5 月の後半に《攻殻機動隊 SAC_2045》の第 2 シーズンの配信が開始された。総集編については感想を残している。後編もいずれは劇場に来るだろうが、これはとっとと結末まで楽しみたい作品だので、タイミングを窺っていた。

Netflix は割と日本上陸の初期から利用していて、見たいものが思い当たらなくなったら更新を中断して、というのを繰り返している。現在の規約だと 6 か月以内に戻れば、アカウントのデータは保持されるらしい。

いままでアカウントの作り直しになったことはないが、かつては 6 か月より長く契約を切断していた記憶があるので、ルールの変化があったんだろうかな。どっちでもいいけど。

で、なんとなく再加入のタイミングだが、利用している au 回線の契約プランのバリエーションにて Netflix と Amazon Prime が含まれるプランがある。それが半年間のキャンペーンで割り増し分が免除されるとのことだ。どんなもんだろうかと思って、乗ってしまった。

という経緯をもって、ひさびさに Netflix にサインインしてトップ画面を見たけども、相変わらずというか、配信事業におけるサジェストの難しさってなかなか解消されないんだろうなという扁平さである。

ゲームに至ってはメニューから消し去りたいぞな。

そういえば Netflix、直近では契約者が伸び悩み、本社の人員整理も実施されたというではないか。興味は薄れつつあったので見出し以上のことはしらぬが、残念なことですね。

さて、自分なりに楽しむか。

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6月に突入した。気がついたら 6 月だった。ゴールデンウィークが去ってからも久しい。前半戦の終盤ということは、前半戦の振り返りには適したタイミングでもある。やっていきましょう。

1月

そこそこ人間らしく生きていた。まぁなんだ、月の振り返りをちゃんとやってないし、方々に断片的な記録しか残ってないので何とも言えない。日記を読んでみると、当時関わっていたプロジェクトの忙しさが垣間見えるが、そのことにはあえて触れていないことがわかる。

2月

この月も悪くは無かったというイメージはある。人間的に活動していた。例年、日記を残す習慣が 1 年のうちの半分乃至は生きており、残りは失っているような状況だが、本年は 2 月から 5 月まで日記をほぼ書いていない。それとは裏腹に、生活リズムは安定していた。

3月

なんやかんやで前半戦では 1 番好調だったシーズンというイメージが残っている。生産性があった。生産性があったというとある意味では味気ないが、生活が整っていたからこその充実と言えるだろう。

4月

悪くは無かった。すべては順調のはずだったのではないか。月末に、哀しい別れがあった。率直にいえば、それを 5 月末まで引きずっていた。というか、まだ解消していない。関連する心労が増えた。

5月

年頭のブログ記事に記したように、人間関係に気を遣う 1 年にしようとしている。ところが 5 月は不意の予定が重なった。どれもこれも自分で選び取った結果ではあったが、負担になった。4 月の件が重しになってダメージが倍化された面もある。

悪いことばかりではないが、いや、好かったことも多かった。部分的に悪いこともあった。大方悪くなかった。だが、しんどい人間付き合いに時間を割く必要はない。最小限でいいんだった。気にせずにおこう。

という感じだった。前半戦の最終月、ちょっと立て直したい。とりあえず日記の習慣を戻していくか。

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パリ13区》を観た。モノクロで気取った映画なのかなという勝手なイメージを抱いていたが、まぁなんというか……。英題は “Paris, 13th District” だそうで、原題は “Les Olympiades” だそうだ。

原題についてだが、てっきり現地での地区名だと思ったが、13 区の地区名は “Les Gobelins ” (レ・ゴブラン)だそうで、そんなら「オリンピアード」とやらは何ねと思ったら、13 区南部の高層住宅団地を指すらしい。その中心商業地区は中華街だそうです。Wikipedia ありがとう。

フォローの人たちが幾人か見ていたので次第に興味が出たというワケで鑑賞した。ほかに目ぼしい作品も無いし。結果としては、そこまで気取っちゃいなかったが、ただただ人間の苦しさがあった。この作品にポジティブさは、どれくらいあったかなぁ。自信がない。

ところで、本作がモノクロだったのは単純に、肌が頻繁に露出されるからだろう。そのまんま、つまりフルカラーだと、おそらくかなり、どぎつい。ほんのワンシーンだけでも、それが示されていた。

さて、監督:ジャック・オーディアールの作品も初見だが、(嘘です、《ゴールデン・リバー/The Sisters Brothers》を見てた)、本作は原作がクレジットされており、エイドリアン・トミネという米国人のコミックスだという。彼のことも知らなかったが、日系 4 世の作家だそうで彼の 3 作品がベースになっているとのことだ。

その原作の舞台がパリかはわからないが-というか、そうではない気がするけど、どうなんだろう。そのへんの感覚は普遍的なんだろうか。そのへんの感覚ってのは、本作で描かれるような一般的な若者(いうてアラサー)の性的接触にまつわる感覚の話だ。

