文字通りだ。恐い夢をみた。どうやら自分は 60 年ほどコールドスリープかなにかで眠っていたらしく-夢のなかの私は現実の私としての私ではなかったようだが-、なんとか起きて社会に迎えられたらしい。眠っていた理由は不明なままだ。
これを現実の時間軸と一致させるなら目が覚めたのは 2080 年くらいの社会だろうか。大きなビルのなかで生活しているようで、屋内はそれなりに安定した社会を維持しているようだが、屋外の治安は悪そうだった。
なんともいえない人間関係のなかに放り込まれていた。個室というよりは集団生活のような感じだった。雑多な生活空間であった。ジェンダーのあり方は多様になっているようだった。そういう状況に巻き込まれていた。どういう夢なのか。
外の治安の悪さが生活空間まで及んできたようで、脱出を図るという段になって目が覚めた。犠牲者が出たようだった。いろいろと時勢を取り込んだ夢だったと思うが、なかなか難しい。
いやに現実味があって、居心地が悪い。
2022 年 2 月、国立新美術館にて開催されているメトロポリタン展に行った。そのついでに、同時に開催されていた公募展を散策したメモを残しておく。新槐樹社展、全日本アートサロン絵画大賞展、NAU 21世紀美術連立展を歩いた。メトロポリタン展については、別途、メモを残しておく。
第66回 新槐樹社展
メトロポリタン展の半券によって割引 500 円で入場できた。ほとんどが油彩の作品で、陶芸などもあったか。概要を確認してないが、同作者ごとに 2 作品ずつ展示されるケースが多い。出品の規約どおりに 2 作品を出した人が多いということなのかな?
それらの多くは関連性のあるテーマで描かれていたり、作品によっては合わせてひとつであったりした。割と抽象的な作品も多かったが、メトロポリタン展を終えたあとという状況もあってか、日本の風景画を目にできたのはホッとする。
それぞれの受賞作については、以下のリンクに掲載されていた。
東京都議会議長賞:栗原親史《鎮座》は馬の土偶が可愛くて印象的だった。努力賞:石黒千佳子《奏2022-Ⅰ》も好き。新人賞:濱井剛《コロナ禍「109号」93年目の引退》も印象に残った。コロナ禍のなか、引退を見届けたんだなという情緒がな。
東美賞:高木葉子《ラスベガスの夜》も色彩感覚が好きだった。マツダ賞:杉浦和彦《原始の森》も美しくていいなと思ったけど、これ水中に翼竜がたくさん居るのか。現地での鑑賞では気づかなかった記憶がある。
マツダ賞:坂井千鶴子《桜は秋も美しい》がもっとも印象的だった。というのも《桜は冬も美しい》が同時に展示されており、とにかく桜への愛があった。というのと、普通にいい絵だなとなったのよね。きっと、春夏の作品もあるんだろうさ。
サクラクレパス創業100周年記念 第31回全日本アートサロン絵画大賞展
文具メーカーである「サクラクレパス」が主宰(なのかな)の展覧会だそうで、創業 100 周年ということで気合も入っていたみたい。産経新聞も協賛しているのか新聞に取り上げられたと大々的であった。
自由表現の部門と写実表現の部門に分かれていた。それぞれの作品には画材なり手法なりが記載されており、油彩やアクリルのほかに、ミクストメディア、コラージュ、水彩、色鉛筆などがあったかな。珍しいところだと「日本画」となっている作品もあったかもしれない。
素人にゃミクストメディアとコラージュの差がわからんが、おもしろかった。受賞作は以下のリンク先で確認できる。けれど、これ URL がこのままならいづれは見れなくなりそう。
写実表現部門:芝茂雄《おお、なんという生命力》、画題の玉ねぎが面白かったが、この作品のほかにも玉ねぎを扱った作品があったような気がする。玉ねぎブームがあったのだろうか。
写実表現部門:Ananda《ミャンマーの僧院にて-3》も、時事的な面でも印象的だったね。この作品、この展覧会に限らず、海外での体験を題材にしている作品がチラホラあって、そういうのも面白いやね。
そういえば、栃木か群馬か茨城からの出品で、別々の作者が同じような海外の街角の景色を同じような描き方をしていて、確認したら名字が同じだった。親類が描いているんだろうな、などとメタ的な発見も楽しめた。
第20回 NAU 21世紀美術連立展
1 番手前の展示スペースで開催されていた。入場無料であった。「NAU」とは “New Artists Unite” の略称らしく、よくわからんが世界的に連帯もあるような感じっぽい。
絵画もあるが、インスタレーションだったり、立体の造形物だったりが比較的多い展示だった。
この字はなんて読むのか?
1 番奥、屋外の展示場との間口となる小さなエリアで、書道の創作が展示されていた。田畑理恵という方らしい。この記事を書くにあたって、プロフィールは以下のリンクで確認したが、書道には大学を卒業してから本格的に取り組んだらしい。すごい。
英題と漢字をリンクさせた作品があった。たとえば、「盡歓」と書いて”Joy of Life” というような-もはやうろ覚えだが、概ね誤っては無いと思うー、そのような作品たちだ。よかった。「とめはねっ!」を思い出させられる。
ほかには前衛書としていいのか、矢印を上に伸ばした作品もあった。これは上のリンク先の紹介に類作が掲載されている…、と思ったら無いな。あれれ?
