2022年の年末《MONDAYS このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない》を観た。うーん、タイトルが長い。
しかし、おもしろい。おもしろかった。この気持ちを、もっと早く伝えたかった。映画を観てからだいぶ時間が経っているのと、手元のメモも少ないので、おぼろげな記憶に頼りつつ感想を残しておく。
どこかで機会があったら、絶対見てくれよな。
大枠はコメディだが、ドラマもおよそ丁寧で、諸々どれもよかった。ところどころの演出は好みが別れそうだけど、そんなことはどうでもいいのだ。
この映画のユニークさとして、まずタイムループが冒頭から、というか、タイトルで明らかだ。そういう前提で見て、おもしろい作品になる、という狙いがある。
また、タイムループの原因が会社の部長にあることも、あらすじの説明や広報などで明記されており、作中で巻き込まれた主人公らは、皆が割と早めにそれを確信し、これも間違いではなかった。これも新鮮さを感じる。巧い。
冒頭、第一幕といってもいいが、主人公がタイムループしている事実を認識、納得するまでの過程がしっかり描かれており、逆にネタを知ってる身としては、じれったい。とはいえ、外堀を埋めていくようにループが証明されていく過程はおもしろかった。ある特定のキー行動で、ループを再認識する設定もユニークだった。
先にループを認識した部下たちから主人公へ、そこから上長らへとタイムループを説得する方法も変化していくが、それぞれの方法も一様ではなく、最後の砦となる部長へのプレゼンに至っては流石にベテランスタッフの説明は違うな(笑)という圧巻のプレゼンテーション方式で、これも笑わせてくれた。最高だったね。
おもしろいといえば、作中で主人公らの務める広告会社(あるいは制作下請けデザイン会社)がプロモーションする予定の商品もバカバカしくて、炭酸お味噌汁だっけ? ありえそうであり得ないパッケージだが、この売れそうもない商品をどれくらい魅力的にさせるかが問われるデザイナーの仕事も大変だなって……。
商品コピーの発案や外注先の選定など、ループを経るごとに手法や内容がどんどん洗練されていくのも愉快であった。
作品全体からは、主人公が転職希望先に出向いたときのシーンも忘れがたい。作中、ループ中では、社内での皆の行動にいろいろな変化はあるが、社外での行動が描かれるのは、このパートくらいで、ちょっと異色である部分だ。
電話口でさんざん無理難題を吹っかけてきたクライアントの男が眼前にあらわれ、キツいことを繰り返す印象の割に実物の物腰は柔らかなのが妙にリアリティを感じさせ、なんなら彼なりの中間管理職としての弱さまで見せられてしまう。
さらには、主人公が理想と仰いだきたデザイナーの個性の強さが、また面白くて、理想と現実のギャップみたいなところも明らかになる。
しかし、この理想のデザイナーの女性、やたらと咳をしており、映画としてどういうニュアンスだったのか、それが実は 1 番気になっている。
以下、核心に触れるので、ネタバレになる。
ループするほどカルマを背負う、あるいは負いきれない
ループの原因は、漫画家を目指していたころの部長の、漫画の編集者に渡せなかった未完成の漫画原稿であった。
この漫画作品に登場する女の子、何度目かのループを経た後にも漫画作中の主人公のもとに戻ってきてくれて「なんでかな?」 と疑問になったが、そりゃループするたびに彼女に出会って、手助けしてたんだな、主人公は、と納得はしたが……。
この漫画の主人公もループを繰り返すわけだが、たとえループしたとて、改善を試みれる物事、面倒を見れる物事の範囲ってのは限られているので、取捨選択が必要になってくる。自分の意思で選びうるものこそを、選ぶ必要がある。いい話だなー。
そう。ここからは個人的な妄想の話だ。
この漫画に登場する重要キャラクターとして、漫画内のループの原因ともいえる狐がいた。
そう。一方、映画の主人公の憧れのデザイナー、部長の同窓である彼女の特徴といえば、その咳であった。「コンッ! コンッ!」と……。つまり彼女は、部長の漫画における狐とパラレルな存在だったのでは!? という妄想に到達したのである。
あまりにも強引だけど。
映画の主人公が目指した未来、あるいは才能にあふれた若手時代の部長にとってありえた未来というのは、奇しくも憧れのデザイナーの彼女の人生のような社会的な成功であったが、それは反面、場合によっては狐につままれたような、理想といいうるかあやふやな身分でもあって……。
主人公にとって目の前にいたのは、やはり狐のような存在なのだというメタファーかもしれん。などなど……。
まぁしかし実は、漫画の女の子がどうして彼に寄り添ってくれたかというのも、上の理由とは別に説明のつく苦いポイントもちょっと隠されていたりして……。なかなか一枚岩の解釈を許さない手強さも感じている。が、そのほうが面白いから、くらいの仕掛けかもしれない。
どこかで機会があったら、絶対見てくれよな。
