2022年末に《光復》を観た。これは凄い映画だった。

自主製作映画ということが理由か、R18+指定はむしろ客を増やしそうだが、あまり人はいなかった。もったいない。さて、深川栄洋監督の作品、観たことがあるかな? と確認したら、まったくなかった。《白夜行》すら見ていない。

失礼にも鑑賞中は、途中まで見たことある監督の作品かと思って眺めていたのだが、さすがにあるタイミングから「これ知らんひとの作品やな」ってなったのだった。そういうのわかるレベルにはなったという発見はあった。

タイトルが気持ち悪いよなというイメージは最初からあったが、これは展開を追うごとに納得させられるものであって、まぁ巧い。そうですね、終始、気持ちが悪い。

舞台に長野を選んだのもよくわからなくて、全体の苦い展開から、長野の人たちはこれを見て何を思うのかなと感じていたのだが、これもタイトルと同じように、特に終盤に及ぶにあたっての展開にて、この場所を選んだことの一定の意味は読み取れた気分にはなった。

監督の自主製作映画ということらしい本作は、同年 10 月に公開されていたらしい《42-50火光》(かぎろい)と両面となる作品らしく、残念ながらこちらは未見のままだ。今後、視聴する機会があるかも定かではない。

どちらの作品も主演は監督のパートナー:宮澤美保である。ちなみに彼女の地元が長野県長野市であるらしいし、Wikipedia によると書道の資格もあるらしいので、特に情報はないが、どちらの題字も彼女が書いているのではないかしらん。

あとから通販で購入したパンフレットを読むと、なんなら俳優陣もほとんど長野に縁のある方たちで、そういう座組なんだそうな。自主製作映画である点を含め、前回の映画に引き続き《エッシャー通りの赤いポスト》を連想させられる。なんだろうね?

ノンジャンルな作品って楽しい。認知症の母の介護に疲労して自我がなかば壊れた女性がなんか転落していく話っぽい体裁ではあるが、転落と表現するには垂直落下が過ぎるレベルであって、落としどころはどのなのかなと眺めていたら、はい、VFX 班が必要になる映画だったとはなぁ。

光復 とは?

あんまりグダグダ内容に触れたい感じもしないので、「光復」とはなんなのか。どのタイミングで主人公に起きたのかということを考えたい。

2つ、段階があったのかな。どちらが良い、悪いということも無い。

人間性とか、自らの罪、他人の罪、それぞれの采配は知ったこっちゃないけれど、どこかで安らぎが(光復)必要なのが人間なので、とにもかくにもそういう場所が、どんな生活、どの段階においたって求められるってわけだ。

あるいは安らぎを求める方法が、ルールや法に反している場合もあるかもしれない。これは同時に、主人公の母や弟、彼女を貶めた人たち、あるいは対立する人間たちにも言い得ることで、彼らも同様に、大なり小なり、それぞれ苦しみを抱えていると思えば、この酷い印象の映画も美しく思えてくる。

ということで、解釈しづらいラストについても、やはりどこの誰にも安らぎの求め方というのはあって、つまりあの状況下で安らぎを得ているのは誰か(みんな)なんでしょうな。袈裟まで憎いか。

袈裟を憎むな、人を求めよ。

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2022年の年末だかに《宮松と山下》を観た。これ、よかったなぁ。

去年の半ばくらいだったか、騒動を起こした香川照之が主演だが、本作の撮影は騒動よりも前だったようで(それはそうだろうけど)、騒動の事情もまったく知らないまま見て、わざわざパンフレットまで買ってしまった。

「5月」というユニットが監督と脚本を務めるという異色の映画だった。

このユニットは、佐藤雅彦、関友太郎、平瀬謙太朗の 3 名で構成され、対等な関係ということらしいが、もともとは佐藤雅彦が指導する東京藝大の研究室から成り立ったらしい。また、佐藤雅彦は TVCM やゲームなどのプランナー(なのかな?)として仕事に携わることもあったらしく、湖池屋の TVCM なんかはマスターピースですね。小さい頃から最高に好き。この間、アニバーサリーでなんかやってるのを見たけど、ありがとうございます。

というわけで、パンフレットの内容もおもしろかった。

あらすじのような

40代半ばあたりだろうか、京都は太秦でエキストラを本業にして生計をたてている宮松という男がおったそうな。映画では、浪人として切り捨てられ、直後の別のシーンでふたたび切り捨てられる宮松が画面端に見切れていく様子が、まず描かれる。

さすがにエキストラだけでは生活できない彼は、どこかの山のロープウェーの運行係に月に何度か入っている。映画前半で彼のリアルを描写しているのは、ここくらいだったろうか。前半は劇伴もほとんどなく、ロープウェーのシーンにて、はじめて象徴的な音が入ったと記憶している。

あるカット、仕事からアパートに帰った彼が扉を開くと、室内は外装の見た目よりも整然としており、待ち人がおった。広そうなレイアウトの居室は、リノベーションのきいた物件ならそういうこともあるだろうかと訝しながらも見ていたが、やっぱりそういうことでもなかった。半分くらいは騙されていたので、悔しかったような、気持ちのいいような、そんな体験である。

さきほど、劇伴の話をしたが、音の調整も気になっていた。序盤、劇場の音響の問題かと疑ったのだが、音が籠っているように聞こえた。で、結局はそういう音に聞こえるように調整がなされたいたようで、これはもう 1 度鑑賞して確かめるしかないが、たしかにエキストラ時のシーンの音声は籠っていたように思う。

ほいで後半、宮松が山下に侵食されていくという恐怖の展開がはじまる。エキストラ出演している彼を旧知の友人が発見したのである。なんかこの展開、どこかで見たことあるような気もするが、定かではないなぁ。