あるいは扇面の紙に筆記体の英文で日記を書き、屏風に集めた作品があった。これも創作書道の類なのかな。ひとつには「お父さんがどうの」という内容をチラリと読めたが、解読に至らず。あまり頑張って読むようなアレでもないだろうと。
で、あらためて英題と漢字をリンクさせた作品たちを眺めると「雲」《Cloud》や「龍」《Dragon》などがあったが、《Clearing》と題された作品の漢字が読めない。ブワッてなってムワムワってなっている。読めない……。
幸いにも作者の田畑さんが現場にいらして相手をしてくれそうだったので聞いてみたら「断」だそうだ。ほほーぅ。
そもそもこれらの漢字作品は、漢詩からの抜粋というかインスピレーションのもとらしい。で、その漢詩が李白が「秋思」で、抜粋した箇所は「海上碧雲断」の「断」だそうだ。あまりキレイなリンク先が見つからなかったが、インターネットからは以下を引かせてもらった。
「海上碧雲断」のニュアンスは「湖上をゆく雲も切れ切れになって」というような解釈が主らしいが、「水平線を雲が断つ」みたいなニュアンスもあるのでは、みたいな考えもあるらしい。いずれにせよ、題となった詩全体からは「遥かに遠いみたい」な雰囲気がありそう。
一方、作品のタイトルとなった《Clearing》は、説明いただいた内容の記憶が確かであればセザンヌから引いたという。ほほーぅ。さっき、メトロポリタン展で見たじゃん、となった。
ということで、インターネットを漁った。発見に苦労したが、最終的には WikiArt にあった。灯台下暗し。《Clearing》(1867)だ。初期の作品だろうか。
説明もらったのが本作であっているか定かではないが、話を進める。そうは言っても、手掛かりははなく、ものの本なり解説なりに当たる余裕も流石に無いので、雰囲気の語りだ。
この画、画面の大方を占める緑と部分的な空、木々のあいだの陰となる黒がバランスをとっているっぽい。陰が在るその部分を、陰自体が縦に割いているようにも見えるし、画面の奥への侵入を拒んでいるようにも見える。陰のなかにちょっと覗いている青がまた絶妙というか。
本作の《Clear》の意味だが、「くっくりした」とか「雲のない」というニュアンスだろうか? となったところでイメージしてみると、なんとなく腑に落ちた気がした。陰の部分の黒が、なんとなく「断」の墨の残した印象にオーバーラップする。
というわけで、最後の最後で面白い体験をしたというオチになった。こういう身近な現代アートなりは、制作者の存在も身近で楽しいものだ。いつもこういくというワケでもないが、こういう出会いもバカにならないね。ありがとうございました。
ヒッチコック映画の情報を浚っているとき、インターネットに転がっている紀要論文らしきものを見つけた。
この事実だけ記録して、内容は放っておいたのだが、溜めていた情報を棚卸しようと機会があって読んだ。おもしろかった。
「バックロット」という用語を知らなかったが、要するにスタジオ撮影の延長線上にある張りぼての町を指すらしい。太秦映画村なんかもバックロットの一種なのではないかな。
で、このバックロットの誕生の背景には、サイレントからトーキーへの移行がもたらした撮影環境の精確さの要求がひとつ、大量生産時代の製作需要、特にそれらはスケジュール管理にかかわる問題として集約される、というようなことがあったらしい。で、要するにはバックロットのような設備が求められたというわけだ。
並行するように、美術監督をはじめとした工作班の発展、監督とマネジメントを繋ぐ役職としてのプロデューサー職の誕生などといったトピックが説明されており、これも非常に参考になった。
あるいは、当時の作家らが脚本家として求められてハリウッドに足を伸ばしたはいいが、文藝としての作家性と、大量生産時代に求められる脚本とのギャップに彼らは苦しんだというエピソードも、なかなか興味深い。フォークナー脚本の映画というのも興味があるが、鑑賞は難しそうだね。
斎藤英治の情報も一応、メモしておこう。
ジャン・コクトーの《美女と野獣》(1946)を観た。スコセッシおすすめ外国映画マラソンの続きだ。
あらためて原作の『美女と野獣』について調べると、もとは 18 世紀の女性作家による作品であったとか、現行で流通しているのは原典の簡略版であるとか、知らない事実が多い。
ディズニー作品での鑑賞歴はあるので、話の大方はわかったうえで臨んだが、細部は異なっており、そのへんの相違を確認できたのは面白かった。
ベルをダシにして一攫千金せんとする兄や姉たち、兄友らの薄汚さなどは、やや飛ばし気味であったが、それぞれの描写は端的ながらも、それなりに生き生きとして、そこそこに無暗で考え無しな悪意が印象に残る。
一方で、野獣の苦しみや秘密、クライマックスの兄たちの顛末、特に後半は割と急ぎ足というか、取ってつけたような構成に見えてしまい、少しばかり残念ではあった。
