超長尺の映画《サタン・タンゴ》で有名な監督タル・ベーラの《ニーチェの馬》を早稲田松竹で観た。同時上映されていた《サタン・タンゴ》こそ見ろという話だが、こちらは都合もあって見れなかった。描かれている世界への理解が徐々に固まっていくタイプの作品だと思うので、もう一度観たいものだが、いつか見られるだろうか(作品自体は記事投稿時現在、配信サイトにもあり、アクセスしやすい)。

感想を述べようにも内容解説のようになりがちで、この記事の半分はそうなった。

冒頭、哲学者ニーチェの最期のエピソードが説明される。曰く、散歩か郵便かなにかで出掛けようとしたニーチェは、路上で御者の言うことを聞こうとしない強情な馬を目にし、それに抱き着きながら絶望し、摩耗した精神を使い果たした。そのまま病床に戻り、母に懺悔の言葉を残して亡くなる。

本編がはじまる。馬車を引く巨大な馬が延々と映される。カメラは馬に最接近してみたり、藪の中に突っ込んだりしながら馬車を撮り続ける。この馬がタイトルのいうニーチェの馬らしい。そういうイメージが前提された馬だ。丘に囲まれた荒野にぽつんと在る馬小屋に着くと女性が迎え入れ、馬を小屋に戻す。とにかく風が吹いている。

馬車に乗っていた男と女は家に入り、男の着替えが始まる。女が着替えを手伝うが、どうやら男の右手が不自由だと分かる。この 2 人の関係がよくわからない。というか、何もわからない。男がどこから戻り、家がどこに在るのかも、馬小屋との位置関係も、広さや間取りも分からない。

女は鍋で芋を茹で始める。男と女は茹でた芋を手づかみで食べるが、男は左手しか使えないので所作が雑になる。汚らしい。塩を適当にかけて食べるが半分くらいで食事を終える。女も似たようなもので、平らげることをしない。芋は廃棄された。もったいない。てかフォーク類はないのか? 彼らは就寝する。このときに、男と女が親子だとわかったような気がする。

2 日目。やはり暴風だ。娘の朝の日課は、家の前の井戸からその日の水を汲むことから始まるようだ。井戸を蓋しているトタン板を剥がすが、これが飛んでいかないのが不思議である。とにかく風が強い。また、娘はバケツをもって家を出るとき、扉を明け放したままにしているようだ。これで父は目を覚ますことが常となっているようだが、これは一体どういうことか。

朝食が済んだのちだろうか、父は馬を出そうとするが馬は動かない。娘はムリだと言い、父はあきらめて家に戻り、屋内で薪割をはじめる。そもそも、なんのために何処へ馬を出そうとしたのか。ドンドンと玄関が叩かれ、隣人様の眼鏡男がパーリンカ(酒)を分けてけろと言う。父はなぜ町に買いに出掛けないのかと問う。

眼鏡男は「町は風で滅びた」という。世界も終わりだという。私がちょろっと目を通した解説や感想には、この男の狂言がいわゆるニーチェ的だというが、本当にそうだったかは定かではない。父はこの話を戯言だと一蹴し、眼鏡男は暴風のなかを帰っていく。家屋の窓から去る男が映されるが、それがカメラの視点なのか、あるいは父娘の視点なのか。この辺から窓を通した視線が意識されだしてきた。

3 日目。相変わらず芋を 2 人とも残す。うまくないんだろうけど、もったいない。馬は飼い葉も食べなければ水も飲まない。強情なのである。人間はまだ生きようとしているが、馬は既に何かを諦めたような雰囲気になっている。不穏である。どういう意味があるのか。

おそらく昼、2 頭の白馬が引く馬車に乗った流民が家の井戸を使いだした。娘、父という順に出ていき彼らを追い出す。彼らのセリフに「若い女性」や「アメリカに行く」などというキーワードが出た。あぁ、娘はそれなりに若いんだとなる。そしてこの世界にはアメリカという概念があるんだということがわかる。

4 日目。暴風の中、井戸が枯れる。なかなか解釈が難しく、3 日目の流民の影響なのか、それとも彼らに関係のない必然なのか、それが分かりづらい。どっちでもいい。水のストックがなくなれば、芋を茹でること能わず。水分はもはや酒しか残っていない。

家に戻り、革製品の修理をしていた父は、いきなり家を引き払うという。家財道具をまとめて荷車に乗せる。馬は荷馬車を引かないので、引き連れて歩く。どういう状況だろうか。よく分からないが何処かに向かう。これがエンディングだろうかと、丘の向こうに消えた彼らを思いながら揺れる木陰を眺めていたら、なんか戻ってきた。

