『アステロイド・シティ』(Asteroid City)を観た。ウェス・アンダーソン監督といえば架空の日本を舞台にした『犬ヶ島』(2018)がやたらと評判だったので観て、「なるほどなぁ」という感想ではあったが、『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』(The French Dispatch of the Liberty, Kansas Evening Sun、2021)は周囲の反応も鈍目でスルーしていた。今作はなんとなくタイミングがあったので、観た。

(さらに…)

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『エドワード・ヤンの恋愛時代』4Kレストア版を観る。原題は『獨立時代』、英題は 《A Confucian Confusion》で、英題の「儒教の混乱」(より正確には「儒教者の混乱」だそうだ)という旨の表現は、つまるところ本作でシークエンスごとに表示される説明的な文言を指し、さらには作中の登場人物の制作物(小説)の内容の一部でもあるようだ。よくわかっていないが、おそらくそうだろう。韻を踏んでいるけれど。

登場人物の関係がよくわからないままに進むのだなぁという点、ひさびさに日本語や英語その他の言語の映画を観たら、割と字幕を追うのに大変だったなぁという点、いろいろと学びがある、大したこっちゃないけど。

パンフレットも購入したし(まだ読みこなせていない)、皆さんのあれやこれも狩猟したけれど(大して手間を割いていない)、どうもピンとした情報がないなと思っていたら、過去の監督インタビューがあったので、これは参考にはなりました。ありがとうございます。

そうですね。あの映画のなかで描かれている中国人社会というのはすこぶる順応主義的なものです。つまり皆が皆互いに似ようとし、コピーし合おうとし、同じ顔をもとうとしています。範に習うこと、それが順応主義であり、この映画の英語タイトルにある儒教というものです。

監督はこう述べている。監督本人にしか言えない厳しさがあるように感じるが、彼らは儒教的であるとハッキリ言っている。それでは原題の「獨立」が何を指しているのかというと、来るべき台湾社会を意図してのことと思うが、それが何なのかはぶっちゃけよくわからないし、つきつめると邦題「恋愛時代」もあながち的外れではない気がする。

というのも、まぁ社会が変われば婚姻の仕組みも社会を変えていく若者の家族間も変わるというもので、本作は94年代の映画なので、現代社会のある種の悲惨はとりあえず無視するしかないが、財閥の出自の制約、その柵を蹴破った結果、あるいは芸術家の恋愛のようなもの、小市民的な恋愛を通して、現代(94年)の台湾を映したとはできよう。

男性陣の在り方はわりと作品のためにある

本作、いわゆる男性陣は道化的というか、ろくな人物像で描かれた人間がほとんどいないが、かろうじてチチの恋人であるミンがまともだなという程度だが、詳らかには書かないが、それでもこの程度なのである。等身大ということだろう。

どうしようもないほど情けない男であることを画面上で隠されないアキンは、序盤こそ制約のなかでモーリーとの関係に前向きなのかと思わさせられたが、中盤からは自由恋愛への憧れや所詮は世間の体裁のためのポーズであったことを晒していく。彼のことは嫌いになれない、というよりは徐々に愛嬌が増していくキャラクターではあった。クズだけど誠実だね。

バーディ、モーリーの義兄は両方ともいわゆる芸術家であって、アキンの芸術への憧憬を含めると、ミンとラリー以外は大半が芸術気取りの男たちで構成されているのも振り返ってみれば本作のバカバカしさ(良い意味で)に拍車をかけているなぁと。

ミンの職場での扱われ方についても判じかねるところはあるのだが、アレは結局は同僚は決定的に上司に嫌われており、ミンは上手く利用されただけであったということなんだろうか。

女性陣は新しい在り方に順応しようとする

強烈な個性で作品のエンジンになっていたモーリーだが、ぶっちゃけ彼女のやりたいことはよくわからない、というか明示されない。ひとつ言えるのは勝手に出ていった姉に対する気持ちと、その結果として放り込まれることになった自分の境遇に対するストレスである。彼女は激情家ではあるけれど馬鹿ではない。でも行動指針がない。言ってみれば彼女にはチチしかいない。

一方のチチだが、彼女は本来的な気質が順応者であって、あるいはそれは他人からは揶揄されることもあるが、多くのひとを救っていることも事実であると思われ、作中で起こるいくつかの事件のなかで彼女も自身の在り方について葛藤することになるが、最後には自分を信じることに還っていく。それこそは順応ではない。

フォンという少女(成人ではあるがおそらく作中の主要人物では最年少)はラリーとのコンビとしてヒールに徹するが、およそ厳しい世を生き抜くためのポテンシャルは作中随一とみられ、いろいろと抜け目がない。実のところ、モーリーの義兄を除けば、主要男性陣はみんな彼女の魅力に一瞬であっても落ちている、落ちかけている。よくできてんなー、脚本。

どのように人に希望を与えるか

ある自由恋愛の失敗の成果として、抽象的な諍いを繰り広げることになったモーリーの姉と義兄だが、このシーン、義兄の首からうえが陰に入ってまったく映り込まない状態がかなり続いた。フォンをミンが見送るシーンの序盤でも感じたが、影を使った画作りが圧倒的に巧い。ヤバい。

モーリーの姉と義兄は、義兄のロマンス小説家時代の大恋愛を通して結婚し、そののち彼女は結婚 TV ショーのような番組で成功したようだが、義兄の小説はロマンスを止めて儒教者の糾弾に走り、2人の関係は冷え切ったという理解でよかろう。

要するに、聴衆にどのように希望を与えるかという点で2人に相違が生まれたとのことだが、財閥の娘であり、ロマンスを与える立場を取りつづける姉が、義兄を精神的に圧倒的に追い詰めていくシーンである。