2022年の年末、《3つの鍵》を観た。
イタリアの映画で、舞台もイタリアの何処かローマからそう遠くないエリアのようだが、製作にはフランスもクレジットされている。原題は “Tre piani” で英題が “Three floors” なので、原題に沿えば安直には「3階建て」だろうし、日本の劇場でこのまま邦題にするはずがないので「3つの鍵」となった、という経緯と思う。
つまるところ 3 階建てのアパートが本作の舞台で、物語はそこに暮らす 4 つの家庭が織りなす 10 年を描くが、そう考えると「”3つの鍵”ってなんやねん、鍵は 4 つやろ」と毒づきたくもなる。冒頭から「鍵」にどういう意味があるのか注意しながら見ていたが、これはミスリードされてしまったなと、途中で気づいたのだった。
群像劇っぽい出来合いの作品なので、登場人物別に感想を述べると楽だ。
家族がテーマであることは疑いようがなく、それぞれの家庭は世代の分布が絶妙に分かれている。夫に痴呆が見えはじめた老人夫婦、成人したばかりの息子がいる裁判官(?)夫婦、幼い娘のいる夫婦、赤子を抱えた夫婦(夫は建築関連でたまにしか帰らない)の 4 家族が描かれる。
映画全体は、大きくは 5 年ごとに 3 つのチャプターで構成され、変化とともに死ぬ人がいたり、子供は大きくなったり、つまるところ人間関係のこじれが明らかになったり、解消されたりする。成人したばかりの息子がいる夫婦の婦人:ドーラと、幼い娘を抱えた夫婦の夫:ルーチョ、この2人はほぼ絡まないが、作品全体の話の軸が彼らだというのは疑いない。
ドーラ夫婦と息子の不和の原因は、夫の頑迷さと息子の幼さ、それらに挟まれて身動きを取らなかったドーラ自身の関係から成っている。息子が飲酒運転による轢殺を起こしたことから家庭の不和が限界に達し、5年後の出所と離別、10年後の夫の死と息子との対面という段を踏む。
息子が家を発つとき、夫からは「俺を選ぶか、息子を選ぶかせよ」と宣言されるが、彼女はそこで息子を選べなかった。選ばなかった。
どちらが正しいという話ではない。
この家族の関係は、その主体が完全に夫の意思のみによって支配されている部分は認められるので、それですべてが決まる。仕方なかったといえばそうだろうが、息子がその状況に納得するわけではない。もちろん、息子の甘えもある。
夫の死後、ふたたび息子と向き合おうとするドーラだが、都合の良いムーブをするなという息子の主張も確かで、それでも支配者の枷を外された彼女は、もともとは聡明なんだろうし、ようやく自分の頭で彼との関係を模索し、行動し始めた。最終的には和解の兆しのようなものは描かれていた。
並行してルーチョだ。
娘が痴呆の老人と行方不明になったという展開まではぎりぎり許すとして、その後の娘の憔悴について結果的には要らぬ心配を爆発させ、同階の老夫婦との関係を破綻させ、この事件に、または更なる原因をどこかに求めるにせよ、老夫婦の孫娘と関係を持つに至る。
どうしてこういうプロットを組んだんでしょうね。笑ってしまう。巧いんだけども。
ルーチョの家庭は、どうにもルーチョ本人よりもパートナーのサラほうが、高給取りそうな仕事をしており、彼女も独立した経済的主体だ。これは、ドーラと対照的ですらある。世代性を反映している面もありそうだが、彼女は、粗相をしたルーチョをまったく許さないということはなく寧ろ寛大で公平すぎるくらいに扱っている。強いのである。
ルーチョにまつわる事件は、ドーラのそれと比して、10年の歳月によって、それぞれの人物たちの老成、あるいは成長、あるいは取りうる進路などの別によって、過去のわだかまりをあくまで過去にしていく。その過程がさりげなくだが、たしかに描かれている。
で、実はしかし、最大の問題は、赤子を抱えた家庭だった。
夫が現場仕事のために偶にしか戻ってこないモニカである。長女を生み、長男を生み、不安と隣り合わせではありつつも、彼女なりの生活を築きつつあった。
彼女の問題は表面的には極個人的で、ドーラやルーチョに比べると抽象的だ。それは「母は私を生んでからおかしくなった」という強迫観念からも判ぜられるが、事実関係は語られない。
また、この問題は彼女の眼前には黒のカラスとして現れ、象徴される。カラスが問いかけるでもあるかのように、いつの間にか彼女の目の前にいるのだ。お前はそれでいいのかと。
夫の兄との邂逅もキッカケか原因のひとつだろうし、彼女が無事に失踪生活を送っているとして、もしかしたら何かしらのタイミングで、夫の兄と合流した可能性もあるのかもしれない。
どういうことか? いや、わからないんだけど。
2 人の幼子を残された仕事中心の生活の男は、それでも子供を養う必要がある。いずれは勤務地に子供たちを連れまわすのである。これも新しい家族の形なのだろうけれど、この奇妙な彼女の顛末こそが、やはり結果的には、ドーラ、サラ、モニカ、あるいは老夫婦の婦人といった女性らの多様性にこそ描かれている気すらしてきた。