町は滅び、世界は滅びていたのだろう、アメリカがどうなったかは知らないけど。みんな元通りになってしまった。家を引き払うには遅すぎたのかもしれないが、これもただの必然だったのかもしれない。娘は母の写真を大事そうに抱えていた。どういうことだろうか。

5 日目。どうも生の芋を食べてるっぽいんだが、そんなもん食べられないよね。爪で生皮を剥いでいるのが見ていてツライ。そのまま噛り付き始めるじゃん。というか、気が付けばナイフの部類もないということなんだな。鉈はあっても包丁はない。どういうことだろうか。

なんか夜に嵐がようやく止むのだが、それと同時に灯りが落ちる。父はキレるが、油は入ったままで炎が切れる道理がない。種火を持ち出してあーだこーだやるが、これも消える。もう常識が通用しない領域に踏み込んでいる。

6 日目。暗い。机と芋と 2 人だけ。芋食うやん。終わりやん。

この作品がニーチェであること

ニーチェは数冊しか読んだことがないし、彼の考えていることをそこまで咀嚼できたつもりもないが、タイトルを無視するわけにもいかない。ニーチェといえば古代ギリシアの研究にはじまるわけだが、そこで私が本作で注目したいのは、火だね。

説明するまでもないが、火は神であるプロメテウスが人間に与えた。火こそが人間文明のキッカケであり、これが絶えるということは、端的にその終わりを指示している。まぁ今となってはギリシア神話を持ち出すまでもなく共有されているイメージでもある。

あるいは酒については、ニーチェがデュオニソスを肯定的に捉えている点から読み解きができそうか。ある発展に相反する破壊的な側面を軽視しない態度を本作の酒に見いだせるか。無理じゃないか。徐々に父の飲酒シーンが増え、最後には娘も酒を口にしているが、それは実は絶望ではないのかもしれない。そういう捉え方はできるか。そうすると、前述の火の消失はどう捉えるのがよいか。

この作品がニーチェの馬であること

タイトルにキャラクターの名称なりが出たら、それはもうその作品の主役はそのキャラクターだという相場があるんですよ。というわけで、実は本作は親子の芋とか井戸とか、そういうのは影であって、本意はあくまで納屋で餌も水も摂取しようとしない彼だったと考える道もあるかもしれない。

まずは冒頭。父は彼をどこに遣って帰ってきたのか。町か。積み荷は何もないので実行したとすれば納品だが、何を納品したのか。芋か。芋畑を運営している描写もないので、思いを巡らせるしかない。薪か。こっちのほうがまだ考えられるか。仮に納品によって金銭を得たとしても、それをそのまま持って帰ってきたのか。パンなり肉なり買ってこいよ。父は何をしたのか。何もしていないのではないか。

上述したように、馬の彼はもう諦念の域に達している。従って、2日目以降は動かない。また、人間から逃げようとするチャンスもあったが、これも採用しない。ただ納屋に留まっている。素直に捉えれば、それは死に直結するので、希望を見出すようなものではない。死が希望という作品でもなかろう。

引かれていくことには従順で、荷車に付いていくことはした。無目的なのだろうか。食事を摂らないのであれば、彼は納屋から断固として動かないという選択肢もあったはずだ。あるとすれば、親子と最期を迎えたいという意思かもしれない。ちょっと強情な感じが滲んで、よいかもしれない。

主の言うことのなかで、かつ自分の裁量のなかで不合理と判断したことはしないが、自らが主の下にいるべき存在であるという意思はある。そういうことだろうか。それが狂ったニーチェが捉えたこの馬の個性として、それが表現された本作だろうか。

手で芋を食べること

まことに原始的で文明的ではない。最低限の調理具と食器具しかないのは何を表すのか。食卓には塩のような調味料が用意されているようだが、父が数度だけ手を伸ばしただけだ。芋のみ在庫があるという設定がそもそも奇妙だし、彼らはそれも半分も食べていない。

彼らは本当は食事など必要ないのかもしれない。そこにあるのは食事をとったという事実だけ必要で、父と娘は人間じゃないのかもしれない。『ヨコハマ買い出し紀行』のような世界観を連想させられる。

嵐がなぜ止まないか、なぜ止んだか

嵐が止んだら火が消えたので、これも素直に捉えれば人間の文明めいたものに区切りがついたことの証左になる。ここから何を読み取るかだが、まぁ、遊んでみたい。隣人がいる、馬車で移動する流民がいる、ということは親子のほかにも人間がいる。

人間がいる、隣人は世界は滅びたというが、流民はアメリカへ行く。文明はその時点にはあって、まだその文明を続けるという見込みはあった。親子の行動は生活に必要最低限の水が(あるいは芋も)あればよかった。逆に言えば、彼らは嵐という文明を拒んでいたとも捉えられる。