義兄がまるで死人であるかのようなカットともに容赦ない文句で彼を責め立てる権利が彼女にあるのかは知らぬが、まさしく彼を制御しようとし、自分の望む姿に順応させようとしている悪魔のような姿勢が見て取れた。怖いんだよ、マジで。

チチは幸せになるか

本作、コメディ的に楽しめるが、とはいっても気になる部分は残るわけで、たとえばチチとモーリーの関係だが、やはり今までと同じようにはいかないだろう。いわゆる青春とその残滓の終わりを見せられているような部分もあって、切ない。

また上記のリンク先のインタビューではインタビュアーが「ハッピー・エンディング」と言ったし、監督も以下のように返している。

つまり不幸を招いた原因について互いに相手を非難し合うかわりに、まず我が身をふりかえるのです。そして身をもって体験してみるのです。もしそれができれば、われわれはさまざまな困難を解決できるのです。それがわたしなりの人生観です。わたしはあのエンディングをそういう風に考えています。ですからあのハッピー・エンディングは、かならずしも御都合主義的な約束事としてやってきたのではないと思います。いったい人はいつもっとも美しく、もっとも愛らしく、そしてもっとも気持ちのよい人間になるのでしょうか。それは彼が自信を抱いたときです。

いやね、腐すわけではないのだが、人間的な意味でのモーリーのよさもチチのよさも、あるいはバーディやアキンの弱さもわかる。ひとの情愛って本作で描かれたようなものだろうという話に終わるのかもしれないが、であればタイトルの意図にそぐわない面も当然のようにあるだろうし、なにより私にはミンの抱えているものの大きさの評価ができなかった。根本的には父へのコンプレックスであるだろうし、儒教的な視点を含めれば、色々と穿つこともできるだろうけど。

ということで、最後のあの展開は、チチのむやみな器の大きさというか、ミンの一見して無軌道にしかみえない動きの結果としか見えず、あるいは上記の監督の応答が多分にリップサービスを含んでいたとしても、なかなか問題提起的だなと考える。

いや、単に私が理想的に過ぎるのかもしれないが。もう少し言うと、チチは幸せにはならないと思う。独立時代としては。

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スタジオジブリ、宮崎駿の最新作『君たちはどう生きるか。』を観てきた。観てからだいぶ経つ。21時過ぎの上映の TOHO 日比谷 TCX のスクリーンはほぼ満席で、ほとんどがカップルのように見えたが、ちょいちょい、お一人様がいるような状況だった。まあ、そういう感じに見えたということだ。

この感想を書きながらいくつもの感想や批評めいた文章を読んだけど、気を付けたいなと思ったのは、メタ宮崎駿、メタジブリ的な語りの多いことで、そりゃ自由にやったらいいんだけど、それってやっぱり言うほど面白くないよなと、私としては、ね。

そもそも君らがどれだけ宮崎駿やスタジオ・ジブリに詳しいのかと。言い始めたらキリがなく、実際に詳しい人も山のように居るのだろう。また、彼やスタジオにリスペクトを持てとは言わないが、どうにもネット社会というか、今の世の中には、そこに在る存在やその歴史を手前勝手に料理して軽んじる傾向があるのではないか。気をつけたい。

というわけで、夢想のような感想を以下に残しておくけど、的を絞ってないパターンの文章のままで放出するので読みづらいだろう。

冒頭。また戦争ものか…、と思いきや、物語の舞台は疎開先の田舎の屋敷での悪夢であった。継母との確執めいた関係がテーマになるのかなと思いきや、いや、中盤ほどの状況ではあながち外れな予想でもなかったが、それ以上に奇妙な展開と内容で、どこにボーダーラインを引いていたか自覚はないが、それでも期待していたよりもよかったなという作品だった。

田舎の学校への初登校後、現地の子らとケンカして傷ついたシーン、最近の宮崎駿は靑たんこぶとか作らせないのか? と訝しがっていたら、流石にちゃんとした意図がありましたね、おみそれしました。

母の死、彼女の名は「ひみ」という名らしいが、炎に消えていく女の姿という意味では古今東西の作品を連想させられ、「えぇー、『火の鳥』みたいなことにはならんよな」と抱いた疑問は半分は正解で、半分は外れた。大当たりでなくてよかったけど。「ひみ」という名を漢字で如何に書くかはわからないが、「火」に関連しているという以上には象徴的な名ではあるなと思う。まぁ深入りはしない。

鳥の姿を借りたキャラクターに異界に誘われる展開は『ドラえもん のび太と夢幻三剣士』を彷彿とさせられ、実際に本作の展開は夢であったというような解釈もできるだろうから、ますますドラえもんのそれと近い。「夢幻三剣士」も怪作というか、大枠でいうと失敗作だと思うが、こういう系統の作品はそうなるのが運命なのかね。

話は飛ぶが、終盤に出てきた執務室の画、宮崎駿のラフ風のタッチというか絵コンテそのまんまみたいな感じというか、映画「ナウシカ」の王蟲の幼虫の回想シーンを思い起こさせられる雰囲気だが、この画風を出してきた作品って他には幾つくらいあったっけな。あんまりないよね、多分。

眞人が託された世界は、あくまで大叔父の作り上げた世界だ、という点が、この物語の責任性のような部分をあくまでファンタジーに抑え込んだという点は評価しやすいかもしれない。「セカイ系」があえて取らなかった手法なのかもしれないが、大抵、お話というものはこれでいい。これくらいでいい。なんなら、この話も割とどうでもいい。

とは言うものの、彼に迫られる選択や大叔父の過去の選択、大叔父からの助言、終局までの諸々の展開を突き詰めれば、それは私たち、鑑賞者たちの世界を示唆しているには決まっており、このことが鑑賞者にとってどれくらい明らかなのか、そう意識する必要があるか否かは、どうでしょうね。つまり、タイトル回収ってことですけど。