ということで、最中のシーンはやたらと多いが、そこまでエロティックでもなければ、ドロドロもしていない。生活の一部という感じがするのは、そういう前提であり、演出でありなんだろうけど、悪くなかった。こういうカジュアルさは自分にとってはそこまで身近ではないので、新鮮と言えばそうだね……。

さて、4 人の登場人物について、ザックリと私見を述べると、ノラとアンバーの過去はおそらくに相当えげつない。彼女らの抱えるものは、特にノラについては、カミーユには捉えきれなかったろう。まぁ、話の次第はそうなった……。

ノラとアンバーの紡ぐ愛のようなものが、セラピー的なもので終始するのか、そういう枠組みを取っ払って自律した愛として発展していくのかはしらんけど、少なくとも作中の段階では、こりゃこうとしかならんわね。ツラい……。

一方は、エミリーとカミーユである。断片的にしか明かされないノラとアンバーの過去に比べ、現実直近の苦悩が描かれている。近親者の死ということだけど。

カミーユが車椅子をどうのこうのして苦しむシーンは、本作でも屈指に好きでね。妹さんとの関係も、最終的には一種の清涼剤として機能しているのがユニークだった。

母の死に対して、父、妹、そしてカミーユがどう向き合わざるを得ないのか、それなりに丁寧に描かれている。父の動向を知ったときの居心地の悪さ、そして単にその事実は、カミーユにも、エミリーにも重ねられる。

有り体に言えば、喪失をどう埋めるか。そこには人間性の濃淡がある。

エミリーの人物像の掘り下げもおもしろかった。たとえば、ノラとカミーユの関係が、彼の経歴について理解が進んだことでちょっと打ち解けたと思ったら、ピアノを上手に弾いているエミリーのカットにすっと移って、画面に窘められた気分になる。

グッと来たね。幼少時からの家族写真がたくさん画面に並べられる。彼女、バレエを習ったり、ピアノを習ったり、いろいろなところで家族の記念撮影をしたり……。裕福あるいは大切に育てられたというニュアンスが伝わる。ついでに、冒頭の字幕が記憶通りなら、大学は政治学院だそうで、これフランスでもエリートコースでしょ。

それがついには、友人からパーソナリティ障害を通告され、妹はロンドンなりで双子を生んで、母もそちらへかかり切りで、遠く幸せな生活を過ごしている。

残された大好きな祖母は、認知症だ。打つ手がない。

まぁこうやって振り返るとね、言い方に棘があるかもだけど、ノラはノラで、エミリーとカミーユはそのまま、落ち着くところに落ち着いている。相応というと雑かもしれない。

登場人物、あるいは俳優たちの年齢構成

奇しくもノラ役のノエミ・メルランが画家マリアンヌを演じ、同作の監督のセリーヌ・シアマが今回は脚本にクレジットされた《燃ゆる女の肖像》でも役者の年齢が気になったが、今回もそうなった。

登場人物についてだが、設定上、おそらくみんな二十代後半から三十代前半だろう。ノラについてだけは明言されていて、32(33だっけ?)歳と言っていた。俳優の実年齢と同じなんだろう。

カミーユはどうか。ノラよりは若そうな雰囲気もあるが、ザックリ調べたフランスの教員制度を見ると、大学の卒業に 5 年を要するらしい。6 年教員をしたと言っていた記憶があるので、留年のたぐいが無いとして 29 歳とかか。だとすれば、イメージ通りだ。

ちなみに、彼を演じた MAKITA SAMBA は 1987 年生まれというから、制作当時は 33 歳 か 34 歳くらいかな。ノミエ・メルランとは、ほぼ同世代だ。

エミリーを演じたルーシー・チャンは 2000 年生まれということで制作時点で 21 歳前後か。キャストのなかでは最年少だろう。それであの存在感はすごいの一言だが。エミリー自体の設定年齢は 25 歳前後かなと予測するがどうだろうか。

ついでではないが、アンバー役のジェーニー・ベスは、ミュージシャンだそうで、1984 年生まれだそう。メインキャストのなかでは最年長かな。これも不思議ではないというか、イメージには一致する。

冒頭の蜜月関係は 1 週間の何日目だったか

まぁどうでもいいんだけど、プロット上、時間が遡って描写されるのは冒頭だけと思われた。

オープニング、パリ13区の高層マンションではいろんな生活があります。さて、こいつらは…、というところでエミリーとカミーユがごろにゃんしているのは、冒頭および作中で繰り広げられた会話の内容からして入居初期だ。

2 人の単純な関係は 1 週間で終わったという彼女の証言を真に受けるなら、入居後の 2、3 日中のことと予測するのが自然だろう。

だからなんだ、という話ではあるが、そういうときくらいの無責任な関係とその愉楽に、なんというか人間らしさを感じる。

ひとこと愚痴のようなことを零せば、これは現地の人たちでも「あぁー、こんな感じだよね」ってなるような作品なのかは気になるところである。もちろん、まるっきりそんなことはなかろうから、よいお話で終わるのであろう。

