《007/No Time To Die》を観た。なんだかんだでシリーズを通しで鑑賞できたダニエル・クレイグ版のボンドにはそれなりに愛着がある。全体における物語の背後関係を理解しきれていない気がするけど、まぁいいでしょ。

  1. 《007 カジノ・ロワイヤル/Casino Royale》
  2. 《007/慰めの報酬/Quantum of Solace》
  3. 《007 スカイフォール/Skyfall》
  4. 《007 スペクター/Spectre》
  5. 《007/ノー・タイム・トゥ・ダイ/No Time To Die》

となっているわけだが、どうだろうな。3 作目が個人的には 1 番好きかな。自分が出生の秘密みたいなネタに弱いのと、単純に完成度が高いように感じる。1、2 作目は昔に TV で放送されたのをぼんやりと鑑賞した経験があったのだが、それをすっかり忘れていた。直近で再見して確認した。

1 作目は新シリーズとして好評だったらしいが、カジノで毒を盛られる展開がなんだかなという、個人的にはややネガティブな印象が強い。2 作目は短いんだっけ。それでも最後のほうの展開は嫌いじゃなかい。

4 作目はラストに砂漠の秘密基地を攻めるという、いかにもな展開は嫌いじゃないが、そこそこというところ。3 作目で明らかになった敵役との決着という点では重要ではあるのだけれど。でも、いわゆるポスターのデザインは 4 作目が 1 番好きだ。かっこいいね。

で、今作だが外連味のある敵役が来たなぁ、という。北方領土あたりを決戦の地に選ぶのは監督さんの出自の流れもあるのだろうか、胡散臭いナノ兵器工場とよくよく考えるとバカバカしいウソ臭さにあふれた毒草園のデザインも、なんか許せちゃう気にさせられる。奇妙な畳の間と奥に鎮座する神棚のような何かは、ちょっと苦笑いするけど。

熱心なファンの方の感想で知ったが、ドゥニ・ヴィルヌーブも監督候補になっていたらしい。今回のキャリー・J・フクナガ監督だが、ところどころの美術やカットの美観が似ている印象はあった。それらの影響関係は知らないけれど。ヴィルヌーブは次回シリーズ作品の監督を熱望という報道もあるみたいだが、どうか。

国家レベルの秘密組織の人外エージェントという役割を背負った、かつ出生にも傷のある人間が、それでもどこかにしら人間性を求めつつ、任務を全うしていく。女性に対しては「50:50 で女性は彼に対してあんな態度をとる」と言われてしまうような関係性をいやおうなしに構築せざるを得ない。そんな彼が安らげる住処は果たしてあるのか。

みたいな経緯を本シリーズ全体で辿ったとき、今作の結末はパッと見以上に、類型の物語の枠を外していないド定番だろう。007 シリーズであるという点を除けばだ。最後には、ちゃんとした人間としての、特に実にパーソナルな使命を全うした。

映像としては、いろいろな距離やアングルからの映像が的確に入り乱れており、これが大作ならではのよさだが、撮影なり編集なりのこだわりがしっかり効いていた。個人的には森での抗争が終わるとき、飛び去るヘリコプターの音を追い、草原に出て空を仰ぐまでのシーンとカットが 1 番印象に残っている。

不満というほどではないが、時代性を配慮した演出が増えているのはわかるが、一方で、冒頭と終盤で幼い女の子が危険にさらされる描写は、お話の構成の面で仕方がないとはいえ、あまり心臓によくなかった。

ともいえ、子供という要素をそこまで前面化させるつもりもなかったようなのも理解はできた。

ダニエル・クレイグのボンドは、安酒をバカバカと飲んでいる姿が印象深い。アルコール中毒だという指摘は昔からあるらしいけど、そりゃそうなるでしょ。南洋と黒人の街がこれほどピタッとハマるのも彼らしくて好きだった。シリーズがあらたに始まるのか知らないけれど、とりあえずお疲れさまでした。

過去シリーズはちょいちょいしか見てないので、時間が作れれば見たいところではある。アメリカのアクション映画史の側面でもあるわけでな。

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《アンテベラム/Antebellum》を観た。2020年の作品らしいが、国内では本年 11 月に上映開始された。題字の「Antebellum」は「戦前」を意味するらしいが、USでは「南北戦争前」を意味することが多いらしい(Wikipedia拠)。

本作は割とネタバレが問題になる作風なので、いつもは書かないが、鑑賞しようとしている人は読まないようにしてほしい。

もう言うまでも無いが、黒人および女性への人種差別と奴隷の歴史的な問題を扱った作品で、それがエンターテインメントになっている。公式などにはスリラーとあったと記憶しているが、違和感はない。

長いワンカットで映画が始まる。ある集落かしらぬが、少人数の管理者側の白人たちとなにやら下働きさせられている黒人たちの景色が延々と映される。集落の外れまで進んでいくと、なにやら騒ぎが起きている。逃亡奴隷が捕まっていた。

結論から言って-もちろん鑑賞後の放言となってしまうが、この集落が妙に箱庭染みていて、作り物臭かったのは、まさにその通りではあった。綿花畑もお庭のような面積しかなく、見張りのような将校のようなようわからん男たちも騎馬したまま畑を割ってくる。嘘やん。

後半だったと思うが、集めたそれを燃やしているところとか笑うしかないよね。

気づく人にはこの世界がまやかしであることは明らかだろう。正直に言って私はギリギリまで確信はできなかった。

新しい奴隷の候補として送られてきた娘の発言も、よくよく振り返ってみれば当時にしてはあり得ないのだ。

そういう意味で、いろいろと突き詰めていくと本作が、どれだけ誠実かは難しい。というか、一般的には誠実な作品はいえなそう。スリラーであり、エンターテインメントではあるけれど。

