映画:《エレファント・マン》

いつだったかデヴィッド・リンチ監督の《エレファント・マン》を観た。近年の私の好きなコミック『ケンガイ』(大瑛ユキオ)で、本作が重要なアイテムだったので気になっていてが、スクリーンで鑑賞する機会が以前にあったので、これ幸いと観たのであった。感想を途中まで書いて放っていたのだが、棚卸する。

いまさら説明は不要と思うが、本作は「重度の奇形病に悩まされた男、通称エレファント・マンことジョゼフ・メリックの半生」を描く。実在の人物は存在するが、それなりに脚色された物語だ。

院長カー・ゴムの変節

『ケンガイ』では、メリックを看護した医師トリーブスの奥さんのセリフを引用して同作の登場人物に投影されていたが、私は院長カー・ゴムの変節に泣いた。あまりに傲慢だが、それゆえに人間的でもあった。

院長は当初、会話もままならないメリックの入院に反対していた。それが一転、メリックが詩編 23 を諳んじられる教養の持ち主であることが判明すると、意見を翻す。トリーブスに「君に彼の半生を想像できるか?」と問い、適当な相槌が返されると「そんなわけない!」と否定する。メリックほどの知性をもった人間が動物と同じかそれ以下の環境で虐げられてきた、想像を絶する辛酸に勝手に共感したのだ。

院長の当初の見解は経営者という視点では正しかろうが、人道や倫理的な視点からは否定される。知性の程度に関わらずメリックは助けられるべきであって、作中ではその役目をトリーブスが果たしたが、院長のような価値観をもった人間もいるわけで、その変節にメリックの知性を持ちだすのが憎い。これは人間の弱さだ。

興行師バイツの偏愛

見世物小屋のエピソードは作劇上の演出が強めのようで、Wikipedia の記述を信頼すれば実際のメリックは時代の変化によって見世物小屋産業が縮小するなか最後の契約を一方的に破棄され財産を奪われたようだが、それまではそれなりに従業員として見世物の仕事を果たしていたようだ。

その点、作中の興行師バイツはメリックの扱いが酷く、殴打してしつけをするような態度で臨むなどする。なぜこういう演出になったかは、メリックに対する差別や偏見など、負の態度をもっとも象徴する人物像が作劇上として必要だったからだろう。

しかし、同時にバイツはメリックを「私のかわいい宝」などとも言う。興行師バイツにとって最も稼ぎのある見世物がメリックであったのかもしれないし、孤独な放浪者であるバイツが頼りにできるのもメリックぐらいしか残らなかった(と彼は信じている)のかもしれない。これも人間の弱さだ。

なによりメリックのこのような半生をスクリーンで鑑賞している私がいるわけで、医師トリーブスの無償の愛も、ゴム院長のみせる条件付きの博愛も、興行師バイツの悲劇または破滅する愛も、それらをすべて享受して鑑賞しているのだから仕方ない。

聖堂のミニチュアをほぼ完成させたメリックは、就寝とともに奇妙な夢をみせておそらく亡くなったわけだが、夢に登場する女性の表情とセリフがまた何とも言えない奇妙な感触を残す。