ヒッチコックマラソンです。『見知らぬ乗客』《Strangers on a Train》を観た。原作がある作品だが脚本にはレイモンド・チャンドラーなんかが参加してるのね。原作者も有名なパトリシア・ハイスミスだ。
サスペンスというよりは、ある異常者を描写した作品という印象が強い。世評はよいみたいだが、どこに面白みを見出したらいいのか、やや困った。『舞台恐怖症』ほどではなかったが、話の焦点がよくわからない。
ミステリーのテーマとしての「交換殺人」はわかるが、本作のように一方的な態度表明そのもので成立するのか甚だ疑問で、そもそも本作ではまったく成立していないので、ここに作品の主軸はないようにも感じられる。
繰り返すが、異常者ブルーノに翻弄される主人公ガイのテンヤワンヤ(というほどでもない気もするが)の物語といった印象だけが残る。「なんでこんなことをしなければならないのか」という理不尽さは巻き込まれ型の物語の典型だが、その理不尽さがブルーノの異常性とうまく相乗してるとも思えず、心地よさが少ない。
そもそも殺されたミリアムとバーバラが似たような瓶底眼鏡をしていた時点でイヤな予感がしたのだが、使われ方も雑というか、バーバラを凝視した直後にパニックで倒れるブルーノとか、どうなのさ。『白い恐怖』などで演出された記憶喪失に伴う精神的負担などがあれば説得力もあろうが、そもそも謎の行動力をもったブルーノが、バーバラの眼鏡に動転する意味が特にない。異常者にしては頼りない。
ガイのアリバイになりそうだった大学教授も、証言しなかったことに理由があるのかと思ったら伏線というワケでもなく、何も回収されない。脚本がぐちゃぐちゃになってるのじゃないかとすら思ってしまう。
また、ブルーノの殺意の対象だった彼の父親は、母親に比してまともな人間のようだったが、彼も出番少なく、なぜブルーノが異常に毛嫌いするのか-これは想像力を働かせることはできるが-、よくわからないままに終わった。
ライターを落として拾うまでのシーンも緊迫感というか、ブルーノのちょっとしたドジっ子感のインパクトの方が強くて不思議だ。これも時制にどれだけ計算がなされてたのかも不明だが、ガイが遊園地でブルーノに追いつけたのも割と疑問だし、何かと心残りが多い。
過去作においては無視できたプロットの粗さが、世界観の築き方が理由だろうか、どうしても無視できないことがここ数作品にはあるような気がする。
とはいえ、最後のメリーゴーランドが暴走してダウンするまでのシーンと、ガイとブルーノの格闘シーンは、なんというか大したことはないのだが、微妙にドキドキとさせられたのは流石というか。
ブルーノがガイに愛の告白のようなことを放ったのは一体何だったのか。それがどのようなタイプの愛だったのかは不明だが、やるせないね。いくつかの情報を見てみたら、ここらの時期の作品にはそういった描写が割と多かったらしく、『ロープ』のブラントンとフィリップもカットされた部分では、そういった関係だったことが示されていたらしい。
以下のブログなどの感想が参考になった。
ヒッチコックマラソンです。『舞台恐怖症』《Stage Fright》を観た。原作には小説があるらしいが、どれくらい原作の内容に忠実なのかは不明だ。
原題の “Stage Fright” という単語自体には「舞台負け、気おくれ、アガリ症」などの日本語訳があてられることが常のようだが、「舞台恐怖症」はその点、この単語だけで本作のことだと分かりやすくていいね。カッコよくはないし、内容に忠実でもないけど。
序盤の演出で面白いなと思ったのは、ジョナサンがシャーロット邸に侵入するシーンでエントランスの扉を閉じる動作と閉じた扉の音が入る一方で、カメラはそのまま追従した箇所だ。ジョナサンの挙動はフェイク、扉の音も別に入れているというトリックだろうけど、面白い。
ヒロインは刑事のスミスと段々と恋に落ちていくロマンスということだけど、車中でのラブロマンスから一転して緊張の連続するクライマックスまで伸びていくのは見事だよな。ヒロインの父親の立ち回りとその俳優の演技もよい。俳優はアラステア・シムという方のようだが、味があるね。
ヒロインのイヴと悪ヒロインのシャーロットは、どちらもそこそこよかったが、シャーロットのメイドのネイリーのインパクトが割と強くて、こちらの印象もそこそこ強い。この次の作品『見知らぬ乗客』でもそうだが、この 2 作ではメガの女性に割とネガティブな印象が割り振られている点も興味深いかな。
クライマックスのジョナサンの見せる表情も良いものだったが、作品全体としてはヒッチコックマラソンで見てきた作品でもっともチグハグな印象を受けた。ヒロインのイヴの行動の原動力となったジョナサンに対する真心めいた心情のバックボーンが不明なので、結局はイヴの空回りに過ぎなかったというイメージが強い。
クライマックスで煙草をふかしたシャーロットの表情が執拗な雰囲気でクローズ・アップで演出されたのと、ジョナサンの最期を飾るにふさわしい慌ただしいカメラワークは面白かったかな。しかし、サスペンスとしてこのネタは、叙述トリックで騙されたミステリーみたいな白々しさも否定しづらいが、盲点を突かれた感も否めないので、なんともはや。ジョナサンはよくやったよ。
『アンタッチャブル』《The Untouchables》を観た。ショーン・コネリーが亡くなったということで本作が少し話題になっていた。その流れで観た。
ショーン・コネリーといえば 007 シリーズだが、断片的に見た記憶しかない。『薔薇の名前』も部分的にしか見たことがない。『ザ・ロック』は TV で見たことがある。あとは『レッド・オクトーバーを追え!』あたりだろうか。こちらも未見である。
