《灼熱の魂》のデジタルリマスター版 リバイバル上映を観た。原題の “Incendies” はフランス語 “incendie”の複数形で、火災、あるいは感情の爆発、動乱、戦乱なんかを意味するらしい(ポケットプログレッシブ仏和・和仏辞典)。邦題、いいんじゃないでしょうか。

ドゥニ・ヴィルヌーヴについては、《メッセージ》からの俄かファンな私だが、なるほどなというテーマだった。

本作も《メッセージ》も、あるいはブレードランナーの続編も、原作と呼ぶべき対象が存在するわけだが、よぅくこういう作品に巡り合えるというか、拾い上げられるものだ。それが努力であり才能なのだろう。テーマのみならず話術、プロットにも近いところを感じる。

物語の舞台もあらすじも知らずに鑑賞に臨んだ結果、姉弟の暮らしている地域がカナダであることも、母の故郷がレバノンであることも、終盤までわからなかった。世界史はちょっとだけ履修したが、現代史はほとんどノータッチなのよね。

あらすじ

ある日、突如として世を捨てたような状態になって入院、そのまま亡くなった母の遺言に従い、双子の姉弟の姉:ジャンヌは母の故郷に居ると思われる父、そして存在すら知らされていなかった兄のあとを、母の足跡とともに追う。

母がたどった過去の情景、それを巡る現代のジャンヌのシーンが微妙にオーバーラップして時間軸が入り乱れる。作品世界に誘い込む手法だろうが、個人的には混乱させられたなという印象が大きい。

若くして離別した息子(姉弟の兄)を失った女の執念、その皮肉な結果に向き合うことになる姉弟が辿りついた真実とは。

レバノンの内戦のような

上述の通り、世界史もとい現代史には疎い。中東戦争、レバノン、ヒズボラというキーワードは耳にした機会はあるが、レバノンで具体的に何が起きたのか。少しでも知る機会ということで、いつものようにインターネットで学んだ。明石書店のエリアスタディーズでも読むといいのだろうが。

レバノン内戦というと、大まかな括りは、アイン・ルンマーネ事件(1975年)に端を発するキリスト教系の宗派住民マロン派とパレスチナ難民勢力の武力的な暴発から始まったらしい。

既存の国内イスラム宗派、シリア、イスラエル、果てはイランまで巻き込んで争いは全土に及んだと。もちろん欧米諸国も絡んでいる。

物語だが、亡くなった母は現地の古くからの、おそらくクリスチャンの家筋で、一方で彼女の恋の相手は別系統の人物であったようだ。この男性は、物語は序盤の回想パートで登場も一瞬、台詞もないような状況で亡くなってしまう。素性がほとんどわからない。

また、つまり、彼は、姉弟の兄の父であるが、姉弟の父ではない。

その後、家から勘当され、ベイルートの大学に通っていた母が遭遇したのは、上述のアイン・ルンマーネ事件だろうか。これを契機に彼女は、南部の孤児院施設に預けられたという情報を頼りに息子を探す旅に出る。

果たして、孤児院はアラブ系の組織に攻撃され、息子は死亡したものと思われた。復讐心に駆られたまま彼女は、組織に参加し、ある政治政党の党首または幹部らしき人物を暗殺に成功する。

この政党がどの派閥だったのか、よくわからない。暗殺対象は右派だったとかのはずなので、キリスト教系の政党だったのかな。

さて、捕らえられた彼女は、南部のファタハ・ランドにある刑務所に収監され、 15 年を過ごす。このファタハ・ランドというのは、パレスチナ難民勢力に与えられた自治地域だ。

史実上、内戦自体は一応、1990 年をもって幕を閉じたという扱いにはなっているようで。作中の彼女はイスラム系勢力の実力者に匿われるカタチでカナダへと渡航し、第 2 または第 3 の人生を歩むことになったと。

プールがいろいろと

母がおかしくなったのは、市民プールのプールサイドであった。季節は晩夏だろうか。母の死後、姉の旅立つタイミングと思われるが、抜栓された水のないプールとその景色を前に佇む彼女が描かれている。

母が教えたからこそ姉弟は水泳を嗜むようだが、母自身についてもレバノン時代にはなかった趣味だろう。母の苛烈な過去に直面するたび、プールでそれに向き合う姉弟の描写は、わかりやすくも本作での象徴的なシーンだ。

レバノンでの 2 つ目のプールのシーンであったと思うが、光の反射の加減で、頭だけが妙に大きくみえる状態の姉弟が抱擁する。このアンバランスさと妙な美しさは、作品内でも随一に思う。

姉弟の出生について

ここからは物語の核心に触れる感じになるので、ネタバレ的な話になる。

序盤から明かされている父の不在について、物語の現代部分がざっくり 2000 年前後くらいとして、後知恵だけれども母のレバノン時代は大体が 70年代中盤からはじまり、 80 ~90年代となるはずだ。

鑑賞中に、次第にあきらかになる事実と時間の経過との関係に少しずつ違和感が大きくなっていったが、その原因がある 1 点に収束していった。いやはや。

当方はフランス語もわからなければ、アラブ系の言語もわからん。姉の名は “Jeanne” ジャンヌで、弟は “Simon” シモンかな。いずれもフランス読みとして間違いなかろうが、中東圏でも割と可換できる名前なのだろうか、或るシーンではそのように呼ばれていた。