新横浜を降りて旧友の運転で新中川だかの駅前に降り立つ宮松は、12 年ぶりの帰還らしいが、妹ということらしい女性とハグするのであった。うーん、この抱擁もすべてを観たあとだとわかるのだが、ほんのりと違和感を与える描写、演技で、上手いもんだなぁ。

異母兄妹、そして幼少期は離れていた山下兄妹は両親の不幸な死をキッカケに共同生活をはじめ、兄はそのために仕事をタクシー運転手に変えたらしい。穏やかな生活がおそらくはあった。それは否定しえない。問題児は誰だ。

画面にチラッと映った彼のタクシードライバーとしてのライセンスは平成 24 年と刻印されていたので、平成 31 年と令和 4 年で作中時間が大体 2022 年ほどだと判ぜられた。

洗濯物を畳む妹が兄の黄色い T シャツを愛おしそうに扱うシーンも作中で最高潮に倒錯的というか、問題が隠されており、それが明らかでもあり、切ないんだ。

こういうのでいいんだよ。切ないんだよ。

気になった点など

ロケーションの話

京都と横浜の近辺が舞台ということでいいと思うが、山下家の所在地はどこなんだろか。新横浜で新幹線を降りたのは間違いないが、車で移動した駅の駅名が「新中川」のような感じと記憶しているけど、同じ名前の駅はないようだし、混乱している。

また、宮下の勤めているロープウェー、京都方面ということなので何となく奈良あたりで撮影したのかなと思っていたが、ロープウェーに記された「バンビ」という号をヒントにすると、埼玉県は長瀞の宝登山ロープウエイらしい。

上記のリンク先の記事をあてにするなら、京都ではほとんど撮影してない可能性もありそうだな。どうなんだろうな。架空の町という可能性は大いにある。

死にゆく男、そうでもないかも

作中で宮下が演じるエキストラ役は、ほとんどが死んでいくが、作中では 2 作ほど死なない役も演じている。意味づけはある、には決まっているだろうが、なかなか難しそう。

特に 2 つ目のエキストラのシーンは普通のようでいてそうでもないような。こちらを眺める彼が観客を相対化しているというにしては、そんなに面白くはないかなぁ。

エキストラ業界では路傍の群衆役と死にゆく雑兵役、どちらに格があるのだろうか。

あるいはほとんどが時代劇の死に役だった一方で、最後のほうでは現代劇の、しかも意味のありそうな死に役もこなしていた。これも興味深い。彼は役者としてランクアップしていっているのかもしれない。

どうして宮松なのか

本作最大の謎にして、多分そこまで意味がない、現実社会における身元不明な記憶喪失者の社会的なフォローアップについては調べていないが(なんなら本作の状況であれば 12 年も見つからないということもなさそうだが)、どうして彼は宮松姓を名乗ったのだろうか。私、気になりますね。

なんとなく《無法松の一生》が連想されるけれど、別に関係なかろうか。

連想した映画の話をする

2022 年に限定すると《林檎とポラロイド》が連想させられる。あの作品も、やはりなんとなくある種の悲しみを記憶喪失とともに描写していた。もちろん方向性はほとんど異なるけれども。ごく個人的な記憶にまつわるパーソナルな作品という意味では、遠くない。

もうひとつは《エッシャー通りの赤いポスト》だ。こちらは、エキストラがテーマであるという点にて連想した。宮松が淡々とエキストラに徹している一方、「エッシャー通り」のほうは役者としての成り上がり狙いのような面が強かったが、これは全然方向が違うな。

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しかし、いずれにせよ何かのために生きるということの、ある意味での欺瞞というか、虚無さというのはあって、その折り合いのつけ方を模索するにはいい映画なのかもしれない。

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2022年の年末くらいに《ファイブ・デビルス》を観た。感想をアップしておく。ところどころ記憶があいまい太郎だが、許してください。

妙に色気を隠さない(映像的な意味で)母:ジョアンヌ、セルビア系(だっけ?)の父:ジミーを両親に持つ少女:ヴィッキーは、嗅覚がちょっとだけ異常に強くて、森の中でも母を秒で探し当てるし、ガラスの小瓶にいろいろな匂いを集めている。いわば変態であって、学校では、いじめられている。そこに父の妹であり、母の元恋人である叔母:ジュリアが数年ぶりに帰省してくる。

人間関係が妙な方向に転がりだす。

今作の最大の問題にして、気になるポイントは、娘のヴィッキーにも彼女の生誕以前のジュリア追放劇の一端が担わさせられていることにある。この事実、この設定が明らかになってくるにつれて、スクリーンを眺めている私にとっては相当に残虐、あまりに非道である作品だなと感じられた。言い過ぎかもしれないが、この絶望感はエヴァンゲリオン劇場版のような程度があった。で、面白くはあるが、どうしてこういうお話にしたのだろうか。すごい。不愉快がすごい。感動すらする。

子供にこそ妙な加害性というか、ほろ苦いでは済まない程度の、運命のようなものの不可逆的な残酷さを抱かせる海外映画、あんまり印象にないので、やっぱり感動する。後味は最悪だけど。

このことは、一旦置いておくとして。35mmフィルムで撮影されたというフランスの田舎町の風景や、それぞれの人物の動き、不穏な雰囲気が最後まで残っていたカットのひとつひとつは、それはそれなりに面白かった。

原題にあたる英題および仏題は、”The Five Devils” (Les cinq diables)だそうで本題はそのままだ。私は気づかなかったのだが、舞台となる村落の名前がこれらしい(実在はしないんだろう)。しかし、メインの登場人物が 5 名いるので、彼らがそれぞれ悪魔、ということと思う。

こんな酷な話、なんで思いついたんだろう。

叔母と姪の宿命のような

公式ページなどでは「タイムリープ」と言っているけれど、これ「タイムトリップ」ではないのかしら。ヴィッキーの意識だけが飛んでるという体でもないので。まぁどっちでもいい。しかし、また、この時間移動で相互に存在を認識できる対象がヴィッキーとジュリアだけなので、SF的な時間旅行というか、ファンタジーかオカルトあるいはホラー寄りの描写ではあった。