ちょっとググった程度では不明だが、本国なりでは、映画以前に舞台なりで上演されているには決まっているよね? と思ってフランス語版の Wikipedia などを見てみたが、そうでもないのかしら。
ルイ16世の婚約のために書かれたという 1771 年に発表された喜歌劇が原作の翻案という情報が載っていたが、それ以外はおよそ 20 世紀のコンテンツばかりで、ジャン・コクトーの映画の前にも 3 作くらい映像の小品(らしきもの)があったようだが、ざっくりそれくらいなのかな? 童話の扱いという感じなのかも知らん。
映画自体は、美術はもちろん演出も舞台のような雰囲気が多かったし、そういったところも面白かった。中遠景のシーンは無いに等しい。野獣の城に迷い込むときの草葉の揺らめきとか、もろに舞台だよね。
城の勤め人などが魔法で備品類にされているという設定を、そのまま人間を使って映像化するというのも奇抜でシュールでおもしろい。これも先行の舞台などでも用いられていた手法なのかなと思ったが、そういうわけでもないのかな? もう少し詳しい情報がほしいが。
まぁ、しかし面白い。後半こそ少し雑に感じたが、全体的に面白い。なんでおもしろいのか? 淡々とした画面と進行、やり取りに魅力がある。なんだろう。こういうのも古典の面白い味といえばそれまでだが。
心に残った要素など
特に気に留まったっところを挙げておく。
自動ドア
基本的に、城の扉は勝手に開くし、勝手に閉じる。紐で引っ張るなりしてるだけだろうが、なかなか面白い。ひとつだけ、最初の晩餐での会話後に野獣が去るシーンは、仕掛け格子みたいな扉だったが、ここは彼が彼の意思で閉じていた。こういう強調のしかたもある。
鏡のマジック
鏡にほかの場所の情景が映る。フィルムを切り貼りして実現するシーンなのかね。よくわからん。遠隔の情報を映し出せるというのは、昔から幻想されたファンタジーだったが、現代では普通になった。奇しくも本作の上映されたころは、テレビ放送も実用化の目前とかなんじゃないかな。
であれば、もしかしたら作品が映したファンタジーは、当時はまだたしかにファンタジーだったのかもしれない。
そのほかの魔法
野獣がベルの部屋に勝手に入室し、「プレゼントを持ってきた」と言い訳してその場で首飾りを作り上げる。ヒュヒュヒュっと地面の方から吸い寄せて作ったように見えたが、これは実際には落としたのをコマを逆回しでつなぐ方法なのかな。そういうのあるよね?
また、ベルの空間転移は、カットのつなぎ方の工夫くらいだろうけど、最初の転移のときは壁のなかから出して、あたかも宙から湧いたように見せようとしたっぽい。が、あんまり出来がよくなかったのか、なんか中途半端だった。それ以降は、単純にカットの切り替えで表現していた。
逃げる野獣
城の外縁みたいなところでデートしてたら、野獣が苦しんで逃げるシーンがあった。横に逃げていく野獣がパッと 90 度左に旋回すると、カメラもパッと奥に向かって荒野に飛び込んだ野獣の背が離れていく。とにかく、いいシーンだった。
階段を上り去っていく野獣とか、カーテンが揺れる城内の廊下をベルが往くシーンとか、ところどころ奥行きを生かすシーンが要所で上手く使われていた。
飛ぶ 2 人
またシャガールみたいなことになってる。というか、これは思ってみれば、最新のマトリックスでも再現されているテーマだ。空を飛ぶというのはどういうイメージなのか。原作にもあるのかな。
離陸した瞬間こそワイヤーでの演出っぽさが見え見えのダサい雰囲気だったが、それ以降はなんかよい映像になっていた。すごい。
ところで、映像で空を飛ぶように演出された作品って、どの作品が嚆矢となっているのだろうな。そういうところも気になってきた。
///
監督のジャン・コクトーだがマルチタレントなんですね。小説家としては知っていたが、「芸術のデパート」という異名は知らなかった。発表年の 1946 って戦後だろうし、大変だよななどと思いつつググったら以下の記事がいろいろと詳しかった。
《ウンベルト・D/Umberto D.》を観た。1951 年の作品だ。ひさびさのスコセッシおすすめ古典外国映画マラソンの続きだ。前回の《自転車泥棒》(1948)と同じく、ヴィットリオ・デ・シーカ監督による作品で、戦後から数年ぼっちとはいえ流石に戦後の影響を直接映した雰囲気はないが、貧乏苦労譚には変わりない。
というか、年金生活の老人と愛犬というテーマを知った時点、既にツラい。ネオリアリズモ、ツラい。同カテゴリーのほか作品と同じようにして、俳優陣は専門ではないらしい。老人の借りているアパートの小間使いの女の子なんかは、登場した当初はガッツリとカメラ目線なのでちょっと笑ってしまった。
20 年生活した部屋を追い出されることになった。犬を飼っている孤独な老人-犬がいるので1人暮らしではない-が主役だ。年金は家賃の半分以下、どうしてそこの部屋にこだわるのかというか、ほかに部屋を借りるアテもないことの裏返しなのだろうが、見ている方としては破綻が約束されていて居心地が悪い。