であれば、いったん捨てた家に舞い戻ったことも理解しやすいな。彼らは嵐、つまり文明社会には水があろうと馴染めなかった。あるいは、彼らの意思がやはり文明を拒んだのだ。

文明を拒んだというと退潮主義というか、いわゆるニヒリズムっぽくなってしまうが、あまりそのような理解を私はイメージしていない。なんなら親子は 7 日目には生芋食いに慣れているような気もするし、いっそのこと食事を破棄しても不思議はないように思うのだ。

まぁ、なんだかよくわからない作品である。困った。この作品、カメラが 1 日中ノーカットで回り続けるのだが、それもそもそも何のためなのかと思っていたが、もしかしたらこれは家の視点であり、さらにいえば亡くなったと思われる女の視点なのではないかなどと思ってみたり。いまのところ根拠はないので、何も言うことはないが。

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毎日新聞で記事になった野田秀樹さんの意見書が少しばかり話題になった。スポーツを引き合いにした表現と受け取り側の齟齬に過ぎないが、スポーツ陣営と演劇陣営でしょうもない諍いになっており、非常におもしろくない。

結局のところ、プロスポーツで無観客試合が現状で成立しうるのは、一時しのぎが利く段階であるからに過ぎず、その体力も野球やサッカー、あるいは相撲などに限られた話であろうし、シーズンが本格化する前だからというだけだ。各々のスポーツ、チーム、選手の熱心なファンは、現地で試合を見たいというのが心情だろう。

ところで、無観客というキーワードを引き合いに出すと、先日はナンバーガールが無観客ライブを配信していて話題になっていた。

あるいは、もっと直近の例だとこのような事例もあるようだ。取り上げられている投げ銭の額などの真偽については慎重に見るべきだと思うが、内容を真に受ける限りでは成功だろう。

昨晩のニュースだが、以下のような試みもあるようだ。

いろいろな態度や試みがあるようだが、どのあたりが興味深いかね。野田さんの意見書に反映される根本的な思想はわからないが、スポーツ、音楽ライブ、演劇、オペラにかかわらず、現場、臨場でしか体感できない感覚は各々にあるはずでそれは人間がなにかを表現するということが基本にあるはずだ。

ところで、スポーツが他と異なる文脈を持ちうるとすれば、1 番に挙げやすいのはリーグ制という点で、1 回の試合ですべてが終わるわけではないというところだろうか。ただそれも所詮は外野の意見に過ぎないようにも思える。たとえば、無観客で行われたプロ野球の試合が、引退前の先発投手の達成した完全試合になる可能性もあるわけで、それはとても再現性も低ければ、並一通りの試合とは呼びづらくなるだろう。

そういえば映画館は、途中の 30 分ほどまで流しても座席が空いたままだった場合は上映を取りやめるらしい。なるほどなぁ。

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「衝撃の問題作!」という気分で鑑賞に望んだが、趣は藝術映画の類で、さらに言えばやや退屈だった。撮影の工夫なのか、映しづらい対象が多いためか知らないが、 人体の接写が眠たくなるほどに多い。また、揺れが大きいタイプの画面が多いので、これも眠気を誘う。眠い。序盤、ややうつらうつらとしてしまった。

主人公のジャックは建築家だか技師だかのシリアルキラーで、藝術家を気どっている。また、強迫性障害だと自白している。アメリカのどこだか分からぬが、田舎の広大な土地を所有しているようで、その一角に家を建てる計画を実行中だ。あとで調べたら、彼は技師らしく、自らのコンセプトの家を建てることで建築家(藝術家)と昇華されることを望んでいた節もあるようだ。

家といっても理念的なモデルをそのまま現実にしようというような体で、作中ではブロック作りからはじまり、木造の木組みへ切り替え、これも何度か試して組んでは放棄し、最終的にはコンクリートかモルタルかしらぬが、そういった構造物が一応完成したものとして提示される。だが貧弱である。後述する。

ジャックだが、初登場時は爺さんかと思わせられるような風貌で、ひとびとの命を奪うたびに若返っていく。まぁ分かりやすい。また、そのたびに強迫性障害が軽くなっていったと自白もしている。これらの表現をどう捉えればいいのか。そういったことを考える必要があるのか。時間の無駄ではないか。

作劇としては 5 つの幕とエピローグに分かれており、メインで進む物語の傍らでジャックとウェルギを名乗る老人との対話が差し込まれる。ウェルギが何者なのかは大体察しがつき、透けてみえる。人類社会の善と悪、あるいは藝術とは、というようなテーマをジャックに仮託して語っている風だが、本当にそうか。あるいはこのテーマはどれくらい斬新なのか。そういったことを考える必要があるのか。