次いで、このタイムトリップは、ヴィッキーの異常な嗅覚、それ単体では実現せず、ジュリアの持ち込んだ(ヴィッキーが彼女から盗んだ)薬液が必要となる。ジュリアの仕事とは、なんだか薬品関係かしらぬがそういう匂わせはあり、また「すべてはわかっている」というような警告からも彼女は起こることの結末までを半ば自覚し、判じていた節がある。

だとすれば、彼女は何が起こるかを知っていながら、恋人を取り戻しに来た、と言えよう。作中では明確にはされないが。この不条理な雰囲気は、直近でいえば、微妙に《ヘレディタリー/継承》やジョーダン・ピールっぽい作風のようにも映った。

ヤバい女2人に振り回されたひとたち

ジミーも、顔面火傷を負った彼女:ナディーヌを捨ててジョアンヌを選んだクソ男のような雰囲気があるにはある。が、なんともなぁ。最終的な展開を見ていると、恋人を失ったジョアンヌがジミーを誑し込んだように思えて仕方ない。

ヴィッキーという運命的なイレギュラーこそが物語の鍵ではあるのだが、ストーリー全体としては所詮、ジョアンヌとジュリアの 2 人の愛のなんとかに巻き込まれたひとたちの悲劇にしか思えない。念のため、同性愛が悪いと言っているわけではない。

繰り返しになるが、子供であるヴィッキーがカギになってしまっているのが本作の気持ちの悪さであり、なんならオリジナリティを感じる部分ではある……。

幼少のジュリアがおそらくは 2 回だけ映る。で、2 回目の登場が判断しづらいが、彼女はその情景をみた(知っている)ので、ジョアンヌ奪還計画を実行したんじゃないか、と結論づけられるが、それでもやっぱり自分勝手だなという印象は拭えない。痛み分けのつもりなんすかね。

ヴィッキーはどうするんや

なんか自分の感想が定まらないなと、いろんな方の感想をみていたのだが、母と叔母の愛のあり方やヴィッキー自身の存在の肯定性みたいなところ、率直に受け取ったというようなポジティブン気味の感想も多く、あぁ意外というか、自分が根暗でネガティブなだけなのかもと思わさせられる。

いや、しかし、どう考えても叔母と姪のトリッキーな因果を軸にしておいて、結論としてヴィッキーがなにかに納得したり、克服したりしたようには見えないし、人間が必ずしもキレイな存在である必要はないけど、この話のどこにどういう希望のようなものが示されているのかは、やっぱり個人的にはよくわからん。

観てよかったけど、もうあんまり見たくはないというか。何を求めるかと言われると、やっぱり代償を負わされているのがヴィッキーだけでしかないように見えるのが不愉快なんだわ。

いや、なんか解釈に間違いがあるんだろうなぁ、これ。凄い映画でした。また、いつか見るよ。

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2022年の年末に《THE FIRST SLAM DUNK》を観てきた。

原作は直撃世代で、同級生に半ば無理やり単行本を読まさせられた。放課後はほとんどバスケットボールに興じていた気がする。原作のおもしろさはすでに説明するまでもないが、既存のアニメのファンもこんなに多かったのかという印象はあり、公開までの事前情報だけで前評判が揺れる作品だったな。

大まかには、2 時間の映画にするにあたって、こんな脚本になりますよね、という感想にはなった。

オープニング、メインの 5 人がそれぞれペン入れ、配色され、それが動き出すという演出に沸くような気もするが、なんかよくわからない気もした。あれはどこの階段なんだよというね。体育館のコートに降りていく階段であんなに横に広がれないよね、という細かい意識が働いてしまうだけなんだけども。

映画の主役としては宮城リョータが配され、どこかの雑誌で読み切りで掲載されたエピソードが挟まれる。調べたら、週刊少年ジャンプに掲載の『ピアス』(1998)だそうだ。ヤングジャンプ(2001)でも再掲されたらしい。異色だな。ネットにアップされた冒頭のページをチラッと目にしたことがある程度だが、当時から重たい過去を持ってきたなという印象があったね。

中学生の半ばくらいまでは内気な少年だったリョータが、高校生になった時点で喧嘩っ早い少年になっている経緯こそ省かれており、なんなのかなという気はするが、「ピアス」というタイトルを鑑みると思わないところもない。読み切り短編のほうだと描かれていたんだっけか。

夏の夜、雨天の体育館、時間の経過

映像ならではだなと感じた表現は、リョータがファールシュートを放つ瞬間、彩子と語った夜の音がオーバーラップするシーンだ。今になって思うと、あんまりスラムダンクっぽくない、というか直截に言うと『バガボンド』っぽい雰囲気も感じる。同じような描き方はコマ割りによって漫画でも可能そうだが、少なくとも漫画『SLAM DUNK』には感じなかった大人っぽさがあった。とは思うんだけど、このシーンって原作だとどんなだったんだっけ。原作にあるんだっけ? ないんだっけ?

刻々と迫るタイムアップに対し、秒間で選手たちが切磋琢磨している状況はよくわかる。漫画の下手なアニメ化に起こりがちな、変に間延びしたアニメーションになっていないのは凄かった。クライマックスの緊張感も中途半端さをまったく感じさせない圧巻の出来。

逆に、リアル性を重視した結果なのか、コンテ的な問題なのか、いくつか気になったところもあって、たとえば、三井の有名なシーンのひとつ、何度でも甦えるシュートだが、ボールがネットを揺らすカットと三井の台詞のカット、あれ読者はイメージ通りだったろうか? 個人の感覚といえばそれまでだろうが、前後は逆ではないか。

また、河田と桜木のマッチシーンも、コミックで読んでいるときほどには、時間の凝縮感や桜木の凄みが、伝わりづらかった。河田が「まだいる」みたいに心境をモノローグするが、いうて画面では一瞬のこと瞬間のカットが過ぎて、何のことかわからない。そうでもなかったか?