時計や蔵書を売るが、半分も足しにならない。救護院に逃げ込んで時間稼ぎをもくろむも、これも上手く行かない。大家には無視されて追い出されるための準備だけが着々と進むだけであった。
最終的には部屋を諦めるという段で、愛犬:フライクの処遇をどうするかとういう最大の悩みに向き合うことになる。ツラいテーマに解決を見い出せないエンディングではあったが、最後の場面だけを切り出せば、案外は暗くないのかもしれない。それが束の間の安らぎであってもだ。
心に残った要素など
なんというか。まぁ、書いておく。
路面電車
改装されつつある襤褸となった部屋から窓下を見下ろすと路面電車が道を往く。カーブに差し掛かった電車は轟音を立てて曲がっていく。すると擦れるパンタグラフからは、軽く火花が散っていった。いうまでもなく、ウンベルトは死を意識している。
しかしだ、部屋のベッドには気持ちよさそうに眠るフライクがいる。彼を残しては安易には死ねない。これはクライマックスの伏線でもあった。フライクを携えて踏切に迫るウンベルトのどうしようもなさは、同時に、フライクによってある種の救われが待っていることもわかる。苦さと甘さが同居する。これが現実。
小間使いの少女
学がないものの、なんとか女将に雇われているらしい。兵士らしき彼氏の子供を身籠っているらしい。ウンベルトとは割と仲が良く、なにかと世話を焼いてくれるが、無垢なだけの善良さという感じがある。彼女もまた不幸なままだ。
すごくどうでもいいが、新聞に火をつけて壁を這う蟻を払うシーンがある。めちゃくちゃ新聞が燃えて、ほとんど手元あたりまで火が伸びているのに平然としていた。凄いなと思った。
フライク
雑種ということだが、ジャック・ラッセル・テリアのように見えた。こいつがよく手懐けられているというか、芸がちゃんと仕込まれているというか、かなりしっかりと演技する。ういやつだ。
どのシーンでの彼も好きだが、預けられそうになったときに吠えられて、ウンベルトの足元に怯えて隠れていたシーンがなんとも愛おしい。しかし、この犬も、まず時代性からして芸能用の犬ってことはなさそうだが、どうやって見つけ出したのだろうか。
バスで去る旧友
家賃を工面しようとウンベルトは、古い同僚にお金を借りようとする。相談したところで貸してくれなかった友人はバスに飛び乗り逃げようとしつつ、「○○によろしく」と別の旧友を話題にして、話を切り上げようとする。バスは走り出す。
するとウンベルトが「○○は死んだよ」みたいに叫んで返す。この返答を聞いた友人は、悲喜に満ちたようなおどけた表情となった。もちろん喜んでいるわけではないが、話題を転換しようとして、完全に墓穴を掘ってしまって、どうしようもない。そのままバスは加速して、旧友は去っていく。
このやるせなが本作でもっとも心に残ったかもしれない。
さて、ヴィットリオ・デ・シーカ監督作品は、このマラソンではもう終わりだが、いわゆる晩年時代の《悲しみの青春》(1971)なんかも面白そうだし、機会をみて追ってみたい。
五島美術館で開催されていた《アジアのうつわわーるど》展を見てきた。昨年のことだ。二子玉川に寄ったという記事を先日アップした。その続きだ。その日の用事を終え、観光地はないかと検索した結果の訪問先となった。二子玉川の駅からは徒歩で 15 分ほどだろうか。
本展の趣旨としては、そもそも町田市立博物館という施設がある。それがリニューアルを前提に閉館され、所蔵品である陶器類、ガラス製品類を見せようという企画となったらしい。そのなかでも中国、東南アジアの収蔵品は世界でも数えるほどのラインナップとのことだ。展覧会には正確には「町田市立博物館所蔵陶磁・ガラス名品展」という副題がついた。四部構成となっている。
中国陶器 鑑賞陶器
「鑑賞陶器」とは主に観賞用に製作された陶器らしいが、国際的に有効なカテゴリーなのか日本国内でのみ通用する視点なのか。どうなんだろうか。 つまるところ、墓所に収められた陶器だとか、人形だとか、実用品ではなくて飾りとしてして作られた壺だの皿だとかである。ところで、下記の枕のように実際に使われていたとしても不思議ではなさそうな器もあったので、カテゴリーの範疇が、よくわからない。
No.7 三彩牡丹文盤
遼で作られた器らしい。色合いが濃い黄色と外側の縁のあたりは緑色かな。図録で見ると、外縁は黒様だが、直接にみた時は緑色だったと記憶している。逆さに窯入れして焼く方式だそうで、内と外の黄と緑の釉薬が接する面で垂れるような状態になり、仕上がりとしては、ちょっと盛り上がった形になっているとか。とにかく濃い黄色がよかった。
No.10 白釉鉄絵草花文枕
変わり種の焼き物というか、文字通りの枕。結構、首の位置が高くなる大きめの仕上がりだ。大男が使うとちょうどよかったのかな? 上述のように、これを観賞用というのは無理がある気がするのだが、どうなのかな。鉄絵具で描かれた図案が美しい。
中国陶器 貿易陶器