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《シン・ウルトラマン》を観てきた。ウルトラマンシリーズというのは通しで見たことが 1 度もないうえ、全体感もさっぱりわからない。たまたまコミックスを流し読みしたり、雑誌の特集で設定をかいつまんだりしたことはあった。

庵野秀明、樋口真嗣の座組でアレコレ言われるのはしょうがないだろうけど、彼ら、あるいは本シリーズ、もしくは特撮にそれぞれ思い入れなり深い造詣がない限りは、ヘタな詮索してもあんまり意味ないよな、という感想が多いことよ。

西島秀俊

田村君男役。いろんな映画祭で評価された《ドライブ・マイ・カー》の主演俳優ですね。これ、撮影はどうやら《シン・ウルトラマン》のほうが先行していたようで、公開が前後したようだ、多分。おもしろいね。

若手の俳優たちの演技はだいぶん厳しい感じの本作だったが、特に冒頭から前半あたりの SF 的なキーワードが頻発するシーンは西島さんの台詞回しでもちょっとキツさがあって、ついついニッコリしまった。

みなさん、徐々に馴染んでいくんですけどね。見る側の慣れも含めて。あと、みんなスーツもネクタイもお洒落だったですね。

長澤まさみ

浅見弘子役。主役だろうな。全体的には詰め込まれたエピソードが立て続きに発生するなかで、彼女の神永への態度、さらに具体的には彼がウルトラマンに変身する前後において度々にアップされる彼女の描写は、一貫していたので、作品全体の軸と言っても過言ではない。

で、ベタというか説明不要というか、彼女の神永への関心の変遷がそれぞれの表情で描かれている。まぁなんというか、わかりやすいんだけど、よく演じ分けられていて感心した。偉そうな言い方になってしまうけど。その仔細について明確なアレはないけど、それで十分だという話だ。

一部界隈で目にした彼女に関連したシーンについての文句だが、個人的にはまったくぴんと来ない。ちょっと調べても、具体的にどのシーンかも判然としない。人間の尊厳レベルで問題という訴えなら、まぁ。しかし、仮に人権へのハラスメントとでも言おうものなら、それこそ本作自体のテーマでもある。

竹野内豊

役名ないんですかね。仮に《シン・ゴジラ》とアレすると赤坂秀樹(内閣総理大臣補佐官)とでもなるのだろうか。ここで気になってくるのは《シン・仮面ライダー》であって、あの作品って国家の機関が登場するスケールで語られる文脈を差し込めるの? という点が気になる。

《シン・ゴジラ》に共通して出演している俳優として気づいたのは、高橋一生ですね。声の出演だけだけど。

山本耕史

メフィラス役。登場時一瞬、藤原竜也かと思った。まぁ、いい演技だったというか、キャラクター像にあっていたというか。居酒屋で神永としっぽり飲んでいるシーンは本作でも珠玉のシーンではないか。

最後は、揺れないウルトラマン(ゾフィー)が来訪したことであっさり身を引くのも現金でよい。

ザラブ

戦闘シーンはザラブ戦が好きだったね。空戦描写がいい。重力を操っているという雰囲気が感じられたし、ザラブの幾何学的なエネルギー波とウルトラマンの光線は、それだけならザラブのほうが高性能そうだよね。気円斬みたいなのに負けたけど。

被害者たち

破壊される家屋や建物なんかの描写はあえてオモチャ感を残しているんだろう。人的被害を連想させる描写は最小限以下だったと思う。これは、《シン・ゴジラ》と比べても間違いなかろう。

そもそも正義のヒーローの話なので、そういった側面をヘタに強調するわけにもいかないんだろうね。《シン・ゴジラ》と比べて残念だったといえば、さらに無能感が強かった政府が無慈悲にも総辞職させられるということもなくて寂しい。

ゼットン

株式会社カラーがクレジットされる意味、ここにありといった感で、どこからどうみても使徒だ。こればっかりはエヴァンゲリオンだ。

逆に、使徒のデザインの根本的なイメージがウルトラマンシリーズの外星人たちに拠っているということもよくわかった。

外星人やらその兵器、あるいは怪獣(変な当て字は使わない)がどれもウルトラマンと同じサイズである保証もないということも端的に表されていたと思う。

特撮とはなんだ

批判的な意見の例に「予算がない」「しょぼい」みたいなのがあったんだけど、そうじゃないんじゃないのと。これが特撮の現代的な映像なんじゃないのと。

なんというか今回の鑑賞で一番おもしろかったのってここで、新しい映画なんだけど古臭い。CG が多用されているんだろうけど、特段それ自体の効果が豪華でカッコいいというワケでもない。

これが日本映画だ、というか。こういう作品をそつなく評価して取り込んで昇華していかないともったいないというか。マンガやアニメ原作の実写化作品でもいいけどさ、日本的でキチンとした派手な映画、もっと見たいですね。

