一介の琵琶法師を超えて、それらを内包しつつ、犬王との友情へ突き進んだことは明らかだろうが、そこには盲目の苦しみもあったんだろうか。

友有が感得できた犬王の美とはどこにあったのか。

個別に見ると、『犬王 弐』のパフォーマンスが 1 番特徴が出てたかな。琵琶プレイがアレでしたね。身体性もアレで、上半身の描写の生々しさが、このシーンだけは強調されていて、ちょっと驚いた。女性ファンが増えるわけである。

音楽性あたりの話

『鯨』の QUEEN に寄せた部分が気になる人が多いようだけど、同曲の掛け合い部分とか、ファンクの流れのようだが、音楽に詳しくないのでわからん。

『腕塚』のほうがファンクだという意見も見た。というか、そもそも犬王の声優を務めたアヴちゃんのバンド女王蜂は、もともとファンク志向のグループらしい。なるほど。

作曲の大友良英は苦心したという記事をチラリと読んだが、そういうあたりの兼ね合いなども考慮されたのだろう。どの曲も素晴らしい。

あるいは体制への反抗がロックというのは逆に古くないか、とか、大友良英なんだからフリー・ジャズっぽい挑戦も見たかった、などの意見が目に留まったけど、難しいね。

パッと聴き以上に、いろいろと難しいことを試されている音楽に思うが、説明する技能がない。

『竜中将』がまたよい。

なんかよくわからんが、犬王も友有も彼らの共闘体制が最期だと予感はしている。そんな状態からバラード調の歌い上げで曲は始まる。

「広がる海へと浮かべた身体」という歌詞のまま、犬王は浮かぶ。舞台の仕掛けの演出にもこだわりを持って描写している本作、『竜中将』ではよく見ると彼を釣っているし、その装置が上空からのカットで目に留まる。それで一応説明されている。

いい感じで演目は進むが、平家の兵どもの思念は犬王、あるいは友有の呼びかけに応えない。

ここ究極的に面白いんだけど、その根本的な謎を解くためには友有が必要で、なんかしらんけど彼が湖面に飛び込む。すると、母の子守歌のような声が聞こえてくる。歌詞は恐いけど。

そんなこんなで犬王の秘密がようやく明かされる。それとともに犬王の父も呪いから解放されるのであったぁ……。指が残っているのいいシーンですね。

竜中将の歌詞を最後まで読むと、これ形としては残留思念たちの無念も解消されたんですね、竜宮城が見つかったということで。なので、上の考察はとりあえずキャンセル……。

600 年だよ

壇ノ浦の戦いが 1185 年くらいらしいが、犬王の活躍が 1400 年前後か。およそ 200 年のギャップがあったわけだ、そこには。

一方、友有が現世まで待った期間はおよそ 600 年となる。本作、ちょっとした疑問としては上に書いたように、友有がなにをそこまで犬王に賭けたのか、個人的にはそこまで読み取れなかったことなのだが、この 600 年という想像しがたいスケールを友有が過ごし、それを犬王が探していたというだけで、個人的にはすべて許された。

友魚の親父の無念も、たかだか十数年でしぼんでしまった。200 年に渡った兵どもの残留思念も、犬王と友有という媒体を通してとはいえ、成仏していった。彼らはどうか。

600 年! そんなに思い詰めてたのか。物別れになったお互いを、そんなに求めていたのか。最期の行き違いから一瞬で和解して、出会った当時の関係性を楽しめる。そんな物語だった。

その他のことなど

  • 犬王、母がどこかで亡くなったようだが、思い返すとこれも面の要求だったのかなと思ったり、思わなかったり。
  • 犬王、天覧の申し出が幕府よりあったとき、彼の周りで喜んでくれていた若者たちは兄弟っぽいんですよね。彼らが無事そうだったし、犬王への蟠りとか無さそうでホワッとした。
  • 足利義満を声で演じてるのは、柄本佑なんすよね。よく目にするなぁ。『ハケンアニメ』の出演とどっちが先だったのか、ちょっと気になりますね。
  • 最後の公演、離れの建物の最上階で鑑賞していた世阿弥もノッているシーンが一瞬だけだけれども描かれていて、これもよかった。

『ユリイカ2022年7月臨時増刊号』で湯浅監督の特集が組まれている。Twitter での監督のつぶやきによれば年表の編纂が恣意的っぽくてちょっと怒っていたが、まぁそれを差っ引いても読むには値しそだわね。買ったので読みます。

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