皆さんのおっしゃるように、宮崎駿監督の過去作のセルフオマージュのようなところは多々見受けられたが、一方で、愚直にテーマを受け取るとすれば、それはたしかに漫画版『風の谷のナウシカ』のようでもあったが、それはそれとしてどうだ。監督の問題意識は当時から一貫しているのでは、とは言えようか(言い訳しておくと、メタ宮崎駿という話というよりは、あくまでそれぞれの作品とのテーマ的な関連性という意味で)。

ところで、アオサギである。現実に帰ったアオサキが只の鳥に戻るとも思えないが、まるっきり人間というワケでもなさそうで、あれ、彼はなんだったんだっけ。どうなったんだっけか? そもそもなんであんな気持ち悪いビジュアルだったんでしょうね、慣れると可愛いげもあるけども。

しかしである、男子版『千と千尋の神隠し』という評もチラホラ見た。が、これは雑過ぎるだろう。さまざまなエリアを旅しながら変化を受け入れる構造こそ似てはいるし、本作が「冒険活劇」であることは否定しないが、決定的に違うのは、主人公の「成長譚」ではないよな(『千と千尋の神隠し』がそうだと断定して言うけれど)。

眞人と千尋の決定的な差はそこに思える。別に眞人くん、彼の年齢なりに母との死別に苦しんで、新しい母を正面からは受け入れられていなかった点の他はむしろ、超人の域に達している身体能力(いつものこと)、意志力(いつものこと)である。つまり、安易に「千と千尋」を持ちだすのは難しい。少なくとも千尋はそうは描かれていなかったよな。

そういえば、煉獄住まいのキリコさんによって「眞人」という名は「死の匂いに溢れてる」のような指摘があった。これは誠にアレなご指摘というか種明かしが早いなというアレで、皆さんも彼の名を目にしたとき、「重たい」「やりすぎじゃね?」って思ったでしょ。私は思いました。

監督も原作のファンであるらしいところの「ゲド戦記」を引くまでもなく、監督自身も登場人物の名前を操作するのが大好きなのは、やはり漫画「ナウシカ」の時代から変わらないようで(これも別にメタ宮崎駿的な勘繰りではない)、身も蓋もないとはいえ、大叔父から世界を任される運命にあったことは、彼の名からして確定している。真の人がいるとすれば、そりゃ神だものな。

でもあれですね、お母さんが少女に時代にあの世界に誘われた理屈はよくわかっていなくて、そのへんは謎だ。当時からアオサギがいたとしても、彼が相手は人間だったら誰でもリクルートしていた、なんてワケでもなさそうだし。お母さんがあの世界を継ぐっちゅーことになっていたのか、ヒミは大叔父の世界にとってなんだったのか、どういう可能性だったのか、整合性とか面倒くさいし、わからんことだらけだけど。

お母さんといえば、継母の産屋のモチーフについてグダグダ解釈をしそうなひとを見かけたが、あれもモチーフってだけで充分だろうな。ひとめで趣味が悪いなとは思ったし、このような感じでお産をフューチャーするのかとも思ったが、なんか別にどうでもいいよな。彼女の顔芸はおもしろかったけど。

ちなみにあのシーン、眞人にとっては前門の新母、後門の元母ということで、お母さんバインドである。業が深い。これは実は手塚治虫も富野由悠季も実現していない業の深さなのではないか。

母屋について、趣味が悪いとはいったが、「石」であることは一貫していた。煉獄の石室、産屋の岩屋、なんかの意思の石、どれもこれも石だ。ダジャレかな。気になるのは「我を学ぶものは死す」という墓の門のメッセージで、これなんだろうね。

「我を学ぶものは死す」だが、インターネットは便利なもので、絵手紙作家:小池邦夫さんの師匠と親しんだ方の残された言葉らしい。もともと中国の古典にも似たような言葉があるとかないとか。まぁメッセージは「最終的には自分で道を切り開け」みたいなことのようだが、それは二の次として、あそこに誰が埋葬されているかなんだよね。

抽象的な想像で終わるけど、あそこには大叔父の悪意(だっけ?)が埋葬されていたのではないか、と僕は思う。仮に眞人が悪意のない後継者として選ばれ得たとして、大叔父はどうだったのか。ありていに言って、この世には無垢なおっさんなんて居らんので、大叔父は彼の純粋な世界を構築するにあたって、自身の悪意をどうにかする必要があった。それがあの墓なのです! 本当か?

そういえば煉獄にいる笑う胞子? が現実で人間になるというのは流石に説明しきれない気がするので、アレはキリコのファンタジーじゃないのかな。もしかの世界でそれが事実だとすれば世界の崩壊ないしは、背後の理屈からの覆しだもんな。

大叔父の世界が曲がりなりにも階層構造のような状態というのは正しかろう。これもベタだが。問題は、作品世界の現実との関係だが、まぁ答えはないね。君だけの新しい宇宙を作ろうというネタは、藤子・F・不二雄はドラえもんでも短編でも擦ったネタではあるが、この作品では塔のなかの謎空間である必要があったらしい。

あるいは、ざっくり言って、あの最上階の執務室から先のイメージは、どう見ても、何度でも言及してしまうが、漫画ナウシカの「庭」に連なる。大叔父のやってることは漫画ナウシカでいうところの旧人類の目的とかなり近いところがあって、なんだ、まるで揃っているデータは昔のままじゃないか。あきれたなぁ。みたいな意見もありうる。

そうじゃないだろう、つまり監督の根本的な問題意識は変わってないし、だけど、まだそれを解決してやろうという気概があるんだよ、解決しようがなくたってさ。お前らもそういう問題意識というか、気概をひとつくらい抱けと、そういうメッセージだったんじゃないの。