流川の存在がとにかく謎だなと

「そもそも湘北の学力レベルどないなっとんねん」みたいなツッコミを見ると、たしかになーとなる。が、それはそれで置いておくとして、本作は流川の立ち位置が 1 番よくわからなくなったね。桜木もそういう部分はあるが。

一応、桜木はバスケットボールの外から来た男。異端児。なんかケガするけどチームを鼓舞して活躍するという原作由来の部分が強く残っているので、違和感も小さかったが、流川がどういう背景でこの5人の中にいるのか、どうしても目立つ。そこに別に理由はないので、原作の物語が積み重ねたはずの厚みの部分を除いては、原作を読んでも感触はほぼ変わらないと思われるが、それでも。

今作および読み切りにおけるリョータにせよ、原作あるいは今作で挟まれた山王の沢北の情報にせよ、その他のいずれのキャラクターにせよ、なんかしらバックボーン(1on1なり)が語られるものだが、流川になるとそれが皆無なのが、あらためて目立ったのは否めない。

などと書きながら流川のバックボーンの設定みたいなのを調べていたら、井上雄彦の『楓パープル』で同系の主人公(同じ人物ではないがモデルのよう)を描いていたらしい。はえぇ、そうでしたか。仕方ない部分かねぇ。

しかし、流川主人公、桜木主人公、リョータとそれぞれの主人公でやってきた関連作品を、仮に「SLAM DUNK」サーガと勝手に呼ぶとしたら、少なくともあと 2 回はなにかできるんじゃないのかとも思う。

本作、もともとが 90 年代の作品ではあるわけだが、宮城リョータの過去エピソードが絡まりつつ話の軸が回ることも含め、なんというか全体的には「懐かしさ」が強い。海に還りたいですね。

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「ボーン」シリーズを Netflix で視聴した影響だろうか《今そこにある危機》がサジェストされたので、2022年の年末にこれを鑑賞した。原題は《Clear and Present Danger》だそうなので、ほぼそのまま、よい邦題ですね。

主演のハリソン・フォード、計算が間違っていなければ、本作の公開時点で 52 歳くらいだそう。えぇー、って感じだ。映画は小説家トム・クランシーの「ジャック・ライアン」シリーズに拠るとのことで、彼の主演では《パトリオット・ゲーム》も映画になっている。どちらも何度か地上波で放映されたのではないかなぁ。

で、当たり前のことだが、ハリソン・フォードってアクション俳優だったんだなって再確認できた。キャリアをみればわかることなんだけどさ。そして、2023 年には 80 歳のお爺さんとなった彼が、インディー・ジョーンズとして帰ってくるらしいけれど。マジか。

あらすじと作品背景みたいな

洋上で殺害された現米大統領との繋がりも深い実業家が、実はコロンビアの麻薬カルテルと繋がりがあって云々、それをいかに処理しようかという陣営側と、可能な限りは光を当てないとアカンやろ主人公派みたいな話なのだが、CIAの役人でしかないジャックは、なんやかんやで現地入りを繰り返しさせられ、それなりに暴れる(逃げ回るメインだけど)。

まっとうなアクション映画というよりは、半ば国家陰謀的なサスペンスなんだけど、現行のいろんな映画に影響を与えているなという面も強く、このへんの歴史をもう少し知りたくもなる。

「ボーン」シリーズと見比べて目に留まりやすかった点で言うと、コンピュータの発展だ。FBI だか CIA だかしらぬが、政府組織の作戦室の設備が根本から違い過ぎて、これは笑ってしまう。10 年や 20 年でこれだけ進歩するんだから恐ろしい。

好きなシーンというか

冒頭、麻薬カルテルのボスがバッティングマシンで打撃練習、というか汗を流しているんだけれど、彼、野球が好きみたいなんですよね。で、クライマックスの付近で彼がそのバットをもって、ちょっとだけ活躍するシーンがあるんだけど、このキャラ付けが地味によかった。原作からあったのだろうか。

この「ジャック・ライアン」シリーズだけれど、2018年にもシリーズ・ドラマ化されているらしいので何かと人気が根強いんですね。というか、やっぱり根本的に設定が上手いということに尽きそう。

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2022年末に《サイレント・ナイト/SILENT NIGHT》を観た。テキトーに内容も調べずにチケットを取った作品で、なんとなくホラーっぽいのかなと思っていたが、そんなこともなくて戸惑った。

あらすじ

人類の終末の最期の日をどう過ごすか?

それがちょうどクリスマスにあたるので、分け隔ての無いメンバーを集めてパーティーをやって解散するよ、というノリで取り繕われていたが、当然、そんなスッキリした状態で話が進むはずもない。

製作はそれなりに小規模と思われ、基本的には B 級枠の扱いでよかろうが、詳しくはわからない。《ジョジョ・ラビット》の主演子役だったローマン・グリフィン・デイビスが、本作でも名演していた。

また、作中の双子の弟役は実際に彼の弟達だとかで、何とも言い難いトリビアではある。ほかの俳優陣も有名どころがいるらしいが、あまり興味はない。

本作、ローマンの演じる主人公:アート少年の葛藤こそが醍醐味といってもいいくらいで、繰り返すが、作品自体がおもしろいかというと難しい。

どちらかというと社会派作品で、エンターテインメントととしては中途半端を感じつつも、提示されたリアルな社会にある現下の苦味からは逃げられない。藤子・F・不二雄の短編『大予言』のような状況が再現されている。

大人たちはまぁどうでもいいが、子供たちの未来がないのである。

人類は余計な苦しみを避けるために、一部のシェルターへ避難できる人たちを除いて政府(?)から安楽死の薬剤を配布されている。死の嵐が到達する前に服用せよ、という話だ。『箱舟はいっぱい』も連想させられる。