こちらはカテゴリーの由来がハッキリしている。中国で製作されたことは確かだが、中国以外で見つかった、つまり交易品だったろう陶器類だ。これもさまざまな年代と思われる出土品があるが、西は東アフリカまで確認されたそうな。
No.23 青磁双魚文皿
小ぶりだったが、見込み、皿の底に魚がプクッとさりげなく浮いている。どこかで似たようなのを見たことがある気もしたが、目に留まった。南宋から元時代、13 世紀ごろの品だろうとのことだった。子宝的なモチーフらしい。実際に使うには、水なりスープなりの液体を入れるんだろう。
No.27 青花束蓮文大盤
「蘇麻離青」という顔料を使っているらしいが、これはイスラム圏から輸入したそうだ。というわけで、イスラム美術っぽい青色をしている。というイメージで伝わるか知らんが、そうとしか言いようがない。この美術品が逆にイスラム圏に輸出されたりしたらしいので、それはそれで面白い。
東南アジア陶器
1 番面白かったというか、発見があったというか。 タイの窯が割と活発だったのがおもしろい。あとはミャンマーかな。欧州やアラブで流行した青い釉薬を生かした技法があり、それは他の東アジア地域では使われていなかったものの、ミャンマーには伝来していたことが確認できている、らしい。中東圏が当時から東南アジアに影響を及ぼしていたという事実がよくわかる。
ベトナム
特に中国と隣接が強いので、技術も流れてきやすかったという面はあるようだった。展示物にはいくつかボテッとしたスタイルの壺が展示されていた。あとは前述の蘇麻離青による彩色がある。中国とは異なり、画題は花に限らないのがポイントのようだ。
クメール
現カンボジア地域の窯とされる品々ということだが、文化圏とエリアが他と重複しがちなので「クメール王国」としてまとめたらしい。丸っこい象型のツボ、兎型のツボなどが印象深い。いずれも神聖な扱いをされたとかだっけな。ヒンドゥーの文化が混じってる、みたいなことを言われると、たしかにそんな気がする。
タイ
クメールとは逆に、いくつかの地域と時期でさまざまな王国と文化がガチャガチャしていたらしいが、ここはタイとしてまとめられていた。窯の名前が印象的で-つまり地名だろうけど、シーサッチャナーライ窯とスコータイ窯という名前が魅力的だ。これらの窯の品が多かったが、スコータイ窯のシンプルな品が個人的には好ましかった。こちらも文様は、鉄絵具で描画されている。
そのほかの窯の品もそれぞれに特徴があった。鉄絵唐草文碗というのが小ぶりで文様も可愛く、お茶碗としてふつうに使えそうで、持って帰りたかった。
ミャンマー
陶器製のタイルの展示がメインだったか。8 世紀頃からあったらしい。インドだとかインドネシアだとかを連想させられる。というのも仏教的なモチーフが採用されている。これが特徴ではあるらしいことは確かで、こちらも中国の影響というよりは西側、南アジア圏の影響が強かったんだろうな。東京国立博物館の東洋館の初っ端あたりの展示物に、こういうタイル様の仏教建築の一部なんかがあるイメージだ。
中国ガラス
分厚い色ガラスを削って紋様なりイラストなりにする。見ればそのままだが、色ガラスの製品を目にする機会が少ないので、一見だと謎の技術に見える。手が込むと、たとえば白い層と色のある層の 2 種のガラスでできており、色の層を削り切って白い層が目に見える、みたいなことになる。このガラスの色が毒々しいというか、艶めかしいというか、すごい作り物感がある。青や赤も十分だが、黄が特に力強い。
「鼻煙壺」(びえんこ)と呼ばれる嗅ぎタバコ用の小さな壺たちもたくさん展示されていた。17 世紀に欧州で流行った嗅ぎタバコが中国本土でも流行したらしい。ふーむ。これらも形状が特殊であったり、いわゆる吉兆のモチーフが描かれたりと、バリエーションの豊富と細密さには目を奪われる。
上述のガラスを削る技法は使われているが、彩色するパターンもあったようで、さまざまであった。
昨年末、2021 年の 12 月に二子玉川に用事があり、そのついでに近場の美術館を探して五島美術館へ赴いた。「アジアのうつわわーるど」という特別展を鑑賞したが、それはそれとして別途、何かを書ければいいが、とりあえずは置いておく。
本館の展示スペースは最小限ながらも、庭が広い。そもそも東急グループの始祖らしい五島慶太の収集した美術品を管理するための施設らしく、この敷地もその屋敷の一部であったらしい。
庭についてだが、Wikipedia によれば高村弘平という造園家の仕事とのことだ。記事を読むと単なる職人ということではまったくなくて、空間設計するひとみたいな感じなのか。ほぼほぼ 20 世紀をまるごと生きたような時代背景と人物で、こちらも紐解くと面白そうだが。
庭園だが、世田谷区上野毛の斜面に展開されている。具体的な広さはどんなもんだろうか。斜面だからなんとも言いづらいが、小さな校庭くらいはあるのではないか。分かりづらいな。体育館2、3個分くらいとか?