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どこかでひさびさに日記ブログなりの方々とした話題が盛り上がっていたらしい。当該の記事に目を通したが、別になんということも無く。

どちらかというと、以下の記事が直近では心に残っている。といって 1 月の記事だ。もうそんなに経ったか。はてな内でも注目しているひとが少ないのが残念だ。

ずっと昔から thinkeroid さんの記事は読み続けているが、今年になってブログ活動を意識的に、少し活発にしたとのこと、その理由が綴られている。

想いや考えを堆積させていく、あるいは風化していくのが人間だろうけれども、節々でなにかしら振り返ることは、どんなに根無し草な人生を暮らしていてもあろう。あるいは日々に几帳面に生きているひとこそ。

ゴールデンウイークに差し掛かるあたりで、身内にアクシデントがあり、なんだか気持ちの整理も進まないままに、いろいろな予定をこなしてきたが、奥底では哀しみが渦巻いている。

しばらく映画館にも行っていないし、勉強というか、読書というか、そういった活動も停滞気味だ。アクシデントを除いても、どうにもプライベートの進捗が芳しくない。そういうタイミングだと言えば、それまでだろうか。

気持ちと生活のリズムに折り返しをつけたい。

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《アネット/Annett》を観た。奇妙なビジュアルの作品であることは認識していたが、そこまで関心を熟成できていなかったのは事実で、フォローしてるひとらが賛辞を送っていたので、観にいった。これは個人的には大ヒットな逸品で、現時点で今年の映画としてはかなり好きだ。

ネタバレと呼べる要素を大いに含むので、もし本作を未鑑賞で、内容は知りたくないという方は、読まないでほしい。

監督と過去の作品は知っていたが、見たことはない。前情報もほとんど無しで臨んだ。ミュージカルいう話だったが、別に歌って踊る感じでもないし、歌うにしてもガッツリ歌うという風でもないので、逆に音楽で感動したいという向きの人には合わない。

個人的に、歌が混じる映画はとっつきづらいが、本作では歌はスパイスというか、ストーリーや全体のギミックに大きく作用する面のほうが強く、そういう意味でも音がヘンに雑音化しないというか、違和感こそなかったし、これはこれでよい。

アネットのパペットたる所以

以下の3つの観点からアネットはほとんどすべてのシーンにおいてパペットでなければならなかった。説明するほどでもないし、野暮ではあるんだけど、自分用にもメモとして残しておく。これで大方、感想の主たる部分も述べたことになる。

  1. 単純に作劇の合理的な目的
  2. ヘンリーにとってのアネット
  3. アンにとってのアネット

ひとつめ。「生まれたとき」「留守番であやされているとき」「立ち歩きできるようになったとき」「歌えるようになったとき」「あるメッセージを訴えるとき」「父と面会したとき」それぞれのシーンで僅かずつ成長するアネットをどうするかという演出上の問題がある。

本物の俳優(子役)を採用する場合、少なくとも 3 回くらい役者を変更しないと、それらしい画作りはできないと思われる。で、それは難しいようねということでパペットが採用されたのだろう。

赤子の役をほぼ人形に背負わせることで、寓話性が高まるというか、突き放して話に入り込めるというか、異化効果と言っていいのか、そういう意図はあったろう。

また、人形はまるっきり CG というワケではなくて実物ベースで撮影されたらしく、日本で作るかみたいな話もあったらしい。最終的にはフランス人の造形師による人形を採用することになったとのことだ。

彼女の存在は、はじめこそ滑稽で不気味にすら見えたが、次第にそれなりの可愛さを生み出し、最後には感情移入までさせられる。これは見事だった。逆説的には、そう感じてしまう自分に対して、何だかなという感覚さえ生じた。

娘を愛すことをいつ覚えたか

ふたつめ。私にはヘンリーを憎めない。作中ではロクなことをしていないが、私にはどうしてもこの男が憎めない。同類への哀れみだろうか。憎めない。この男、娘を愛していたかというとおそらくは、ほとんどノーだが、完全に否定もしづらい。

アネット誕生のシーンで彼の流した汗、この描写は半ばギャグだったろうけれど、あれはヘンリーの感動そのものであって、娘への期待や希望と、そこに同居する不安が入り交じっていた。作中でやたらと汗を拭う男なのも注目したい。

ちょいちょいと挟まれるモノローグから、ヘンリーは、あまりまともな環境では育ってはいないことが予想され、心が重たくなる。アンの死後に一瞬でもシャッキとするのも面白かったが、それもアンの呪いによって逸らされていった。

さて、ヘンリーにとってアネットが人形であった理由だが、まずは正面を向いて愛せていないというのが単純にある。歌えるアネットを聴衆に晒そうとしたという素振りからも、これははっきりと示されている。