しかし、アート少年は、死の嵐が世界を苦しめることも、人間が汚した地球が人間の生存に適さない状況になりつつあることも受け入れつつ、安楽死を選ぶことが正解かは疑問でしかないという。

何もかもが大人の都合、現状の社会を成してきた人間たちのエゴで物事は進んでおり、そんな大人は「子供のための未来はもうそこには無い」「一緒に逝こう」と言う。こんなの子供からしたら耐えられるワケがないし、そんな大人たちの言明を信頼する理由がない。

街場の気候変動対策

ちょっとリアルな社会と自分の経験の話をする。1990年代は、藤子・F・不二雄もいくつかの作品に取り上げたように、地球温暖化(現行では気候変動)が大きなトピックとしてあったし、それについて悩み、考えさせられることが多かった。

2000年代くらいになると議論は進むが、一方で懐疑論なども登場するわけで、個人的にはパーソナルな人間に可能な対策はかなり限定的であり、同時に懐疑論派寄りの意見に傾いていった。自暴自棄気味の面もあった。

しかして、2010年代くらいから現在に至るまで、やはり人類社会の影響の大きさ如何にかかわらず気候変動は確実に起きており、直近では特に、二酸化炭素に次いで、畜産物からの排出物、メタンガスが問題であるというトピックが取り上げられやすい。

これも程度のほどは判じづらいが、繰り返すように、間違いなく起きている気候変動に対し、取れるだけでも何かしら対処が必要というわけだ。

自分は、世の中は、人類社会は、なにかしら具体的なアクションを打てているのか? 大規模な施策と方針決定は、それぞれの代表者集団に任せるったって、最終的な行動は個人に委ねられる段階がどこかであるわけで……。

映画から話が逸れた。

アートの葛藤は、彼なりの思考と決断に辿り着く。しかし、無知で臆病な大人たちにパターナリスティックに否定される。後味が悪い。彼らは、それを愛というが、その愛をもっと事前に、ちゃんと発揮しておけというサジェスチョンがある。愛の射程というのは、どこまで伸びるのかね。

クライマックス、予期されたオチに至るには、クリスマスであること、アートを抱く母とその構図などから、考察ポイントというか、結末へのヒントなどがそれなりに用意されており、そのへんは鑑賞者へのサービスが、一応はあった。

というわけで、特段おもしろいとは言えないが、2022年の末に、個人的に課題として突き付けられた問題作ではあった。

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2022年の年末に、現時点で最後の作品となっている《ジェイソン・ボーン》を除いて、ボーン・シリーズをまとめて観た。特に格闘シーンを中心にアクション映画の演出に多大な影響を与えたシリーズということだ。が、この映画のおそらく 1 作目の TVCM があまり好みでなく、マッド・デイモンもよくわからず、敬遠していた。まとめての感想となる。

その特徴というのはカット数の多さで、いまではすっかり定着した手法らしいので、あとから見返しても新鮮さはあまり感じない、という話ではあるかもしれない。

ボーン・アイデンティティー

半死体となった主人公:ジェイソン・ボーンが漁船に回収される。記憶を失っており、出自もなにもわからないまま命を狙われる。この狙われ続ける理由だが、ぶっちゃけ最後までよくわからない。理由は分かるけれど、そこまで執拗になることあるんだろうか。

上述の映像手法の話に沿って言えば、むしろなんかビルの外縁を沿うように逃げようとするシーンはカットが少なくて、映画全体のなかではこのシーンの印象が強い。

ボーン・スプレマシー

警官などからの逃亡劇は、ロシアでのシーンがシリーズで 1 番好きかもしれない。ボーンの記憶に封印された彼の苦悩が明らかになっていくが、まぁベタであって、これは別に珍しいわけでもないという感触ではあった。

最後の女の子、冒頭で亡くなったヒロインにちょいとビジュアルを寄せてきてるよなという感触だ。

ボーン・アルティメイタム

新聞記者を連れた空港での逃亡劇とその失敗は、映像としてはすごいんだけども、このシーンである必要があるのかは、よくわからなかった。が、まぁハラハラできたからこれはこれでアリなんだろう。

さすがに、シリーズ全体の作り話の構造の強度が弱まったな、というか話が拡がっていくなかで無理筋じゃない? という疑問がどうしても付きまといやすくなるので、ちょいちょいキツい。

屋上のかけっこのシーンが長くて、上述の 1 作目のシーンと同様、このシリーズとしては新鮮であったが、長すぎやしませんか、なんだこれってなった。

ボーン・レガシー

番外編か別シリーズ的な扱いなのを知らずに見た。この間、大怪我をされたジェレミー・レナーさんが主役じゃないか。全体としては、さすがに敵方の動きがハチャメチャで、やはり視聴はキツかった。

大雑把には楽しめたけれど。なんなら雪中の訓練シーンが1番面白かった気すらする。

ん-、《ジェイソン・ボーン》観るかな?

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2022年の年末、《未来惑星ザルドス》を観た。4K リバイバルの予告をみた時点では「ふーん」という程度だったが、時間が合ったのでチケットをとった次第だ。

印象では、かなりぶっ飛んで抽象的な内容かと危ぶんだが、割とまっとうな SF で、拍子抜けというか最後のほうは普通に楽しめた。レイトショーだったのもあってか序盤は眠気が勝ってしまい、危なく熟睡コースだったが、なんとか睡魔も退けられた。

主演のショーン・コネリー、 007 シリーズの引退直後くらいなのかな? 奇妙な映画に出たもんだが、時代的にはこの手のファンタジー映画なんかに名のある俳優が出演するのもおかしくはないのか? というか、バキバキの売れっ子俳優がシリアスな映画にも MCU にも出演する、みたいな状況と感覚的には大差は無いのかもしれない。