場面転換と画面の美しさは好きだ。現代におけるヴェロニカの活躍は、どれだけ本国の先進的な黒人女性のオピニオンリーダーの実際を再現しているのかはハッキリわからないが、それなりには何ともそれらしいとは感じた。

ちなみに、彼女の寝起きのシーンで乗馬で騎馬しているカットが入っているのは、丁寧ではあった。

話の全体が統合されてからの結末にかけての展開は、もうオチの回収が残っただけだし、大した展開を期待できる組み合わせでもないので、淡々とことは進んでいったように思う。

脱出の最期で「Antebellum」を経る過程を馬を走らせて逃げる彼女にあのようにオーバーラップさせたのは、賛否両論あるとは思うけれど、それらしくするのは成功していたとは思うので、まぁ上手いな、とは。

細々としたことなど

全体とは別にいくつかのポイントっぽいのだけ列記しておく。

攫われた土地と集落のあった土地

攫われたのはルイジアナのニューオリンズで間違いないようだが、集落があったのはどこだったのかね。作中で登場した地図や最後の看板で判断できるような気もするが、定かではない。けど、Wikipedia の説明欄にはルイジアナと書いてあるから、そうなんだろうな。

事実確認しないで書くけど、南北戦争前後って大方は北部から徐々に黒人奴隷制度が無くなっていってたハズで、ルイジアナのニューオリンズは、このときはどんなだったんだっけ。いや、歴史的な事実に即しているなら文句も無いし、ワザと脚本が歴史的には完全に誤りである状況を演出してても文句はないのだが、こういうことを丁寧に解くことに、それなりに意義はありそう。誰かがやっていそうだけれど。

エデンとは

ヴェロニカの現地での名前だが、倒錯もここまで酷いと笑ってしまうよね。デントン上院議員(だっけ?)にとって、集落は理想郷であり、その象徴がヴェロニカであるわけだが、同時に彼女が禁断の果実でもあったみたいな。単純ではある。

ホテルのサービスとディナー

ところどころで差別的な対応がなされる状況があるが、これもリアルではあるのだろう。体格のいい友人、すっごい嫌味な役だったが、キャラが立っている。

本作の謎っぽいひとつに、この友人にカクテルを持ってくる男がこき下ろされるシーンがあるのだが、何のためのシーンだったのか、これがよくわからない。

エレベーターの少女

鑑賞者をミスリードさせる以上の目的があったのか、このシーンも謎である。んー、あれ、冒頭で奴隷に名前を与えていたのもこの子だったのだっけ? まぁ、だとしても意味が分からない。

客室への侵入とハウスキーパー

ヴェロニカ誘拐前に、彼女の部屋に侵入したエリザベス(?)の目的もよくわからないのだが、エリザベスに従って部屋を開けたっぽいハウスキーパーもよくわからない。それなりに高級そうなホテルだが、そんなこと可能なのか?

っていうかハウスキーパーの性別がよくわからないのだが、画面に映った足元が、エリザベスもハウスキーパーも不気味で、何なら本作で 1 番好きなシーンまである。

まとめ

疑問点みたいなのを並べてくと、そんなにピタッと出来のよい作品でもないんだけど-そもそも現代社会でこんなん可能なのかみたいな話でもあるワケで-、画面はそれなりに決まっていて楽しめたので、個人的にはそれはそれとして何となく許せた。

また、本作の背景となった主に歴史的な事実やその描写などについて、既知の人間から見た本作の箱庭集落の酔狂さや奇矯さ、ズレのような設定や振る舞い(あるいはズレそのもの)も、対してそれらについて無知の人間には、それなりにもっともらしい世界(過去の現実)にも見えるようにはなっているハズで-でなければ本作のスリラーさなどそもそも否定される-、だとすれば、この認識のギャップを作品や製作者たちが狙っているとも考えられる。

としたときに、その狙いの先を想像してみると、やっぱり本作は-前言撤回して-それなりによく出来ていると言えるのではないのかしら、とかね。

ついでに、ざっくり《ザ・ハント/HUNT》っぽいなとは見ながら思ったが、あちらのほうがアクションや残虐性が派手で構成の妙も効いていた気がする。その分だけスリラーとして分がいい気がする。

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特に有益な情報などはありません。そのハズです。

iPhone と iOS 、Android と Pixel の最新バージョンが時期を同じくして発表、発売されたせいか、妙な空気がいつも以上に強く立ち込めている気がする。以下の記事などは楽しく読んだ。

そんな雰囲気のなか、Google の Pixel 6 に携帯電話を機種変更した。キャリアは au だ。ドコモ、ソフトバンクなどと渡り歩いて au にお世話になりはじめ、何年くらいたったかしら。

時は200X年、 iPhone 3G が登場したので、FOMA を卒業すると同時にソフトバンクに乗り換えた。フィーチャーフォンにもフルブラウザ機能が搭載された時期と思うが、実用にはほど遠いなと横目で見ていた。それに比して、iPhone のタッチ操作が今後の Web ブラウジングのアタリマエになることはひと目でわかった-というと言いすぎか。

この iPhone 3G の個人的な最大の問題は、おサイフケータイでもワンセグでもなく、プッシュ通知に対応するメールアカウントがほぼ無く、米国 Yahoo! のメールアドレスくらいだったことだ。わざわざアカウントを取得し、メインで使っていた。したがって、この時点でキャリアメールは、ほぼ使わなくなった。

