超長尺の映画《サタン・タンゴ》で有名な監督タル・ベーラの《ニーチェの馬》を早稲田松竹で観た。同時上映されていた《サタン・タンゴ》こそ見ろという話だが、こちらは都合もあって見れなかった。描かれている世界への理解が徐々に固まっていくタイプの作品だと思うので、もう一度観たいものだが、いつか見られるだろうか(作品自体は記事投稿時現在、配信サイトにもあり、アクセスしやすい)。

感想を述べようにも内容解説のようになりがちで、この記事の半分はそうなった。

冒頭、哲学者ニーチェの最期のエピソードが説明される。曰く、散歩か郵便かなにかで出掛けようとしたニーチェは、路上で御者の言うことを聞こうとしない強情な馬を目にし、それに抱き着きながら絶望し、摩耗した精神を使い果たした。そのまま病床に戻り、母に懺悔の言葉を残して亡くなる。

本編がはじまる。馬車を引く巨大な馬が延々と映される。カメラは馬に最接近してみたり、藪の中に突っ込んだりしながら馬車を撮り続ける。この馬がタイトルのいうニーチェの馬らしい。そういうイメージが前提された馬だ。丘に囲まれた荒野にぽつんと在る馬小屋に着くと女性が迎え入れ、馬を小屋に戻す。とにかく風が吹いている。

馬車に乗っていた男と女は家に入り、男の着替えが始まる。女が着替えを手伝うが、どうやら男の右手が不自由だと分かる。この 2 人の関係がよくわからない。というか、何もわからない。男がどこから戻り、家がどこに在るのかも、馬小屋との位置関係も、広さや間取りも分からない。

女は鍋で芋を茹で始める。男と女は茹でた芋を手づかみで食べるが、男は左手しか使えないので所作が雑になる。汚らしい。塩を適当にかけて食べるが半分くらいで食事を終える。女も似たようなもので、平らげることをしない。芋は廃棄された。もったいない。てかフォーク類はないのか? 彼らは就寝する。このときに、男と女が親子だとわかったような気がする。

2 日目。やはり暴風だ。娘の朝の日課は、家の前の井戸からその日の水を汲むことから始まるようだ。井戸を蓋しているトタン板を剥がすが、これが飛んでいかないのが不思議である。とにかく風が強い。また、娘はバケツをもって家を出るとき、扉を明け放したままにしているようだ。これで父は目を覚ますことが常となっているようだが、これは一体どういうことか。

朝食が済んだのちだろうか、父は馬を出そうとするが馬は動かない。娘はムリだと言い、父はあきらめて家に戻り、屋内で薪割をはじめる。そもそも、なんのために何処へ馬を出そうとしたのか。ドンドンと玄関が叩かれ、隣人様の眼鏡男がパーリンカ(酒)を分けてけろと言う。父はなぜ町に買いに出掛けないのかと問う。

眼鏡男は「町は風で滅びた」という。世界も終わりだという。私がちょろっと目を通した解説や感想には、この男の狂言がいわゆるニーチェ的だというが、本当にそうだったかは定かではない。父はこの話を戯言だと一蹴し、眼鏡男は暴風のなかを帰っていく。家屋の窓から去る男が映されるが、それがカメラの視点なのか、あるいは父娘の視点なのか。この辺から窓を通した視線が意識されだしてきた。

3 日目。相変わらず芋を 2 人とも残す。うまくないんだろうけど、もったいない。馬は飼い葉も食べなければ水も飲まない。強情なのである。人間はまだ生きようとしているが、馬は既に何かを諦めたような雰囲気になっている。不穏である。どういう意味があるのか。

おそらく昼、2 頭の白馬が引く馬車に乗った流民が家の井戸を使いだした。娘、父という順に出ていき彼らを追い出す。彼らのセリフに「若い女性」や「アメリカに行く」などというキーワードが出た。あぁ、娘はそれなりに若いんだとなる。そしてこの世界にはアメリカという概念があるんだということがわかる。

4 日目。暴風の中、井戸が枯れる。なかなか解釈が難しく、3 日目の流民の影響なのか、それとも彼らに関係のない必然なのか、それが分かりづらい。どっちでもいい。水のストックがなくなれば、芋を茹でること能わず。水分はもはや酒しか残っていない。

家に戻り、革製品の修理をしていた父は、いきなり家を引き払うという。家財道具をまとめて荷車に乗せる。馬は荷馬車を引かないので、引き連れて歩く。どういう状況だろうか。よく分からないが何処かに向かう。これがエンディングだろうかと、丘の向こうに消えた彼らを思いながら揺れる木陰を眺めていたら、なんか戻ってきた。

町は滅び、世界は滅びていたのだろう、アメリカがどうなったかは知らないけど。みんな元通りになってしまった。家を引き払うには遅すぎたのかもしれないが、これもただの必然だったのかもしれない。娘は母の写真を大事そうに抱えていた。どういうことだろうか。

5 日目。どうも生の芋を食べてるっぽいんだが、そんなもん食べられないよね。爪で生皮を剥いでいるのが見ていてツライ。そのまま噛り付き始めるじゃん。というか、気が付けばナイフの部類もないということなんだな。鉈はあっても包丁はない。どういうことだろうか。

