Netflix 公開の「攻殻機動隊 SAC_2045 Season 2」の劇場公開版が上映されているので、見にいった。その感想を書いておく。予防線を張っておくと、概ね全 12 話のストーリーの印象と大差なかった。

が、この印象は、下記のメディアで公開されている事実とは真逆の結果となった。つまるところ、私は公式に「こうだ」と説明されても尚、ラストでは素子はプラグを抜いたと考えている。というわけで、いわば反逆の感想となる。

所詮は素人の暇つぶしの感想書きなので大した責も負えないが、それなりに理由があってそう思う、ということをあらためて述べておく。言い訳とはなるが、記憶頼りで語る部分ではあるので、そもそもの理解に大きなミスがあるかもしれない。

映画版の感想交じりに述べていく。

「最後の人間」のダブルミーニング、子供、身体性

今回のサブタイトルだ。こんなのは前提でしかないが、このサブタイトルが草薙素子を指すのか、シマムラタカシを指すのか、どちらかは鑑賞者に委ねられたままだろう。もちろん、どっちでもいいという話であって、さらに言えば今作のダブルシンクみたいな含みもあろう。

で、前回の感想でシマムラタカシになんでこんなツラい役割を背負わせたのかと勢いで書いたが、そういえば江崎プリンも相当にツラい過去があるし、なんなら「2nd GIG」で明かされた草薙素子の過去も相当な経験だったハズだよなと気づいた。

あるいは、そこに差を求めるとすれば、作品の要素としては全身義体の在りように世代的な差が大きそうで、素子はその身体性、シンクロに相当苦労したというエピソードもあったけれど、プリンちゃんは何の意識もなく新しい身体を使いこなしている。これはポストヒューマンの能力が成すワザなんだろうか。ところで、シマムラタカシはある程度生身なのかな?

また、30年も続くシリーズにおいて、現実における作品受容という面でも、電脳や義体に対するイメージは変化しているとも言えそうだ。視聴者にとっても作中の全身義体が当たり前になっているといっても過言では無かろう。大体、サブの3Dプリンター製のミズカネスズカも滅茶苦茶強いわけだし。

そういえば現実と攻殻機動隊世界の接点と捉えていいのか知らんけど、顕著に感じたのは、3Dプリンターの使い方で、ミズカネスズカや江崎プリンのそれはフィクションにすぎる気はするが、本作では当たり前の技術のように使われている。

ということで、誰しも子供の頃にヒドイ目にあっているけれど、それでも未来を変えるのは子供であった彼らでしかないというメッセージはある、のかもしれない。

何も信じようがない、再建された東京

米帝(この表現もたった1年ほどで妙に古臭く浮いて感じられるようになった)のBC兵器が散布される前後から主要人物らの N 化が始まった事実をあらためて考える。というまでもなく、身も蓋もないが、やはりクライマックスの画面で起きている事態の半分ほどは信用できない出来事としか言えない。

その前提に立ったままだと何も言えないのだが、まぁ付き合ってほしい。

ボーマの電脳がアレされたのは実際に発生しているのかと思うが(素子の見せられた体験を踏まえればそう考えてよさそう)、一方でサイトウの眼の狙撃は相手の容貌からして事実ではないよなと思う。なぜなら N が現出する状況にしたって、それが実現した事実と説明しづらいからだ。つまるところ、こんなふうに、作中で何が基底現実(フィジカルで実際に起きたこと)なのか測りようがないのだ。そういう意図の上での演出でもあるだろうけど。

さらに、前回の感想では意図的にスルーしたか忘れたかしたけど、最後の素子とバト―との会話は再建された東京のジオフロントの頂上で行われているようだ。これも妙な話で、シマムラタカシとの最後からまともに数えても例え数年やそこらであんなに街が発展するとは思えないワケで、そうすると、やはりアレは鑑賞者にとって N 化された東京なのかもしれない、みたいな推測を運ばざるを得ない。(あるいは本当にそれだけ時間が経ってる?)