で、もうひとつは本当の父親ではなかったからだ。これも単純だ。

ヘンリーはアネットの名を呼ぶが、「娘」とはほとんど呼ばない。この台詞回しはごく自然にそうなっただけとも思えるが、結果的に意味ある形になったといえよう。

かなり微妙な点だが、ヘンリーには実の娘ではないという予感が元々あったようにも思うし、指揮者から明かされてそれを再確認、あるいは自覚したようにも思う。いずれにせよ、アンをあのようなかたちで失った彼に免罪は無いが、アンと指揮者によって不幸の種を事前に積まれていたのが彼ではないか。不幸にしか辿り着かない男が愛おしい。

アンにとってのアネット

みっつめ。初登場時、あるいは舞台俳優として成功後の彼女が送迎車の後部座席で林檎を齧っている。鑑賞後に思い返すまでは何ということもないと思っていたが、ざっくり言って悪魔の誘いを受けてしまった人物としても見れるだろう。

ぶっちゃけ、意味ありげに伴奏者のモノローグが開陳され、加えてアネットがこのようにパペットを利用して描かれた時点で、私には即座にアネットの真実が予想された。アンはヘンリーに負い目があった。そういって過言なかろう。

どの顔をして “We Love Each Other So Much” を歌っていたのか。私にはわからないね。

たとえば彼女は、誰もいない自宅の、さらに寝室を厳重に戸締りし、加えて洗面室に隠れるように入り、窓を開け、ひそかに煙草をふかしていた。このような彼女のことをヘンリーは知らなかったのだろう。彼女の秘密は多い。

言うまでもなくアンとヘンリー、あるいはアネットを含めた彼らの不幸の原因のひとつで、ヘンリーは劇場で死を続ける彼女をこそ知ってはいても、素の状態に近い弱い彼女については実はほとんど知らなった。そうに違いない。

しかし、ヘンリーが抱える闇についても、アンにも同様のことが言えよう。

前話が長くなった。

母親としてのアンが抱くアネットへの愛情に偽りはないだろう。が、作中の展開と作用としては、アンすらもアネットを道具として見立てている。それは決定的には、アンに宿された歌う能力であり、彼女はこれを呪いとまで言う。こんな親があっていいのだろうか。

伴奏者を含めた主要登場人物 3 名は、いずれも決定的な悪人ではないが、それぞれが解消しようのないエゴの問題を持っていた。付け加えておくなら、ヘンリーを主軸にして話が進むためか、個人的にはアンのそれは少し宙に浮いて見えた。

クライマックスに至っては「あなたと一緒に獄中で罰を受けるのは私よ」のような台詞、これは言うまでもなく自分への罰でもある。そこには罪の自覚があった。だからこそ、最期のあとはヘンリーと寄り添おうとしたのかもしれない。

あなたは愛せない

この悲劇全体の導火線を用意したのがアン(あるいは同時に伴奏者)だとすれば、それに火をつけて爆発まで処理したのがヘンリーだった。クライマックスにおけるヘンリーとアネットとのやりとり、どういう意味だろうか。明白なのかもしれないが、私にはよくわかっていない。これはアネットからヘンリーへの呪いか。

なぜヘンリーはアネットを愛せないのか。

「闇を覗くな」というヘンリーからアネットへのメッセージは、いくつか意味があるように思うが、あらためて考えてみると、ヘンリーは彼女の両親のどちらをも手に掛けている。その事実をアネットは実は知っているのか。

そんな人間が、それこそ手をかけた対象の娘を愛す理由はないということか。あるいは、娘自身がそれを拒むだけか。単純に後者では意味がないが……。

なぜヘンリーはアネットを愛せないのか。

以下、レビューやインタビューなどへのリンクです。

なんだかんだでエンドクレジットが好きです。

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《林檎とポラロイド》を観た。ヨルゴス・ランティモスと同じギリシア人監督で、彼の撮影の助手のようなこともしていたらしいクリストス・ニクという新しい方だとかで、興味を持ったワケだが、好みの作品ではあったが、小品というか突き詰めるとなんともいえない味わいだ。

ネタバレを忌避するタイプのひとにはあわない作品とその感想なので、以下の文章は注意です。

英題は “APPLES” で原題の通りだが、ギリシア文字では “ΜΗΛΟ” と書く。ざっくり「ミロ」と読む。イータの大文字の形状がアルファベットの “H” と相似だからビビりますね。ちなみに、キリル文字の “И” はイータを元としているらしいけれど、キリル文字にはこれとは別に “Н” という字がある。もうメチャクチャですね。

さて、突然にひとびとが記憶喪失に陥る社会で、ある男も記憶喪失になったようだ。これらのひとらは病院に送られ、保護されて診断を受け、親族なり友人なりが引き取りにくれば、それに応じる形になるらしい。

で、親族らが見つからないなどの場合は再生プログラム送りになる。

男の本当にやりたかったことは

鑑賞者には中盤のさりげないシーンで種明かしされるが、男:アリスは記憶喪失を装っていただけだ。で、その理由だが、パートナーが亡くなったことに起因している、と思われる。