なんか夜に嵐がようやく止むのだが、それと同時に灯りが落ちる。父はキレるが、油は入ったままで炎が切れる道理がない。種火を持ち出してあーだこーだやるが、これも消える。もう常識が通用しない領域に踏み込んでいる。

6 日目。暗い。机と芋と 2 人だけ。芋食うやん。終わりやん。

この作品がニーチェであること

ニーチェは数冊しか読んだことがないし、彼の考えていることをそこまで咀嚼できたつもりもないが、タイトルを無視するわけにもいかない。ニーチェといえば古代ギリシアの研究にはじまるわけだが、そこで私が本作で注目したいのは、火だね。

説明するまでもないが、火は神であるプロメテウスが人間に与えた。火こそが人間文明のキッカケであり、これが絶えるということは、端的にその終わりを指示している。まぁ今となってはギリシア神話を持ち出すまでもなく共有されているイメージでもある。

あるいは酒については、ニーチェがデュオニソスを肯定的に捉えている点から読み解きができそうか。ある発展に相反する破壊的な側面を軽視しない態度を本作の酒に見いだせるか。無理じゃないか。徐々に父の飲酒シーンが増え、最後には娘も酒を口にしているが、それは実は絶望ではないのかもしれない。そういう捉え方はできるか。そうすると、前述の火の消失はどう捉えるのがよいか。

この作品がニーチェの馬であること

タイトルにキャラクターの名称なりが出たら、それはもうその作品の主役はそのキャラクターだという相場があるんですよ。というわけで、実は本作は親子の芋とか井戸とか、そういうのは影であって、本意はあくまで納屋で餌も水も摂取しようとしない彼だったと考える道もあるかもしれない。

まずは冒頭。父は彼をどこに遣って帰ってきたのか。町か。積み荷は何もないので実行したとすれば納品だが、何を納品したのか。芋か。芋畑を運営している描写もないので、思いを巡らせるしかない。薪か。こっちのほうがまだ考えられるか。仮に納品によって金銭を得たとしても、それをそのまま持って帰ってきたのか。パンなり肉なり買ってこいよ。父は何をしたのか。何もしていないのではないか。

上述したように、馬の彼はもう諦念の域に達している。従って、2日目以降は動かない。また、人間から逃げようとするチャンスもあったが、これも採用しない。ただ納屋に留まっている。素直に捉えれば、それは死に直結するので、希望を見出すようなものではない。死が希望という作品でもなかろう。

引かれていくことには従順で、荷車に付いていくことはした。無目的なのだろうか。食事を摂らないのであれば、彼は納屋から断固として動かないという選択肢もあったはずだ。あるとすれば、親子と最期を迎えたいという意思かもしれない。ちょっと強情な感じが滲んで、よいかもしれない。

主の言うことのなかで、かつ自分の裁量のなかで不合理と判断したことはしないが、自らが主の下にいるべき存在であるという意思はある。そういうことだろうか。それが狂ったニーチェが捉えたこの馬の個性として、それが表現された本作だろうか。

手で芋を食べること

まことに原始的で文明的ではない。最低限の調理具と食器具しかないのは何を表すのか。食卓には塩のような調味料が用意されているようだが、父が数度だけ手を伸ばしただけだ。芋のみ在庫があるという設定がそもそも奇妙だし、彼らはそれも半分も食べていない。

彼らは本当は食事など必要ないのかもしれない。そこにあるのは食事をとったという事実だけ必要で、父と娘は人間じゃないのかもしれない。『ヨコハマ買い出し紀行』のような世界観を連想させられる。

嵐がなぜ止まないか、なぜ止んだか

嵐が止んだら火が消えたので、これも素直に捉えれば人間の文明めいたものに区切りがついたことの証左になる。ここから何を読み取るかだが、まぁ、遊んでみたい。隣人がいる、馬車で移動する流民がいる、ということは親子のほかにも人間がいる。

人間がいる、隣人は世界は滅びたというが、流民はアメリカへ行く。文明はその時点にはあって、まだその文明を続けるという見込みはあった。親子の行動は生活に必要最低限の水が(あるいは芋も)あればよかった。逆に言えば、彼らは嵐という文明を拒んでいたとも捉えられる。

であれば、いったん捨てた家に舞い戻ったことも理解しやすいな。彼らは嵐、つまり文明社会には水があろうと馴染めなかった。あるいは、彼らの意思がやはり文明を拒んだのだ。

文明を拒んだというと退潮主義というか、いわゆるニヒリズムっぽくなってしまうが、あまりそのような理解を私はイメージしていない。なんなら親子は 7 日目には生芋食いに慣れているような気もするし、いっそのこと食事を破棄しても不思議はないように思うのだ。

まぁ、なんだかよくわからない作品である。困った。この作品、カメラが 1 日中ノーカットで回り続けるのだが、それもそもそも何のためなのかと思っていたが、もしかしたらこれは家の視点であり、さらにいえば亡くなったと思われる女の視点なのではないかなどと思ってみたり。いまのところ根拠はないので、何も言うことはないが。

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