本作の上映年は 1987 年ということで、33 年ほど前の作品だ。舞台は禁酒法時代のシカゴということなので、1930 年前後を描写しているはずだが、撮影された景色がどれだけ当時を再現しているのかは皆目不明だ。
特に、結末部分とエンディングで活用される摩天楼はまさしくシカゴという雰囲気だが、これは 1930 年代にはあったのか? どうなんだろう? と思ってたら高層ビル群の建築ラッシュも同時代に被っているらしい。ということは、当該年あたりに建造されたビルなどをちゃんと選定してロケーションしているのだろうか。
なお、登場人物などの背景設定は実話に基づいているが、具体的な話の進行はほとんどフィクションのようである。
カナダ国境での逮捕劇や主だった仕立てが西部劇っぽい。銃撃戦での乳母車が階段を下りていくシーンは『戦艦ポチョムキン』か。ジム(ショーン・コネリー)が自宅で襲われるシーンやラストのネス(ケビン・コスナー)とニッティの屋上での追走劇などは部分的にはあきらかにヒッチコック調だ。という感じで、オマージュというか引用というか、名作にインスパイアされたと思しきシーンがたくさんある。
敵であるアル・カポネ役ことロバート・デ・ニーロにせよ名俳優がたくさんいるわけだが、ストーン役に抜擢されたという駆け出し時代のアンディ・ガルシアがいい。イタリア系の若手警官という立ち位置のようだが、まぁピッタリだ。上述の乳母車でのアクションシーンが最大の見せ場であるが、総体的にかっこいい。
なにより、ジムとの絆がさり気なく描かれているのが好い。
当初は手垢で汚れていない新米警官を探しにきたジムにケンカをけしかけられ、隠し持っていた私物の銃を即座に構えて応戦の姿勢をみせるところは最高で、イタリア出身ということでの喧嘩っ早さ、マフィアの本場であろう凄みを見せる。
チームとソリが合わない問題児になる展開か? と思えばそんなことはなく、ストーンはストーンとチームの一員となり、他の 3 人のメンバーと打ち解けている。立場をわきまえる自制心と知性がある。
こんな調子で見せ場が割とあるんだが、ジムが絶命してしまうシーンでの描写もなかなか良い。ネスとジムの友情は割と明らかにされていたのだが、息も絶え絶えのジムの側に、ストーンもすり寄っていって篤く手を握る。ちゃんとジムとストーンとの間にも絆が芽生えていたことが分かる。
深夜の駅でアル・カポネの有罪の決め手となる帳簿係を捕まえに行くとき、ネスとストーンの間で交わされるやり取りが最も好みで、本心では仲間を 2 人も殺されてしまった怒りで復讐したいくらいなのだが、どちらも任務のための姿勢を崩さない。やっぱりここでもストーンがいい味を出しているんだ。
ラストの法廷劇からさらにアクションに繋がったのはちょっと意表を突かれた。私刑ではない(としたい)が、仲間を殺してきた暗殺者にそれなりにバッドな最期を与えられたのも映画としては満足度が高いかな。
エンディングではジムの遺品がネスからストーンへの引き継がれるが、このシーンも上がりますね。というわけで、個人的にはストーンの印象が濃い作品であった。
疫病の影響で春夏の季節が息をする間もなく過ぎた 2020 年はあまり博物館、美術館にも行かなかったな。というところで、東京国立近代美術館で開催中の《眠り展:アートと生きること ゴヤ、ルーベンスから塩田千春まで》を見てきた。この時勢と雨天だったので人は少ないかと思ったが、割と人はいたね。よいですね。
序章から終章までの 7 章構成でそれぞれにテーマが掲げられていた。各章でいいなと思った作品の感想などをあげておく。
序章:目を閉じて
オーソドックスに眠っているひとを対象とした作品が並ぶ。ルーベンスの《眠る二人の子供》などは誰でも一目はどこかで見たことがあろう作品だろうか。
まぁなんというか、藤田嗣治の《横たわる裸婦(夢)》がよかったね。見たことあったかな。国立国際美術館(大阪府)には行ったことないので、見たことなさそうだな? 奥の白の空間(壁かしらんけど)と周囲の黒系と赤系の 2 つの幕のそれぞれのバランスが視線をうまく操ってるよな。
眠っている子供が左下の寝台の下に小さく蹲ってるのはよく分からんな。どういう解釈ができるのこれ。
第1章:夢かうつつか
瑛九の《「眠りの理由」より (5) 》も好きだったが、楢橋朝子の《「half awake and half asleep in the water」シリーズより Shikaribetsuko, 2004》がよかった。これは水面か水中で写真を撮影するというシリーズの作品ということで、この独特な作法によって写されるイメージによって眠りと覚醒のあいだの状態だのを喚起させる、らしい。
水面は海だったり、湖だったり、水面の先には建造物だったり、船だったり、一緒に浮いてる人だったり、いろいろと写り込んでいるが、「Shikaribetsuko」は薄い靄に包まれた湖の水面と小高い山々が広がっている。
この状態の湖って怖いんだわ。海ってのは、凪の状態でもそれなりに水の動き、循環を感じさせられるが、静かな状態の湖面はすべてを吸い込みそうな勢いがある。
で、そのほかの要素としても人間がかかわっているらしい生命観や生活感を感じさせるオブジェクトがまるでない。分かりやすすぎるようだが、このシリーズの狙いが感じ取りやすかった。そんな気がした。
第2章:生のかなしみ
小林孝亘の《Pillows》の説明には、眠りのテーマにおいて本来描かれるべき眠っている主体、描写の対象が不在であることが死を暗示している、という旨のことが書いてあったが、どうか。このタイプの枕、ちょっといいホテルなどにいくと目にするが、寝心地がよさそうだが悪いような気もするという印象があり、だがそれでもやはり睡眠は素晴らしいものだと暗示しているような気もする。