と、オチだけ書くとなんということはなくて、本作はいったいなんだったのかという気分になる。

再生プログラムの目的は

そもそも、記憶喪失者の発見時に身分証の不携帯が問題になっているようだし、この世界にはスマートフォンなどの機器もないようなので、ていねいに無視されているが、設定にはかなりファンタジーがある。

というワケで自ずと、本作からは寓話的なメッセージ性を読み取りたくもなってしまうというものだ。

記憶喪失者にはアパートの一室と生活資金があてがわれ、謎のプログラムをこなすように指示されるが、およそ生産的な行動ではない。どちらかというと破滅的な行動の指示が多くなっていくようだ。

特に最後の指示は、途中で切断されたものの、不穏な内容であった。

そのひとつ前の指示が、アリスが直面していた事態、あらためて向き合わさせられた事態であり、それがある意味で、ひとを自暴自棄にさせるような状況だとすれば、社会の足かせとなる記憶喪失者たちは、何に使われるのか。

逆説的に、アリスは記憶を取り戻すことを選ぶ。

うーん、でどういうことなのか

「林檎は記憶を維持するために役立つ」というメッセージ、記録を残すために利用されるポラロイド写真。少なくとも本作の舞台設定では、情報を残すための装置は脳とポラロイド写真しかない。

人間の記憶もポラロイド写真も淡い。次第に、あるいは不意に、ときにはあっという間に大切な情報さえ失う。

通信手段のない世界、記憶喪失という現象あるいはその装い、記憶喪失的な、かつ身寄りもロクに見つからなかった人間たちへの扱い、といったあたりを掘り下げると、本作には人情噺というよりは仄暗さがあるように感じるが、ここまでとする。

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《ゴッドファーザー》を観た。午前十時の映画祭というやつである。例に漏れず、ほぼ満席だった。コッポラの作品は《地獄の黙示録》の体験以来だが、この映画は断片的に見たことある気もしてきた。が、話の全体像はほとんど知らなかったので、新鮮な体験ではあった。

マフィア映画、このブログで言及しているだけでも《シチリアーノ 裏切りの美学》《The Untouchables》くらいしか触れてないし、そもそもあんまり観ていないけれど、端的に言って気持ちのいいコンテンツではない。

本作や原作がアメリカン・マフィアの実態をどれだけ精確に描写しているのかは確かめられていない。だが、本作はマフィアとその類縁が苦しむ描写がほとんどで、一般人が苦しむような状況はほぼ直接的には描かれていない。その点は、楽しむ方としては救いなんだろうか。

念のため時代背景についてだが、マイケルが海兵隊で日本軍と戦ったとかの状況から 1940年代後半から 1950 年代の終わりまでが本作の時代背景にあたるらしい。この時代あたりから巨大なファミリーでも麻薬売買に着手しはじめたというのも概ね歴史に則しているようだ。

コルレオーネ・ファミリーの世代交代

ヴィトーの偉大さ、襲撃後の老境、そしてそれを引き継ぐことになったマイケル、この関係をやたらと丁寧に描くのが本作だ。それぞれのエピソードは、このテーマを生かすために十分に力を果たしている。語弊を恐れなければ、それ以上の役割はない。

結婚式、配役と種馬、新しい取引の申し出、銃撃、抗争、マイケルの避難生活、兄の死、復活と帰郷、洗礼式といった具合に展開やその関係は、割と明確で、どの状況も丁寧でフラットというか、これといってこのシーンが強烈に演出されているということはない。あえていえば、マイケルの避難生活は異世界感があるか。

洗礼式のさまざま

どこの描写もフラットとは言ったが、やはりクライマックスの洗礼式は欠かせないか。荘厳なカトリック教会で催される誕生した甥の洗礼式、「悪を取り除く」旨の問いに重ねられる粛々とした回答の裏で起こる粛正の数々は、善も悪もないような気分になってくる。爽快感までは感じなかったが、粛正のシーンはどれもよかった。

甲乙つけがたいが、モー・グリーンがマッサージを受けている最中に眼鏡越しに射抜かれるところがいいね。マイケルが食堂でやらかしたのと同じくらいのインパクトがあった。

教会で流れているのは、バッハのパッサカリアとフーガ BWV852 のように聞こえたが、音源として耳にする作品よりもスローテンポだったので確証が持てなかったが、サントラに入っているっぽいので確定か。

これもな、イタリアのカトリックが教会でバッハを洗礼式で流すのかわからないし、気になるのだが、どう調べればいいのかわからないので、単純に楽しんでおくに任せる。どうなんだろう。

要塞化していくゲート

ヴィトーが襲撃された直後だったかな。ファミリーの屋敷の入口は内側から車が横に壁になる形で蓋をされて、来訪者の勝手な侵入を防ぐ体制になったと見えた。それ以前がどうだったかは気づかなかったが。結婚式のシーンなどは同じ門か不明だが、オープンだったよね。