本作のシーンのひとつ、クライマックス付近だが、彼らのアパートの前を街頭パレードのダンスが通り過ぎていくのがある。半ば幻想的ともいえる光景は、そこに居合わせた住民たちを少しばかりでも日常から解放したんだろうか。
よいシーンではあった。
個人的には、ルーチョが事務所に使っていたらしき自室の壁をガラスで修復したあとのシーンが好みだった。彼が決定的な間違いを犯す瞬間のちょうど前で、作中でのドーラとルーチョの接点といえば、彼女の息子が壊したこの壁くらいなもので、つまりそれはアパート全体の変化、あるいは破滅の合図であったわけだが、半透明のガラス(アクリルかもしらん)によってそれが修復されたことのニュアンスは…、なにか求められるだろうか。
あるいは、4つの家庭(老夫婦を除くと 3 つの家庭)の変化だが、ちょっと無理やりに図式化すると、ドーラは親子の関係、ルーチョは父としての問題、ではモニカの問題はなにかというとテーマ的なものが浮かび上がってくる気がする―もちろん、不在がちなパートナーと幼子 2 人という負担の大きさは前提される。
しかし、最終的に、クライマックスで不幸ぶっているひとが居ないことが、なにより本作のメッセージ然としているのかなとは。イタリア映画はいつも家族を扱う。
門脇麦が出演するというので、2022年の年末に《天間壮の三姉妹》を観た。
この映画に原作のマンガがあること、「スカイハイ」シリーズであること、題材が東日本大震災であることもしらなかった。あるいは原作のことは、すっかり忘れており、まず面食らったのであった。
物語の冒頭、生死の境がどうのこうのという話が明るみになる以前に、海沿いの町、宮城のナンバーのタクシーという本当に最初のシーンの情報から内容とテーマはそれなりに判ぜられたが、そうきたか、その手の作品だったか、となってしまった。
しかし、鑑賞後に確認すると、作品サイトには注意書きがあったが、館内および作品の冒頭などでも題材についての注意喚起はなく、このあとに観た《すずめの戸締り》とのギャップを感じた。作中での表現を鑑みても、もちろん、やはりまだ入場の直前でも注意されるべきだろうので、少しモヤモヤするものだ。あるいは劇場によっては配慮があったのかもしれない。私の環境では無かった。
また、憶測だが、2011 年から 10 年ほどが経つ節目として、2021 年前後を機にいろいろな企画が動いたのだろう。新型コロナの流行でスケジュールが前後した企画も少なくないだろうが。しかし、原作の連載こそ 2013 年から 2014 年だったようだが、映像化は慎重にならざるを得ないという面はあったろうな。いつ頃から企画が進んだんだろう。
類例といえば、アニメ作品だが、『岬のマヨイガ』(原作アリ)や『フラ・フラダンス』などは 2021年の作品だものな。実写映画として東日本大震災を扱った作品、どれくらいあるんだろう。二宮和也主演の《浅田家!》とかだろう。ちなみに、Wikipedia にはリスト化されている。
本作の鑑賞後、原作の冒頭の数話を読んでみたが、過去に序盤ばかりは読んだかもしれない気もする。映画では設定の細部に少し相違があるようだが、おそらく基本線は変わっていない。映画では次女は旅館の外で働いていたりと、後半の生かされ方を考えると(原作は読了できていないが)、アレンジが巧いとは感じた。
演じる俳優のあれこれのような話
登場する三姉妹は長女:のぞみ、次女:かなえ、三女:たまえで構成され、それぞれ大島優子、門脇麦、のん(能年玲奈)が演じる。年齢順は実年齢に沿った配役なっているっぽいが、特にのんは実年齢に比して、やや若目の役ではあった。
大島優子は、よう知らぬが AKB 系の出身だと女優としてはもっとも安定したキャリアを積んでいるようだが、もともと子役でもタレントしてたんだっけ。しっかりしつつも、やや頼りなさげな面も見せる長女役であった。女将姿のときの髪型の分け目がステキだったね。
なんだかんだで冒頭の彼女が笑顔を作るところから旅館の玄関までを進んでいくシーンが1番印象的ではあった。次点では、次女の彼氏が海へ旅立つところかな。
門脇麦は《あのこは貴族》で目にして以来だが、やっぱり不思議な役者だ。それほど作品をみてるわけでもないが、ファンである。いままで見てきた役のなかでは割と普通なほうの人物像ではあったと思うが、やはり要所でエッジが効いていて、そういう起用だったのかなとも。本作では、口紅のメイクアップが印象的であった。
主演ののん(能年玲奈)だが、彼女のことはよくわからない。ちゃんと演技している作品をはじめて見たレベルだ。彼女の魅力は演技の巧拙でもなくて、個性というとそれまでだが、たとえば諸々アンバラスで普通なら画面が持たなそうなシーンでも、彼女がいれば許される気がしてしまう。幼さとも言い切れず、妙に浮世離れした感覚というか、この作品世界内では、諦念に似た彼女の眼差しをギリギリのバランスでこなそうとはしていた。
姉妹の母を演じた寺島しのぶ、あまり得意ではないのだが、やっぱりいい演技をする。この映画のすぐあとくらいに上映が開始された《あちらにいる鬼》のほうが注目されているようだが、今作の演技もいいですね。