しかして、その後、HTC の Desire HD で Android 端末デビューを果たした。iPhone 3GS の登場するちょっと前くらいだったろうか。手元の iPhone 3G がヘタったので、気分転換も兼ねた変更だったと記憶している。

Desire HD は、これで評価は固まっていたし、使い勝手はたしかに良かった。この時期はどちらの OS、端末も-Android については「よくチューンアップされている場合は」という留保がつくが、一長一短という印象だった。あと、やはりこの時点でも Android 端末のほうがほんの少し安価だった。

同時期には国内メーカーでは au が Android au なんて銘打って大々的に披露されていた気がするが、まぁ評判は芳しくなかったし、現在の結果が大体を物語っているんでしょう。フィーチャーフォン時代はずっと富士通製のケータイを愛用、応援していたが、ついぞ arrows を使う機会も無かったのは残念ではあった。

その後、Nexus 5 の登場時に IIJmio に鞍替えして、しばらく使っていた。さらに次のタイミングではいくつかの都合が重なって、 iPhone 5 でひさびさの iOS に戻ったりもした。この時点で au にしたんだっけな。

iPhone 5 だが、フラットデザインが採用されたのがこのタイミングだったハズだ。UI に慣れるまでに時間もかかったし、iPhone 3G のときよりもチグハグな印象が増えた-機能が増えたからそれはそうなるだろうけれど。

ついては、この時点で-経歴的には Android OS の期間の方が圧倒的に長くなっていたわけだ孰れにせよ、Android のほうが使いやすいというイメージが固まっていった。

この頃には、韓国メーカーの Android 端末はどれも完成度が高いことは知っており、プライベートとは別に触る機会が増えていた、iPhone 5 がそこそこヘタったあとは LG 製のスマートフォンを 2 世代くらい使った。ところが、とうとう LG がスマートフォン事業から撤退した。

手元の端末は使い続けて 4 年ほど経ち、マイクは壊れ、やや動作がもたつきはじめ、バッテリー持続力に不安を覚えるシーンも少しずつ増えた。それなりに傷もヒビも増えた。

isai V30+ LGV35 、過去イチ愛用した端末であった気がする。

だので本当はそこまで変えたくもなかったが、やはり流石にヘタッたし、このタイミングで LG の端末からの代替としての最新 Pixel は十分でしょう、ということで購入を決した。

XPERIA 10 Ⅲ も選択肢だったが、最後の 1 歩で Pixel 6 が来てしまった。

Pixel 6 Pro は個人的にはオーバースペックでございました。

LG が撤退したイマ、韓国のメーカーは SAMSUNG が残るだけか。華系の端末も性能はよく、かつ安価だが、日常的に使うには躊躇うところがあるママだ。Android がなくなることはないだろうけど、次回に端末を交換するときにはどういう選択肢があるのだろうか。

iPhone もとい iOS がゼロベース近いレベルで再構築されるってこともないだろうけれど、やっぱり iPhone 3G の恩恵は忘れられないし、いつかは、スマートフォン全体レベルでの変革もなにかしらおこるだろうけれど、そのときに私は生きているのだろうか。

で、Pixel 6 と Android 12 だが、シンプルに使おうとする分には最高だが、いろいろとアプリを追加すると見た目という意味でも操作性という意味でもデザインが破綻する未来が目に見える。これは仕方がない。

以前の環境をそのまま移行することは現時点ではしていないので、面倒だが、ちょっとずつ慣らしていきたい。これも現時点の話だが、 Feedly と Brave のどちらも動かないのはちょっと苦笑い。早うアップデートなりで対応してくれたまえ。

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《レミニセンス/Reminiscence》を観た。クリストファー・ノーランの兄弟ジョナサン・ノーランが製作に関わっていることがプッシュされていた。監督のリサ・ジョイは、商業的な長編映画は初めてらしいが、アメリカの SF ドラマシリーズを大ヒットさせた手腕が買われたとのことだ。

近未来、海面上昇と戦争の影響で人間の居住可能地域はごく限られた範囲となり、いわゆる「陸」は一部の特権階級やら地主やらしか住めないらしく、一般以下の市民は堤防によって無理やり開拓されたエリアや半ば水没した都市、あるいは水上都市、バラックなどに暮らすようだ。マイアミ、ニューオリンズなどが舞台とされた。

水没した世界というと《ウォーターワールド》(1995)が浮かぶが、そこまで破滅的ではなく、パッと見た印象では《天気の子》(2019)のラストを思い出させられるような状況であった。同じような設定も珍しくはなかろうが、そんな感じだ。

気候変動で日中は暑すぎるので生活時間帯は夜間になっているらしいが、残り時間を過ごすような世界観で、そもそも社会がまともに成立しているようには見えず-少なくとも主人公を取り巻く生活の範囲では-なんとも苦い設定となっていた。

前置きが長い。

過去の記憶を操る装置をもつ主人公らは、思い出体験マシーンとしてそれを商売に使いつつ、警察の捜査に協力もしている。そのような経緯のなか、物語は「鍵を失くした」と営業終了後に飛び込んできた女性との出会い、ロマンス、喪失、そして背後で進行していた事態の真相の究明を描く。

オルフェウス神話

割と最近に鑑賞した《燃ゆる女の肖像》 でも効果的に引用されていたが、オルフェウス神話が話中で活用される。同時に、もともとの結末を「幸せなままの物語」として伝えるために主人公はヒロインに対してウソの展開を語っていた。