仏像が何点か配されていたり、茶室があったり、富士見のポイントがあったり-聳える楽天のビルがみえる、エリアごとに門が設けられていたりと、つまるところ楽しい庭だ。どれくらい本気で仏教的な空間にしたかったのかは不明だが、浮世を離れて軽く気分転換するには十分すぎるくらい贅沢な時間になる。
いくつか池が点在し、鯉がいくつか泳いでいる。古い施設であるし、わざわざ水をどこかから流し込んでいる風にもみえなかった。それはそれとして気になったのだが、そのことを確認したわけだ。
美術館側からぐるりと庭園を歩いて 1 周し、ふたたび下って裏口から二子玉川方面に出ようとしたら、付近に古井戸がある。ははぁ。そして斜面の終点あたりに向かって、周辺の路面に流水すらしていた。
落ち葉を掃除している方がいたので、この流水はどっかから湧いているのか、溜まった雨水のそれなのか、なんとなく聞いてみたが、これはよくわからないとのことだった。どうなんでしょうね。単純には、やはり地下水と思うが。
そういえば園内には古墳の跡地らしい空間もあった。稲荷丸古墳とかいうようだが、詳細はよくわからない。調べればそれなりのことはわかるだろう。また、隣接して稲荷神社もあるようなので、この土地自体がやはり古くから、いい土地だったのでしょう。
幼いころから腰がすこしばかり弱く、激しい運動を続けたり、腰に負担のかかる動きをしたりすると、ビクッと腰に電流が走るような痛みに襲われることがあった。主には中学生ごろのことだ。結果的には若年性ヘルニアの類だった。
それも、筋肉やらをつけたり、腰の動きに気をつけたり、などなどのケアを続けるうちに、たまにヤバいなということはあっても、症状が特に重くなることもなく、それなりに生きてこれた。重症化すると、若年性でも手術を要することになるらしい。同級生で手術した子がいた。
で、腰に悪い動きの筆頭として挙げられたのがうつ伏せであった。それまではうつ伏せで就寝することがあった-疲れによる寝落ちだが。同じように、何時間も読書することもあった-これが決定的によくなかった気がする。これをすっぱり止めた。もう何年も経った。
昨年、自律神経の不調を自覚していろいろと情報を見ると、うつ伏せが短期的に効果があるという。つまるところ深呼吸を促すという話だ。胸部と腹部が自重で押しこまれ、呼吸が自ずと深くなるという。その通りだった。なんなら、きれいな話ではないが、内臓に溜まったガスも押し出されやすい。これも、便秘などにはよいらしい。
個人的な問題は、肝心の腰への影響だが、幸いにして、現時点では無い。良くも悪くもお腹の肉が増えたとか、体格の変化もあったろう。どちらかというと現状で注意すべきは首で、横を向く場合は長くないほうがいい。長時間、自然でない方向にスジを伸ばす形になる。
枕に顔を突っ込んで首を横にしない方法もあるが、これは呼吸しづらい、寝づらいという人もいるだろうし、難しいところだ。専用の枕などもあるように思うが、現時点ではそこまでは深入りしていない。
ところで、大谷翔平の直近のインタビューで、彼はうつ伏せで眠ると言っていた。スポーツ選手がどのような態勢で眠るのかというのは、なにかしら研究はあるのだろうか。
新年に映画をということで《エッシャー通りの赤いポスト》を観た。園子温監督作品の初鑑賞、かつインディー映画と、なかなかヘヴィーな体験だった。映画周りのコミュニティの感想をいくつか見ていたが、目につく範囲では特に監督のファンからの感想は概ねポジティブであった。
なるほど……。
おおざっぱなあらすじ
気鋭の新人監督が新作品のための俳優を募集する。ほうぼうさまざまな背景を持ったひとたちが募集に殺到する。オーディションを経て俳優らは決まるが、監督はプロデューサーとの軋轢に苦しみ、合格した俳優も、落選したさまざまなひとらも、それぞれに苦しみ、悶える。最終的な撮影は混沌の渦となる。
エッシャー通りとは?
いわゆる騙し絵の類で有名な画家のエッシャーから援用された名称と思われる。実際上は成立しえないループする階段群や水路など、それらをモチーフにする絵画を描く。これをヒントに読み解くならば、身も蓋も無いが、本作にも循環構造や境界のあいまいさのような視点がよさそうだ。が、この視点自体は、物は言いようみたいになりがちではある。
本作は、ワークショップと地続きのうえで製作されたらしいので、前提からしてパッケージとしての映画作品と、そうでないインディー映画としてのあり方の境界が曖昧だと言えるかもしれない。あるいは、演者と観客、主役と脇役またはエキストラ、もしくはプロとアマチュア、諸々の境界が非常に曖昧になっているとも言える、かもしれない。
ところで作中で登場する「エッシャー通り」と「赤いポスト」は、映画作品への出演を希望するひとびとが応募書類を放り込むための道のりであり、投函先を指す。ふんわりとそれっぽいことを言うと、「応募者たちはエッシャー通りを歩んで書類をポストに投函した時点で、作品世界の不合理に溶け込む」みたいなことになる。
有名俳優たちは溶け込んだか?