このシーンも、またよかった。また、非常にどうでもいいことだが、双子の姉弟の関係性を決めたのは、フランス式なのか、レバノン式なのか。少し気になった。どうでもいいけど。

最後に。

ありきたりというか、ある意味ではアレな言い方だけど、結局、世界史の問題や複雑に絡み合うさまざまな経緯について学ぶにあたって、よほど記憶力やこの系統の学習に適性があれば別だが、このようなコンテンツに補助的にでも理解の一端を任せる、というのは大事だということを思い知らされる。

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《雨を告げる漂流団地》を Netflix で見た。上映もされているが、台風の迫るなかでの時間の使い方のひとつだったのでした。許してください-誰にともなく。

《ペンギン・ハイウェイ》と同じく、石田祐康が監督を務める。その他、プロデューサーの山本幸治は目にしたことがあるが、クレジットで存じている方は、それくらいでした。

解体前の団地とその元住人、姉弟あるいは兄妹のように育った航祐と夏芽を中心に、ひと夏の不思議な体験を通して、小さな成長を遂げたのか? 主人公らは小学 6 年生らしいです。

オープニングは、まだ住民が居た頃の団地の様子が描かれ、主人公らがまだ低学年くらいまでの時期を映したり。ある部屋の窓から、おじいさんがフェードアウトしていく。キーパーソンじゃんと思ったら、たしかにそうでした。

冒頭から航祐が不機嫌であり、夏芽との関係を何かしら拗らせていることが伺える。のっけの情報だけだと、恋愛のたぐいくらいしか想定できない。恋愛脳かな?

で、最後まで見てもそこは否定しきれないけれど、かなり抑制的というか、とりあえず現状では恋愛と呼べるそれではないけれど、くらいのエクスキューズが付くような描写だろうか。制作側がそれを意識していないはずはないので、なおさら。特別な関係にあった 2 人だけに、様子がね。

彼らの蟠りだが、航祐の祖父-つまり OPでフェードアウトしていったおじいさんが亡くなったときのすれ違いに原因があった。さらに作品としては、その根本に、夏芽が普段の外見上の装い以上に生きる意味を見失っていることを扱っていました。

この問題が割とエグい。マイルドに描かれているようだけれど。 物語の 2/3 くらいの地点だと思うが、彼女は死に惹かれているといっていいくらいの態度を明らかにする。

ホラー映画味も強まる。

考えてみれば、本作のホラー感には明確な理由があって、彼女は本当は 1 回、死んでいるハズなのだった。これも実は、かなり問題とできる演出だろう。深入りすると作品自体から離れていく気もするので、深入りしないけれど。

さて、一瞬の豪雨によって漂流しはじめた団地での生活は、奇怪なモンスターなどこそ出てこないものの、なかなか大変なのは事実で、大方はコミカルに描かれてはいるが、これもこれで恐い。当たり前である。

航祐と夏芽は、主役だからこそ注目しやすく、いろいろと能動的に行動するが、別に決定的なリーダーシップ性を備えているワケでもなく、ようよう 2 人も仲直りして仲間たちと溶け込む。

だが、要所ではやはり、相互に憎まれ口をたたくことを止めない。そういうもんなだろうな、この 2 人の関係性は、という納得感もある一方、じれったいというか、こういう状況が本来の 2人の状況といわれても? みたいな感情も湧く。これは演出の意図がよくわからなかった。

別に喧嘩するな仲良くしろってワケではないが、いかにもしょーもない減らず口の叩き合いが、現場の状況に則しているとは思えないのだ。漂流してるんだよ? 団地が沈むで? という瀬戸際ですよ。

考えうるとすれば、子供向けとしては、これがウケ狙いというか、自然体なのかもしれないが、どうなのか。

まぁいいか。

「雨を告げる漂流団地」というタイトルについても考えたい。「雨を告げる」という部分だが、雰囲気だけだろうか。どういう意味合いなのか。これもわからない。考えたいと言ったけど、考えるのを諦めた。

海底のモヤモヤもよくわからん。

誰にも顧みられない部分があそこに取り込まれるのか?

まぁいいか。

最後に、漂流についての類話について、知っていることをまとめておく。

いうまでもなく、ジュール・ヴェルヌの『十五少年漂流記』が挙げられる。原題に近いタイトルとしては『二年間の休暇』となるワケだが、冷静に考えると暢気で前向きなタイトルですね。

で、漫画だと『漂流教室』がある。楳図かずおだね。いやぁ、よくこんなことを 1970 年代にコミックとしたと思うけれど、Wikipedia に記載の説明には、やはりというか『十五少年漂流記』が念頭にあったとあります。

忘れちゃいけないのが、「機動戦士ガンダム」であり、あるいは『銀河漂流バイファム』だったりである。サンライズの方針なのか、富野監督など何方かの意志の反映なのか知らぬが、これらも『十五少年漂流記』の影響が大きい。特に『銀河漂流バイファム』はいい。

あるいは、ドラえもんにこれぞ漂流というタイトルのイメージはあまりないが、一応は映画に『ドラえもん のび太の宇宙漂流記』というタイトルはある。すまんが、内容はほとんど覚えていない。居住可能な星を探しているという感じの話だったっけ?