個人的には第 3 幕の序盤の映像がおもしろかった。この映画がやりたいことの意味が分かったような気がしたからだ。振り返ってみれば、第 1 幕は衝動的、第 2 幕ははじめて自覚を持った段階、目的はまだ自分でもよく分かってない。第 3 幕は、家族と狩りをテーマにしており、言い方はなんだが視野が拡がっていく。翻って、内省も進んで第 4 幕は家族よりもパーソナルな愛と本人が嘯く。〆としての第 5 幕は大量殺人だ。

こういった経緯を辿る主人公の独白は、どのように言い繕っても陳腐にならざるを得ない。少なくとも私には目新しさはなかった。一方で、人間の歴史、藝術の歴史において命を奪うことにどのような意味があったのか、表現されてきたか。いかに肯定、否定されてきたのかという問いに対し、誰もうまく答えられないというジレンマは観客も解消しきれないわけで、愚直に考えようとすれば本作の生命線はそこにしかない。そういったことを考える必要があるのか。

本作、ハラハラドキドキするように作られているわけでもなければ、特別に胃のムカつきとか胸糞悪さとかも起きないようになっている(もともとこういったジャンルが苦手だったり、嫌悪している人物は別にして)。それは凄いのかもしれない。人体の接写が眠たいのも、その目的があるのかもしれない。殺人を扱い、それを肯定も否定もしないということであれば、そのような表現、つまり美しくもなければ特別汚らしくもなく、それらをただ映しているだけであるべきかもしれない。ただ、物語の展開については、中盤以降ちょっとだけドキドキしてしまった自分が悔しい。

最終的にジャックの建てる家が、どういうものなのか。これも中盤くらいから大方予想がついたので、何を今さら感があった。これを藝術というのならそれが何に繋がるのかという解釈も、観たままのものだったら、やっぱりおもしろいとはいえないと思う。そういったことを考える必要があるのか。

ところで、エピローグの最後の最後は悪い方に予想が外れたというか、ジャックも結局のところ人間だったことが分かり、やはり私には本作全体がなんだったのかが不明瞭になった。そういったことを考える必要があるのか。

監督のラース・フォン・トリアーって、いつもこういう作風なのだな。テーマの扱い方としては他の作品にも興味がないわけではないが、画面自体はそこまで惹かれるものもないかな。ってか《ダンサー・イン・ザ・ダーク》の監督かぁ。

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2018 年制作の韓国映画だが、本国では 2019 年始、日本では 2020 年の年始から上映された(Wikipedia 情報)。刑事もののコメディ、これはまぎれもない正真正銘のコメディ映画といってよく、大笑いしながら楽しんだ。韓国はどこかの地域の警察署に所属する麻薬捜査班 5 名が主人公で、このヘボヘボのチームが解散の危機に瀕している。起死回生の結果を残すために奮闘するが…、という仕立てだ。

もう少し内容に踏み込むと、張り込み捜査のために表向きでチキン屋を経営する羽目になった彼らだが、そのお店が大ヒットしてしまい、てんやわんやの大騒ぎとなる。不出来とはいえ志をもって警官になった彼らにも葛藤なりがあるわけだが、謹慎中で収入もないところ、流行る店をみすみす手放すわけにもいかずに走らせていたら、ふとしたキッカケから大捕り物に発展する。

クライマックスでは彼らの 5 名の能力は実は格闘寄りであることが、やっと明かされる。最後の乱闘が始まる前に横に並ぶ彼らのアップが画面上で 5 つのカラムに分割してキメになるシーンがあり、戦隊モノっぽいなと思ったが、西部劇なんかにもあったかななどとも思う。どうだろう。

リーダーのコ班長の最後の格闘シーンが大爆笑もので、笑いどころとしても、物語のクライマックスとしてもベストだ。エンディングでは警官としてキャリアを進めた情景が描かれていたが、楽しませてもらった身としては、チキン屋がどうにかならなかったのかは気になった。あと、チキン食べたくなるので、いわゆる飯テロという部類の作品でもあった。

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昨年に鑑賞した《帰れない二人》の上映が早稲田松竹であったが、併せて同監督の《青の稲妻》と本作が流されていた。《青の稲妻》は時間が合わず、《長江に生きる 秉愛の物語》は観られた。発展が著しい中国は、国の変化を描く映画が盛んで、これらの作品もその流れのうえにある。《長江に生きる 秉愛の物語》は、完全なドキュメンタリー作品となっている。

場所は長江は沿岸の村「桂林」と朧げに覚えているが、あの有名なスポットではない。三峡ダムが完成した暁にはダム湖面下となる村から立ち退けという政府に抗う女性:秉愛(ビン・アイ)が取り上げられる。村の立ち退き事業自体は 1996 年から開始され、2002 年には一応の完了をとったらしい。監督は 7 年間もの間、彼女を追ったようだ。彼女はどうなったのか。