これも監督の狙いといえばそうなるだろうし、いわゆる「○○組」という縁もあるのだろう、有名俳優たちもいくらか出演している。私が気がついた限りだと-名前をあとから確認した方ばかりだが、渡辺哲、諏訪太朗、吹越満、藤田朋子などがいた。
渡辺哲、諏訪太朗が登場するシーンは、本作におけるアンチテーゼな部分を担っており、だからこそ彼らのような俳優が起用されたのかなと察する限りだが、どうだろうか。別にここの配役も新人とされるタイプの方々でよかったのでは。エッシャーし過ぎではなかったか。
藤田朋子もまた存在感が強くて、すごい。言わずもがな。吹越満はちょっと出の友情出演くらいだったので、まぁ、でも画面を持っていって、エッシャーが過ぎる。
監督もエッシャー通りするする
作中における監督もエッシャー通りに差し掛かるシーンがある。ここも妙なことで、結局のところ監督も迷える子羊なのであった。監督の背景事情は少し明かされるだけだが、まぁ見ていれば事の次第はわかる。
殊、創作において、クリエイターという領分にとっての美の根源というか、創作意欲の源泉というのは、どういうものか。単純なことだ。
個人的には監督の元恋人の方子、彼女の最後のほうでの登場のしかたがああいう見せ方でいいのかというのが心に残っており、ああいう方法で見せるしかなかったのかなという疑問が浮かんだままだ。
粗削りというか、放り投げるとうか、逃げ去るというか、それが魅力といえばそうなんだろうか。つまるところ、園監督の状況をそのままに体現したシーンとしてしまってないのだろうか。
この作品の熱とはなんだったのか
いくつもの感想に、本作を表して「熱い」「熱量」「熱意」などのワードがよく使われていた。端的には、本作の元となったワークショップの参加者たちが抱く「映画に出たい」というパッションが、そのまま映画に反映されていたということと思う。スゲェな。
ん-、どう言えばいいのか。作品の性質上、そうなるのか。少なくとも監督がそれを求めていたかは疑問というか。言ってみればそういう熱さを冷たい目で見離した目線も監督にはあるのではないのか。それは穿ちすぎだろうか。逆にだとすれば、そういったなかで演技を求められる俳優陣たちはツラかろうな、とも。
ついては 51 人の登場人物がいるとのことだが、公式サイトには彼らの氏名はクレジットされておらず不満だったが、映画.com には記載されていたので感動した。
ついでにいうとなんだが、解説には「群像劇」とあるけど、この作品を群像劇と割り切るのもなかなか難しいような不安が付きまとう。
さまざまなエッシャー通りと、その空気のよさ
ざっと思い出すだけで、6 つくらいエッシャー通りがあったと思うが、その風景はどれもよかった。
アスファルトの脇を小川が流れる小路に置かれたポスト、大きな河川沿いのサイクリングロードっぽいところに置かれたポスト、住宅街にぽっと置かれたポスト、どうみてもイマジネーションの産物といった情景とポストなどがあった。
ひとつのポストの背景の電柱には武蔵野市とあった気がした。撮影はほとんど都内とのことだので間違いなさそう。草ッ原がきれいな河川も美しく、映画のビジュアルにも採用されているようだが、どこの河川かわからない。下記のサイトに詳しいが載っていない。都内なら西寄りの河川と思うが、土地勘がない。
最後のシーンは監督の地元である豊橋らしいが、田舎の商店街で繰り広げられる夏の小さな催事と、このゴチャゴチャ感は愛おしかった。カラッとした夏っぽさが画面中を妙に瑞々しくしており、これはとても心地よい。
そういえば、笑いを狙ったシーンも多かったと思うが、クスクスレベルでも笑うひとが少なくて、これも少しツラかった。決して大真面目な映画でもなさそうなので、みんなもっと笑おうぜ、とは感じるのであった。
《マトリックス リザレクションズ/The Matrix Resurrections》を観た。雑な鑑賞者なので、過去のどの作品における結末も、その意味も曖昧なままで臨んだが「これはシリーズ最高傑作じゃないか?」となった。 もちろん、第 1 作目ありきという点はある。
空を飛べるはず
2 作目の「リローデッド」にて、仮想現実におけるネオの超常性の極みとして彼は、空を飛んだ。1人の視聴者としてそのスゴさを理解できたとは思っていないが、これがどれだけスゴいかは、他の登場人物たちには不可能な行為であることから示される。あるいは銃弾を受けとめたり、ハンドパワーでオブジェクトを撥ね退けるのもネオ特有の能力だ。
さて、空を飛ぶヒーローといえば古今東西の事実として、孫悟空(『西遊記』)かピーターパンか、スーパーマンでもいいが、とにかく普通の人間じゃない存在の筆頭だ。マトリックスは第 1 作でもありえない跳躍力や身体能力は見せつけてくるが、この時点では空は飛べない。
で、今作でも空を飛ぶことが如何にもキーポイントになっている。ときどき現実感を失うアンダーソンは、なんか空を飛べる気がしてしまう瞬間がある。言うまでもなくて、過去作の変奏であって、アンダーソンは深層では現実を自覚している。
年を取った 2 人 あるいは