そういえば『日本沈没2020』でも漂流の描写はあって、これは白眉だった。ということを思い出したら、ヒッチコックの『救命艇』も漂流モノとは言えそうだなと気づく。そして、なるほど、『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』という映画もあったな。

なんだかいろいろと思い当たるけれど、吉村昭の『漂流』もまったく漂流であった。とはいえ、ここまで名前を挙げなかったが『ロビンソン・クルーソー』などと同じで、漂流自体というよりは孤島のサバイバル生活という面が強いんだっけかなとは。

なんでか人間は漂流というテーマに惹かれるのだろうかな。

最後にひとつ。物語についてまだ疑問があったのを思い出したが、夏芽は小さい頃に 1 度ここに来たことがあると言ったが、あれは皆を安心させるための嘘だったのか?

まるっきり嘘という雰囲気でもなかったし、それにしてはその後のフォローも無かったが、仮に彼女の発言が真実だとすればどういうシチュエーションだったのか。

いろいろと疑問が尽きない。

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Amazon Primeで《軍中楽園》を観た。2014 年の台湾映画だ。日本国内での上映は 2018 年だとか。

つい先日、台湾は金門島というエリアに正体不明のドローンが侵入し、台湾軍だかが撃墜したというニュースを目にした。不勉強ながら、地理がわからず地図をみると、ほとんど大陸本土側だ。仔細は Wikipedia などを読んでもよくわからないが、とにかくここは台湾領土として実効支配されていると。

《軍中楽園》は 1969 年、共産党との小競り合いの最前線であった金門島、そこに用意された公認の娼館に配属された若手軍人の物語だそうだ。

彼の名をルオ・バオタイ:羅保台という。ピュアで純朴、学者の家系で姉が 3 人いるところの長男だとかだったと説明されていたが、つまり娼館での人間模様に翻弄されるのが序盤だ。彼はいわゆる童貞であって、地元の彼女といつか一緒になるとか、かんとか。

次第に仲良くなったニーニー:妮妮という女性や、もともと所属していた海兵部隊の上官との友情、彼の抱えるコンプレックスなんかと向き合いながら、次第に大人びてくるバオタイだが、一線はギリギリで超えない、おいっ、なんのことやら。

妮妮との別れのシーンは、同じ男性としてはわかるようなわからんような、その残酷ともいえるピュアさは、たしかにバオタイの美徳ではあったかもしれないが、それが終盤のハイライトでは脆くも崩れ去ったことが、さっくりと描かれる。この諸行無常さが何とも言えない。

こういう直截なコミカルさは中国の作品という感じがする。うまく説明できないが。

バオタイ自身の葛藤や、同期の旧友の失踪、失意の上官の転落など興味深い内容ではあるが、全体的に軽いので、重くなり過ぎないのはいいのだが、一方でなにかとなぜか、清々しくはあるが、何を観ていたのかはよくわからん気分になるタイプの作品ではあった。

とはいえ、失恋を重ねられる人生ってのは、ある意味で幸せだろうなと思う。

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《U・ボート ディレクターズ・カット版》を観た。Amazon Prime から無くなる前に。

この映画、観た記憶はないが、その自信もない。地上波で放映されたことがあったなら可能性はある。私が鑑賞したとすれば、2004 年の木曜洋画劇場版に限るようだが(Wikipedia拠)、どうだったか。

まったく面白い映画で、もともとは TV 向けのドラマらしいが、そういう前提にしても話のつなぎなどに無理は感じない。ディレクターズ・カット版は 3 時間を超えるので、調整しやすい面はあるのだろう。鑑賞は長くてツラいが。劇場公開版は 149 分、日本国内上映版は 135 分らしいので(同前)、やはりこれらは省略の多さゆえに感触も異なろう。

つまるところ、潜水艦が沈むか、沈まないかが全体のカタルシスで、潜水艦モノといえばこれに尽きる気がするが、本作については特に、帰港後のクライマックスこそが評価を決定的にしているというか、そういう作品で、ここが決定的に名作足らしめている。のだろう。また、出航前の饗宴との差こそが、実である。戦争は虚しい。

ほとんど登場人物の話をする。

艦長と機関長はかなりの付き合いらしいが、どの程度なのか。機関長と機関兵曹長の見分けが、たまに難しくて、ツラかった。長い航海ののち、みんなの髭が伸びてくると尚更だ。

その機関兵曹長:ヨハンは途中でメンタルブレイクしてしまうが、そのときの彼の表情、その相貌を照らすライティングは本作中でも 1 位かというくらいの狂気を前面化した見事な表現だ。

操舵長はなかなか、いいキャラクターだった。が、ジブラルタル突破作戦で重傷を負い、命半ば。かと思いきや、なんとかかんとか、地味に彼は生き残っており、こういう数奇さの演出も効いている。とはいえ、機銃にやられてアレだけ時間が経ってたら、本当だったら失血死だろう。

艦長、トムゼン大尉と洋上ですれ違って喜んでいたが、邂逅が終わった途端に現実に戻り、周囲にキレ散らかす。リアリティがある。戦友に思わず出くわす奇跡を楽しむことと、その事実が示す不合理な事態に対処すべき態度とはまったく別であって、嫌にドキドキさせられると同時に、面白くもある。

報道官の彼は実質のところ艦長と並ぶ主人公だろう。乗艦上の責務としてはフリーの立場から最終的にはクルーたちと運命を共にする。彼なりの視点から、特に士官以上らとは、ときには橋渡し的な役割を、特に最後のほうでは取ったりもする。皆の最後を見届けるのも彼の役割だった。