彼女の実家は、もっと山間部にあったようだが、父の決めた夫と結婚した。そこに愛はなく、かつて恋仲だった男とは別れた。そこから、夫とは一男一女を儲け、田舎の農民として生計を立ててきた。夫は脚に障害を抱えており、収入のよい重労働ができない。愛はあとから育まれた。そして彼女は大黒柱となった。

1996 年、第 1 次移住者たちが村から去る。家屋を破壊して建材を確保し、新しい土地で家を再建し、生活を歩み始めるとのことだ。まだ村は集落として機能しており、たくさんの人がいる。家財道具を載せた船が川下に消えていくのをまだ残っている人たちが見送っている。

時は飛んで 2002 年、隣近所が居なくなった彼女の一家は、その家だけを残した村の跡地に暮らしていた。高校生になった息子は町で寮生活をしている。娘はこれから高校受験だ。先に立ち退いた友人たちから引き受けた畑は、かなりの広さをもっており、そこを耕しては家族を養う収入を得ているらしい。

一方で、立ち退き事業は進行しているわけで、村を含めた比較的広い同地域での寄合では喧々囂々、みんな好き勝手に言いたいことを喚きたてている。ぽつぽつと残っているひとたちが集まればまだそれなりに人はいるようだ。多数決で物事を決めるとうそぶいてはいるが、国家や役人の敷いたレールに沿ってしか話は進まない。

彼女は、現在の自らの畑を維持できる距離での引越しを目論むが、そうはならない。中国では国民は土地を所有できない。決められた土地に行けと役所の人間が説得にくるが意見は平行線のままだ。とうとう指定された候補地にまで呼び出されてしまう。役人と秉愛夫妻とのやり取りは、本作のハイライトといえそう。耳慣れない言語での口論が延々と続くので、ちょっと眠くなったけど。

さて、彼女が今の生活と暮らす土地に懸ける思いが尋常でないことはわかるし、政府の命令が一方的であることもわかるのだが、彼女なりの論理がどれだけの正当性を持つのかは、私には判断できなかった。

最終的には一時的に引越しに合意するも、結局のところ彼女は、政府の一方的な主張に迎合する引越しはしないと決意を改め、少なくとも撮影期間の 2003 年までは意志を貫いた、とのことだ(元の家は水没し、なんやかんやで近所の小屋を買い取った、とのエピソードが字幕で流れるのみであった)。

冒頭、寄合後、最後の 3 つのシーンで彼女はインタビューらしいインタビューに答えている。いずれの独白でも、恋は父に敗れ、でもそれを恨んでいるわけでもなく、自らは家族を助け、そうやってみんなの記憶に刻まれたいということを淡々と述べる。

2002 年の苦しい時期、よく祖母と母の夢を見るとカメラに向かって彼女は言った。故郷の夢だ。だが、夫が夢に出てくることはないとも言った。「身体は簡単に動くけれど、心は思ったよりもはやくは動かない」とも言った。どういうことだろうか。

非常に印象に残った言葉だったが、だが、そうであればなぜ彼女は、嫁いできたこの村に身体が縛られているのだろうか。まして、心も縛られているのか。逆に問えば、心をこの村に残すために、身体を無理やりにでも留めているのではないだろうか。

また、彼女の学業は、文化大革命の終わりに翻弄され、教師が権威を失い、学校では終始に渡り農作業をやったという。これがどのような政策や活動にあたるのかはよく分からないが、とにかく自分は勉強する機会が失われ、勉強できなかったという気持ちが、強く残っているのであった。

父や国に翻弄されつくしたうえの人生で、とうとう自分の世界を築きつつあったが、今度はそこを破棄されることになった。こういうことだろうか。

その他の情報など

ポレポレ東中野の作品解説に情報が充実していた(リンク切れ)が、以下の 2 つの記事も参考になった。気になった箇所の引用とともにメモとして残しておく。

そんなフォン・イェン監督が結果的にビンアイを主役に据えた本作を完成させたのは、フォン・イェン監督がビンアイの生きザマにホレ込んだため。プレスシートによれば、フォン・イェン監督は4人の女性に絞って撮影を続けており、ビンアイはその中の1人だったが、次第にその「特殊な存在」としての価値が高まり、結果的に彼女が唯1人の主人公となるドキュメンタリーになったらしい。

http://www.sakawa-lawoffice.gr.jp/sub5-2-b-09-27tyoukouniikiru.htm

フォン・イェンも「三峡ダムによる移住」をテーマに撮影を進めていた。そして出会った1人が断固として移住を拒否する秉愛だったのである。補償金をもらい移住する人が多い中、流されず、「自分の置かれた立場、将来、心、魂について自分なりに考えている」ビンアイの姿に「農民の意識の目覚め」を見出したと監督は述べている。農業経済学専攻の監督らしい視点がうかがえる。

https://wan.or.jp/article/show/2961

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『銀の匙 Silver Spoon』(荒川弘)の最終 15 巻が刊行され、これにて完結した。最後のほうは家庭の事情だろうか不定期連載になっていたが、無事に終わってよかった。最終話、第 1 話と同じスタートからはじまり、主人公:八軒の成長の大きさが見事に照らされていた。