次女の恋人役で登場する高良健吾は《あちらにいる鬼》で寺島しのぶと共演しているらしいが、個人的には《あの子は貴族》での門脇麦との共演が印象に残っている。どういう経緯でこのキャスティングが成立するんだろうね。
原作者とか監督とか作風のあれこれのような
原作者:髙橋ツトムは講談社でも集英社でも小学館でも作品を連載している。案外というか、秋田書店はないんだな。多作だよね。あんまりちゃんと読んだことはないのだけれど。
そもそも TV ドラマのスカイハイの監督も、今作と同じ北村龍平が務めていたようだ。また、原作時点で、主役はのんを意識してアテガキしていたというトピックも目にした。いつ頃から映画化の企画を温めていたのかは、気になるところではあるが、上述の通り、10年の節目を狙った面はあったろう。
原作と映画を比して、ひとつだけ、解釈の問題が浮かんだ。原作の連載時(2013)であれば三姉妹の年齢差もそこまで気にならなかったと思われるが、これを 2022 年の映画としてみると、彼女らの年齢差をどのように考えればいいのか、ちょっと怪しい気がする。作っている側が気づかないはずはないので、原作のように震災から幾年と経ていないというスタンスなのだろうか。そのへんは分からないままだ。
どういうことを読み取ろうかなと
たった 1 人の肉親にも見限られて生きることに絶望していた少女(何歳設定なのか微妙にわからんのだ)が、家族や人たちとの交流の楽しさを心から体験できたのが、天間壮とその地域の住人たちであったというのは、いい。
それが「本来ならば居るべき場所ではない」というのも、まぁ、わかる。
亡くなった方たちがあの空間に留まるということの意味はよくわからなくて、ざっくり見ると、究極的には彼の地の住民らの多くは自分自身の死に自覚的でなかったとのことのようだが、そういうセッティングでいいのかは、かなり疑問だ。原作からの問題だけれど。
とはいえ、生きている、生き残れた、生き残ってしまった側の人間こそ、ギリギリまでは変わらぬ日常を共に過ごして亡くなった彼らの姿を記憶しており、本作の舞台のような、いわば彼らと共に過ごした日常を想いながら魂の安寧のようなものを願うんだろうから(もちろんそうでない場合もあるだろう)、こういった表現がそれなりに適当というか、穏当というのも一理あるのだろうとも思う。
主人公やほかに生き残る人たちが、近しい人たちの死をどうやって受容するのかという話が、究極的には、これに類する作品の肝であり、テーマであり、目的でありといったところだろう。
本作では、現地のイルカのショーでトレーナーとなり、再興した水族館にて、摩訶不思議なメッセージを携えた主人公の姿によってそれが提示される。異常な空間の演出こそがまさに映画的であったなと思う。
彼女のファンタジーな体験が、たとえ気休め程度にしかならなくても、そのメッセージを伝えられた相手らはそれなりに彼女の伝えた伝言を受容するだろうし、それを視聴していた私も、これはそれなりにそういうもんだなと感動した。
もう少し抽象的には、或る理想的とは言いづらいステータスにずっと居続けることの虚しさ、その克服、というのは言えるのだろうから、そういうところだろうかね。
《岬のマヨイガ》と《フラ・フラダンス》の鑑賞を宿題としたい。あと、年末年始に《護られなかった者たちへ》も観たけど、これも奇妙な作品だったな。
そういえば三田佳子も重要な役柄で出ており、ひさびさに拝見したなという感じだったが、存在感はあった。彼女のブログ記事を読むと、撮影についての情報が細切れにアップされているが、海岸のシーンのロケは北海道だったらしいと、いろいろと発見がある。
2023年になってひと月と 1 週間が経過した。ちょっと遅いけれど、本年もやっていきましょう。
「2023」って素数でしたっけ?
雑に考えると、おそらく 1 桁目の 3 が鍵で、乗算して 1 桁目が 3 となるのが 7×9 だろうことは直ぐに思い当たる。ということで、2023 を 7 で割ると 289 が導かれるので、素数でないことは判ずる。
さらに 289 が分解できるかどうかが気になるが、これは 17 の平方数であるらしく、つまり 2023 を素因数分解すると、 2023=7×17×17 となる。 7 が並ぶのでラッキーセブンの雰囲気がある。めでたい。
ちょっと調べると、2~19 までの素数とその平方を意識しておくことで、素数か否かは割と判断しやすいらしい。というわけで、去年を振り返りつつ、今年を生きている。
人付き合いのあれこれ
2022年の目標として、人付き合いの範囲を減らしたいとしたが、割と成功した。ちょっとでも後悔とか、怠くなりそうな輪の広げ方はできるだけ止めた。もちろん、新型コロナの影響に助けられた部分もある。
だが一方、距離を誤ったケースが 2、3 あって、これは完全に失敗だった。苦い経験ではあるが、対策というか気を付けることを学んだ(学べていなかった)ので、今年も此処は入念に気をつけたい。