英語版の Wikipedia を読んでいたら、当初はバート・レイノルズという役者が予定されていたが彼が降板、ちょうど仕事が空いていたショーン・コネリーがアサインされたという経緯らしい。2 人の写真を比べると、ダンディーな髭面中年男性という雰囲気が似てるので、ちょうどよかったんだろう。ていうか、方向性は、役者ありきではなくて役のイメージを重視したと確認できる。

ちなみに、監督のジョン・ブアマンは今日現在にて存命らしく、降板したバート・レイノルズ、代役のショーン・コネリーと、順に生年は 1936年、30年、33年となっているようなので、彼らはほとんど同年代なんだね。同英語版 Wikipedia の記載によると監督は『ロード・オブ・ザ・リング』の映像化がぽしゃって本作に取り掛かったらしいので、なんともはや。運命とは数奇なものだ。

作品の内容は、ポストアポカリプスというよりは、全体的には人類の進歩の袋小路が主題的で、身も蓋もないけれど、日本版タイトルの「未来惑星」が半ばネタバレしている。おいおいおい。

ざっくり 1970 年代の後半には決定的に有名な SF 映画シリーズが生まれまくってることを考えると 1974 年の本作は、いろいろな事情があるにせよ過渡期的な作品だったのかなという気もするが、実際にはどうなんだろう。小説分野でもの古典的な名作 SF が量産されている時期だろうし……。

しかし、この作品、カルト的な人気があるらしいけれども、テレビ東京の午後のロードショーや BS のどこかの枠でやってそうなくらいの雰囲気はあった(後述)。問題があるとすれば、衣装の奇抜さや、性的なテーマがやや前面に出過ぎているきらいがある点で、バストトップもチラチラ目に入るし。というかそれが本作の人気の限定性の根本的な問題だろうな。

“The gun is good! The penis is evil!”

という台詞が象徴するような作品を、気軽にお茶の間に流せるものではない。

全体的なビジョンとしてはよくある SF なものの、性愛だけを否定する作用が強く働いているのは印象的で、超未来では人類の性差自体が無くなるような類の作品はいくつか知っているが、性愛だけを強く否定、そのうえで、しかし、鉄砲というような男性的なシンボルを並べて肯定するのが、本作のユニークさというか、よくわからない。フロイト的なものをあえて対立させたみたいな話なんだろうか。なんだったんや。

ところで、クライマックスのシーンには、やはりカルト的な人気を誇るゲーム『リンダキューブ(アゲイン)』のエンディングが連想されたけれど、本作にインスパイアされたということはあるのだろうか。

とかとか。細かいところまで話題は尽きない作品ではあった。

で、下記のレビューを読むと、地上波で放送されることもあったらしい。

昔はこれが地上波で普通に放送されていたのだから精神的に豊かな時代です。

未来惑星ザルドス くそげーまにあさんの映画レビュー|Yahoo!映画

Amazon のレビューを読むと、水曜ロードショーだったとか。こうして情報をみると、なんとなく既視感があった気もするんだけど、何とも言えぬ。

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2022年の年末に《奈落のマイホーム》を観た。

韓国の映画で、原題は『싱크홀』であるらしく、意味としては「シンクホール」ということなので、そのまんま「陥没穴」というやつですね。調べてないけれど、英題も “sinkhole” のままなんじゃないですかね。

《パラサイト 半地下の家族》の原題も単純に「寄生」だったと記憶している。英題も “Parasite” だったんだっけな。こう思うと、邦題って凝りがちだなとあらためてなるが、しかし流石に原題そのまんまでもなぁ…。

とも思ったけど、ビートたけしの『花火』とか、観たことないけどこのうえなくシンプルなタイトルだね。タイトル道も険しい。

で、《奈落のマイホーム》だがコメディ半分、ドラマ半分という体の作品で、《エクストリーム・ジョブ》なんかもそうだけど、韓国映画は日本映画よりも、この手のコメディが上手いですね。

実際に起きた事件をアレンジしているようだけれど―数年前はよく報道されていた気もする、そこは映画的な創作感があって、良くも悪くも B 級映画的な部分もあった。

韓国の都心からそう遠くない住宅街に新築のマンションの部屋を買った主人公一家だが、シンクホールの発生によって、なんとマンションごと数百メートルレベルで地中に落下する。主人公らとともに何世帯かが地下に取り残されるなかで脱出を図るパニック映画だ。《ポセイドン・アドベンチャー》などに似た感触である。

最後、どうなるのかなとハラハラとみていたが、なるほど、そうやって帰るんかと納得できたし、クライマックスもドキドキの展開だったので、よかった。話の展開を詳らかにしてまで語りたいこともそこまでない。

韓国映画、日本に近いからか逆に翻訳(字幕)が不思議なことになりやすいのかもしれない。主人公の勤める会社の部下たちも事故に巻き込まれるのだが、女の子が数歳上の上長である男の子を「代理」と呼び続ける。

この「代理」は、「課長」とか「係長」のような役職名らしく、たとえば同じシチュエーションで日本で撮影したら「係長」みたく呼ぶんだろうかと思わなくもなく、そこまで想像すれば違和感もないのだが、慣れないので、なんとも奇妙に見えた。もう少し別の文化圏だと、どう訳するんだろうか。

ということで、クライマックスが特に好きな映画ですね。ちょっとファンタジーっぽさとほろ苦い要素も織り込まれていて、これも悪くない。そんなにすべてが万事上手く行くわけもないので。

エンディングのシーンは、取ってつけたような雰囲気であったが、まぁこれもこれで。無くてもいいけど。

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2022年の年末に《すずめの戸締まり》を観た。

新海誠は伝奇が好きなんかなと再確認したが、結論は「やはり SF がやりたいんだな」という認識に至り、最終的にはダイジンのことしか考えられなくなった。

異界に通じる門というモチーフの起源は古く、鳥居もその類だし、本作の終盤でも鳥居を模した描写はあった。逆にというか、過去 2 作ではそれなりに象徴的だった社のような描写は少ない。