艦内、通常は白色灯か暖色の白熱球かで、潜航または浮上時に赤色灯に切り替わる。潜水艦モノの皮切りであろう本作だが、これだけでまず楽しい。ほのかに光る青いライトや、洗面所のライトなんかも印象深い。

食事シーン、割とバリエーションに富んだ料理が並ぶ。美味しそうだとも言いがたいが、魅力的ではある。魚かチーズかに黴が繁殖したシーンが象徴的であったが、それ以外もやはり目に留まる。報道官、たまに食欲がないのがハッキリしていて、これもよかった。

ソナー音でビビる演出も、潜水艦モノだとアルアルで-もちろん実際においても恐怖そのものだろうけれども、本作中においては中盤からの敵駆逐艦との攻防のさなか、この音がふと耳に小さく響く。すると「おいおいおいおい、何だこの音は」という感じになって、不思議な新鮮味があった。

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《劇場版 RE:cycle of the PENGUINDRUM》「前編 君の列車は生存戦略」、および「後編 僕は君を愛してる」の 2 作を観た。このメモは、前編を見終えた段階でちょっと書いて、後編を見てから書き足したり、直したりしている。いつもより文章の破綻は酷かろう。

『輪るピングドラム』は、放送当時に見ていた。記憶は断片的で、印象的なバンクシーンは当然として、ラーメン屋での両親の骸だとか、檻の中での冠葉と昌馬のやり取りとか、そういう幾らかのイメージが残っている程度だった。

一方で主題歌 OP、ED の曲は、いまでも、たまに聴く。どちらかというと、エンディングの『Dear future』があまりにも好きで、当時は CD を購入した。1 回だけエンディングで使用された Vo.堀江由衣のバージョン がもっと好きで、こちらもわざわざ収録アルバムを購入した。

今回、後編で TV シリーズを超えた結末に辿り着くという情報は得ていたが、前編の鑑賞中に「そういえば TV シリーズは 2 クールあったよな」と気づく。なかなかハードなボリュームになると思った。前編のクライマックスは TV シリーズの 2 クール目の途中くらいだったろうか?

しかし、結果としては追加された内容自体は最小限で、私はそこまで意味を見い出せなかったし、特に後編が忙しいという感じもしなかった。省略された内容も幾らかあったようだが、違和感もなかったので、これはよい編集だったと言えるんでしょうかね。

「RE:cycle」と冠されているように、使い直しが前提の物語で、ここを気にするとキリがないけれど、語り直し自体がある種のトレンドと言っていいのか、ざっくばらんに言えばコンテンツの再掲示であり、10周年という節目を祝う意味もあるのだろうけれど、終わってみれば、どちらかというと制作者の禊落しみたいのように感じる。

今回の映画は、TV 版のストーリーを直接なぞるわけではなく、群像劇的に、各登場人物の過去と現在を行き来して、そこここに仕込まれえた謎をチラ見せしていく。この展開は、TV シリーズよりも情報を整理したということだが、まったく新しい視聴者が理解しやすいかといえば、やはり相当にややこしい気もする。

逆に、TV シリーズを知っているがゆえに不要な記憶がストレートな鑑賞を邪魔している可能性も考えうる。つまるところ、何にも言えない。

あらためて見ていて思ったのは、記憶よりもずっと少女マンガっぽいなというところで、キャラクターの造形からしてそうなのだが、ところどころ挟まれるギャグとか、特に冠葉の感情まわりとか、そうと断言しづらい時代だが、当初からしてだいぶん女性向けだったのだなと再確認した。

プリンセス・オブ・ザ・クリスタルの衣装のパージも、絶妙なカットでギリギリで対象年齢を問わずではあるけれど、あらためてスクリーンサイズで目にすると特に、かなり扇情的というか、エロティックで困る。これを見ちゃったから、お兄ちゃんは振り切れちゃったんじゃないか、なんて乾いた笑いも出る。

話の主軸だが、兄妹の三角関係というか、そういう関係性を超えていくところもあったのだろうが、それが眞悧や両親の団体の問題と直接的にリンクするわけでもなく-もちろんそれぞれの関係はあるのだが、結局は別の問題然としたままなのは今となっては物足りない感じもある。解決案も特にないけれど。

個人的には、TV の当時から昌馬と苹果の関係性に注目していたので、あの結末がよかったのか悪かったのかは判断しないけれど、物寂しさはあった。この映画でそれが何かしら希望に変わるのかしらと淡く期待したが、別にそういうこともなく。

しかし「僕は君を愛してる」と副題につけるには、やはりそこは大事であるはずだが、追加されたいつくかのシーンは、ちょっとおもしろくはあったが、最終的には「おにいちゃん」が繰り返されたことがよくわからず、やはりキメは海なんだなということで、いろいろな作品を思い出すことになった。TV シリーズであの海岸を想起させるようなカットがあったなら申し訳ない(記憶にない。

「きっと何者にもなれない」から変奏された新しいキメ台詞もそうだが、お兄ちゃんであることとか、諸々の何に何を説得させようとしているのか、いまいちピンと来ない。まぁ、誰でも YouTuber とかにはなれるか、誰でも。ブレイクするかはしらんけど。