最後に。映像的には、煉獄のバルコニーのお手洗いから出てきて空を見上げたかっとが抜群に美しかったのと、最後のわちゃわちゃでインコがどさくさに紛れて一刀両断したシーンなんかがおもしろかった。

田舎の大きな屋敷を建もの探訪のように練り歩くシーンも個人的に好きだし、同じように謎の大広間の外廊下も美しかったね。

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クリアまでに『ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム』についての散文が8つになったので、せっかくなのでまとめた。ゲーム全体の衝撃あるいはインプレッションでいえば前作のほうが強かったが、個々の要素の衝撃でいえば本作のが圧倒的に優っている。このような比較が私自身のなかではとはいえ、成立すること自体がおもしろい。

しかし、前作、今作と含めて、ゼルダという主人公が立ち向かうことになった運命をどう考えればいいのかということについて、私はまだあんまり結論みたいな点に到達できていない。

ということで、以下は各記事とそれについてのひと言メモだ。

前作をほぼ踏襲したマップを遊ぶことについて考えた。もともと「同じマップで新鮮味が無くてツマらない」というネガな反応への勝手なアンサーというか、そのこと自体が贅沢という視点を立ててみてはどうかという話を組み立ててみたかった。

今作の発明はいくつかあると思うが、爆弾花について感心したということを主張したかった。いまのところ同じ話をしている人はあまりいないというか、誰も関心がない? のかな。悲しいです。

読み返すと、ウルトラハンドとスクラビルドを混同している部分があるような気がするけど、まぁいいか。とにかく本作のクラフト要素は別ゲーなんだよと。なんなら Nintendo Labo 的な実験性すら感じさせられる。そして一応、ゲーム全体は破綻していない。何を考えてこういうことになった。

リンクが喋らないことについて内容もない話を述べている。どちらかというとムービーシーンを退屈と感じる側の人間として、このシリーズのムービーはミニマムに抑えられていていいよね、という話をしたかったのかも。

ブレワイでさんざん話題のタネになっていた太眉ゼルダのデザインだが、本作でももちろんそれなりに踏襲されていたね、でももう話題にならないね、という話であった。ゼルダが編み込みのショートヘアみたいな髪型にした点も大きかったと思う。しかし、下世話な話に限らないが、彼女のビビットさとその必要性という意味で、この描写は重要だなという話はできそう。

2DマップのRPG的なゲームと比較したとき、マップから与えられる快楽は3Dゲームではどう考えうるのかという風呂敷を広げてみたく書いた。つまるところ、既プレイ者ならわかるけれど、あのごちゃごちゃのマップが完成する。これくらいないと、2Dマップに近いワクワクは得られないのではないか。

このゲームの話というか、「空島」にまつわる話をしたかった。考えてみれば、2023年のドラえもん映画も似たようなモチーフを扱っていたな。結論としては、ガリヴァー旅行記が目ぼしいのではという模様だが、ちゃんと探せばもっとしっかりしたルーツ辿りができそう。

とりあえずクリアした感想。いつものように記事タイトルには本文中ではほとんど触れてない。各種ギミックやアイテムなど、冷静になると異常なゲーム体験と思うけれど、そこだけではない。ストーリー、それを盛り上げる演出など諸々、そして清々しいエンディングがあった。絶対の信頼、という美しいフィクションに泣く。

ということで、了となります。

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以前に Pocket を長く愛用してきたと書いたことがあったが、完全撤退を狙っている。もし、この記事を読むひとがいれば、Pocket が Firefox アカウントに統合されることになったことも既知と思うが、そういうことらしい。これはどうでもいい。

問題は昨今の調整で、どうも私のデータの保持が上手くいっていないようで、無料アカウントで利用している身なので文句を言う筋合いも小さいのだが、スマートフォンからは閲覧できる Read later のリストが Web だと読み込みエラーでリストは空になり読めない。問題がしばらく解消されない。

エラーメッセージから軽く解決方法を探したが、どうもうまくいかず、考えうる手段はめんどくさく無い範囲でとった。もう諦めており、スマートフォン側からアクセスなりサルベージなりするしかない。

で、ここまではPocketへの愚痴(応援)と今回の経緯の発端だ。

もうひとつ、最近Glaspというサービスをちょっと触っていて、Webで読んだ記事をハイライトするのが割と有意義だなと再確認したのであった。で、さらにこのハイライトをローカル、つまるところObsidianでカバーできれば便利やろと思ったのだ。

だが、Glasp側ではObsidianとの連携を特にサポートしておらず、技術に疎い人間としてはスマートな術がない。で、自然に Omnivore が選択肢に上がった。これが移行の切り札になった。

Omnivore、オープンソースで開発されているらしいが、アカウントさえ作成すれば雑魚でも利用できるサービスとなっている。2年前くらいから存在は知っていたと覚えているが、当時はノータッチだった。開発をスタートした方からして Read Later に取りつかれており、Pocket の利用についても言及している。これは信頼できる。

また、Pocketでは、特に日本語サイトの読み込みで信頼できずにいたサービス内のリーディング機能も(直近では機能することもあるのかも?)、Omnivore では利用している。というのも、ハイライトがここからしか付けられないので利用するしかないが、割合、困ることは少なく、機能する限りでは便利であるとも気づく。

なお、Obsidian単体でWeb Clipper的な挙動を実現することは素人設定でも実現できそうだが、Webサービス内で完結できるなら、そこはそこで済ませたいという意識が私のなかにはあり、現状ではそうしている(技術も拙いし)。

また、記事からハイライトのみの同期という選択肢が地味に重要とも捉えている身としては都合がいい。無駄となりうる分量の情報は、とりあえずはいらない。

そう、幸いなことに、Omnivore は PKM なりの昨今のサービスとの連携も重視しており、Obsidian も対応している。公式で提供されているコミュニティプラグインをインストールし、適当に設定すればブックマークをファイルとして同期(実行されているのはダウンロードだろうけど)できる。