インターネットでの人付き合いだが、ごく僅か、気持ちの問題レベルではあるが、ちょっとだけ増えた。これくらいでいいと思う。ということで、これもこれで、概ね満足というか、こんなもんだわ。
読書とか映像とかの体験のあれこれ
読書は、少し習慣が戻ってきた。昨年に徐に開始した講談社の興亡の世界史シリーズを読む企画、1/3くらいは読み進めたが、依然として半分以上が残っているし、読書メモもまとまっていないので、継続したい。言うまでもないが「人間は本を読まないと駄目」ていうか「勉強しないとダメ」だわ。当たり前だわ。
という感じで、フィクションの読書も少し増やしたいのだが、古典のちょっと簡単というか、そういうラインナップをちょっと読んでいきたい。
映像というとほとんど映画だが、これは近年は大体は同じペースで進んでいる。古典の掘り下げにも戻りたいけど、マイペースに続けます。年末年始に《楢山節考》(1983)と《東京物語》を見れたのはよかった。
インターネットとかあれこれ
大きめのトピックとしては、Twitter なり SNS 社会の変化みたいなのは注目している。自分のこのブログを土台に考えるなら、Twitter がどうなろうと半ばどうでもいいのだが、どちらかというと長期的にはイーロン・マスクが(おそらく)やろうとしていることには同意したいので、そのへんは推移を見守りたい。
さすがにこのブログだけでインターネットにいるという気分にもなれないし、いやはや。
また、インターネットに限った範囲ではないが、従来メディアの疲弊について、これは単純に情報の非対称性が強まるだけだと思うが、そのへん鈍感というか、敢えて無視している層が多いのかわからないけれど、どうなっちゃうのかね。明るいインターネットはあるのかしらという思いばかりが募る。何か貢献できることはないかね。金も頭もないけれど。
気候変動とかなんかそういう話
年末に鑑賞した《サイレント・ナイト》という映画、デキとしては70点もあればいい方という完成度だったが、個人的には刺さるところが大きかった。社会派作品に対する鑑賞の態度みたいなのを論ずるつもりはないが(論じるものでもない)、ちょっと無責任になれないなというところがあるという話だ。
1990年代、藤子・F・不二雄からの影響でいえば「雲の王国」などをはじめ、「温暖化」というトピックに心を悩ませたが、ある段階で、かなり自覚的に開き直っていた。ところで最近の世界の状況を見ていると、《サイレント・ナイト》とともに、藤子・FのSF短編『大予言』も連想され、幼いころに開き直った自分を反省するわけではないが、どうしたもんかとなっている。
健康とかそっち方面の話
体重を減らすというか体脂肪をちょっと減らそう。あらためて数字をみると、コロナ以降で目に見えて身体が肥えている。いまさら!
半年で 2~3 キログラムくらいの計画で徐々に落とそう。月に 500g 前後ということで、無理はなかろう。まずは食事の量、そこに質、適度に運動できれば文句無しってところだろう。こんなんでうまくいくのか知らんけど。
日本社会をとりまくなんかの話
新型コロナからの騒動からの離脱、ウクライナとロシアの紛争の膠着、台湾有事を叫ぶ声、上記の気候変動、少子化、なんかいろいろあって大変って感じだけど、なんだかな。なにもしないうちに、なるようになっていそうだけど。とりあえずリストアップだけしておく。
学ぶことや仕事のあれこれとか
上述の読書に限った話ではないが、区切りを設けつつなんかやりたい。このブログで扱うことはないかもしれないが。後者については、なんかフォーマットを整えていくことをあらためて取り組む必要がありそうだね。
KPM というか身辺的なあれこれ
Obsidian にお世話になっているという記事は 2 つほど書いたけれど、ツールに触っている時間としては Logseq のほうが多くなってきた。利用を統合するとすれば後者になりそうだが、とりあえずは並行して使っていく。個別に固定化され、分量の多い情報ほど Obsidian のほうが操作や連携が強まりそうで、Logseq はまさにログに適しているという見解ではある。
RSS リーダーを Feedly から Inoreader に変更してみた。これはかなり久々の英断で、感触としては悪くないけれど、もう少し工夫を加えていきたい。
新年の手書きのスケジュール帳、さっそく存亡の危機に陥っているので 2 月からまた安定させたい。なんというか開かなくなるのだよな、駄目だとはわかっちゃいるが。このへんでもう半ば諦めかけているんだけど。
通知を減らす
身も蓋もないが、スマートフォンの通知を減らすように努めたい。ていうか、スマートフォンを捨てたいという気持ちにもなるのだが、さすがに難しく、せめて通知を減らそうという気分なのだ。LINEも使うの止めたいというのが本音だけどね。
非日常を取り戻す
全体的な抽象的な目標として「非日常を取り戻す」という項目を掲げたい。
