『アステロイド・シティ』(Asteroid City)を観た。ウェス・アンダーソン監督といえば架空の日本を舞台にした『犬ヶ島』(2018)がやたらと評判だったので観て、「なるほどなぁ」という感想ではあったが、『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』(The French Dispatch of the Liberty, Kansas Evening Sun、2021)は周囲の反応も鈍目でスルーしていた。今作はなんとなくタイミングがあったので、観た。

舞台裏との2重構造で演劇、劇場演目をモチーフにはしているが、劇中作は映画的な画面構成で進行するので、その意味はあまり感じず。とはいえ、もともと監督の作風があまり奥行きを使わない画面の使い方なので、そういう意味ではもともと演劇的ではあるのかなぁ。窓越しの会話のシーンは、それはそれはカッチリしていて絵画的でもあったし、少し小津安二郎を思い出したりもするけど。

割引日とはいえ上映期間も中ごろの本作、平日最後の時間であっても座席は割かし埋まっており、監督の人気というのが伺えた。「難解な」という感想も多かったけど、それでも好きというひとも多く、この作風でファンがいるって単純にすごいね。このシンプルさと色彩、スタイリッシュな画面で満足させられるということなんだろう。『犬ヶ島』で寝落ちしかけた記憶があるけど、「今回も同じか」と意識できたので、大丈夫でした。

「西部劇かぶれ」「宇宙人」「極東アジア人」というモチーフや、擬古的な状況設定(演劇と古典映画回顧との差はあれど)、閉鎖的な状況といういくつかの設定が頭のなかで『NOPE』(2022)に連なる作品じゃないのという感覚を生んだ。目指すところも着地点も異なりそうだが、おそらく発想の地点に近いところはあり、どうとでも言いようはあるとはいえ、一考の余地はありそうかなとは。

この映画を「難解な」と思う必要もなければ、あんまり詳らかに考えても仕方ないとは思うけれど、一方で浮かんだ疑問をそのままにしても仕方ないので、ダラダラと書く。監督の感覚と表現の関係がとてもピュアというか、ナイーブなのかなとも思うが、そういう作品なんじゃないか。映画がベースのテンポを忠実に守り、超えてくることも下げてくることもないので、画面は単調気味だけど、上述したように、それはもうこういうもんなんだ。眠くなっても仕方ない。

閉鎖された空間、女と男、何も起きないわけはなく…

別にいやらしい話をしたいわけではない。

本作中の町を世界(あるいは宇宙でもいい)としたとき、そこで繰り広げられる人間模様は、実は外の世界と大差ないのではないか。老若男女がそこにはおり、年長者らの落ち着いた定型的な生活リズムもあれば、疲れた中年の自省的な慰めもあり、若者たちの無謀気味な自由さもあれば、幼い子供たちの自然な発想もある。これから子をなすであろう年代のロマンスめいた部分もある。なんでもある。

翻すと、宇宙人(監督あるいは脚本家も勿論)は、この箱庭を作ることこそを目的としていたのではないか、とまで考えるとちょっと面白そうではある。

重複的にはなるが話を戻すと、小さな失敗や後悔を繰り返したって人生は続くものではあるし、そこには新たな出会いもある。超賢い若者らが5人程度いれば世界の未来もきっと明るい(これは笑うところ)。個性豊かな子供たちの才能を枯らさないようにすれば、彼らも未来の希望になる。みたいな安心感がある。外見的には超閉鎖的な空間ではあるけれど、それって宇宙における地球も同義じゃんね…。

未来はきっと明るいんや!

少し気になったのは、火葬をしたのは戦場カメラマンなりのドライさ故なのか、そちら側の宗旨だったのか、なんだったんだろうね。祖父も誰も違和感を抱いていないようだったし、ちょっと調べてみるとそこまで異例なワケでもなさそうではあるが。

眠りに落ちなければ、目覚めはこない

“You can’t wake up if you don’t fall asleep.”という台詞だったか。裏面、舞台裏とされる部分での講演(と字幕された気がするが)、つまるところ演目についての演出家と出演者の擦り合わせ中に放たれた台詞であった。そもそも作品が3幕構成とハッキリ示されている本作だが、その最後の幕間で演者らから放たれるのがこのメッセージだ。

ほかのひとらの幾つかの感想を参考にすると、字幕では「目覚めたければ眠れ」のように訳出されていたらしいが、個人的には違和感があって、この会話や彼らから発信される台詞の趣旨は別に「目覚めたい」ではなく、つまり「眠れ」という命令形でもないと思うんだ。どうですか。

そもそもこのメッセ―ジには、どういうニュアンスが込められていたのか。脚本家が何を言っていたか、忘れてしまった。

第3幕で示唆される内容といえば、主人公一家がお寝坊していたら他のグループはみんな出発しており、本作の世界の住人であり、元の町にとっては異邦人だった彼らは、一家を除いて空っぽになっていたというくらいだ。みんな宇宙に行ってしまった(とも言い得るかもしれない)。一家は祖父を含めてグッスリ寝ていた。

つまり、眠る必要があったのは彼らだけだった、のかもしれない。少なくともこの映画としては。このことは端的に、母であり、娘であり、妻である女性との本当の別れを象徴しており、その記憶はアステロイド・シティという地に残すことになった。それは墓標ではあるが記念碑ではないし、家族がここに再訪することもないだろうが、宇宙人がアステロイドを置いていったように、この家族は母の思い出をここに置いていく。この町はあきらかに通過点であり、そもそも、そういう土地なのかもれない。

そういえば核爆弾の実験が、作品の冒頭と終幕でそれぞれ描写されたが、作品の開始と終了の合図である以上に、監督にとってかあるいは誰かにとって、ある時代の開始と終了を暗示したのかも、とも。

余談というか

父役のひとと母役のひとが邂逅するシーン、背後の看板で “DEATH OF A NARCISSIST”(かな)という演題の劇の看板がみえて、これが本作中の創作(なんらかのメッセージ)なのか、明確な引用対象のある作品かわからなかったのだが、言及している記事をひとつ見つけた。ググっただけだけど。

以下の記事だ。

機械翻訳も参考にしつつ読んだが、まぁ褒めたり褒めてなかったりしている。私と同じく『NOPE』を引っ張ってきた点には感心したが、SFという括りで論じているので、それはどうかなぁとは。昨今の映画がやりたいのは、映画メディアの再発見か再接続、拡張みたいなところなんですかねぇ、今に始まったことではないだろうけど。

また、上記の記事でちょっとなるほどと思ったのは、ポスト新型コロナ禍のアメリカ社会を指摘していることだった。実際はわからんけど、なるほどなと。記事のライターとしては端的には「大統領による検疫令が解除された」の台詞から惹起されたイメージのようだ。”Covidapocalypse” なんていうのも刺激的なワードではある。

別れやその悲しみが癒えきることはなくても、みんなで明日に漕ぎ出そうやで。

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