安らかな死はおそらく枕の上で迎えられる。逆に、心地のよさそうな眠りを誘うこの枕は、人食い宝箱のように次のターゲットを待ち構えているようにも見え、それなりの不気味さも醸している。
不勉強ながら荒川修作をまったく知らなかった。《抗生物質と子音にはさまれたアインシュタイン》はインパクトが強烈で、正視が躊躇われる。タイトルがなぁ。塩田千春《落ちる砂》は目当てで来てる方が多いのかね、人がよく集まっていていて落ち着いて見れなかった。堂本右美《Kanashi-11》は、この美術館の収蔵品だので、おそらく目にしたことがあるんだけど、いいよね。さっぱり分からんけど、いいよね。
第3章:私はただ眠っているわけではない
森村泰昌を除いて、戦前戦中の日本の作家が多かった。南欧かラテンっぽいテーマや色遣いが多いのは何やっけな。北脇昇の《美わしき繭》が好きだね。シュールレアリスムの作品ということでよいと思うが、想像力がいろいろと働かせられる構成になっている。繭から覗ける南洋風の女性と花、水面もよいが、脇にそびえる武骨な岩山、あるいは塔のようなそれが暗示的だね。
石井茂雄の作品も見たことがある気がしたが、作家の詳細を知らなかった。オノ・ヨーコの親類にして夭逝の作家なのだな。エネルギーを持て余していたんだろうかなぁ。好きだけど、この作品もジッと眺めると逆に力を持っていかれそうな底力がある。
第4章:目覚めを待つ
ダヤニータ・シンの《ファイル・ルーム》がよかった。この展覧会で出会えてよかった。これは最高だ。
本章で主に扱われるのは記録であって人間ではない。そして本作で扱われている、撮影の対象となっている大量の資料は果たして目覚めることはあるのか。おそらく大方は目覚めないだろう。なんなら記録の目覚めというのは、人間への介在であろうし、記録自体の再生だ。それは生かされるべくして保存、眠った状態にさせられるわけだが、さらにその記録としてのこの写真は、いかにも寓話的で楽しい。
雑然とあるいは整然と堆く積まれた紙の山、情報と呼べるかも分からないそれらが圧倒する景色はいったい何なのか。そこにポツポツと写る人間たちの諦めのような表情や姿もあまりに美しくて何度となく眺めても飽きなかった。
第5章:河原温 存在の証しとしての眠り
章題に個人名が付されているし、実は本展のメイン展示なのではないかと思うが、よくわからない。日付のみ描かれたシリーズはいつかのどこかの展覧会で見たことがありますね。
《I Got Up (1968–1979) 》シリーズがおもしろかったが、なんとなく筒井康隆の『虚構船団』を連想させられた。手紙を受け取っていた奈良原一高とはどういう関係だったのだろうかね。奈良原氏が 2020 年の 1 月に亡くなられたということのようだが、この展示にはそういった縁もあるのかな。
なんなら奈良原一高も知らなかったが、彼の写真に少し興味が湧いた。ちょうど六本木のギャラリーで作品が展示されているらしい。
終章:もう一度、目を閉じて
《貧しき農夫》(国立西洋美術館)と《ミョボン》の 2 点が展示されていた。終章のコンセプトがよく分からないのだが、まぁ起きたら寝る、寝たら起きるということで、最後に寝る話をする、のかな。
金明淑《ミョボン》は、当館の収蔵品ということだが、見たことあったかな。これをちょっと調べると、ジャンルとしては素描扱いなんだそうな。これっていわゆる自画像の類なんだろうかね。よく分からんが、だとすれば展示の〆としては自らの眠りに立ち返れという意味付けにもなろうか。
その他
常設をパラパラと散歩して、収蔵品による男性彫刻像の小展を眺めて、帰った。後者については、何かしらメモを残すかもしれない。
『夜明け告げるルーのうた』(2017)の感想だ。3 年以上も前の映画で当時劇場で鑑賞した。監督の湯浅政明は最近、忙しそうだ。話題になったアニメ『映像研には手を出すな!』でも力を奮っていたし、昨年も監督作の『君と波に乗れたら』(2019)が劇場で公開されていた。で、先日は『日本沈没2020』をやっていた。
本作『夜明け告げるルーのうた』も、2020年の年始に NHK で放送されたというではないか。これは映像研に関連して確保された枠だったのかな。
『夜明け告げるルーのうた』だが、現実の社会や環境、他のアニメ作品との関連に先に触れておくと、『崖の上のポニョ』(2008)は意識せざるを得ず、また巨大な水流が町を襲うという設定やシーンからは災害を喚起する問題、そのテーマ性も思い浮かぶ。
案外というか本人のインタビューや記述などは確かめていないが、湯浅監督としてはこの辺に非常にこだわりがあるのかもしれない。『日本沈没2020』で監督を務めたことも然り、『君と波に乗れたら』も海、水との関わり合いがテーマの背後にあることに変わりはない。自分の書いた感想を読み返してみたら、以前にアップした記事でも言及していた。
水を直方体に切りだす
水の流れを観察、探求し、それを描写しようとする人類の歴史は長い。日本だったら葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」が完成するまでの経緯は最近でも頻繁に話題になる。レオナルド・ダ・ヴィンチの水流の素描などもよく引き合いに出される。
アニメーションでもゲームでも水面や水中の描写をいかに美しくするか、クリエイターたちは苦労し、わたしたちはそれを楽しみ、あるいは感嘆する、ということでいいだろうか。個人的には、ここ数年で鑑賞した作品だと、吉田博の渓流の版画(1928など?)が良き作品だったなぁ、と思い浮かぶ。