愛してる、あるいは愛されていることの貴重さ、そこが TV 版から続く本作の実のテーマだと言われれば、あぁそうだったのかと気づく面もあるが、それと兄弟の自己犠牲の天秤が心残りになったままで-結局、その煮え切らない心境こそが本作の本懐に感じられてしまう。

昌馬から苹果に伝えらえた愛は、それはどの程度のどういう愛なのか、そんなことばかり考えてしまう。

ところで、桃果本人がプリンセス・オブ・ザ・クリスタルらしいことが明らかになるが、これはこれでどうなのか。TV シリーズでのふわっとした状態の方が都合がよさそうだが、それは避けたようだ。

図書館とその延長として描かれた空間がなんなのか。本作すらすべての物語の部分に過ぎないとして、であれば桃果すらメタ作品的な存在になるけれど、それはそれでどうなんだろうか。

なんか不満ばかり並べたみたいになってしまったね。

運命の至る場所とは

これ、今回あらためて気になったのだが、このセリフで連想するのは到達点のようなところか? 物語の終わるところというか?

というよりは、個人的には運命という場のようなものをイメージした。人びとはその内側でなにかしらを求める。その場を乗り移るのが、桃果の魔法なのかもしれないが、とにかく運命の至る場所というのは、目的地のようではなくて、生活世界で自らが影響を与え、影響される相互関係のような状態じゃないか。

裏を返せば、至る所に運命はある。

というちょっと哲学めいた話にしていくと楽しいけど、本編と絡めながらその考察を楽しく進めるのは、大変そうなので、ここまで。

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ジョーダン・ピール監督の最新作《NOPE》を観た。ホラー映画なのか何なのかよくわからん、というのは前作までと同じか。だが《ゲット・アウト》を観ていない私に本作を語る権利があるのかどうかは疑問ではある。

また聖書の引用から始まる。ズルいのである。まぁ気になる人は、これを使ってなんかやったらいい。

スタジオでチンパンジーが暴走し、誰かが倒れている。カメラの視線は現場の人物を示唆するが、そこでは明らかにはならない。チンパンジーがカメラの視線に気づくと、このシーンはそれで終わる。

主人公:OJの父が死ぬ。頭に金属片が飛び込んできたらしい。コイン様のそれであったが、それがなんだかはよくわからない。牧場は経営難となり、管理する馬を徐々に減らしていく。

ところである晩、逃げた馬が空中で喰われた。どうする。

隣家の韓国系アメリカ人:ジュープが経営する西部劇なテーマパークでは、主人公の牧場から馬を購入している。なんなら彼は牧場ごと買い取りたいという。しかし、売られた馬が、テーマパーク内に居る様子はなかった。

どうして主人公は気づかなかったのか?

このジュープこそが冒頭の視線の主で、暴走するチンパンジーと最期に心を通わせる可能性のあった人物であり、そのこと自体が彼の心を壊している皮肉がある。ところでチンパンジーの暴走当時に最大の被害に遭ったと思しき女性が、彼の開催するショーに来訪していた。なぜだ?

部分的に皮下組織が剥き出しのままのようにみえた彼女だが、賠償金かなにかで隠遁生活を送っているのだろうか。どういう誘いに惹かれて、ジュープのショーを見にきたのか。これがわからない。まぁいいか。

ところで、チンパンジーが暴走した理由だが、そんなものを探しても仕方がない。だが、描写として、彼の誕生日だったらしく、子役のジュープと少女はプレゼントを用意していた。女性のプレゼントは大きな箱に入った、たくさんの風船だった。これにはチンパンジーとはいえ、TV ショーの演出とはいえキレるでしょ、という気はする。風船て。

まぁ、しかし、チンパンジーが暴走するエピソードは、空中で人間らを捕食する生物と人間らの関係、あるいはジュープ本人との関係、はては黒人、黄色人らの立場などを反映しているようではあるが、このエピソード自体が浮いて見えることも確かで、煮え切らない。

やはりプレゼントが風船であったことに問題提起があるのではないか。しかし、そのたくさんの風船、そして荒野に広がるバルーン式のトーテム、あるいは国旗が彩られたロープというアイテムが、それぞれ微妙にシンクロしているのは流石だなと感じる。

で、その捕食者を撮影するということで、ホームセンター従業員:エンジェルや謎の撮影者:ホルストとかと協力することになる。ホルストの編集している映像、《吸血鬼ノスフェラトゥ》でチラチラと入っていたカットに似ていた。

捕食者の特性を生かして、撮影を試みる。途中で撮影に成功しているように思えるが、少なくともホルストは満足していない。しかし、みんな混乱したのか、最終的には、なんかグチャグチャになる。結局は OJ の妹:Mが撃退と撮影に成功する。

ちなみに捕食者が最期になったのも、やはりバルーンなんであった。

捕食者の本体のフォルムも終盤で大方明らかになるが、ぶっちゃけエヴァンゲリオンの使徒のようで、AKIRAのオマージュといい、笑うしかない。

だが、捕食といってもそれが食事なのかもわからないし、捕食者が生物として成体であるかもわからない。あるいは、チンパンジーのように、なんらかの理由で暴走しているだけだったのかもしれない。

さて、作品が暗示してること、暗示したいことは沢山あるようだったが、何が起きて何が解決したかといえば、それも何もわからない。まぁ、そういうもんか。そういう存在の相手をした、そういう記録ということだ。

しばし考えたが、「本当の主人公はジュープ」説を拡げると、それなりに面白いのではないか。OJにとっては馬をおとりにした悪い奴だし、メインキャストの割にはしょうもない結末を迎える彼だが、彼の試みは本当にショーの見世物として捕食者を晒すことだけだったのか?