また、本作では引き戸も前々作ほどではないが登場したものの、作品を象徴する「門」としては、ほとんどは「開き戸」タイプの扉であった。なので、ひとつだけあった「引き戸」の門が目に留まったが、特に言うこともない気はする。

また、言うまでもなくドラえもんからは「どこでもドア」が思い浮かぶところで、さらに「椅子型ロボット」などという呼称が登場することからも、小さいところでのオマージュというか、気遣いがあった。どこかで目に留まった意見として、かつては藤子・F・不二雄が大長編でテーマとしていたことを、実は割と新海誠が引き継いでいる(どれくらい自覚的かにかかわらず)というのは、考えうるなとは思う。

ところで本作には小説版が上映前から発刊されており、そちらでしか確認できないことも多いらしい。残念ながら読めていないので、これから書くことには明らかな事実誤認も含まれているかもしれない。残念なことではある。

なんか脅威的なものの描写

私としてはミミズのモチーフは、どうみても諸星大二郎のように見えたし、宗像姓のヒロイン:草太からは星野之宣の作品が連想させられ、するってぇと新海誠ってのは、奇っ怪な日本の土着的でドロドロとした物語やモチーフを、自然災害として逆説的に捉え直しつつ、お得意のキラキラとした描写とイケイケのキャラクターデザインで強引なほどにまとめ上げるという剛腕を発揮した、正に令和最新のキメラのような作品を持ってきたなぁ、というのが最初の結論だった。オタク口調である。

一方で、このミミズとその挙動の凡そな描写は、これも私は繰り返して主張しているが、少なくとも「ヱヴァ破」の第8の使徒(TV版では第10使徒サハクィエル? であってる?)の散り際がまず連想され、宮崎駿が《風立ちぬ》は関東大震災の振動における表現もやはり連なって思い起こされる。

まさしく大地を揺るがす大災害として、もう見飽きたくらいの描写だなという感覚にはなる。オブジェクトの妙なうねりと振動、あるいは破裂、雨のような四散、さらにはオマケのキラキラといった流れ、意識されないはずがない。

だが、どうやらインタビューに目を通すとミミズの描写の直引きは村上春樹の短編に由るらしい。

どうして移動先が賑わうのか

鈴芽が宮崎を発ち、定期便で山口、愛媛へ向かう。旅というのは楽しい。なるほど東京か、更にその先へ向かう行程も描かれる。ということは、一種のロードムービーでもあって、震災というモチーフが重複する映画《寝ても覚めても》が連想された。すると抗いようもなく自然に映画《ドライブ・マイ・カー》も脳裏に浮かぶ。

さて、愛媛の小さな民宿で給される夕飯は海の幸が非常に美味しそうで、現地に行ったことのない私としては非常に惹かれるものがあって、訪問してみたいなと思う。そして何故か、彼女の訪問に伴って、民宿はいつもよりも人が多いという状態になる。

次の滞在先は、神戸は場末のキャバレーだが、こちらも彼女らの来訪で「なんかしらんけど普段よりもお客さんが多い」という状況が再現される。どういうことか。

マレビトのようなあり方をそのまま示しているわけでもないだろうし、あまり強調される描写でもなかったが、そもそも廃墟であるところに扉が生まれ、それが開くなり、封印するという行為自体も謎であるのだが、しかし、彼女は場の廃墟化を否定するポテンシャルを持っている、とでもいえるのかもしれない。だからこそ閉じ師としての才覚がある、のかもしれない。

「招き猫」とというキーワードも思い浮かぶが、どうだろうね。

ダイジン……。

椅子の躍動と終末の予感が渋い

本来は四足、しかし、彼は三足で、小さな椅子が駆けて躍動するさまを巨大なスクリーンで眺めるという奇妙なファンタジーに小さな違和感を覚えながらも「とりあえず応援するしかねぇか」みたいな心持ちで画面を眺めていたわけだ。

廃校のガラスの引き戸が「後ろ戸」とやらになるんか、という謎の発見、しかもそれが最後にはパァーンと内側から割れるんだから面白い。この為にガラスの引き戸を選んだのかと思うくらいであった。割れたらアカンやーんという。

でも、ガラスの引き戸から常世にいったら反対側からはどう見えるんだろ?

まぁいいか。

冒頭で暗示された鈴芽の過去や「死を恐れない」と言い切る彼女の姿から推察される東日本大震災との関連性の示唆もほどほどに、《ビバリーヒルズ・コップ3》ばりの観覧車アクションが見られて満足したが、同時に椅子となった草太のバッドエンドも暗示されることで、なにかと情報が忙しい。

椅子は犠牲となってしまうのか。

選択させられるのは誰か

その観覧車を眺めながら《雨告げる漂流団地》でも出てきたなぁと思いながら、いわゆるダークツーリズムのような面を考えさせられつつ、そのほうで盛り上がる文章も生産されるんだろうけれど、愛媛にせよ神戸にせよ、モデルとなった廃墟はあるんだろうかと思ったが、とりえあず調べてはいない。

しかし、《天気の子》での貧乏飯といい、新海誠は手作りジャンク飯に何かしらこだわりがあるのか、ポテトサラダ焼きそばという謎の料理で我々の食欲をくすぐるという控えめながらズルい方法を使ってくるもんだ。

というわけで、《天気の子》のようにわかりやすく犠牲の選択を迫る物語が再演されるのかという不安も生まれつつ、東海道新幹線は車中での束の間の日常的なやり取りには、一旦心を落ち着かせられたりもしていた。

東京は通過点のようで

今作の東京は、重要な切り替えポイントではあるけれど、過去 2 作ほど舞台として重きはなく、登場人物らにとっては通過点といえた。有体に言って、新海誠監督としては、このことは割と重要な変更点だったのではないかとすら思う。

要石のことが記載された古文書の図は『ゴジラ S.P <シンギュラポイント>』に登場した 「古史羅ノ図」を連想してしまい、少し笑う。

しかし、宗像のおじいさんの病室がよくわからなくて、あそこに積み上げられた古書の類は、おじいさんが何かしら調べごとを重ねていたと推測するのが筋だろうが、であれば、それはなにか? 東の要石の位置とかですか?