同期はブックマークすべて、ハイライトした記事のみなどと設定できるようだが、上述の理由で、私はハイライトした記事のみとしている。同期のタイミングだが、気づいたときに、たまにOmnivoreのプラグインのボタンをクリックすると、サクッと完了するという程度だ。

タグの設定などをいじるともっと実用性が増しそうだが、Obsidianのタグ運用も微妙に揺らいでいるので、おいおい手を付けたい。

まぁ、というわけで、感謝しきれないくらいありがとう Pocket。そしてOmnivoreを使いはじめたよという話でした。

話が逸れるが、もともとEvernoteのClipper機能にもハイライトは存在したと覚えているが、あのときはハイライトに興味がなかった。サービスとの関係は難しい。そして人生は空しい。

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6月はティアーズ オブ キングダム についてしか書かないと述べたし、実際にはそうなった。本当のところは、もっといろいろと書きたく、そのつもりだったが、そもそも6月の後半はゲームどころではなくて、どの話をするということもできなかった。

とはいえ、6月半ばにはクリアするつもりでいた。

6月の前半時点でメインストーリーとなる4つの神殿のうち残り1つ、風のボス戦を残す段階にはいた。ゴールは近いが、もう少し探索したい、うろちょろしたい、というなかでタイミングを計っていたら、後半はゲームどころではなかった。

結果、2023年7月12日にクリアした。プレイ開始が5月20日なのでひと月半くらいだ。

もともと飽き性なのと、つまらないなと感じたり、まとまった時間がとれなくなったりすると平気で投げ出す体質なので、ゲームをちゃんとクリアすることが少ないが、前作に引き続いて今回もなんとかクリアにはこぎ着けた。

6月に書いた雑文以外にも書きたいことはいろいろとある(あった)が、少なくとも今回は、クライマックス付近からエンディングまでの思い出にネタを絞る。

ハイラル城のゼルダを意図せずして無視する

神殿も押さえ、ハイラル城に乗り込もうと思ったが、その方法である。おそらく鳥望台が正攻法だが、プレイ時点でその発想に至らず、近くにある板とアイテムを組み合わせるなどで登るのがベストかと勘違いした。そしてその方法を避けた。

深穴の中央からせり出す岩からトーレルーフできるもんだと思い込んで、地底に迷い込んだというのがオチで、あれよあれよと進んでいくと、なんか最終戦が始まった。始まってしまったものはしょうがない。下準備も対策も無いので利用可能なハートが10を切っており、なんやかんやと粘るものの、軍団のラッシュの終盤でこと切れる。

踏まなくていいネタバレ的な要素をひとつ踏んだ結果として、城のゼルダを無視するとこっちでの軍団戦の苦労がちょっとだけ増える、という学びを得て地上に戻る。

ハイラル城を巡る

開き直って地底のゴーレムから手に入れた2艘式気球でハイラル城に乗り込む。まだ鳥望台には気づいていない。バカと煙はなんとやら、城の頂上やらなんやらでコログに会う。城内だけで結構おるやろな。歩き回ってやたらとコログに会う。前作の懐かしいトロッコに乗る。そこらじゅうを見学、探索する。モンスターらを倒す。

ようやく散歩が終わったのでゼルダに会いに行くと、なんやかんやで戦闘が始まる。ここまでの経緯で何が起こるかは察せられたが、散歩し終えた城内をまた練り歩くことになったのは痛かった。別に構わないのだけれど。

しかし、思い返すと、前作のハイラル城内がどんなだったかあまり覚えていない。特に王の間はあんなんだったけか。図書館や食堂、牢などの違和感は小さかったが、どうでしょうね。変更もほぼ無いとは思うんだが。祠はあるだろうと踏んでいたが、設置された位置がまた微妙でな。まぁ上にも下にも行きやすい場所ではあった。

ふたたび、地底に戻る

無事にゼルダのイベントを終える。パーティーにミネルは既にいる。

地底の最奥、最終決戦やなというエリアにふたたび移動するのが面倒だったので、上述のタイミングで、飛び込み台の手前にワープマーカーを拵えてあった。ので、最終戦には直接向かった。ゼルダとの面会@ハイラル城も済んだので、最初の軍団戦よりは楽になるという見通しも立っており、割と気楽だった。

軍団戦はさほど苦労せずに終わった。

ミイラ姿のガノンとも戦うのかと思っていたが、そんなこともなく。あの状態のデザインも好きだったが、気合で復活しよったな。しかしである。万年前の賢者6人が敵わなかったガノンに、それが病み上がりとはいえ、最終的には1人で立ち向かうリンク君、君はいったい何者なんだい。ポテンシャルがヤバいだろ。

退魔の剣がヤバいのかな?

ガノンがラッシュで攻撃を仕掛けてくるかはしらんが、ジャスト避けはする。このジャスト避けも多分だけど、決戦の段階で精度がよくなっていったのではないか。最後の方は下手くそなりにこちらの攻撃が全然決まらず、焦っていた。焦っていたので、最後の一撃は弓に頼ったよね。切なかった。

相手のゲージが振り切れる演出も(実際にゲージ増加分だけ正確にHPが増えていたのか否かは気になるが)、リンクのハートが割れるだけでなく文字通り消滅していく演出も、なかなか心臓に悪い。まぁでもなんだ、ファントムガノンとの初遭遇時の心臓への悪さほどでないというのは、体験としてはどうなんだろうな。