ここまで列記した諸々、なんというか結局、長いスパンで日々の生活に馴染んでいって向き合うことを忘れがちになる事象ってのがあるわけだが、それらを非日常として、意識できるようにしておきたい。
日常をコンパクトにしたいですね。
あとどうでもいいけど、このブログのテーマをやっぱり新調したいですね。
発信できるネタは、いつもの映画ばかりとなるが、いくつか仕込んではいるが、なんか載せるような体裁にならないので放っておくことにして、いくつかある考えごとも書いて載せてもいいんだけど、今一歩のところで実現しない。
ということで、しばらくインプットに努めることにした。あんまりこういうこと、さして分量のない文章を記事にしたくもないけど、偶にはいいか。
《グレイマン》を Netflix で鑑賞したことを思い出したので、残っている記憶のぶんだけメモを残しておく。本作の目指す方向性がよくわからんというのが大きな意見としてあって、続編の構想も浮かんだという話だが、これをどう続けるのというか。
大まかなアラスジだが、CIA に雇われた元囚人、裏ミッション用のプロフェッショナルとして暗躍するエージェントが、CIA 内の抗争に巻き込まれるかたちで、彼らとの対立を前面化していく。というか、1 対多だけど。
最終的には、欧州のどっかの王城のような屋敷を借り切った(あるいは所有物か知らんけど)CIA の基地で正面切って戦うというバカバカしさがあって、それはそれとして楽しいけれど、え? これで続編やるの? というか、どうとでも設定できそうだけれども、敵役も煎じ詰めれば小物ばかりというか。
アクション映画としては、このうえなく楽しい類だった。いくら主人公補正があるいといっても、広場の真ん中のベンチに拘束されて、あれだけ部隊が送り込まれ銃弾の雨あられを浴びたのに、ほぼ一発も当たらないというギャグ感もそこそこに、このシーンの前後から路面電車が脱線、崩壊するまでのアクションは最高とすら言えるのではないでしょうか。
いや、あのアクションシーンだけでも見る価値はあった。話はてんでわからなかったが。ライアン・ゴズリングは《ラ・ラ・ランド》から 4 作目くらいだけれど、いろいろ試している感じなんだろうか。
書くという行為はすべて感動と愛に基づいている。
日常的な習慣から読書が脱落しやすい。しばらくまた習慣から離れてしまったので、なにかしら読了しやすい本を求めていた。で、以下の記事を読んで『日記の魔力』にとりかかった。短いし、平素で読みやすい。
Logseq を利用して日常の記録をとることに割と解法のような状態がみつかったような気分もあり、なにかしら参考にしたいという目的も手伝った。参照先の記事でも「古典」と評されているが、2004 年の書籍がもはや古典とされることに違和感はない。いやはや年を取ったもんだ。というワケで読書メモを残しておく。
日記、とるかとらないかで言ったら取ったほうがいい。記録というのは、そういうもんだ。これが前提ではある。
その目的と方法が大きな焦点のひとつと思われるが、ぶっちゃけ日記をとらなくても人生が順風満帆過ぎてその必要性がわからん、とか、無意識に日記をとる行為と同等の性向を備えている人間なら不要と思う。そういうこともあるだろう。あらためて、日記の目的ということだが、本書でも述べられているようには、人生あるいは心身のリバランスにあるようだ。記録を振り返るということはそういうことだ。
方法について。著者は 1990 年代からパソコンを利用しているという。基本的なワープロソフトというので、Wordなりプレーンテキストなりで記述しているんだろう。面白いなと思うのは、それ以前は京大カード式だったとのことで、コンピューターでも似た方法のアプリを試したが、これは諦めたとのことだった。昨今はやはりアプリ上でのカード式を求める方も多いので、時代はあっちこっちするもんだ。
ちなみに、わたしは前述の通り、日記系の記録は Logseq を使いはじめた。見出しレベルに、#log、#idea、#cite などのタグy設けて分類し(PoICを参考にしている)、記録を残している。このタグでアウトラインを切る方法、Workflowy あたりからできた実現できたのだろうが、タグ別の検索結果に以下レベル内の項目がすべて引っかかる。気づいて見れば、こんな単純で便利なことは無くて、もはやこれ以外は考えられない。
あくまで行動を記録する
「着想」と著者の呼ぶ「ある意味での自分の思想史上の進展」を記録する以外は、基本的には「行動記録」に徹せよと述べる。なるべく時刻を記せともいう。著者は執筆時点は翌日の朝に前日の日記をまとめているとしていたが、そのへんの扱いはよくわからない。パソコンを利用しはじめたときは数時間おきにとっていたこともある、のような記述もあった。
まぁ、忘れる前にというのが原則だろう。
時刻についてはあんまり厳密に考えても仕方ないのかなという気はする。話は逸れるが TaskChute ユーザーの方とかは、メチャクチャ厳密に打刻するよね。真似しようとしたことはあるけど、全然無理だった。性格や性質以上に、仕事や生活スタイルでの向き不向きもある気はするし、可能な限りでよいのかなと。