しかし、東の要石の神様とは顔見知りではあったようだし、よく分からない。東の要石の霊体みたいなのが浮いて出てたんかね。東の要石は解除されてないもんね? おそらく。よくわからないことが多い。

また、もし東日本大震災の発生を軸に考えれば、そのときにおじいちゃんが何かしら動いていた可能性は高い。この面を考察する文章も捗るのだろうか。

北へ

朋也の再登場から東北に向かう行程は、前述のように他の映画も思い起こされたが、個人的に首都高、東北自動車道のルートには思い入れがあり、それだけでワクワクしてしまうね。荒川あたりを渡っていくのは堀切ジャンクション付近と思うが、あのへん特に好きです。

車中のバカバカしいやり取りも好い。

環さんのブチ切れシーン、ここがもっとも、やはり《君の名は。》以降の新海誠映画っぽいなと感じさせられるところで、つまるところ子供の勝手さ、大人たちも相互に処理しきれない感情や関係性の妙など、それを結果的には大人側があられもなく、みっともなく吐露する。いいですね。

一応、物語の背景としては東の要石の誘導によって環さんが爆発したようで、それは何のためにやったことなのか、それはよくわからんままである。なんだったんだ笑。

なんやかんやで超時空や

ミミズが暴れまわる常世の様子というのは、災害のイメージが付与されていることは当然として、不謹慎ながら私に連想されたのは《コンスタンティン》だった。しかし、それって地獄であって、正に大災害の状況というのは地獄のようなのだ。

一方で、要石となった草太の佇む先に広がっているような海というのは、ワダツミのような感じなのかなと思いつつ、あの情景の意味の不明さにも、もどかしさはあった。どういう描写なんだろうね。

結果として「死ぬのは恐い」という、ごく当たり前の心境をようやく口にできた鈴芽の呼びかけに応えるように草太は甦るが、ダイジンのことを鑑みても、凍結中の彼の自意識は、なんらかの状態では保存されているんだろうから、大変だな。

状況としては、ミミズとみずから戦闘を繰り広げていたサダイジン、役目に帰ったダイジンをあらためて味方につけた主役 2 人のダブルアタックでミミズは制され、ふたたびの悲劇はとりあえずは回避された。ここ、ミミズの散りゆく際の煙のようなのが、構図として鳥居のようになっていたね。

地球の地殻エネルギー的なそれは、どうなってんのかね、しかし。

そういう意味では SF っぽくはないんだが。

しかしである。ラストシーンだよ。

常世にて、最終的に幼い鈴芽に椅子を授けた、幼い鈴芽が椅子を受け取った経緯が明らかになるが、椅子が完全に超時空を行き来する謎の物体化しており、これもおもしろい。いや、てかこれ、要するには《インターステラー》じゃね? となるよね。

もちろん、いくらでも似たことをやっている作品はある。

ダイジン、あるいはサダイジン

要石の猫、もともとは人間だったんじゃないかという読みもあるようだが、どうだろうか。式神様のような雰囲気もあるけれど。

ここまでチラチラと書いたように、西の要石とやらがあんな場所にあったこと自体が問題のような気がするが、ダイジンとサダイジンの体格の差というのは、正にそれというか。

つまり、人の多いところでは神格を保っていられるけれど、そうでない場合は瘦せ細っていったように見受けられる。信仰されない神が権能を失っていくというモチーフも、類作を並べても珍しくもない設定だし、そういうもんだろう。ダイジンは鈴芽に認識され、受け入れられたことで活性化したんだろうという話でもあって。

繰り返しになるが、閉じ師としてのセンス(後天的であれ)か、あるいは閉じ師として経験値が豊かな人物がか、あるいはダイジンのような存在そのものが、人を招くことができる、ということなのか、なんなのか。

選択の問題はあったのか

人がおよそ直面せざるをえない問題があるとき、そして前作の《天気の子》から何かを選び取るとテーマとしてみたとき、本作が前作から、前へ進んだのか、それとも後退したのか。そういうことを考える必要があるか? これがよくわからない。

自らの意思の介在も定かではないダイジンのような存在が、みんなを守るために身を犠牲にしていいのか、神様ってのいうのは、そういうことの為に居るんじゃないのか? でも、神様だって仕事を止めたいときはあるよな? そしたらどうすんの? という謎の悩みに向き合う暇が君にあるか?

本作、ダイジンはなんなんだ。どうしてダイジンに、そんな重荷を担わせる必要があるのか。人間椅子が要石でいいじゃねぇか。そこに何の差がある。鈴芽はダイジンのことを思い返す日が来るのかは謎であるが、彼女は目の前の恋に夢中なのであった。

なんか後味悪くなってきたな、これ。話の着地点というか、こまごまな描写で拾えるものはもうちょっとあったのでは? という気もするけれど、まぁ、次回作に期待ということでひとつ。

リンク集

自分の目に留まった範囲でのメディアの取材なり、感想記事などをリストにしておく。不誠実ながら、この文章を書いた段階ですべては読めていないので、特にインタビューなんかと記事の内容が整合しない可能性もあるけれど、多分直さない。悪しからず。

皇居的なモチーフに絡めて、近現代の天皇制を問うような文章、みんなこれ本当にテーマだとか面白いとか思って書いてんのかね、と個人的には思うのである。

しかし、あれですね、ダイジンの犠牲というか、そこを気にして文字化するまで書いている人はあんまりいないのかね。むしろこっちのほうが超絶スーパー重大トピックなんですが、私的には。

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