チンパンジーとのラストシーンを思い返すとそうとも言えない可能性も言及することくらいはできそうかなとは思う。

ところで、撮影だが、実際にロサンゼルスを北に抜ける地点にある砂漠が舞台のようだ。冒頭、ハリウッドからの帰路で看板にあったが “Agua Dulce” という地名にあたる地域だ。仮名読みだと「アグア・ダルシー」や「アグア・ドゥルセ」などか。

小耳に挟んだので報道をちょっと探してみたけれど、夜景のシーンは実は昼中に撮影されたらしい。赤外線を通すことでカメラのなかでは暗い空間が演出されるとか。以下の記事でそれについてだけ説明されていた。

あとは以下の記事の一連なんかを読むと、いろいろとわかりやすかった。まぁ、流し用味程度の読解力だけど。

本作、《未知との遭遇》や《ジョーズ》の類似性を指摘されるようだが、個人的にはヒッチコックの《鳥》が思い出される。あの映画ほど不条理な作品もなかろうてな。

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Netflixが製作に関わり、Netflixで公開されている《ウィンター・オン・ファイヤー ウクライナ、自由への闘い》を観た。ウクライナ侵攻にかかるロシアまたはウクライナ周りの作品、ドキュメンタリーなどをいくつか見たが、最初にこれを見ておけよ、という内容で遠回りしたな、というのがひとつあった。

ユーロマイダン運動、あるいは革命ってのはなんだ、という話だが、2013 年 11 月からヤヌコーヴィチ政権への抵抗により開始されたマイダン(独立)広場での集会、もとい抵抗運動であって、 2014 年 2 月はヤヌコーヴィチのキーウ離脱までの経過が記録されているのが本作だ。

この映像がどのタイミングで映像作品として企画化したかは不明だが、当初は参加者のスマートフォンによる映像と思われたそれが、途中から撮影班が撮ったとハッキリわかる映像になる。

こういうことが気になったな、というくらいしか言うこともないが、以下のようにメモしておく。

  • 予備役の軍人や退役軍人で市民側についたひとのインタビューがあった。後者はまだわかるが、前者はどうなんだろうか。個人の自由みたいな感じなのかな。ウクライナ軍自体は、運動の最後のほうに最後衛あたりには出張っていたのかなという印象だったけど、よくわからない。
  • インタビューにたびたび登場した少年、彼はマイダン広場に住んでいたと明言していたけど、ストリートチルドレンの類なのだろうか。めちゃくちゃ活躍していたように見えるし、なんらかのシンボル的な立ち位置も獲得してしまっていたのかしら。子供を巻き込むなという話ではあるが、単純ではないね。
  • デモ隊と対峙していた特殊部隊(名前忘れた)の人たちがデモ参加者に非難されていて、それはそれとして仕方がないだろうけれど、どういうアレなのかね。香港では地方から呼ばれた人らがデモ鎮圧隊とされていたというから似たような事情の人たちが集められたのか。ツラい話だ。

最近の報道で、2007 年の EU 加盟の構想開始時点でプーチン政権はかなり神経を尖らせていたという情報を目にした。ウクライナ独立まで遡るとどうなるのかはしらんけど、つまるところ、ウクライナへの侵攻シナリオなんていうのは実現性とは別に構想自体はあったんだろう。

ついてはユーロマイダン革命ののち、クリミア地域の併合もあっさりと進んでしまい、似たように親露派がある程度は形成されている地域であれば同じように事が進むという目安はあった、という感じなのだろうか。実際、同時期からウクライナ東部地域では抗争が始まっていたということで、それが現在に至ると。

しかし、前回見た《ウクライナから平和を叫ぶ Peace to You All》と比べると、首都と地域で市民性がまったく異なるというか、それぞれの事情は相互にはそこまで伝わってはいないのだろうなという感じはする。

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《ウクライナから平和を叫ぶ Peace to You All》を観た。

スロバキアの写真家:ユライ・ムラヴェツが 2015 年前後あたりからウクライナ東部に出入りして撮影したドキュメンタリーらしい。

彼自身、当初は半ばライフテーマのようにロシア連邦の撮影旅行に勤しむつもりだったと冒頭に説明されていて、それが 2010 年頃のこととか。

もちろん当人:ムラヴェツが監督・撮影としてクレジットされているが、同行者が 1 人くらいいたんだろうか? たまに彼自身が映る。あとは現地のドライバーも雇っていたようだから、行軍は 3 人ほどと思われる。

どういう名目で乗り込んだのかは不明だが、本作中で通過する検問ではスロバキアの TV 局員のような身分を名乗っていたのでが、そういう契約もあったのかもしれない。

しかし、途中では西側プロパガンダのリストに掲載されているとも検問員から確認されていた。なるほど、しっかりした情報網じゃねーの。

映像としては、映像の合い間に、たまにモノクロの写真が挟まる体裁になっている。景色であったり、インタビュー対象のポートレートであったりする。そこは本業が写真家の画なだけあって、静止画のカットの決まりが非常にいい。作品然としている。人物もいいが、風景がよい。