で、次のどこかのシーンでは申し訳程度のチェーンが装着されており、出入りがあるたびに外すなどしている描写があったが、さらに展開が進むと完全にゲートが据え付けられており、終盤に至っては何人もの門番が武装していたな。

ヴィトーの最期のシーンでもゲートが映っていたような気はするが、それがどうなっていたかはよくわからなかった。これも同じ門かすら怪しい。再鑑賞の機会があれば気にしたい。つまるところ抗争が激化していることを端的に表してたのだろうが、面白いなと眺めていた。

ランプ電飾による演出が

《地獄の黙示録》の河川沿いの基地や、中盤あたりの夜中の銃撃戦の現場、フランス租界なんかで電飾がいくつか使われていた印象が残っているが、本作でも結婚式-これは点灯していないが、あるいはクリスマスなんかで、電飾があって、監督のこだわりだろうかとなった。

帳尻合わせとアポロニア

抗争の歯止めが無くならない限りは双方の犠牲者の数や質で帳尻をあわせる暗黙の了解はある気がするが、この計算は話中でどうなっているのかな。

ルカの死をどうカウントするかだが、とりあえずこれはゼロで計算しておく。

まず、ヴィトーが瀕死にさせられる。そして追撃が加わる事態になる。これに対してソニーがタッタリアの次期当主を処分したが、この時点でコルレオーネ側の勘定が +1 だろうか。

さらにマイケルがソロッツォ(警官は無勘定)を処分することで更に +1 になる。

これらに対してようやくタッタリア側の報復が入り、まずはソニーが処分されて -1 、加えてアポロニアが処分されて更に -1 となる。

ここでプラマイゼロになるのか?

遂にはマイケルの決断によって、バルジーニ、モー・グリーン、テシオが処分される(ついでにカルロもだが)。これで +3 だろうか。

さんざん攻撃されつくしたコルレオーネ側が状況を大胆に整理した結果、マイケル、コルレオーネ側が多めに処分して勝利を収めた。なんと言ってもマイケルは、アポロニアを巻き添えにされているのだ。これはどちらかというとソロッツォ側の報復だったのかな。後半もなにかと忙しい為、アポロニアの存在を忘れがちだが、そりゃマイケルは静かにキレてるよな。

うーん、差し引きゼロ! としておくがどうだろうか。裏切ったシチリア時代の護衛君とかもしっかり処分されているのかね。

ケイにせよ、アポロニアにせよ、ヴィトーの配偶者のカルメロとは異なり、マフィアのボスの配偶者としての苦難に直面することになっている。組織の変容を体現しているとすれば単純だろうけれど、どうなんだろうな。

Part 2 の上映には行けなかったので、近いうちに配信なんかで鑑賞したい。

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マイケル・ベイ監督作品の《アンビュランス》を観た。監督の作品をそれとして積極的に受容した経験はなかったが、《ザ・ロック》、《アルマゲドン》は見たことあったな。トランスフォーマーとかはまったく見てない。

本作は、デンマークの映画《25ミニッツ》をリメイクした作品らしい、という情報が目に入ったけど、下記のインタビューを読むと印象がやや変わる。

これはリメイクではありません。私は『25ミニッツ』を観たこともなく、脚本も知りませんでした。私は自分の映画を撮ろうというつもりでスタートしたんです。でもこのコンセプトはとても気に入っていて、同じコンセプトだと思うけれど、作品としては別物になります。

『アンビュランス』はリメイク映画ではない? マイケル・ベイ監督が明かす製作の裏側

仔細まで触れられていないが、一応は元ネタとしたものの「リメイクと呼ばれるような作り方ではない」という認識だろうか。「救急車に銀行強盗が乗り込む」というアイディアが先に実現されていたので、原作としてクレジットしたという位置づけだろうか。私の憶測なので詳細な事実関係はわからないけれど。

いつものようにダラダラと書いていく。

救急車と警察車両はカーチェイスできるのか

ものすごいカーチェイスが繰り広げられる本作だが、寸胴な救急車が幾十幾百と追いかけてくるカッコいいパトカーから延々と逃げ続ける。ふと冷静になると奇妙な図で、まぁたしかに救急車も最高時速とかすごい出るんだろうけど、それにしてもと頭が冷静になる瞬間はあった。

そんなことはどうでもいいんだっ!

