《シン・仮面ライダー》を観た。

メタ論になりがちな作品ではあって、つまるところウェル・メイドな映画ではなくて、こういう作品に向き合うべく心構えについて思ったことなどを書こうかとも思ったけど、このブログの本義に立ち戻っていつも通りにダラダラ書くことにする。

本当に賛否両論の反応を目にしてきたなか、庵野秀明の最新作はどんなもんかと、ハードルを下げて見に行ったつもりだった。《式日》も《キューティーハニー》も観ておらず、《シン・ゴジラ》からの実写勢ではある。

仮面ライダーの経験もほぼ無く、小さい頃に仮面ライダー名鑑で、アマゾンの設定とビジュアルが好きだったなという程度だ。平成ライダーはジオウが面白いと聞いて、バンダイチャンネルにわざわざ入会して半分くらいまで観た。たしかにめちゃくちゃ面白かったが、これも途中で終わった。長いのである。

特撮といえば 90 年代後半のメタルヒーローシリーズを幾シーズンかぐらいがメインで、レンジャーモノもそんなにハマっていない。

多くの反応をみるに、当たり前だが、往年の仮面ライダーファンの反応も一様ではなくて、温度差というか、受け取り方にギャップがあったように見える。もちろん、原作の石ノ森章太郎作品まで射程にしている人もいるだろうし、そうでない人もいるだろうし、どの要素がどの方面に向けて表現されているのか、表現されていないのか、誰にどうやって刺さるのかは、わかりようもない。

終わってから押さえておきたい大まかな感触としては、庵野秀明らしさは充満していたけど、それが誰かの感じる面白さとも、誰かの感じるつまらなさとも、言うほど直結してはいないのではないか? とはなった。だので「庵野秀明好き勝手やってる」みたいな雑な感想はどうかなぁ。あいまいなオタク論も同様である。

見始めた最中、すでに指摘も目にしたけれど、出演もしている塚本晋也が監督の《斬、》(2018)っぽい映画だなと、まずは思った。主演が池松壮亮である点が第一に共通するが、ある武力をもった主人公がそれを行使するのを躊躇う、という点で共通しているし、その武力に伴って生み出される凄惨で残虐な状況も近いところがある。

で、庵野秀明と塚本晋也の関係の具体的な事情などは知る由もないけど、言うまでもなく意識しているだろうし、そこにリスペクトがあるわけでしょ、という次第なので、機会があったら見たらいいんじゃないか。おもしろい作品です。

次いで、ボスラッシュのような演出がユニークだった。ハッキリとシーンをそれっぽく繋ぐことをしない。画面に映る情報を特に補足もしない。個人的には直近では《劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト》が連想され、つまりアニメ的な演出なのか? と安易に考えそうになったが、特撮作品にありがちな場面転換のような気もした。古い作品にありがちといってもいいのかもしれない。

一方で同時に、2人目のオーグとの対決あたりで「退屈な作品か?」という印象が過ったのも事実で、なんやかんで文脈が隠されているということに辟易ともなる。別に文脈を知っていなくてもいいことは結果的には確かだし、気づく必要もないのだが、このノリが続くとツラいなとなったことも言っておく。

ちなみにだが、実はそれって最近の映画界隈でもてはやされる作品と相似する部分があるのではないか。ややレイヤーは異なるが、アカデミー作品賞の作品だってやれ人種だ、ビビットなテーマだ、社会問題だというのが決め手になっているという。あるいは人気の映画シリーズは、本作同様に、或るシリーズの系であること自体が文脈そのものであり、そこで鑑賞者を篩にかける、あるいは高揚させる事実は見逃せない。

なんだかねぇ。

で、そんな感覚とはお構いなしに、銃撃戦で斃れるオーグもいれば、目的は達したいけど言うほど戦いたくないというオーグも出てくる。このへんの塩梅はさすがで、そもそもがデタラメなテーマではあるわけだが、彼らが、それぞれの目的に沿った戦略を謀って、かつ、それぞれにそれなりに味がある。こういった落としどころの作り方の巧さは比類ない気がするというか、磨かれた技という感じがある。