全体感としては、田舎、神、そして犬という 3 つが印象的だった。

まずは田舎だ

映像となっていた地域、特に村なんかの名前はほとんど記憶できなかったが、なにせ前線のほとんどは荒野かあるいは農作地であって、そこに点在する村落がポイントになる。でまぁ、田舎も田舎だ。インフラも最低限度に思われる。そんな村がことごとく破壊されている。世界の終わりだ。

こういう村落などは壊すだけ壊したら、ほとんど見捨てられたも同然になるようだ。それらを結ぶ要衝、幹線などを押さえることが支配下争いそのものなのだろうか。そういうことを意識させられる。

神様がいます

田舎っぷりは、土地や設備などだけではなくて、その心性にも感じ取られた。これは言い方が完全に悪いが、現地の人らの神に対する態度というのは、 21 世紀に生きる日本人としての私からしたら、かなりの信心っぷりに驚く。

登場人物らが多少は高齢であるという点を差し引いても、ここまでかと思う。教会に通い、家にはイコンが飾られ、平和を神に祈る。それが生活の一部というのならそうだろうが、すがる対象はあくまで神なのだ。

あるいはプーチンか。

ちなみに本作、西側メディアに数えられる方が撮影しているので、基本的にはウクライナ側の立場のインタビューが多いが、後述のようにシニアの方には明確に親ロシアを表明する回答もあった。あるいは分離派か。親ロシア派のそれらしさは、《ドンバス》でも描かれていたが地域性やリアル、フィクションの差はあるのだろう。

犬様がいます

犬がたくさん映る。「あぁ、これは犬の映画だな」とすら思った。とにかく犬が多い。愛玩というよりは番犬またはパートナーといった存在のようだが、今回は野良犬化した子らも多そうだ。

本当にどこにでも居るし、どこででも吠えている。やはり、田舎なのである。一応、猫も少しだけ居た。

以下、インタビュー対象についてのメモ的な感想を残す。

ドライバーのおじさん

作品冒頭に登場した。ウクライナ側から親ロシア側に接近するときにドライバーとして雇われた方らしい。やはり自宅の近所に爆発が起き、周辺の住民が亡くなったりしたとか。息子さんはキーウにいるとか言っていたかな。

娘がドネツクの大学にいる女性

ドネツク(だっけ)まで 90 ロ地点の村落の女性だ。娘と電話すると、大学の奨学金が出るか出ないかで少し揉めているらしい。娘の大学の地域はすでにウクライナからの独立を謳っている。

対ナチスの老女

「プーチンにはやく助けてほしい」と零す。父はナチスと戦ってソ連から勲章を貰っている。村全体がかなり壊滅している地域のお婆さん。この方は完全に親ロシア派というか、心性はロシア人なんだろうか。ロシア側の主張の通りにウクライナの中枢がナチズムに侵食されているという視点を信じており、その旨に沿った意見を繰り返していた。

分離派とされて収監された息子

上記のお婆さんの息子かな。鉱山労働者である。細かい事情はわからないが、鉱山労働者には実際に親露派が多数いたらしく、彼はそういったカドでウクライナ側により捕まり、しばらくどこかに収監されていたらしい。彼自身は親露派ではないというし、インタビューに応えてもいるから、まぁ完全にどちら側という視点はないのかもしれない。

ピアノの伴奏の子と、それにあわせて踊る子。

おじさんかお婆さんかくらいしか映らない本作で、たまに登場した若者たちのひとつ。幕間という感じのカットだったがそれなりに印象的であった。

老女と猫

「ウクライナに住んでいるけど、私たちはロシア人」のような。明言はしていなかったようだが、やはり心理的にはロシア寄りのようだった。おそらく親露派の軍人からパンを貰えたらしく、それで生きながらえているといっていた。この家には猫がいた。

学校が壊された

地域の小学校が破壊されたと説明する女性がいた。分離派は壊さないようにしていたが、ウクライナ側が壊したという説明をする。彼女は分離派寄りなのだろうか。まぁ、そういうことばかり考えても仕方ない気もしてきた。

年金をもらう老女

定年している。年金をウクライナで受け取って、ただし彼女の生活圏ではウクライナ通貨のフリヴニャは使えないので、その場でルーブルに換金するらしい。レート(取材当時)は1:3だとかで、割がいいと彼女は小さく笑っていた。強い。

スクーターをこの世でもっとも愛してる女

60 代ほどだろうか。比較的、安全地帯なのかな。たまたま手に入れたスクーターが大のお気に入りで街中をかっ飛ばしているそうで、彼女の視点から撮影された映像も映されていた。束の間の平和か、あるいはここは平和か。平和だったのか。

ロシアン・スパニエルと男性

これは明確に飼われていた犬だった。乗用車のトランクにいた。このインタビューも比較的安全であった地域で行われたようだ。ロシアン・スパニエルという犬種、調べてみたら現地以外ではレア種らしいけれど、可愛らしかった。

ホームレスの男性

ソ連時代のスターリンだかの像が撤去された市庁舎だかの前でのホームレスの男性へのインタビューがあった。「こんなもの(ソ連を讃えるオブジェクト)はもう必要ないんだ、へへっ」みたいな半ば自嘲染みた雰囲気を憶えている。