本作の掲載紙は週刊少年サンデーだが、北海道が舞台の作品で同じ掲載紙といえば『じゃじゃ馬グルーミン★UP!』(ゆうきまさみ)が思い浮かぶ。どちらも北海道の広大さが丁寧に描かれている。北海道、動物というテーマでのつながりを追っていくと『動物のお医者さん』(佐々木倫子)がピックアップされる。すべての作品の作者は、北海道出身だ。

ところで、Wikipedia とは便利なもので以下のようなリストがある。もちろん、抜け漏れは多くあるだろうが大雑把な指標にはなる。

コミックの項目には 64 の作品が列記されており、つまり 64 人以上の作家がいるわけだが、そのうち 27 名以上が北海道出身または在住であるようだ(リンク先をざっくり見て回っただけなので正確性に欠く。また、作画、原作など分業が明記されている者についてはスルーした)。

「あぁ、そういえば北海道が舞台だった」とすぐに判別できた作品としては『ゴールデンカムイ』(野田サトル)、『僕だけがいない街』(三部敬) 、 『波よ聞いてくれ』(沙村広明)などが挙がり、前 2 作品は作者も北海道出身のようだ。

また、列挙しないが「そういえば舞台が北海道と聞いたことがあるな」という作品もいくつかあり、そういう場合はなんとなく札幌っぽいことが多いように思える。あるいは地理的に近い東北の出身者が多かったり、豪雪地帯という類似性を感じたのか新潟の出身者が居たり、なぜか兵庫県出身者も幾人か( 2 人かな?)いたのが印象深い。

一口に北海道といっても広大な土地なので、一緒くたにできないが、やはり舞台が北海道であるというインパクトは認められるだろうし、深掘りしていくと面白そうな話題ではある。

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いろいろを試しては捨てるということを繰り返しては最適解を探すのが人間、ひいては生物の性というものだが、Discord を個人メモツールに使おうというムーブメントがやってきた。ググると似たような話題が出てくるし、そうしているひとの話を目にして興味を持った次第だ。

Discord というのは、ゲーマー向けのチャットツールという位置づけだ。昔は Skype 一択だったのだろうと思うが、今ではさまざまなツールがある。チャットツールをメモに使うという発想がどれくらいメジャーか分からないが、つぶやき単位でメモが溜まっていくというのは精神衛生上よいように思える。

少し話を戻すと、ラップトップとスマートフォンなどで共有して使えるメモ機能を探している。結局、オンラインで使えるツールを探すことになるわけだが、これがなかなか難しい。求めているのは、カテゴリ分けしやすいツールだ。これがなかなか選択肢を狭める要因で、Evernote ほどの機能は不要だが、Keep や Simplenote などでタグで分別する手間を払いたいのだ。それに後者のアプリたちは 1 メモの存在感が大きい。もっとミニマルなメモツールがいい。

エンジニア向けなど、マークダウン記法に対応した類の情報管理ツールはカテゴリ分けの条件には一致するが、マークダウン機能は不要だし、やっぱりちょっと違う。同じように、ここで何度か話題にあげている Notion もこの目的にはちょっとカロリーオーバーなのだ。

あるいは、Twitter を鍵アカウントにして誰もフォローせずに使うという手もあるが、ホーム画面はすべてのツイートを表示しなくなったので使いづらい。いちいちアカウントのトップを開いていられるかよ。もしくは、Slack を個人で使うという方法もあり、これはかなり実践性が高いのだが、やはり個人的な用途という感じがしないし、複数の workspace に参加している場合、その切り替えが割とめんどくさい。

というわけで、白羽の矢がたったのが Discord なのであった。以下は読む必要もないが、単純な準備手順だ。

サーバをたてる

Discord にアカウントを登録すると、サーバに参加するか、自分のサーバを立ち上げるかを決定することになるが、今回についていえば「サーバ」とは自分のメモのためのホームの名前と思っていい。難しいことはない。適当に名前を付ける。

チャンネルをたてる

いわゆるチャット画面が立ち上がると、左からホームおよび参加サーバ一覧、フレンドDMもしくはサーバ内チャンネルの一覧のカラムが並ぶ。個人用のメモはサーバ内のチャンネル別に記述していくことになる。この時点でサーバを追加することも可能で、つまり 2 階層のメモ入力システムが用意されたことになる。