最後の空戦に舞う

さんざんいろいろなレビューで擦られていると思うが、本作が「飛び込む」とそれに起因する空中アクションに前作以上に注力しているのはたしかで、これは最初から最後まで一貫していた。で、前作のイノシシだかようわからん獣との最終戦とは違い、今作ではストーリーの整合ともすっきり、龍と戦うことになる。ほいでそのためにも龍に乗る。

ブレワイのアタリマエを見直す

いいですか、前作では龍には乗れませんでした。今作では乗れます。ぶっちゃけ、直近で私が気になっている最大のポイントはこれで、他の方の感想で言及を見かけたことがないので主張だけしておく。

おそらくというか当然、制作スタッフも考えたんだろう。「これ龍に乗れんままでええのか?」と。前作で主人公が足を踏み入れられない、絶対に登れないエリアとしては、マップ外、祠内の設備、そして龍があった。ほかにもあるだろうけど。

で、今作、この龍への物理的な接触が解禁されたのである。アホかな? 実際のところはストーリー上の要請が先に来たと思うのだが、とにかく龍に乗れるのだ。龍に乗れば、そのまま採取できる素材もある。なんならずぅっと乗ってられるし…。地底とも行き来するし。そりゃ決戦でだって使わないわけにはいかない。

視点を少し変えて、ボス系の敵から考えてみる。

まず、イワロックは乗れる。ヒノックス系も乗れる(前作より気づかれやすい気がする)。デグガーマも乗れる。風と火のボスは接触できる(水と雷はどうだろう)。とまぁ、接触できるボス系の敵は少なくない。であるならば、龍だって乗れたってエエやろ、載れるはずだろうとなったんだろう。ほかのオブジェクト(中ボスやら)より大きいわけだし、なにより日本には「たつのこたろう」の伝統がある。

空は思ったほど自由じゃないが、龍との空戦を制す

本当の最終決戦の舞台は、大空だ。駆け回って暴れる龍との決戦なので、地上はおろか、空島も上昇気流もクソもないわけだ。よほどの巧者でないかぎりは体力ゲージが持つわけがなく、戦況次第で、しだいにそれが切れる瞬間を待つことになる。

これを救ってくれるのが龍の相棒で、暴龍と戦うために飛ぶ、戦う、避ける、飛ぶ、相棒と協力する。何度も落ちているとさすがに慣れるが、冒頭から予感はあるものの、ちゃんと相棒が拾ってくれるのか? どういう仕組みで迎えに来てくれるのか? いろいろな不安や疑問が頭をよぎる。

この戦闘はどちらかというとエキシビション・マッチというか負ける要素は最小限で、エンディングに向けた準備的な要素が大きいわけだが、それでもラストバトルとして用意された土壌があり、それだけ私も必死になって戦うわけだ。救うべき対象が目の前にいる。相棒と支えあってラスボスと対峙している。

いやいや、すごいよね。クライマックスで通常時と異なる体験をさせてくるゲーム、いくつか記憶はあるけれど、こうもストーリー上の都合とうまく絡ませた作品は滅多にないのではないか。繰り返しになるが、「飛び込む」という要素ももちろんこの戦闘でよく使う。

重力には勝てないけど、水面があれば大丈夫だ

なんやかんやでゼルダが落下していく。そんな彼女を救う。

このとき「飛び込み」をさらに「加速」させる必要がある。ゲーム中に空から急いで降りたいとき、いくらでも利用してきた動作なのだが、なるほどここもプレイヤブルにしてくるか。そういう挙動ができるんだもんな。やらせるわな。

そういえば、本作をそこそこプレイしていると、ダイビングのさなかで流星がそばを落ちていくことがある。このときもうまく加速しないと、なかなか空中で星をキャッチすることは難しい。クライマックスの段になって、なんだ予行演習させられていたのかという気分にもなる。憎たらしいな、任天堂は。

これも、なかなか難しい体験で、加速してゼルダをつかんでしまったら、おそらくゲームが終わるのである。このまま放置してもいいかもしれないなんて思いつつも、彼女に近づく。でも、そのあとも、一筋縄ではいかない。

ゼルダを引き寄せるためには、さらにワンアクションが必要で、一見するといわゆる QTE のようだが、プレイヤーの状況的には別に急がされない。おそらくこの瞬間には時間制限はないので。これも無限に再生してやろうかと思った。プレイヤーが掴むことを決断するまで無限の一瞬が続く。実際には秒で決断しろよという話ではある。

落下地点にある池が、そこそこ小さいのがよい。ゲームの仕組みに従えば、それなりに大きな水面であれば、リンクはあえてゼルダを守る必要もない。そんなことはしないだろうけれど。小さい目標しかないからこそ、リンクは姫を抱えて落ちる。

おしまいはあっさりしている

空前(空中)の体験もそこそこにエンディングはサラッとしたものである。前作もそうだった。任天堂のゲームをクリアまでプレイした経験も然程ないけど、エンディングは割とあっさりしているイメージがある。余白が大きい。

この舞台と設定での続編はいくらでも作れそうだけど、もうこれ以上は姫さまに苦労させたくないという気持ちのほうが強い。詳しくないけど、過去のシリーズでも3部作はやってないだろうし。

というわけで、2023年、わたしのリンクの冒険はひと区切りしたのであった。

ブレワイのアタリマエはどうなった

前作は山登り中がもっとも楽しかった。本作、それを引き継いでいるので、もちろん山登りも楽しい。ゾナウギアなり、トーレルーフなりを駆使すれば、ショートカットできるという工夫も施された。山肌の触感がちょっと違うけどね。

最終決戦に顕著だが、前作の魔獣戦は上昇気流とパラセールからの集中弓矢が基本戦術だった。今作ではパラセールも使うものの、ダイブが無ければ話にならない。深穴落下時が特徴的だが、パラセールとただの落下だけだとリンクを制御できない。正統進化とはこういうことを言うのだなと。