死んでいる妻との幸せを取り戻すために、ある意味で彼女の本当の素顔を隠したままにして死の世界から妻を救い出そうというオルフェウスの態度は、ある程度まで本作の主人公の辿った経緯をそこに重ねることはできようし、脚本もそれを狙って構成されているのは間違いない。

バラック群島で悪徳警官とのバトルの末に、彼女の幻影に出会うシーンは印象的な箇所のひとつだが、このシーンが示唆していることは多いと、鑑賞後に強く実感した。

とはいえ、前例として挙げた《燃える女の肖像》が、オルフェウス神話の要点を効果的に反映させたのに比して、本作は「言われてみればこうだったな」というような程度に落ち着いてしまったのは残念で、「なるほどね!」というハマった感もない。

狂気と記憶と二度目の邂逅

簾のような天幕が円形のスクリーン上に垂れており、ここに光をあてて 3D 映像を作り出す。このシステム自体はいちおう実在するらしい。

記憶なり夢の中からどうやって映像化するかまでは未知だが、主人公のような誘導技師がおり、一種の催眠術のような類とイメージすればいいのだろうが、深層意識下の記憶の描く風景を再現する。

結末を決定づけるシーンだが、ヒロインは半ば狂気のなか-薬を打たれているから、正面にいる悪徳警官の記憶を、いずれ主人公が探ることを予期し、経緯のあらましと愛を伝えて残した。

非常にバカバカしいように思うが、しかし、見逃しがたい異常なすれ違いがここで発生する。主人公の替え玉のようにそこに立ち、本来は彼女と相対していたはずの悪徳警官は、彼女の真正の愛の告白を、自分が受けているワケでもないのに正面から吸収してしまう結果になった。

物語のほとんどを通して、主人公にとってのファムファタールであったようにみえたヒロインは、この時点で悪徳警官にとっての其れになっていた。これが痛快というか、なんというか。

3D 映像の幻想を眺める主人公は、立ち尽くす悪徳警官の座標に移動し、ヒロインからの最期のメッセージを受け取る。倒錯が過ぎる!! めちゃくちゃ面白い手口ではあるんだけど、悪趣味というか、一歩間違えるとイヤな話なので-もともと全然イヤな話なのだが、感心するというか引いてしまうんだよね。

主人公が、他人の脳をバーンアウトさせてしまって、罰として夢の中にいることになったような結末だったが、アレはよくわからんな。仕事のパートナーの女性の将来との対比としたって、なんだかなぁ。

大枠はおもしろかったが、大枠くらいだったというか。

中国系のチンピラの頭領のキャラクターが憎めず、彼はよかったな。

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《サイコ・ゴアマン/Phycho Goreman》を観た。藤本タツキが絶賛というのも大きな印象を与えるが、いわゆる B級ホラー(でいいのだろうか)としてカルト的な人気があるらしく、行けるタイミングもあったので予約して訪問した。

上記、公式サイトの URL 、HTTPS になっていないのであんまり踏みたくないですね。

当該のシアターでは最終上映日であったらしく、既存ファンで大盛況、劇場の用意したアトラクションやサービスもてんこ盛り、初心者が紛れ込んでいい環境だったのだろうか。この熱気に気圧されてしまった。

よくできた映画だった。そう言えるのではないでしょうか。ゴテゴテの特撮感が-自分の認識する限りでは、狙い通りに効いている。

特には、クライマックスで敵役の身体を切り裂き、宇宙最強の剣を製錬して、それでもって切り払うところは絶頂でしたね。ほどよいグロテスクさと、ほぼほぼ王道な熱さが不思議な化学反応を起こしていた。

そしてラスト、愛を知ったゴアマンが「今後は気兼ねなく宇宙を破滅に導ける」みたいな謎の論理構成で、どっかの街へワープして破壊行為に勤しみ始めるシーンが、個人的には最高にクールで笑えた。

主役の兄妹はいいとして、両親がここまでストーリーに絡んでくるとは当初は予想しておらず、その点には驚いた。脳みそクンの出自も驚いたけれど。

ところでスーパー肝心な元部下とのシーンは、画面の閃光によるダメージを受けて、記憶がところどころ飛んでいる。大失態である。配信されることがあれば、復習しようかなといったところだ。

笑いどころについて

笑いどころったって、各々が面白いと思ったシーンで笑えばいいのだが、熱烈なファンたちには一定の流れがあって、これは作品を観るのが遅すぎたなと後悔したひとつだ。体感的には、父親のぼやくシーンが大抵ツボとなっているようだったが、どうだろう。

個人的には父親のぼやきはそこまででもなく、むしろ父親についてならラストのひと言、無人になっている工場との因縁がおもしろかったな。

笑いという点で無視できないのが、主人公としてのミミだけれど、これは笑いと恐怖、それこそ「サイコ」感が一体となった強烈なキャラクターで、彼女は扱い難し。

家族とヒステリーのような

ひと目したところで「家族のメロドラマになっていなくてよかった」という感想に出会ったが、なかなかどうして、サイコ・ゴアマンこそ話の中心だが、兄妹や家族の話に収束したように思う。

で、似た印象があったと感じた作品があって、それは《ヘレディタリー/継承》だ。これはホラー作品ではあるけれど、家族がアレヨアレヨトいう間に混沌に巻き込まれていく、というところで、怒りか恐怖かは別にして母親が、どえらいアクションに踏み切らざるを得なくなっていく。何だろうか。