というような、水の美しさ、リアリティをどのように描写するかという苦心の歴史を無視するように、『夜明け告げるルーのうた』では水を直方体に切り出す。本作で強烈に印象に残っているのは「直方体に切り出される海水」だ。
設定上は、人魚の子であるルーが海を切り取る能力を持っている。あまりに乱暴で突飛な表現だ! と思わないでもない。どのようにしてこの発想に至ったのか。なぜ人魚は海を直方体に切り取るのか。疑問が尽きない。特に理屈はないのかもしれない。
だが、超常的または超自然的な力-普段は見せない自然の力、あるいはそれを覆そうとする人間の力まで含めて-をアニメーションで半ば抽象的そして具体的に示すには、これが最適解だったのかもしれない。
少なくともルーは、カイに恋心を抱いており、ルーはカイのために水を操る力を使っている。それは『崖の上のポニョ』が起こしたと思われる強い波のような、あるいはそれだけの力ではなくて、水を、もっと自在に操る能力だ。恋の力だ。
ところで、個人的に参照できたこのような水のアイデアとしては、実はドラえもんに「空間切り取りバサミ」という道具があり、似たようなことをしていたりはする。この道具が登場したドラえもんの話では、このハサミで、空間を部分的に切り取ることで、それを好きなところに持ち運べる(他の道具との組み合わせ在りきだが)。作中では主に海岸や沖の部分を切り取っていた。
その他にも藤子・Fには割と水柱をそれとして空間にポンと置くようなイメージが多い気がする。とまで、書いてから集めておいたインタビューを読み漁っていたら、ちゃんと言及されていたね。監督は、TVアニメ『キテレツ大百科』の「ひんやりヒエヒエ水ねんど」(1988)の原画が楽しくて記憶に残っていたらしい笑。
やっぱり表現というのは地続きなんだな。
その他
ねむようこがキャラクターデザイン
普段はあまり気にすることがないのだが、キャラクターのデザインは見たことある絵柄だなと思ったらねむようこ氏であった。彼女は『午前3時の無法地帯』が Kindle で配信されたころに読むようになって、以降の単行本も割と読んでいるのだが、キャラクターの絵がいいよね。好きです。
ルーの父親の動きの不気味さ
いろいろと不穏なシーンが見え隠れする本作だが、鑑賞中にいちばん心臓に悪かったのはルーの父親が地上にやって来たシーンだね。まずもって不気味で、目的も分からない。陽にあたらないように行動していることは分かるが、恐い。サイズ感も一定せず、どういう存在なのか最後まで不明だ。
音楽
監督の他の作品でもていねいに扱われている要素として音楽があるが、本作では割と主役だ。カイが秘密裏に活動していた打ち込み系のサウンドもそうだが、バンドでの活動も物語を進める原動力のひとつになっている。
いろいろな音楽が流れるが、個人的には再序盤が一番印象に残っている。
参照
- 公式サイトのインタビュー(前編|後編)
- 「夜明け告げるルーのうた」湯浅政明×高杉真宙インタビュー|映画ナタリー
- 【特別対談】「夜明け告げるルーのうた」大ファンである斉藤壮馬が語る湯浅政明監督の魅力とは?|アニメージュ
- 『夜明け告げるルーのうた』は、なぜアヌシー映画祭グランプリを獲得できた?|アニメダ・ヴィンチ
- 湯浅政明監督が『夜明け告げるルーのうた』に込めた思いとは?|animate Times
- 「夜明け告げるルーのうた」湯浅政明監督インタビュー 大切なのは「どう生きたいのか」。言いたいことが言いづらい現代におくるメッセージ|アキバ総研
先日の「日本沈没2020」の感想に続けて、書き留めたままだった内容を勢いで出したので、近いうちに鑑賞しなおそうかなという気分である。
追記(20220307)
ぴあのインタビューの連載で湯浅政明が取り上げられており、作品別に触れられていた。読んでみると「ポニョ」のことはすっかりイメージにはなかったらしい。へぇ。子供向けを意識した作品ということらしかったが、そのへんが狙い通りいったのかは知りたかったね。
ヒッチコックマラソン『パラダイン夫人の恋』を観た。原題は《The Paradine Case》ということで、こちらを参照したい。と言うのも、ちゃんと鑑賞していれば大筋は明らかではあるが、そもそもの邦題がかなりネタバレ気味で「なんだかなぁ」という理由からだ。
原題で表現されているが、扱われるのはパラダイン夫人が係る事件簿である。彼女は、盲目の夫を殺害した罪に問われる。彼女の弁護士が主役として物語は進行するが、被告である夫人はファム・ファタールのような人物で、弁護士は彼女に熱を入れてしまう、というのが表立ったところの展開ではある。
弁護士の男は新進気鋭で将来を嘱望されており、かつまた新婚で彼の仕事に理解のある妻がいる。ではあるのだが、上述したように弁護士の仕事への、夫人への執心によって、夫婦仲にも次第にズレが生じはじめて…、こちらの関係はどうなるのか。
ビジネス相手、しかも殺人事件の容疑者に惚れるってどういうことやねんというツッコミが入らないではない。これは別に本作固有の演出というよりは、古典的な劇作や文藝の枠組みにも則るセッティングだろう。パッと思いつかないが、日本の古典にもあるんじゃないのかね。
この作品の難しさは、パラダイン夫人は本当に夫を殺しており、その原因には別の男性との恋があった、という事実がかなりあからさまで、となると事件の争点などははじめから無かったようなものなので、弁護士の恋も仕事も無残で無意味であったという印象が残りがちな点にあるかな。緊張感がない。
チグハグ感が否めない。何を見せられているんだ私は、というね。