地上の音楽は前作のほうが好きだが、今作は地底の音楽がよい。深穴に落ちるときの音楽は慣れた現段階になっても心臓に悪い。なにより今作、地底の探索が地味に面白いというか、なんなら1番面白い。なんでだろう。

ウルトラハンドはハッキリ言って別のゲームが混ぜられた状態だと思っている。

否定的な意見ではない。この自由さの基盤となっているのが ブレス・オブ・ザ・ワイルド から引き継がれたシステムなので、余計なことは言うもんじゃないが、ウルトラハンドとゾナウギアは単品でゲームになるやつだ。勿体ないとすら思う。

というわけで、これ以上褒めようがないのだが、最高の誉め言葉としても、いくつかの点を考えたうえでも、ちょっと手に余るゲームだったとは言えそうだ。

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あってないようなブログだが、6月は後半で新型コロナに罹患したため、更新も何もなかった。寒くなく、暑すぎもしない季節であったことは唯一の救いといってよいと思う。これが冬だったらもっと体力を削られていただろう。

小さな咳はまだ続くものの、喉と咳はたいした症状もなく収まった。問題は発熱のほうで、小さい頃ならいざ知らず、39度前後の熱が5日ほど続いたのは参った。2日目までは体力があるので余裕もあり結果的には嘗めていた。3日目以降、終盤の高熱との戦いは修羅場であった。

なにより5日間ほど、まともに睡眠できず、寝付けるかと思ったところでツラくて起きる、奇妙な想念に襲われてアイスピック頭痛が走るといった事態になった。後者だが、おそらく普段ならそこで睡眠状態に入って夢の中で処理されるような脳の働きに対して、緊張して覚醒からの離脱を拒む脳の部分が抵抗した、というイメージだ。

本当に参った。

まったくバカバカしくて泣きたいくらいしょうもない妄想が止まらず、寝ているワケでもないので悪夢でもない。ただただ魘されるだけであった。裏を返すと、ある意味で宗教的体験であったような気もしていて、己の生を見つめる時間でもあった。重い病気って往々にしてそういうことあるけれど。

体力のあるうちは、本当はどうなのかとも思うものの、いろいろと時間を潰して1日が終わっていくが、これが終盤になると全然時計の針が進まない。もう何をやる気力もない。とにかく早く治ってほしい。神頼みもする。疲れ果てる。

という具合だった。

まぁとにかく酷い風邪なのだが、問題は感染力の強さということで、たしかにこれがやたらと広がるようだと困る。沖縄、九州だと再度の感染拡大が問題視されているレベルだが。私の場合、ちょっと油断したら途端に感染したので、警戒心もバカにならないというか、なんとやらだ。

謎の風邪とやらやインフルエンザも流行っているようだし、気が抜けない。ひとにアドバイスできることがあるとすれば、高熱対策は冷えピタの類はぜんぜんアテにならず(個人の感想です)、できれば氷枕の類がいいと思う。自分は水タオルをずっと首に巻いたり、頭に乗せたりしていた。オーソドックスなやつだね。

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宣言通り、6月は「ティアーズ オブ キングダム」の話を続けます。ご存じの通り、本作には空島というフィールドが存在する。名前の通り、ハイラルの大地の空中に点在する島です。そういうエリアがある。

「空島」といってパッと思い浮かぶのは、昨今のフィクションにそれなりに馴染んでいれば『ONE PIECE』のそれであること、に異論はそこまでないと思う。昨今のサブカルチャー的なそれで言えばだ。

あるいは、皆さんの大好きなスタジオジブリの『天空の城ラピュタ』か。あいやいやいや、ビジュアルはまさしくそんな感じで、雲の中に城っぽいのが見えたり見えなかったりする絵面は竜の巣を思わせる。そういう空島もある。

個人的には、ゲームであるが『クロノトリガー』の古代文明もなんだか知らんが浮かんでいたことが思い出される。

あれも空島。これも空島。

で、雑にちょっとググると、『ジャックと豆の木』が引っかかる。たしかに! 空島というか雲の島というイメージだが、その源泉には違いないな。Wikipedia の説明だと、この物語は9世紀くらいのイングランドが舞台らしい。へぇ。アングロサクソン系の民話が出典らしいが、いつからあったのかね。

そして、雲の上の楽園といえば、極東アジアの文化圏だと天竺とかはそうか。どうなんだろうね、キリスト教系の天国のイメージって、あんまり空島な感じはしないけど、個人的には天竺には幾分、空の上の王国のようなイメージはある。「ドラえもん 雲の王国」の影響もある。

ついで、これも忘れちゃなんねぇが、「島」というテーマでは『ガリヴァー旅行記』がある。調べればわかることだが、ラピュタの元ネタのひとつでもあるらしい。どうも私は抄訳版しか読んだことがないが、第三篇にはまさしく空島が存在するらしい。

まぁしかし、現代のフィクションを調べると、数えきれないくらい例はでてきそうだけど、実は空島っていうイマジネーションは相当に稀有なんじゃないのという気がしてきた。この記事も、ティアーズ オブ キングダム もほとんど関係ないしな。

悪しからず。

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引き続き、「ティアーズ オブ キングダム」の話をする。

3Dのオープンワールド、マップの起伏を生かした探索と発見の妙は「ブレワイ」から任天堂側も発表していることであり、プレイヤーは身に染みていることでもある。

ついては、自分の数少ない体験からの感覚になるが、この発見の妙は、特にドラクエ3やドラクエ6、メタルマックスシリーズなんかの 2D マップを放浪していて出会う街や設備、拠点などを発見したときの感覚に似ている。