こういう工夫なり技術をオリジナリティといっていいなら、私は最大の賛辞を贈りたいわけよ。

さて、政府機関がさそりオーグを倒すという展開がいわゆる幕間であり、ある種の伏線でもあったが、鑑賞者側もいろいろと分岐点なんじゃないですかね。まぁしょうもない映画ではあるんだ。最終的には家族愛みたいなところがテーマのひとつみたいになるし、みんな泡になって消えてゆくし、このへんで見てる側の切り替えもうまくいかないと置いていかれそうだ。

何かと忙しいし、よい映画っぽい文法からは外れてるでしょ、これ。それで飽きれるひともいるし、怒り出すひともいるという始末よね。

さて、この映画、まともな台詞を持った人間が人間として登場するのは、最初の緑川博士、政府機関の2名、それだけなのよね。ルリ子が唯一、彼女こそもデザインされて生まれた人造人間ではあるので象徴的には人間側の人間ではなく、だが、1号の悩みとは別に、等身大の人間としての心情を抱き、吐露したのが実は彼女だけというのは、また業が深い設定である。薄暗い。

また、結果的に、1 号が抱いた武力にまつわる問題はこのへんで事実上の決着はついていて、ライダー同士の戦いも含め、ほぼ同じ力を持つ者同士の潰しあいに過ぎないことになる。そりゃ泥仕合にもなるってもんで、そのへんの妙なリアリティってもんが伝わらないひとには伝わらない。それが最終的には、そのへんのしょうもない喧嘩っぽいバウトに着地するのだ。こんなもんは見たくないと言われれば、それまでだが。

また、しかし、である。

この映画の感想を交換した知人が、ライダー1号、2号同士の戦いだけが異様の派手さで描かれて、やや不満と言っていた。なるほど味がある指摘で、最後の0号との戦闘はむしろ上述の理由を含めて画面上は割と穏やかで、0号の戦法(というか武術?)がそれを許しているというこじつけもよく考えられているのだが、1号×2号の戦闘だけはチープさを確保しながらも、本作で別格の超人対決であった。

はじめて本気を出した 1 号と彼を上回る性能の2号との戦いである。ここは派手でなくてはならない。そういうことなんでしょう。メリハリといえばそれまで。また、これも個人の感想に過ぎないが、ここで滅茶苦茶頑張りましたみたいな VFX なり CG なりの演出をしても、大しておもしろい画面にはならないってことなんでしょうね。

最終決戦である。究極のオーグ、蝶(超)オーグである緑川息子も普段はほとんど人間然としているのもユニークで、やはり前提を忘れそうになるが、こいつら人間じゃないからね、ほんとは。森山未來の独特の身体の使い方が画面に与える違和感もそこそこに、あくまで人間側である1号:池松壮亮、孤独をモットーとし、飄々としたとしたキャラクターを維持し続ける2号:柄本佑らとの対比も際立ってくる。

あくまで娯楽作品として、登場するそれぞれのキャラクターの考えや苦悩は、あんまりどれかにフォーカスされたり、特別に強い演出などがなされることなく(そのように見えた)、だが、なんとなく解決されていく。こうもりオーグとK.Kオーグはドンマイだけど、いうてオーグの面々にも苦しみはあったんやなって……。

良い意味で、これは特別な作品じゃないんだなっていうのがあった。

その他のことなど

光学作画とは

クレジットに「光学作画」として、庵野秀明がクレジットされており、こりゃなんだとなったが、ウルトラマン系の円谷作品で光線などの特殊な画面の処理をほどこす役職らしい。

ほとんど、 飯塚定雄氏の仕事ということのようだけれど、VFX や CG が本格的に採用される前の日本映画、特撮映画の加工技術の粋ということなんだろうか。Wikipedia をソースとすると、《シン・ゴジラ》にはこの役職はクレジットされておらず、《シン・ウルトラマン》には飯塚定雄氏がクレジットされており、本作ではこれを庵野秀明が務めたということになる。いろいろと事情があるんだろう。