行動の記録という点について、なるほどユニークだなという指摘があって、内省は意味がないという点だ。いくら内省を重ねても人間は変わらないので、やるなら具体的な目標を立てろという話であった。こういうのは身も蓋もないなと感じつつも、いざそうするということも経験を重ねるまでは難しい。
内省自体を、あとから読んだときにコンテンツとして楽しめるならアリだと思うが、毒になることもありそうなので難しいね。
具体的な目標を立てるにあたっては、「具体ということの中心は実は「肯定」することである」という記述があり、これは本当にそう。現実ってのは原則的に肯定でしかできてない。そのためには肯定から始めるしかない。
リバランスのために日記の読み返す
日記で内省するなというワケではなくて、あくまでそれは行動記録との照らし合わせ、それによって喚起される記憶あるいは感情との相互作用であれ、というような話だと読み取った。
著者のバックグラウンドはあまり調べていないが、経済学徒でマルクス研究者、現象学なんかの思想系にも造詣があるようで、ところどころの説明には、感情の動きに配慮した記述が目に留まる。
先の目的についての箇所でも触れたが、外面的にも内面的にも人間には浮き沈みがそれなりにあるもんで、「セルフイメージ」とのズレとの関連性にも言及しつつ、沈みすぎず、浮きすぎないための日記の読み返しを推奨している。著者の執筆時点では基本的には 10 日ほどごとに行っているとのこと。まぁ ひと月じゃ長い気がするので長くても 2 週間程度が区切りな気はする。切羽詰まっているときは、もっと頻繁に読み返すこともあるだろう。
特に「調子がよいときのパターンを見い出すことが大切」という説明も当たり前と捉えがちだが、日記はそれをより明らかに、克明に、シンプルに、あるいはときに詳らかに示すだろう。参考にしたい。
問うことを諦めない
人間、いわゆるライフステージの展開にしたがって興味や関心を持つ範囲、保てる範囲が徐々に移り変わっていく、ということに間違いはないはずだ。
一方、本書で著者がいうように「一生は「問いのレベル」で決まるといってもいい」という問題意識もあって、もちろんどの段階で、どの程度のレベルの問いを立てられるかは人生によりけりだが、しかし最大の問題はそれを維持し続けることでもあり。
著者が行動記録のほかに残すという「着想」は、正にこの類の問題に係るメモであり、もとい日記として記録されることとなる。著者にとってのテーマは、ある種の思想史らしく、具体的な説明はないが、言わずもがな、おそらくは若年のころから直面してきた問題がそこにはある。
この着想の記録だが、必ずしも深刻な内容である必要はなく、取り組んでいるテーマ別だったり、ジャンル別であったり、そういう感じでよさそうだ。
著者の言葉を借りるわけではないが、興味あるところしか意味のある疑問は生まれないだろうという話にも通じる。記録はなんらかの問いを熟成し、その記録が思考を発展させる。
PKM なんかでは、自分なりの知恵や工夫の総体を「第二の脳」なんていうが、なんてことなくて日記であればその記述自体がそもそも其れだという、またごく自然なことを感じるなど。
しかし、なぜタイトルが「魔力」なのかについては説明がなかったな。
《ラム/LAMB》を観た。
この作品は、どれかの映画の感想で書いた記憶があるが、予告期間が長かった。
その予告がよくできていた。なんとなくこういう程度(良くも悪くも)の映画なんだろうなという予感と期待を裏切らない出来で、それなりに誘われる雰囲気はあった。
で、蓋を開けたら期待通りの作品だ。
舞台はアイスランド、制作はアイスランド、スウェーデン、ポーランドとなっている。監督はヴィラジーミル・ヨハンソンという方だそうで、特殊効果なんか出身なのかな。脚本には共同でショーンという方が入っているようで、こちらは小説がメイン仕事なのか知らぬが、アイスランドの方だ。ビョークとコラボレーションしたりしているらしい。
直近でアイスランドとフィクションというと『北北西に雲と往け』が思い浮かぶ。それっぽいことをいうと、人智を超えた大自然の驚異がそれなりに残る当地において利用しやすい設定というのは感じられるところで、それはこのマンガも、今回の映画も似たようなところはあると思う。
また、あるいは獣面の人間、あるいは半神みたいなモチーフは、特にギリシア神話だとネタに事欠かないんだろうけれど、今回はどうなのだろう。どちらかというと北欧なんだろうけれど、北欧の神話にはあまり興味も無くて、ほとんどわからない。あるいは日本ならだが、個人的には小松左京の『くだんのはは』などは直さに連想されるが、いかがでしょう。
前置きが長くなった。
作品自体は、明確に 3 章立てになっていて、発端、展開、収束というステップを踏む。発端となる第 1 章は、アイスランドの山間部の田舎、ご近所さんすら確認できない山腹で牧羊を主な生業としているらしい夫婦を映す。ジャガイモも育てている!