それとは別に結末において、弁護士の夫婦の行き違いは、妻の献身的な愛、彼女は夫に再び弁護士として再起し、正義のために仕事に邁進してほしいと訴え、それによって男も立ち直りの兆しを見せ、一件落着する。これはこれで面白味に欠けるというか、見どころという感じもしなかった。やはり、何を見せられているんだ私は…、となる。
あえて本作にもう少し深く立ち入ろうとすると、この弁護士夫婦と対峙する判事とその妻である老夫婦のやり取りを絡めることはできそう。老判事の妻は、殺人の案件を夫が取り扱うことをツライという。しかし、夫はこの職務を全うする必要があることを熱を持って語る。これは上述の夫婦の復活前、結末付近に差し込まれたカットだ。
つまるところ、判事と弁護士の立場は異なれども同じく法に則った社会的な正義を問う仕事をしている。それに対して、老若で妻のスタンスと視線にかなり相違があることが描かれていることは明らかで、このへんの対比が魅せどころのひとつだったのかなぁ。そうなると序盤のあのシーンにも勘繰りたくなるが…。
ちなみに、男勝りの-という表現は現代的には妥当ではないが-知的な女性像としては、弁護士仲間の娘にその役割が割り振られている。彼女は、弁護士の妻とも仲が良い。なんならこの女性像を妻役にした方が、展開にメリハリがでたのではないかとも思わなくもない。
映像的には法廷で、正面に映るパラダイン夫人を中心にして、証人の男が施設をぐるっと回って法廷に入退場するシーンが印象的ではあった。あとは弁護士の男が訪問する、パラダイン別邸の雰囲気の不気味さ、天井の高さなんかは画面的に面白かった。
もうちょっとしっくりくる解釈はないかなと思ってググって、上位に出てきたこの記事の説明はなるほど分かりやすかったな。制作の背景事情まで含めてみると別の視点も出てくるものだね、当然だけれども。
どうでもいいが、この記事は 11 月 29 日にあげるつもりだったが、下書きのままで忘れていたのであった。
『日本沈没2020 劇場編集版-シズマヌキボウ-』を観た。もともと Netflix にてオリジナル配信(全 10 話)されている作品で、Twitter を眺めている限りでは、あまり評判はよくなかったのかなというイメージが付着している。
だが、そもそも Netflix で発表されるオリジナルアニメ作品は現状ではあまり高評価となっていない印象もある。たとえば『攻殻機動隊 SAC_2045』も評価は芳しくないようだった、これも私は好きだが。
個人的な事情といえば、ちょうど Netflix の契約が切れていたタイミングだったので配信中の作品は未見のうえ、湯浅政明監督が劇場向けに編集し直した版というのであれば是非とも見たいと思い、劇場に行けるタイミングもあったのでチケットを取った。
なお、キャッチコピーは「見届けろ。そのとき、希望は沈まない。」だ。
『日本沈没』とはなにか
そもそも『日本沈没』は原作の小説以降、いくつもの映像なりコミックなりで展開されてきた。が、私は正統続編となる小説「第二部」を含めて、最初の映画でさえ、系統作品をどれひとつとしてまともに鑑賞したことがない。原作を読んだだけだ。アンソロジーコミックス『日本ふるさと沈没』は読んだけど。
原作のストーリーといえば、小野寺という海洋学者? と田所という地球物理学者? が主な登場人物で、物語は小野寺を中心に展開する。原作の観点として小松左京は、日本が沈没するという物理的な描写の試み、および日本社会のマクロ的な在りようの思考実験を採用している、とざっくり言っておく。
なお、ここには、戦中に思春期を過ごした作者が生涯をかけて探求した「日本とはなにか」「日本人とはなにか」という問いかけも含まれるはずだ。
『日本沈没2020』とはなにか
本映画は、都内在住の姉弟である武藤歩(あゆむ)、武藤剛(Go)を主人公に話が進む。その他には、両親である父:航一郎、母:マリ、ほかに最初の被災時に側にいた近所のお兄さん(春生)とお姉さん(七海)、途中で合流する仲間としてカリスマ YouTuber (カイト)、おじいさん(国夫)、ダニエル(大道芸人)などがいる。
彼女ら、都内で被災して幸運にも無事に合流できた一家は、西に進んで安全な避難地を目指す。地理的には大阪付近、広島付近などまで進んでいくようだが、姉弟は最終的にはロシアの地に収容される。描写があったか、見逃してしまったか不明だが、ウラジオストックかな。
さて本作、どういう作品か。まず日本が沈む。これが背後で進む事態にして、本作の大前提だ。また、本記事の最後に引用するインタビューで示されていたが、この作品は、主人公の姉弟の立場から離れた光景、およびその他の登場人物たちの行動やバックボーンを語る描写はほぼない。姉弟を中心にして、彼らの視点で話は進んでいく。
どういう類のパニック作品なのか
10 話分が圧縮された一気見バージョンの第一印象は「パニック映画」で、作風としては映画『ポセイドン・アドベンチャー』(1972)を連想した。細部こそ異なるが、災害、その被災で苦しみ、もがき、なんとか生き抜かんとする人たちがいる。
そんな彼らだが、生存可能なエリアはどんどんと狭まっていき、かつ、どこが安全かは分からない。出た目の運次第、道中では揉め事や敵対者も現れ、仲間も少しずつ散り、減っていく。そういった状況下でのサバイバルだ。
一口にパニック映画とはいっても、たとえば怪獣映画ではあるがそれこそ首都が崩壊する『シン・ゴジラ』は「巨大不明生物特設災害対策本部の奮闘」がテーマだ。このように作品内で具体的に描かれる内容ついてを本作で表現するならば、パニックのなかで「家族や地元を喪失しながらも自らのアイデンティティを見出す姉弟」がテーマだろうか。陳腐だろうか?