メモを入力する

チャットの入力画面にメモを入力するだけの話だ。チャンネルは適当に分類すればいい。自分用のメモとしては「ピン留め」「引用」「絵文字でリプライ」あたりの機能は応用ワザとして利用できそう。また、URL は自動的にいわゆるリンクカードを生成してくれるので可読性が高まる。写真の投稿もできるらしいので、写真のメモもよいだろう。

問題点があるとすれば

この使い方が本来の用途と異なるという点は、根本的な問題かもしれない。その他、バックアップやログの抽出が基本機能にはないという点も問題だろう。他にもあるかもしれないが、そもそも Discord の機能を把握していないのが最大の問題だ。

いずれにせよ、 似たような機能性を備えたメモツールが他にあれば喜んで使うさ。

なお、以下の記事などは参考になった。本筋とは関係ないが、以下の 2 つの記事、片方が note での運用で、もう片方が medium での運用なのがおもしろいな。

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いつだったかデヴィッド・リンチ監督の《エレファント・マン》を観た。近年の私の好きなコミック『ケンガイ』(大瑛ユキオ)で、本作が重要なアイテムだったので気になっていてが、スクリーンで鑑賞する機会が以前にあったので、これ幸いと観たのであった。感想を途中まで書いて放っていたのだが、棚卸する。

いまさら説明は不要と思うが、本作は「重度の奇形病に悩まされた男、通称エレファント・マンことジョゼフ・メリックの半生」を描く。実在の人物は存在するが、それなりに脚色された物語だ。

院長カー・ゴムの変節

『ケンガイ』では、メリックを看護した医師トリーブスの奥さんのセリフを引用して同作の登場人物に投影されていたが、私は院長カー・ゴムの変節に泣いた。あまりに傲慢だが、それゆえに人間的でもあった。

院長は当初、会話もままならないメリックの入院に反対していた。それが一転、メリックが詩編 23 を諳んじられる教養の持ち主であることが判明すると、意見を翻す。トリーブスに「君に彼の半生を想像できるか?」と問い、適当な相槌が返されると「そんなわけない!」と否定する。メリックほどの知性をもった人間が動物と同じかそれ以下の環境で虐げられてきた、想像を絶する辛酸に勝手に共感したのだ。

院長の当初の見解は経営者という視点では正しかろうが、人道や倫理的な視点からは否定される。知性の程度に関わらずメリックは助けられるべきであって、作中ではその役目をトリーブスが果たしたが、院長のような価値観をもった人間もいるわけで、その変節にメリックの知性を持ちだすのが憎い。これは人間の弱さだ。

興行師バイツの偏愛

見世物小屋のエピソードは作劇上の演出が強めのようで、Wikipedia の記述を信頼すれば実際のメリックは時代の変化によって見世物小屋産業が縮小するなか最後の契約を一方的に破棄され財産を奪われたようだが、それまではそれなりに従業員として見世物の仕事を果たしていたようだ。

その点、作中の興行師バイツはメリックの扱いが酷く、殴打してしつけをするような態度で臨むなどする。なぜこういう演出になったかは、メリックに対する差別や偏見など、負の態度をもっとも象徴する人物像が作劇上として必要だったからだろう。

しかし、同時にバイツはメリックを「私のかわいい宝」などとも言う。興行師バイツにとって最も稼ぎのある見世物がメリックであったのかもしれないし、孤独な放浪者であるバイツが頼りにできるのもメリックぐらいしか残らなかった(と彼は信じている)のかもしれない。これも人間の弱さだ。

なによりメリックのこのような半生をスクリーンで鑑賞している私がいるわけで、医師トリーブスの無償の愛も、ゴム院長のみせる条件付きの博愛も、興行師バイツの悲劇または破滅する愛も、それらをすべて享受して鑑賞しているのだから仕方ない。

聖堂のミニチュアをほぼ完成させたメリックは、就寝とともに奇妙な夢をみせておそらく亡くなったわけだが、夢に登場する女性の表情とセリフがまた何とも言えない奇妙な感触を残す。

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先日に感想を残した《書を捨てよ町へ出よう》と同時上映であった。こちらのほうが、まとまった作りなので鑑賞しやすいかな。積極的に人に薦められるとも思わないが、おもしろかったさ。

この作品もメタ構造をとっている。もっとも特徴的なのは、登場人物の顔面が例外を除いては白塗りになっている点だ。例外がどのような基準であるかは分からないが、推測するに「作中の作者の意図を越えた(と描写される)登場人物には白塗りがない」のではないか。つまりそれは主人公をそそのかした人妻であり、その彼氏であり、あるいは主人公の貞節を奪った女性であったりする。他は忘れた。