何本も網の目のように円柱が並んだエリアを、それこそゲームのように潜り抜けていくシーンなんか、否が応でも面白くなってまう。ドライバーを務める人物が超絶ドライビングテクニックを持ってるっぽいけれど、そこも別に細かい設定が明かされたり、示唆する描写があったりするわけではない。『D-LIVE!!』をハリウッドで映像化してくれないかなと思ったりしたけど。

まぁとにかく勢いが勝利する

ドローンなんかも大活用されてて、画面酔いしかねないシーンも数えるほどあるので、劇場の大スクリーンで楽しむのがオススメである一方、やっぱり、この手の B 級超大作はぜひとも TV の画面で見たいなという贅沢さもある。

それぞれのキャラクターの個々の設定も悪くは無いが、あくまでアクション映画の根幹的な設定の補助線以上のことはなくて、突き詰めようがない。良くも悪くも画面で起きていることがすべて。

とにかく犯罪者の逃避行も、あり得ないような車中手術も、地元ヤクザのアホみたいな作戦も、とにかく大笑いで、ハラハラと楽しんだ。

全体的には情緒もへったくれもないが、いろいろな面で情緒が醸し出される設定にはなっており、妙なエモさがある。これこそが 超 B 級である証かもしれないし、ひとによっては敬遠する理由にもなりそう。

破壊されずに残ったものの映るシーンが全体的には印象深かった。

なんか上映館がどんどん減ったみたいで、そろそろ映画館では見られなくなりそうではある。

《ブラインドスポッティング》を観よう

主役 2 名の関係だが、《ブラインドスポッティング/Blindspotting》(2018)を連想する。義兄弟あるいは本物の兄弟然とした白人と黒人のコンビが、そのバックグラウンドに苦味を抱えつつ、やりくりしていく。

《アンビュランス》では苦味が強かったが、《ブラインドスポッティング》はギリギリで踏みとどまっている。興味を持たれたら是非みてほしいなという作品だ。と思ったら、感想をここに残していた

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あるいは作品の話題の拡がり方について述べる。

『チェンソーマン』(第一部とされる)は楽しかったが、個人的には『ファイアパンチ』のほうが面白かったと感じる読者である私だが、『ルックバック』と『さよなら絵梨』を比べると『さよなら絵梨』のほうが好みではあるが、トントンというくらいだ。藤本タツキの短編を読んだことないが、テクニカルな描き方に誤魔化されているものの、扱うテーマは割とシンプルというか一貫しているというか。

爆発はわかりやすい

最新の『さよなら絵梨』については、最初にプロジェクターに映されて登場する映画のカットが《ファイト・クラブ》と推察されているが、今作の或る状況と 2022年 1 月に報じされた以下のニュースは無関係ではなかろう。現時点でどれくらいのひとが言及しているか知らんけど。

単純に時事ネタを引こうとしただけか、この問題を正面から扱いたかったかは考えを控えるけれど、結論としては「爆発したほうがいい」には違いない。「ファンタジーをひとつまみ」だっけか、作中のどちらの映画も、爆発さえなければ、ほぼドキュメンタリーだろう。あるいは、製作者側の用意した繊細なファンタジー要素なんて、鑑賞者からしたらほぼ無視されうる要素に過ぎなかろう。

という文脈でメタ的に捉えれば、結末は読者への苦いメッセージとも言えるか。

あだち充の後継者たりうるか

短編を読んだことないのでアレなのだが、近親者あるいは想い人の類の死にこれだけ縛られた売れっ子王道の少年マンガ作家、という立て付けの作家は他にいるだろうか。という意味で、藤本タツキはあだち充の後継者ではないだろうか。

というのは半分くらいは冗談だが、今後もこういう内容なのかね。描き方も変わらないで、それでも話題になり続けるとしたらスゴイことには違いないだろう。これは断言できる。これらをまったく扱うことがなくなって、それでも話題になるなら、これももちろんスゴイことだが。

テーマやモチーフの話、もう少し書きたいのだが、そうすると、多くの作家、マンガ家の作風とかテーマとか作品数とかを紐解かないといけないので止めておく。

いずれにせよ、作品の軸をうまく変えるのも難しいし、維持しつつ作品をたくさん生み出すのも難しいことに変わりないだろうから、この視点からも今後とも楽しみだ。

どうやって話題をさらうのか

ほぼ愚痴というかもどかしさがある。

『ルックバック』と『さよなら絵梨』の話題を強く伝播したのは はてブ と Twitter 、そこから派生して諸々のブログ記事であるように思う。『ルックバック』においては特定の表現がアレしたというのもあるけれど。

で、詳しく調べたわけでもなくて単なる印象なのだが、特に はてブ が気になっている。どうしてジャンプ作品がよく はてブ にあがるようになったのか、という話だ。

「そんな事実はない」で終わればいいし、藤本タツキの作品が「語りたくなる」「批評性がある」点に変わりはないのも確かだろうが、であれば、もっといろいろな作品が注目されてもよいだろうけれど、単純にそういう話でもないのだろう。

なんだかなぁ。

ところで昨今、コミックが爆発的に売れるにはアニメ化や映画化が前提になりそうだが、『チェンソーマン』はアニメ化は決まっているが放映時期はまだ決まっていないのかしら。

さて、藤本タツキは映画は好きだろうけど、アニメはどうなんだろうね。売れっ子マンガ家は大変だ。

ポチタ(のようなキャラクター)が楽しそうにしてるマンガを読ませてほしいっす。

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