主人公を思春期の姉弟にした結果か、あるいは本作のアプローチ-しごくパーソナルな小市民にとっての日本沈没-を採用するにあたってか、本作を最もエンターテインメントたらしめる方法がこのような構成、主役たる人物たちの設定だったのだろうか。
これは誰のための物語なのか
姉弟はハーフで、父の航一郎は日本国籍のいわゆる日本人のようだが、母のマリはフィリピン出身のようだ。姉は陸上で日本の代表にも選ばれんという女の子だが、弟の剛はプロゲーマーを目指すインターナショナルな男の子だ。
姉弟で日本に対する思い入れが対照的になっており、この辺も処理しやすい。この辺の家族、親子の設定に煮え切れなさを感じた視聴者も少なくなかったようにも見えたが、ちょうどこの間の NIKE の広告がいかにも問題のように扱われる此の世の中においては、残念ながらというか、人種や国籍というテーマが現代的、かつ正面から向き合わなければならない問題であることに違いはない。やはり「日本人とは」という視点が付きまっている。
うろ覚えだが、原作の『日本沈没』にはこういった視点はなかったかもね。発表が『日本沈没』よりも早かった『継ぐのは誰か』では逆に、部分的には超克した形でその辺の視点も含まれ、描かれているので(そして根本的には解決していない!)、小松左京に当該の問題意識がなかったとは思わないが、少なくとも本作の原作ではオミットされている。まぁいい。
ハーフだろうとなかろうと、姉弟は思春期なりの不満を抱えて、ときにはそれを爆発させつつ、被災を乗り越えていくことになるのだが、最終的に日本は、ある形で希望を残すが、一方で別に日本人とかどうでもよいよね、みたいなエクスキューズも残して物語は終わる。
これは日本を描いた作品なのか
「日本」と言うときに人が思い浮かべるのは、たとえば国土か、文化か、国家か、自分の身の回りのことか、それら諸々の総体といえば便利だが、誰は何を思い浮かべるか。ところで、たとえば、物理的に失われた何かに対して、理屈をとっぱらえばそこには「思い入れ」しか残らないのではないか。
日本が沈没した後の世界を描くシーンでは、失われた日本の記憶として、日本の観光案内に掲載されるような風景を描写したカットが続いた。「鼻白んだ」という感想も見たが-気持ちも分からんではない、上述のような問いかけに対して、日本を知っている日本人、あるいは日本人以外の人たちは、日本の記憶として自らのうちに、あるいは記録として何を残すのか。
本作がもともと Netflix で世界に配信されていることも忘れてはならない。典型的な美しい日本のイメージも、作中で登場した「フィリピン出身のマリを救助しない」と拒絶する偏った思想を持った日本人たちも、どちらも日本の内外の人間が持つ日本と日本人のイメージに含まれている。そうだろう。
本作の没入しづらさはなにか
姉弟の視点からずらさないという制約が、少し軋みを生んでいることは否定しづらい。こういう方針もあるならオムニバスのように描いてもよかったのでは? というような印象もある。これが顕著に感じるのが宗教団体の居住地でのストーリーだ。
宗教団体のストーリーでは、宗教的なテーマの扱いもそうだが、どちらかというと教祖扱いされていた、やや精神的な障害を抱えている模様の子供、彼になにかしらの生きる意義を与えたいと宗教団体を設立、維持させてきたその両親こそが主題だろう。このエピソードだけ例外的に主役が、教祖の少年の母になっている。
また、なぜか身体的な能力を失った小野寺(本作では博士?)もこの宗教の療養施設で養われており、整合性みたいな説明がないのは本作においては個人的にはどうでもいいのだが、これは明らかに「生きづらい立場の人たちをどうする?」というテーマが詰め込まれている。
脚本は、現代的な諸問題をてんこ盛りにして挑戦してきているワケだが、さすがに唐突感というかピントのブレを感じないことは難しい。だが、これも眼前にあることは否定できない。あくまで、問題提示なのだ。なお、配信版では宗教団体にまつわる描写がもう少し厚かったらしい。
その他、個人的には、徒歩でロクに食事も摂れないままであろうに関東から関西、その先までよく歩けたな、などのいわゆるリアリティ周りで気になるところは幾つかあったが、本作においては割と些細な点かなと無視できた。
本作の楽しさはなにか
あらためて、本作の楽しさはなにか。まずは、最初に述べたように単純にエンターテインメントでいいと思う。仲間が減っていくというのが、まず面白くて、これを楽しむというのは倒錯的なのだが、ふいにパーティーの仲間が、ときにほんの小さなアクシデントで、あるいは大決断をして、脱落していく、そのさまが面白い。
人生は儚い。
あるいは、先に書いたように、かつてあった日本を、それを知らない日本人、あるいは日本人以外の人たちに「日本とはこういう場所であった」とどう説明するのか。そういう想像をしてみるのも本作の面白さかな。
そういうシミュレーションってしたことある?
シーンとしては姉弟が漂流しているところが好きだった。漂流という描写は何かしら幻想的になるものだ。周囲には何もない。力も徐々に尽きてくる。もともと姉弟の触れ合いがあまり描かれてこなかった本作では、この半ば絶望的な状況に至ってようやく彼らの落ち着いたコミュニケーションが描かれた。
やたらとカットが多く、プツプツと切れては漂流が続くので、このままバッドエンディングで終わるのではないかとすら疑った。あるいは覚めない悪夢か、心地よい悪夢か、すべてが夢落ちであったらどんなによかったか。そういう趣があった。
その他
劇場編集版に向け、アニメージュに以下のインタビューが掲載されていたので、こちらも参照したい。
上記のリンクを読めばネガティブな評価の中心となったポイントに対しては、大体がレスポンスされているのではないか。また、それとは別に、監督には既存の関連作品とは異なるアプローチを目指したこともハッキリする。これは、当たり前といえばそうだろうけれども。一応、以下の部分だけ引用しておく。
多くの人がもう戦争経験もなく、生まれた時から何となく「日本人」としていろいろなものを享受して、時には適当に文句も言いつつ「日本(人)は偉い、すごい」と思ったりもする。一方で、自分が日本人として何をなすべきかという芯のようなものが掴み難い。そんなぼんやりした時代に、「日本が沈没する=なくなる」という極限状況の中で、人は自分の立場をどう考えていくのだろうという「思考」の有り様を考えてみたい。そして、観た人それぞれに考えてもらえたらいいなと思いました。