あるいは《聖なる鹿殺し》も連想された。家族が怪異のような現象に巻き込まれ、四苦八苦する。私が比較的に直近で鑑賞した映画としては、これくらいかな。こちらの作品は、怪異の原因も中心となるのも父親だけれど。

家族がゴチャゴチャする映画というと、一気に雰囲気が変わるが武田鉄矢主演の《とられてたまるか!?》なども古い記憶ながら思い出させられる。コメディ? ギャグのような作品だったと思う。

とまぁ、なんでもいいのだが、家族が巻き込まれ型の作品という類型というのは、何かしら研究もあるのだろうけれど、どういうまとめ方ができるのかなと気になった。

《シャイニング》も家族モノだけど、ちょっと毛色が違う気がしている。

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宮崎吾朗監督作品《アーヤと魔女》を観た。スタジオジブリである。なかなか評判が芳しくないような印象があるが、私は本作はかなりすてきな佳作だなと。ふつうにおもしろい。奇を衒ったところがなく、これが私としてはよかった。

キャラクターとそのデザインについて

ポスターや静止画でこれほど映えないのが驚きだ。

いや、なんかキービジュアルに使われているポスターの 3DCG 、少し古い作品みたいな照り感というか、立体感というか。個人的には印象がいまいちでした。

実際に、動いているシーンを見るとネガティブな印象はどこへやら。ポスターのあれ、技術的な詳しいことはわからないけれど、やっぱり光り方がイメージを損ねているように思う。作中の光と影が作り出す明暗は、そこまで不自然でもないし、特に暗闇に光が射すあたりの表現はよかった。

目のコミカルな表現が全体を通しして見ないと不気味だ。

これもね、劇場広告やトレーラーなどでアーヤの変な目つきが悪い意味で、とても気になっていて、はっきり言って不細工だし、彼女の性格もよくわからない状態なので、どうしてもネガティブに感じている自分が居た。

これも鑑賞すれば、これくらいのデフォルメで感情表現をうまく操ったなと。アーヤ自身について言えば、いい人間でも悪い人間でもない。そもそもまだ子供だ。腹黒さがあるようだが、悪を志向しているわけでもなく、少女なりに逞しく、生き生きとしている。

ときどき見せられる少しいやらしい、悪びれた目つきは、言うまでもなく彼女の怒りや企みを表現しているわけだが、そこにはそれなりの理由があって、それも受け入れがたいものでもなく、要所で使われる分には楽しめる範囲だった。年がら年中あの目つきをされてはたまらない。

なので、結果的には本作の広告の出来は、あんまり良くなかったのではとなった。

ごく自然な 3DCG アニメーション

別に専門家じゃないし、1 回鑑賞しただけだし、そこだけ注視していたわけでもないので感覚的な話に終始するが、いくつかの感想を眺めるに「動かさせられているだけに見えた」みたいな意見が多かったので、異論を残しておきたい。

冒頭、園で閉鎖された鐘楼に登って丘の向こうの海を眺めるシーンがあった。アーヤは不安定な足場にフッと立つのだが、このシーンがよかった。まぁ、危ないんだよ。子供には当然やってほしくない。落ちかねない。そういう怖さがあった。

何を言いたいかっていうと、細かい所作が、いわゆるジブリアニメーションの系譜にちゃんと乗ってるなと感じた、という話だ。

こういった特に 3DCG として動かすためにデフォルメされた 3DCG キャラクターを駆使したアニメーションは、すっかりディズニーやピクサーの作品ばかりな気がするけれど、それらに近いところの派手な動きはかなり抑制されていて、それこそ超常的な現象を描写するシーンなどに留められていたのではないか。

矜持を感じる。

その他のことなど

話そのものは、おもしろいなというくらいで可もなく不可もない。聞くところによると原作は作者が亡くなってしまったため、そもそも中途半端な状態で終わったようだ。で、今回は脚本には出来るだけ手を加えなかったそうな。なるほどね。

アーヤの名前がひとつの味噌になっており、魔女でもあって、みたいなところだけど、原作在りきとはいえスタジオジブリの作品は、このセッティングを使うのがつくづく好きだよね。

3DCG で造形されたキャラクターたちだが、園の料理室のコックの男性と女性の 2 人は、宮崎駿というかジブリというか、という絵柄の雰囲気が残っていたね。

そんなところだろうか。

いや、しかし、余白とされた部分を見てみたくなったし、エンディングから先の話も気になる。おもしろい作品体験だった。

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《くちびるに歌を》を観た。三木孝浩監督の作品は初めて見た。直近だと《夏への扉 -キミのいる未来へ-》か。なるほどねぇ-特に含みはない。本作、長崎の五島列島が舞台ということで『坂道のアポロン』も監督しそうだなぁなどと思いながら眺めていた。調べてみたら、やっぱり監督してるじゃん。

監督本人は徳島出身だということだが、島々が点在する地域というところでは長崎と徳島には近いところがあるのだろうか。どちらにも行けたことがない。一生のうちに行ってみたい土地ではある。

原作は乙一こと中田永一で-逆か?、彼の作品も読んだことがないので物語の雰囲気などについても、完全に手探りだった。彼は福岡県田主丸町(現:久留米市)出身ということらしく、地図を眺めると内湾の対岸が長崎県だ。土地勘があるのだろう。

ところで、小説のモチーフとなったらしい根本のアンジェラ・アキは監督と同じ徳島出身らしいので、この辺でいろいろな縁があるのだなと推察される。

さて、青春映画ということだが、登場人物の背景は割と重い。婚約者を亡くしたピアニスト、失踪したクズの父に母を亡くした少女、障害を持つ兄がいたから自分が生まれたと自覚する少年など。ひとつの映画作品で扱うにはテーマが多いな、となる。