大雑把に話は以下の 4 つがあり、「少年の主人公が田舎を飛び出そうとする話」「子を生んだ女がその子を手放す話」「見世物小屋の空気女が夫に捨てられる話」「青年の主人公が過去の改変を試みる話」がある程度まで並行して進み、結末にかけて徐々にクロスオーバーしていく。いや、見世物小屋の話も関連することはするが、それ以外の 3 つの関連性のほうが強い。

言い換えると「少年の主人公が人妻と田舎を脱出する」までが青年の主人公の制作した「過去の回想作品」だが、これで本当にいいのか? と彼は悩む。そして後半は「実はこうだったのではないか?」という虚現実の入り交じった内容になり、それは「逃避行の失敗」であり、「青年に唆された少年は偶発的にも貞節の喪失」に遭遇し、「ようやく母なるものと折り合いがついた青年がいたのは新宿の雑踏のなか」であった。

ネットに転がる感想を読むと、寺山修司のテーマとされる「母殺し」についてのコメントが多いが(これは原作の詩を意識してのことだろうか)、私は《書を捨てよ町に出よう》にも描かれた「少年の思わぬ貞節の喪失」のほうが気になった。前作以上にその描写は強烈で、なんといっても仏様の眼前での強行である。まさしく神も仏もいないのだ。これも寺山修司自身の自省的な面が強いと考えるのが自然と思うが、どうなのだろうね。

田舎と母の呪縛というメタファーに時計が使われている点もベタではあるがおもしろく、「時計は家族にひとつあればいい、バラバラの時計があってはいけない」という価値観が母を自縛している。そうは言うものの、家の時計は狂っているし、終盤には狂った柱時計がたくさん掛かっている映像も用いられる。

母といえば少年が家出したのち、板間の板をひっくり返して出したスクリーンに恐山の上空から少年を発見するシーンがあった。これはいわゆる特撮なのか、どうやって撮影したのか分からないが、板間の裏が遠隔地を映す装置になっているという発想にはやられた。当時にしても珍しくはないイメージだろうけど、発想元は何かあろうのだろうか。私は『ドラえもん のび太の宇宙開拓史』を連想してしまった。

見世物小屋については、ここでも性的なイメージを喚起させる目的を強く感じるが、あんまり深く考えたくないし、逆に、単体ではここが一番楽しかったかもしれない。よく知らんが、ここの登場人物は天井桟敷の方たちなのかな。

なんだかんだと書いたが、思い出してみれば、人妻の実家の田畑が寂れていく情景が鑑賞中はいちばん心に響いた。田園で死んだのは一体なんだったのかね。

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『ボールルームへようこそ』の 10 巻を読む。

月刊少年マガジンで連載中の作品だが、実質は不定期連載のようになっており、突然の終了はないだろうと思うが気が抜けない。また、今回は本巻の Amazon レビューで知ったのだが、2017 年放映のアニメが展開を先行したらしい。昔はこのようなことがよくあったような気がするが、最近でもあるのだなぁ。

そして、先行した展開の内容だが、この 10 巻に収録されている最後の話以降(数話くらい使うかな)で披露されるはずで、さらにそれは 2020 年 2 月号( 1 月発売)以降から掲載予定だったが、さっそく 2 月号で休載となった。楽しみが次号以降に持ち越された形だ。歯がゆいものだ。

というわけで、存在を知ってしまったからには無視して話を続けづらくもなったのでアニメを最終話だけみたが、全体のトーン(ここでは主にキャラクターの感情表現)がアニメ向けにメリハリ付けられているなぁというのがひとつ。しかし、原作の線が割と生かされたデザインだなぁというのも思った。最後に、予想した展開がちょっとばかり違うなというのがある。ただまぁ、これは作者のチェックは通っているのではないかな。

10 巻の話に戻る。ちょうどいい機会だからと 1 巻から読み返していたのだが、本シーズンのライバル釘宮方美だが、彼の若い頃はまさに主人公の富士田多々良に被るのだなぁと認識した。釘宮は幼少期(小学生までかな)はボゥッとした少年で、職員室での先生の注意も上の空で窓の外を眺めていた。これは中学生の富士田が進路指導をやり過ごしていた描写と同じくみえる。

まぁ要点としては、釘宮にしても急成長する富士田と同じ舞台でガチで踊ってたらやっぱりダンス楽しいなぁという原点回帰してくるところだろう。兵藤にせよ、赤城にせよ、富士田を通して同じような契機を得ている。

釘宮の話をしておいてなんだが、10 巻の最大のハイライトは富士田と緋山の平衡(カウンターバランス)がとうとう成立をみせる描写だ。富士田を本当の意味での額縁たらしめた緋山が、彼女自身も富士田自身からパートナーとして花開いていくという状況をあのように描かれると降参するしかない。よいものだ。

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