https://animageplus.jp/articles/detail/34009
その他に目に入った感想では『東京マグニチュード8.0』との比較が多かったが、これってノイタミナ枠の 2 作目だったのか。そりゃアニメファンにはこちらが引っかかるか。私は残念ながら見たことがないのだよなぁ。
望月峯太郎の傑作『ドラゴンヘッド』も類作だが、もはや古い作品だし、若い人は物好きであったり、キッカケがないと手に取らないだろうしなぁ。その他、かわぐちかいじ『太陽の黙示録』は欲張りセットだし、ちょっとおススメしづらい。
追記(20220307)
ぴあのインタビューの連載で湯浅政明が取り上げられており、作品別に触れられていた。多数の作品を並行して進めていたから制作が困難になったエピソードはファンとしてはおもしろい。音響がよかったから劇場編集版の見通しがたったというのも嬉しい話だ。
ヒッチコックを観るシリーズ『私は告白する』《I Confess》の感想です。邦題だけ読むと、またようわからんロマンスかな? となるが、原題によって宗教的な、懺悔の類であることがわかる。
冒頭で教会を大きく映したカットが出てきて、なるほどともなったが、あまりにもその通りだった。そして、本作はとても面白かった。なお、割と無軌道に鑑賞しているため、ヒッチコックの作品としては『山羊座のもとに』後、本作の前の『舞台恐怖症』と『見知らぬ乗客』はまだ未見だ。
はい、あらすじ。ドイツから亡命したある教会の下男を務める男:オットーが殺人を犯し、若い神父:ローガンに懺悔する。この懺悔は男と神父との間でのみ共有される。ところが事件の解決に向けては神父が容疑者として浮上することになり…、といったプロットだ。
まぁね、もう最高に面白かったので個人的な思い入れから話すけど、オットーの妻であるアルマが抜群によかった。あまり俳優さんの話をするつもりはないのだが、彼女は、ドロシー・クララ・ルイーズ・ドリー・ハース(Dorothy Clara Louise “Dolly” Haas)という名前で、ドイツ系のアメリカ人なのだとか。本作に出演した時点では 43 歳くらいか。役柄もあって作中では素朴で質素な印象だが、どうにも美しさを隠しきれない。私のなかでは主演ヒロインのルースを完全に喰っていた。
オットーはアルマにも犯罪を告白しており、それを隠し通すために証拠品の偽装にアルマを協力させている。アルマと夫との愛情、あるいは連帯もたしかにあるようだが、どうにも彼女のスタンスがしっくりこない-それは身内に犯罪者が生まれてしまったという状況ゆえに当然なのだが。
なんなら私は、 “I Confess” というタイトルは彼女:アルマのためにあるように思うのだ。クライマックスで機転を生むのは彼女の愛なんだよね-神父への愛というのではなくて、神への愛の類と言ってよいだろうか。彼女は動転して狂ったオットーの凶弾に倒れるのだが、その最期も実に素晴らしい。
『三十九夜』の感想で述べたが、『三十九夜』では、ほんの数シーンにしか登場しなかった田舎の若妻マーガレットが、逃亡中の主人公を逃がしてくれたシーンが最も印象に残っている。本作ではアルマもほぼ同じ役割を与えられており、「主人公の無罪を知っている」、いわば天使なのだ。そして彼を救うのだ。なんともよい。
手放しに誉めている。
映像としてよかったのは、クライマックスの入りのあたりか。裁判に入る手前あたりの状況、教会でローガンとヒロインのルースが秘密話をしており、そこに懺悔の少年が来る。ローガンは懺悔室に入る。すると、オットーが新しい花をもって教会に入ってきて、去り際のルースとぶつかる。
ポロポロと花を落とすオットー。懺悔室から出てきたローガンを彼は追い、警察に自分を売るのでは、自らの保身のために、とローガンを捲くし立てる。2 人は教会の中央の廊下から祭壇の正面、奥を横切り、裏方へと移動していく。このやり取りが始まって終わりまでの一連のシークエンスがよかった。
オットーのローガンを責める文句は完全に破綻してるのだが、勢いはよい。ローガンは懺悔を他言しないという戒律を死守しつつ、オットーの傲慢な主張を聞き入れるのみだ。このときのローガンの表情が絶品で、アルマの最期とよい対比にすらなっているのではないか。
ローガンは自分の保身のためにオットーの懺悔を社会の日のもとに曝すくらいなら身をくらませた方がよいくらいまで考え、街を彷徨ったが、最終的にはそのまま法廷に立つことを選んだ。この逡巡もよかった。そしてアルマの最期に繋がる。
ローガンとオットーの関係性に触れておくと、ひさびさに戦後というテーマが採用されている。ローガンは復員兵であり、オットーは亡命者である。2 人とも戦争で傷を負った、人生を狂わされたバックボーンを持っている。オットーは最期のほうはもうよく分からない状態まで錯乱、興奮していたが、彼は身勝手ながらもローガンに対してなにかしらのシンパシーを持っていた(おそらくローガンからオットーに対しても)ので、逆に、こういう悲劇になったとも言える。
その結果と言えば、まったく同じではないが、ローガンは恋人を失い、オットーは妻を失ったのだ。となると、クライマックスで、ルースが夫を連れて帰ろう去っていくのが無常でまたよい。オットーとローガンのやり取りに彼女は何を感じたのか。あまりにも断絶が大きい。
なんならば、人間は皆が皆、あまりにも身勝手だ。
ヒッチコック『山羊座のもとに』《Under Capricorn》を観た。いつものように Wikipedia の情報に頼るが、原案となる戯曲、その小説化、第一脚本などを経て最終的な脚本に至ったらしい。
19世紀のオーストラリアが舞台という意外さというか、これは小説での設定なのだろうなと思うが、ヒッチコックの経歴に従って鑑賞しているとややビックリする。当時は本国のイギリスで犯罪者となった者たちの流刑地として、ひいては新しい大陸の開拓者として人々が送り込まれていた。
主人公は総督の甥であるチャールズ、ヒロインは主人公の姉の友人であったヘンリエッタ、その夫のフラスキー、夫婦の邸を管理する女中頭ミリーなどが主な登場人物となる。
オーストラリア到着直後、当地の有力者であるフラスキーと知り合ったチャールズは誘われた晩餐でヘンリエッタに再会する。が、彼女のメンタルはヘランコリーしていた。その理由とは…。