重いテーマばかりという感触に反して、作品の雰囲気は青春映画然として、フワッとサラッとした空気を中心に流れていく。島国なりの海の湿り気と潮っぽさもある。決して悪くはないのだが 132 分が、やや間延びした印象だったのは何故なのかな。

彼らの抱える問題も「これで解決」という類ではないので、それぞれがそれなりに折り合いを見つけて、ようようとやっていくという雰囲気で終わっていく。特には、少年少女の抱える事情をピアニストの先生が彼女なりに消化して、自らを前進させる原動力としたという演出は、控えめながら上手かったな。

それぞれの事情や感情の対立も、描かれはするのだが、その解消も特に際立った激突とはならないので、ネガティブな表現を使えば「山が見えない」のだが、これも狙ってのことだろうからなぁという感想に落ち着く。

原作を読んでいなくても楽しめたと言えばそうなのだが、原作既読向けに仕掛けられた演出も少なくないのだろうか。たとえば、教会の役割は、彼女たちにとって特別な存在であろうと想像できる以上には、重要さがほとんどわからなかった。彼女らはクリスチャンなのだろうか。

仲村ナズナがひとりで教会を訪れ、祭壇へ向かうシーンは本作で 1 番こだわりがあるのかなとは。画面のトーンが少し変わる。クライマックスの合唱シーンで生じたハイライトでも映ったが、全体の中での違和感が大きい。

ピアニストは代理教師が終わったのか、あるいはピアノを続ける覚悟が固まったからか、クライマックスで故郷を去るようだが、そのへんの詳細を明示しないのも本作らしい。

あまりクローズアップされることはなかったが、とにかく海がきれいだ。

ところで学校? 合唱部? のスローガン、そして本作のタイトルでもある「くちびるに歌を」というフレーズは、なにかしら由来があるのだろうか。パッと調べただけだと何もわからん。

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《子供はわかってあげない》を観た。青春映画を立て続けに見たが、こんな夏はかつて無かった。よい体験だった。

原作コミックは田島列島の『子供はわかってあげない』だ。既読だったが、鑑賞が終わってから確認して気がつく。2014 年の作品っぽいので許してください。再読中も既読か否か怪しんだが、奇しくも映画できれいにカットされたエピソードが読書体験を思い出させた。

いろいろと感想を見ると、原作が生かされていないという意見も少なくなかったが、映像への翻案は上手いといわざるを得ないのでしょう。いくつか原作で提示のみであった設定や伏線がうまく回収されたし、さりげないセリフを印象的に活用するなども見事で、個人的にはすごく満足だ。忘れていたヤツがどの口で、ではあるけれど。

まずは、カメラワークなりと演出なりで気になった箇所の話をする。

サンダルとかケータイとか

冒頭箇所で、プールに入る直前にヒロイン:朔田美波は、履いていたサンダルを脱ぐ。着水後、泳いで往復してプールから出る。直後に、友人とプールサイドを歩いて離れていくが、この時点ではサンダルは履かずに歩いている。手にも持っていない。いや、サンダルどうするねん。誰かが移動したとも考えづらいし、気が付いてしまうと奇妙だ。

あるいは別のシーンで、居間にいたヒロインは母親に声をかけられて、そこを出る。サイドテーブルに置いたケータイはそのままになっていたハズだった。ところが、次のシーンでは、彼女はそれをちゃんと手にしている。取りに戻ったのだろうと想像することもできるが、一連のつなぎとしては違和感が残る。気が付いてしまうと奇妙だ。

なんだろうね、これは。

モジくんについても似たように指摘できるシーンがあった。サンダルを履いて駆け出したら、次のシーンではスニーカーに切り替わっている。が、これは裏の入り口から表玄関へ移動して、その際に靴を履き替えたとみて自然だろうから、そこに違和感はない。

ほかにも何かあった気がするが、あまりその辺の整合は気にしないのか、フックとしての演出なのか、ようわからん箇所がいくつかあった。

アニメーションからリビングへ

冒頭、アニメーションから入る。入場したスクリーンを間違えたかと焦る。はっきり言って本作最大のネタバレ案件だろう。このアニメーションのクライマックスに至ると、それを映すテレビと居間にシーンは移行して、ヒロインは父と一緒にそれを鑑賞している。2 人はエンディングを歌う。

アニメーションだけで 5 分ほどあり、その後の家族の夕餉に至るまでの騒動を入れると さらにそこから10 分ほどが費やされただろうか。廊下と台所、居間などが輪になった構造なので、家族がどちゃ騒ぎしている様子をボーっと眺めていられる。掃除ロボットが動き始めたのも面白かった。この家族は仲がいい。幸せな家庭だ。

父と娘

ほとんど記憶にない実の父、幸せな家庭を支えてくれている今の父がいる。本作では前者である実の父との関係の修復のようなものが話の主題の半分以上くらいを占めているが、古舘寛治が演じる今の父のさりげない存在感がよい。もともとヒロインのアニメ好きという設定もこの父に由来するような設定がある。

原作は今の父の存在感が割と薄めだったが、映画ではなるべく丁寧に存在感を残していた。これは本当に絶妙だった。

カメラと視点のいろいろ

長回しが割に多い

冒頭の家庭のリビングのシーンもそうだが、長回しがちょいちょい入る。個人的には父の家での滞在が終わるシーンが印象深い。

画面右奥に位置する指圧治療院の先生の家から親子が出てくる。父の家の手前でメンツが揃う。少女から美波へ、水泳教室のお礼の絵が渡される。受け取った美波は、それぞれと挨拶を済ませ、左手奥へモジ君と 2 人移動して帰路へ着く。その場に残された父は、平屋の家へと戻り、購入したアニメ DVD の鑑賞をはじめる。玄関の扉は開いたままだ。余韻がある。