具体的にはどのへんのシーンのどういう映像加工なのか知りたいもんだが。

轍がないんだよなぁ

これも散々指摘されているが、監督の作風として撮りたい画面が大前提で、そのほかのことは置き去りにさりがちだという。まぁよくわからん指摘とも言えそうなんだけど、矛盾みたいに見えてしまうなら仕方がない。私は別に悪いとも思ってはいない。

今回は、海岸の砂浜で本郷と政府の 2 人が語っているシーンがまず目に留まった。バイクが傍らにあって、ルリ子亡き後の作戦の行く末を語っている彼らだが、ギリギリ彼らの足跡がカメラに映らなかったとして、それは認めよう。

だけど、さすがにバイクがここまで来た痕跡がまったく目に入らないのは可笑しいでしょ笑。風が強かったとしても、まるっきり痕跡がなくなるまで会話を始めないワケもなく。これ、絶対にそういう画作りをしていると思うのだが、そういうリアリティは画面に邪魔っていう配慮なんだろうな。仮に最新のバットマン映画で似たようなシーンを撮るとしたら、向こうの監督はそうするんだろうな、とか。楽しいね。

お前ら、どこに向かうんだよ

政府の2人がちょっとギャグ要員みたいに振る舞う味付けは、されているように思う。で、そのなかでも別にお笑い側ではないのだが目に留まったのは、あるシーンでの彼らの去り際だ。ここも画作りが優先されているなと。

具体的には蝶オーグによってヤラれた政府機関のエージェントの死体袋の列を彼らが去る描写で、広い航空機用の倉庫のようなロケーションだが、彼らが画面外に行くとき、滝は左手前方向へ、立花は右手前方向に、別々に袋のあいだを縫っていく。いやいやいや、さすがに同じ出口に向かうだろうに、なんでそれぞれ別方向になるんだというね笑。

でも、画はかっこいいんだよなぁ。

はい、おもしろかったです

ということで、目に留まるいくつかの不満の原因はわからなくもないが、《シン・ゴジラ》と比して、どっちもおもしろいというくらいには面白かった。なんとなく《シン・ウルトラマン》は彼が直接は指揮しなかったらしい理由もなんとなくはわかった気がする。これくらい作風の振れ幅が必要だったんじゃないかな。

また、よくある批判についてひとつだけ気になるのは、「「古さ」や「チープさ」を良さとするな」みたいな意見があるんだけど、これがわかんなくて、それが決定的に作品を面白くしていない(とみんなが思うからその意見になるんだろうけど)限りは選択された手法なわけじゃん。

昨今ならあえてモノクロで撮影された映画がシネコンレベルでも 1 つや 2 つは毎年上映されている気がするけど、あれ、なんでモノクロで撮ってんの? って話にはならんのかね。そこを論点に批判的に扱う文章もどこかにはあるんだろうし、ちゃんと分解すれば理解できる批判にもなるんだろうけど、どうも感覚レベルで出てくるその辺のネガティブイメージがよくわからん。映像のインパクトってそれだけ強烈ということの証左でもあるんだろうけどね。

まぁ、究極、最終的には感覚が大事なので、まぁ、ダメって言われるものはダメという総論にはなるんだろう。

最後に、あんまり本作にまつわる文章はまだ読んでない。おもしろい文章をネットで見つけたら、順次追加していきたい。

以下の記事、全体的に言いたいことを言ってくれている感じがある。

以下の記事、90年代なりの宗教観なりその問題性がベースになるという指摘は他に目にしてないので、参考になる。指摘も概ね的を射てそう。浜辺美波がキレイに撮られてないというのもまったく同意で、意図こそ想像できるが、そこはなんとかしろよとは思った。人造とはいえ、人間は不完全なのが其れだから、なんですかね。

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