深く吸えないのはクセになる|『水たまりで息をする』

『水たまりで息をする』を読んだ。2022 年の芥川賞作家は高瀬隼子による、いわゆる商業単行本 2 作目の作品か。芥川賞の受賞作は『おいしいごはんが食べられますように』だそうだが、こちらは読んでいない。

本作、タイトルがすべてを意味しているような、と思うと、単純でよい。さすがに巧いので全体的には多面的に読める気はするが、「水たまりで息をする」ことの不可能性を強いた結果が描かれている、と私は読んだ。

ストーリー上の人物関係における諸問題にかかる主人公の立ち振る舞いと立ち位置を、全面的には否定しづらい。ただその視点を台風ちゃん(だっけ?)、および同質的な登場人物の運命に対峙させると、なんとも奇妙だ。その登場人物-というからには、それは確固とした人間であって、しかも成人しているので、この人物に対する主人公のスタンスというのは、根本的にあくまで副次であるし、いわゆるパターナリスティックである必要はない。

とはいえ、主人公の態度と行動は異常というレベルであろうし、これが文学性といえばそれまでだろうけれども、あるいは此処がこの作家の機微なのだろうか、それが何を表しているのかが私にはあまり入ってこなかった。

いや、もちろん人物関係に注目してもそれなりに面白いとは思う。パートナーシップや家族関係、あるいは仕事とその人間関係まで含めた生活を穿つこともできそうではある。けど、個人的にそこまで深みまで読み込む自信はない。

逆に、ある種の批判の的にしやすい主人公の無責任さは、上述の立ち位置の問題もあって、基本的には宙ぶらりんで許されるはずなのだが、本当に文字通りの宙ぶらりんで終わる。そこには空恐ろしさというか、ホラー染みた苦味があって、そういう意図がどれくらいあるのか知らぬが、水たまりの主という雰囲気はある。

水たまりの水を飲めるか。

上記リンクのインタビューを読むと、コロナ禍で入浴がめんどくさかったときの体験がアイデアになったらしい。へぇ。

ところで、人間の体質ってのは徐々に変化に順応するだろうが、汗っかきとそうでは無い人間とでは、風呂に入らずの生活の変遷とその過程ってのは、ぜんぜん違うんだろうなと思う。

ついては、乾いているのか、湿っているのか、それがよくわからない。乾いていないと長続きしない生活と思われたが、乾いた感じの描写はそこまで体感せず。ビールを飲むことも止めたようだという説明はあったが、食べ物の傾向もだいぶん変わったりするんじゃないのかな。まぁ、どうでもいい。

義理の母との電話が切断され、そこからの一人芝居を誰のためでもなく-いうまでもなく自分のためだろうが-、空々しくも続けるシーンがもっとも痛々しくて印象に残った。主人公は、まさに誰とも対面していないのだが、その骨頂があった。

しかし、川から汲んだ水で風呂とか、ドラム缶風呂でもいいし、そういう試しがなかったのは何故なのか。もう興味が無かったのだろうか。あるいは空気の愛か、さては愛の空気か。新しい生活における愛のカタチなのかもしらん。