つまるところ2Dマップを冒険しているときのワクワク感だ。

ブレワイが2Dマップでのデモから開発されたという話は有名だし、であればそこから結論を導き出すことも簡単そうだが、2Dゲームで移動中のマップを見渡すとき、それが 3D のオープンワールドであれば視界そのものとなるわけだが、そこに何か気になるものがある必要がある。そのほうがいい。2Dマップではひとマス進むたびに明確に変化するチップをプレイヤーは凝視している。同じことがオープンワールドでも起こせるはずだ。どのオープンワールドゲームもそのことを意識はしているはずだ。

あるいは 2D マップにて、新しいエリアに到達したとき、それがたとえば壁を隔てたエリア間であれば、プレイヤーには3方向の選択肢があろう。ドラクエ3でいうところの「ノルドの洞窟」を例にしたい。この洞窟を抜けた場合、背となる西側には南北を阻む山脈があり、洞窟を出た瞬間のイメージ的な正面は真東となる。加えて、北か南か3方向を選ぶことになる。オーソドックスには南東方向に進んで、バハラタを発見するに至るというような。

これが3Dのオープンワールドの、高台の上だった場合、背後が壁だったとしても見渡す方向はざっと9方向になる。10倍だぞ10倍。2D時代は制作側も3方向に目指すべきオブジェクトを配置するか否かを判断すればよかったワケで、また同時にプレイヤーも「上に行って駄目なら右回って下へ行けばいいや」で済んでいた。これが10倍だぞ10倍。

で、ようやく今回の記事のタイトルの話題になるが、思いのほか洞窟が多い。ていうか、めちゃくちゃ多い。飽きちゃういひとも出てくるんじゃないのかというくらい多い。攻略も面倒くさいことが多い。歩いている最中に、キラキラのウサギみたいなのに出会いたくないなぁというタイミングがある。祠センサーが下方向に反応してほしくないなぁ、というネガティブな願望がある。そういうときに出逢ってしまう。

ブレワイと異なり、それぞれの洞窟にも名前があり、マップにもすべてちゃんと載るようだ。洞窟を踏破する意味、メリット、報酬がそれなりに用意されており、プレイヤーは潜らざるを得ない。というほどでもないが、そこは人間のサガでもある。

微妙だなぁ、と思うのは、壊さなければならない岩壁にこれみよがしに石とほころびた武器が落ちている点で、しょうがないにしても、あからさまな進行用の要素である。ブレワイのときは、こういう仕掛けは最小限だったね。あからさまに爆弾花が咲いているケースもある。

この洞窟の多さ、先ほどの10倍の話でもないが、本作のゲーム内のマップでもいいが、2Dマップに落とし込むと、濃淡の差はあれどたくさんの洞窟が目に入ってくるわけだ。2Dマップでプレイしうるゲームに比したら、その多さは尚更だ。出入り口が複数あるパターンがあるのも、3Dにおける世界のリアリティを前提としては当然だろうので、なおさら奥が深い。逆に、2Dマップのゲームで出入り口がバカみたいに多い洞窟なんて、それこそ洞窟内の構造も含め、込み入った構造にするメリットはプレイヤー体験的に低そうで、ゲーム性とは妙なものだとあらためて感じさせられる。

…話がとっ散らかっている。ハイラルには洞窟がたくさんある、ただのそ事実だけがある。

ここで、無理やりに締めくくると、3Dマップ、オープンワールド、アクションゲームにおける行動、探索の対象となるオブジェクトのあるべく数、マップ上での分布、その攻略に見合うリターンというのは、本作こそが最適解とも思わないが、かなり奥が深い話なんだなぁという漠然としたイメージが浮かんだ。

私はブレワイは登山ゲーだと思っている面があるが、今作は洞窟ゲーとしてもいいような気がしている。そして今日も新しい洞窟を見つけます。

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2023年6月は継続して「ティアーズオブキングダム」の話です。また、特別に検証したわけではなくて、プレイしながら何となく「そうなんじゃないかな」って思ったことを記録して、公開しています。

ということで、今回の話題はゼルダの眉の太さです。「ブレワイ」の当時から、彼女の眉の太さについては賛否両論、喧々囂々と、さまざまな意見で世の中が盛り上がっていたわけですが、いやまぁたしかに、「細いとは言えない」という見解は否定しづらい。

個人的な感覚としては、私は好きではある。

引き続き、前作について。そりゃね、100年封印されてたんだから、おしゃれとかいう場合じゃないんですよ、そもそも巫女の能力になかなか目覚めない落ちこぼれ考古学趣味お姫様という立場でもあった。そういうキャラクター付けがされていた。

翻って、本作です。プロモーションの時点で、まず髪型の変更がすぐに目に入った。なんかスタイリッシュというか、あか抜けた。野暮さがなくなった。そりゃね、元王国のリーダーとして矢面に立って、再興に向けて忙しくも充実した生活を過ごしているわけですからね、身の回りにも気を使いますよ。問題の眉の太さだが、たしかに調整されているように思う。

で、これはデザインの調整というのではなくて、上述のように、彼女のそういう状況がそれを許したというだけのことのように思える。

なぜか?

本作でも、やはりというかゼルダ姫は難局に立ち向かうことになるのだが、その状況を映したムービーシーンはどうだろうか。身の回りについては最低限の配慮すら覚束ない状況における眉の描写は、どうにも前作同様以上レベルで逞しいように見える。

もう説明の必要もないが、たとえばムービー中でリンクの装備が汚れたり、破損したりするのと同じレベルで、ゼルダ姫の眉は整えられたり、そうではなかったりするのではないか、このような描写が彼女のおかれた状況、大変さというのを表現しているのではないか、という推測が成り立つ。

あとやっぱり彼女の意志や決意の強さの表現には、割と重要なファクターなのではないかという、機能的な面もあるだろうね、とか。身も蓋もないね。

ということで、実際は、自分の目で確かめてほしい。

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