泳ぐ一人称視点

冒頭のプールでのシーン、GoProかなんか知らんけど、美波の視点になってプールで泳いでいる一人称視点になったのはなんだったのか。お遊びのカメラ回しのようにも思えるが、主役を意識づける仕掛けみたいだったのかね。水中にいること、その表現にどれだけ重きがあるか。

天井を覗く

モジ君の教室を外から覗く美波。モジ君が生徒に竜が実体化して天井を突き破って云々みたいな話を披露しはじめると、庭に佇んでいた美波も屈んで天井を覗くように視線を上に伸ばした、気がする。

なんならこの映画で 1 番好きなシーンといってもいいかもしれない。実際にそんなに声が聞こえるのかも疑問だし、そもそもそこから覗いても見えんだろうという気もするが、このシーンは美波がモジ君に惹かれているニュアンスを強めつつある箇所で、塩梅がよいのである。

プールの360度

これもカメラの遊びなのかわからないが、夏の大会で応援席にいるモジ君と彼の兄を映したシーンからカメラが徐々に離れていき、会場をグルっとひと回りする。ドローン撮影なんだろうかね。ニュアンスがわからないけれど、まぁ。

ちなみに、彼らの生活圏、広がる景色から埼玉県南部だろうなと思っていたが、クレジットを見る限りだと川口市あたりらしいようなので、勘は大体当たった。

お茶を出す女の子

実の父の家を訪ねて最初にシーン。先生のお孫さんの女の子が茶菓子を出すシーンがある。このとき、カメラは出された茶菓子側から女の子の顔を正面にするが、彼女の視線は茶菓子に向いている。彼女は、相手に差し出した茶菓子を凝視している。これは緊張ゆえか、子供なりの戯れなのか。おもしろいですね。

ちなみに、このあとくらいに湯呑に入ったお茶の水面がアップされるが、これって冒頭のアニメの最初のカット、場末の居酒屋でなみなみと注がれた酒の水面と同じ構成のカットになってて、物語が重なり合う仕掛けになっているのよね。ベタとは言えるかもしれないが、芸が細かい。

海岸での邂逅

モジ君が海岸で美波の名前を書いて、途方に暮れたところ、カットは上空からの画になって砂浜3、海7くらいの割合で映される。なんだかようわからないが、画面右下の海面にあきらかに変調がある。予感させられる。

このシーンもバカバカしいけど、好きだ。美波は素潜りでもしてたのかね。

ミルフィーユのようにする

本作の焦点でもあるのだろうけれど、これ原作だとどれくらいニュアンスがあったかな。実の父が説明するには彼の能力は自分の意識を薄く延ばして、他人のそれに滑り込ませるみたいに言う。

結局のところ美波も最後までそれを真に受けていないように見えるが、クライマックスでの彼女の所作は、まさしく父の教えを意図せずにだろうが、実行しようとしたようにも見える。それが別に、状況としては能力と無関係の所作としても、そこまで不自然な行為でもないのも味噌だろう。

まぁ、なんかもっと深読みするとしたら、このへんなんだろうな。いや、楽しい作品でした。

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《自転車泥棒/Ladri di Biciclette》を観た。スコセッシおすすめ外国映画マラソンです。90 分程度と比較的短めの本作は、そういう意味では鑑賞しやすいが、ネオ・レアリズモの後味の凄まじさは、これまたイヤなものだ。

ド直球のタイトル通りの内容で、自転車泥棒の被害者の父と息子がおよそまる 1 日ローマを彷徨って徒労に明け暮れる、そして……。

冒頭のシーンにおける市街の様子、自転車泥棒を追い詰めようと迫ったエリアの様子、サッカーが賑わっていたクライマックスの街の様子、という感じでそれぞれを見ていくとき、戦後のイタリア、ローマといえども、賑わっている地域はそうなっているし、治安が悪かろうと一見する限りは整然とした街並みを保っているエリアもある。

そしてアントニオの生活圏と思われるエリアといえば、新興地なのか戦争で蹂躙されたエリアなのか、ほぼほぼ殺風景だ。少なくとも中心から外れた周縁地域なのだろう。戦後とはいえ、あきらかに格差がある。苦い。

ここまで、本マラソンにて時系列にいくつかのクラシック映画をみてきたが、本作における父と子の描写ほど、身近なテーマを終始して扱った作品もなかったかもしれない。たしかにこれを「新しい現実主義」といわれれば、そうなのかと感じる。もちろん、自転車泥棒というテーマも然りだが。

父親のプライドと大人の男としての矜持-下らないものであろうとも、メンツのようなところがあり、そしてそれは言うまでもなく家族を養うという目的と手段に直結する部分にもかかわっており、その極限状態に息子を連れまわす。なぜか?