誰も歴史を学んでいないという軍曹

ウクライナ側の軍曹だったかな、の青年。「歴史を誰も学んでいない。こんなことはすぐに終わるはず」と言っていた。彼はまだ前線で戦っているだろうか。

神に祈る人々。アル中のおじさん。

教会、讃美歌、たくさんの老女。1 人だけアルコール中毒症らしい男性が混ざっており、神様に祈っている。ある女性が諭すように励ますが、うまくいかない。戦争とは関係のなさそうな日常的なシーンではあった。

マリウポリで空襲から逃げた少女

唯一の若者へのインタビューで、10代中盤くらいだろうか、父とミサイルから逃げたという話を泣きながら語ってくれていた。この少女も、もはや成人しているくらいだろうか。

現在では検索すれば破壊しつくされた瓦礫の山だが、まだ当時は被害もほどもわからない程度のようだった。

おつむが良かったら戦争なんかしない

やはりどこかの衝突地帯の村の女性、とっくに逃げ出した他人の家屋で生活している模様だ。自宅はとうに破壊されたと。

全インタビュー対象のなかで語り口がもっとも理知的というか、包み込むものがあった。次に出てきたキーウのインタビュー対象をやや例外的とすると、この女性をドキュメンタリーの最後に配した理由もわかる。インタビュアー(監督だろう)は最後に「こんな質問してごめん」といってハグしていた。

あとやっぱり、犬がいたね。

分離派の手榴弾に手足を吹っ飛ばされた男

キーウのマンションにて取材に応える。男性、義手をみせる。脚も片方がないらしい。病院で入院中に知り合った女性と乾坤したのか、ともに暮らしている。

傷病軍人手当みたいなのが出てるのか、暮らしにはそこまで困ってなさそうで、この上ない幸せということもないだろうが、今回のインタビューをみていると、なんというか、戦後の空間をイメージさせられるものがあったような。そんなラストだった。

結局のところ、そんなことはまったく無い状態が続いている。

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公開は 2016 年ということで、すでに 6 年前の映画だ。当時からウクライナとロシアの国境線では小競り合いが起きており、それを現在まで引き延ばして考えると、ジワジワとロシアの侵攻が遂行されていたという事実がより確かに伝わる。

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《カメラを止めるな!》のフランス版リメイク《キャメラを止めるな!》を観た。

言い方が不適切かもしれないが、捉えどころのない作品で、監督も脚本も原作のおもしろさを掴みかねてたんじゃないのかという節がある。

あるいは、原作の要素を皮肉的に再現しているのではないかという複雑な予感というか。両手を挙げて面白いとはいえない作品ではあった。

そんなピーキーな完成度ではあったが、要所ではやはり、それなりに面白さはあって、クライマックスの謎の感動はそれなりに再現されていた。

つまり、それだけ親子愛や創作愛-その完成を目指すという意味で-というテーマそのものの強さを実感させられたとも言える。

「ロケーション選びが原作に比して駄目だ」という意見を目にしたが、私は逆で、なぜか半透明でカラフルな仕切りで区切られた、林中にある目的不明の打ち捨てられた構造体が、低予算でゾンビ映画を撮影するという前提にはあっていたように思う。

そこを監督が駆け回るバカバカしさは、もしかしたら原作を超えていた。次第に建築物の構造が明らかになっていくのも楽しかった。まぁどうでもいいか。

気になった点として、フランス語題《Coupez!》だが、これって「切る!」みたいな意味なのかな。原題とは逆の意味だわね。英題も “Final Cut” となっているようだ。やっぱり意図的な捻じれがあるのか、そのように感じてしまう。

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《あなたの顔の前に》を観た。観たには見たが、それなりの時間を夢半ばで過ごしたのも事実で、空ろな部分は今回については補完し難い。

韓国映画だ。ホン・サンス監督は強い人気があるようだが、今回ははじめての鑑賞となった。

といっても、夏の休日は暑い日照りのなかを睡眠不足のなかで臨んだので、結論からいうとほとんど眠気との戦いに敗れつづけた。ここまでが前提だ。

カメラをほとんど動かさず、同じ画面に映るのはほと 2 人か多くても 3 人ほどで、そこでは繊細そうな会話劇が繰り広げられる。

映画作家の文脈はあまりわからないが、映画映像の美学としてはアピチャッポンなんかと近いのだろうか。こういう映画が好きなひとには効くのだろうな。眠気にも効く。

鑑賞したひとたちからの反応は、クライマックスの自称? 映画監督からの電話に対する反応がよかった! というのが目に留まりやすかった。

そこはなんとか、起きていたのだが、あまりピンとこない。

個人的には眠りに誘われはじめる直前、小川を渡る橋の下で煙草をふかすシーンがよかった。

姉はアメリカ帰りで、向こうではそれなりに生活していれば、屋外で煙草をふかすということもなさそうだが、韓国社会ってどんなもんなんでしょうね。

あ、でも夢半ばだったけれど、喫煙シーンはまだほかにもあったかもしれない。喫煙というのはある種の逃避だろうので、そういうことを喚起させるチカラがあるでしょう。

しかし、こういう映画、もちろん映画でしかできない描写もあると言えるだろうけれど、逆に漫画や小説などの別のメディアで昇華しやすいだろう部分も感じるというか、鑑賞者はそういうところを楽しく想像するのかなとも思う。

というわけで、いつものような感想というにはちょっと足らないが、機会があればまた向き合いたいなという逃げ口上だけ残しておく。

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