映画:《書を捨てよ町へ出よう》

《書を捨てよ町へ出よう》を観る機会があった。

寺山修司の映画初監督作品ということだ。同タイトルの評論集から演劇化、映画化された経緯がある、ということで間違ってないと思う。主人公のセリフの訛りが強く、また作品が古いので、何を言っているのか聞き取れないシーンがいくつかあったのは残念ではあった。冒頭にさっそく映画鑑賞のメタ構造を皮肉って観客にメッセージを投げかけるシーンがある。あちゃー、と思ったが、思い返してみると今では当たり前すぎるけれど、そういう感性もあったなと反省もさせられる。

ストーリーだが、一応ある。貧乏家族の長男がハイソな先輩に憧れ、可愛がられつつ、彼なりに家族とその絆を愛して守ってきた。そのつもりだったが、最終的には家族にも先輩からも裏切られるといった内容だ。ところどころに詩が朗読される、青少年の主張のような画面が流れるなどのシーンが挟まれる。案外こちらの方が伝えたいことだったのかもしれない。

また、人力飛行機を飛ばそうとするシーンもいくつか挟まれる。鑑賞後にいくつかの解説や解釈に目を通したが、これは主人公の夢であるらしい。そもそも、寺山修司の映画スタジオが「人力飛行機舎」という号であったらしく、ここにも作家本人のアイデンティティが強く影響しているんだろうか。

本編、ホモソーシャルっぽさ、男性の暴力性、男性の脆弱さも描かれているように見えた。間隙を突くように女性の強さ、またはしたたかさも描かれるが、これは散発的ではあった。雑に分析すると、本作から排除されているのは母性のようなもので、雑に例を示せば、主人公の家庭には母親の居たという証拠や実感がまるでない。人力飛行機の夢の断片の最後のほうに母のような女性が泣いているシーンがあったように思うが、それがなんだったのかは分かりづらい。

挟まれるシーンのいくつかは公道で撮影されていた。おそらく許可を得ていないゲリラ撮影だったのではないか。さらに、その場にいた歩行者を巻き込んでの撮影もあったようで、非常に新鮮だ。現在ではほぼあり得ない演出方法だろうが、あってもいいのではとすら思えた。

主人公の妹、だいたい碌な目に合わないのだが、線路を歩いて行くシーンがあった。おそらく夜中である。すると、反対側から凧を引っ張って駆けてくる女が正面からカメラに迫り、消えていくのだが、まったく意味がわからず、また面白かった。これは詩からの表現なのかなぁ。

エンディング後、またメタ視点に戻って演者一同を映したうえで主人公の独白が始まる。「たった2週間の父」「たった2週間の東京生活」というようなメッセージが印象深い。

上記の記事を読んだ。特に内容に思うところはないが、少年はすっかりおじいちゃんになっていた。