なんでなんだろう。単純に人手がもう息子しかいなかったということだろう。

実際、役に立っているし。そうしたなかで、息子は当然、父親を観察することになる。クライマックスにおけるアレは、あまりにも自然で、そこはかとなく哀しいが、そこにどういった感情として言語化していいのか、難しいな。

ロケーションを生かした奥行のあるカットが多かった。自転車が盗難されるシーン、いずれも街中を遠くまで映すが、これって現代でいうところのほとんどゲリラ撮影的な面もあったんだろうけれど、景色としてキレイだね。

サッカーが盛り上がって、大量に駐輪されていた自転車たちが無慈悲にも彼らの前を横切っていくシーンの無常感もよい。よくない。

教会でも無碍にされ-闖入者だから仕方ない面もあるが、占い婆にも雑な対応をされ-これも仕方ない、誰も頼れない。もちろん警察も頼れない。街を巡回しているお巡りさんは一応ていねいに対応してくれていたのが唯一の救いだったかもしれない。

疲れ果てた 2 人がちょっとしたレストランに入り、「お母さんには内緒だぞ」とランチに洒落こむシーン、1 番好きだねぇ。さすがに本作の影響だけとは思えないけど、こういうシチュエーションって、必ずあるよね。

いはやは。

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濱口竜介監督の商業2作目長編だ。《ドライブ・マイ・カー》を観た。個人的には《寝ても覚めても》ほどの衝撃はなかったかな。

岡田将生は『リーガルハイ』(シーズン2)でくらいしかまともに見たことがない気がするけれど、こういう役がハマる。美味しいなぁ。西島秀俊もよかったが、どういうわけか、彼の鼻の高さが 1 番気になってしまった。カッコいいな。

監督はロードムービーというか高速道路が好きなのかなと、もちろん普通の道路での走行も含むが、今回も広島のハイウェイはもちろん、日本海東北道だろうか、その他にも首都高など、さまざまな道路が出てくる。

作品で演じられる舞台『ワーニャ叔父さん』の台詞読みと、作中での話の展開が重なり合って意味を齎すのは、これは本当に見事としかいいようがない。何がどうなって作用しているかは、ぶっちゃけ、よくわからんくらいだった。それほどの綿密さを感じた。

ただまぁ、悲劇を共有し、奇妙な関係を維持していた妻を失った家福の、自身で自覚していなかった重荷、そして同時にドライバーの渡利の抱えていた後悔のような念、これらが 2 人のよくわからん感情の交感を経て、なんやかんやと昇華されていくという話自体は、個人的にはピンと来なかった、というほどでもないが、まぁそうだね、くらいの展開ではあった。

これはいいなと思ったシーンなど

ごみ処理施設で廃棄物をクレーンが巻き上げる。渡利が「まるで雪のようだ」と言う。彼女は北海道出身らしいが、この発言はとっても詩的だなと思った。舞い散るゴミってのはそりゃ汚い。その汚さを地元の苦い記憶に重ねているのか、それともそこに何らかの美しさを見ているのか。どっちもと言えばそうなんだろうけど。

この施設はロケーションを広島にする決定打になったそうだ(Wikipedia拠)。私も機会があれば行きたいと思っているところなので、いいですね。

家福が滞在先となる部屋に訪れて、海に面した窓を開ける。そこに手前の小道に、同行した韓国人の助手さんの車を回してきた渡利が現れて、運転に満足したかと問う。のような展開になって、そこで渡利は喫煙をはじめて事態は収束してく雰囲気になるが、そこ窓の目の前に車を回す必要まったくないよね、細かな間取りは分からないけどさ。てか通行の邪魔だし。

自分はこのシーンに「こういった画にしたい」という力強さをもっとも感じた。

北海道への愛の逃避行。これもよかった。道中の看板に「新潟」などが目に入ったと記憶しているので、日本海側から日本海東北自動車道を経由したようだ。コメリに寄っちゃったりするのも、小ワザながら味がある。寝落ちしてしまう家福というのは、本作中では彼にとって、もっとも安心できる幸福な時間だったろう。

舞台稽古を公園で行うシーンがある。耳の聞こえない韓国人イ・ユナと台湾人のジャニス・チャンが劇のあるシーンを演じる。公園の樹木をうまく使ったりして、2 人の演技は本番さながらの雰囲気を醸す。なんか、この映画を見てよかったと思えるシーンだった。本作の本題とどれだけ親和してるかは、よくわかってないけど。

音が残した謎っぽいナニカ

これら問い自体が意味を持つともあまり思わないが、一定の謎として残っていることは事実なので、適当に書いておきたい。私がパッと思いついたのは以下など。

  • 音は家福に何を伝えようとしたか
  • 大槻は物語の展開を音に伝えていたか

上から触れる。抽象的にいえば、現状になにかしら変化を求める一手を放つつもりだったという点については異論あるまい。それが「離婚」のひと言で片付けやすい内容とは思いたくないが、では何なのかというと言葉にもしづらい。

彼女はイタコ的に物語を紡いでいたわけだが、それ自体が苦しみになっていたとも思える。彼女は物語を語ることを止めようとしていたのではないだろうか。それはあらためて、家福と向き合うことであるだろうし、悲しみの共有のやり直しだったのではないか。

下に触れる。これ、音は家福以外からも自分の物語の展開を確認できる機会を設けていたということに他ならないが、誰もがそうしていたとは限らないし、音がそれをどれくらい目的としていたかも定かではないけれど。

で、件の大槻も音と物語のやりとりをしていたことは家福に自白したが、それを音との関係においてどう処理していたかは明言していない。翻って、本編で家福が音に情報をはぐらかした瞬間、時系列も定かではないが、もしかしたら音のほうは、家福が隠した彼女の物語の顛末をすでに知っていた可能性すら考えられる。

家福のはぐらかしが、音の決断の最後のひと押しになったとみても不自然ではないだろう。結論の出ない謎が残るのは楽しいですね。

交わるシーンとか、喫煙シーンとか、出し惜しみがないのもよかったですね。

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