映画:《ハウス・ジャック・ビルト》

「衝撃の問題作!」という気分で鑑賞に望んだが、趣は藝術映画の類で、さらに言えばやや退屈だった。撮影の工夫なのか、映しづらい対象が多いためか知らないが、 人体の接写が眠たくなるほどに多い。また、揺れが大きいタイプの画面が多いので、これも眠気を誘う。眠い。序盤、ややうつらうつらとしてしまった。

主人公のジャックは建築家だか技師だかのシリアルキラーで、藝術家を気どっている。また、強迫性障害だと自白している。アメリカのどこだか分からぬが、田舎の広大な土地を所有しているようで、その一角に家を建てる計画を実行中だ。あとで調べたら、彼は技師らしく、自らのコンセプトの家を建てることで建築家(藝術家)と昇華されることを望んでいた節もあるようだ。

家といっても理念的なモデルをそのまま現実にしようというような体で、作中ではブロック作りからはじまり、木造の木組みへ切り替え、これも何度か試して組んでは放棄し、最終的にはコンクリートかモルタルかしらぬが、そういった構造物が一応完成したものとして提示される。だが貧弱である。後述する。

ジャックだが、初登場時は爺さんかと思わせられるような風貌で、ひとびとの命を奪うたびに若返っていく。まぁ分かりやすい。また、そのたびに強迫性障害が軽くなっていったと自白もしている。これらの表現をどう捉えればいいのか。そういったことを考える必要があるのか。時間の無駄ではないか。

作劇としては 5 つの幕とエピローグに分かれており、メインで進む物語の傍らでジャックとウェルギを名乗る老人との対話が差し込まれる。ウェルギが何者なのかは大体察しがつき、透けてみえる。人類社会の善と悪、あるいは藝術とは、というようなテーマをジャックに仮託して語っている風だが、本当にそうか。あるいはこのテーマはどれくらい斬新なのか。そういったことを考える必要があるのか。

個人的には第 3 幕の序盤の映像がおもしろかった。この映画がやりたいことの意味が分かったような気がしたからだ。振り返ってみれば、第 1 幕は衝動的、第 2 幕ははじめて自覚を持った段階、目的はまだ自分でもよく分かってない。第 3 幕は、家族と狩りをテーマにしており、言い方はなんだが視野が拡がっていく。翻って、内省も進んで第 4 幕は家族よりもパーソナルな愛と本人が嘯く。〆としての第 5 幕は大量殺人だ。

こういった経緯を辿る主人公の独白は、どのように言い繕っても陳腐にならざるを得ない。少なくとも私には目新しさはなかった。一方で、人間の歴史、藝術の歴史において命を奪うことにどのような意味があったのか、表現されてきたか。いかに肯定、否定されてきたのかという問いに対し、誰もうまく答えられないというジレンマは観客も解消しきれないわけで、愚直に考えようとすれば本作の生命線はそこにしかない。そういったことを考える必要があるのか。

本作、ハラハラドキドキするように作られているわけでもなければ、特別に胃のムカつきとか胸糞悪さとかも起きないようになっている(もともとこういったジャンルが苦手だったり、嫌悪している人物は別にして)。それは凄いのかもしれない。人体の接写が眠たいのも、その目的があるのかもしれない。殺人を扱い、それを肯定も否定もしないということであれば、そのような表現、つまり美しくもなければ特別汚らしくもなく、それらをただ映しているだけであるべきかもしれない。ただ、物語の展開については、中盤以降ちょっとだけドキドキしてしまった自分が悔しい。

最終的にジャックの建てる家が、どういうものなのか。これも中盤くらいから大方予想がついたので、何を今さら感があった。これを藝術というのならそれが何に繋がるのかという解釈も、観たままのものだったら、やっぱりおもしろいとはいえないと思う。そういったことを考える必要があるのか。

ところで、エピローグの最後の最後は悪い方に予想が外れたというか、ジャックも結局のところ人間だったことが分かり、やはり私には本作全体がなんだったのかが不明瞭になった。そういったことを考える必要があるのか。

監督のラース・フォン・トリアーって、いつもこういう作風なのだな。テーマの扱い方としては他の作品にも興味がないわけではないが、画面自体はそこまで惹かれるものもないかな。ってか《ダンサー・イン・ザ・ダーク》の監督かぁ。