いやー? そんなおかしな話もないだろうから、なんか決定的な勘違いしてるよなぁ。自分の見解に自身が無くなってきている…。

ゴーストとロマンチスト、正義がなんたら

プリンの無ゴースト状態がなぜに N 化を拒んだのかわからないままだったが、N 化がゴーストの境界線をほどいていくような描写があらためて確認できたので、ゴーストが無いってのはそもそも、懐柔(とあえていうけど)する目的となる対象がないってことなんかね。

で、ゴーストがあっても懐柔しようがないのが素子のようなタイプの人間らしい。もちろん作品の都合ではあるが、「1A84」化したポストヒューマンとなったのは作中では最終的には2人だけであったし(他2、3名くらいは在たんだっけ)、それに抗しうる人間もとりあえずは素子のみとして扱われたわけだけど、お話の外側に想像を広げると、素子1人で済んでいるはずがない。

話は前後する。九課の部隊でミサイルの発射権を最初に付与されたのがバトーだったのも象徴的で、設定としてはたまたまコードを踏んだタイミングが早かっただけ、とは言えるのだろうが、バトーにしてみれば、そこで仲間にそれを明かすわけにはいかない、という彼なりのプライドなり矜持なりが垣間見えるわけだ。トグサでもなくバトーなんよ。

そしてもちろん、素子には発射権は付与されえないが、もし仮に彼女の手元にボタンが現出したら、彼女はその事実を秒でシェアしそうだよね。それが彼女なりの正義であり、ロマンであるような気がする。しかし、なんつうかハンターハンターの念能力みたいなアレだねという気もしてきた。

トグサとバトー、お前らどうすんの

素子とバトーの最後の会話の前、映画版だけのカットのようだが、「少佐がいつもどおりに変だよな」という相談事がトグサとバト―の間で繰り広げられる。私はこれをプラグが抜かれた状態を示唆する描写だと完全に思っている(これが勘違いだとは自覚できていない)。

言うて、である。素子のポテンシャルがポストヒューマンにどれだけ迫ってるかは不明だが、彼女は N 化世界では暮らせないと思うんだよね、究極的には、ノイズにしかならないだろうから。だから、彼ら2人の反応もまさしくそれだと思って眺めていた。いずれにせよ、素子が傍に居たら N 化にいい影響はない。

前述の「何を信じていいかわからない」ではないが、そもそもトグサにせよ、バトーにせよ、「様子がおかしい少佐」という状況を彼らはどう受容すんのよって話であって、それが彼らの望む少佐の姿ってのも目的と結果が転倒した奇妙な話ではあるし、前回も書いたが、この設定では破綻した未来しか見えない。

(新しい)人類の新しい選択肢はどのようになるだろう、みたいなことを素子も最後に語っているが、イヤ、うっそだろ、お前絶対そんなの信じてないだろって話なんだ。「N化したまんま」だとしたらだ。大体、トグサやバトーの仕事なんてもはや残って無いのでは?

メカトピアの失敗、あるいは不能なユートピア

『1984』があってはならないユートピアを描いたフィクションだというのは当然のこととし、であれば本作の N 化世界が理想足りえないと想像するのは誰にでも難くない。というか、私は『ドラえもん のび太と鉄人兵団』のラストを思い出した。

母星を滅ぼし(たんだっけ?)、地球に侵攻するメカトピアのロボット軍団に対抗するため、ドラえもん勢の最終手段はいわば神殺しだ。博士がアムとイムに植えつけた「競争本能」が期待を悪い方向に上回って、最悪のロボット兵団を生んだ。時間を遡ってこのシステムを取り出せば、ロボット兵団は消え、リルルは天使のようなロボットになるらしい。が、存在は消える。もちろん物語はここで終わる。

だのでまぁ、本作と鉄人兵団をあえて並べると、競争本能を再点火するか否かという最悪の選択を素子は迫られていたと喩えることもできなくはないハズだ。でねぇ、メタ的な解釈が強まるばかりで申し訳ないけど、制作者だって、素子だって、N 化世界の繫栄なんてイメージしてないでしょと私は思うんだ。

あるいは、それをこの物語に託すんだとしたら、よっぽどロマンチストだよな。

あとやっぱりトグサを救ってくれた子のパートの存在とその理由がよくわかんねぇままだったな。誰か教えてください。

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