それぞれの発表の当時 3 部作をザックリと眺めていたときは、トリニティーの重要性にそこまで注目できていなかった。
ところで、セカイ系のような文脈で括りたくはないが、思い合う 2 人の関係がもたらすエネルギーは桁が知れない。今作は、ネオとトリニティーの過去におけるすれ違い、というか不幸な生き別れに対し、あらためて明確な答えが提出される。これこそがリザレクションなワケだ。
2 人は仮想現実でも現実世界(こっちはどうなんだろう)でも年を経ている。なんなら同僚もいれば家族もいる。若いままの彼らではない。とはいえ、ここは案外に重要なことと思うが、今作では、年を重ねてこそいるが、老いを理由にした要素を持ち出すことは最小限で、それもほとんどネガティブなことはない。
しかしなんだね、気がついてみれば、本作あるいはシリーズを通してのネオは周囲に振り回されるのが半分、自分の決意が半分、なんかどうにかなっちゃったぜが半分という雰囲気だなとあらためて感じる。
そこに今回はトリニティーの存在意義があらためて問い直されているワケで、ネオはいったい何だったんだとすらなり得る。こういう配役で浮きすぎず、かといって存在意義を失わないのがキアヌ・リーヴスたる俳優の凄さだろうか。
繰り返すようになるが、トリニティーがなにより重要である一方、ネオも重要なのは言うまでもない。エンドロールの最後にあるように、そして監督インタビューなどでも語られたように、監督は両親への愛と感謝を前提に今作を残したことを考えると、自ずと答えは出るだろう。
スミスの台詞のニュアンスよ
最終決戦というかクライマックスの段において、スミスは「君になることは誰にでもできるが、僕は誰にでもなれる」という旨の発言をした。
ここから、スミス支配下におかれた市民たちによる狂乱の舞台が繰り広げられる。あきらかに《ワールド・ウォーZ》(2013)や《新感染 ファイナル・エクスプレス》(2016)のシーンをそのまま反映させたような、ゾンビ映画様のシチュエーションが繰り広げられ、笑ってしまう。
ところが、スミスの発言のキモは、その後半にあったのではなくて前半にあった。わかりやすいといえばそれまでだが、最終的にこのセリフの意味が、こういうことになるとは、という感心があった。ありがとう、いいスミスです。
こまごまとしたこと
以下のことは何となく気になったのでメモとして残しておく。
日本をどうしたいんだよ
作中で「ここは日本だ」というようなシーンがある。新幹線のなかで東海道だろうか富士山を背に東京方面に向かっているようなビジュアルだったか。紛い物の桜の美しさが鼻につく。
乗客は子供たちやらサラリーマンやらいたが、一様にマスクを装着している。今作がどの期間に撮影されたかしらぬが、まぁみんなルールに従ってマスクしているわけだ。
で、上述したクライマックスのスミスの人間ハック技はここで実はすでにお披露目されており、スミスの手下となってしまった醜悪で無垢な日本人たちがネオの一行に襲い掛かる。新幹線のなかでのことだ-やっぱり「新感染」じゃんとなる。
このシーンに日本を選んだことにどういう意図があったかは想像するしかないのだろうが、いかにも皮肉に映ることは確かだろう。再度目覚めようというネオに降りかかる最後の障害であった。ちょっと心に刺さるものがあったよね。
再現の舞台空間の古めかしさよ
日本人たちから逃れて辿り着いたのは、ネオの記憶を呼び覚まし、ふたたび現実へ彼を呼び戻すためのステージだった。このステージ、大きなスクリーンに過去作の映像をそのまま映し出して、ネオの動揺を誘うという仕掛けだが、安っぽいと言えば安っぽい。
作品のメタさと舞台のベタさの相乗効果がなんともいえないシチュエーションを生み出しており、ぶっちゃけ萎えてしまったひともいるのではないかとすら思う。なにかしらの作品のオマージュでもある気もするが、ハッキリとはわからない。
でもこのシーン、なんだかんだで好きなんだよね。
で、だいたい言いたいことは終わりだが、ひとつだけ不満というか、トレーラーで使われていた音楽について、たしかに作中でも同じシーンでそのままに使われていた。印象に残るものだったが、そこ 1 箇所で利用されるだけだったのが少し寂しい。
最後に、過去最高作じゃないかと感じた理由づけを簡単にしておくと「蛇足とは言いがたい内容になっていた」という点に尽きる。何も新しいとは感じないが、観るに値しないみたいなことはまったく思わないし、奇妙な味わいが確かにあった。
参考
以下の上の記事を読んで劇場で観たいとなった。作品について詳しく、社会批評寄りの内容で、特にジェンダー方面の視点を取り扱っている。作品周辺の事情については下の記事がより具体的であった。あんまりこういう視点に寄りたくもないが、世の中がこの作品をどう評価して、どう利用しようとしているかはキモではある。
あらためて個人的な感触だけ付言すると、ごくパーソナルな視点としては、女性というイデアにまつわる根源的な視点を求めるんじゃないかなという気はする。上述したが、そこには監督の本作へのモチベーションが何に根ざしているか、というのが基本になるのではないか。