第 1 章は、会話らしい会話もほとんどない。これがよい。
雰囲気だけで画面は進んでいくが、アイスランド山間部の大自然、淡々としつつも大変そうであり、また、それなりに充実していそうな暮らしが晒される。お昼の鑑賞だったというコンディションも含めて、寝落ちすることもなく画面に集中できた。
話は冬から始まり、第 2 章で春口となると思われるが、第 1 章の冒頭-つまり作品の冒頭では雪山に暮らす馬の群れが映された。また、これも 1 章の途中と思うが、こちらも山中で生存しているらしい羊の群れが映されたことを記しておく。
前者の馬の群れ、ニュアンスは判然としないが、当地には野生化した馬がいるらしいので、それはそれとして映されたのだろう。それを踏まえると後者の羊の群れも野生化した其れと思われる。オーストラリアなんかだと、年に何度か迷子になって何年も彷徨ったと思われる羊が毛むくじゃらで見つかったりする。似たようなもんだろう。
さて、アダが行方不明になったとき、夫:イングヴァルは迷わず川を探しにいった。最後らへんの夢中を示したカットでも小さいながら表されているが、どうも本来のアダは水難事故でなくなったらしいことが地味に伝えられてくる。とはいえ、その過去の悲しみ自体は、やはり表面化はしない。
第 2 章、イングヴァルの弟:ペトゥールが都会から追い出されて帰郷するとビビる。アダが食卓に座っているから無理もない。ペトゥールとアダの見せかけか、あるいはそれなりに本物の融和は、どう解釈したらいいんだろうね。その交流に嘘は無かろうが、これも地味に巧くて複雑な感情の交感がある、みたいな読みとり方をせざるを得ない。
ペトゥール、基本的にはいいやつだが、そこはやはり客であり、闖入者ではあるので、問題を引き起こして去る。
これも微妙なところがあって、イングヴァルの不能性みたいなところに話が及びかねない気はするが、一方で、クライマックスの描写は投げ出されており、此れも何とも言えない気がする。有り体に言って気持ちが悪いプライバシーの話題になってくるので、ここではやらない。
さて、終章だが、上述のようにペトゥールが去る前後から始まったんだっけかな。
展開に意外性はなくて、あるべきものがあるべき場所に無かったり、犬や猫が周囲の異常を察知しているということの繰り返しが利いてきて、しまいには犬が犠牲になった。アダはその事実と存在を確認しているはずだが、それに怯えた様子もなく、またイングヴァルに伝える様子もなかった。
だが、アダはそれに引かれていくのをたしかに拒んだ。彼女が往くのは、家か、丘か。
残る問題はマリアだが、というか、マリアしか問題でなかった気もするが、落としどころをどこにするかは鑑賞者次第という懐の深さは本作の美点か、あるいは汚点か。そういった雰囲気の中で作品は終わるので、まぁいい映画かというとそうでもないという気分にはなる。
好きだけど。
穿ってみれば、アイスランドという土地、人間と羊がどうやってこの国土に広がったか、みたいな視点はありそうで、しかし、だからってそれを人間と羊の対立軸にせんでもなぁという気はする。そこがうま味なんだろうけれど。
ところで何と言ってもよかったのは、ワンコです。牧羊犬としてボーダーコリーの子が画面に映るのだが、これが何となく居る以上の意味があって、イングヴァルに非常によく従って、よく動いて、活躍していた。
さきに書いたイングヴァルの夢中でのアダを探すシーンの幻想的な水溜まりを駆けるシーン、いったんイングヴァルがコケるんだけど、並走していたワンコが地味に上手い。なんなら作中でこのカットが最好きまである。
今作は、このワンコ、可哀相な最期を迎えるけど、この子の活躍を拝めるだけで鑑賞の価値があったとは言っておきたい。おおまじめ。
最近観た映画のなかだと《聖なる鹿殺し/Killing the Sacred Dear》や《アネット/Annette》などと並べてみたい雰囲気はありますね。
あと、どうでもいい味なんだけど、ペトゥールを乗せた乗用車が左車線を走っていた気がした。実際の交通ルールはどうだったっけなとググると、以下のブログ記事がサジェストされる。
やっぱりである。1964 年に右側通行になってるよな。運転手はそれなりの年齢いった妙齢の女性だったが、64 年より前の生まれという風にも見えなかった。
どう解釈すればいいのか。
とかいいつつ、ほぼ何もできていない。業務でたまにメモや書き残しをするくらいだ。
フィジカルな手帳も年始などには購入してしばらくはそれなりに記録やらメモやらに利用するが、数月もたてば利用するのを諦めて、鞄あるいは棚の肥やしになっていることが多い。
それでも文字をなにかを書くという習慣を、プライベートで確保しておきたいという謎の欲求は収まらない。
ひさびさにほぼ日手帳でも使おうかなという気になっているが、信仰上の理由であまり使いたくないという心理も働いており、何とも言えない。1回、Marks の日別ダイアリーを試したことがあったが、これも挫折している。
そもそも日付の決まったノートの重圧が厳然とあって、それは 読書:『バレットジャーナル 人生を変えるノート術』 の記事で書いた。
なんならペン習字でも習おうかなという気分にもなっている。
こんな見出しを作っておいてなんだが、方法が見つからない。
Pixel 6 を利用しはじめて、どれくらい経ったでしょう。ちょうど 1 年くらいみたいですね。使い慣れて不満もないけど、なんというかこの端末の推しポイントというと、背面の謎の出っ張りくらいしかなくて…。
いままでの Android スマートフォンは、なるたけアプリをホーム画面に出したくなかったのと、自動的なカテゴリー機能がパーフェクト便利だったのでホームアプリに Smart Launcher を採用していた。めちゃくちゃ愛用していた。スゴイ便利だった。
Pixel 6 にしてからは既定のホームアプリを利用している。アプリが増えてくるとランチャーの検索性も下がるし、ホームに追加されるアプリアイコンもなんだかなぁ、という感じだったが、それなりに不自由せずに使っていた。なんとなく慣れた。
だが、ここにきて、ひとつイヤな問題がある。
要らんアプリを削除したあと、ホーム画面では、そこにあったアイコンは当然に削除され、そこを埋めていたポイントが空き地になる。新しいアプリがインストールされれば、ここは自動的に埋め地となるが、そうでない場合、消したアプリが複数に渡ると空き地だらけになる。これが心地悪い。
ホームアプリによっては、自動的に空き地を詰める機能が設けられている場合もあるが、どうも Android 13 の素のホームアプリには当該の機能はないようで。
泣いている。方法があったら誰か教えてください。手動で整地するのめんどくさいっす。