2023年の年始に《マザー!》を観た。原題は 《mother!》だそうだ。そのまんまだけど、もしかしたら邦題はギリギリまで決まってなかったんじゃないの。「母さん!」って感じなのかね。

2017年の映画で、日本では2018年に公開予定であったが、配給会社の判断で公開が中止されたとか。もともとグロテスクな映画だという話は耳にしていたが、配信されていたので、なんとなく年始の暇なときに見ようとなった。

草原の一軒家、異様に広い間取り、内装は中途半端、DIY で奥さんが家屋を整えようとしている。夫は作家のようだが、ご多分に漏れずスランプ状態に陥っている。ちなみに夫婦間の関係も夫の不能により途絶しているらしい。

ある晩、どこからも来るわけがない訪問者を迎え、その男を泊める。そのうち、彼のパートナーという女も来訪し、仲たがいをしているという訪問者の 2 人の息子とやらもやってくる。弟が死ぬ。

この時点で、アベルとカインと判じたので、聖書の引用と意識できたが、全貌はどんなもんなのか。個人的にここから先は、そこに意識が向かなかった。だが、以下にリンクした解説ブログを読んだら、全体像がまるで聖書の引用ともとれるようだ。気づかんなぁ。

本作では唯一、夫が家から外出するシーンがある。死ぬ弟(訪問者の息子)のために病院に行ったらしいが、この描写が何を意味したのかわからない。というか、ここは主人公の孤独と不安を強調する間だったんだろうけど、違和感は大きい。

で、訪問者の息子の葬儀がどうのこうのでトンチキな騒ぎがまた起きては過ぎる。

どっちが先だったか忘れたが、このへんで妻は子供をその身に宿し、夫はスランプを脱し、創作熱を取り戻し、過去の名声を再び引き寄せるのであった。と、ここまででおそらく 3 幕構成で言うところの 2 幕までが終わる。

で、ギリギリ戯画的で踏みとどまっていた本作の描写は、ここから一気に阿鼻叫喚のパーティーへと変貌し、ワケわかめになる。耐性がないと見れないタイプの映像になる。子は生まれるが、ほとんど同時に死ぬ。

この家の地下にある隠された部屋にはなにかしらの秘密があった演出はあり、ラストに一端が明かされる雰囲気だが、ぶっちゃけどうでもいいようでもある。

タイトルやオチから察するには、人間のあらゆる活動の不毛さというか、そのなかで何を見出すかというテーマがあるような気もするが、解説ブログを読むと環境問題への問題提起だそうだ。ひゃー、さすがに気づかんて。

うーん、夫が神であったとして、では妻はいったい何だったのか。結局、この作品が “mother!” であることの意味は何か。

夫の引き起こす事件、それに伴って訪れる妻(母)の喜怒哀楽、主人公はいったいどういう存在だったのか。彼女こそが結局は、作品内では唯一まともな人間として切り出されるけど、果たして鑑賞者として、あそこに留まることを選び続けた彼女に共感できるのか。共感する必要があるか?

所詮、人間は神(夫なり? 家なり?)から離れられないという前提であればいいんだけど、では最後に火を放つのはなぜ彼女でなければいけなかったのか。そしてなぜ夫はそれをリサイクルしようとするのか。夫は神ではなくね? となっちゃう。

神の創造に母的ななにかが関わっているとすれば、みたいな想像もできるんだけど、そうすると、この時点で、いや当初から聖書の見立てなんていうのは下らない画作りでしかなかったという面も考えられる。大体、神は無から世界を作り出したわけだし、そこに男も女もない。

楽園に闖入者が来ることを拒めない神を神足らしめているのは、別に何も無さそう。

というわけで、結論として、主人公:母を「地球」と捉えると、いいかもね。

地球が望もうと望むまいと生命は生まれ、繫栄し、最終的には地球を食い尽くさんばかりの勢いで拡がる人類がいる、という構図が、たしかに今作の描いた状況そのものかもしれない。

そうすると、やはり聖書を引用する展開は壮絶な皮肉であり、かつ物語全体に決定的な意味は与えていないように思え、エンターテインメントとして楽しむ分には意味ありげなそれらの状況は面白いものの、それだけなので、意地が悪いとも思える。

このとき、夫は神というより人間性の化身なんだろうな。となると、ラストシーンは人間は何度失敗しても母を利用する、あるいは協調していくことを諦めないぜ、みたいな半ばポジティブなメッセージはありうるかもしれない。

嘘だろ。

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