オチをばっさりと述べてしまうと、彼女を狂わせていった原因のひとつは女中頭ミリーの存在であり、もうひとつは夫フラスキーへの罪悪感であった。
三角関係と評するには、どちらかというとミリーを含めたフラスキー家の状況で、チャールズは英国紳士然とヘンリエッタを快復させようとしていたに過ぎないように見えた。最後まで見れば言うまでもないのだが、チャールズはちょっとしたマレビトなのだな、となる。
サスペンス味としては、ミリーのフラスキーへの愛の描写が異常であれば見どころもありそうなんだけど、ヘンリエッタを徐々に狂わせようとしている以外は(内容としては十分に異常なんだけれど)、演出はそんなにスリリングでもないんだよな。ラストはちょっと魅せたけど。
つまり、あまり見どころがない。逆に、ところどころコメディっぽくて、邸の汚い女中たち(なんとなくディズニー作品を思い出してしまった)の作った食べられる代物ではないハムエッグのシーン、ヘンリエッタの美貌に総督がすっかり変節してしまうシーンなどは笑えて、よかった。
ヒロインを演じたバーグマンは本作においては、あまり良くなかったと評されているらしいが、過去にフラスキーを犯罪者としてしまった事件の真相を独白するシーンは流石の迫力があってよかったな。
あとヒッチコックに限った話じゃないのだろうけど、螺旋階段が好きよね。撮って画になりやすいんだろうな。よく使われているので、やや食傷気味だよ。
後はアレだ、チャールズが乗馬が下手くそだったと回想されていた設定が、ちゃんと回収されているあたりは、一見すると平板な作品ではあるが、整っているところは整然としているねと勉強にはなった。
ヒッチコック作品初のカラー作品、『ロープ』《Rope》を観た。ショッキングなオープニングから始まる本作は、サスペンスらしさ満載でワクワクさせられるスタートだ。物語はアパートの一室で完結するし、結末の見せ方も舞台っぽいなと思ったらやはり舞台作品の翻案らしい(Wikipedia情報)。
また、舞台、本作の基には実在の「レオポルドとローブ事件」があり、どのような事件かといえば、超人思想にかぶれた若者 2 人のバカげた虚栄心で殺人事件を起こす。
情報によれば「ニーチェの超人思想がうんぬん」となっていたが、ニーチェの超人思想というか、その曲解だろう。実在の事件を起こした若者らはユダヤ系だったというのは、文字通り、皮肉な点で、元の事件は 1920 年ということだが、戦争も一段落してこういう題材が映画で取り上げられる余裕も出たみたいな向きもあるのかな?
さて作品の内容に触れる。
舞台設定が少しばかり想像に委ねられている個所がある。犯人らと被害者はハイスクールかカレッジの同窓生のようだが、被害者は理不尽な恨みを 2 人から買っていたようで、それが犯行に繋がった。理不尽な恨みを正当化するための超人思想ではあるようだが、まぁ甘っちょろくて子供っぽい。
犯人の 1 人、ブラントンはややもすれば高慢な人間で、犯行直後に同室で開催したパーティーで場を支配し切ろうとする。この強がりが破綻気味なのは傍から見ていれば、つまり観客側からは明らかなのだが、それはつまり演技のさじ加減が上手いのだと思う。彼の演技は好きだね。ちょっとブラット・ピットの雰囲気が被った。
もう 1 人の犯人フィリップは対照的に、犯行を後悔し、怯え切っている。これは作劇の妙だが、ブラントンの方は動機が透けて見える気がするのに、フィリップはよく分からんのだ。だが、犯行時にロープを力強く引いていたのはフィリップなんだ。結論は示されないが、想像力がかき立てられる。うまい。
被害者の人間性も、パーティー参加者の証言でしかわからないので、彼は本当はちょっとくらいでもイヤ味のある人間だったのか分からんし、彼は本当に実に好青年で、犯人らの勝手な嫉妬が本当に勝手に燃え上がっただけなのかも分からん。
ちょっと、ヒッチコックの監督作品の一般論みたいな話を挟む。
ここまで観てきた作品の多くにおいて、犯行がばれずに犯人側が万歳! とはならないのが前提で、かつ犯行なり物語の真実が本当に露見するのは本当にクライマックスであることも定番であった。
事件の発生とクライマックスを繋ぐ、そのあいだの劇、物語、会話について、事件を直接解決するための描写はどちらかといえば最小限だ。ではいったい、どうやって 1 時間以上の作品を娯楽として埋めているのか、成立させているのか。
元に戻るが、あらためて考えるとロープの場合、上述のような仄めかされる人間関係を推察するのが、本編を眺めているときの大きな楽しさなのかな。犯人 2 人を除いたパーティー参加者のユニークさは、探偵役であるルパート以外はあんまりなかったかな。家政婦? の方はちょっとおもしろかったか。
撮影方法としては疑似ワンカットというやつで、カメラがブラントンの後姿のジャケットにズームしていって暗転し、のような箇所がいくつかあり、前後はそのまま続いているように演出している。そして、作中では上映時間の 80 分がそのまま過ぎていく。
舞台を翻案した作品であることを意識付けたかったか、あるいは脚本をヘンに映画向けに操作する必要も感じず、このような手法を取ったのか、といったところだろうが、ワンカット風をワンカット風として価値づける理由ってなんなんだろうな。それは 1 本の作品の長さや、フィルムというツールの都合もありそうだけれど…。
ワンカットであることとは関係はないが、居間からエントランスを通って逆側のダイニングへとカメラが移動し、ブラントンがキッチンの扉を開く。キッチンの扉はいわゆるスイングドアで、勢いよく開いたものだから、ユラユラと揺れる。
揺れるドアの向こうでブラントンが犯行に使ったロープを引き出しに隠すが、すぐ隣のダイニングには家政婦がいる。ブラントンがスリルを楽しむようにしているが、これはフィリップに見せているわけではないので、見るとしたら当然私たちだ。
ロープを隠す作業をするお道化たブラントンが見え隠れするのは、犯行が露見するのか隠し通せるのかを暗示しているわけだが(もちろん露見する!)、それを揺れるドアでの見え隠れで表現するなんて、いかにもオシャレなカットだ。今作で 1 番好きなシーンだね。
居間の背景もすばらしかったと言及しておく。背後の壁はほぼガラス張りで、向こうの遠景には摩天楼が広がっており、 冒頭からラストまでの 80 分間で青空の昼間、オレンジの夕刻の差しかかり、紺色の混じる夜の差しかかりと色合いが変わっていく。なんとも美しくて、ついつい役者たちを忘れて背景を眺めてしまうくらいだった。